仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ウドガートリ祭官の「歌詠瞑想」と“発声器官”《瞑想実践の科学26》

今回は最も根源的かつ素朴な疑問から話を始めたい。それは、そもそもインドにおいて『瞑想』という時、その名称と営為はどこに起源するのか、という問題だ。

これについてはこれまでにも何回か取り上げたが、インダス文明の遺跡で発見された印章の彫刻に、ヨーガ行者が坐って瞑想している様な姿があり、これこそがその起源ではないか、と言われている。

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Wikipediaより:インダスの印章に見る瞑想するヨーギの坐相

そこに、確かな文献的データがある訳ではない。インダス文明には一般に文字であろうと考えられるいくつもの図形の羅列が発見されているが、その意味内容は未だ解読されてはいないからだ。

だから、上の絵柄を見た上での第一印象として、多くの学者が同意している仮説として、これは瞑想するヨーギの原初形態であろう、と言われているのだ。

確かに、中央に坐っている人物はある種特殊な坐相をとっている。床に広げた敷物(台座?)の上に坐って、その両膝が大きく左右に開展し、両足先は中央部で特殊な重ね方で揃えてある。それら脚全体がピッタリと水平に床に着けられている。

これは単なる胡坐すわりなどではなく、現代ヨーガにおける様々な坐相(アーサナ)の理想形をよく表している。その理想形の坐において両の腕を伸ばして両膝に置いているので(掌は下向きだろうか)、これもヨーガで見られるポーズに類似している。

さらに注意していくと、股間には上を向いたペニスが描かれているようにも見える。この事はシヴァ神を象徴するリンガ(男根)を想起させるだろう。

上半身には胸飾りのような線刻が見られ、腕輪らしきものも確認できる。頭上には動物の角をあしらった兜のようなかぶり物があり、特筆すべきはやや非人間的な印象を与える顔面部が、見ようによっては正面と左右の合わせて三面像とも受け止められる造形をもっている事だ。

さらに坐っている彼の周囲を取り巻くようにして、象、牛(水牛?)、サイ、トラ(ライオン?)などインド世界を象徴する様な動物が並べられ、この事から彼はパシュパティナート(獣類の王)であるシヴァ神の原初形態ではないか、と考えられている。

つまり、獣類の王でありリンガ(ペニス)の神であるシヴァ神の原像が、動物たちに囲まれておそらくは森で、坐の瞑想にいそしんでいるのではないか、というのがひとつの仮説なのだ。

坐像の頭上には六つの文字が刻まれているが、解読できていないのでその意味は分からない。そしてそれが本当に神像なのか、さらには彼が瞑想しているのか、などは全て想像の域を出てはいない。

しかし、この極めて印象的な古代インダス文明の坐像は、やはり第一感明らかに瞑想行者のイメージを喚起させる様な、ある種の “神気” を漂わせているという感触は、多くの方が同意していただけるのではないかと思う。

ここでひとつの仮説が立てられる。インド人の瞑想実践の起源のひとつは、間違いなくインド・アーリア人が侵入する以前、先住のインダス文明の時代に遡り、その実践内容は定かではないけれど、それは明確に『坐の瞑想法』だった。

そしてこの坐の瞑想法は、彼らの社会・生活の中で、とても重要な意味を担っていた。

もともとシヴァ神の神名はアーリア・ヴェーダのルドラであったようだ。このインドの神の名前の遷移やそのヴァリエーションについてはあまりにも煩雑すぎてここでは取り扱わないが、この坐の瞑想にふけるインダスの神、その原イメージとヴェーダのルドラ神のイメージが重なりあい、最終的に吉祥を意味する「シヴァ」に落ち着いたようだ。

その根拠として、シヴァ神自身として常に寺院に祀られるリンガ信仰の起源が、インダス文明にまで遡れる事が指摘されている。

獣類に囲まれる坐像としての神と並行するリンガ信仰。これらインダス文明に起源する宗教的心象が、やがてアーリア・ヴェーダの文化によって様々な形で触発・脚色されて、シヴァと言う神格が誕生した、という流れだ。

ブッダにしてもシヴァにしてもマハヴィーラにしても、インドで瞑想と言えばまず第一に『坐の瞑想』のイメージがある。この様な宗教的な坐法の伝統はインド・アーリヤ人と同根と言われるイランの文化には全く存在していないようだ。

インドにおける瞑想実践の起源、その原像は、ほぼ間違いなく、このインダスの遺物に見られる「坐の瞑想」にあると考えていいかと私も思う(実際にはあまりにも証拠がなさすぎるので、想像の域をでない、と言われても反論は難しいが)。

これを踏まえた上で、以下の考察に進みたい。

先に私は、「『ヴィーナである身体』の上に瞑想する者は」の中で、こう書いた。

以下、高野山大学院修論 第Ⅱ章、古代インド思想 ―ヴェーダの倫理―(1) さんからの引用

宗教としてのバラモン教の本質は祭祀である。バラモン教を精査することにより、釈尊が出現した紀元前5,6世紀頃の古代インドの自由思想家たちの宗教、思想を浮き彫りにし、その変遷を知ることができる

 インドにおける哲学的萌芽はインド最古の文献群であるヴェーダ(veda)によって認められる。ヴェーダは宗教的知識であり、転じてバラモン教聖典の意味となった。

まず祭祀を本質とするヴェーダバラモン教と言うものが前提としてあり、その聖典のひとつ、アイタレーヤ・アーラニヤカに書かれた「ヴィーナと身体との重ね合わせ」について、次に言及した。

archive.orgさん:「The Upanishad by Müller, F. Max 1879」のP263~からの抜粋・引用

6. He who knows this lute made by the Devas(and meditates on it), is willingly listened to, his glory fills the earth, and wherever they speak Aryan languages, there they know him.

神々によって造られたヴィーナである人の身体を知りその上に瞑想する者の、そのメロディである音声(賛歌)は(神々に)快く聞かれ、彼の栄光は大地を満たすだろう。そしてどこであろうと彼らがアーリヤの(高貴な・聖なる)言葉を唱える時、彼らは彼自身を知るだろう。

~~以上、引用終わり。日本語は筆者の意訳~~

ここでは『ヴィーナとしての身体の上に瞑想する』という概念が明示されている。そこにおける『瞑想』とは、実践的には「身体と言うヴィーナ」によって賛歌と言うメロディ(声楽)を奏でることだと考えられるだろう。

それは続く、「賛歌の精髄としての “聖音オーム”と瞑想実践」の中で、上記アイタレーヤ・アーラニヤカについての解読と共に “急所の一手” と表現しておいた。

では、ここで言う『瞑想(Meditate)』とは、より具体的には何を意味していたのだろうか。それはインダスの坐神がしていたであろう『瞑想』とどのような関係にあるのだろう。さらにブッダ自身の瞑想法と、一体どのように “連接” しているのだろうか。

インド・アーリヤ人の習慣に『坐の伝統』が無かったならば、一体、これら祭官たちは、立って賛歌を詠唱していたのか、それとも坐っていたのか。もし坐っていたのならば、それはいつどのような契機によって採用されたのか。

最初に先ず、『瞑想』というインド語の原義について考えてみたい。インド諸語には瞑想を意味する単語が結構たくさんある様なので、端的に私たちが仏教とかヨーガとかいう文脈においてもっとも親しんでいる“Dhyāna”という言葉を取り上げて考えてみよう。

この“Dhyāna”サンスクリット辞書で引くと以下のようになる。

ध्यान [ध्यै-भावे-ल्युट्] 1 Meditation, reflection, thought; contemplation; ज्ञानाद् ध्यानं विशिष्यते Bg.12.12; Ms.1.12; 6.72. -2 Especially, abstract contemplation, religious meditation; तदैव ध्यानादवगतो$स्मि Ś.7; ध्यानस्तिमितलोचनः R.1.73. -3 Divine intuition or discernment. -4 Mental representation of the personal attributes of a deity; इति ध्यानम्. -Comp. -गम्या a. attainable by meditation only; योगिभिर्ध्यानगम्यम् Viṣṇustotra. -तत्पर, -निष्ठ, -पर a. lost in thought, absorbed in meditation, contemplative. -धिष्ण्य a. suitable for ध्यान; रूपं चेदं पौरुषं ध्यानधिष्ण्यम् Bhāg.1.3.28. -मात्रम् mere thought or reflection. -मुद्रा a prescribed attitude in which to meditate on a deity. -योगः profound meditation. -स्थ a. absorbed in meditation; lost in thought.

まず最初に並べられた4つの英語を、Google翻訳で人の心の働きの中から見ていく。

Reflexion;
反省、自省、省察、思案、映像、反映、回想、など。

Thought;
思想、考え、思考、思案、思惟、了見、思い、想い、意、念、想、など。

Contemplation
沈思、黙考、冥想、嘱望、反省、など。

Meditation
瞑想、思索、思案、冥想、反省、黙考、潜心、沈思、など。

このように見てくると、このDhyanaという単語の基本的な概念がおよそ分かって来る。それは考えたり、思案したり、反省したり、思ったり、想ったり、念じたり、様々なイメージを脳裏に投影したり。

日本人が伝統的に尊んできた『無念無想』あるいは『無心の境地』というイメージからは、少なからず隔たりがある、ことが知られるだろう。

その他、色々な書物を見ても、このディヤーナというインド語のそもそもの原風景は『考える』こと、『想う』こと、であったのは間違いないようだ。

その意味ではやはり瞑想をも意味する「ウパース」の訳語である『念想』というのがしっくりくるかもしれない。

これは『瞑想(Meditation)』を意味する他のインド語を見ても、その多くが、最も基本的な原像として『考える』こと、『想う』こと、『念ずる』こと、という意味を持っていることからも裏付けられる。(サンスクリット辞書:Meditate)

実際に英語版WikiでMeditationを見てみると、そもそもの英語のMeditationという言葉自体その原意は、

The English meditation is derived from the Latin meditatio, from a verb meditari, meaning "to think, contemplate, devise, ponder".

とある様に、どうやら瞑想の原語であるDhyanaは、本来は無心の境地に遊ぶ、という様なものではなく、何かを徹底的に想い、思い、念じ、熟考する、と言う意味だった事が分かる。

もちろん、この言葉が宗教的な文脈で用いられる場合は、ごく日常的なもの思いや雑念妄想、というレベルでの想念や思考ではなく、ある対象に集中し一本化した、非日常的な純化された思念』とも呼ぶべきものなのだろう。

そしてこの原意としての瞑想こそが、上述のアーラニヤカ・アイタレーヤにおいて言及されていた、『ヴィーナとしての身体の上に瞑想する』、という時の実態に近接しているのではなかったか、と考えられるのだ。

このヴィーナとしての身体と言うのは、つまりヴェーダの聖句を歌い上げる、サーマンを詠唱するウドガートリ祭官の身体だから、その身体において、何かを思い、念じ、ひたすらに考える。当然頭も身体の一部だ(楽器ヴィーナが頭をもつように)

そしてこのヴェーダの詠唱とは、何よりもまず第一に、その聖なるヴェーダ詩節のテーマとなる神々に捧げられるのだから、当然ながら、その対象たる神々について、その性質や偉力や勇姿などを、ひたすらに『想い』『思い』『念想し』、イメージする、と言う事が考えられる。

これは心のスクリーンに『神』の様々なイメージ属性を、“コンテンツ”として保持(投影=リフレクト)し続ける、と言ってもいいだろう。

これは後日改めて論じたいが、この様な「イメージ・コンテンツの専念投影」という瞑想スタイルが、ブッダの時代を起点にして「イメージ・コンテンツ(意官の法)の止滅」の方向へと転換した事こそが、汎インド教的な瞑想史から観た画期だったとも考えられる。

第二には、ヴィーナとしての身体の上に、と言う但し書きがある以上、そのヴィーナである身体について、そのヴィーナの演奏について、ひたすらに思い、想い、念じ、考える、と言う事が想定できる。

ヴィーナについて、その演奏について考える。それはもちろん演奏しながら、つまり身体によってサーマン(賛歌)を歌いながら、その「歌い」と言う行為のプロセスに関して、ひたすらに集中して考える、想う、念ずる、あるいは一心に『専念する』と言う事になる。

楽器の演奏と言う行為において、例えば熟練のギタリストはもちろん演奏するという行為プロセスに集中して専念している。五感六感の全てを研ぎ澄ませて、そのプロセスの全てを統御しつつ名演奏を遂行していく。

けれどこのようないわゆる『達人・名人』的な技量・行為の最中においてその演者は、全ての状況を意識の上で把握しつつも、その状況は常に瞬間瞬間にとてつもないスピードで転変しているが故に、決して一か所に留まる事のない流動性の中で、ある種の『無心』の状態になる。

これはベテランド・ライバーが車の運転をしている時の事を想定すればよく分かるだろう。彼は瞬間瞬間の全ての状況を把握し、即応しながら、しかしあーだこーだと運転について「考えている」訳ではない。そこには静かで臨機応変『無心』が現成している。

そこでは、いわゆる『無意識』の領域で超スピードのあらゆる情報処理と判断、つまり『思考』が行われているはずなのだが、表在意識はそのような『潜在思考』の上で無心に遊んでいる、というある種不思議な状態だ。

このような熟練者の楽器演奏などで見られる、無意識的な『高度情報処理プロセス』の上に遊ぶ『無心』状態。これが想定される第二のDhyanaの心象イメージだ。

この第二のディヤーナを、サーマン賛歌を歌い上げるウドガートリ祭官の、祭祀におけるフォーカシング・ポイント、という視点から更に深めていく。

古代インドにおいて祭祀と言うものは、神聖でありかつ絶対的な意味と権威を持っていた。それは基本的に祭祀において歌われるその言葉の力によって神々を動かし、祭主(お金を出すパトロン)の願いを実現させよう、と働き掛けるものだった。

しかしバラモン祭官を初めその場に立ち会う祭主や聴衆には、実際に神々の姿が見え、その声が聞こえる訳ではない。例え古代インドとは言え、神がその姿と共にリアルに降臨する事は決してないのだ(違うだろうか)。

このあたりはとても面白いところだが、では人々は何をもって「祭主の願いが神々によって聴き届けられた」と判断できたのだろうか?。

結局祭場には人間しかいないのだから、彼ら自身が五感六感を総動員して、何らかの変化の兆し、とでも言うものを察知して、神々に我々の声が届いたのだ、と判断するより他にない訳だ。

その『変化』、あるいは『成就の兆し』とは何であったか。

例えば祭式の進行に伴って雲が出たり雨が降ったり、晴れあがっていったりという空模様の変化。あるいはヤジュナの祭壇におけるアグニ、つまり炎の揺らめきの変化や煙の動き。鳥の鳴き声、風鳴りの音、気温の変化、などなど、環境世界における様々な変化が神意の兆しとして捉えられた事もあっただろう。

けれども、これは極めて私的な視点なのかも知れないが、結局のところ祭祀におけるサーマン賛歌の詠唱とは、現代的に言えば歌姫ならぬ歌王?(祭官は男)による『詠唱コンサート』に他ならないのだから、そこにおいて判断の基準になるのは、“どれだけ聴衆たちが、ウドガートリ祭官の歌声に魅了されて感動したか” と言う事こそが、神々に願いが届いたかどうか、という判断の根拠になったのではないか、と考えられるのだ。

それをより具体的に言うならば、例えばちょっと古いが耳なし芳一の話で、彼が壇ノ浦の決戦の物語を琵琶の音色と共に弾き語る時、聴衆はその心象の中にまざまざとまるでその現場に臨場しているかの如くに、壇ノ浦の海鳴りや源平の侍たちの雄たけびをありありと聴き、その風景や姿を眼に浮かべ、血しぶきの散るさまやその匂いさえもかぐ事が出来たかも知れない。

それと同じ事が、古代インドのヴェーダの祭式においても起こっていたという事だ。その祭場において、聴衆を魅了するのはヴィーナの伴奏を従えたウドガートリ祭官の詠唱に他ならない。

それは耳なし法一の場合と同じように『ものがたり』であると同時に、それ以上に『イメージ歌劇』であった、と考えられる。

聴衆、特に祭主の心を完全に魅了しその支配下に取り込んで、彼の心の中に神々の姿やその声をまざまざと生起させた時はじめて、その祭祀の誓願は成就されたと受け止められるのだ。

特にブッダの時代前後のバラモン教全盛の時代には、バラモン祭官の祭祀の効力は神々の力をも凌ぐ、と言う、いわゆる『祭祀万能思想』が幅を利かせていたのだから、その説得力(洗脳力?)は並々ならぬものがあったはずだ。

分かりやすく言えば、神々の降臨をリアルにイメージさせないようなしょぼいコンサートだったら、誰もそんな事は信じない訳だ。

だからバラモン祭官たちは如何にして聴衆たちを、その心を魅了し虜にするかという『歌唱力』さらには『演出力』を、徹底的に磨き上げていった事だろう。

(このあたりの事柄は、すでに以前「”Mukha”の原像と『声門』という新たな焦点《瞑想実践の科学24》 」の中で若干触れている)

その証拠が、古代インドにおいて高度な発達を見た『音韻論』だ。

これは単なる知識としての学問などではなく、上記のような詠唱シンガー&パフォーマーとしてのバラモン祭官たちの必要に迫られた、つまり『歌唱』という行為と完全に結びついた“実践の科学”として、発達したと考えるべきだろう。

では、そのような詠唱コンサートにおけるヴォーカル(声楽)とその基盤となる音韻論的科学、それらの核になるものとは一体何だっただろうか?

それこそが、私の考えるところでは、“声帯を中心とした発声器官”『トータルかつ精緻なコントロールに他ならない。

先に紹介した「アイタレーヤ・アーラニヤカ」引用部分の前後には極めて面白い内容が並んでいる。

煩雑になるので原文は載せないが、そこには子音、母音、歯擦音などの専門用語を、その発声の呼吸法と共に様々な事物に重ね合わせて想起もしくは念想(Represent)する、というフレーズが並んでいる。

このような音韻論的な極めてマニアックな事柄を祭祀や瞑想、あるいは宗教的な探求において深く重ね合わせて論ずるという特性は、ウパニシャッドにおいても顕著に認められ、いまざっと見たところ、ウーシュマン音とか閉塞音とか、素人には何のことやら分からない類のものが羅列されている。

このような音韻論と言うものはダイレクトに発声学と結びついており、その発声学とは何よりも祭祀における『声帯を起点とした発声器官のトータルかつ精緻なコントロールに基づいた『賛歌の詠唱』と不可分一体であったと考えるべきなのだ。

現代においても、例えば「カラオケ 歌唱法 声帯」などというキーワードで検索をかけると、実にマニアックなカラオケ道場的サイトがぞろぞろとヒットし、その中では呼吸法と共に声帯を中心とした全発声器官(舌、歯、唇、喉、etc.)のコントロール法が詳細に説かれている。

これは、私などには分からないが、おそらくクラシック声楽家にとっても同じことが言えるのではないだろうか。

ヴォーカリストの命は呼吸と発声器官のコントロール。その原理・原則は、ヴェーダを詠唱するバラモン・ウドガートリ祭官にもまったく該当するのだ。

そこで話を戻すと、『ヴィーナとしての身体の上に瞑想する』というこの瞑想営為の実際において、先に紹介した『熟練ドライバーが車を運転する』という喩えの中のその『運転』に当たるもの、あるいは楽器ヴィーナにおける『演奏』に当たるものこそが、神々の手になるヴィーナであるウドガートリ祭官ヴォーカリストの場合は、この『発声器官のトータルかつ精緻なコントロールであったと言えるだろう。

発声器官をその全領域に渡って、呼吸と共に精密に運転(ドライブ/コントロールする、という『専念』

カラオケ道場のサイトを見ると、それは限りなく“意識的” なコントロールであるようだ。もちろん上級者においては熟練ドライバーの『即妙自在なる無心』と重なり合う部分も多いのだろうが、この声楽における発声器官のコントロールは、それ以上に意識的と無意識的が相半ばする営為である様に読みとれる。

これはカラオケとか声楽とかヴォイス・トレーニングとかを実際につきつめて実践した事のある人ならば、かなりリアルに理解することができるのではないだろうか。

私自身もインドを初め様々な所でマントラ詠唱の経験があるので、感覚的に分かる部分もあるのだが、それは車の運転などの日常行為よりも、相当以上に “意識性” の強い『集中』だ。

何というか、意識が無意識の領域に一歩、踏み込んでいる、と言うか。

その理由のひとつが、このヴォーカル(発声・発音)という行為が、“自己表現” と深く結び付いているからだろう。自分の感情や思考の表出、さらに宗教と言う文脈であるなしに関わらず芸術としての表現性。つまりヴォーカルというものは何よりも意志や心や情念と深く結び付いている『表現(プレゼンテーション)』なのだ。

普段は何も考えず無意識的に発声器官がコントロールされ発話している人も、何かここぞという瞬間には意識的にその発声を変える。人は発話している時、意識と無意識の境界線を常に行ったり来たりしている。

この事実は、かのゴエンカジー「呼吸は意識と無意識をつなぐ架け橋」という言葉と深く結び付いている。何故なら、発声・発音をコントロールする時、それは常に呼吸のコントロールと不可分一体だからだ。

常日頃はほぼ完全に無意識下で行われている自然呼吸単体が、ひとたび発声・発音という営為と重なると極めて意識性が高い状態に変わる。この切り替えを、普通私たちは何も考えずに無意識的に行っているのだ(ややこしいが)。

以上を踏まえた上で、アイタレーヤ・アーラニヤカにおいて、

神々によって造られたヴィーナである人の身体を知り、その上に瞑想する者(そのメロディである音声=賛歌)は(神々に)快く聞かれ、彼の栄光は大地を満たすだろう。そしてどこであろうと彼らがアーリヤの(高貴な・聖なる)言葉を唱える時、彼らは彼を知るだろう。

と説かれたその内容を吟味するとどうなるだろうか。

その『瞑想』 “核心” にあったのは、神々について一心に『想う』(それは賛歌の意味内容でもある)と同時に、意識と無意識の境界領域において自らの『発声器官』のコントロール『専念』しつつ賛歌を歌いあげる、そんな心的状態だった。

そして、その『瞑想』という言葉の前段にある「ヴィーナである人の身体を知り、その上に」という文脈は、直接的に、発声器官としての身体の仕組みを熟知し、それを緻密にコントロールする事を意味している(その「緻密なコントロール」こそが、正に「ヴィーナの譬え」で焦点になった “チューニング” に他ならない!)

少なくとも私は、そのように理解している。

(おそらく、この時、熟練のウドガートリ祭官はある種のトランスに入っていた。そしてトランス特有の気配を強力に発していた可能性が高い。この事はまた後日)

そして、そのように考える事によって、アイタレーヤ・アーラニヤカ的な “瞑想”ブッダの瞑想法』がリンクしていく、その “接点” が浮かび上がって来る。

何故なら、このウドガートリ祭官が熟知し、全身全霊で集中し精緻にコントロールする『発声器官』こそが、パーリ経典において

parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā

すなわち

Mukhaの周りに気付きを留めて

という時の “Mukha” 、つまり「牛がモ~(Mu)と鳴くその声が発するところの空処(口腔・咽喉・喉頭=Kha)」そのものだからだ。

以前に私はコップの本質として「開口した奥行きのある空処性」を指摘し、それがそのまま口にも該当すると論じたが、正にその内部的全構造体を駆使して歌われるのが、賛歌詠唱と言う『瞑想実践』なのだ。

そのヴォーカル・ボディとしての祭官の身体は楽器ヴィーナに喩えられており、パーリ経典におけるヴィーナ(箜篌)の譬えは、同じように瞑想修行する比丘の身体をヴィーナに重ねた上で、そこで行われる『実践上の要諦』を示唆する為に語られていた、と言うのが本稿における読み筋だった。

そこでは「弦の張りの強さ弱さ、その『最適化』が焦点とされていたが、身体においてこのに相当するものこそ声門であり、更に喉頭であり咽喉であり、口腔、歯、舌など、口(鼻)の『奥行きある内部構造』であった事を考えれば、そこにおける「気づきの対象」もまた、声門までをその焦点として視野に入れた広義の『口の内部』にこそ置かれるべきだ、という結論は極めて自然な流れとして導き出されるだろう。

この様な仮説の上に仮説を積み重ね続けるという思考法には違和感を覚える人も多いかも知れないが、これは極めて合理的かつ有効な手法だ。

この点に関してはもっと早くに付記しておくべきだったかも知れないが、私が『仏教』あるいはブッダの言葉』を読み解く方法論は、全く囲碁』の思考法に則っている。

私は学生時代、ダイビングと並んで囲碁に熱中し、最盛期にはアマ五段程度の棋力を維持していたのだが、囲碁と言う世界においては、盤上に今明らかに現れて認識可能な石の配置から「未だ現れていない『未来』的な石の流れを読む」能力を鍛えなければ、決して強くはなれない。

仮定の上に仮定を積み重ねて幾通りもの読み筋(プロの高手では一手につき数百手にも及ぶ!)を深め確立し、その内の最も確からし道筋を吟味し選択して打つ、と言うのが、碁盤上における思考法であり方法論なのだ。

大学以前も含めれば6~7年の間、継続して私はその様な世界にどっぷりと浸かり、ひたすらプロ高手の棋譜を並べ詰碁を解き、自ら実戦対局しそれを更に並べなおして検討する事を繰り返した。

喩えて言えば、私にとってパーリ経典に残されたブッダの言葉たちその総体というものは、ある種いにしえの名局を記した一枚の棋譜の様なものなのだ。

江戸時代の名人高手が残した一枚の名局棋譜を目の前において、一手一手を碁盤上で並べつつその全局、数百手の間に両対局者の頭の中で渦巻いた思考読み筋判断の流れさらには時々の「感情の揺らぎ」さえも、可能な限り『再現的』に把握し玩味する。

たった一枚の棋譜(表面上それは升目に記された単なる数字の羅列に過ぎない!)から、あたかもタイムマシンで『そこ』に臨場しテレパスの様に対局者の心の内部にダイブしているかのように、その脳内思考プロセスを総体として精密かつリアルに読み解いていく。

そこでは実戦対局と全く同じように、「仮定の上に仮定を積み重ねて幾通りもの読み筋を深め確立し、その内の『最も確からしい道筋』を吟味し選択して全局ストーリーを再構築する」という事が、ある意味唯一至上の方法となる。

(もちろんそこに「自分より上手の解説者」がいれば大いに助けになるが、私の性格は何よりも「自分で読み解く」事を好む)

もちろんその大前提として「棋力(棋理を知るその力)」と言うものの一定レベル以上の高さが必須のものとして求められる訳だが、少なくとも現在の私のキャパにおいて、様々な観点から、

ブッダが『parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā』すなわち『Mukhaの周りに気付きを留めて』という時の “Mukha”とは、ひとつの焦点として声門までを視野に入れた『口腔・咽喉・喉頭、その内部周りである可能性が高い」

という読み筋は、一定以上の『確からしさ』があると判断できる、という事なのだ。

(古ウパニシャッドなどは沙門シッダールタに先行する『棋譜』であるし、ヒンドゥ・ヨーガの諸典籍はブッダ以降の『棋譜』であり、共に沙門シッダールタ&ブッダ脳内にダイブする際の重要な手がかりとなる)

私はこれまで、この「parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā」については、広長舌相から始まって動物の調御の喩えや「三つの苦行」、そして「パオ・メソッド」などを引き合いに出して様々な解釈の可能性について論じてきたが、それゆえこれらは全て、上記の様な「確からしさ」を持った有力な読み筋の羅列的提示に過ぎない。

しかし同時に、これらの探求は「瞑想実践の科学」というタイトルと共に段階的に深められてきたものでもあり、現状この最終盤に登場した「声門まわり仮説」こそが、焦点を絞り切った最有力候補だと受け取ってもらっても構わないだろう。

ただ、これら複数のタッチング・ポイントの相違は、個々人の実践的な資質や相性によってそれぞれ応変にあるいは段階的に適用され得るし、「上唇から鼻腔にかけて」という気づきのポイントは、(私を含め)多くの実践者によってその確かな有効性が認められているので、それ自体を私は否定するつもりはまったくない事は付記しておきたい。

個人のブログゆえに「筆の勢い」でしばしば断定口調で書かれてしまう事も多いのだが、基本的にこれらの文脈は全てが「確からしいと判断されたひとつひとつの読み筋の積み重ね」に過ぎず、「実際に打って見なければ決着しようがない」、という点はあくまでも念頭に置いておいて欲しいと思う。

もちろん、ここで言う「実際に打つ」とは「実際にそのメソッドによって突き詰めた瞑想実践を行う」ことであり、「決着」とは究極には「ニッバーナに至るか否か」という事に他ならないのだが、現状、私は両者ともにまったく体現できてはいない以上、それは単なる「論理的な読み筋」にとどまったままなのだ。

名人高手の打ち碁においては、いまだ盤上に現実化していない100手先の読み筋が、実はまごう事なく『現実そのもの』である、場合も多々あり、読み切った時点でそれ以上打たずに終局(投了)されるという事もしばしば見受けられるので、結局は「どれだけ棋理(盤上のダルマ)を弁えているか」という事に全てはかかって来る訳だが。

碁盤上の機微教訓に関しては、昔から囲碁川柳やことわざ格言などの形で様々な名句箴言が語り継がれており、中には「下手な考え休むに似たり」というのもあったりして「こりゃ、まいりました」との感は多分にある、の、だが、何しろブッダの出家・成道・布教」というプロセスは極めて読み解き甲斐のあるエキサイティングな名局であり、古来より「名人高手の棋譜を繰り返し並べて学ぶ」という事が棋理を深め囲碁に上達する秘訣」とも言われているので、キリの良い所まではこの「仏道修行のゼロポイント」という棋譜読解」を続けようと思っている。

 

(本投稿はYahooブログ 2016/3/12「瞑想実践の科学51:ウドガートリ祭官の「瞑想」と“発声器官”」を加筆修正の上移転したものです) 

 

 


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