仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ヨーニ・ガルバの原心象と蓮華輪そしてストゥーパ

【2022,8,31と10,1に追記訂正あり】

ここしばらくHatena Blogでの更新が途絶えてしまっていたが、実はこの5月からNoteの方で「チャクラの国のエクササイズ」の投稿(移転再投稿)を開始しており、最近インド思想・仏教関連について、自分の中で再び情熱の火が熾り始めている。

どうも私の場合、その情熱が燃え上がるサイクルというものがあって、特定のテーマへのベクトルあるいはモメンタムとでも言うものが、おおよそ2~3年周期で盛り上がっては燃え尽き、を繰り返している様だ。

そもそもこの「チャクラの国のエクササイズ」は、本ブログ(遡ると2012年から始まったYahoo Blogの「脳と心とブッダの覚り」)を開始する以前、2005年から2011年にかけて行われたインド武術&チャクラ思想に関する探究の記録であり、そこで得られた知見や直感は、この仏道修行のゼロポイント」において行われている様々な考察、その前提となる世界観・瞑想観の原点ともなったもので、本ブログの初期の投稿でも様々な文脈において複数回引用している。

今回の投稿はこの「チャクラの国のエクササイズ」関連で再び注目した仏教ストゥーパとその周りを荘厳する蓮華輪について、ガルバ・ヨーニとの重ね合わせ、という視点から、「チャクラの国」で書ききれなかった内容を綴って行きたい。

例によって文体はしばしば断定口調に傾きがちだが、あくまでもこれはひとつの『読み筋』であり、最終結論に至る途上におけるその要所的な覚書である、という点は注記しておく。

その内容は本来であればNote版記事の中に書き加えても良い部分ではあるのだが、余りにもディープ過ぎかつ本ブログのテーマである瞑想実践により深く関わっている、との判断でこちらに投稿する次第だ。その判断の正しさは、本稿の結末において明らかになるかと思う。

そもそも仏道修行のゼロポイント』を名乗りブッダの瞑想法その原像に迫る」事をテーマとしている本ブログが、何故一見関係の無さそうなガルバ・ヨーニの思想を深堀りする必要があるのか。

それはリグ・ヴェーダ賛歌における『黄金の胎児』から始まって、汎インド教的な世界認識のある種極めて重要な起点にこのガルバ・ヨーニが据えられており、沙門時代のシッダールタから悟りを開いたブッダに至る彼の人生遍歴もまた、その思想的影響の下にあった、と考えられるからだ。

(※注:以下の内容には生殖器官の解剖学的な画像やその説明が含まれます)

今回投稿のきっかけになったのはネット上で見つけたひとつの論考だった。それは伝統的なアーユルヴェーダの観点から女性の生殖器ヨーニ・ガルバについて、その背景となる心象世界を論じたもので、色々な意味で眼を開かされる思いがした。はじめにそれを引用していきたい。

A CONCEPTUAL STUDY OF TRAYA-AVARTH YONI(リンクはPDF)

「三重同心円(あるいは渦巻)のヨーニについての概念的研究

 

Sushruta stated that this Purusha is formed by union of Sukra and Shonita.(SushrutaSharir 1/16). The part of female body where this union is takes place is collectively called as “Yoni”.

 

スシュルタは、このプルシャ(人間、胎児)はスクラ(精子)とショニータ(経血?)の結合によって形成されると述べている(SushrutaSharir 1/16)。この結合が行われる女性の身体の部分(生殖器官)は、総称して「ヨーニと呼ばれている。

(Deepl翻訳を手直し、以下同)

スシュルタは「外科手術の父」と称される古代インドの医師だ。生没年不詳のため、彼が生きていた年代は諸説あり、紀元前1000年から800年ごろにかけて活躍したとする説、紀元前6世紀ごろに活躍したという説、紀元後2世紀から3世紀にかけて生きたという説など、正確な時期は判明していない(Wikipadia)、との事だが、私はおよそブッダ在世前後に重なるだろう、というアバウトな認識でいた。

私はこれまで、一般教養的なインド思想書やその他ネット上などの情報によって、ブッダ在世前後の古代インド人には精子=種の認識はあったが卵子の認識はなく、性行為時の射精によって母胎という畑に種が蒔かれ胎児が育つ、という認識を持っていたと考えていたのだが、ここではSukraとShonitaの結合によって胎児ができるとされている。これが精子卵子の結合という正確な認識をスシュルタが持っていた事を意味するのか否かは、判断が分かれるだろう。

この点は色々と深堀りしていくと面白そうな所だが、今回はスルーして先に進めたい。

Considering anatomy it looks like that Sushruta has described Yoni in the form of Avarth. Out of which in the third Avarth there is GarbhaShaya. The shape of which is like RohitMatsyaMukha. This article emphasizes on Conceptual Aspects of Traya-avarth Yoni as described in contemporary medical science.


スシュルタはヨーニを、解剖学的に観てアーヴァルタ(आवर्तः āvartaḥ、同心円)の形で記述しているように見える。そのうちの第3のアーヴァルタには、ガルバシャヤ(Garbha Shaya、胎児の居場所)がある。その形状はRohit Matsya Mukha(ロヒット魚の顔か口)のようなものだ。この記事は、現代医学で説明される科学的事実からTraya-avarth Yoni(三重同心円or渦巻のヨーニ概念を説明していく。

 

In the modern anatomy, Female reproductive system is divided into following parts-

1. Uterus 2. Cervix 3. Vagina

 

現代の解剖学では、(卵巣卵管を除いた)女性の生殖器系は次の3つの部分に分けられる。1. 子宮 2. 子宮頸部 3. 膣・産道

 

Yoni is that part of female body which is mainly for Conception; Maintenance and Expulsion of the Fetus While describing various body organs Sushruta has clearly defined the morphology of Yoni in the form of Avartha.
Avartha literally means Concentric Circle. This Avartha-swapora Yoni has divided into Three Parts. called as Traya-Avartha Yoni, and structure of this is compared with Shankha Nabhi.
In its third avartha there is the site of Garbhashaya, and structure to which is compared with RohitMatsya Mukha.

 

ヨーニは女性の身体の中で、主に胎児の受胎、維持、出産のためのものである。スシュルタは身体の様々な器官を説明しながら、ヨーニの形態をアーヴァルタという形で明確に定義している。
アーヴァルタとは文字通り、同心円を意味する。この同心円の形をしたヨーニAvartha-swapora Yoni)は三重の同心円のヨーニTraya-Avartha Yoni)と呼ばれる3つの部分に分かれており、その構造はほら貝の臍(Shankha Nabhi)とも比較されている。

その第3のアーヴァルタには胎児の居場所(Garbha Shaya)の部位があり、その構造はRohit Matsya Mukha(ロヒット魚の顔か口)に喩えられる。

その他、色々と煩瑣な説明をしているのだが、ザックリと言えば、現代医学解剖学的な見地とスシュルタの認識を重ねると、女性生殖器であるヨーニは最上部に位置しそこに胎児が宿る一番大きな子宮本体、そこから下にややすぼまった子宮頸部、そして更に細いという三つに分けられる。そして、

From review of all above explained concepts, it has cleared that Sushruta, has compared the structure of Yoni with Shankha-Nabhi. That’s means it should be Narrow below and Broad above and Yoni is placed in such a manner i.e. it is seen like Concentric Circle that Sushruta stated as Avartha.

 

以上の説明から、スシュルタはヨーニの構造をほら貝の臍(Shankha Nabhi)に例えていることが明らかになった。つまり、下は狭く上は広いという事であり、ヨーニ(の三つの器官)はそのように配置されている、つまり(正面から見ると)スシュルタがアーヴァルタとして述べた同心円のように見えるということである。

ここでカギとなる「ほら貝の臍の様な同心円構造」というものは、以下の画像を見ればリアルにイメージできるだろう。

ほら貝を上から見た渦巻構造:Pinterestより

おそらく、このほら貝の凝縮する渦巻の中心をと見たのだろう。同心円と渦巻では微妙に違いがあるが、しかし大から小へ小から大へという円輪の重なり、と考えると納得がいく。

上の画像を見つめていると、中央部の臍が一番手前にあるのか一番奥にあるのか、曖昧になってこないだろうか。説明は難しいが、おそらくスシュルタは、この臍を最奥部の子宮内室(つまり胎児あるいは受精卵)と観ており、ほら貝の縦長の開口部をヨーニの外性器に見立てていた。

ほら貝の縦長の開口部はヨーニ外性器に重なる:Wikipediaより

ここでこの論文の著者が行った、スシュルタの知見と現代解剖学との「当てはめ」がどこまで正しいかは即断できないが、重要なのはスシュルタが膣から子宮までのヨーニ全体をほら貝の様に立体的な同心円として把握し、その円の重なりを『三重』と見ていた事だ。

上の引用では省いたが、このヨーニの三つの構造それぞれが生体器官である以上、スシュルタもそれが文字通り肉の厚みを持つ事を大前提として認識していたと考えられる。なので三重の円輪というのは三本の線ではなく、厚みのあるリング(円筒)が三重に重なっているイメージになるだろう。

これを分かり易く表したものが下の概念図だ。上のほら貝の渦巻が本来は奥行きを持っている様に、この三重のリング構造も奥行きを持っており、実際は円筒の大中小三段重なりを正面から見て平面図化したものになる。

スシュルタのヨーニ概念図、三重のリングと中心の胎児

これは母体が立っている場合、構造的には一番細い膣が下部手前にあり、そのやや上方奥が子宮頚部で、更にその奥の上部が一番太い子宮本体になる。これら三つの器官はひとつながりのチューブ(空処=Kha)であり、その中央の空処にリンガ(男根)が挿入されて射精が為され、一番奥の空処である子宮の内部で受胎し、そこで胎児が成長する。繰り返すが、平面図として描かれてはいるがこれらは全て奥行きを持った立体構造だ。

言葉で説明するのは難しいのだが、例えばよく海賊が使っている三段に伸縮する単眼の望遠鏡をイメージしてみよう。接眼する手前の一番細い筒が膣で、中ほどの筒が子宮頚部で、一番遠く一番太い筒が子宮本体になる。

海賊の単眼鏡を例に、左上から子宮本体、次に子宮頸部、右下に膣、の順で並ぶ:Amazonより

単眼鏡の三段の全ての筒が奥行きと厚みを持っている様に、ヨーニの3つの器官部位その全てが生体としての奥行きと肉厚を持っている。実際の女性の器官は膣と子宮頚部の接合部で屈曲しているのだが、それをイメージとしては真っすぐと見なしている。

この単眼望遠鏡を縮めて、接眼部のレンズを真正面から見れば、前掲のアーヴァルタ概念図になる。真ん中のレンズ部分がそこでは胎児に重なる。もちろん胎児がいるのは一番奥の子宮で、やがてその中で成長し子宮壁を押し広げて行くのだが、上の概念図は受精直後の状態を表し胎児=受精卵と思ってもらえばいい。

何故、この様な煩瑣なイメージをここで説明しなければならないのか、一般の方にはなかなかに理解し難いとは思うが、先に言った様に、このヨーニブッダにつながる古代インド人の心象世界を理解する上で、非常に重要な意味を持っている。この点は、インド思想について造詣の深い方ほどより深く刺さるのではないだろうか。

スシュルタがイメージしていたヨーニ(女性生殖器官全体)の三重リング(円筒)構造を踏まえた上で、まずは分かり易く、以前本ブログでも何回か取り上げた古代インドの蓮華輪デザインを見てもらおう。これは紀元前後のサンチーからバルフート、アマラヴァティなどでブレイクした代表的な仏教美術装飾だ。

アマラヴァティで発掘された蓮華輪:アンドラ・プラデシュ州

この蓮華輪とのそもそもの『出会い』は、件の「チャクラの国のエクササイズ」だったのだが、私はここ最近これについてNoteに再投稿したばかりなのですぐにピンときた。先ほどのスシュルタ先生御用達のヨーニ観その概念図と、上の蓮華輪デザインはピッタリと重なり合うのだ。

そこでは中央に種実を孕む花托がありそれを取り囲む形で雄しべの薄いフリンジを配し、更にその周りを、三重の円輪花弁が取り囲んでいる。これに関しては最新のNote投稿に詳しいので興味がある方は参照して欲しい。

もちろん、インド各地各時代に数多ある全ての蓮華輪がこの三重の蓮華輪である、という訳ではない。リアルな蓮華そのままに一重の花弁を配したものから、二重、四重、あるいは五重にまで花弁の円輪を重ねたものも存在する。

バルフートの多重蓮華輪:インド博物館、コルカタ

このバルフートの画像を見ても上のものは三重に見えるが下のものは四重かそれ以上にも見える。蓮華輪の構造は多種多様なのだ。

しかし、三重以外の全ての蓮華輪がヨーニ・ガルバを象徴していた可能性をも私は否定しない。何故なら、仏教における『蓮華蔵世界』の原語は『padma garbha loka dhatu』であり、蓮華とヨーニ・ガルバとの同一視は明らかだからだ。

この三重蓮華輪が三重同心円のヨーニと重なると気付いた時、直ぐに私は、以前本ブログにも投稿した2つの仏教ストゥーパの基壇を思い出していた。

ナガルジュナコンダのマハストゥーパ基壇:インド考古局、アンドラ・プラデシュ州

私はその投稿で、このマハストゥーパの基壇設計に見られる三重の円輪構造を、同じ三重の蓮華輪構造と重ね合わせていたのだ。その理由は、上と全く同じ三重同心円状の蓮華輪を、エローラ石窟のカイラーサ寺院の屋根に見た記憶があったからだ。

カイラーサ寺院の屋根に刻まれた三重の蓮華輪:エローラ

ヒンドゥ教においては、伝統的に寺院でご本尊を奉安する神室を『ガルバ・グリハ(胎の家=子宮)』と称していた。上の三重蓮華輪はこの神室の直前にあるマンダパの屋根に刻まれており、この蓮華輪がもしヨーニ・ガルバを象徴するものだとしたら、ある意味非常に筋が通っている

インド教諸派寺院のマンダパでは、普通はその内部天井に蓮華輪が刻まれる事が多いのだが、カイラーサ寺院の場合は構造的に上から眺めた場合の装飾的効果が考慮されて、屋根上に刻まれたのかも知れない。(2022,10,1追記)

この三重円輪を内部化した基壇構造は、もうひとつサンゴールの仏教ストゥーパでも確認できる。

サンゴール、クシャーナ朝時代のストゥーパ基壇:Pinterestより

上の画像はパンジャブ州サンゴールで発掘されたクシャーナ朝時代とされるストゥーパの基壇で、それぞれがスポーク様隔壁を持つ三重の車輪(現地ではダルマ・チャクラと呼ぶ)構造をしており、これも三重の蓮華輪構造と重なるものだ。

ナガルジュナコンダでは確認できていないが、このサンゴールの場合は基壇の中心、それが車輪であれば車軸の、蓮華であれば花托の位置に仏舎利が埋められ、その真上に軸柱が立っていた、と証言されている。

実際のストゥーパ基壇構造:サンゴール、パンジャブ

これは、ストゥーパのドームの上にあるパラソルを支えるための柱が上に伸びていたであろうストゥーパの中心に立っている私です。 私の足元には、ブッダの遺物を収めた聖遺物箱が見つかった部屋があり、これらの遺物は空間を聖浄化するのに役立ちました。(Seeing the Kushans in Indiaより)

この車輪様ストゥーパ基壇において仏舎利が埋蔵されていた中心車軸部分は、蓮華においては種を孕む花托部分であり、同心円のヨーニにおいては胎児を孕む子宮内室部分に他ならない。

飽くまでもひとつの可能性として、だが、ここで提示したいのは、スシュルタに代表される古代インド人の民族医学的な三重同心円のヨーニがベースになって三重の蓮華輪を生み出し、更にはストゥーパ基壇における三重円輪構造を形作ったのではないか、という仮説なのだ。

私はこれまで色々な機会において「蓮華輪はインド先住民の女性原理を象徴するものだ」と書いてきたが、その根源には文字通りヨーニに関する解剖学的な知見が存在していたのだ、と。

 

【この囲み内は8月31日追記訂正部分になる】

当初ここには、スシュルタが言うところの『アーヴァルタ』が同心円と同時にほら貝の渦巻構造をイメージとして含意していた事を前提に、それをサンチーのストゥーパを取り囲むトラナの横げたに刻まれている大きな渦巻紋様に重ね合わせ、この紋様がヨーニ・ガルバを象徴するのではないか、と仮説を提示していたが、その後の調べでこれはほぼ否定された形になっている。

トラナ門塔その横げた両端には大きな渦巻が刻まれている:サンチー

その情報によれば、トラナ横げた両端にデカデカと刻まれた渦巻紋様はナーガ(大蛇)神のトグロを表しているとの事で、渦巻紋様=ヨーニは取り合えず却下となった。備忘録を兼ねてこの追記を残しておく。

ただし、この渦巻がナーガである事を明示しているのは第3ストゥーパ前のトラナに刻まれた2例のみであり、この意図が果たして第1ストゥーパのトラナにまで及ぶのかは定かではない。

 

因みにこのアーヴァルタという言葉は、ブッダ初転法輪を意味するプラヴァルタナと語根を共有しており、回転する車輪のイメージとも深く重なっている。と同時に、リグ・ヴェーダがプルシャ賛歌において「プルシャの頭から天界が転現した」と言う時のavartata(転現)とも重なり合い、それは人の胎児が旋回しつつ産道を通過し誕生する原風景につながるものかも知れない。

先に挙げた「蓮華の中心にあって、それを展開せしめる花托」投稿の中でも論じたが、私はひとつの有力な読み筋として、このストゥーパという建造物全体が女性性の核心であるヨーニ・ガルバを象徴し、男性であるブッダを唯一人孕む、という心象があったのではないか、と考えていた。

今回発見されたスシュルタによる三重の同心円のヨーニ説が、三重蓮華輪からストゥーパの三重円輪基壇へとつながるという視点は、この仮説にとって少なからず補強材料になったのではないかと思う。

次に、これも余りにもディープ過ぎてNoteの投稿では書かなかったが、もうひとつヨーニに関連する面白い読み筋として蓮華と胎盤との重なり合いが考えられるので以下に説明しよう。

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看護rooより

上の画像は胎児と臍の緒でつながった胎盤を描いたものだが、これは臍の緒柄茎と観れば、胎盤は円輪形をした蓮の葉とも蓮華とも見る事ができる。

胎盤と臍の緒のこの姿を初めて見た時には大いに驚いたのだが、そこから真っ先に思い出したのは、ヴィシュヌ思想において世界創造がヴィシュヌの臍から生えた蓮華から生まれたブラフマンに始まるという下のヴィジュアルだった。その構図は明らかに、実際に目の当りにした胎児と臍の緒と胎盤のリアルなイメージから生み出されていると見ていいだろう。

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世界蓮:Quoraより

そこでは一見するとヴィシュヌやブラフマーという男神が世界創造の主役であるかのように思われるが、実は横でひっそりと侍っているだけに見える女神こそが真の創造の主役であると、ヴィシュヌの臍から生える胎盤構造に酷似した蓮華によって暗喩している、と深読みする事も可能かも知れない。

胎盤という、人間の出生をその根源において支える特殊なヨーニ・ガルバ器官蓮華の形をしているという事実は、前述した蓮華輪とヨーニを重ね合わせるという観点を、より補強するものにもなるだろう。

同時にこの胎盤と蓮華との相関は、本稿でもこれまで繰り返し取り上げて来た聖シンボルたち、すなわち聖チャトラ菩提樹、そしてもちろん車輪の輪軸構造が、胎盤と重なり合う事をも意味する。それは下二枚の絵柄を見ればより分かり易い。

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上の画像はまさしくチャトラや大樹そのものだ:Understanding the Placentaより

胎盤をより分かり易くリアルに描いた図:Youtubeより

この胎盤システムにおいては、円輪形をベースに血管が放射状に展開しその全てを中心で臍の緒が支えており、基本的なイメージは蓮華(蓮葉)に加え輪軸でありチャトラであり菩提樹の構造とまったく重なり合う。

ここまでの説明で明らかになったスシュルタ的なヨーニ観や胎盤のヴィジュアルなど、女性の『胎』全般についての様々な事実関係を、そのままストゥーパ存在にフィードバックした時に、一体何が見えて来るだろうか。

多重車輪あるいは多重蓮華輪(どちらも女性性を象徴)の基盤構造を内包し(あるいは含意し)、その頂に聖チャトラを掲げ周囲を花開く蓮華輪で荘厳され、ヤクシニやラクシュミ女神という女性性のモチーフに囲まれたストゥーパ躯体。

その鉢伏型ドームはそれらモチーフが暗喩するヨーニ・ガルバの諸機能に育まれた結果として迎える臨月期の丸い豊満ドーム状と化した妊婦の腹部を表し、そこに唯一男性原理である軸柱(その直下に仏舎利が埋蔵)としてブッダ胎蔵されていた事を、強力に示唆している様に、私の眼には映る。

臨月の腹部はストゥーパの鉢伏型に重なる:By Marco Verch(オリジナルを90度回転)

さて、仮にこの読み筋が正しかった場合、とても興味深い問題に我々は直面する。それは、自身の生き様としてはあれほどに女性の胎あるいは生殖能というものを忌避していたブッダが、何故その死後には胎なるスト―パに胎蔵されるような破目に陥ったのか、という疑問だ。

835 (師ブッダは語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という悪魔の三人の娘)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。大小便に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足で触れることさえ欲しない

スッタニパータ 中村元訳より

この絶対的な矛盾は大いなるアイロニーなのか果たしてそうではないのか?

ここで漸くにして、冒頭で紹介したリグ・ヴェーダ賛歌のあの世界創造観が意味を持ってくる。すなわち原初において唯一者である黄金の胎児を孕み産みなしたとされる宇宙的な『胎(ガルバ)』がそれだ。

ラニヤガルバ賛歌(10・121)

1.はじめに黄金の胎児(ヒラニヤガルバ)が現れ出た。生まれると、万有の唯一なる主となった。かれはこの天と地を安立した。(略)

3.呼吸し、まばたきする世界の唯一なる王。かれは、威力によって、その王となった。(略)

5.偉大なる天も地も、かれによって堅固になされた。天も大空も、かれによって支えられる。かれは虚空のうちにあって暗黒の空界を測量する。(略)

7.万有を胎児としてはらみ、火を生みなす広漠たる水が動く時、その時、彼は現れ出た。神々の唯一の生気であるかれは。(略)

以上、中村元選集決定版・第8集 ヴェーダの思想P404~405より引用

ここで胎児が孕まれた、と言う以上、明言されていなくともそこには胎(ガルバ)が存在していなければならず、動いた水とは出産時の破水を意味すると考えるのが妥当だ。

その詳細については以前の投稿「『世界の起源』『輪廻の現場』としての大水(胎)」などで既に論じているので興味のある方は読んでみて欲しい。

ストゥーパとの関りにおいてここで最終的に問題になるのは、

「悟りを開いたブッダはその肉体的な死、すなわち、般涅槃に至った後、一体どうなってしまったのか?

という大命題だ。

この問題には、例によってブッダブラフマンと同一視されていた、という歴史的な事実が深く関わって来る。

結論を先に言ってしまえば、それは

輪廻転生という生身のヨーニ・ガルバの呪縛から完全に解き放たれて、宇宙世界が無明(Avidyā)として展開する以前の原初の胎へと回帰しそこに留まり続けた。

という事なのだ。

黄金の胎児が宇宙原初の胎から生まれる以前において全ては未然態にあり、十二縁起になぞらえて言えば、それは未だではなくそこにははなく当然も存在しない(=不死)。故に生老死にまつわるに煩わされる事も一切ない。

これは正に、般若心経に言う「不生不滅不垢不浄不増不減~無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」そのものだろう。

つまりストゥーパが表していたであろうとは、輪廻の内にある地上世界において人を産みなす母胎ではなく、理念的には

「人間を含む『一切世界』が、その無明ゆえに苦なるものとして展開する以前の宇宙原初の胎」

であった、という事だ。

ただし、この宇宙原初の胎の称揚、という事の背景には、インド先住民伝統の女性原理中心思想が確かにあり、その大波が女性性をあれほどに忌避したブッダでさえも飲み込んでしまった、という側面は否定できない。

出家の視点から観ればストゥーパは悟りの世界そのものだったが、在家から観ればそこに「女性の胎なくしては世界も人間ゴータマ・ブッダもまた生まれ得ない」、という女性性への称揚が加味されていた可能性は高い(仏教とは常にこの出家と在家の相反する両義性によって糾われている)

もちろんこの『無明にして苦なる現象世界の全てが未然態(生成展開する以前)である宇宙原初の胎こそがイコール、不死なるブラフマンの解脱界に他ならない。

世界の始めに現れた黄金の胎児が「万有の唯一なる主」「世界の唯一なる王」「神々の唯一の生気」と称えられていた事を考えれば、それが「宇宙始原の一者ブラフマンへと直接つながるのは見易いだろう。

一方で、つくづくインド思想は一筋縄ではいかないと思うのだが、世界が創造展開された後の『車輪世界』においては、女性性は輪廻する現象世界そのものであり正にブッダが厭離した苦界(苦海)そのものを象徴する。

つまり(ややこしい話だが)不死なるブラフマンの世界である宇宙原初の胎とは理念上、女性性とは切り離された全きニュートラルな胎なのだ。それは、女性性とか男性性とかの『名称と形態』が展開する以前の『未然』に他ならない訳で、あくまでも便宜上『胎』と名付けているに過ぎない(やっぱりややこしい)。

にも拘らず、サンチーをはじめとしたストゥーパの表象においては女性性を前面に押し出し称揚するような表現が採られているという大なる矛盾は、そもそもストゥーパ文化とはブッダを埋葬した土饅頭から始まりアショカ王によって全インド的にブレイクしたもので、その発端から一貫して在家主導によってとり行われており、その寄進者の大部分が在家であった事に由来するのだろう。

何故、宇宙原初の胎=ブラフマン解脱界、なのか。この辺りの消息に関しては、「『世界の起源』『輪廻の現場』としての大水(胎)」でも指摘した、

現象世界がもし、本然的に『苦』としてそもそもの発端からデザインされているとしたら、その様な『世界苦』から解放されるためには、世界が生成展開する以前に立ち還るしかない。

という論法・思考法が前提となる。それは未だ世界万有が創造されずに、原初の一者たるブラフマン(ヒラニヤガルバ、プラジャーパティ、etc.)が、ただ一人独存している状態だ(それはイコール、般涅槃後のブッダそのものでもある)

それは、いわゆる十二縁起における無明から始まって老死で終わる全ての連鎖プロセスが、未だ発動される以前の状態状態と言う言葉さえ適当ではない未然

この辺りの消息に関しては以前、予告的に下の投稿でも触れている。

無明とはそもそもブラフマンの解脱智についての無知を表していたと考えれば、解脱者ブラフマン唯一人しか存在しないそこに、彼について無知な誰かなど存在するはずも無い。ブラフマンの独存とは、言い換えれば解脱の明智のみの独存なのだから。

そしてこのブラフマンの独存状態の追究という心象風景の中にこそ、ブッダに至る瞑想法が何故、未だ悟りを得ていない沙門シッダールタによって想到され得たのか?」というもうひとつの命題の答えが、隠されている。

 

 

 


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