仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

古代インドの「毛穴」の話:門戸において、治療し防護する《瞑想実践の科学16》

前回は沙門シッダールタが遂行した激しい断食行の諸相について書いた。この断食行を含む三つの苦行経験があってはじめて、沙門シッダールタは覚りへと至る「道筋」あるいは『方法論』を直観し得た、という流れだった。

この「断食の行法」について記述した章節には様々な情報が盛り込まれていたが、最初に読んだ時に私が注目したのは、実は『毛穴』だった。

パーリ経典を通読してみると、現代日本人の感覚では到底理解不能な、不思議で奇妙な表現と言うのが多々見受けられる。

しかしそのような現代的には不可解な言葉も、古代インド人たるゴータマ・ブッダやその言葉を聞いている弟子サマナ達にとっては、極めて意味明瞭な一貫した流れの話として了解されていたと考えられるのだ。

逆に言うと、私たち現代人から見て意味不明に見える文脈の中に、実は大切な、ブッダの教えの要諦が埋もれてしまっている可能性が高い、とも考えられる。

そのような視点から、私はすでに「広長舌相の謎」「動物の調御の喩え」などについて、深読みを進めてきた。

今回の断食の苦行についての一節の中で、私にとって最も注意を引きつけられた奇妙な部分が、この「毛穴」に関する記述だった。具体的に引用すると、前回すでに赤文字でハイライトしてある以下の部分だ。

「わたしたちが天の栄養をあなたの毛穴から食べさせてあげましょう。それであなたは生命をつなぐでしょう」

「神々が毛穴を通して天の栄養を食べさせ、わたしがそれによって生命をつなぐとしたら」

これは天の神々(Deva,Devata)という神話的な存在を主役とした文脈なので、それ自体、現代人からみて荒唐無稽である、と言うのはある意味当たり前なのだが、その荒唐無稽さの “内容” の中に、古代インド人の世界観、及び心象風景が如実に表れているのだ。

ここでは、天の栄養、という摩訶不思議な、しかし明確にある種の『食物』を、口ではなく『毛穴』から身体の中に流し込んで、それで生命が維持できるのだ、と言う心象が明らかだ。

完全な断食によって沙門ゴータマに死なれては困る神々は、何とか天の栄養を与えて、彼の身体を保ちたい。しかし、天の栄養を口から与えてしまっては、それは普通の食と同じで断食にはならない。そこで、毛穴と言うある種の『裏口』から、密かに天の栄養を摂らせて、身体を養おう、という意図だろう。

問題は、何故、その裏口が『毛穴』だったのか?という点だ。

実に “奇妙な” こだわりだと、自分でも思う。

おそらく、大方の人々は、私がこの様に言うと、

『何をそんな重箱の隅を突っつくような瑣末な、意味のない、神話的な表現に、それほどこだわっているのか?』

と疑問を呈するかも知れない。

私はつくづく思うのだが、今までこのパーリ経典の断食苦行の一節を読んだ事のある人は文字通り五万といる事だろうが、一体、この『毛穴』という一点に注目した人がどれほどいた事だろうか。

例えば、テーラワーダ仏教『学』において、当然の事ながら、この菩提王子経、サンガーラヴァ経、そしてマハー・サッチャカ経において共有されている、沙門シッダールタの苦行のくだりについては熟議されている筈だ。

彼らは果たして、この “毛穴から天の栄養を食べさせる” という奇妙な一文を、どのように受け止めたのだろう。

私の見立てでは、この “毛穴から天の栄養を食べさせる” という文脈の背後にある心象風景の中にこそ、ブッダの瞑想法の、その実践的メソッドの要諦が潜在しているのであり、それは同時に、「五官六官の防護」から五蘊からの遠離」に至る修道の流れにまで直結していると考えられるのだが。

ここで、話を少しく前に戻そう。

そもそも、私のこの『瞑想実践の科学』シリーズの探求は、鼻呼吸のメカニズム から始まり、広長舌相の謎、から呼吸つながりの発見へとつながり、広長舌相とヨーガ の連想から牛、象、馬の調御法比丘の修道との重ね合わせ、へと思索を進めてきたのだが、広長舌相を含むところの『仏の32相』『調御される動物達』には共通する要素、と言えるものが存在する。

それは『毛』に対するこだわりだ。

仏の32相については、象の特徴や馬の特徴との重ね合わせやに対するこだわり、と言う視点から、すでに取り上げているが、に対する奇妙なこだわり、と言うものも同時に見て取れるのだ。

以下にWikipedia「仏の32相」ページから引用する。

12. 上向相(もうじょうこうそう)
体の全てのの先端が全て上になびき、右に巻いて、しかも紺青色を呈し柔軟である。

13. 一一孔一毛相(いちいちくいちもうそう)
身体の毛穴にはすべて一毛を生じ、その毛孔から微妙の香気を出し、の色は青瑠璃色である。

30. 牛眼瀟睫相(ぎゅうごんしょうそう)
が長く整っていて乱れず牛王のようである。

31. 頂髻相(ちょうけいそう)
頭の頂の肉が隆起して(もとどり)の形を成している。肉髻(にくけい)。

32. 白毫相(びゃくごうそう)
眉間に右巻きの白毛があり、光明を放つ。伸びると一丈五尺ある。

31の頂髻相については、肉の隆起、と言う事で直接髪の毛ではないが、髻(もとどり、まげ)、と言う事で加えてある。日本の仏像におけるいわゆる『大仏さんヘアー(螺髪)』にもあるように「髪の毛」に関するこだわりは明らかだろう。

以上を見ると、32項目の内4あるいは5項目がに関連する項目である、と言うのは、決して少ない数ではない。

そして、仏の32相にも見られる動物との重ね合わせ。これは動物の調御の喩えにもつながる話だが、動物と言えば「けもの」すなわち「毛もの」である、という事実は、古代インド人にとってもそして現代人にとっても、明らかな事実だろう。

さらにパーリ仏典をひもとくと、随所に次のような表現が現れる。

それは「身の毛がよだつ」「身の毛が伏せる」という文言だ。この点に関しては、いずれ詳述する機会もあるかと思うので、今回はざっと触れる。

パーリ経典において、身の毛がよだつ、という表現は、ブッダの説法を聞いて感動した時など、ポジティブな文脈で使われる場合もあるし、恐怖や動顛など、ネガティブな文脈で使われる事もあるが、一般的には、恐怖などネガティブな情動において使われる事が多い。

ここで言うネガティブな文脈とは、よく調御されていない比丘や外道のサマナ達が、恐怖などの情動によって動顛する時に身の毛がよだつ、という事だ。つまり身の毛がよだつという生理現象が、修道レベルの低さ、を象徴している。

一方で、身の毛が伏せる、と言う表現は、実は、瞑想実践が深まって心が安らいでいく、そのプロセスもしくは結果を、「身の毛が伏せて心が(身体が)静まった」という様な文脈で用いられているのだ。

身の毛がよだち、伏せる、と言う身体生理現象が、直接的に心のありようや修道の進み具合と重ね合わされて認識されている。

心のあり様(波立ち)と、身の毛のよだち、が深く関連している事は、現代人である私たちにも容易に理解できるだろう。

では振り返って考えてみて欲しい。私たちは鳥肌を立てて感動したり、恐怖したりしている時に、その鳥肌が立っている事実を、まず第一にはどのようにして知覚・認識しているだろうか。

それは、肌の上を一陣の微細なさざ波が走るような、そんな「触覚」によって、身の毛がよだつ、と言う状況が把握されてはいないだろうか。

つまり、身の毛がよだつ、と言う時に焦点になる感覚とは『触覚』であり、それは身体の全面に分布している体毛→毛穴→「触覚」器官という重ね合わせによって、おそらくは古代インド人によって認識されていた、と言う事だ(おそらくは毛穴=汗腺)。

この点に関しては、以前、詳細に論じている。

世界に四頭の駿馬がいる。

第一の駿馬は、鞭の影を見ると驚怖し、調馬師が私に何をしようとするのか、私は彼にどう対処すればいいのか、とその事態を知る。

第二の駿馬は鞭の影を見ても驚怖せず、鞭が毛穴に入ると驚怖し、その事態を知る。

第三の駿馬は、鞭の影を見ても、鞭が毛穴に入っても驚怖せず、皮に入ると驚怖し、その事態を知る。

第三の駿馬は、鞭の影を見ても、鞭が毛穴に入っても、皮に入っても驚怖せず、骨に入ると驚怖し、その事態を知る。

大法輪閣刊「パーリ仏典入門」片山一良著P232より 

では何故、その様な触覚器官であるところの毛穴を通して、天の栄養が食される、と言うイメージが成立し得るのだろうか。

それは、「触」覚器官(身)であるところの毛穴が、眼耳鼻舌という四官と並んで、身体(五蘊の集成体)と言う『城砦都市』あるいは『家屋』において、不善なる欲(煩悩)が漏れ入る所の『門戸』だからなのだ。

つまり、同じように身体という家屋において外界に向かって開かれ食の通り道になる、という門戸との重ね合わせがあって初めて、毛穴を通して天の栄養を食する、と言う心象が成り立ちえる訳だ。

これについては、先に紹介した「ラリタヴィスタラ」の中にも、非常に興味深い記述が存在する。

彼らの毛孔から、心に届くが出る。P266

彼らの毛孔から発する何十万というスートラ(経典)の集積を唱えながら到着した。P267

マーヤー・デーヴィーはこれを聞くにつれて、毛孔喜びに震えるのを感じた。P228

~以上、東方出版刊「ラリタヴィスタラ」溝口史郎訳より

ここでは、毛穴という全の皮膚表面に空いた小さなが、を発するという門戸と重ね合わされ、同時に、喜びという情動と重ね合わされている事が明らかだろう。

ここで思い出して欲しいのが、上の「煩悩の水辺に繁茂するもの」で指摘した、感覚器官と体毛との重なりだ。

眼の周りの睫毛・眉毛、鼻毛、口ひげ、耳毛(インド親父を見よ!)、など、四官の周りは顕著な体毛によって縁どられている。

さらに、触覚の器官であるところの毛(穴)の中でも、性愛の喜びその煩悩の器官であるところの脇の下や下腹部には顕著な体毛(性毛)が生えている。それは第二次性徴として、正に性愛の煩悩目覚め同時進行的に、その印として萌えいずるものである。

毛穴という一言の背後には、以上のように、実に様々な心象風景が潜在しているのだ。

当然ながら、毛穴という煩悩の門戸から天の栄養という欲楽を享受して、何が『断食の苦行』に成りえるのか、という話にならざるを得ない。何故なら苦行とは、ひとつには『断・欲楽を意味するからだ。

ここで、もう一度、今回の断食の苦行の文脈に立ち返って見て欲しい。完全な断食を発想した沙門シッダールタに対して、毛穴から食を摂らせようと提案したのは天界の神々であり、その食とは『天の栄養』だった。

仏教における天界は大きく、欲に支配された六欲天欲から脱した色界無色界の三界に分けられている。

これは私の読み筋だが、この完全断食を志したシッダールタに天の栄養を注ぎ込もうと提案した神々とは、おそらくは六欲天の神々であった。つまり神々の中でも、程度の低い、俗人に近い感覚的な欲楽を享受する者たちだった。

そんな彼らから天の栄養を与えられその欲楽を享受してしまっては、決して人法を超えた最勝智見などという瞑想の極みに到達できるはずがないし、“天人師”(Satthā devamanussānaṃ )になどなれるはずもない。

(ここでの『神々』の役回りは、ある意味『マーラ』に近いかも知れない。試験に落ちたら元も子もないからカンニングしなさい、という、言わば “ズル” を勧めているのだから)

 

このような「身体に開いた門戸」の心象風景の流れが、やがて五官六官の防護から五蘊からの遠離』さらには『一切世界の滅』へとつながる修道の流れと直結して来る。 

この『毛穴』にまつわる事柄に関して、もうひとつ重要な視点がある。それは、古代インド医術との関わりだ。

そもそもブッダは伝統的に、『苦』という病を治す『医王』と称されてきた。これは、大乗、小乗(部派)を問わずにブッダに対する普遍的な評価だろう。

中村元博士なども指摘している事だが、四聖諦における「苦がある、苦には原因がある、苦は滅する、苦を滅する道がある」という思考法は、古代インド医学のそれに範を求める事ができる。

このインド医学との関連から、『毛穴から栄養を食する』という心象について、続いて見ていきたい。

私は、本ブログ上では余りアピールはしないが、この『Yahooブログ「脳と心とブッダの覚り」』から仏道修行のゼロポイント』へと続く知的探求を始める前は、インド武術というものを研究していた。

インド武術にも様々なものがあるのだが、中でも、古典的な武術体系を総体として見事に保存しているものとして、南インドケララ州において継承されている、カラリパヤットという武術が私の中心テーマのひとつだった。

その顕著な特徴は、敵を制し破壊する『武術』と、傷病を治療し快癒させる『療術』が、車の両輪の様に併修されている事だろう。

これは日本の柔道整復師を考えると分かりやすいかも知れない。戦場において敵と戦う時、優れた武の力によって敵を倒すという側面だけではなく、当然の事ながら、敵の攻撃を受けて傷つく、という側面も無視できない。

その様な傷病兵を治療し回復させる、という技術もまた、ある種の必須戦力の一環として、発達してきたのだ。

たとえ戦士が負傷しても、軽傷であれば応急処置を施して速やかに前線に送り返し、また重症者は、最善の努力を費やして助けられる者は助け、回復させなければならない。

傷病者が王であればなおの事、その治療は最優先の至上命題となる。

その結果、主に戦士階級であるクシャトリアの社会において、外科医学を中心とした医術・療術が発達したのは自然の成り行きだった。

この点は、今後「シッダールタと外科医学」というテーマで深掘りしたい所だが、

外科を意味する原語のSalyaは元々鏃(矢じり)を意味し、身体に入った異物(例えば戦士が受けた矢じり)をメス(矢じりの様な)で摘出する手術から始まった。

という事の様だ。

そのような、武と外科医術の統合された姿が、現代の南インドにおいてカラリパヤットの体系として保存されている。しかし、そこで見られるインド療術は、血を穢れとするバラモン階級を経由して継承されたために、外科手術の術技は失われてしまっていた。

そこで外科手術の替わりにカラリ療術の中心に成ったのが、オイルやハーブ・エッセンスを体表に塗布したり身体各部に適用する療術だった。

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カラリパヤットの稽古前に行われるオイル・マッサージ

上写真はセルフ・アビヤンガと呼ばれるオイル・マッサージで、稽古の前にごま油を全身に馴染ませる事によって、様々なメリットがあると考えられている。

この薬効成分を含むオイルを外用塗布するトリートメントは、武術とは切り離された一般的なインド古典療術であるアーユルヴェーダにおいても重視されており、アーユルヴェーダと武術療術は相互に深く影響しあいながら、現代に至るまで脈々と継承されてきたのだろう。

そして、現代アーユルヴェーダやインド武医術、あるいはヨーガ療術の原像とも言えるような様々な治療法が、2500年前のブッダの時代にもすでに存在していた事が、パーリ経典の記述によって確認できる。

ここで読者の方に考えて欲しい事がある。

インド医術において、あるいは、医術全般においてでも構わないが、薬液や薬用オイル、あるいは薬そのものを人体に作用させるために、それらを “どうやって” 人体の “どこにおいて” 服用させるだろうか?

一番分かりやすいのは、から飲ませて服用させる、という事だろう。私たちが “服用” するほとんどの薬は、口から飲んで、体内に入り作用する。

何故なら、口というものが、身体というシステムにおいて、外界に向かって開かれた最大かつ最重要の “門戸” だからだ。そこからはが入りが入り空気が入り、そして同じように、も入りこむ。当たり前の話だ。

では次に重要な “入り口” あるいは『門戸』は何処だろうか?

上に掲載したオイル・マッサージを思い出して欲しい。そこでは伝統的に「薬効成分が毛穴を通じて全身に吸収される」と言い慣わされている。

そう、インドの伝統医術において、あるいは現代医学においてもそうだろうが、毛穴という体表において外界に向かって開かれた “穴” は、薬効成分が体内に吸収される重要な “入り口” である、という事だ。

この、インド医学的な観点から見て、薬効成分が服用される(食される)入り口、という一点において、口と毛穴は重なり合っている、という事がよく分かると思う。

もちろん、この重なり合いこそが、

「天の栄養をあなたの毛穴から食べさせてあげましょう」

という言葉の背後にある、もうひとつの心象風景になる。

更に面白い事実がある。

すでに登場した口と毛穴の他に、インド伝統医学において薬効成分が服用されるその “身体部位” として重要なのはどこだろうか?

それは、だ。そしてその療法は、上に指摘した通り、2500年前のブッダの時代にすでに実践されていた事がパーリ経典において明記されている(長部経典第五経「クータダンタ・スッタ」など)

にオイルをさす事、薬液の点、点、という療術が、それらを含めた身体各部の “洗浄” と共に、おそらくはブッダの時代にすでに行われていた事が確認(推測)できるのだ。

さて、勘のいい方はすでにお分かりの事と思うが、これら、医術において薬効成分が服用されるその入口となる身体部位、すなわち、口、皮膚の毛穴、耳、眼、鼻、という五つの場所は、そのまま、五官と重なり合う

味のであり、毛穴触のであり、は声は色は香であり、それぞれが感官の門と呼ばれ、それぞれの感覚刺激『入り口』となっている。これは偶然なのだろうか?

もちろん、これは偶然ではなく必然だ。何故なら、感覚器官とは、身体の表面において外界に向かって開かれている門戸であり、“物質” つまりルーパ(色)である色声香味触触れ込む入り口なのだから。

(この点は、スマナサーラ長老が「ブッダの実践心理学」の中で詳述している)

薬効成分というものも同じルーパ、すなわち物質だから、身体の中に入るためには、物理的・構造的な入り口、つまり “穴(門戸)” が必要になる。

その穴が、正に五官の情報が入り込む『穴』として存在している。それを活用する、というのはごく自然な流れだ。

もちろん、口から服用した薬が舌において吸収される訳ではなく、点眼薬が瞳孔から、点鼻薬が嗅細胞から、点耳薬が聴覚神経から吸収される訳ではないかも知れない。

しかしこの “穴つながり・門戸つながり” の事実が、古代インド人の心象風景における “重ね合わせ” の世界認識において、特に仏教という文脈において、極めて重要な意味を持っていた、そう考えられるのだ。

ここでもう一度私たちの日常感覚を振り返って見て欲しい。例えば、最も身近な風邪をひいた時に、あるいは花粉症をこじらせた時に、どのような症状が出るだろうか?

喉つまりの奥が痛い、が詰まる、の聞こえがおかしくなる、顔面頭部全体が熱っぽくなり涙になる。

なぜ、これらの症状が出るのかというと、これら口や眼や鼻や耳が外界に向かって開かれた扉(入り口=門戸)であり(同時にそれらは内部的につながっている)、その扉から毒となる物質やバイ菌などが入れば、扉周辺自体が真っ先に感染し、悪影響を受けるからだ。

逆に言うと、これら入り口には、毒やバイ菌の侵入を防護するシステムも当然備わっている。

これは現代医学的な見方だが、口には唾液があり、鼻には鼻水があり、眼には涙があり、耳には耳垢がある。これらは免疫・防御システムであり、同時に洗浄システムでもある。

外界に向かって開かれた扉(門戸)というものは、外敵に対した時ある種の決定的な弱点だから、生体システムとしては当然の事ながら、その扉において、防護を固める』事になる。

(私たちが家の防犯において鍵をかけるのは、ドアであって、決して屋根ではない)

この様な免疫、という考え方を古代インド療術が持ち合わせていたかは分からないが、ひとつ言える事があって、それは、害毒が入りやすい扉防護すべき扉であり、同時に、薬を入れる扉でもある、という “関係性” を、古代インド人も明確に認識していたという事だ。

毒が入りやすい扉があれば、その同じ扉において薬を服用させて治療する(私たちがうがい薬を使ったり目薬を使うように)

実はこれは、唐突に聞えるかも知れないが、有名な毒矢の喩えについても言える事だ。

毒矢が刺さったら、その時、手当てをすべき場所(焦点)は何処だろうか? 聞くのも馬鹿らしいほどの分かり切った愚問だ。

それは当然の事ながら、正にその毒矢が刺さっている『傷口』において、探り針が用いられ、刃物(メス)が用いられてが取り出され、矢が刺さっていた傷口の穴が洗浄され、その傷口において薬液が塗布され、包帯が巻かれ、防護される(中部経典第105経:スナッカッタ経など参照

ここでは、矢によって破壊的に作られた “傷口” こそが、外界に向かって開かれてしまった “門戸” になる。

その門戸からは血が流れ出て、逆に毒やバイ菌は入り込み、同時に激痛という “感受” が生起する。暴力的に無理やり作られた、という点を除けば、その様相五官の門と全く重なり合う。

逆に言うと、五官の門とは、常に感覚刺激の矢が刺さり続ける、傷口』でもある(!)

傷病の現場と治療の現場は、“患部” として同一である。実に当たり前の話だ。しかし、この当たり前の事実の中にこそ、深い真理がある

何故、私がこの点をくどくどと強調せずにはいられないかというと、このような「傷病と治療」における “因果的関係性の認識” こそが、実は仏道修行の中心となるブッダの瞑想法の、その “作用機序” を、根底において支えている世界観(論理)そのものとも言えるからだ。

それは同時に「十二支縁起」における「苦の因果の連鎖」 ‟断ち切る”『急所』が、正にこの『五官六官の門の防護』にある、という事を意味するのだが、この点についてはいずれ詳述する予定なので、興味のある方は、是非ともここで記憶しておいて欲しい。

説明しなければならない読み筋が次々と枝別れ的に出てくるので割り込んでしまったが、次回は本論の流れである「病者アナータピンディカの物語」に戻って考察していく。

 

(本投稿は、Yahooブログ 2015/3/21「瞑想実践の科学 28:『断食の苦行』の諸相」、2015/3/28「瞑想実践の科学 29:門戸において、治療し防護する」を統合し加筆修正の上移転したものです)

 

 

 


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