パーリ経典
『祭祀の内部化』という前回までに取り上げたテーマは、ブッダの瞑想法とそれに至る沙門シッダールタの内的遍歴を考える上で極めて重要な意味を持つものなので、繰り返しを恐れずに念を押していきたい。 バラモン教とは祭祀の宗教だった。 その祭祀とは、第…
これまで本ブログでは、『瞑想実践の科学』シリーズを中心に、ブッダの瞑想法の “作用機序” について、外堀を埋める形で様々な考察を行ってきた。 その「ブッダの瞑想法」と言うのは、端的にいえば2500年前のウルヴェーラ村で菩提樹下に禅定しニッバーナに至…
ブッダの死後マハー・カッサパを発起人とし、さらにアーナンダを主要な証言者として開かれた第一結集において、気づきとしてのサティではなく記憶としてのサティに秀でたアーナンダが重要な役割を果たしてしまったという史実の中に、初期仏教の草創期、つま…
一般に、十二縁起の核心とは無明と渇愛であるが、無明や渇愛などという何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした事象を、直接取り扱って、“なんとかして” 破壊する事など、想像すらできない。 しかし、渇愛に先行する所の六処(六官)、この六処の内…
ブッダによって説かれた法の神髄とは、病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉の中に全て端的に表されており、その中核部分をひと言に要約すれば、それはすなわち “五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための…
今回のタイトルは、日本人にはお馴染みの漢訳名である「給孤独長者」とどちらにしようか迷ったが、アナータピンディカにしておいた。 パーリ原語のアナータピンディカとは「身寄りのない困窮者を憐れんで食事を給する」という意味で、そこから漢訳の「給孤独…
沙門シッダールタは「歯と舌の苦行」と「止息の苦行」の実践において、 「わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった」 として、七覚支の内の精進(Viriya)と思念(Sati)の二つを備えていたが、 「けれども、その苦の精勤によっ…
前回は謎の『広長舌相』について考察した。私がこの、一見突飛な、荒唐無稽にも思える広長舌相のエピソードにこだわるには、もうひとつ理由がある。 それは、前回の読み筋とほぼ並行して始まったもので、ヨーガと深く関わりを持った視点だった。 広長舌相に…
前に、“Mukha”という言葉をひとつの焦点に、空洞(空胴)としての共鳴器を持つ箜篌(ヴィーナ)と、瞑想修行をする比丘の身体を重ね合わせる視点について、考えてみた。 このソーナ・コーリヴィサ比丘の箜篌の喩えのエピソードは色々な意味でとても興味深い…