仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ヴィーナと比丘、それぞれの『仕事(Kamma)』

箜篌(くご=ヴィーナ)の喩えとは、単なる「バランスのとれた中ほど(中道)の修行」などという抽象的な一般論的人生訓話ではなく、瞑想実践における具体的な『進め方』についての『技術的な』アドバイスであった。

そのような視点から、『チューニング』というキーワードを起点に、前回いろいろと論じた上で、最後に私はこう書いた。

「チューニング(調弦)」とはサマタ瞑想を暗喩し「妙なる響きを発する」とはヴィパッサナ瞑想を意味するのではないか、と。

その上で、さらなるキーワードとして、中村元博士が「妙なる響きを発するであろうか?」と訳した、そのパーリ原文である kammannā vā ti? を引用し、その核心部分とも言える “kamma” に対する注意を促した。

この kammannā vā ti? における “kamma” とは、いわゆる、Kamma ṭṭhāna(業処)の “kamma” と重なり合うものではなかったか、という視点だ。

このKamma ṭṭhāna(業処)、スマナサーラ長老の解説によればこの“kamma”とは『仕事』もしくは『作業』であり、“ṭṭhāna”とは『場所』を意味する。

サラリーマンであれば会社のオフィスがKamma ṭṭhāna(業処)、つまり『仕事場』になる。

そしてこの言葉が出家比丘の修行道という文脈で取り扱われる時には、狭義ではメディテーション・オブジェクト(瞑想対象)を意味する事になるらしい。

比丘の『仕事』とは瞑想行以外にはあり得ないから、Kammaは瞑想行、そしてその瞑想には様々な気づきの対象があり、例えばアナパナ・サティであれば呼吸、それがṭṭhāna、になる。

比丘の仕事(Kamma)は瞑想行であり、その瞑想行は常に気づきの対象を必要としている。だから、Kamma ṭṭhāna(業処)、という結合語が広義では瞑想行そのものをも意味するようになる。

なので瞑想行を深め極めた先生の事を、Kamma ṭṭhāna Acariya と呼び、その語義は “メディテーション・マスター” になるという。

KammaとはサンスクリットのKarmaでありカルマ=業(行為)だから、日本の大乗仏教的な印象だと、輪廻転生的な文脈の中での悪業とか善業とか因果応報とかいう文脈を思い浮かべがちだ。

しかしここで言うカンマ(業=Kamma)とはその様な意味合いではなく、比丘の唯一至上の 『仕事』としての瞑想行を、直接的に表している訳だ。

そこで本来の箜篌の喩えに戻って、原文の真意を考えてみたい。

~以下、前回の再掲。英訳文はネット上に上がっている《Full text of "The Book of the discipline : (Vinaya-pitaka)"》よりの引用。パーリ原文はTipitaka,org さんよりの引用。日本語訳は中村元訳からの引用。

"What do you think about this, Sona ? When the strings of your lute were neither too taut nor too slack, but were keyed to an even pitch, was your lute at that time tuneful and fit for playing ?"

‘‘Taṃ kiṃ mannasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo neva accāyatā honti nātisithilā, same guṇe patiṭṭhitā, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti, kammannā vā’’ti?

「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎてもいないし、緩やかすぎてもいないで、平等な(正しい)度合いを保っているならば、そのとき琴は音声にこころよく妙なるひびきを発するであろうか?」

上記、オレンジ色でハイライトした部分、kammannā vā’’ti? を、英訳では、fit for playing ?、中村元訳では「妙なるひびきを発するであろうか?」としていて、それぞれ表現は異なる。

しかし、この「Kamma」が本来『仕事』を意味するのならば、このパーリ原文の真意とは、「琴(あるいはその奏者)の本来の『仕事』である妙なるメロディを奏でて聴衆を楽しませる事が出来るだろうか?」という意味だと考えられる。

要は、「その琴で真っ当な『仕事』ができるか?」と問うているのだ。

そして重要なのは、その真っ当な『仕事』をするための必須的下準備仕事(作業)として、調弦、つまり『チューニング』というものが念頭に置かれている、という事実だ。

前回私は、自分の個人的な経験から、この調弦すなわちチューニングを、山仕事で使う鋸や草刈機やチェーンソーの歯の目立て作業に重ねて考えてみた。

弦楽器の調弦と鋸の目立ては、その作業の性質だけではなく、『意味』においても重なる部分が多いからだ。

鋸やチェーンソーや草刈機の仕事とは、山の現場に入って木を切ったり草を刈ったりすることだ。これが『本仕事』になる。

しかし、この本仕事を全うする為には『下仕事』としての道具の手入れ、すなわち『目立て』が必須になる。

私が現役で山仕事をこなしていた頃は、山から帰ると必ず作業小屋にこもって目立てやエンジンの整備にひと時を費やしたものだ(ちなみにエンジンの調整を英語でチューニングと言う)。

同じような光景は、インド楽器の奏者においても普遍的に見られるものだ。

私は音楽を焦点としてインド旅行をしてはいなかったので余り多くはないが、それでも何回か、シタールなどのライブ・コンサートを楽しんだ事がある。

彼ら奏者が楽器を持ってさほど大きくはない会場の舞台に座を占めると、すでに居並んで演奏開始を待っている聴衆などまるで眼中にないかの様に、やおら調弦作業に没頭し始めたものだ。

奏者が複数であれば、このチューニング作業はやがて相互に確認する『音合わせ』作業にもなっていく。

つまり複数楽器、例えばタブラとシタールがあったならば、それぞれの奏者がそれぞれの楽器をチューニングしつつ音を出し、それが相互の音合わせによって最終的に完成する。

聴衆は、この音合わせのチューニングが始まったら油断はできない。インド人の場合、しばしばこの音合わせの状態からなし崩し的に、気分次第で本演奏になだれ込んでしまうからだ。

私はこのタブラやシタールのチューニングをしているさなかのインド人奏者の表情を見ながら、それをとても美しいものだと思った。そして、とても『瞑想的』だと思ったものだ。

何故私が、このような個人的かつ主観的な思い出話を長々と語るか分かるだろうか?

それは、このような経験的かつ心象的なヴィジョンこそが、ブッダによってソーナ比丘に説かれたという箜篌の喩えにおいて、欠かすことのできない大切な前提条件そのものだからだ。

ヴィーナのチューニング指導 

上のビデオの解説欄には以下のような記述がある。

The most important part of training a student of the veena is to get them to tune it from day one and in every class for the next two months.

ヴィーナ教習の最も重要なトレーニングは、生徒自身に調弦させる事で、これはクラスの初日から二か月間毎回行われる。

If necessary the teacher should be available on the phone to tune their veena at home.

もし必要なら、指導者は生徒の自宅にあるヴィーナをチューニングする為に電話を通じて手助けしなければならない事もある。

Learners must be encouraged to use their hearing capabilities rather than apps which do that job for them.

生徒たちはチューニング・アプリなど使わないで、自らの耳で聴く能力を用いるよう奨励される。

A lot of patience and perseverance over a period of time is required to master it.

調弦をマスターするためには、多くの忍耐と根気を求められる長きにわたる時間が必要なのだ。

I firmly believe that the entire exercise of tuning the veena is meditative and students must be taught to enjoy the experience.

ヴィーナを調弦するという作業は総じて極めて瞑想的なものであり、生徒はそれを楽しむように教えられるべきだと私は固く信じている。

ソーナ比丘は出家前には大商人の御曹司として恵まれた半生を送っていたらしい。余りにも甘やかされていたが為に一度も地面の上を歩いたことがないので足の裏に産毛が生えていたとか、あるいは生まれた直後に父から二十億金を贈られて全身が黄金(ソーナ)色に輝いたとか、かなり尾ひれがついているほどだ。

(ソーナ・コーラヴィサのコーラヴィサとは、『二十億』を意味するとか。つまり姓名合わせて『二十億の黄金!』)

そんな彼は、上流階級のたしなみとしてヴィーナをこよなく愛していたのだろう。ここまで取り上げて来た様なインド人奏者がチューニングする姿は、ソーナ自身の極めてリアルな経験的心象風景そのものだったはずだ。

それをまざまざと想起せずにブッダ箜篌の喩えを表面的に読んでも、その真意は決して理解できない。できるはずがないのだ。

私はこれまで、ブッダをはじめとした古代インド人の、このような『心象風景』の大切さを折に触れ繰り返し語ってきたが、その理由がそこにある。

何故なら、ブッダ自身が、対面者の心象を直感的に観取する能力において極めて優れた資質を持っていたからだ。

彼は常に相手の心象世界に即して、分かりやすい喩え話を用いた。おそらく彼は自分が喩え話をしているさなかに、それを聞いている相手の心象が刻々と変化して行く様子をまざまざと観取する事が出来、その蒙が啓けて、心に一筋の光が差していく様子が、ありありと観て取れた事だろう。

このような優れた資質こそが、あらゆる『対機説法』の根底にはある。

『リアルに心象をプロファイリングする』

これはこれまで私が使ってきた表現だが、ブッダは正にこの『プロファイリング』あるいは『リーディング』の達人だったのだ。私はそれを後追いして辿っているに過ぎない。

ヴィーナ奏者の仕事(Kamma)には二つの段階がある。ひとつは下準備としての調弦によってその音色をチューニングする事。もうひとつは理想的にチューニングされた楽器を使って、妙なるメロディーを奏でる事。

最終的な目的(結果)として、その様な妙なるメロディーによって聴衆を歓喜させる事ももちろん視野に入れるべきかも知れない。

では、今は出家比丘であるソーナにとって、比丘としてやるべき仕事(Kamma)とは何だろうか? それは彼岸に向けての瞑想行以外にはありえないだろう(違うだろうか?)。

そしてヴィーナと同じようにこの瞑想行という比丘の仕事には二つの段階がある。それはヴィーナの調弦と完全な調弦を前提にして初めてまっとうできる名演に譬えられる。

その前段階としての『調弦・調音』に当たるものは、サマタ瞑想以外に私には思いつかない。これは日本仏教の伝統的な『調身・調息・調心』という言葉を並置すれば分かり易いだろう。

ならば、本仕事として『妙なるメロディーを奏でる』事は、これもまたヴィパッサナー瞑想以外ではあり得ない。

その様な本仕事としてのヴィパッサナーが全うされて初めて、彼岸に至る事が出来る(聴衆を歓喜させる事が出来る)。

逆に言うと、まだ調弦のチューニングであるサマタさえ確立していない段階で、いくら彼岸を熱望しても、原理的に『無理』なのだ。

調弦されていないヴィーナをいくら気合を入れて弾いても、それで聴衆を(あるいは神を!)歓喜させることができるだろうか?

その様な『無理』と『道理』のことわりを、ブッダはヴィーナの調弦に託してソーナに説き聞かせた。

「ヴィーナの名手であった汝ならば、この『ことわり(ダルマ)』が分からないはずはなかろう?」と。

もちろんその背景心象として、「ヴィーナと身体の重ね合わせ」があったのは間違いない。ブッダがヴィーナの譬えを説き聞かせていた時、そのヴィーナとはソーナにとっては自分の身体そのものだったのだ。

その事は、箜篌の喩えの後半部を読めば明らかだと私には思われるのだが、どうだろうか。

"Even so, Sona, does too much output of energy conduce to restlessness, does too feeble energy conduce to slothfulness."

‘‘Evameva kho, soṇa, accāraddhariya uddhaccāya saṃvattati, atilīnariya kosajjāya saṃvattati.

「それと同様に、あまりに緊張して努力しすぎるならば、こころが昂ぶることになり、また努力しないであまりにもだらけているならば怠惰となる」

Therefore do you, Sona, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it."

Tasmātiha tvaṃ, soṇa, riyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti.

「それ故に汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。もろもろの器官平等なありさまに達せよ。」

これら最終節には、ブッダの瞑想行道において極めて重要な意味を持つキーワードが、これでもかと盛られているのが、一目瞭然だろう。

おそらく中村元博士は、自ら訳しながら、この文脈が意味する所を全く理解できていない。逐語的に一応不自然でない様に日本語を並べただけに見える。

誰か読者の方でもいい。特に最後の「もろもろの器官の平等なありさに達せよと」言う言葉の意味が説明できる人がいるだろうか。

分かりにくい日本語訳に比べて、英語の方がはるかに文脈に即した適切な翻訳を体現していると私の目には映る。 

以下に、その瞑想行道に関わる『専門用語』を読み解いていきたい。まず、最初に私が注目したのは“Viriya”だった。

"Even so, Sona, does too much output of energy conduce to restlessness, does too feeble energy conduce to slothfulness."
‘‘Evameva kho, soṇa, accāraddhariya uddhaccāya saṃvattati, atilīnariya kosajjāya saṃvattati.

「それと同様に、あまりに緊張して努力しすぎるならば、こころが昂ぶることになり、また努力しないであまりにもだらけているならば怠惰となる」

このパーリ言語で“Viriyam”と表記された言葉を中村元訳では『努力』という平易で日常的な日本語に訳しているが、英語の訳では “(output of) energy” となっている。

このViriyaが精進とか努力とか訳されるのは日本においては一般的な事なので、中村元訳はその文脈からは決して外れてはいない。

では、この精進とか努力とかいう日本語によって、私たちの心象に立ちあがるイメージとは何だろうか。それは、いわゆる「一生懸命に何事かに努め励む」という様な、精神論的・人生訓話的なイメージではないだろうか?

しかし、英訳では極めて単純に、この Viriya を “Energy” の一語で訳しきっている。エナジー、つまりエネルギーでありパワーであり、『力(ちから)』だ。

努力・精進と単なる『エネルギー・力』。その心象はかなり異なって見えるのだが、いったい、どちらがブッダの真意により則した翻訳なのだろうか?

そこでこのViriyaというパーリ原語を辞書で引いてみると、色々と面白い事実が明らかになる。

まず、Pali text societyさんの辞書でViriyaを引いてみよう。

Viriya (nt.) [fr. vīra. Vedic vīrya & vīria] . "state of a strong man," vigour, energy, effort, exertion.

accāraddha˚ too much exertion
atilīna˚ too little exertion;
uṭṭhāna˚ initiative or rousing energy 
nara˚ manly strength 
viriyaŋ āra(m)bhati to put forth energy, to make an effort in :

alīna˚ alert, energetic.
āraddha˚ full of energy, putting forth energy, strenuous.
˚ Viriyaが入る)

こうやって見てみると、確かにeffortやexertionという努力・精進と訳しうる単語もあるが、総じて、単なるEnergyあるいはVigour、Strengthといった、単純な『力(ちから)』の意味を取っている場合が多いようだ。

(ちなみに、Viriyaの語幹であるVīraを辞書で引くと、色々と面白い事が書いてある。それはマハヴィーラやヴィーラバドラのヴィーラなのだ)

そして努力・精進にあたるeffortやexertionもまた、語義的には『出力(output of energy )』を意味する度合いが強く、これは努力という漢字熟語が『力』を二つも抱えている、という事実とも符合するだろう。

通常、私たちが『努力』という言葉によって生起させる心象は『努め励む事』、などという精神論的な意味合いが強いのだが、その本来の字義は『力を出す』、という事で、この原義の方にViriyaの真意はより近い、という印象を受けた。

そこでヴィーナの喩えに戻って考えてみたい。ヴィーナの調弦あるいは “チューニング” とはそもそもどのような作業であるか、と。

この調弦という作業は、何よりも弦にかかる『張力』の調整ではないのか、という視点だ。

これは弦楽器と言うものの原像としての、『弓』という武器を思い起こせばリアルに実感できる。

ヴェーダの時代主に用いられていたのは弓型(ハープ型)のVanaであったのは以前紹介したが、この弓と言う武器は何よりもその張力の強さによって兵器としての威力が計られたものだった。

その為仏典などでもよく見られるように、「十人力の強弓を引く戦士の剛力」などと言う形で、常に男性的な『力・エナジー(正にヴィーラ!)」と重ね合わせて語られて来たのだ。

古代インド人たるソーナ・コーリヴィサが愛用していたヴィーナが、どのようなシステムで弦を張りその調弦をなしていたのかは明らかではない。

私としては、身体との重ね合わせを考慮すれば、以前掲載したシュンガ朝時代の仏跡にある琵琶タイプではないかと推測している。

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ブッダの時代に最も近いシュンガ朝時代のヴィーナ

上のいわゆるシンプルな琵琶型のヴィーナをみると、見慣れたペグが交互に五本出ているのが見て取れるが、これを回す事によって弦の張力を調節していたのだろう。

たとえどのようなシステムであれ、弦の張り具合その張力を、力加減で『調節する』、という『原理』は同じだ。

そう、ここで重要になってくるのが、チューニング(調弦)の背後にある『力の調節』というイメージだ。

「演奏する前段階としての『調弦・調音』にあたるものこそが、サマタ瞑想に他ならない。これは伝統的な『調身・調息・調心』という言葉を並置すれば分かりやすい」

この『調身・調息・調心』というもの。一般的には、「身を調え息を調え心を調える」などと通俗的に捉えがちで、ととのえる(調える・整える)というと何か漠然とした観念論になってしまいがちだが、その真意とは、もっと具体的なものだったのではないだろうか。

それは調弦と同じようなチューニングであり、『力(エネルギー)を調節して最適化する作業、という、より実践的な意味合いだ。

喩えてみれば、太陽光を虫眼鏡で集めて黒い紙を燃やす、という実験を思い出してみよう。あの時、私たちは黒い紙から煙が立ち上るまでに、一体どのような作業に注力しただろうか。

レンズと太陽と紙の位置関係や角度、さらにレンズと紙の焦点距離を、細心の注意力をもって、調節し、チューニングしたのではなかっただろうか。

黒い紙の表面にレンズで集められた太陽の光(エナジー)が、針先の一点となって収斂するベスト・ポジション。それを実現する為の針の穴を通すような繊細な作業と注意力。

そこにおいて必要とされる心的はたらきとは、努力・精進などという漠然とした大雑把な観念ではなく、より具体的かつ実践的な『緻密な作業』ではなかっただろうか。

ここで実践的、というのは、もちろんヴィーナの調弦が具体的で実践的な『プラクティカルな作業である』、というのと同じような意味で、瞑想行における実践的な『作業(Kamma)』という意味に直接つながるものだ。

ブッダはヴィーナの名手であるソーナの、その心象に訴えて、瞑想実践行という『仕事』をする上での『コツ』を伝授した。

そのコツとは、瞑想する自身の身体において、エナジー出力を『加減し調節して最適化する』事だった。あたかも太陽光をレンズで集めて、針先の一点というベスト・ポジションに収斂するように。

張力というエナジーを調節して(チューニングして)最適化するように。

では、瞑想修行する比丘の心身総体において、ヴィーナの弦における『張力』に相当する『エナジー』とは一体何だったのだろうか。そしてさらに、彼にとっての『弦』とは?

太陽光(エナジー)にあたるものとは、黒い紙にあたるものとは、一体なんだったのだろうか?

Therefore do you, Sona, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it."
Tasmātiha tvaṃ, soṇa, riyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti.

「それ故に汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。もろもろの器官平等ありさまに達せよ」

今回の論考を踏まえた上で、この箜篌の喩えの結語について改めて熟読した時、どのようなパースペクティヴが広がるだろうか。

中村元博士が、「もろもろの器官の平等なありさまに達せよ」と訳したブッダの言葉のその『真意』とは、一体、何だったのだろうか?

ここで重要になってくるのが、平等な(釣り合いのとれた)という日本語訳のパーリ原語であるsamataṃであり、もろもろの器官、の原語であるindriyāだ。

最初のsamataṃという言葉はある意味、ブッダの瞑想行法の作用機序を象徴するような概念であり、サマタ・ヴィパッサナー(止観)という時のSamathaという術語とも、密接な関わりを持っていると考えられる。

そして、二番目の『諸々の器官(indriyā)』。

これは後日改めて詳述する予定だが、瞑想実践において極めて重要な意味を持つ『感官の防護』における感官(indriya)そのものを指している。

今回焦点を当てて考察してきたViriya。実はYahooブログの過去記事で、以前に一度、このViriyaという単語について、簡単に取り上げた。

Viriyaという仏教用語。それは「瞑想実践の科学 23:歯と舌の“行法”」 以降の考察でとりあげた、沙門シッダールタが悪戦苦闘したという歯と舌の行法、そして止息の行法という “苦行” において、象徴的に登場してきた単語であり、同時にいわゆる七覚支の三番目にあたる言葉だ。

面白いもので私自身、それらの記事を書いている時点では、まさかこのような形で回顧する事になるとは思ってもいなかったのだが。

そこで私は以下のように書いている。

「この歯と舌の行法、止息の行法、そして断食の行法という三種の行は、ある共通項によって有意に結びついています。それは、“口の周り(Parimukham)”です。」

瞑想実践の科学 24「隠された“苦行”の真意」より

 

「しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進(Viriya)に励んだ。思念Satiはそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかった。それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。」

(春秋社刊 原始仏典 :中部経典第85経 「生涯で三度三法に帰依した王子」菩提王子経:Bodhirajakumara Suttaより引用)

 

「沙門シッダールタによって、無意味な失敗した苦行として捨てられたはずの「歯と舌の行法」と「止息の行法」の解説において、ViriyaとSati、そしてJhanaという仏教瞑想の正統における重要な概念が共有されている」
瞑想実践の科学 26「苦行はサティやジャーナと共」により

ここで端的に言えば、沙門シッダールタはこの時、正にViriya(エナジー)の最適化(チューニング)の理(ことわり=ダルマ)を悟ったのだ、と考えられる。

そのことわりをこそ、ブッダは、

Therefore do you, Sona, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it."

Tasmātiha tvaṃ, soṇa, riyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca
samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti.

中村元訳はこの部分に関しては実質的に全く意味をなしていない)

という表現でソーナに伝えたかったのではなかったか、と。

そこで重要なのは、pierce / paṭivijjha と、reflect upon it / nimittaṃ gaṇhāhī’’ti だ。

後者の nimittaṃ gaṇhāhī’’ti は瞑想実践そのものを表している。

nimittaŋ gaṇhāti

to make something the object of a thought, to catch up a theme for reflection.

Pali text society より

ニミッタとはテーラワーダ系のヴィパッサナーをある程度学んだ者にとっては当たり前の専門術語であり、英訳のリフレクションもまたインド語の『瞑想』に対応する訳語としてしばしば用いられる。

そしてgaṇhātiの意味は英語でGrasp、つまり『つかむ』事だ。

Gaṇhati & Gaṇhāti : to grasp

Pali text society より

これを直訳したら、「ニミッタをつかめ!」にでもなるだろうか。

ブッダによるソーナ比丘に向けた箜篌の喩え、その最後に置かれた

determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it.

riyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca
samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti.

という結語を私なりに訳すならば、

「(瞑想実践行において)エナジー調弦(最適化)をピシッ決めて、その時生れる六官平らかさ(静謐=equanimity=サマタ)の中に深く入り込み、そこにおいて観じなさい

となり、まさに瞑想実践上の具体的なアドバイス以外の何物でもない事が明らかになる。

英語とは面白いもので、ここでsamataṃを意味するevennessとはequalityであり、それはつまりequanimityなのだ。

その原像にはおそらく、激しく波打つ『(六官という)水面』の荒立ちと、平らかに凪いだ『(六官という)水面』の静けさ、という対比があった。

 

 (この投稿はYahooブログ 2015/11/4, 9 記事「瞑想実践の科学 48 ヴィーナと比丘、それぞれの“仕事”」「瞑想実践の科学 49 “Viriya”の真意と瞑想実践」を統合し加筆修正の上移転したものです) 

 

 

 


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