仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

『外なる悪しき祭祀』とマーラ、『内なる善き祭祀』とブラフマー《30》

『祭祀の内部化』という前回までに取り上げたテーマは、ブッダの瞑想法とそれに至る沙門シッダールタの内的遍歴を考える上で極めて重要な意味を持つものなので、繰り返しを恐れずに念を押していきたい。

バラモン教とは祭祀の宗教だった。

その祭祀とは、第一には『火の祭祀』であり、第二にはその火に捧げる『供犠の祭祀』であり、第三にはそれら火の犠牲祭と共にある『賛歌詠唱の祭祀』だ。

このような祭祀の万能性を主張したバラモン祭官たちは、自らを神をも超える超越的な力を持つ『神人』と標榜し、人々の願いの実現はおろか、大地や星宿の運行すら支配する力を持つと慢心していた。

そうして、そのような祭祀の絶対的な万能性を信じさせられたからこそ、王侯貴族をはじめとした多くの人々が大枚を布施して、自らの請願を成就するために、バラモン祭官たちに祭祀を委託したのだ。

その請願とは五穀豊穣やら家内安全、商売繁盛やら良縁やら子宝の獲得、さらには来世における幸福からついには『輪廻からの解脱』に至るまで、あらゆるレベルにわたっていた事だろう。

そのようなバラモンの祭祀が、しばしば多くの(特に牛の)動物供犠の死を伴っていたことは、パーリ仏典などを見れば明らかだ。

スッタニパータ 第二 小なる章

師(ブッダ)は次のことを告げた。──

284 昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。かれらは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)義を行った。

285 バラモンたちには家畜もなかったし、黄金もなかったし、穀物もなかった。しかしかれらはヴェーダ読誦を財産ともなし穀物ともなし、ブラフマンの倉を守っていた。

286 かれらのために調理せられ家の戸口に置かれた食物、すなわち信仰心をこめて調理せられた食物を求める(バラモン)に与えようと、かれら(信徒)は考えていた。

287 種々に美しく染めた衣服や臥床や住居を豊かに所有して栄えていた地方や国々の人々は、すべてバラモンたちを敬礼した。

288 バラモンたちは法によって守られていたので、かれらを殺してはならず、うち勝ってもならなかった。かれらが家々の戸口に立つのを、なんびとも妨げなかった。

289 かれら昔のバラモンたちは四十八年間、童貞の清浄行を行った。知と行とを求めていたのであった。

290 バラモンたちは他の(カーストの)女を娶らなかった。かれらはまたその妻を買うこともなかった。ただ相愛して同棲し、相和合して楽しんでいたのであった。

291 (同棲して楽しんだのではあるけども)、バラモンたちは、(妻に近づき得る)時を除いて月経のために遠ざかったときは、その間は決して婬欲の交わりを行わなかった。

292 かれらは、不婬の行と戒律正直温順苦行柔和不傷害耐え忍びとをほめたたえた。

293 かれらのうちで勇猛堅固であった最上のバラモンは、実に婬欲の交わりを夢に見ることさえもなかった

294 この世における聡明な性の或る人々は、かれの行いにならいつつ、不婬戒律耐え忍びとをほめたたえた。

295:米と臥具と衣服とバターと油を乞い、法に従って集め、それによって祭祀をととのえ行った。かれらは祭祀を行う時にも決して牛を殺さなかった

296:母や父や兄弟やまた他の親族の様に、牛はわれらの最上の友である。牛からは薬が生ずる。

297:それら(牛から生じた薬)は食料となり、気力を与え、皮膚に光沢を与え、また楽しみを与える。(牛に)このような利益のあることを知って、かれらは牛を決して殺さなかった

298 バラモンたちは、手足が優美で、身体が大きく、容色端麗で、名声あり、自分のつとめに従って、為すべきことを為し、為してはならぬことは為さないということに熱心に努力した。かれらが世の中にいた間は、この世の人々は栄えて幸福であった

299 しかるにかれらに顛倒した見解が起こった。順次に王者の栄華と化粧盛装した女人を見るにしたがって、

300 また駿馬をつけた立派な車、美しく彩られた縫物、種々に区画され部分ごとにほど良くつくられた邸宅や住居を見て、

301 バラモンたちは、牛の群が栄え、美女の群を擁するすばらしい人間の楽しみを得たいと熱望した

302 そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、かの甘蔗王のもとに赴いていった、「あなたは財宝も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い」

303 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、──馬の祀り、人間の祀り、擲棒の祀り、ヴァージャペッヤの祀り、誰にでも供養する祀り、──これらの祀りを行なって、バラモンたちに財を与えた。

304 牛、臥具、衣服、盛装化粧した女人、またよく造られた駿馬に牽かせる車、美しく彩られた縫物──、

305 部分ごとによく区画されている美事な邸宅に種々の穀物をみたして、(これらの)財をバラモンたちに与えた。

306 そこでかれらは財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。かれらは欲に溺れて、さらに欲念が増長した。そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、再び甘蔗王に近づいた。

307 「水と地と黄金と財と穀物とが生命あるひとびとの用具であるように、牛は人々の用具である。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い」

308 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、幾百千の多くの牛を犠牲のために屠らせた

309 脚を以ても、何によっても決して(他のものを)害うことがない牛は、羊に等しく柔和で、瓶をみたすほど乳を搾らせる。しかるに王は、角をとらえて、刃を以てこれを屠らせた

310 刃が牛に落ちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹とは、「不法なことだ!」と叫んだ。

311 昔は、欲と飢えと老いという三つの病いがあっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので九十八種の病いが起った

312 このように(殺害の)武器を不法に下すということは、昔から行われて、今に伝わったという。何ら害のない(牛が)殺される。祭祀を行う人は理法に背いているのである。

313 このように昔からのこのつまらぬ風俗は、識者の非難するものである。人はこのようなことを見るごとに、祭祀実行者を非難する。

314 このように法が廃れたときに、隷民(シュードラ)と庶民(ヴァイシヤ)との両者が分裂し、また諸々の王族がひろく分裂して仲たがいし、妻はその夫を蔑むようになった。

315 王族も、梵天の親族(バラモン)も、並びに種姓(の制度)によって守られている他の人々も、生れに関する言葉を捨てて、欲望に支配されるに至った、と。

以上、中村元訳、岩波文庫P55~より引用

これらの詩文を見てみると、制戒と禁欲を守るバラモンが正しい祭祀を行っていた時代には、人の世も(神々の恩寵によって)幸せに包まれていたが、バラモンたちが欲に駆られて、動物供犠という神々も不法と叫ぶ悪しき祭祀にふけっている現在は、様々な災厄に見舞われている、と読み取ることができる。

(しかし、そこにみられる‟牛愛” 的心象の、なんと「ヒンドゥ的」である事か!)

この事実は何気なくスルーされてしまいそうだが、極めて重要な意味を持っている。

何故なら、これは「正しい祭祀が行われる事によって、世界に幸福がもたらされる」という事であり、対置的に、「間違った悪しき祭祀が行われる事によって、世界に害悪がもたらされる」という『祭祀を中心文法とした呪術的世界観』以外の何物でもないからだ。

ここでブッダは、明らかに祭祀が持つ『呪の力』、その存在自体を認めている。

と同時に、「正しい祭祀を行っていたいにしえのバラモン」と、「現在進行形で苦行や耐え忍びや禁欲を実践しているブッダ自身と比丘サンガ」を重ね合わせている。

つまり、いわゆる祭祀万能のバラモン教がその祭祀行為によって「世界の経綸全てを動かしている」と豪語していた、その「祭祀が世界や人間の運命を支配している」という因果関係を全く認めた上で、

「でもあなた方の祭祀は間違った悪しき祭祀だから、その『悪しき威力』によって世界にあらゆる不幸がもたらされているのだ」

と非難している事になる。

ここで重要なのは次の詩節だ。

310 刃が牛に落ちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹とは、「不法なことだ!」と叫んだ

この「神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹」は決して祭祀を見物しながらヤジを飛ばしている無責任な『部外者』ではなく、祭祀を受ける『関係当事者』という切実な立場からクレームを付けている、という点を見逃すべきではない。

彼らはいわゆる『天界』の住人であり、地上の人間が祭祀を捧げて喜ばせるべき対象に当たるからだ。

(阿修羅や羅刹は本来『善神』からは程遠い『闘争のイメージ』だが、その様な神ですら怒る、という事だろうか)

その天部神々が「不法な事だ!」と怒り叫んだという事実は、「彼らはその祭祀によって喜んでいない」事を意味している。祭祀の目的とは神々を喜ばせてそのリターンとして人間や世界の幸福を期待するものなのだから、彼らを喜ばせる事が出来ない祭祀は失敗した祭祀であり、悪しき間違った祭祀と断ぜられるべきだろう。

では、その悪しき祭祀によって世界に不幸が蔓延する、というのは、喜ばせてもらえなかった神々の『怒り』の結果なのだろうか。

この辺りがインド教の複雑な所なのだが、恐らくそうではない。

汎インド教的な文脈としては、

善き祭祀によって善神が喜びその力を増し、その結果として世界に善き威力(果報)=puññaがもたらされる」

という論理と、

悪しき祭祀によって悪神が喜びその力を増し、その結果として悪しき威力(果報)=pāpaがもたらされる」

という論理が、対置されているのだ。

つまり、善き神々が「不法な事だ!」と非難するような「悪しき祭祀」によって、『悪神』が喜び力を増し(善神は逆に衰え)、その結果、人間と世界にあらゆる災いがもたらされる。

仏教の文脈におけるこの「悪神」こそが『マーラ(悪魔)』に他ならない。

この『マーラ(悪魔)』に関しては、以前の投稿で詳細に論じている。

祭祀とは超越的な威力を持つ神々をその式次第によって喜ばせて、その返礼(恩寵)として善き果報がもたらされる事を期待するものであり、もし悪しき祭祀の結果、世界に悪しき影響が降りるのならば、そこには悪しき祭祀を捧げられて喜び、返礼として悪しき果報をもたらす『悪しき威力』が想定されなければならない。

もしそんな者がいるとしたら、それは悪法である悪しき祭祀を喜び、悪徳を喜び、それによって威力を増し、ますます世界を悪に染め上げて破滅に導いていく、全き悪魔のような神格だろう(イメージとしてはデヴィルやデーモン)。

そしてもちろん、パーリ経典にはそのような『悪の権化』が登場している。それこそがパーピマントナムチ、あるいはマーラカンハ(黒魔)と呼ばれる『悪魔』たちに他ならない。

『四梵住』とブラフマ・チャリヤ【後編】 - 仏道修行のゼロポイントより

これは最も重要な点なのだが、プラーナや叙事詩などの神話を見ると、善なる神々と言うものは、基本的には主体的(能動的)影響力をこの現象世界に対しては持っておらず、ひとえに人間によって執り行われる祭祀や苦行などによってはじめて、『受動的に』その力を増し、この現象世界に威力を発揮できる、と言う事らしいのだ。

この点は悪神についてもまたしかり。つまり、天界には善神と悪神が常に拮抗・対立関係にあって張り合っているが、それらの勢力図の均衡は、多分に人間が執り行う祭祀や苦行などの効力にかかっている。

人間が善き祭祀をすれば、善神がその力を増長させ、善なる力を行使して、世界は幸せになる。しかし逆に間違った悪しき祭祀をすれば、悪神がそれを喜びその力を増長させ、世界に不幸をもたらすのだ。

このようなインド教世界における善神と悪神の対立・拮抗構造と、そこで占める『祭祀』行為が持つ必須的役割を理解して初めて、仏典の中の『様々な文脈』が持つその『真意』というものが明らかになる。

具体的には、それは仏典においてしばしば登場する、梵天を最上首とした神々と『悪魔』との関係性、及びそれぞれの『存在意義』だ。

それはブッダが悟りを開く前後における、悪魔と梵天神の登場の仕方とその『役割』の中に典型的に現れている、それぞれの『立ち位置』の対称性を以下に見て行こう。

悪魔 vs 梵天:「不死の門は開かれた!」- 仏道修行のゼロポイントより

古代インドにおける善悪の神々とは、基本的に人間が営む『祭祀』によってその力を『チャージ』される存在である、と言ったら分かり易いだろうか。

悪神は悪しき祭祀の悪しき力によってエネルギーをチャージされ、善神は善き祭祀の善き力によってそのエネルギーをチャージされるのだ。

このような祭祀と神々との関係性は、仏典におけるマーラ(悪魔)と梵天の立ち位置にも象徴的に反映しているだろう。

沙門シッダールタが現在のブッダガヤ、ネーランジャラー河の畔で苦行に専念していた時に現われた悪魔(ナムチ)は、彼にこう囁いている。

428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろう。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村元訳 より

ここで『悪魔』は、明らかにブッダが批判して已まなかった既存のバラモン祭祀の側に立って、それを擁護し、沙門シッダールタに苦行の中止を唆している。

これは、後のブッダの立ち位置から見れば、この『悪魔』はバラモンの悪しき祭祀によって力を増す悪神そのものであり、だからこそ、「善き代替祭祀」を模索し真実の祭祀法に辿り着かんとしているシッダールタの挑戦を阻もうとしているのだ。

(仏典においてマーラが六欲を「私の領域」と言い、バラモンが「欲に溺れた」と非難されている事が、正に両者のセット構造を明示している)

何故なら、沙門シッダールタによって『善き真の(内なる)祭祀』が発見確立されてしまって、その『善き祭祀』が世間の主流になってしまえば、自らの存在基盤である「悪しき祭祀による悪しき力」が、衰退してしまうからだ。

一方で、その後苦行を捨て菩提樹下で悟りを開いたブッダがその真理に関して開教を躊躇った時には、梵天ブラフマー神が登場して、以下のようなやり取りをしている。

サンユッタ・ニカーヤ 第Ⅵ篇 梵天に関する集成

第一章:第一節 「懇請」

4:(そして次の素晴らしい詩句が尊師の心に浮かんだ)

「苦労してわたしが覚り得た事を、今説く必要があろうか。貪りと憎しみにとりつかれた人々が、この真理を覚る事は容易ではない。これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々には見る事ができないのだ」と。 

ブッダがこのように省察し、開教しない方向に心が傾いた時、)

6:(世界の主・梵天ブッダ心を心によって知り、こう思った)

ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する。実に修行を完成した人・尊敬さるべき人・正しく覚った人の心が、何もしたくないという気持ちに傾いて、説法しようとは思われないのだ!」

(そして梵天界からブッダの前に姿を現して、)

8:ブッダに対して合掌・礼拝して言った)

尊い方!尊師は教え(真理=ダンマ)をお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。かれらは教えを聞かなければ退歩しますが、聞けば真理を覚る者となりましょう」と。

9:(そして続けて次のように説いた)

汚れある者どもの考えた不浄な教えがかつてマガダ国に出現しました。

願わくばこの不死の門を開け。無垢なる者の覚った法を聞け。~以下略」

ブッダ悪魔との対話(岩波文庫) 中村元訳 P84~ 梵天に関する集成より

ここで梵天は、ブッダが「真理の教え」その開教をしなければ、何故「この世は滅びる。この世は消滅する」と言い得るのか。それは

正しい祭祀によって初めて、正しい世界の運行が成り立つ

からだ。

(このような『祭祀』という基本文法が、『業』や『縁起』という基本文法に替わっていくプロセスこそが、仏教的な論学の発展史に他ならない。ブッダ在世の時代は、未だ祭祀と言う基本文法のただ中にあった)

この梵天は、(後のブッダが言っているように)既存のバラモン祭官が執り行っている祭祀は「汚れある者どもの考えた不浄な教え」つまり『悪しき祭祀』であると考え、このままこの悪しき祭祀が続けば、マーラなど悪神が力を増してこの世界の善秩序が崩壊し、遂には滅亡してしまうと恐れている。

もちろんこれらの物語は、全てブッダあるいは滅後の仏教サンガが、梵天をしてこのように語らしめている訳だが、そこには一貫した文脈が明らかに存在している。

つまり、「ブッダが覚った真理の法」とは、ほぼイコールで「真の善なる祭祀法」であり、その「正しい祭祀」が「悪しき祭祀」に取って代わる事で、世界の善秩序が『回復』される、という流れだ。

この流れは、先に論じている、

「制戒と禁欲を守るバラモンが正しい祭祀を行っていた時代には、人の世も(神々の恩寵によって)幸せに包まれていたが、バラモンたちが欲に駆られて、動物供犠という神々も不法と叫ぶ悪しき祭祀にふけっている現在は、様々な災厄に見舞われている」

という文脈と全く合致しており、ここで言う「悪しき祭祀の結果としての災厄」を払拭し、世界の善秩序が回復される事を、梵天ブッダに対して嘱望しているのだ。

ここで梵天は「不死の門を開け」と懇請し、ブッダはこれを受諾し「不死の門は開かれた」と開教宣言する。

この『不死』とはもちろん、ウパニシャッド的な「不死なるブラフマン」の不死でもあるし、同時に仏教的な文脈での『不死』でもある。だからこそ梵天は自らの不死の真理がブッダによって説かれる事を願って、懇請しているのだ。

この前後の消息に関しては、以前下のように書いている(若干の加筆修正含む)。

昔からバラモン祭官によって祭祀は独占されていたのだが、彼らが善き祭祀を執り行っている間は、世界は善神の威力・功徳によって幸福に安定していたのである。世俗世界における『欲望』もまたバランスを保っており、世界の運行をかき乱すものでは無かった。

しかし、バラモン祭官たちが欲望に駆られ悪しき祭祀である殺戮の動物供犠を開始し推進した結果、悪神であるナムチ・マーラ・パーピマント達がその『悪しき力(Pāpmāの威力)』を増長させ、世界は不幸と混乱に陥る羽目となった。

そこに登場したのが、不死なるブラフマンの解脱境をこの世において体現した(Brahma-sama)ゴータマ・ブッダであった。この『この世において』という点が極めて重要な意味を持っている。

先に説明した様に、絶対者ブラフマンはこの現象世界の創造者でありその背後に『内在』している者とも考えられたが、実はこの現象世界の『圏外』に位置する『不死なる解脱界』を体現する者であって、ある種『実践的』には、彼ひとりでは直接この世界に働きかける事は出来ない

つまり、悪しきバラモン祭官が執行する悪しき祭祀によって『悪魔』たちが力を増長させてこの世界を悪しく堕としていったとしても、彼ブラフマン自身は『絶対者』でありながら為す術がない(この辺りはサーンキャ思想の『プルシャ』に全く相同でありそれの原像に相当するか)

繰り返すが、彼は相対を離れた『絶対者』ではあるけれども、キリスト教の神の様な『全能なる絶対的な支配者』として現象世界を統べている訳ではないからだ。

では、彼・絶対者(or創造者)ブラフマン神は、悪しきバラモンの悪しき祭祀(悪法)によって悪魔たちが増長し、(彼の創造した)世界が生きながらの地獄を体現するかのように悪しく堕とされて行くのをみすみす指を加えて座視するのみなのだろうか(その『世界』とは、かつて、彼の被造物であり『彼自身』とも言われたのに!)

この窮地に、正に「この現象世界の中」『救世主』として登場した者こそが、覚者ゴータマ・ブッダだった。彼はブラフマンの解脱境に至った者であり、現象世界に生きながらブラフマンに成った(Brahma-bhuta)者であり、ブラフマンに等しい(Brahma-sama)者であった。

つまり彼は、正に現世において生きながら解脱したというその『両界性』あるいは『両義性』によって、ブラフマンの解脱界と輪廻する現象世界という本来は完全に隔絶した二つの世界の、その『隔絶』を乗り越えて『交通』する能力を獲得した事になる。

その様な生きながら解脱した『ブラフマンの覚知者・体現者』を通じてのみ、ブラフマン神はこの世界と交通する事が出来、その威力を行使する事ができ、その請願を満たす事ができる、という一点において、ゴータマ・ブッダブラフマン神にとって、希望の星となったのだ。

悪魔 vs 梵天:「不死の門は開かれた!」- 仏道修行のゼロポイントより

上で梵天ブラフマーについて「創造神」と語っているのは、あくまでも沙門シッダールタの時代前後において、一般的にブラフマー神が担っていたイメージについて言っているのであって、後の仏教思想ではブッダの絶対視と反比例する様に、この「梵天神の創造者性」というものは否定されていく。

その背後にはもちろん、仏教的な真理である「一切世界は無常・苦・無我」があった。端的に言えば、「常なるブラフマンが創った世界ならば、それもまた常の筈だが、実際はそうではない」という事だ。

それはともかく、どちらにしてもここで梵天神はおそらく「善神の筆頭者」として捉えられているのだろう。彼はこの「懇請」エピソードにおいて、明らかに「善き世界秩序の存続」を熱望している。

その『世界秩序』の中心にあるのはもちろん『祭祀』だ。

そして、梵天ブラフマンの真理に目覚めたブッダが先導する『至高の内なる祭祀』をもって初めて、「善神の筆頭者」たる梵天ブラフマーとつながり、彼にチャージし、その威力を神々から地上世界に降ろす事ができる、という流れだ。

(このような梵天ブラフマーの『威力』もまた、ブッダの死後ほぼ消滅して『仏法』に取って代わられ、彼はブッダの単なる「引き立て役」になり下がり、あげく「輪廻の内」に落されてしまう)

沙門シッダールタの悟達を妨げようとしたマーラと、ブッダの開教を懇請した梵天ブラフマー神の立ち位置は、この世界の在り様を左右する、祭祀における悪法と善法の対置構造そのものと言っていいだろう。

もちろん、これらの文脈は、当時ブッダあるいは仏教サンガが世間に向けたセルフ・プレゼンテーションであり、営業トークと考えるべきではあるのだが、しかしサンガの成員自身がこのような文脈を信じていた可能性も高い。

以上の様に、ブッダをはじめとした比丘サマナたちのムーブメントとは、動物供犠祭を中心とした貪欲なバラモン教『悪しき祭祀』に対する強力なアンチテーゼであり、同時に梵天をその筆頭とする「善き神々に協賛された」ある種 ‟世直し” のための代替なる『新たな(正統復古の)正しい祭祀法』として、古代インド世界に展開していたと理解できるだろう。

動物供犠などという不法悪法に染まっている現今のバラモン祭官などよりも、古の正しく清らかなバラモンと同等の正しい道を歩む我らこそが真のバラモンであり、梵天はじめ善き神々に言祝がれ社会の幸福に資する、「真に供養されるべき聖祭官=真のバラモン」である、と。

現在ではバラモン・ヒンドゥ教という主流派に完全に取り込まれてしまっているが、いわゆる『ウパニシャッド』的な探求というものも、本来は比丘サマナのムーブメントと同じように、既存の形骸化しバブリーに肥大化したバラモン絶対・祭祀万能教に対する批判的な模索の中から生まれてきたのだと考えるべきだろう。

しかし、その批判とは『祭祀』という枠組み概念そのものの否定では更々なく、あくまでもその『内容』つまり「祭祀のやり方・方法論」こそが問われたのだ。

そこにおいてキーワードとなるのが、バラモン教的な『外的な祭祀』に対する『内部化された祭祀』であり、『欲』『無欲』であり、その核心には坐の瞑想行法があった、という点は、ここまでの論述によっておおよそ明らかになっていると思う。 

ブッダの時代前後のインド亜大陸ガンジス河流域において急速に発展した都市社会の情勢については、現代社会になぞらえて観ると分かり易いかも知れない。

18世紀中ごろに始まったイギリスの産業革命以降、化石燃料の消費量とそれに伴う二酸化炭素の排出量は幾何級数的に増大し、様々な汚染物質の排出と合わせて地球環境生態系に絶大なる圧迫を加えてきた。

そしてさらに『新時代』を詐称する『夢の原子力エネルギー』の登場によって、逆に地球の未来には更なる暗雲が立ち込めてきている。

これら、化石燃料原子力に象徴される『大量生産・大量消費』の社会システムに対するアンチテーゼとして、いわゆる自然エネルギーに基づいた持続可能な社会システムが模索され提示されつつある。

話はエネルギー問題だけではない。ファースト・フードに対する代替としてのスロー・フード。西洋医学に対する東洋医学。画一化した受験戦争に対する個性教育。1%のエスタブリッシュメント支配に対する99%の大衆の福利向上。などなど、玉石混交ながらも現代的な行き詰まりに対する様々なオルタナティブが多面的に模索されている。

このような社会的な変動に伴う様々な行き詰まりと、それに対する批判的考察と代替案の提示、という機運は、ある程度文明的に成熟した社会では、時代や地域を問わずしばしば内発的に勃興するものなのだ。

ブッダの時代前後にも、まさにこのような大変動があり、それに呼応した機運(ムーブメント)が巻き起こっていた。そしてその焦点になっていたのが社会の中心にあった『宗教』であり、きわめてインド的な『祭祀』だったのだ。

外的な動物犠牲を伴うバラモン祭祀に対するアンチテーゼであり、オルタナティブな『内部化された祭祀』としての比丘サマナの修行道。これこそが、シッダールタ王子が王城を抜け出して出家して以来、その死に至るまで貫徹した道だったと考えられる。

その背後には輪廻転生思想と悪趣の原動力としての悪業、その悪業の浄化とその結果としての『清浄』、更にその清浄の究極としての『ブラフマンの解脱』というパラダイムがあった。

ブラフマン存在を「浄不浄を超えた『至浄』「善悪を超えた『至善』として捉えると分かり易い)

繰り返すが、古ウパニシャッドに見られるように、ブラフマンの解脱境に至る道は、まず何よりも『祭祀』という文脈において模索され「内部化された」、という視点が重要だ。

そのような祭祀の内部化の過程で、バラモン祭祀に特徴的な『火』と『供犠』と『賛歌』という主要素も、それぞれの文脈に従って内部化されていった。

もちろんこれは、当時の古代インド的な社会通念としての捉え方であり、覚りを開いて以降のゴータマ・ブッダ自身がどのように「考えていた」のか、という点については、ここでは取りあえず問わない。

(輪廻や業の思想も、内なる祭祀と言う枠組みも、全ては「未だ覚っていない人々」に説き善導する為のブッダの『方便』に過ぎない、という可能性を私は否定しない)

しかしブッダになる以前の、同じゴータマさんでも未だ単なるいち沙門シッダールタだった時の『彼』は、正にこのような『外的なバラモン祭祀』に対する代替としての『内部化された火と供犠と賛歌の祭祀』という文脈の上に修行に専心していた事は、これまでの本ブログの記事内容の上に『祭祀の内部化』という概念を重ね合わせる事によって、自ずから明らかになるだろう。

以前に私は、沙門シッダールタが菩提樹下に禅定して覚りを開く ‟直前” まで邁進したと強調されている ‟三つの苦行” について取り上げ、詳細に検討している。

上のリンク・タイトルにある様に、その三つとは『歯と舌の行法』『止息の行法』そして『小食(断食)の行法』だった。これら三つの苦行について、これだけの回数を費やしてしつこく考察していたのには、それなりの理由があった事になる。

次回以降、これら三つの苦行が『内部化された祭祀』という視点からどのように把握されうるのかを、見ていきたい。

そこで最初に焦点になるのは、『内なる火の祭祀=タパス』 ‟Virya” すなわち エナジー のセットだ。それが外であれ内であれ、火の祭祀が行われるのならエナジー(燃料)は必須となる。

そしてこの "Virya" を起点として、『ブッダの瞑想法』そのメソッドの、精密な「プロット」その成り立ちが、ひとつのストーリーとして浮き彫りになって来る筈なのだが…

(本投稿はYahooブログ 2016/4/13「『外なる供犠祭』に対置する『内なる祭祀』」を加筆修正の上移転したものです)

 

 


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