仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「エナジーの平衡点:Vīriya-samataṃ」を観取せよ《瞑想実践の科学 32》

以前に私は、「ヴィーナと比丘、それぞれの『仕事』」記事の中で、箜篌(ヴィーナ)の喩え』の最終節の中に、ブッダの瞑想行法を理解する上で極めて重要な、様々なキー概念が凝縮して提示されている、と書いた。

今回はその一節を最初に再掲引用しよう。

Therefore do you, Sona, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it."

Tasmātiha tvaṃ, soṇa, riyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca
samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti.

それ故に汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。
もろもろの器官平等なありさまに達せよ。

日本語訳は中村元選集決定版 第17巻「原始仏教の生活倫理」P96~98より

この時「ヴィーナの譬え」の結語となるパーリ文を私は以下のように訳している。

「(瞑想実践行において)エナジー調弦(最適化)をピシッと決めて、その時生れる六官の平らかさ(静謐=equanimity=サマタ)の中に深く入り込み、そこにおいて観じなさい」

これが正しければ、まさに瞑想実践上の具体的なアドバイス以外の何物でもない。

その時私が特に注目したのが Viriya だったが、今回は再びこのViriyaに焦点を当てて、上の訳文の『根拠』を深掘りしていく。

まずは中村元訳の日本語を見ると、

汝は平等な(釣り合いのとれた)努力(Viriya)をせよ。

その事によって、

もろもろの器官(Indriya)平等なありさまに達せよ。

と読む事が出来る。

つまり、平等な(釣り合いのとれた)Viriyaを “手段”として体現する事によって、もろもろの器官(Indriya)の平等という “目的” を実現しなさい(できる)、という流れだ。

しかし、一読して分かる様に、この日本語訳には様々な問題がある。

第一に、努力と訳されたViriyaが本当は一体何を意味していたのか(英語では端的に“Energy”)、という事。「平等な努力」とは一体、何を意味すると言うのだろう。中村元博士は(釣り合いのとれた)と注記しているが、その『真意』とは一体何だろうか。

第二に、Viriyaと器官(Indriya)というものが、どのように関連しているのかという点。『努力』と『諸々の器官』というものの「相関」がこの訳では全く見えてこない。

もうひとつはViriyaとIndriyaにおいて共有されている平等(Samatam)という概念が、何を意味していたのか、という点だ。

「平等な努力」もそうだが、「もろもろの器官(Indriya)の平等なありさま」とは、一体日本語として、どのような意味を担い得るのだろう。

中村元博士がこの日本語訳を自ら読んで、その意味を “本当の意味で” 理解できていたとは、私には到底思えない。

その様な疑問を起点に、「ヴィーナと比丘、それぞれの『仕事』」の中で私は英訳とパーリ原語を対象しつつ様々に考察した果てに、上記の訳をひねり出した。

この『ヴィーナの譬え』についての「修行と言うのはテンパり過ぎてもいけないし、だらけ過ぎてもいけない。中ほどが丁度良いのだ」という伝統的な解釈に異を唱え、これは『瞑想実践そのもの』に関する具体的な「要諦」を示唆するガイダンスに他ならない、と結論付けたのだ。

以上の流れを前提として、今回はまずは最初のViriyaについて、サンスクリットの語義の中に、その原像を探っていきたいと思う。

この点は前回投稿内容とも深く関って来る。

これまでパーリ語辞典(Pali text society)に参照してきた様に、このViriyaの原義は "state of a strong man," であり、英語で vigour, energy, effort, exertion、などを意味していた。

日本語の努力や精進に該当する意味も含んでいるけれど、どちらかというと男性的なエナジー、活力、勢力、など単純に『力(ちから)』あるいは『出力』を意味する度合いが強い印象だった。

そこでサンスクリット語のViriyaである“Vīryam”を引いてみると面白い事が分かる。

1 Heroism, prowess, valour; 2 Vigour, strength. 3 Virility、4 Energy, firmness, courage. -5 Power, potency、9 The seed of plants. -1 Dignity, consequence、-प्रपातः seminal effusion, discharge of semen

赤字以外の部分はパーリ語とほぼ重なり合うが、3 Virility、と複合語の-प्रपातः seminal effusion, discharge of semen.において、明確にある心象が顕在化する。

このVirilityは英語辞書で引くと、

1(成年)男子であること,成年.
2男らしさ,男盛り.
3活気,力強さ.
4(男性の)性的能力.

1男性的な特徴
(the trait of being manly)
2性交し生殖する能力のある男性的な特性
(the masculine property of being capable of copulation and procreation)

となっていて、男性の生殖力、あるいは精力に焦点を合わせた能力やパワーという心象が理解されるだろう(この英語のVirilityは語源的にViriyaと重なるか?)

更に、seminal、semen、を英語辞書で引くと、そのものズバリ『精液』を意味し、-प्रपातः seminal effusion, discharge of semen.とは、端的に言って『射精』する事、あるいはその力、を意味する事が分かる。

何やら、単なる『努力・精進』などという心象からは、どんどん遠ざかっていく様に見える。そこで再び登場するのが、前回もチラッと紹介した、パーリ語のViriya(Skt:Vīryam)の原像となる “Vīra” の存在だ。

サンスクリット辞書を引くと、

वीर vīra

 1 Heroic, brave. -2 Mighty, powerful. -3 Excellent, eminent. -रः 1 A hero, warrior, champion; 4 Fire. -5 The sacrificial fire.

-ईशः, -ईश्वरः 1 epithets of Śiva. -2 a great hero.
-गतिः Indra's heaven. -जयन्तिका 1 a war-dance. -2 war, battle.
-भद्रः 1 N. of a powerful hero created by Śiva from his matted hair

これは男の戦士・英雄、その特性である勇気・剛力、戦場における勇者、最勝者などに特化した語意である事が明らかだろう。

このようにサンスクリットの vīra や vīrya の意味をひも解くと、パーリ語の Viriya という単語が持つその基本的な原心象が浮き彫りになる。

それは明確に男性的な、戦士、あるいは英雄・勇者の戦場における力であり威力であり、勢力であり、同時に、その様な優れた雄(オス)が寝室で女性を相手に発揮するであろう所の、精力であり性力であり、射精力であり、その結果としての生殖力に他ならないのだ。

(男という漢字も『力」を持っている)

ここで私はふと唐突に、あの貴乃花が対武蔵丸の決勝戦で見せたという伝説的な『鬼の形相』を思い出していた。

ネット上には動画もあるようなので興味のある方は是非見てみて欲しいのだが、正にこの武蔵丸との世紀の決戦において、負傷した足の痛みをも乗り越えて武蔵丸を投げ飛ばし鬼の形相とともに咆哮した、この時の貴乃花の全心身にみなぎっていた凄まじいばかりのエナジー、これこそが、vīravīrya の原像なのだ。

(私がかつて弟子入りした合気道の師匠は、本当に素晴らしいvīraの持ち主だったし、その師匠である開祖植芝盛平が目ん玉ひんむいて弟子たちを睥睨するその気迫あるいは“オーラ”もまた、典型的なMaha-vīraだ)

そしてもちろん、哺乳動物である人間において、戦闘力や戦闘意欲というものは本来的には縄張り争いやメス資源を獲得する競争原理の中で勝ち残る、という生態・本能に根ざしているから、戦場における英雄の威力と、寝室における閨房の精力(生殖力)というものは表裏一体となっている “男性力” であり、それら二つながらの男性的な “生命エナジー”、それこそが、vīra vīrya の原義だと考えられる。

(俗に言う、『英雄、色を好む』というやつだ)

もちろん、ブッダがその修行道においてViriyaと語った時に、このような原像がどこまで意識されていたか即断はできない。しかし、その原イメージである『男性的な(性欲に根差した)強烈な生命エナジーの爆発的な発揮(正に貴乃花の鬼の形相の様な!)』、という心象を忘れるべきではないと私は思う。

何故なら、仏教的な文脈におけるいわゆる三毒、つまり貪り怒り無知・無明というファンクションの背後にもまた、この『(男性的な)強烈な生命エナジーの爆発的な発揮』というものが、厳然と普遍的に存在しているからだ。

前回も指摘したが、ここで重要なのは vīra の意味に明確に「4 Fire. -5 The sacrificial fire」つまり『火』『供犠の祭火』が含まれている事だろう。

これは比丘サマナが苦行や瞑想に勤しむ時、彼らの内なるVira→Viriya:エナジー『内なる祭火』に転じる道筋、その痕跡とも考えられる。

ここで私は前回同様、読者の方々に思い出して欲しい事がある。それは発情期の雄象の狂ったような凶暴さを調御するという、あの喩え話だ。

仏弟子の告白 中村元岩波文庫」より

31: 密林である林の中で蚊や虻に咬まれながら、心に念じて堪えしのぶべきである。――― 戦場の先陣にいる象のように。

ガフヴァラティーリヤ修行僧

77: この心は、以前には望むところに、欲するところに、快きがままに、さすらっていた。今やわたしはその心を適切に抑制しよう。――― 象使いが鉤をもって、発情期に狂う象を全く押さえつけるように。

ハッターローハプッタ長老

この発情期に狂う象のその圧倒的な威力、暴力、勢力、精力、それこそが正に vīra や vīrya 的な「エナジー」そのものではないだろうか。そしてその背後には利己的な貪欲と排他的な怒りがある!

そう考えると、この「狂象の調御」と「調弦の喩え」における「Viriyaの Evenness」つまり “調節=適正化” いうものが、“実践的” に重なり合って来る。

つまり「狂象の調御」とは、イコール「Viriya:エナジーの『平定・調節』」である、と。

発情期の狂象が発揮する圧倒的なまでの荒れ狂う “力” 。

それは前回の投稿をなぞらえて言えば、雄大な筋骨の『地のエナジー』であり、荒ぶる呼吸・咆哮の『風のエナジー』であり、駆け巡る血潮や射精=『水のエナジー』であり、熱狂興奮する『火のエナジー』に他ならない。

これを自然の猛威に置き換えれば、山崩れにおける圧倒的な地の重さのエナジーであり、荒れ狂う嵐の風のエナジーであり、大雨や洪水大河の暴流が見せる水のエナジーであり、酷暑期の日照りや全てを焼き尽くす山火事の火のエナジーでもある。

この点は後々効いてくるので折に触れて注記するが、ここで取り扱う『Viriya=エナジーという概念は全て、前回述べた『地水火風』という『四界のエナジー性』という文脈におけるエナジーそのものなのだ(内外のエナジーの対照同置)

だが、どんなに狂象の荒れ狂う巨大なエナジーが猛威であっても、ひとたび象使いの巧みな技によって『平定』され転化(適正化)され善用されれば、人間にとって極めて有益な大なる『労働力』に成り、大いなる『仕事(Kammma)』を為し得る。戦場においても、日常労働においても。

その様な象の調教使役を出家比丘と重ねる事で、その修道プロセスに関してもまた、同じ事を言っていたのではないだろうか?

「ヴィーナと比丘、それぞれの『仕事』」の中で、私はヴィーナの仕事と比丘の仕事という「重ね合わせ」を背景に、次のように書いている。

では、今は出家比丘であるソーナにとって、比丘としてやるべき仕事(Kamma)とは何だろうか? それは彼岸に向けての瞑想行以外にはありえないだろう(違うだろうか?)。

そしてヴィーナと同じようにこの瞑想行という比丘の仕事には二つの段階がある。それはヴィーナの調弦と完全な調弦を前提にして初めてまっとうできる名演に譬えられる。

その前段階としての調弦・調音』に当たるものは、サマタ瞑想以外に私には思いつかない。これは日本仏教の伝統的な『調身・調息・調心』という言葉を並置すれば分かり易いだろう。

ならば、本仕事として『妙なるメロディーを奏でる』事は、これもまたヴィパッサナー瞑想以外ではあり得ない。

出家したばかりの若く未熟な比丘の内部には、圧倒的なまでの男性的な生命エネルギーであるViriya(Vīryam=精力、エナジー)が渦巻いている。それを瞑想修行に “向けて(調御=シフトして)” チューニング(調御)し、活用(善用)する。

 

つまり、

ヴィーナの調弦=「チューニング:弦の張力エナジーのバランス調節 ⇒ 名演奏による聴衆の歓喜

狂象の調御=「オス象の生命エナジー(貪欲・怒り)の平定と調節 ⇒ 役畜転用による労働利益」

比丘の修道=「男性的生命エナジー(貪欲・怒り)の平定と調節 ⇒ 瞑想実践による悟り」は、

同じ「文脈の流れ」として重ね合わされている

 

これはヴィーナという弦楽器の原像が「弓矢」という『殺傷兵器』にあり、「殺す威力」の源である弦の張力と同じ張力エナジーが、ヴィーナにおいて見事に『チューニング(適正化)』される事によって妙なる音色を放つという事実を踏まえると、よりリアルに感得できるだろう。

この男性的エナジーである Viriya:Vīryam を瞑想修行においていわば “適切に運用する”、という視点は、「何故サマナ・比丘たち求道者は性的禁欲すなわち “ブラフマチャリヤ”というものにこだわらなければならないのか」、という点と「実践的に」深く関連してくる。

要は「ガス欠になったら、仕事にならない」という事だが、これはまた後日書く機会を設けたい。

比丘の内部でうごめくそのエナジー・フローを調御し、調節し、シフトし、チューニングして、瞑想実践という『Kamma=仕事』の中で、針先の一点において焦点を合わせ切る(paṭivijjha : pierce or penetrate=貫入・突破)。

それが、

"determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it."

という英訳文の真意だと考えると、様々な点で辻褄が合う。

(繰り返しになるが、この内なるエナジーは、「内なる『四界・地水火風』におけるエナジー性」について語っている事を注記しておく) 

この一節、パーリ原文の主要部分を逐語訳すると以下になる。

riya-samataṃ:エナジーの、平らかさ(静けさ)Evenness

adhiṭṭhaha,:確立し注視する stands firmly; determines; fixes one's attention on.

indriyānanca:諸々の感覚器官(五官六官)

samataṃ:平らかさ、静けさ

paṭivijjha, :貫通し没入する pierce, penetrate

tattha ca :そうしてそこで

nimittaṃ: しるし、兆し

gaṇhāhī’’ti:把握する

Viriyaは取りあえずエナジーとしておくとして、次のsamataṃは平らかさ、平等、同等、などが考えられるが、今いちピンとこない。

実はこのsamataṃのsamaには他にも面白い意味がある。それは calmness, tranquillity, mental quiet などで、これはいわゆるサマタ・ヴィパッサナーのサマタ(Samatha)に相当するものだ。

SamataとSamathaではTとTHの違いだけであって、私の感触では、この二つは本来「かけてある」と考えられる。その重なりを前提にSama-taが意味する事は一体何か。

私は言語学者でもなく、ある意味「何の根拠も示せない」のだが、私の中のイメージでは、このSamaの心象は『天秤ばかり』に喩えると分かり易い。

天秤ばかりの中で最も簡単なものは、一本の棒の真中を支えて支点とし、その両側の支点から等しい距離にある点に、それぞれ質量を測定しようとする物体と、あらかじめ重さの分かっている分銅とをぶら下げ、分銅を増減して釣り合わせることによって、物体の質量を測定するものである。

この場合は、釣り合ったときの分銅の重さと、被測定物の重さが等しくなるので、ぶら下げた分銅の重さを足せば物体の重さが分かる。

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Wikipedia:天秤ばかりより

この天秤ばかりは、左右の重さが均等に釣り合えばバーが真っ平ら安定静止する。もちろんこの時、皿の高さレベルも等しくなる。この重さの等しさとバーの平らかさ(水平)、そしてその静止の安定。これこそが、「Sama」ではないか、と。

あるいは同じ天秤でも荷物を運ぶ『天秤棒』について考えてみる。

これは上写真の構造をそのまま大きくしてバーを肩に担ぎ、お皿部分に荷物を載せたりあるいは直接ぶら下げたりして運ぶスタイルで、おそらく世界中に普及している生活技術だろう。

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Wikipedia : JimPattonより

この天秤棒を肩に担ぎ左右(前後)に重さを振り分けてバランスをとる。等しく荷重が振り分けられていれば、棒は平らか安定しスムーズに歩き運ぶことができるのだ。

私も若干の経験があるが、この天秤棒担ぎの達人が速やかに歩き運ぶその姿は、「動」のさ中に不動の「静」が体現された絶妙の調和を見せる。例えば、その振り分けた荷が水を満々と湛えた二つのバケツだとしても、運搬のさ中に水面はほとんど平らかに動ぜず、一滴たりともこぼしたりはしないだろう。

その反対に下手糞な棒担ぎは、振り分けた重さのエネルギー・バランスを見失って、荷物も棒も(あたかも無秩序に荒れ狂う狂象の様に)上下左右シッチャカメッチャカに暴れている状態に惑乱する。

中村元博士はこのsamataṃを『平等』と訳したが、この言葉は現代日本人にとっては「権利の平等」とかいうイメージが強く、全く適切ではないし、彼自身、この訳語に納得していないからこそ「釣り合いのとれた」という注記を付したのだろう。

Samaという言葉は、天秤(はかり・棒)の喩えで示した様な「等しい」が故の「平らか」「静止安定」なのだ。

その意味では博士の「釣り合いのとれた」という注記は全く微妙に正しいのだが、惜しむらくはこのサマタの前の Viriya『努力』と訳した時点で既に根本的な齟齬をきたしているので、大変残念な結果になってしまった

それはさておき、ここで重要なのは、はかりであれ棒であれ『天秤』のバランスを完璧にとる為には、非常に繊細で注意深い『心的作業』が必要だ、という事だろう。

天秤ばかりの場合もそうだが、特に天秤棒で重い荷を振り分けて運ぶ場合は瞬間瞬間の絶えざる『気づき』と高度のバランス感覚とが求められる。

その時、慣れている熟練の担ぎ手は、瞬間的に「重さというエネルギー」そのバランスの中心を観取して揺るがぬ安定を把握し、一気に迷うことなく歩き出しそのまま突き進んで行く(熟練者のそれは、ほとんど無意識=非言語意識 的に行われる)

この「一気に迷うことなく」というのが重要で、なまじバランスの崩れを恐れオタオタして躊躇していると余計にバランスを失って歩き出せないし歩き続けられない。

(この喩え話は経験者にしか分からない事かも知れないが)

このような ”熟練した担ぎ手のイメージ” を、感覚的にそのまま『瞑想実践』のさ中に当てはめたものこそが、

riyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca
samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti.

というパーリ文言なのだと言ったら、多少なりとも理解する助けになるだろうか。

これは、先の逐語訳を踏まえて、

(瞑想実践において)エナジーの平衡点を見出して注意深く安定を確立(チューニング)し、そこで現成する五官・六官の平らかな静まり、その寂止(サマタ)へと没入する。そこで「兆し」をつかめ。

とでも訳せば、当たらずとも遠からずだろう。冒頭に引用した過去訳を下に再掲するので比較してみて欲しい。

「(瞑想実践行において)エナジー調弦(最適化)をピシッと決めて、その時生れる六官の平らかさ(静謐=equanimity=サマタ)の中に深く入り込み、そこにおいて観じなさい」

ここで言う「エナジーの平衡点」や「エナジー調弦」は、瞑想実践者の身体内部のエナジーについて語っているものであり、その「見い出し」や「調節」はあくまで目に見えない『内なる心的作業』として行われる。

この作業は、天秤ばかりを使う時に必要とされるような、あるいは以前にも書いた「レンズを使って太陽光を集めて黒い紙に光の焦点を合わせて燃やす」作業にも近い、極めて繊細かつ注意深いものだ。

この場合、レンズと紙の距離における遠近の調整その「合焦点」が、天秤の「平衡点」に当たる。

これこそが、瞑想実践のさ中における繊細精妙な「技術的な要諦(コツ)」について、「ヴィーナの譬え」を用いてブッダがソーナ比丘に示唆した事の『真意』なのだ。

そこで問題になるのが、瞑想実践において“evenness in energy(viriya-samataṃ)”と “evenness of the faculties(indriyānanca-samataṃ)” それぞれが具体的に意味するところとその関係性になる。

この Viriyaと Indriya に同時にかかっている Samatamという概念は、全く同じ Samatam なのだろうか。だとしたら、Viriya Indriya(器官)も本質的に「同じ事柄について」語っているのではないか?

ここで思い出して欲しいのは、この Viriyam が、『三つの苦行』について記述したパーリ原文の中でも、極めて印象的な使われ方をしていた事実だ。

沙門シッダールタは「歯と舌の苦行」と「止息の苦行」の実践において、

わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。

として、七覚支の内の精進(Viriya)思念(Satiの二つを備えていたというのだが、この「精進に励んだ」を、これまでの文脈を踏まえた上で仮にエナジーをかき立てた」と訳してみる。

続いて、その苦しみのさ中の状況は

それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった

と表現されていたのだが、この苦の感受の観察記述は、苦行を中止して改めて菩提樹下で禅定に入った時の、

わたしは~遠離によって生じた喜楽のある初禅を成就して住した。

実に王子よ、わたしに生じたそのような安楽の感受は、私の心を占領してとどまらなかった

という記述と、「苦であれ安楽であれ『感受』心を一時占領しても、とどまらないでやがて消え去っていく」という無常の真理の確認を共有しており、無駄にも見えた苦行体験は、実は悟りに至る禅定に向けて確実に連接するものだった。

この『連接』は、当然 Viriya にも何らかの形で投影されなければならない。

何故なら、『七覚支』に見られるように、Viriya と Sati「セット」は、禅定に入る為にも極めて重要な役割を果たしていたのは明らかだからだ。

サティが『気づき』だという事はもはや誰でもが常識として知っている事だが、ここでViriya が意味する事、それは果たして人口に膾炙している様な『努力・精進』に過ぎないのか、七覚支においてもう一度考えて欲しい。

苦行のさ中にも備わっていた Viriya と七覚支における Viriya とは、果たして同じViriyaなのか違うViriyaなのか。Viriya の原意を忠実にくみ取れば、それは本ブログでこれまで論じて来た様にエナジーとするのが妥当だとしたら、それを取りあえず七覚支においても適用してみたらどうなるか

その時、七覚支における「Viriya」という語の真義とは、正にヴィーナの譬えで取り扱った「vīriya-samataṃ」つまりエナジーの平衡点の確立・安定・静まり」「張力エナジーの適切なチューニング」ではなかっただろうか。

この事は、七覚支の七つの要素がどのような順番で並べられているか、という事に注視すれば、自ずから明らかになるだろう。

一般に七覚支は以下のような順番で記述され説明されている。

Wikipedia:七覚支

念覚支sati-sambojjhaṅga) - 気づき(サティ)。心で今の瞬間の現象を自覚すること。

択法覚支(dhamma-vicaya--sambojjhaṅga) - 法の中から真実のものを選ぶ。

精進覚支(viriya-sambojjhaṅga) - 努力

喜覚支(pīti-sambojjhaṅga) - 喜びに住する

軽安覚支(passaddhi-sambojjhaṅga) - 心身に軽やかさ・快適さを感じる

定覚支(samādhi-sambojjhaṅga) - 心が集中して乱れない

捨覚支(upekkhā-sambojjhaṅga) - 。対象に囚われない

これは一般的に瞑想実践のさ中に現れる(あるいは必要とされる)悟りに向かう心的要素を ”順番に” 並べたものだと言われている。それは『気づき=サティ』で始まり『捨=ウペッカー』で終わっている事からも明らかだろう。

これはあくまでも「センス」の問題かも知れないが、ここで Viriya がもし単なる『努力・精進』に過ぎないとしたら、それが一番最初に来ないのはなんとも訝しい。

いわゆる「八正道」において、『正精進 sammā-vāyāma』が『正念 sammā-sati』の手前にある事を思い出そう。

ここでViriya以外のSatiからUpekkhaに至る単語は、極めて専門性の高い術語だ。私に言わせれば、その中盤に努力・精進などというなんとも通俗的な概念が混入している事に、まず違和感を感じずにはいられない。

繰り返すが、この七覚支とは、瞑想実践のさ中と言う極めて特殊な『時空間』内部について語っているものだ。その様な特殊な時空間が成立する大前提として、既に『努力・精進』などという初歩的な要素は当然備わっていなければおかしいからだ。

その上で、七覚支の Viriya を苦行時のそれと同じエナジーと訳した時、どのような視程が開けるだろうか。

同様にサティ=気づきも両者で共有されてはいるのだが、苦行時のサティが無常の観察を成している事実を考慮すれば、おそらくこの二つのサティに基本的な違いはないのだろう。

(以前に投稿した様に、この「サティ=気づき」という心的営為は、既にヴェーダ「賛歌瞑想」において基本的に成立していたものだ)

これは次回以降詳述するが、苦行時と悟達時の二つにおいて決定的に違ったのは、「Viriya=エナジーの運用のあり方」だった、と私は考えている。菩提樹下の禅定において、Viriyaの「質的な転換」が起こり、だからこそ覚りへの道が開けたのだと。

それは、先に苦行の文脈で仮訳したエナジーをかきたてる」状態からエナジー出力の繊細なチューニング」への、明確なシフトによって初めて成し遂げられたのだ。

この『シフト』に関しては、かなり上の方で「狂象の調御の喩え」と絡めて既に言及している。

出家したばかりの若く未熟な比丘の内部には、圧倒的なまでの男性的な生命エネルギーであるViriya(Vīryam=精力、エナジー)が渦巻いている。それを瞑想修行に “向けて(調御=シフトして)” チューニング(調御)し、活用(善用)する。

そのエナジー・フローを調御し、調節し、シフトし、チューニングして、瞑想実践という『Kamma=仕事』の中で、針先の一点において焦点を合わせ切る(paṭivijjha : pierce or penetrate=貫入・突破)。

そこで

ヴィーナの調弦=「チューニング:弦の張力エナジーのバランス調節 ⇒ 名演奏による聴衆の歓喜」と

狂象の調御=「オス象の生命エナジー(貪欲・怒り)の平定と調節 ⇒ 役畜転用による労働利益」と

比丘の修道=「男性的生命エナジー(貪欲・怒り)の平定と調節 ⇒ 瞑想実践による悟り」は、

同じ「文脈の流れ」として重ね合わされている。

と書いた事が、そのまま「苦行の Viriya と七覚支の Vriya」の関係性においてもエナジーのチューニング(最適化調節)」として当てはまるのだ。

七覚支についてはネット上でも様々な解説・文言が見受けられるが、この「Viriyaの質的な転換」「エナジーのチューニング」を踏まえた上で、私流に七覚支を解釈すると以下のような流れになる。

もちろん努力精進などは自明の大前提とした上で~

Sati=気づき』の瞑想を行い、

そこで体験される様々な『現象=Dhamma』を観察し、その中で正しいゴールに導くものを選び取って特に注視・専念する事によって(チューニングがなされ)、

やがて心的なSati Field(気づきの意識場)』に『Viriya=エナジー』のある種『平衡点(サマタ)』が観取され(立ち現われ)るから、そこに一気に没入する事によって、

『Piti=喜び』が自ずから生じ、しかしそれに捉われずに粛々と瞑想行を深めれば、

『Passaddhi=軽安』が生じ、それにも捉われずに更に行じ進めれば、

『samādhi=禅定(教義的には第四禅定)』が確立し、その果てに

『upekkhā=捨、完全な遠離』が体現される。

この流れは、私自身のリアルな瞑想体験を下敷きにしたものなので、中々他者に理解を求める方が無理筋なのかも知れないが、ピティ以降を経験する為には、ある種「日常意識」『ボーダー』超えなければならない、というのが率直な実感だ。

ボーダーを超えた『没入』のさ中で初めて経験され得るのがピティ以降~ウペッカーなのだ(語感的に余り使いたくはないが、要は『変性意識』状態)

『七つの覚りの支分』を標榜する文言の中で、瞑想実践上決定的な意味を持つこの「ボーダーの突破(paṭivijjha : pierce or penetrate)」が言及されていないのは極めて不自然であり、もしViriyaが単なる『努力』に過ぎないとしたら、それは『経典』としては極めて不明・不手際(遺憾)である、としか私には言いようがない。

(逆に言うと、「瞑想実践を見失った者」がこの Viriya を単なる『努力・精進』とするのは全く自然であり、不可避な成り行きだったのかも知れない)

この「ボーダーの突破」について、正に的確に示唆したのが、ブッダによってソーナに語られた『ヴィーナの譬え』における、

riyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca
samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti.

(気づきの瞑想の中で)エナジーの平衡点を見出して注意深く安定を確立し(チューニング)、そこで現成する五官・六官の平静な静まり、「寂止」へと没入する。そこで「兆し=ニミッタ」をつかめ。

という言葉なのだと理解されるべきであり、だからこそ「七覚支」中盤の「ターニング・ポイント」としての Viriya なのだ。

ここでは、言葉のアヤで「確立し」とか「没入し」とか、「自分が行為している」かのような表現になりがちだが、しかし実際に起こる事は、文字通り自ずから起こる、というのが限りなく正解に近く、「択法」にしても「没入」にしても、主体的に「為す」のはある種「ベクトルの舵取り」程度のものに過ぎず、その方向が正しくかつ集中力さえ途切れなければ、全てのプロセスは水が高きから低きに流れる様に、自ずから進展する。

この様な瞑想実践上の具体的な体験その機微に関しては、本質的に「言葉では説明できない・し難い」部分も多く、私はその様な領域に関してはこれまでも極力言語化してグダグダ説明する事を避けて来た。

しかし、このViriyaという概念は実践的に極めて重要なものなので、今回は最低限踏み込んで、様々な譬えを交えて可能な限りリアルにイメージ出来るように説明を試みたが、その正確性については自ずから限界がある。

二回にわたって論じてきたこの「Viriya=エナジーにまつわる様々な事柄は、今後の投稿の中でもその論理構成の基盤としてたびたび登場してくる。抽象的で分かりにくい部分もあるかも知れないが、充分に咀嚼して可能な限り「感得」してもらえたら、と思う。

逆に言うと、特定の様々な文脈で共有されているこの「Viriya」を、これまで通りの『努力・精進』としか捉えられない人にとっては、ここから先の私の論述は全て空論・戯論の類にならざるを得ないので、もはや読む必要は全くない。

(その様な人々には、おそらく本ブログの全ての内容が空理空論に映っているのだろう)

今回の『天秤棒の喩え』については、中村元注記の「釣り合いのとれた」という言葉としてそのまま『努力・精進』に適用してもそれなりに意味を成すので、そう思っていたい人はそう思っていれば良いと思う。

私としては「そういう人は、弦楽器のチューニングも象の調教も天秤棒運びも全く何一つ知らないのだな」と肩をすくめるしかない。 

と言う訳で、どうやら外堀を埋める煩瑣な作業も、ようやく終わりに近づいてきた。

次回以降、沙門シッダールタが覚りを開く前に邁進したと強調されている『三つの苦行』の詳細を、内部化された祭祀、並びに『地水火風』とそのエナジー(Viriya)性、という観点から、詳らかに見ていきたいと思う。

『地水火風』が持つエナジーとその『平衡点』(vīriya-samataṃ)というものが、実践的にどのような意味を持ち具体的にどのように立ち現われて沙門シッダールタによって観取され、それがどう「覚りの瞑想行法」その核心へとつながっていったのか。

ひとつのキーワードは『聖化』だ。

前回論じてたように、すでに日常において身体の中に地や火や風や水が内部化されているのならば、取り立てて特別な事をする必要はないとも言えるだろう。

しかし、それが日常であるが故に、やはりそのままでは『内なる祭祀』には適用できないのだ。何故なら、祭祀に使われる地や水や火や風は、特別に『聖(浄)化』された物でなければ、ならないからだ。

既に体内に存在している「地水火風」を、内なる祭祀の為に『聖化(浄化)選別』する。何よりも聖と浄の極みである解脱、つまり『至高のブラフマンに向けて。

沙門シッダールタが希求していたものが、果たして『不死なるブラフマンであったか否かに関しては様々な反論が予想されるが、本稿では「確信犯的に」この仮説を採った上で「読み」進めていく。

おそらく沙門シッダールタも、当初は伝統的な「内なる火の祭祀」という文脈の上で試行錯誤しながら苦行を試みていた。けれどもそれによってブラフマンの解脱智」=絶対安心が得られなかった彼は、その内なる火の祭祀 ‟質的に転換して” 、覚りに至る「解脱に至る瞑想法」へと昇華していったのだ。

もちろん、この『内なる火の祭祀の質的転換』こそが「Viriya=エナジーの質的転換」であり、すなわち「弦音のチューニング」であり「狂象の調御」であり「平衡点の観取・突破」に他ならない。

この辺りの消息こそが、最もエキサイティングで面白い部分だろう。

 

(本投稿はYahooブログ 2015/11/15「瞑想実践の科学 50 “Vīryam”と貴乃花と発情期の狂象」を加筆修正の上移転したものです)

 

 

 

 


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