仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

『Virya=エナジー』から見た世界の諸相と「地水火風」《31》

バラモン教の不法な動物犠牲を伴った『外なる祭祀』に対する、批判的代替として提示された『内的な祭祀』としての比丘サマナの苦行や瞑想行。そのような視点で、ここまで考察してきた。

その流れで、前回投稿の最後には、

そこで最初に焦点になるのは、『内なる火の祭祀=タパス』と ‟Virya” すなわち ‟エナジー” のセットだ。それが外であれ内であれ、火の祭祀が行われるのならエナジー(燃料)は必須となる。

と私は書いた。

そこで今回はまず最初に、『火の祭祀の内部化』においてキーワードとなるこの《Virya / Viriya=Energy》、という言葉について考えてみたい。

エナジー、これは私たちの日常的な日本語ではエネルギーとかパワーとか言ったほうがわかり易いかも知れない。一般論として端的に『エネルギー』と言った時に、読者の方はまず何を思い浮かべるだろうか。

あるいは、私たちのごく普通の日常生活、さらには洋の東西を問わずあらゆる時代を通底して、人間的な生活の中で「エネルギー」を ‟感じる” 事のできる、もっとも身近な『事象』とは、一体何だろうか?

それは第一には「火」であり、その「燃焼による熱」のエネルギーである、という事は、多くの方が同意していただけるのではないかと思う。

私たちの人間的な日々の生活の中で、もっとも顕著に「エネルギー」というものを感じることができるのは、「火」とその「熱」であると。

この火の熱量、具体的には大地の上で人間によって利用される火、薪や油などの燃料から生み出される炎としての火であり、その対極である天空に輝く太陽の火である、と云うことは、インド世界ではヴェーダウパニシャッドの時代から『祭祀』という文脈の中で言い習わされてきた。

太陽は天空のアグニ(火)であり、アグニ(火)は地上の太陽である、と。

ここでひとつ重要なのは、これら天地の両極における「火」が、熱量であると同時に「光照作用」でもあった、という明らかな事実だ。

特に「地上の火」に関しては、電気による電灯に慣れ親しみ過ぎて「裸火」というものから遠ざかっている現代日本の都市生活者は、注意が必要だろう。

太陽とは文字通り「天照らす」偉大なる「光り輝き」であり、地上の火もまた、現代と違って焼くための熱量であると同時に、照らすための光であったわけだ。

これは現代インドにおいても、古い寺院の奥深い暗闇に灯されているオイルランプの光などを見れば明らかだろう。電気がなく、もちろん電球も蛍光灯もない時代には、火というものは唯一の人工的な「明かり」だったのだ。

燃え盛る炎から生まれる熱量によって温め焼き、その光によって照らすもの。これが最も身近なエナジーとしての「火」が持つ、基本的な性質だ(もうひとつ、あらゆる物を焼き尽くして『浄化』する力もあるが、これは後日)

そしてそのような「火」すなわち「アグニ」が、バラモン教的な祭祀においても、供犠の火として使用され、あるいは天上の太陽と対置される神として崇められていたのだ。

そこで、そのような「火」どのようにして ”内部化” していくか、というその方法論が問題になる。

一般にインド的な「苦行」は「タパス」と呼ばれ、その原義は「火の熱量」である、と言うことはすでにこれまでに触れているが、なぜ苦しむ事が火であり熱なのか。

これは、経験的な事実を思い起こせば容易に理解できるだろう。例えばわかり易く、時代劇などで鉄砲傷を負った人を手術して、体内から鉄砲玉を摘出するシーンを思い浮かべてみよう。

患者を寝かせて木片などを口に噛ませて、数人の助手が手足を押さえつけて、おもむろに焼酎などをプッと霧吹いたのちにメスを入れる。

その瞬間、もちろん当時はまともな麻酔などは存在しないので、その生身を切り裂かれる激痛によって、電撃に打たれたように患者は身もだえし、苦悶する(もちろん執刀以前から苦痛はあるのだが、それ以上に)

その激痛をこらえるために患者は無意識のうちに歯を食いしばる。その時に舌を噛んでしまわないための木片であり、暴れる動きによってメス先が乱れることを防ぐために手足を抑えるわけだ。

その苦痛によって生み出されるエナジーのもの凄さは、現代でも、例えば出産や業病等の苦しみに立ち会ったことのある人ならば、きわめてリアルに得心する事が出来るだろう。

(私も気胸体験時にその片鱗を味わわされたw)

激烈な痛みに見舞われている患者の体内では、すさまじいレベルのエナジーが荒れ狂っており、それは第一には身もだえする身体の「運動エネルギー」として誰の目にも明らかだろう。

そしてその苦しみに耐えている、文字通り身を焼かれ切り裂かれるような苦悶のさなか、人の身体は高熱(火)を発し、発汗(水)する。これも傷病の苦痛や出産の苦痛を自ら経験したり間近に立ち会ったりした人々には説明は不要だ。

このような苦痛に伴って体内に生じ高まる熱量。これこそが、苦行というものがタパス、つまり火の熱量、という言葉によって呼ばれた事と深く関係すると思われる。

もう一つ、苦行がタパスと呼ばれた原風景には、ひょっとすると「火刑」というものの存在があったのかも知れない。人類の歴史を通じて、大変残念な話だが、火あぶりの刑というものは最も効果的かつ残酷な見せしめの刑罰として重用されてきた。

生身を火で焼かれる苦痛というものは、おそらく人間が経験しうる最も大きな苦痛のひとつだろう。実際に、宗教的な苦行という文脈においても、人はしばしば我とわが身を火で焼くのだから(日本の火渡りや焼身供養など)、これが苦行をタパスと呼ぶ、その原風景的なひとつの心象だと考えるのはとても自然だ。

インド教の場合は、当然ながら火の動物供犠祭というものを内部化する、という焦点があることは、すでに前回述べている。

さて上の説明に、苦痛に身もだえる患者の熱量を伴ったその激しい身体的な『運動エネルギー』、というものが出てきた。これが実は、私たちがごく普通の日常生活の中で、火の熱量の次に体験的に感得することのできる、もうひとつの顕著なエネルギーだ。

これは現代人にまず身近なところから言えば、あらゆるビークル(車、電車、飛行機、船など)に見られる走行移動運動が分かり易いが、時代を超えて普遍的なものとしては、人間を含めた大型動物なかんずく巨大なオス動物によって発揮される、目覚ましい運動エネルギーが挙げられるだろう。

例えば、仏典にも頻繁に登場する荒れ狂う雄の巨象が発揮する破壊的な運動エナジー。「運動」という言葉は「運ぶ動かす」と書くが、下の動画に見られるように、正に巨象がリクシャやトラックを牙で差し上げ軽々と投げ飛ばすエナジー(威力)にそれが鮮烈に表れている。

人の手では容易に動かすこともできない巨木の丸太も、このような象の剛力によって容易に動かされ運ばれていく事実は、誰にとっても瞠目すべき事実だろう。

これは人間の男(オス)の場合も同様だ。古来より時代や場所を問わず、剛力というものは優れた漢(おとこ)あるいは戦士の象徴として喧伝されてきた。日本の相撲取りが『力士』と呼ばれるのもその反映だ。

仏典でも伝記的な物語、確かヤショダラ妃との結婚にまつわるエピソードの中に、シッダールタ王子が巨象を投げ飛ばしたとか、あるいは誰も引くことのできない強弓を引いて矢を射たとかいう話が出て来る。

同様のエピソードは、実は主役を変えてインド教的な説話物語の中では至る所に見られるもので、英雄というものと剛力、すなわち優れた「持ち上げ運び動かす(敵を破壊する)エネルギー」というものは同一視されており、そのような運動エネルギーこそが、Viryaの原型となるVira(勇者)の原像である、という事実は、以前に詳述している。

男たちの間で行われるいわゆる『力比べ』は世界中に存在し、例えば日本で言う『力石』というものは現代インドにも残っている。

若者石と呼ばれるインドの『力石』

もちろん、このような剛力が発揮されている『運動』のさなかには、彼らの身体は熱く燃え上がり、滝のように発汗しているだろう。

ちなみにサンスクリット辞書でvīra(ヴィーラ=英雄、戦士)を引くと、その中には

-4 Fire. -5 The sacrificial fire(供犠の祭火).

という項目がしっかりと記されている。祭祀を基本文法とするインド教世界において、火とは何よりもまず『祭火』であり、身体内部で燃え盛る『体熱』は自然な流れとして「内なる祭火」へと転化され得るのだ。

運動エネルギーと火の熱エネルギーが表裏一体である事。これは古今東西、時代を問わず、誰もが体験的に確認可能な真理なのだ。この二つの相関、現代人にはまったく違った方向からも、ある意味理解しやすい原理かも知れない。

前回たとえ話で持ち出した火力発電や原子力発電、それこそが正に熱エネルギー運動エネルギーへの変換によって生み出されるものであり、火によって生み出される運動エネルギー、つまり発電タービンの運動が、電気というもうひとつの「熱・光」エネルギーに変換されるのだから。

また、自動車エンジンなど現代的なあらゆる内燃機関が、文字通り内部において火を燃やして、そのエナジーを運動へと転化する事によって成り立っている。

もちろん、現代的な発電や内燃機関というような文脈は古代インド人にはあずかり知らぬ事だ。しかし、例えば火によって鍋を熱することで、沸騰という激しい水の運動が起こるという事実は容易に観察され把握されたはずだ。

(この点に関しては、瞑想実践とも絡めた非常に興味深い記述がパーリ経典には存在しているのだが、これも後日に)

あるいは、燃え上がる火によって熱せられた空気が、風を巻いて上昇していくその運動という形でも(それは煙の動きや「陽炎」によっても視認可能)、熱と運動エネルギーの相関は容易に理解し得るだろう。

何よりも、燃え盛る火のその炎自体、激しく運動し躍動するものではないだろうか。

ViryaもしくはVira、すなわち男性的かつ英雄的なエナジーと火熱との重ね合わせは、例えば阿修羅や明王像に見られるいわゆる憤怒相が、しばしば火炎に縁どられている事実にもよく表れている。

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海宇工芸館さん:武器を手に炎を背にした不動明王背にした炎は「火の浄化」をも意味している

日本語でも、「火のような怒り」というのは日常的な表現だし、闘志に包まれた星飛馬の瞳の中で赤い炎がメラメラと燃え上がる、というのも同じ心象に基づくものだ(笑)。

これらは、現代日本人であろうが古代インド人であろうが変わらない、人間として普遍的な極々当たり前の感覚・感性ではないだろうか。

そして、このような火あるいは炎は、古代インド的な心象では同時に光・輝きでもある。そう考えると、時に「Maha Vira(大勇)」と呼ばれたブッダが、同時に世界の太陽であり世を灯す明かりであったという事の背景心象が、段々と明らかになる。

 

話を元に戻そう。ここまで私たちが日常の中で普通に見られる最も顕著な運動エナジーとして、生物の雄が発揮する(熱エナジーを伴う)運動エナジーを見てきたが、それ以外に私たちの周りで、わかり易くも圧倒的な存在感を放つ運動エナジーとは一体何だろうか。

それは水と風という自然が生み出す運動エナジーではないかと私は思う。

最初の水については、日本においても豪雨の結果としての鉄砲水や洪水、そして未だ記憶も新しい津波の例を見れば、その人間的なスケールを遥かに超越した『威力』は明らかだろう。

同じようにインドに於いても、雨期の降雨が持つ大地を削るエナジーやその集積としての大水が持っている巨大な運動エナジーというものは、しばしば人間生活を破局的なまでに打ち壊す力を持って迫って来る。

私は雨期のバラナシに滞在したこともあるのだが、あの全てを流し去ってしまう圧倒的な質感を持つ水の流れと、そこに秘められた巨大なエナジーには底知れない畏怖心を抱いたものだ。

この大河の流れが孕む莫大な運動エネルギーは、例え雨期でなくとも、日常的に大河により沿って生きていた古代インド人にとっては自明の事だった。

滔々たる水の流れが持つその巨大な運動エナジー。これは水が保持している植物などへの『成長力』と共に、ある種の「神威」つまり「神の威力」として、人々を畏怖せしめていた事だろう。

ヴェーダの世界では、それは降雨の神パルジャニヤや河川神サラスヴァティなどの名前で讃嘆されている。

水の運動エネルギーに関しては、海についても同様だろう。

ブッダやその周囲に住むガンジス川中流域の人々の多くは、確かに自らの眼で直接大海というものを見たことはなかったかも知れない。しかしインド世界というのは何しろインダス文明の昔から海路を通じて湾岸世界(メソポタミヤ)等と交易をしており、ブッダの時代前後にも海商隊が交易に携わっていた事は明らかだ。

それら航海者、つまり商人を含めた船乗りが無事帰国したら、富をもたらしてくれる勇者として、国王臣民によってもろ手を挙げて歓迎された事だろう。

そんな彼らが、航海の困難を大げさに吹聴するであろうことは人間心理の必然であり、同時に未知な事象に対する好奇心というものもまた、人間心理の必然であることを考えれば、荒れ狂う大海というイメージ情報は、内陸インド世界にも広く浸透していた事が推測できるのだ。

その荒れ狂う海の水が持つエナジーの圧倒的な『威力』は、嵐においては船を翻弄し粉砕・沈没にまで至らしめるような運動エネルギーであり、同時にそれが海流・潮流としてプラスに働けば、船を運んでくれるありがたい運動エネルギーにもなる。

同じことが風にも言える。モンスーンの豪雨は吹き荒れる風によって前触れされるし、ベンガル湾で顕著なサイクロンなどの強風の猛威は、同じように台風にしばしば襲われる日本人には、巨大な運動エネルギーとして理解しやすいだろう。

そして帆船を使う古代の航海においては、このような風の力こそが、船を遠い異国の遥かの岸辺にまで運んでくれる、偉大なもうひとつの運動エネルギーだった訳だ。

(風が森林の枝葉を揺り動かすという光景は、パーリ経典ではしばしば自然的な恐怖の象徴としても記述されているし、「風に逆らってチリを投げればわが身にかかる」という譬え話でチリを運ぶのも、小なりとは言え風の「運び動かす力」だ)

風の恐ろしい運動力は、暴風神ルドラの名前ですでにヴェーダにおける神々のパンテオンの中でも特異な地位を占めているし、そしてこのルドラこそが、後のシヴァ神の原像である事も銘記しておきたい。

このような風の運動エナジーは、先にも書いたように、祭祀の火のエナジーによって生まれる上昇気流やそれと共に天へと立ち上る煙によっても、古代インド人にとって身近なものだっただろう。

先に体熱と運動力の相関に触れたが、ここにひとつ、特記すべき重要な事実がある。祭祀における風の上昇運動エナジーは、火の熱量によってもたらされる、という相関(因果)関係だ。このような相関は実は自然気象としての風や水の運動エナジーにも見出されうるものだ。

インドとは酷熱の大地だとよく言われる。それは丁度これから、三月から五月にかけての酷暑期に、そのピークに達していく。

そしてその太陽の酷熱が頂点に達したその直後に、あたかもこれまでの加熱量の結果であるかのように、インドの大地はモンスーンの雨によって一気に冷やされるのだ。

これは酷暑期と雨期のはざまにあるインドの大地の上に、あるいは同じような熱帯の地に、実際に住んだ経験のある方なら、極めてリアルに感得できるニュアンスだと思う。

(日本でも真夏の夕立などはその典型だが、熱帯のそれは遥かに鮮烈だ)

ジリジリと照り付ける酷の太陽によって大地が熱く焼けたフライパンの様に熱せられ、その熱がよどんだ飽和状態、その停止した気だるい滞留が瞬間的に破られて一陣のが吹く。

その直後から空は一転にわかにかき曇り、おどろおどろしい黒雲が瞬く間に膨れ上がり、ポツリポツリと粒が落ちてきたな、と思っているうちには、すでにもう、一寸先も見通せないような豪雨の帳に包まれている。

あれよあれよとその豪雨に見とれている間にも、もうすでにその雨水は激しい流れとなって大地の低いところを求めて集合し、巨大な奔流となっていく。

天上のアグニ(火)である太陽の熱エネルギーと、それによってもたらされる風と水の運動エネルギーとの相関は、現代的な物理学やら気象学やらをわきまえていない古代インド人にとっても、体験的に、自明な真理として感得されていた可能性が高いと言えるだろう。

さて、ここまで私たち人間生活の中で、時代や地域を問わず顕著な『エネルギー現象』というものについて考えてきた。

それは第一には太陽や地上の火が持っている熱と光のエナジーだった。
第二には、その火熱と深い相関を持って生まれる運動エナジーだった。

運動エネルギーは、最も身近なところでは動物の雄が発揮する剛力(Vira、Viriya)として現れ(それは内なる火である体熱と共にある)、自然的なスケールでは、太陽熱や火によってもたらされる風と水の振る舞いとして現れた。

ここまで読んできて、勘のいい読者の方なら、ある種『デジャヴ』のような既視感に見舞われてはいないだろうか?

この世界における顕著なエネルギー現象、その担い手としての「要素(基体)」である火と風と水。これらはいわゆるインド思想における『四大要素』あるいは『四界』と重なり合うのだ。

これは果たして偶然なのだろうか?

では、もうひとつ四界のうちの最後に残った『地』の要素。これはエネルギーという視点からみた場合、その担い手としての意味を持っているのだろうか。

第一に、Viraであるところの剛力戦士が、その運動力を発揮する根拠となっているものこそが、身体における『地』の要素である『筋肉』と『骨格』という固体パーツである、という事実がありる。

第二に、地の要素というものを環境世界における「大地」として捉えると、それは不動であるように見える。ブッダが主に活動した北インドでは余り頻繁に地震が起こるという話は聞かないし、大地や岩山はしばしば不動の最たるものとして譬えに使われてもいる。

(仏典には、ブッダの人生における画期となるイベントの前後に、大地が鳴動する、というような記述が随所にあるが、これは地震なのだろうか)

しかしこの不動の大地こそが、火の燃料である薪材の供給源である、という事実を忘れるべきではないだろう。大地はエネルギーの『蔵』なのだ。

もうひとつの可能性として、これは現在までの日本のインド学ではほとんど指摘されていないかも知れないが、古代インドの基本的な世界観の中にある『大地の円輪』つまり巨大な ‟車輪” としての大地、という心象が考えられる。

これは回転する車輪としての大地であり、それと対になった回転する車輪としての天、という世界観だ。

これは本ブログの過去記事でも繰り返し指摘している所だが、古代インド人、というかそれ以前の中央アジアからコーカサスにかけての大平原に発するアーリヤ・ヴェーダの時代から、はるか360度の地平線の果てまで見晴るかすことのできる大地というものを、ひとつの円輪=車輪、として捉えていた可能性が高いのだ。

~以下、中村元選集決定版第8巻「ヴェーダの思想」P451から引用

『宇宙の形に関しても明確な描写は存しない。ただ一回、これを重ね合わせた二個の鉢に譬え、また車軸によって車輪を支えるようにインドラは天地を引き離した(RV.Ⅹ,89,4)ともいわれている点から見ると、地表を円形と考えていたらしい。天地は併称されることが多く、「二個の半分」と考えられているが、そのあいだの距離についてはなにも記されていない。』

彼らは大地を下方の車輪とし、天をその対となる上方の車輪と見なす事で天地の両輪となし、それを支える車軸として超越的な神、この場合は「Eka」つまりひとつ(一本車軸)なる神だが、を想定していたと考えられる。

この点に関しても以前詳述している筈だ。

当然、大地も天も車輪である以上 ‟回転運動” をしなければならない。というか、特に天というものが太陽や月や星々を見れば明らかなように、実際に日周的な回転運動をするからこそ、それを回転する車輪と重ね合わせた。

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Google検索「星空 回転」より:回転する星空

当然、人間の日常的な感覚では不動に見える大地も、本質的に回転するものだという前提は含意されていた(それが車輪の回転であるならば、障害があれば『振動』する)。

そして、これら回転運動する天地両輪というイメージが、いわゆる『輪廻転生』という世界観のいわば『下敷き』になっていたと考えられる。

(しかしこの「輪軸世界観」と「輪廻思想」の関係性については、現時点ではあまり自信はないので、ここではこれ以上突っ込まずに話を先に進めよう)

『地』に関するエネルギー性のもうひとつの可能性は『重力』だ。

先に私は、大地やその上に聳える『岩山』というものが、古代インドにおいては『不動』なるものの象徴である、としてパーリ経典などで引き合いに出されている事を指摘したが、この『不動性』とは一体何か、と考えてみた。

その時私が唐突に思い出していたのが、『クリシュナのバター・ボール』だった。これはインド・フリークの人ならば、「ああ、あれね」とすぐに思い出せるほど有名なものだ。

クリシュナのバター・ボール。それは海岸寺院やパンチャラタなどの世界遺産で知られるタミルナードゥ州のマハーバリプラムにある大きく丸い巨石だ。

その巨石は石窟遺跡群がある岩丘のはずれ、その緩傾斜の岩斜面にポツンと置かれたもので、直径7~8m以上はあるだろうか。チョーラ朝だかパッラヴァ朝の王が何頭もの巨象をつないでロープで引かせたけれど、ついに動かすことはできなかった、という言い伝えが残っている。

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クリシュナのバターボール

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そぎ落とされたような背面:マハーバリプラム - Wikipediaより

その球状の形や、背面をバターナイフでそぎ落としたような切断面から、クリシュナ神が子供のころに好んだというバター・ボールにちなんで、その名が付けられたという。

昔、「象が踏んでも壊れない」というキャッチコピーで筆箱のCMがあったが、ではこの巨石が「何頭もの巨象に引かせても動かない」のは、‟一体何故” だろうか。

それは極めて単純な話で、『とてつもなく重い』からだろう。

さらにその意味を追求すると、その「とてつもない重さ」が、象の「運動力(運搬・牽引力)」を遥かに上回っていたから、動かせなかったのだ。

ある意味当たり前の話だが、しかしその瞬間、私は理解していた。

「この『不動』を生み出す『重さ』こそが、大地が持っている『エネルギー性』すなわち『重力』である」、と。

巨石が持つ『重さの力』が、天秤にかけた時に巨象たちの運動力(運搬力)を遥かに上回っていたからこそ、それは不動でありえた、事になる。二つの対置されたエネルギーとエネルギーとの拮抗であり凌駕、という観点だ。

言い方を変えると、重さの力とは運動力(動かそうとする力)に対抗する力、と見ることができるかも知れないし、あるいは重いものをぶつければ吹っ飛んでいくように運動力そのものでもある。

このような性質を持つ「地の要素」の重さの力、現代物理学でいうところの重力とほぼ重なるものだが、古代インド的にはもうひとつの意味があった。

それは『圧し潰す ‟押圧力”』だ。

パーリ経典には巨大な岩山が持つ、この押圧力について、面白い表現がある。

尊師(ブッダ)は次のように言われた。

「大王さま、あなたはどうお考えですか? ここに、信頼すべく、頼りにすることのできる人が、東方から、西方から、北方から、南方からあなたのところに来て、言ったとしましょう。

『大王さま。どうぞ、ご存じください。私は、東方から、西方から、北方から、南方から来ましたが、そこでは、雲のような大きな山があらゆる生き物を圧し潰しながら、やってくるのを見ました。大王さま、あなたのなすべきことを、なさってください。』と。

このような大きな恐怖・脅威が起こり、恐ろしい人類の破滅が迫っていて、人身たることが得難いのに、何をしたらよいのでしょうか?」

尊いお方さま。このような恐怖・脅威が起こり、恐ろしい人類の破滅が迫っていて、人身たることが得難いのに、何をしたらよいのでしょうか? 唯、法にかなった行い、正しい行い、善い行いをなすこと、功徳をつくること以外にはないでしょう。」

「大王さま、私はあなたに告げます。あなたに知らせます。《老いと死》があなたにのしかかっています。《老いと死》があなたにのしかかっているのに、何をしたらよいのでしょうか?」

~中略~

「虚空をも打つ広大な岩山が、四方から圧し潰しつつ、迫ってくるように、《老いと死》とは、生き物にのしかかる。

王族、バラモン、庶民、隷民、チャンダーラ、下水掃除人であろうと、いかなるものをも免除しない。すべてのものを圧し潰す。

そこには象軍の余地なく、戦車隊や歩兵隊の余地もない。策略による戦いによっても、財力によってっも、勝つことはできない。

それ故に、賢明な人は、自己のためになることを観察して、ブッダと法と集いとに対する信仰を安住させよ。

身体により、言葉により、法にかなった行いをなす人を、この世では人々が称賛し、死後には天界で楽しむ」と。

~以上、サンユッタ・ニカーヤⅠ 「神々との対話」中村元岩波文庫 第Ⅲ編 第三章 第五節:山の譬喩P213~より抜粋引用

これはおそらく、北インドでも平野部ではなく山岳丘陵部において、時に起こる大災害としての地滑りや山崩れ、土石流などのイメージを踏まえた上で、その逃れようのない圧倒的な「圧し潰す威力(エネルギー)」を『老いと死』という圧倒的な脅威(恐怖)と対置してたとえたものなのだろう。

その背後にあるものこそが、大地や岩山などが本質的に持つ『重さの力』である、というのは、上に説明した通りだ。

この地の要素である岩が持つ「圧し潰す力(エナジー)」。インド人の生活の中で、極々日常的な営為の中にも象徴的に表れている。

それは、いわゆる「石臼」だ。石臼と言っても、日本と違ってインドの場合は、台座となるある程度の重さを持つ(作業中にも不動な)石台の平らな表面上にスパイスやら様々な食材やらを乗せて、それをある種円柱様の手ごろな石をゴロゴロと転がす事によって、圧し潰し、すり潰すタイプになる。

この時、人の力は最小限で済む。それは転がす石自体に一定以上の重さがあるからだ。この重さが自然に圧し潰す働きを、人間は手のひらで感じながら力加減をコントロールしていく。

インド式 Stone Grinder。手さばきが美しい

重さとそして硬さという地の要素の基本特性が、典型的に発揮されているのが良く分かるだろう。これは人の身体に当てはめると「歯と顎の力」に相当する。

このような地の要素が持っている不動や圧力として発揮される「重さの力」、先に指摘した日常的に身近な「運動力」としての、戦士の剛力においても実は該当するものだ。

これは、日本の相撲力士に典型的に表れているだろう。

舞の海がどんなに技のデパートを繰り出してトリッキーに勝負を仕掛けても、結局のところガタイのいい重量大型力士の盤石の重みには押し切られてしまう。

そしてそのような大型力士の重量は、単に動かされにくい、というだけではなく直接的に剛力すなわち筋力にも影響する。鍛え上げた戦士の巨大な体のその重量を占めるのは、かなりの部分が筋肉だからだ。

戦士の戦闘力は身体の大きさ重さに比例している。それゆえ、あらゆる競技格闘技が、厳正な体重制にのっとって行われる。

小兵がもつ俊敏性の利を全否定するわけではないのだが、やはり、身体の大きさとその重さは、運動力(戦闘力)の絶対的な根拠になっているのだ。

これは、雄の巨象が示す剛力についても象徴的かつ典型的に該当する。

彼らが人間を遥かに凌駕する驚異の剛力を発揮できるのも、その巨体と、その筋肉と、そして体重が、人間を遥かに凌駕する(何トン、の次元)事に根拠するのは明らかだろう。

一方で、水が持つ運動力・運搬力の根拠に、その重さ、があるのもまた事実だ。しかし、同じ大きさのバケツにそれぞれ水と砂利を入れた場合、砂利バケツのほうがはるかに重くなるように、やはり、重さのエネルギーにおいては、圧倒的に「地」の要素が他を凌駕している。

この世の中で最も重い物質である金属、金や銅や鉄などもまた、大地から掘り出されて精錬されるものだから、この「地の要素」とその内在エネルギーとしての「重さの力」という相関は、古代インド人にとっても、経験的に自明のことだっただろう。

(その他に人間生活の中で直面するものとして、大地から生えて聳え立つ巨木の重さなども)

以上、火と水と風、そして地という四要素とそのエナジー性について、色々と考えてみた。これら『四大』がバラモンの外なる火と供犠と賛歌の祭祀において極めて重要な意味を持っていた事は前回既に指摘している。

一般にウパニシャッドに見られる輪廻転生世界観の『原像』と言われる文言を見てみると、そこには火葬の火の煙と共に天に(魂が)上り、雨と共に(魂が)地に降りる、という思想が見て取れる。

この原初的な輪廻観の『原動力』つまりエナジーになっているのが、水と風の『運搬力』に根差しているのは明らかであり、さらにその水と風に運動能力をもたらしているのは、天の太陽と地の火が持つ熱量である事も明らかだろう。

つまり、この現象世界を構成する地・水・火・風という四つの主要素は、何よりもエナジーの『素体(基体)』として把握されていて、それら四大・四界がもつ本質的な《エナジー性》こそが、人間を含めた世界を『運動』させる『原動力』になっている、という心象が明らかだ。

そしてそこにはもちろん、外部環境という大なる世界(マクロ・コスモス)と、人の身体という小世界(ミクロ・コスモス)の、照応関係が存在していた。

つまり、外部環境世界における火炎や太陽が内部化されたものが、すなわち『体熱』であり、外部の四大としての風が内部化されたものが『呼吸』であり、水が内部化されたものがあらゆる『体水』(汗、つば、血液、等々)であり、地が内部化されたものが、筋肉や骨格などの『固体的な身体』であった。

例えば、繰り返しになるがインドとは酷熱の大地であり、長く続く乾季を持つ世界だから、神々に請願する祭祀の目的としては、降雨祈願(雨乞い)というものがしばしば行われた事が想定できる。

の上に祭祀のを燃やすと、その熱量によって上昇気流()が生まれ、それが煙となって天に届くと、人間の請願を聞き届けた神々の祝福によって降雨、つまりが落ちてくる。

あるいは先に説明したように苛烈極まる太陽にさらされた酷暑期の直後に、あたかもその溜め込んだ熱量の結果であるかのようにモンスーンの季節風が巻き起こり、雨期が到来し、焼け付く大地に雨が降り注ぐ。

これら外部環境世界における「火と風と水と地の相関」は、人の身体に内部化された時には、Vira的な筋骨による身体運動において高まる体熱と激しい呼吸、それに伴うおびただしい発汗や心臓の鼓動=激しい血流、つまり内的な地と火と風と水との相関に重ね合わされた。

その背後にあるものこそ、我々の外部に広がる大なる宇宙・環境世界を、ひとつの『プルシャ』、つまり人間(男性)の身体として捉える、リグ・ヴェーダ以来のマクロとミクロ(外・内)が照応する世界観なのだ。

このような、太古の昔より存在した『身体は世界であり、世界は身体である』という心象風景があって初めて、比丘サマナたちによる『外的な祭祀を内部化する』というムーブメント、そしてその「方法論」もまた可能になった、と考えるべきだろう。

私たち人間生活の中で、ごく普通に『エネルギー(エナジー:Viriya)』を感じる事の出来る事象とは一体何か。

それは、第一には大地における『火』と天における太陽の燃焼、熱量であり、第二には運動エネエルギー、それは身近なところでは人間をはじめとしたオス動物に顕著な剛力、としてのそれであり、自然環境においては水や風や地によって示される人間的なスケールを遥かに超越した威力、としての運動や重さのエネルギーだった。

これら地と水と火と風という四つが、インド思想におけるいわゆる『四界(四大)』と重なる、という事実。これは果たして偶然なのだろうか。

このエナジー性と四界との合致については、「筆者が恣意的に誘導しているのだろう」という指摘も聞こえてきそうではあるが、果たしてそうなのか。

例えば、先にたとえ話で引き合いに出した『発電』というものについて振り返ってみたら、どうだろう。原子力なるものが登場する以前には、それは第一には『火力』であり次には『水力』であり、さらには『風力』ではなかっただろうか(天の太陽光発電もある)

現代の火力発電で使われる燃料は、正に大地から掘り出される石油であり、古代インドの場合火力の元となる薪材は大地から生える樹木だ。

これら四つのエネルギー性が、現代文明において何故発電に利用されるのか。それは、古今東西を問わず、火(と太陽)と水と風と地というこれら四つが、この地球環境世界において人間が利用できる、もっとも有効かつ『力』を持ったエネルギーだからなのだ。

時代を問わず、人間社会とはエネルギーの運用態であり、それは個々の『身体』についても同様だ。当然、私たちが経験し理解するような事は、古代インド人もまた経験し理解していた。

そして、火と水と風と地とがこの世界を構成する主要素であると考え、それらの『エネルギー性』とその『動態』が、私たちの『世界』を ‟運動(運行)させている”、と見て取った。

古代において世界中で普遍的に見られる『太陽神』信仰。それはインドにおいては太陽神スーリヤであり、大地においてはアグニ(火神)へと還元される。

水の神はヴァルナであり、風の神はヴァーユであり暴風雨神ルドラであり、地の神はプリティヴィである。それらが何故神として崇められたのか。それこそが正に、これら火と水と風と地が持つ超越的な『エネルギー性』に他ならないだろう。

当然、それらエネルギー性と共にある火と水と風と地は、人間の身体の中にも内部化されて認識された。繰り返すが、

何故なら身体は世界であり、世界は身体だからだ

身体の中に内部化された火とは体熱であり、水は体水であり、風は呼吸であり、地は骨格・筋肉である。当然これらもまた、その『エネルギー性』において、内部化され把握されていた。

そして、その内部化された『地水火風』は、沙門シッダールタが挑んだ苦行と、その経験を踏まえた上で生み出された「解脱に至る真実の行法《ブッダの瞑想法》」においても、極めて重要な意味と役割を担っていた。

これはパーリ経典を詳細に読み解いていけば、誰の眼にも明らかな事実である、と私の眼には映じている。

この点は次回以降に詳述したいと思うが、例えば煩悩の激流や輪廻の荒海とはの運動エナジーとの重ね合わせであり、アナパナ・サティとはの観察であり、その禅定の深みにおいて現成する『不動』とはの要素に他ならない。

苦行とはの供犠祭の内部化であり、それを昇華した上で最終的にシッダールタが到達した、その『ニッバーナ』の境地とは「燈明の火がフッと消える」という意味を原義としているように、正にそれは、の生態とその『止滅』に他ならないだろう。

(本投稿はYahooブログ 2016/4/17「『Virya=エナジー』から見た世界の諸相と地水火風」と2016/4/25「『地』の要素と『重さの力』」を統合の上、加筆修正して移転したものです)

 

 


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