仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

『核心』としての「Kha」すなわち「空処」《瞑想実践の科学23》

ブッダの瞑想法の原像を復元するに際して、もっとも重要であると考えられるパーリ経典の文言は、

parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā
顔(口)の周りに、気付き(サティ)を、とどめて

というものであり、中でも気づき(サティ)のポイントを明示するものとしてparimukhaṃがその焦点となる。

そしてpariは “周り” を意味し、muは牛が「モ~」と啼くその擬声語に由来し、mukhaという単語の原風景とは、牛がモ~と啼く、その鳴き声を発するところの鼻づら・口吻であった。

そして、parimukhamの中の最後に残されたkhaの語意について、先の投稿終盤に詳しく見ていった。

そこではまず最初に、以前の投稿「スカとドゥッカの原風景」記事 から引用しつつ、mukhaというブッダの瞑想法においてその気づきのポイントを指し示す重要な単語は、同じように仏教において極めて重要な意味を持つ、sukhaとdukkha(Sk : duhkha)という二つの単語と、“kha”という音節を共有していた事実を指摘した。

ではその“kha”という音節は具体的に何を意味していたのか、と言う事で、モニエル・ウィリアムスのサンスクリット辞典P334 “Kha” より引用したのが以下になる。

これはすこぶる重要な所なので、繰り返しになるがもう一度確認してみよう。

“kha”の意味

a cavity,
1.空洞、うろ
2.[解剖学] 腔(こう)
★mouth cavity で口腔を意味する。その他、鼻腔・耳腔・体腔など。

hollow,
1.うつろの、中空の
★a hollow tube で中空のチューブを意味する。

cave, cavern,
1.洞穴(ほらあな)、洞窟。

aperture,
1.開き口、穴、隙間、窓
ラテン語で“an opening”(開口部)の意味。

aperture of the human body (of which there are nine, the mouth, the two ears, the two eyes, the two nostrils, and the organ of excretion and generation)

人間の身体に空いた穴、戸口、開口部。ヴェーダウパニシャッド時代以来、伝統的に口腔両耳腔両眼窩両鼻腔(以上顔面の七つ)、排泄腔(肛門)、生殖腔(尿道・膣腔)の九つの穴をもって、nava dvara、つまり『身体の九つの門戸』と言い慣わしてきた。

hence an organ of sense
よって、そこより情報や物質が出入り(感受)する、感覚器官(の穴・開口部:門戸)を意味する。

in anatomy : glottis
解剖学では、声門(Glottis)を意味する。
glottisの原意はギリシャ語の舌。発声・発話に関わる器官

the hole made by an arrow, wound,
矢が刺さった穴、それによってできた傷口

the hole in the nave of wheel through which the axis runs,
車輪のハブの中心に空いた軸穴。そこに車軸が貫入する事によって車輪の回転運動を支える穴(空処)。

vacuity
空虚、真空。

empty space
何もない空間、空処虚空ヴェーダでいうアーカーシャ(Akasha)

air
空気、大気、風。

ehter
いわゆる “エーテル”。

sky
空(そら)、天空。ヴェーダでいうアーカーシャ(Akasha)

heaven
天界

Brahma(the Supreme spirit)
ブラフマン、超越者、真我(アートマンと対応する大我大宇宙の根本原理

happiness (a meaning derived from su-kha and duh-kha)
幸福。スカやドゥッカに由来する意味。

a fountain, well,
噴水、井戸。大地より水の湧き出る穴。★これは人体の各門戸が涙・鼻水・唾液・尿・精液などの水を排出する事に重なる。

今回、タイトルに明示したように、この “Kha” という語こそが、仏教を含めた全インド思想の言わば “核心” を指し示している、と私は考えている。

これは私自身大いに驚いたのだが、振り返ってみれば、これまで私が本ブログで展開してきた論旨のほとんどが、この “Kha” という言葉と深い関わりを持ち、それによって貫徹されていた。

その事に立ち入る前に、まずはこの “Kha” すなわち “空処” と言うものが、一体何ものであるのか、という点から考えていきたいと思う。

ひとつのコップを思い浮かべて見て欲しい。理想を言えば是非、実際にひとつのコップ(カップ、グラス、etc.)を目の前に置いて、以下の記事を読んでもらえれば嬉しい。

f:id:Parashraama:20200204202200j:plain

Amazon.co.jpより

まずは空のコップ、つまり中身が入っていないコップを観る。

そして考える。一体、このコップの “本質” とは何だろうか?、と。

次に、この空のコップを、普段使用しているように使ってみる。コップとは何のためにあるものだろうか?

そう、水やコーヒーやジュースなど、飲むための液体を入れる容器、それがコップと言うものの機能だから、そのような液体をコップの中に注いでいく。

注ぎ終わったならば、水なら水で八分ほど満たされたコップを前にして考えてみる。

何故、私たちはコップに水をそそぎ入れる事が出来るのだろうか、と。

あるいは、何故、水はコップの中に “侵入する(入り込む)” 事ができるのか、と。

今この記事を書いている私の目の前には、ずん胴な円柱形のガラス・コップが置いてある。

もし仮に、大きさや形は寸分変わらない円柱形の、しかし単なるガラスの塊がそこにあったとして、そのガラス塊のてっぺんのガラス面に水を注いで、その水がそのガラス塊の “中に” 入り込む事が出来るだろうか?

もちろん、水はどこにも入ることなく、周囲にこぼれ溢れるだけだろう。

では、この水を湛える事が出来るコップと、それが出来ない単なるガラス塊の、本質的な違いとは一体何だろうか?

それがすなわち、“Kha” という事、つまり “空処” もしくは “空間(Empty Space)性” 、と言う事なのだ。

試しに研削マシンで円柱形のガラス塊の内部を、まあるく深くくりぬいてみる。その瞬間、そこには空処・空間、つまりは “スペース” が生まれ、そのスペースの存在によって単なるガラス塊はコップと言う “容器” としての機能を獲得する。

コップにはその内部に “スペース”、すなわち “Kha” が存在する。だからこそ、そのスペースに水は入り込む事が出来る。

ガラスのコップは何よりも物質的なガラスの実体として目の前にある。しかし、このコップの本質とは、目に見える手で持つことのできるガラスの実体にあるのではなく、実は目にも見えず手で触る事も出来ない、内部空間、すなわち空処スペースとしての “Kha” にこそある

この “Kha” こそがコップという機能体の “本質” であり “核心” であり、“真の実体” なのだ。まずはこの “真理” を、深く理解しておく必要がある。

(もちろんガラス壁で「囲まれて」いなければ水を保つ事はできない、と言うのも真理だ)

これは実は、前回紹介したブラフマン都城についても全く事が言える。

チャーンドグヤ・ウパニシャッド第八章第一節

「さてこのブラフマン都城(身体の比喩的表現)の中に、小さな白蓮華家屋(心臓)があり、その中に小さな空間がある。その中に存在するものこそ人の探求すべきものであり、実に認識しようとされるべきものである。

原典訳ウパニシャッド 岩本裕ちくま学芸文庫 P168より

人間の身体には九つの門が「開いて(開口部=Kha)」いて、その中に空処(Kha)が奥行きを持って広がっており、様々な脈管(Hollow Tube=Kha)によってつながり、所々に様々な空処=スペースを持っている。

だからこそ、そこにブラフマンアートマン住まう事ができるのだ。

今私は、この “Kha” という言葉を英語でSpace(スペース)と表現してきた。これは私が勝手に言っているのではなく、先に辞書から引用したように、文字通りの字義として “Kha” とは “Space” だからだ。

この英語のスペース、例えば部屋の収納に悩んで「スペースが足りない」などという使い方もするが、同時にこれは、スペース・シャトルなどで馴染みがあるように、『宇宙空間』を意味する言葉でもある。

宇宙空間と言う『スペース』あるいは『虚空』があるからこそ、太陽などの恒星をはじめ私たちが住むこの地球も存在できる。

太陽や地球などは立体的な三次元的な存在物だから、その容れ物としてのスペースも当然三次元的な立体的な『奥行き』を持ったものになる(宇宙空間はビッグ・バン以来、三次元的に膨張し続けている!)

ガラスのコップでいえば、円柱形のガラス塊のてっぺんのガラス面を、0.1mmだけ削ってみても、コップとしての機能は生まれない。コップとしての機能をまっとうする為には、ガラス柱を一定以上掘り下げた、立体的な奥行きを持った充分な “Empty Space=からっぽの空間・空処”(すなわち“Kha”)がなければならないのだ。

このようなスペースという英単語の意味運用は、同時に “Kha” というインド語においてもほぼあてはまるものだ。

それは “Kha” 同義語であるアーカーシャ(आकाश, Ākāśa, Akasha)と言う単語を並列的に見ていけば明らかな事だろう。

アーカーシャサンスクリット語: आकाश、Ākāśa、独: Akasha、アカシャ、阿迦奢)は、インドで「虚空」「空間」「天空」を意味する言葉であり、インドの五大のひとつである。

「空」と訳されることも多いが、仏教用語の「空」には「アーカーシャ」と「シューニャ」(サンスクリット語: शून्य, śūnya)の両方があり、両者は原語も意味もまったく異なるので厳重に注意が必要である。

インド哲学の用語としては「虚空」と訳されることもある。

またはウパニシャッドにおいてはアートマンとされたが、ヤージュニャヴァルキヤは「風」・「空間」・「ガンダルヴァ」・「太陽」・「月」・「星」・「神」・「インドラ」・「プラジャーパティ」・「ブラフマン」を包摂するもの、すなわち存在の一切を統括する法則とした。

Wikipediaより

そこで本題に戻る。

以上、コップや宇宙空間について考えた事柄ブラフマン都城を含め)は、全て “Kha” を含むところの “Mukha” という語、さらにその “Mukha” を含むところの “Parimukham” という単語の意味するところ、

さらには “Parimukham” という単語を含む、

parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā

顔(口)の周りに、思念(サティ)を、とどめて

というブッダの瞑想法の最重要ガイダンスである文脈の、その真義を正確に理解する為に必要な前提となる、と私は考えている。

私は先に、『コップと言うものの本質とは一体何だろうか?』という設問を立て、その答えを明示した。

では次に、同じように “Mukha” すなわち “口(くち=Mouth)“ と言うものの本質とは一体何だろうか、と考えてみて欲しい。

できれば、鏡の前に立って、のどの奥が覗けるくらい口を大きく開けて、その大きく開けた「口」というものの実体を見つめながら考えてみよう。

『 “口” と言う “構造機能体(器官)” の、本質とは一体何だろうか?』と。

表意文字と言うものは面白いもので、この “口” という漢字一字の中に真実が表象されている)

“Mukha” すなわち “口(くち=Mouth)“ と言うものの本質が分かってはじめて、『口と顔』がインド語では同じひとつの “Mukha” という言葉によって表される事の真意が分かる。

それは同時に“Parimukham”という言葉によってブッダが表そうとした、その真義を明らかにする事につながるのだ。

そして、“Parimukham”という言葉の真義が明らかになってはじめて、私たちはブッダの瞑想行法における、

parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā
口(顔)の周りに、気付き(サティ)を、とどめて

という “営為” もしくは ”作業” が持つ真の意味と、それによって起動する “作用機序” を正確に把握する事が出来るようになる。

MukhaのKhaが持つ心象。その本質は端的に言って「開口(Open)性」と「内部奥行き(Space)性」だ。このふたつが両立して初めて意味を持つ事は、コップの喩えからも明らかだろう。

これは前回指摘した頭蓋の『洞窟(Guha)性』が正にそれにあたる。

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再掲:頭蓋とはまさに「空洞=Kha」の集合体だ

内部に奥行きがなければ「開いている」事の意味が成立しないし、内部に空間(スペース)があったとしても「開いて」いなければこれもまた意味がない。

(逆に言うと、これを無化する為には塞ぎ閉じればよい!

口や鼻もまた、内部に奥行きがあって食道から胃、腸に至る空間(チューブ)、あるいは気道から肺胞というチューブや袋につながっているからこそ、意味を成し機能する事ができる。

この点は、正に前回取り扱った「Guha=洞窟」そのものだ。岩山に内部奥行きが開いてあるからこそ、それを『洞窟』と呼びそのに住する事もできる。洞窟の本質とは「開口した内部奥行き性」にある。

この様な「Kha」の本質であり口や顔(Mukhaの本質である「開いて奥行きがある事」を十分に意識した上でブッダが弟子たちに

parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā
口(顔)の周りに、気付き(サティ)を、とどめて

と指導していたと想定した場合、そこでParimukhamつまり「顔(口)の周り」と言っているその「周り」とは『奥行きを持った内部空間まわり』をも含意している、という可能性を無視する事はできないだろう。

Pariという語の意味は単純に「まわり」であって、そこには「外まわり」とか「中まわり」という限定は一切存在しない言語学者ではないので断言はできないが)

少なくとも鼻腔から唇周りだけを表面的に切り取ってそれを『口』の全てである、という事はできないだろう。にしてもにしてもそれは奥行きのある機能構造体なのだから。

つまり、呼吸に気付く時、ゴエンカジーが定めた様にその気づきを「鼻腔のヘリから上唇にかけての外周りに限定する根拠はない。

この「内部的な気づき」に関しては、特定スクールの特定の文脈では様々な理由を付けて「避けるべき」とされているらしい事もある程度承知している。

しかし以前に論じた「歯と舌の行法」とのからみにおいても、そして何より「脳神経生理学的機序」という観点からも、この「内部的な気づき」と言うものは論理的に極めて整合性が高い読み筋なのだ。

ここで「門衛の譬え」に立ち帰ってみれば、確かに城砦都市の門の警固に立つ門衛がワッチするのは「外から中に入って来る者・物」だが、それらが目の届く「門内」で起こす挙動に全く無関心でいてその職務が成り立つだろうか?

つまり、門衛がその仕事を真に全うする為には、門から入るものがその門内でまずどのような挙動をするのかを、しばらくの間は「目で追って観察して」確認する、と言うのが『実務』としては当然の『すじ』だろう。

そいつの正体いまいち不明ならなおの事、目の届く限り最後まで追いかけて、その挙動注視するはずだ。

この点は、そもそも何故、沙門シッダールタが「アナパナ・サティ」という呼吸に気付く瞑想システム想到し得たのか、という事とも深く関って来る。

その原点(ゼロポイント)に思いを馳せ、仮想上自らそこに立ってする事によって初めて、その深淵な機序が自ずから明らかになって来るだろう。

そこで最も重要なポイントは、「その時点で、彼、沙門シッダールタは、未だ悟りを開いてなかったと言う事実だ。

多くの人々がこの真実を「華麗にスルー」してしまっているので私はいつも「ワジワジ」して仕方がないのだが、一体、

「何故(どうして)、未だ悟りを開いていないシッダールタが、「悟りに至る瞑想法」『的確に』構築する事ができたのか?」

誰も不思議に思わないのだろうか。

そのの核心部分には、様々な意味輻輳するところの『Kha』が、横たわっていたのだ。

これまで見て来た様に、シッダールタが菩提樹下で結果禅定し悟りを開く前に三つの苦行に邁進していた事は、複数の典籍に記されている。

それは「歯と舌の行法」であり「止息の苦行」であり、「断食(極小食)の苦行」だった。その記述は定型化され詳細を極めたもので、何らかの明確な『意図』の下に編纂された可能性が高い。

私はこれら投稿の中で、三つの苦行に共通する『キーワード』「口(顔)の周り=Parimukham」である、と書いた。

歯と舌の行法は正に口の内部で行われ、止息「口と鼻と耳からの呼吸を止める」として『顔の周り』で行われ、断食もまた、正に「口からの摂食の制限」に他ならない。

そこには通底する理念がある。それはつまり、

口であり顔である「Mukha」『Kha』から、何かが入って来ることを防ぐ

という事なのだ。

この三つの苦行「門衛の譬え」になぞらえれば、それは『門を完全に閉めてしまう』事に相当する。

この事はまさしく「歯と舌の行法」、つまり「歯を噛み合わせ舌を上顎につける」という営為によって見事に体現されていると言えるだろう。

(これらの「行」が為される時、可能な限り『眼』も閉ざされていただろう。眼には瞼と言う簡易なシャッターがある)

門外の情勢が著しく不穏な時に門内のセキュリティに万全を期そうとすれば、それは門戸を完全に閉ざす、という事が極めて合理的な判断なのだ新型肺炎が蔓延する2020年2月現在、国家が行っている事が正にこれに相当する)

しかし話はそれだけで終わらない。門衛がその門戸に立って警護し、そこにおいて不審者・物の侵入を防ぐ時、そこには当然『至上とする目的』が存在するはずだからだ。

城塞都市の門衛が仕え、究極的に守らなければならないその『主体』とは、いったい何者だろうか?

その答えは、既に本ブログ上で繰り返し明示されている。

(本投稿はYahooブログ 2015/9/22「瞑想実践の科学 43:『核心』としての“kha”すなわち“空処”」を加筆修正の上移転したものです)

 

 本ブログの記事は、連載シリーズになっています。
単独の記事を読んだだけでは何一つ理解できないので、
シリーズの第一回から遡って読む事をお勧めします

 


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