仏の32相に見る『馬の歯』とパオ・メソッド:瞑想実践の科学12
馬の調御と出家比丘の修道プロセスが重ね合わされたパーリ経典、『若い駿馬の喩え:中部経典第65経 バッダーリ経』に続いて、象の調御と出家比丘の修道プロセスを重ね合わせた、中部経典:第125経『調御地経・・・しつけられた者がいたる段階』について、前回紹介した。
こうやって見てくると、原始仏教において、牛・馬・象という動物の調御と比丘の修道プロセスが、相当以上の意味合いで “重ね合わされていた” 事は、もはや疑問の余地がないように私には思える。
このブログを読んでいる大方の読者も、さらにはテーラワーダの長老方もまた、この単純な重ね合わせの事実については同意していただけるだろう。
問題は、私がかねてから提示している、“瞑想実践における『気づき』のポイントが、動物の調御において重要な意味を持つ身体上のポイント(それは主に『顔の周り』に集中する) との重ね合わせの中で暗示されている”、というもう一歩踏み込んだ仮説だ。
この点で重要な意味を持つのが、今回取り上げる馬の特徴と仏の32相との相関になる。
仏の32相を一覧して、その一見荒唐無稽にも思える項目の中に、動物つながりという括りが多い、という特徴を見てとった事は以前書いた。
さらに象との重ね合わせという視点から深読みして、仏の32相を再検討した結果も前に投稿している。
こうやって見てくると、「仏の32相」と「調御される動物」、さらには「瞑想行法」との有意な重ね合わせは、もはや明らかであるように私には思える。
この点に関して、今回は馬という調御される動物もまた、仏の32相の中で重要な役割を演じている事を深読みしていきたいと思う。
仏の32相という箇条書きされた32の項目を何回か読みこんでいった私は、あるひとつの事に気付いた。
それは、『歯』に対するこだわりが妙に強い、という事だった。
例によってWikipediaから、具体的に引用すると以下のようになる。
22. 四十歯相(しじゅうしそう)
40本の歯を有し、それらは雪のように白く清潔である(常人は32歯)。
23. 歯斉相(しさいそう)
歯はみな大きさが等しく、硬く密であり一本のように並びが美しい。
24. 牙白相(げびゃくそう)
40歯以外に四牙あり、とくに白く大きく鋭利堅固である。
歯についてだけで3項目も立てている。これは歯に対する並々ならぬこだわりの現れだと感じずにはいられない。
私はスリランカにもトータルで4カ月ほど滞在しているので、かの地においてはブッダの歯というものが特別に意味ある物として祀られている、という事実も同時に思い出していた。
これら歯に対するこだわり、の背後にある心象風景を探って、私は考え続けた。最初に仏の32相を読んだ時と違って、すでに私は『調御される動物』という確かなキーワードを得ている。
まず最初に、人間の歯数である32歯ではない、40歯の動物、という視点からネットを検索していった所、ヒットしたのが、やはりというか、調御される動物のひとつであり、顔の周りに顕著な頭絡という装置を装着する馬だったのだ。
~以下、みんなの乗馬ブログより引用
馬の歯は牡馬では全部で40本、牝馬で36本で、この4本の差は犬歯があるかないかの差です。
また、馬の歯は本当に都合よく並んでいて草を食いちぎる役目を持つ切歯と、食いちぎった草をすりつぶす役目を持つ臼歯の間に歯槽間縁(しそうかんえん)と呼ばれる全く歯の生えていない空間があります。
同ブログより:雄馬の歯数は、仏の32相と同じ40本
この空間にハミを装着します。ハミは人間と馬との間の長い歴史の中で最大の発明と言われていますし、当然ハミがなければ馬をコントロールできないので、もしここに歯が生えていたとしたら乗馬というスポーツがここまで普及していなかったかもしれません。
ブッダはもちろん『雄』だから、そこに馬との “重ね合わせ” があったならば、40本の歯を持っているのはある意味当たり前だ。
さらに私が注目したのが、馬の臼歯(奥歯)の形と歯並びだった。
馬の臼歯(奥歯)は、23. 歯斉相(しさいそう)に「歯はみな大きさが等しく、硬く密であり一本のように並びが美しい」、と書き表されたまんまに、ほとんどコピーのように均質な歯が、隙間なく一列一本のように、まるで良く実ったトウモロコシの実のようにみっしりと並んでいるのだ。
再掲:馬の頭蓋と歯並び
上図を見ると明らかなように、馬の奥歯(臼歯)の歯並びは、正に『歯斉相』に相応しい均質整然さを表している。
最後の24. 牙白相(げびゃくそう)については、おそらく雄馬が持っている小さな4本の犬歯と、ライオンの雄の持つ強大な牙とを兼ねて重ねているのだろう。
仏の32相において、ブッダが40本の歯を持っていると考えられた、正にそのように、雄馬は40本の歯を持っており、ブッダの歯が均質で一本のように並びが美しいと考えられた、正にそのように、馬の臼歯は均質で隙間なく一本のように並びが美しい。
以上の事実をもって、この歯に関する仏の32相は、馬との重ね合わせであった可能性が極めて高い、そう私は判断している。
仮にこの判断が正しいとして、何故、彼らはこうも『歯』にこだわったのか? そしてそのこだわりが何故、馬との重ね合わせ、という形をとって現れたのか?
そこで馬の歯、というものの特徴を様々な角度から考えてみた。
そもそも、比丘の修道プロセスと重ね合わされた牛・馬・象という三種の動物に、共通する性質とは何だろうか。それは第一には、草食の群れ動物である、という事だろう。
草食動物という生き物は、基本的に常にモグモグと口を動かして食べている生き物だ。肉食の場合と違って、彼らが食べる草葉の栄養価は極めて低くエネルギー効率は悪い。それに比べて、彼らが養わなければならない身体は、人間と比べても遥かに巨大だ。
必然的に、彼らは日々大量の草葉を食べ続けなければならない。
例えば、象の場合だと、一日のうち目覚めている時間の8割ほどは食事によって費やされているという。これはこれら三種の動物と密接に関わりながら暮らして(共生して)いた古代インド人にとっても自明の事実だっただろう。
常にモグモグと口を動かして草葉を食べている。それはより具体的には、常にその歯を咬み合わせ噛みしめ続けている、という事を意味する。
ここで私は、以前紹介した『ハミ』を思い出した。ハミとは馬という動物に特徴的な、歯の生えていない歯茎だけの『歯槽間縁』に “咬ませて” それを手綱で操作する事によって、騎手の操縦意思を馬に伝える、という装置だった。
騎乗馬や馬車馬として人間と関わる時、馬と人間を繋げる焦点となるのがこの『ハミ』であり、それを咥える口(歯茎、それに隣接する歯・舌・口角・口腔)だった、という事実もまた、古代インド人の心象の上に強いインパクトをもって刻まれていた事だろう。
ちなみに、日本語の『ハミ』という言葉は『食む(はむ)』に由来するものらしい。もちろんこれは日本語の語感だが、食むとはすなわち歯で『噛む事』であるというのは、いつの時代の誰にとってもとても分かりやすい事実だろう。
さらに、他のふたつの動物には余りない、馬だけが持つ顕著な歯にまつわる特徴というものがある。
それは、馬という動物が、しばしば歯をむき出してあたかも “笑っている” かのような表情を見せる、という事だ。(Google検索「馬 歯」参照)
www.youtube.com より:上唇をまくり上げて歯をむき出しにする馬
上のビデオの中で女性が馬に向かって「笑顔見せて!」と呼び掛けている様に、馬と言う動物は歯をむき出して「笑う」ような表情をしばしば見せるのだ。
これは発情期の雄馬が見せるフレーメンと呼ばれる上唇をまくり上げる表情に顕著なのだが、日常的な生態においても、馬の口周りというものは実に表情豊かに良く動き、その中でしばしば、歯をむき出して笑う様な顔を見せる。
~以下Wikipedia馬より引用。
牡(オス)馬は歯をむき出しにして、あたかも笑っているような表情を見せることがある。これを「フレーメン」と呼び、ウマだけでなく様々な哺乳類に見られる。このフレーメンによって鼻腔の内側にあるヤコプソン器官(鋤鼻器)と呼ばれるフェロモンを感じる嗅覚器官を空気にさらすことで、発情した牝(メス)馬のフェロモンをよく嗅ぎ取れるようにしている。
さらに人間との関わりにおいては、よく懐いた主人に対してはしばしば最大の愛情表現の一環として、首と顔をすりよせて甘咬みをする、という事だ。
~同Wikipedia馬より引用。
常日頃から愛情を込めて身の回りの世話をしてくれる人物に対しては、絶大の信頼をよせ従順な態度をとる。大切にしてくれたり何時も可愛がってくれる人間の顔を生涯忘れないといわれる。それを物語るつぎのような逸話がある。
日本の五輪史上唯一の馬術での金メダルを取得した西竹一(通称バロン西)の愛馬ウラヌスはその後、1944年に余生を過ごしていた馬事公苑に硫黄島の激戦地へ派遣直前の西が尋ねてきた折、西の足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せて愛咬をしてきたという逸話も伝わる。
このように見てくると、象が大きな鼻と耳の動物であった、というのと同じように顕著な、という意味で、馬というのは『歯の動物』である、と言えるかもしれない。
馬の表情というものをつぶさに動画映像として観察すると、その口周りから鼻周りにおいて、実に表情豊かに良く動く事がわかる。
馬の鼻はほとんど上唇と一体化して動くので、口周り=鼻周りといってもいいだろう。
以前、馬の顕著な『鼻息』について若干触れたが、調べてみると、馬という動物は口では呼吸できず、その優れた運動能力を支える換気量の全てを鼻呼吸だけでまかなっている、という事だった。
その為、競馬で勝ち馬を読む時には「鼻の穴の大きな個体を選べ」、と言われるほど、馬とその鼻というのは、プラクティカルにも強く印象付けられる関係にある、という。
これは現代の競馬の話しだが、おそらく日常的に馬と親しく共生していた古代インド人にとっても、馬と良く動く「鼻とその息」というこの相関もまた、印象的な事実だったと思われるのだ。
話を歯に戻そう。この仏の32相における歯に対するこだわりと、その馬との重ね合わせ。これはもちろん、瞑想実践の具体的な気づきのメソッド及びその作用機序と、密接に関わりを持っている事だったと私は読んでいる。
それは、以前にも軽く触れたが、何よりも、パオ・メソッドの修道実践に見られる四界分別観の瞑想において、明示されているのだ。
パオ・スタイルの四界分別観とはブッダゴーサの “清浄道論” に拠るものであり、『この身体には、ただ地界、水界、火界、風界だけがある』という “真理” を観察する修習を通じて、修行者の心を禅定へと導いていくという。
詳細はパオ・セヤドー「如実知見」PDF:P74の「如何にして四界分別観を修習するか」を読んで欲しいが、かなり煩雑になるのでここでは要点だけを抜粋して引用したい。
身体の中に存在する地界、水界、火界、風界という四界の特徴は、以下のように分類され、観察される。
一、 地界: 硬さ、粗さ、重さ、柔ら、滑らかさ、軽さ
二、 水界: 流動性、粘着性
三、 火界: 熱さ、冷たさ
四、 風界: 支持性、推進性これら四界の12の特性は、以下の順番に、以下の身体の部位 “ポイント” において、観察・修習される。
風界
:推進性 1.頭部中央(呼吸)
2.胸の拡張(呼吸)
3.腹部の動き(呼吸)
4.心臓が動く時の脈拍地界
:堅さ 5.上下の歯を“噛み合わせた”
6.噛み合わせている歯を緩めた歯そのもの:粗さ 7.舌で歯の先端に
8.手でもう一つの腕の皮膚を:重さ 9.両手を重ねて膝の上に
10.頭を前に垂し風界
:支持性 11.直立する身体
地界
:柔らかさ 12.舌を唇の内側に軽く押し当て
:滑らかさ 13.舌を唇の左右に滑らせた
:軽さ 14.指の動き火界
:熱さ 15.全身で体温
:冷たさ 16.息を鼻孔で(呼吸)水界
:流動性 17.唾液が口に
18.血管の中の血流
19.空気が肺に(呼吸)20.熱気が全身に
:粘着性 21.皮膚、筋肉、腱の粘着
22.身体で引力を
この四界分別の瞑想とは、
「この身の内で、硬さまたは粗さは地界である。流動性または粘着性は水界である。遍熟性または温暖性は火界である。推進性または支持性は風界である」
と分別していくもので、要は身体において生じている様々な触覚を観じて、それぞれが地水火風という四つの性質のどれであるか、を分別していくものだ。
おそらくこのような「四界を分別するぞ!」という形に特化した瞑想法はブッダの時代には存在せず、アナパナ・サティにおける呼吸に伴う身体触感に気づく瞑想が全身に対する気づきに広がっていく過程で得られた知見を、わざわざ四界の分別と称して独立させたものだろう。
その詳細には本稿では全く深入りはしない。ただ、そこに「ブッダの時代の瞑想行法のある種のエッセンスが、余韻あるいは残像として見出せるのではないか、という観点から、上の抜粋リストに顕著な、ある傾向について分析的に記述していきたい。
まず、ここに取り上げられた、22か所の身体上のポイントにおいて、歯と舌を中心とした口周りだけで6項目を占めている事実があり、これは明らかに、仏の32相における “歯に対するこだわり”や “広長舌相” 、そして『顔(口)の周りに気づきを留める瞑想実践』との深い相関を示すものだと考えられる。
もうひとつ顕著なのが、『四界分別観』を名乗りながら、“呼吸” に伴う感覚が5項目を占めるという事実だ。これはブッダの瞑想法の基盤にあるのが正に呼吸瞑想であった事の現れだろう。
分かり易くするため、上記1~22までの項目を身体部位という共通項によって並べ替えると、以下のようになる。
首から上の頭部・顔面
1.頭部中央(呼吸)
5.上下の歯を “噛み合わせた”
6.噛み合わせている歯を緩めた歯そのもの
7.舌で歯の先端に
10.頭を前に垂した重さ
12.舌を唇の内側に軽く押し当て
13.舌を唇の左右に滑らせた
16.息を鼻孔で(呼吸)
17.唾液が口に手
8.手でもう一つの腕の皮膚を
9.両手を重ねて膝の上に
14.指の動き上半身
2.胸の拡張(呼吸)
3.腹部の動き(呼吸)
4.心臓が動く時の脈拍
11.直立する身体
19.空気が肺に(呼吸)
全身
(4.心臓が動く時の脈拍)
15.全身で体温
18.血管の中の血流
20.熱気が全身に
21.皮膚、筋肉、腱の粘着
22.身体で引力を(心臓が動く時の脈拍については、心臓に注目するならば上半身だが、拍動自体は全身の特定部位、こめかみ・首筋・手首・足首など、で感じられるので全身でもある)
こうやって見ていくと明らかだが、パオ・メソッドの四界分別観における『気づき』の身体的ポイントは、圧倒的に首から上の頭部顔面に集中している事が良く分かる。
これらのポイントは全て入口の導入部であって、各ポイントにおいて気づきが確立した後に全身に気付きを広げていくらしいが、その導入部として、頭部・顔面、つまり『顔の周り』が顕著に重要である、という事に疑問の余地はない。
中でも、歯や舌を中心に顔面における『口の周り』の重要性が突出したものになっている事は、すでに指摘した通りだ。これに関しては後日、この行法の典拠と思える経典文と共に、より深読みしていきたい。
次に明らかな事実は、『手』の重要性だ。粗さと重さと軽さという『地界』の特性において、手首から先の『手』が3項目並んでいる。
そこでは、首から上の頭部顔面(顔の周り)、手首から先、上半身、全身、という順に、気付きの焦点が遷移・拡散(あるいは逆行すれば収斂)していく様子が見て取れるだろう。
ここで私が思い出したのが、以前にも取り上げたが、脳科学の教科書に必ずと言っていいほど登場する、あの “ペンフィールドのホムンクルス” だった。
キーワードは、“体性感覚” だ。
パオの四界分別観は、人間の身体を地界・水界・火界・風界の四界に分け、それぞれの特性である硬さ、粗さ、重さ、柔ら、滑らかさ、軽さ、流動性、粘着性、熱さ、冷たさ、支持性、推進性などを、身体の特定部位をその入口として観察し、弁別していく。
しかし、四界とその性質云々、などという “理屈” を一旦捨象した上でその心的営為を科学的にとらえれば、それは身体における『体性感覚』に対する『触覚的な気付き』を深める事以外の何物でもない。
そしてこの体性感覚については、科学的にかなりの事が明らかになっており、中でもパオ・メソッドとの重なりにおいて重要な意味を持つのが、ペンフィールドのホムンクルスなのだ。
ワイルダー・ペンフィールドは20世紀前半に活躍したアメリカ生まれのカナダの脳神経外科医で、特にてんかん患者の治療を目的として、多くの脳外科手術の臨床例を重ねた事で知られている。
当時はてんかんを治療するために脳の特定部位を切除する、という手術が一般的に行われていた。しかしその時に、重要な機能に関わる脳部位を破壊してしまったら重篤な障害が残る事が予想される。
そこでペンフィールドは、開頭してむき出しになった患者の脳の様々な部位に微小な電極を挿して微弱な電気を流し、どのような反応が心身に起こるかを確認する作業を行っていった。
道路工事をするのに、埋め込まれた水道管やガス管や電話線の位置が分からないままにやみくもに掘り進めてしまったら、大きな事故が起こりかねない。事前にそれらの位置が分かれば、それを回避して掘り進めることができるだろう。
ペンフィールドはそれを脳において行おうとした訳だ。つまり脳の中の重要な配線図が明らかになれば、重篤な障害の発生を回避して、なおかつてんかんの治療が成り立つような切除部位を、特定する事ができるという読みだった。
このように脳に直接電極を差し込んで行う実験を『侵襲的』といって、人権意識の高まりに伴って現在ではほとんど行われなくなったらしい。だが彼の時代はおそらくそのような意識が低かったのだろう、比較的イージーにこの実験が行われたという事だ。
そのおかげで、現在に至るまで教科書に記述されるような様々な重要な知見がこの実験によってもたらされた。
中でも有名なのが、彼がその著書の中で指摘した、脳の中にはホムンクルスという『小人』がいる、という通俗的な提示だ。
現在では脳の中に “ホムンクルスの小人” がいるという説は否定されているが、しかし、彼によって明らかにされた「脳内には体性感覚・運動感覚の明確なマップが存在する」という事実に関しては、多くの検証によって確認され、その地図の精緻化が進んでいる。
彼は脳の様々な部位に電極を挿し、微弱な電流を流す事によって患者が何を感じ、あるいは患者の体にどんな反応が起こるか、を確認していった。
その結果、ある脳部位では身体の特定部位の『運動』が起こった。あるいはある脳部位では身体の特定部位に『感覚』が生じた。
これらを脳の様々な部位において行って、脳部位と身体部位の詳細な相関関係を記述し、マップ化していったのだ。
そうして出来上がったのが、ペンフィールドの脳内地図、あるいは『ホムンクルスの小人』と言われる有名な図版だ。
私たちの大脳の頭頂葉には、ミニチュアの身体が存在する
上図では、描かれた身体部位の絵柄の大きさが、脳内の占有面積の広さになる
濃い紫が運動野、青が体性感覚野: 慶応大学さんより
ペンフィールド図は是非、拡大して詳細に検分して欲しいのだが、この脳内身体地図においてその占有している面積の広さという点で、顔と手というものが突出している、という事実が認められる。
さらに、この突出している顔と手の脳領域が、お互いに隣接し合っている、という事実も明らかだろう。
上図のイメージを、より分かりやすくビジュアル化したのが、以下の画像になる(ただし、多少の誇張があるかも知れない)。
By Richard Burman:Sensoryは感覚野、Motorは運動野
上のモデルでは、顔面の中でも唇と舌(つまり口)の存在感が際立っている(これは馬の顔で最もよく動く部位でもある)。
こうやって見ると、私たちの身体システムにおいて、首から上の顔面(特に口の周り)と手首から先の手、というものが、感覚・運動野の脳領域において、際立って広い面積を占めている事が理解できるのだ。
面積が広いという事は、触覚の場合はその身体部位に感覚のセンサーが多く分布している、単純化して言えば “敏感である” という事であり、運動の場合は、より細かい精緻な運動ができるように神経が密に分布している、という事を意味する。
舌を使って口の中で器用にサクランボの軸を結んだりする人がいる。また、日本的中小企業のベテラン職人には、金属加工の研磨においてミクロン単位の厚みの違いを手の感覚だけで触知できる名人などがいて、それはコンピュータ制御された機械を遥かに凌駕しているらしい。
ちょっと譬えが両極端だが、このような精緻な込み入った『技』の身体的・神経生理的な基盤となっているのが、この体性感覚・運動野における情報処理の卓越性なのだ。
そうして、これら広大な面積を占める顔と手の触覚と運動領域は、もちろん私たちの『こころ』との相関においても、極めて重要な意味を持っている事が予想できる。
それはひとつには個体発生の、つまり個人存在の成長史との関連だ。これら口周りと手の神経的機能的な優越性の基盤には、人間にとっての原風景である新生児・胎児の時代のファンクションが存在するという事実に気付く。
元々私たち人間の祖先は樹上生活をするサルの仲間だった。樹上の環境下で生まれた赤ちゃんザルがまず最初にやらなければならない事、その能力とは、とにかく母ザルの身体に手足でしがみつく事、そしてその次には唇と舌で乳首に吸いつき母乳を飲む事だった。
これらの特性は樹から降りて地上を二足歩行する人間へと進化しても色濃く残っている。人間の新生児の手のひらを指で刺激すると、反射的に握ってつかもうとする動きを見せる。これは足の裏においても同様だと言いう。
赤ん坊にとって最大の仕事はと言えば、もちろん乳房に吸い付いて母乳を飲む事であるのは、人間が哺乳類である以上数千万年の昔から変わらないだろう。
ちなみに、胎児は妊娠六か月ほどたってある程度身体ができてくると、羊水に浮かびながらそれを飲んだり、指しゃぶりをして唇や舌や頬などの、つまりは口周りの筋肉を鍛える(筋トレ!)と言う。
そして誕生からしばらくの間、2歳くらいまでの赤ん坊は口唇期と呼ばれ、乳首に吸い付き母乳を飲むだけではなく、あらゆるものを口に持って行ってその触覚によって世界を把握しようと試みる。
これらの事実を考えると、特に口の周り、そして手の「感覚・運動神経」と言うものは、人間の心象世界における原風景と、密接な関わりを持っていると言えるかも知れない。
ここでパオ・メソッドの四界分別観に立ち戻ってみよう。
そこでは、身体上の気づきのポイントにおいて、首から上の頭部顔面、中でも口の周り、そして手首から先の手というものが、その焦点として突出していたという事実があった。
ペンフィールドのホムンクルスと、パオ・メソッドの四界分別観の気づきのポイントは、有意に重なり合っている。
さらに言えば、動物の調御において焦点になる “顔の周り” もまた、有意に重なり合っている。それはもちろん、私たちが同じ哺乳動物であり、口を使って飲食し、表情や発声、そして顔を中心とした身体接触によってコミュニケーションをとる群れ動物である、という事の証しでもある。
もちろんそれが「顔(口)の周りに気づきを留めて」というパーリ経典に通底する瞑想ガイダンスと重なり合う事は言うまでもない。
手に関しては、パオメソッドにおいては顔の周り程には重要視されていないかも知れない。しかし他の瞑想行の伝統、たとえばヒンドゥ・ヨーガにおける『ムドラ』やもちろん仏教諸派における法界定印などの『手印』、さらには合掌や五体投地などにおいても、手の操作や運動、それに伴った触覚の生起、というものが広く普遍的に認められるだろう。
同じテーラワーダでは、ルアンポー・ティアン師(日本ではプラユキ・ナラテボー師)が指導するチャルーン・サティなども手の動きと感覚に対する気付きと言える。
(クリスチャンもまた、その祈りにおいて手で十字を切り、手指を組み合わせて “合掌” する)
つまり、テーラワーダ仏教の瞑想においても、その他仏教諸派の様々な身体行においても、ヒンドゥ・ヨーガの行においても、そこには一貫した “原理の普遍” が存在する。
これら様々な宗教セクトは、それぞれに様々な形而上学的な思想を立てドグマを奉じ、それぞれの文脈の中にその瞑想行(もしくは祈り)というものを位置付けている。
しかし、それら人間の頭が紡ぎ出した様々なイデア(ファンタジー)を捨象して事実だけを炙り出していけば、最後に残るのは私たちのこの “普遍的な身体” というものにおける『科学的な真実』ではないのか。
それが私が辿り着いたひとつの理解だ。
もちろん、この “身体” というものの『科学的な真実』については、2500年前の古代インドに生まれ、生きて、瞑想を行じて、悟りを開いたゴータマ・ブッダにおいても、普遍的に当てはまる。
私たちは同じ『身体』と言うシステムを、2500年と言う時を超えて共有しているのだから。
私たちはゴータマ・シッダールタ・ブッダと同じ “身体” をもっている。だからこそ、私たちが彼と同じように坐禅・瞑想をする意味がある。
この点は、「輪廻の大海を渡る」という事が「身体の中にある荒海」を航海する事である、というテーマで書いた時に述べた(その「航海」こそが瞑想実践に他ならない)。
パオ・メソッドの四界分別観の瞑想は、ブッダゴーサの清浄道論に典拠していると言われている(という事は、少なくともブッダゴーサの時代までは瞑想の実践が為されていたのだろうか?)。
しかし、それ以前の大前提として、この四界分別観の瞑想は、私たちの “普遍的な身体” というものの『科学的な真実』に依拠している。
それは仏教諸派の様々な瞑想行にしても、ヒンドゥ・ヨーガにしても、気功にしてもレイキにしても、あるいは仙道にしてもクリスチャンの祈りにしても、さらにはムスリムの礼拝にしても、伝統宗教だろうがニューエイジだろうが、すべては同じ『身体原理』に貫かれている。
(もちろんこの身体とは『心身システム』を意味する)
だからこそ、ラーマ・クリシュナの『全ての神はひとつだ』という金言が成り立ちうるのだ。
その “普遍的な身体” というものの『科学的な真実』とは、より具体的に焦点を絞れば、「脳神経生理学的な作用機序」、と言ってもいいかも知れない。
スマナサーラ長老が言う様に、サマーディというものに関しては仏教の専売特許などではさらさらなく、広く世界中の宗教諸派によって、その浅い深いは別にして、共有されているものだ。
それは、宗教というには余りにもプリミティブな、先住部族民の一見怪しげな『祈祷トランス』レベルに至るまで通底している身体原理だ。
その “身体原理” に関しては、テーラワーダのブッダの瞑想法においても、少なくとも「サマーディの深まり」に関してまでは、共通するものだと私は理解している。
まずはその、“身体原理”、を曇りなく明晰に究明する。
そうする事によって、ブッダの瞑想法の『真実』が私たちの眼の前に自明のものとしてその姿を現し、ひいては様々な宗教諸派の表面的なドグマに根差した「対立」をも乗り超える視程が開ける。
その様に私は期待している。
(本投稿はYahooブログ 2015/1/24記事「瞑想実践の科学 20:馬の印象的な特徴と仏の32相」と2015/2/4記事「瞑想実践の科学 22:脳の中のホムンクルス」を統合の上加筆修正して移転したものです)