仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「エナジーの平衡点:Vīriya-samataṃ」を観取せよ《瞑想実践の科学 32》

以前に私は、「ヴィーナと比丘、それぞれの『仕事』」記事の中で、『箜篌(ヴィーナ)の喩え』の最終節の中に、ブッダの瞑想行法を理解する上で極めて重要な、様々なキー概念が凝縮して提示されている、と書いた。 今回はその一節を最初に再掲引用しよう。 T…

『Virya=エナジー』から見た世界の諸相と「地水火風」《31》

バラモン教の不法な動物犠牲を伴った『外なる祭祀』に対する、批判的代替として提示された『内的な祭祀』としての比丘サマナの苦行や瞑想行。そのような視点で、ここまで考察してきた。 その流れで、前回投稿の最後には、 そこで最初に焦点になるのは、『内…

気胸体験と “Kha” の恐怖

本投稿はYahooブログ「脳と心とブッダの覚り」2015/12/23「気胸体験と“Kha”の恐怖」を元としているが、これもまたどのように移転しようかあるいはしないか、で悩んでしまった記事だ。 しかし、ここに書かれた「恐怖の気胸体験」は私にとって色々な意味で忘れ…

『外なる悪しき祭祀』とマーラ、『内なる善き祭祀』とブラフマー《30》

『祭祀の内部化』という前回までに取り上げたテーマは、ブッダの瞑想法とそれに至る沙門シッダールタの内的遍歴を考える上で極めて重要な意味を持つものなので、繰り返しを恐れずに念を押していきたい。 バラモン教とは祭祀の宗教だった。 その祭祀とは、第…

『至高の内なる祭祀法』としての比丘サマナの瞑想修行道《29》

ジャイナ教の開祖マハヴィーラなどに代表されるサマナ修道者が好んで行った苦行や、ブッダの瞑想行法が、バラモン教的な『外的祭祀』の代替となる『内部化された祭祀』だった、と前回までに書いた。 この点に関して、まずは典拠を示して、『内なる祭祀』とい…

内部化された祭祀としての “苦行”と「坐の瞑想」《28》

賛歌と言うバラモン教的な『瞑想実践』に対するオルタナティブとして提示されたのが『ブッダの瞑想法』であり、『賛歌のデバイスである(ヴィーナとしての)ウドガートリ祭官の身体』は『瞑想のデバイスである(ヴィーナとしての)比丘サマナの身体』と、完…

苦行者シッダールタの日常風景:「これはドゥッカの車輪である1」の補遺

頭蓋内部には明確に車輪と重ね合されるような構造が存在し、その事実をシッダールタたち古代インドの求道者は知っていた可能性が高い。そう私は前に書いた。 今回はその根拠について若干追記して述べよう。 6本スポーク状に仕切られた脳内 当時、シッダール…

「賛歌」のオルタナティブとしての『ブッダの瞑想行法』《瞑想実践の科学27》

ここまで私は、パーリ経典における数少ない実践的な瞑想ガイダンスの中で、最も重要なフレーズとして、 parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā(Maha Satipatthana Sutta)顔の周りに思念(サティ)をとどめて(春秋社:原始仏典Ⅱ)fixes his awareness in the area…

ウドガートリ祭官の「歌詠瞑想」と“発声器官”《瞑想実践の科学26》

今回は最も根源的かつ素朴な疑問から話を始めたい。それは、そもそもインドにおいて『瞑想』という時、その名称と営為はどこに起源するのか、という問題だ。 これについてはこれまでにも何回か取り上げたが、インダス文明の遺跡で発見された印章の彫刻に、ヨ…

「身体とヴィーナ」における『発声器官』、そして『純粋呼吸瞑想』《瞑想実践の科学25》

牛が「モ~」と鳴く時、その啼いている姿の全体像は、全身が一本の共鳴管、あるいはラッパの様に、腹腔・肺・気道・咽喉・口腔が一直線の管になったかのようにして、そのモ~という声を鳴らしている。 前二回にわたって、牛が鳴く姿と絡めて“Mukha”という言…

”Mukha”の原像と『声門』という新たな焦点《瞑想実践の科学24》

(本投稿には解剖学的画像が含まれます) 前回私は、『コップと言うものの本質とは一体何だろうか?』と設問し、その答えを例示した。それはすなわち、何らかの液体の容れ物である事を可能たらしめる "開口し奥行きのある空処性" だった。 同じように "Mukha…

『核心』としての「Kha」すなわち「空処」《瞑想実践の科学23》

ブッダの瞑想法の原像を復元するに際して、もっとも重要であると考えられるパーリ経典の文言は、 parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā顔(口)の周りに、気付き(サティ)を、とどめて というものであり、中でも気づき(サティ)のポイントを明示するものとしてpa…

アートマンの棲み処と「こころ」の所在

(※本投稿には解剖学的な画像がふくまれます) 本ブログではこれまで、インド思想の核心とも言える「苦である輪廻からの解脱」、その立脚点である苦、すなわち『ドゥッカ Dukkha』という概念が、『車輪』という事物と密接に関わって生まれたという事実を繰り…

"mukha" の原風景に見る「牛」と「Kha=空処」《瞑想実践の科学22》

パーリ経典の多くで共有されている『サティを顔の周りに留めて坐る』という一節。繰り返し述べて来た事だが、これはブッダの瞑想法の原像について考究する時に、もっとも重要なものだと私は見ている。 ゴエンカ・ジーはこの『顔の周り=parimukham』を “口の…

ゴエンカジーの偏頭痛と「Mukhaの周りに気づきを留めて」《瞑想実践の科学21》

ブッダの瞑想行法、そのメソッドの焦点となるのは、“五官・六官の防護” である。それがこれまでの考察から導き出された結論だった。 そしてブッダの瞑想法と呼ばれる『止観』のうちの “止(サマタ)瞑想” 、その具体的なメソッドの焦点になるのが、五官六官…

『正念』としての “六官の防護”《瞑想実践の科学20》

これまで本ブログでは、『瞑想実践の科学』シリーズを中心に、ブッダの瞑想法の “作用機序” について、外堀を埋める形で様々な考察を行ってきた。 その「ブッダの瞑想法」と言うのは、端的にいえば2500年前のウルヴェーラ村で菩提樹下に禅定しニッバーナに至…

「仏教思想のゼロポイント」と『仏道修行』のゼロポイント

今回の投稿は2015年6, 7月にアップした二本の記事を統合移転するものだが、当時から様々な状況が変わっており、どのような形で処理するかこれまた悩んでしまった。 しかし、「だから仏教は面白い!」に続くこの「仏教思想のゼロポイント」という魚川さんの著…

マーラ(悪魔)としての愚父シュッドーダナ王と、生母マーヤーの死

本投稿はYahooブログ 2015/6/17「シッダールタ王子と愚父シュッドーダナ王」としてアップされた記事の移転になる。 これは当時、二ヶ月の入院闘病の果てに父が亡くなった直後のエントリーで、そこにまつわる生々しい情動に少なからず影響されており、そのま…

悟れなかったアーナンダ尊者

ブッダの死後マハー・カッサパを発起人とし、さらにアーナンダを主要な証言者として開かれた第一結集において、気づきとしてのサティではなく記憶としてのサティに秀でたアーナンダが重要な役割を果たしてしまったという史実の中に、初期仏教の草創期、つま…

魚川祐司著「だから仏教は面白い!」を読んで

この投稿は、Yahooブログ「脳と心とブッダの覚り」2015/5/31記事が元になっているが、今回の移転に当たっては、大幅に書きなおすかどうしようかと、少々悩んでしまった。 何しろ四年以上前の事であり、私の立ち位置もそれ相応に変わってきている。 しかし結…

「一切」としての十二処十八界とマーラ、そして「四聖諦」:《瞑想実践の科学19》

一般に、十二縁起の核心とは無明と渇愛であるが、無明や渇愛などという何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした事象を、直接取り扱って、“なんとかして” 破壊する事など、想像すらできない。 しかし、渇愛に先行する所の六処(六官)、この六処の内…

「照見五蘊皆空、度一切苦厄」と十二縁起と『六官の防護』:《瞑想実践の科学18》

ブッダによって説かれた法の神髄とは、病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉の中に全て端的に表されており、その中核部分をひと言に要約すれば、それはすなわち “五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための…

病に苦しむアナータピンディカ:《瞑想実践の科学17》

今回のタイトルは、日本人にはお馴染みの漢訳名である「給孤独長者」とどちらにしようか迷ったが、アナータピンディカにしておいた。 パーリ原語のアナータピンディカとは「身寄りのない困窮者を憐れんで食事を給する」という意味で、そこから漢訳の「給孤独…

古代インドの「毛穴」の話:門戸において、治療し防護する《瞑想実践の科学16》

前回は沙門シッダールタが遂行した激しい断食行の諸相について書いた。この断食行を含む三つの苦行経験があってはじめて、沙門シッダールタは覚りへと至る「道筋」あるいは『方法論』を直観し得た、という流れだった。 この「断食の行法」について記述した章…

その小食のゆえに痩せこけて:三つの苦行の真意《瞑想実践の科学15》

沙門シッダールタは「歯と舌の苦行」と「止息の苦行」の実践において、 「わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった」 として、七覚支の内の精進(Viriya)と思念(Sati)の二つを備えていたが、 「けれども、その苦の精勤によっ…

【菩提王子経】沙門シッダールタと『止息の行』:瞑想実践の科学14

パオ森林僧院の四界分別観の瞑想において、首から上の顔の周り、特に歯と舌と言うものが、その気づきのポイントとして極めて重要な意味を持っている。 その行法上の典拠とも言える記述がパーリ経典に複数存在するが、そこでは歯と舌の行法に対する評価が、微…

ブッダの「歯と舌の行法」と、ヨーガの「ジフヴァー・バンダ」:瞑想実践の科学13

パオ・メソッドの四界分別観の瞑想は、ブッダゴーサの清浄道論に典拠していると言われているが、それ以前の大前提として、“普遍的な身体” と言うものの『科学的な真実』(脳神経生理学的な作用機序)に依拠している。 その事はペンフィールドの「ホムンクル…

仏の32相に見る『馬の歯』とパオ・メソッド:瞑想実践の科学12

馬の調御と出家比丘の修道プロセスが重ね合わされたパーリ経典、『若い駿馬の喩え:中部経典第65経 バッダーリ経』に続いて、象の調御と出家比丘の修道プロセスを重ね合わせた、中部経典:第125経『調御地経・・・しつけられた者がいたる段階』について、前…

「調御地経」野象の首を柱につなぐ様に:瞑想実践の科学11

今日は前回の象つながりの流れで、象の調御と比丘の修行をドンピシャで重ね合わせたパーリ経典を紹介したい。 岩波文庫版のパーリ経典シリーズを何回も精読した末に、一見荒唐無稽なセーラ・バラモンの「広長舌相」のエピソードに注目し、それがインド女性の…

仏の32相に見る「象の特徴」と『無上のナーガ』:瞑想実践の科学10

ブッダの瞑想法、その導入部に当たるアナパナ・サティにおける気づきのポイントが、動物の調教における『急所・焦点』である鼻先、額、耳、口、と重なり合っていて、それらが、パーリ経典の中では『顔の周りに思念を留める』というひとことで表現されていた…