仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「一切」としての十二処十八界とマーラ、そして「四聖諦」:《瞑想実践の科学19》

一般に、十二縁起の核心とは無明と渇愛であるが、無明や渇愛などという何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした事象を、直接取り扱って、“なんとかして” 破壊する事など、想像すらできない。

しかし、渇愛に先行する所の六処(六官)、この六処の内の五処(五官)つまり、眼耳鼻舌身という身体器官は、何よりも眼に見える具体的な『門戸』として私たちの “目の前に” 存在している、という圧倒的な事実がある。

この六処(五処)はしばしば六入(五入)とも表現され、その機能とは、感官の対象である色声香味触(法)の(六)が、流入する門戸である。

六境の感覚刺激が流入して接触する事によって、感受が生まれ、渇愛が生まれ、執着が生まれるのだとしたら、この感官の門戸において流入 “防護” あるいは “妨害” あるいは “堰き止め” する事ができたならば、それ以降の全ての “反応・形成作用(サンカーラ)” は消滅する。

以上が、前回までの大まかなあらすじだった。

この文脈の流れの中では、便宜上、無明と渇愛とは何処にどうやって有るのかも分からない、と表現したが、敢えて、現代科学的な認識も伴って解釈した時、この無明と渇愛という存在の拠点とは何処になるだろうか?

パーリ経典は、五蘊、そして六官六境六識(合わせて十八界)をもって “すべて” あるいは “一切” と断言している。

つまり、この『一切』中にこそ無明渇愛は存在している。

以前にも言った通り、この十八界とは五蘊をある視点から分析的に細分化したものだから、実質、この十八界こそが、これだけで “一切” という事になる。

ここでまず最初に、多少の脱線になるが、しばしば誤解されやすい点を指摘しておきたいと思う。

仏教的な文脈で言うところの “一切” とは、仏道修行において、つまり存在の “苦” という呪縛からの解放の道において、必要にして十分な事柄・要素という視点から見た “一切” であり “全て” である、という事だ。

それはあくまでも「主観的に認識体験される苦なる世界」関わるところの『一切・すべて』であって、それ以上でも以下でもない。ブッダ「一切を知る者」と称される時、そこには当然この『限定』が適用される。

そこでは、仏道修行に関係のない事柄、例えば人間が死んだらどうなるかとか、世界は永遠かどうかとか、世界の成り立ちは天動説か地動説かとか、親の形質が子供に伝わるのは遺伝子DNAの情報に依っており、その遺伝子DNAとは二重らせん構造をしているとか、そのような事柄はこの “一切” には含まれないのだ。

(その事実を際立たせるためにこそ、ブッダ修道に無関係な事柄に対しては『無記』を貫いた。上の様な形而上学的な事柄は『意官』の『法』である、と言えばそうなのだが、ここで言う文脈はそういう事ではない)

この点を見誤って、ブッダが知る『一切』とは、我々が科学で取り扱う様なこの世の客観的森羅万象 “すべて” であって、ブッダとは森羅万象ことごとく、つまり宇宙の始原から人間の身体の科学的成り立ちから何から、あたかも全能の神の様に “一切の全て” を知り尽くした全知全能者である、などと勘違いしている人々が多々見受けられるが、これは明確に誤りと言わなければならない。

(おそらく日本における最初期の仏教の受容は上の文脈でなされ、その余韻は現在にも尾を引いている)

この様な誤解・曲解・拡大解釈は、ブッダの死後、彼を神格化・超人化していくプロセスと深く関わっており、それがそのまま後の大乗化へとも接続するのだが、ブッダ自身の “名誉” の為にも、ここで釘を刺しておきたい。

これは少し考えてみれば誰にでも理解可能な事だろう。

例えばブッダの時代は須弥山を世界の中心とし、その周りを月日が巡っている “天動説” が信じられていたので、当然ブッダ自身も、この大地が球体で大宇宙の虚空を自転しながら太陽の周りを回っている、などという「事実」は知らなかっただろう。

現代科学によってこの様な天動説は完全に否定されており、本ブログの読者の方も(多分…)この世界の中心に須弥山など存在しないし、太陽や月がその山頂付近を巡っているなど迷信に過ぎないと “知っている” はずだ。

また、人の胎発生にしても、当時は精液の中の『種』が母胎というに播種され(卵子という概念は希薄)、それが芽生えて胎児になると考えられていたので、当然ながら、ブッダ自身も同じような認識だっただろう事が推定される。

(仮に卵子精子の受精という認識があったとしても、それが二重らせんの遺伝子DNAの融合であるなど、正にお釈迦様でも気がつくめぇ、だ)

例えブッダと言えども、時代と文化の産物であり、神の様な完全な全知全能者ではあり得ないのだ(ここで神と言うのは喩えであって、神がいるかいないかについての言及ではもちろんない)

では、ブッダが言う “全て” とは具体的に何を意味するのか。ブッダ自身が自称する “全知者” というタイトルの真意とは何か。

端的に言えば、この『一切』とは、四聖諦における「苦の存在」「苦の原因」「苦の滅」「苦を滅する道」という『世界苦』生起と消滅、そのダイナミズムを構成している『すべて』に他ならない。

仏道修行において、苦としての生存・存在形態のありようと、そこから抜け出すための道、その道の作用機序を理解し、その作用機序を瞑想修行によって起動・発動させる、そのようなプロセスにおいて知るべき事、それを構成している必要にして充分な要素を『一切』と言い、そのような要素とメカニズムについての知識・理解・洞察を、すなわち “一切智” と言うのだ。

一切を知るブッダとは、想像上の “神” のような全知全能者ではない。だからこそ、私たち普通の人間がブッダの言葉を学び、彼と同じように “一切” を知る事ができるように、努力・精進する意味がある

そしてこの場合、“知る” と言うことの真意は、正に瞑想実践の深みにおいて、自ら観じ、見て、体験的に理解する(体解得悟する)ことを意味する。

決して経典の文字の並びを読み込んで、暗記して、暗誦して、ブッダはこの様に言っている、という理屈を知的に理解する事ではないのだ。

と言う事は、(自他共に)かなり厳しい話になってしまうが、パーリ三蔵をすべて修め、既成の『仏教』に関するあらゆる疑問・質問に対して打てば響くように答えられる大ベテランの長老比丘であったとしても、自ら瞑想実践の中で体験的にその “一切” を観じ洞察した事のない人は、一切智者とは呼べない事になる。

これも話は単純明快な事だ。沙門シッダールタは、文字通り身ひとつで菩提樹下に結跏趺坐した。その前段階パーリ三蔵の学習や知的理解などというプロセスは一切なかった。当たり前の話だろう。

彼の “一切智” とは、正にその身ひとつで菩提樹下に結跏禅定した、その只中における『観』によって立ち現れ・獲得されたものなのだから。

私たちは、経典の文言的な理解と、瞑想行における “体験の智慧”=パンニャ、を明晰かつ峻厳に弁別しなければならない。

もちろん私自身も本ブログ上で個人的な知的探求のプロセスをこの様にシェアしてはいるが、一切智者などとは程遠い、単なるいち学習者の立場にある。

実は私は、この探求のオリジナルであるYahooブログに投稿していた時、ある 事情 を抱えていて『世俗を離れた瞑想実践修行』に専念できる境遇にはなかった。そんな中、いずれ身体が自由になれば日本を離れ、タイかミャンマーで一定期間瞑想修行に専念したいと希望しながら経典学習に勤しんでいた。

その後、自由な境遇は回復されたのだが、その間テーラワーダ仏教の歴史的構造について学び、更にタイの軍部クーデターやミャンマーロヒンギャ迫害などにも直面して、「このような実情を持つ国で、果たして修行してよいものだろうか」と言う強い疑念と躊躇が生じ現在に至っている。

当時の私は、来たるべき瞑想修行者としてのピリオドの為に、外堀を埋める作業=準備段階として、この知的探求に明け暮れていた訳だ。

その外堀も “正しく” 埋めなければ、本丸へと渡ってそれを攻略する事は決して出来ない、という事を、私は十二分に理解しているつもりだ。

ヘタな埋め方をすれば、渡ろうとした外堀が実は底なしの泥沼に変じて、修行者を捕まえて溺れさせてしまうと言う冷徹な事実は、オウムの実例によっていまや私たちにとっては自明の理なのだから。

生きて臨在するブッダが目の前にいない以上、パーリ経典の中に残されている彼の言葉たちの中から、その『真意』を深く読み取り、限りなくオリジナルに近い形へと復元する

ブッダの説いたダンマ〈理法〉を、まずはオリジナルに即して正しく知的に理解し、その上で正しい行道を実践する。八正道とはつまる所そういう意味ではないだろうか。

ブッダが説いた『一切』とは、その修行道の文字通り『全て』であり、この『一切』に対する理解を誤ってしまったら、そのゴールもまた大きく狂ってしまう事は必定なのだ。

前置きが長くなってしまった。話の焦点は、正にその “一切” についてだ。

十二縁起の中の核心部分とは、その最初におかれた無明であり、あるいはまた八番目におかれた渇愛である、と言われるのは皆さんご存じの通りだ。

無明によってが生じ、行によってが生じ、識によって名色が生じ、名色によって六処(六入)が生じ、六処によって(接)触が生じ、触によって(感)受が生じ、受によって愛(渇愛が生じ、愛によって取(執着)が生じ、取によってが生じ、有によってが生じ、生によって、老、病、死、苦、悲嘆、憂い、苦悩が生じる。

(パーリ経典におけるこの『縁起』の記述にはいくつかのバリエーションが存在し、おそらくそれが現行の12に固まったのはブッダの死後暫く後の事だろう)

だが、この無明渇愛、どこにどうやって存在して、どのように “何とかして” 破壊する事ができるのか、というのが問題だ。

しかし一方でブッダは、『一切』、という事を語っている。仏道修行において知るべき、必要にして充分な全ての要素はこの “一切” の中に含まれていなければならない。

つまり、ここで焦点となる無明渇愛もまた、この “一切” の中に含まれている、と論理的に詰める事ができるだろう。

一切とは、五蘊と十二処・十八界だった。五蘊の詳細な説明が十二処・十八界だとすれば、その中に無明渇愛も含まれていなければおかしい。

五蘊、十二処・十八界についてはWikiさんが簡にして明なので、下に引用したい。

五蘊(ごうん) - 五陰(ごおん、旧訳)とも。人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。

六根(ろっこん) - 人間の持つ六つの器官(六官)。六内入処(ろくないにゅうしょ)とも。

六境(ろっきょう) - 六根の対象。六外入処(ろくがいにゅうしょ)とも。

六識(ろくしき) - 六根と六境が接触する所に生まれる識

十二処または十二入 - 六根と六境をあわせたもの。

十八界(じゅうはちかい) - 十二処に六識を加えたもの。

摩訶般若波羅蜜経では、陰界入(五陰、十八界、十二入)と略している。

それぞれの詳細については下記のとおり。

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このうち、眼・耳・鼻・舌・身を五根(五官)といい、人間が外からの影響を受ける身体の器官すなわち五感の官であり、意はそれによって生じる心の働きのことである。

また、五根(五官)に対応する境の部分(色・声・香・味・触)を五境、そこに生じる欲を五欲(五塵)と表現したりもする。

~以上Wikipedia三科より引用

前回指摘した通り、五官と五境は五蘊『色』に含まれると考えていいだろう(とりあえず残りの受想行識が意官と法)。

相互に整合性が完璧にとれている訳ではない仏教用語と言うものの制約をわきまえた上で、まずは無明について考えると、それは前回書いたとおり、五蘊としての人間存在に通底する基本特性である、というのは間違いない。

だが、それでは焦点がいまいちピンボケしている。もっと具体的に焦点を絞らなければならない。

上記十八界の中でまずは十二処に絞って、眼耳鼻舌身という五官があり、そこに入る情報である色声香味触という五境がある。

そこでそれぞれに接触が起こり感受が生じ、その接触と感受の内容が法(諸事象)として意官に感受され生起する。つまり十二処の “統覚” 意官である、というのは、現代人にとっては分かりやすいと思う。

更に加えて十八界の範疇にある『六識』もまた、上記の流れを踏襲すれば、その核心となる統覚は第六の “意識” になる。

意識とは、意(官)の識(mano viññāṇa)だから、この『意識』こそが、すべての問題の焦点になる。

つまり、全てであるところの五蘊・十八界において、中核的に全てを統括するIndriya(能力・機能)は六識の最後の『意の識』になる。

無明について考えた場合、私は最前に五蘊としての人間存在の基本特性と言ったが、より焦点を絞れば、それは身体と言うよりもむしろ心の特性である。

この心と言った場合は、私たちの顕在意識だけではなく、むしろ無意識のレベルであり、しかし無意識であろうとそれは肉体的特性ではなく精神的つまり『こころ=意識』における特性である。

(科学的に言うとこの無明の根拠は大脳辺縁系と言う『情動性の中枢』に根差していると思われるので、現実的には肉体的(脳)である、と言う見方もできるが、ここでは仏教的記述に従う)

意官とそこに法(事象)が接触して生まれる “意の識”『こころ』、その根底にこそ“無明”は横たわっている。

上の一覧表における最下段の『意官と法と意識』。これが無明について考える場合の焦点であり、同じ事は、渇愛についても言えるだろう。

渇愛とは六入から情報入力があり、接触があり、感受があり、その結果として生まれ執着を作る、“こころ(意)のはたらき” だからだ。

(仏教で『心』を意味する用語は多数あり、様々な分析的な細分化が行われている様だが、ここではそれらに一切立ち入らない)

何やら書いている本人も頭が混乱しそうな論述だが、では、上記表の最下段にある『意官-法-意識』という流れにおいて、ダイレクトに無明とか渇愛とかを “何とかする” 事ができるか、と言う命題に戻りたい。

私たち現代人は、この『意官-法-意識』という連動ファンクションが脳神経システムという肉体的な基盤に依って働いている、と言う事を明確に知っており、その機序についてもかなり分かっているので、それに対して直接的に効く薬を投与したり手術をしたりする事が、ある程度可能ではある。

けれど古代インド人にとっては、他の五官とちがって、この意官の肉体的・物質的な基盤と言うものは明確に把握されてはいなかった。

ひとくちに心と言うが、それは身体全体に分散しているのか、あるいは心臓に宿っているのか。はたまた脳髄との相関がどこまで視野に入っていたのか。

以前書いたように、たとえある程度、意識と脳髄との相関が認識されていたとしても、それに直截的に働きかける事はできない。何故なら、意官には明確に断定できる固有の機能的な『入り口・門戸』というものが、外側から見ても見いだせないからだ。

逆に明確な物質的・肉体的な機能上の入り口としての『門戸』を持っている、目の当りにそれを見る事ができ、ハンドリングする事ができ、具体的に何とかする事ができるのが、五官、つまり眼耳鼻舌身という情報入力の門戸、であった事になる。

眼は眼窩、耳は耳孔、鼻は鼻腔、舌は口腔、身は、前回指摘した様に毛穴、が目に見える明確な形ある『門戸』として存在していた。

そしてこの五官の門こそが、最終的に第六の意官へとつながり流れ込む門戸そのものでもある。つまり色声香味触の五境は、すべて「法」として意官(こころ)に流れ込む。

だからこそ、その五官の門において不善法の漏入(asava)を防ぐ事ができれば、その後の触・受・渇愛・執着の全ては消滅する。つまり漏出する煩悩(asava)を “堰き止める” 事もできる。

その事によって、『こころ』の根底にある『無明』もまた、立ち枯れになり、滅する(nirodha)

分かりやすく喩えてみよう。

まずここに、意(こころ)という湖がある。その湖底には無明と言う魔形の怪魚獣が棲みついている。この無明と言う魔獣には渇愛と言う恐ろしい口があって、それによって近在の多くの村人襲われかみ殺され苦しめられている。

この湖には五つの濁った不浄な川が流れ込んでいる。その川とは眼川・耳川・鼻川・舌川・身川であり、それぞれ色(映像)・声(音声)・香(匂い)・味・触(接触)という栄養素(食=不善法)を意の湖に流し込んでいる。

(公害で富栄養化したドブ川をイメージしてwww)

そして、その不浄な栄養(不善法の溶けた水)を貪る事によって、無明魔獣は大きく育ち、その渇愛と言う貪婪な口はますます大きくなり、その歯並びは凶悪な牙へと育っていく。

厄介なことに、この魔獣怪魚はしばしば五つの川を遡って不善法を貪り、その力を増して暴れ、流域周辺住民に多大なる被害を与えている。

ではこの無明と言う魔獣を、凶暴な渇愛というその口その牙を、一体どうしたら、退治し滅ぼす事ができるのか。

湖は深く人知を超えており、直接この怪獣魚を何とかする事は人間にはできない。何しろ、この魔獣、存在するのは間違いないのだが、姿が見えなかったりもするのだから。

そこで智慧ある人はこう考えた。

渇愛と言う凶暴な口を持つ無明と言う魔獣を滅ぼすためには、彼の存在を “養っている食” であるところの、五つの不善法という汚濁の川堰き止めてしまえばいい、と。

「何故ならば、感覚器官を防護せずに過ごしていると、欲や不快感といった悪く良くないもの(不善法)に侵されるからである」(調御地経)

川の流れを堰き止める壁が、同時に魔獣が進出して岸辺の人を襲う事を防ぐ防壁にもなる。

眼川から流入する色と言う食(不善の栄養)を、耳鼻舌身と言う川から流入する声香味触という食を、その流れと共に全て堰き止めて断ってしまえば、もはやいかな凶悪な無明魔獣と言えども、やがてはやせ衰えて、死滅するに違いない。

「あたかも、オイルが継ぎ足されない灯火が、やがて燃え尽きて静かに滅していくように」(サンユッタニカーヤ:ニダーナ・因縁についての集)

そして実は、この心と言う湖には、眼に見えない地下水脈として清澄なるパンニャという伏流水も流れ込んでいる(普段は見えない)

五つの濁った不善法の川を堰き止めてしまえれば、このパンニャの伏流水が湖に流れ込む唯一の水源となり、さらに不善の五河川が止まって抵抗水圧が低下したために、清浄なる水の流入量は増加し、湖は少しずつ、しかし確実に澄み渡っていく。

しかもこのパンニャと言う伏流水の成分は、実は無明魔獣滅ぼす薬効(善法)すら持っている。

(五河川が流れ込んでいる内は、湖は不善法で満たされ、その汚濁の栄養力がパンニャの清浄な薬効を凌駕してしまう)

そして、この無明怪魚の退治において肝となる五河川の “堰き止め”作業こそが、ブッダの瞑想法実践行そのものである、と言う事になる。

「感覚器官を守りなさい。感覚器官防ぎ止めなさい(調御地経)

以上、あまり厳密ではない、ひとつの喩え話に過ぎないものだが、イメージできただろうか。

今までにも繰り返し指摘してきた事だが、この眼耳鼻舌身意六官とはマーラの領域に他ならない。無明と言う怪魚こそが、そこに『魔』という文字を入れた様にマーラ(悪魔)』そのものなのだ。

悪魔(マーラ)は言った。

「修行者よ、眼・耳・鼻・舌・身・意は私のものです。色形・音声・香り・味・触れられる物・考えられる事は私のものです。眼耳鼻舌身意の識別領域は私のものです。

そなたは、どこへ行ったら、私からのがれる事ができるだろうか」

(サンユッタニカーヤ:悪魔との対話 中村元訳)

『一切』という世界、及びその内実である五蘊・十二処・十八界」は、その全てがことごとく、マーラの支配領域なのだ。

この一切の原語は、パーリ語ではsabbeもしくはsabbaであり、サンスクリットではsarvaになる。英語で言うとAll、あるいはEverythingさらにWholeという意味もあるようだ。

私はインド放浪の過程でヒンディ語をある程度かじったのだが、ヒンディでもSab(सबサブ)という単語があり、やはりEverythingを意味する。北インドの諸言語というのは基本的に近しい兄弟言語なので、意外な所で役に立ったりして面白いものだ。

このsabbeであるところの『一切』だが、実は私は全く知らなかったのだが、仏教の教理において、極めて重要な概念である事が分かって来た。

ぶっちゃけ、今私が理解しつつある事柄というものは、テーラワーダ仏教においてはある意味常識的な事で、長老先生方はもちろん、普通に学んだ在家の人々にとっても、当たり前な「何を今更」感の強い事なのかも知れないが、ここはあくまでも私個人の探求と発見と理解のプロセス、という事で、書き連ねていきたい。

この「三科」的な「一切」という概念は、Wikipedia三科さんに書いてある通り、部派仏教における重要なキーワードで、もちろんテーラワーダにおいてもその重要性は共有されている。

特にサンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)においては、その内容の8割以上?はこの三科、つまり眼耳鼻舌身意の六官(=六根=六処)とその対象である色声香味触法の六境、それらが接触する所に生まれる六識、という十八界と、そこから派生する心理的な諸事象について語られている、というくらい(特に第4集については、そのものずばり「六処についての集成」となっている)、まさにこの十二処十八界こそが仏教的世界観の文字通り「すべて」であるのだなぁ、と実感できる。

(ただし、この「一切」として切り取られた世界とは、もちろん厭離すべきものであって、スピ系が好むようないわゆる「永遠の真実在」とか歓喜世界」とか言うものからは対極にある)

しかし、話はそれだけでは済まない。これも本格的にパーリ経典を読み始めて気づいたのだが、このSabbeという原語から訳された「一切」、実は大乗的文脈で標榜される最も重要な「諸法無(非)我諸行無常一切皆苦」という三つの真理(四法印の内の三っつ=三相)においても、主要テーマになっているのだ。

私たちは漢訳というフィルターを常にかけられた上で仏教用語というものと向き合ってきたので分かりにくいのだが、諸法とはパーリ語でSabbe dhammaであり、諸行とはsabbe saṅkhāra であるから、『諸』と訳されたものは本来『一切』なのだ。

1.sabbe saṅkhāra aniccā — "all saṅkhāras (conditioned things) are impermanent"(一切行無常)

2.sabbe saṅkhāra dukkhā — "all saṅkhāras are unsatisfactory"(一切行苦)

3.sabbe dhammā anattā — "all dhammas (conditioned or unconditioned things) are not self"(一切法非我)

つまり、仏教においてその中核に位置づけられる世界観、あるいは叡智である三相「無常・苦・非我」の、メインテーマはこの「一切」であるところのSabbeであると考えられる。

そこで問題になるのが、上の「無常・苦・非我」という三相においてメイン・テーマともなっているSabbe(一切)と、三科「五蘊・十二処・十八界」一切と呼ばれた時のその「一切」との関係性だ。

両者における一切が、共に同義としての同一のSabbeであるとしたら、この三相は、以下のように読みとる事ができるだろう。

一切である十八界(眼耳鼻舌身意の六官とその対象である色声香味触法の六境、それらが接触する所に生まれる六識)において形成されるもの(サンカーラ=行)は、一切がっさい無常である。

一切である十八界(六官・六境・六識)において形成されるもの(サンカーラ=行)は、一切がっさい苦である。

一切である十八界(六官・六境・六識)において生起し認識される現象(法)は、一切がっさい非我である。

何ともくどい文章だが、論理的に考えると以上のように成らざるを得ない。

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何しろブッダは、我々が経験可能な全ての事柄としての「一切」を、六官・六境・六識の十八界だとしてそれ以外の事には関心を持たず、論ずる事も無かった訳だから、そのようなブッダが三相において一切(Sabbe)は無常、苦、彼我」という時にも、その一切とはこの十八界だと考えなければ筋が通らないのだ。

(この間の消息に関してはサンユッタ・ニカーヤ第一篇「六処についての集成」第一部第三章第10節「誤った考えを根絶するにふさわしい道」などに詳しい)

この十八界の基盤となる十二処については、六官と六境(六内外処=十二処)が合わさった所に生まれるのが接触であり、その接触によって感受が生じ、感受に依って渇愛が、渇愛からが、取からが、有からが、生から老病死が生じる、という形で、十二縁起の後半部分の土台としても説明されている(サンユッタニカーヤ・ニダーナ:因縁の集など)

十二処を土台とした縁起の連鎖の結果として、が生じる。つまりここでは、一切(十二処十八界)皆苦、という文脈の中身が、「プロセス」として詳述されている形になっている訳だ。

そしてこれら十二処(六内外処)を土台とした生起(あるいは消滅)の連鎖プロセスは、すべて依って生じると言う縁起の連鎖に他ならず、それ自体は無常であり非我である、という事で、ここに三相の内容が揃う事になる。

以前から指摘している様に、この十二処十八界とは五蘊とイコールであると考えていいので、五蘊無常であり、五蘊皆苦であり、五蘊非我、とも言いかえられるだろう。

そしてもうひとつ、仏教における真理の、いわば旗印の様に掲げられている教えとして、四聖諦というものが存在する。

その最初に来る苦の認識こそが、一切皆苦であり、その一切とは十二処十八界(五蘊)であった訳だから、四聖諦もまた、この一切であるところの十二処十八界についての真理、という事になる。

さらに現象世界の一切が苦であるという、その苦の内容を詳述したものに四苦八苦があるが、それを羅列していくと、まずは生老病死四苦であり、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦と続き、最終的に、「つまるところ五蘊の全ては盛苦である」とまとまられている。

生老病死四苦とは、十二縁起において六処より始まる接触から感受、から渇愛、から、から、から、から老病死苦、が生じる訳だから、そのプラクティカルな源泉は六処にある事が分かる。

続く「つまるところの」、つまり結論としての五蘊とは、すなわち一切であるところの十二処十八界と考えて差し支えないのだから、ここでもまた、十二処十八界に全てが収斂される。

四聖諦の最初の苦の認識とは、いわば『十二処十八界という一切』である」、という認識に他ならない。

ならば続く苦集聖諦、つまり、苦には原因がある、という認識もまた、その原因は十二処十八界の内部のダイナミズムに求められる事になる。

その原因とは、六処(六内外処=十二処)を土台にした十二縁起の後半部分に生じる渇愛である、と一般には言われているが、この縁起のプロセス自体が、そのダイナミズムに他ならない。

続く苦滅聖諦「苦は滅する」という事実の認識だが、これもそもそものとは一切であるところの十二処十八界 “そのもの” が苦なのだから、十二処十八界の内部で小細工を弄するのではなく、これは十二処十八界(五蘊それ自体が滅する、という真理になる。

そして最後の苦滅道聖諦とは、苦であるところの一切=十二処十八界(五蘊を、まるっと丸ごと滅していく道(行道)である、と考える事ができる。

では、この十二処十八界、その要素を再掲すると眼耳鼻舌身意六官とその対象である色声香味触法六境、それらが接触する所に生まれる六識、になるが、この三つのまとまりの内のどれが、その行道において “焦点” となるのか。

六識というのは詳述すると眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、になるから、眼耳鼻舌身意という六官に依って生じる識であるのは明らかだろう。

という事は、より根本的な「一切」の焦点は六官六境十二処に絞られる。

その証拠にサンユッタ・ニカーヤにはそのものズバリ「すべて(一切経=Sabbasuttaṃ)」というタイトルで以下の経が伝えられている。

「比丘たちよ、わたしは『一切』について、あなたたちに説こう。それを聞きなさい。『一切』とは何であるか。

と色、と声、と香、と味、と触、と法、比丘たちよ、それを『一切』と言うのである

~春秋社刊 原始仏典Ⅱ 第4巻P32 サンユッタ・ニカーヤ 六処についての集 第1部第3章第1節「すべて」より引用。元訳の「すべて」を「一切」に変更

Sabba vo bhikkhave desissāmi taṃ suṇātha. Kiñca bhikkhave sabbaṃ: cakkhuñceva rūpā ca sotañca saddā ca ghānañca gandhā ca jivhā ca rasā ca kāyo ca phoṭṭhabbā ca mano ca dhammā ca idaṃ vuccati bhikkhave sabba.

accesstoinsight.org より引用

では、この十二処の内の、六官と六境、一体どちらを、何とかしてハンドリングして操作して、変える事ができるのか。

前回も同じ文脈を辿っているが、大変重要な部分なので、重複を恐れず、もう一度繰り返しみていく。

環境世界の情報刺激である色声香味触という物質的な『五境』は、基本的に「変える」事は出来ない。例えば、北インドの夏に太陽がカンカン照りになればめちゃくちゃ暑い。

(もちろん様々な工夫によって物理的に対処する事は可能だが、ここで言う文脈からは離れる)

熱い太陽光それ自体を何とかして変える事は出来ないけれど、暑さ、という主観的な経験は、何とかして変える事ができるし、ブッダの視点とは正にその経験主体としての現象的な「自分」という形成物=五蘊に置かれていた。

つまり、十二処の内の六官と六境では、最終的には六官こそが何とかして働きかけるべき「それ」でありその働きかけの結果として『六官』が滅せられる、という結論に至る。

そしてもちろん、六官が滅すれば、六境もまた滅する。何故なら私たちは六官というバイスを通じて初めて、「主観的に」六境という対象の存在を “識る” 事ができるからだ。

六官が滅すればそれは相即的に六境の滅をも意味し、それはすなわち十二処と十八界という “一切の滅” に他ならない。

ではこの六官、一体その何をどうやって滅するのか。六官そのものは物質的な身体として目の前に厳としてあるので、それ自体を手品のように消してしまう事はできない(死ねば破壊されるが、それでは意味がない)

ここで重要になって来るのが、四聖諦苦の根本原因とされている渇愛(巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā」だ。この渇愛十二縁起でも共有され、ひとつの焦点と位置づけられるが、その渇愛の因としては感受があり、感受の前に接触があり、さらにその前に六処(六官)がある。

ここで十二縁起の文脈に沿いながら四聖諦の苦の原因である渇愛を滅する方法として、四つの可能性が考えられるだろう。

まずは、渇愛そのものを直接滅するか、渇愛の原因である感受を滅するか、さらにその原因である接触を滅するか、あるいは六処を滅する(Nirodha=堰き止める)のか。

ブッダが一切という括りにおいて十二処十八界を設定し、その根幹に位置するのが六官(六処)であるという事実を踏まえて、十二縁起において六処の前に位置する名色や識や行や無明はこのさい直接的に何とかして滅する対象としては除外する。

無明・行・識・名色・六処(六官)接触・感受・渇愛・取・有・生・老病死苦

焦点は六処(六官)から渇愛までの四つ。しかし、渇愛はその原因となる感受があれば自動生起するので、感受を滅しなければ渇愛を滅する事は出来ず、感受は接触があれば自動生起するので接触を滅しなければ感受は滅しない。

では接触を滅するために六処を滅しようとしても、それは物質的な身体として厳としてそこに存在するので、いかなブッダと言えどもその具体的な身体器官そのものを滅する事は死なない限り不可能なのだ。

カギとなるのが、六処(六官)はしばしば『六入』と記述されると言う事実だ。六処に入ると言う事はつまりは何かが外から六官の門(穴)に入る

具体的には、六境の情報刺激入って触れる。例えば耳孔に空気の振動が入って鼓膜に触れて音が感受される。瞳孔に光が入って網膜に触れて映像が感受される。

ここに漸く、焦点が絞られて来る。前回も述べた様に、十二縁起の全ての始まりは無明とも言われ苦の根本原因は渇愛とも言われるけれど、実際に、何とかして、この十二の縁起の連鎖として存在している五蘊であるわたくしの苦を滅する方法があるとしたら、論理的にみて、六処(六官)において六境の情報刺激が浸入するのを防ぐ事こそが第一に考えられるのだ。

「何故ならば、感覚器官を防護せずに過ごしていると、欲や不快感といった悪く良くないもの(不善法)侵されるからである」

「感覚器官を守りなさい。感覚器官で防ぎ止めなさい

(調御地経)

しかし、入るのを防ぎ止める(堰き止める=Nirodhaといっても、一体どうしたらいいのか。

一方で、六官(六根)の原語となるIndriya(器官)というのは、物質的な器官であると同時に、その『機能(能力、権能)』をも意味する。なので、もしその『機能』停止(止滅=Nirodha)すれば、たとえ刺激情報自体があっても、渇愛へとつながる意味のある接触や感受は生起しないだろう。

(この六処を起始点とした「滅の縁起」については、サンユッタ・ニカーヤ第一篇「六処についての集成」第三部第一章第4節「世界(Loka)」などに詳しい)

別の視点から見ると、もし六処(六官)における接触が妨げられ止滅(ニローダ)したならば、それに起因する様々な心的形成作用(サンカーラ=十二縁起の)も、(十二縁起を遡って)自ずから止滅するという事だ。

では、この場合、機能の働きを妨げ、停止(止滅)させるにはどうしたらいいのか。

それら、六官において防護し、堰き止め妨害し阻害し機能停止(止滅=Nirodha)させる、という働きかけ(作業)が、具体的な瞑想実践のメソッドとどのようにつながり、最終的に無常・苦・無我の『観察(Vipassana)』とどのように結びついて来るのか。

そこにこそ、ブッダの瞑想法、その作用機序真骨頂がある。そう私は理解している。

(上の説明では、便宜的に「停止させる」などと「能動的」な表現をとっているが、実態としてのプロセスは本来、「自ずから止滅する」と言うべきだろう)

たいへん拙い説明で申し訳ないのだが、ここまで二回にわたって、十二縁起、五蘊、四聖諦、四苦八苦、三科・十二処十八界、六官、など法数と呼ばれる数にちなんだ最重要の仏教用語を、「一切」とその核心である『六官』という観点から網羅的に見てきた。

一切の苦を滅するがある。

その『一切』とは十二処十八界に他ならず、それは『十二処十八界の滅』であり、より焦点を絞れば、六官で六境の『触』防ぎ止める(六入を堰き止める=Nirodha)事を意味する。

それが、沙門シッダールタが菩提樹下で想到した方法論に依る『六官の防護』であり、それこそが苦滅道聖諦であり八正道の中心にある『定』つまり瞑想実践そのものである。

歴史的に形成された仏教教理とは、性格的に極めて一貫性に乏しくかつ煩瑣極まりないもので、それを紐解くという形で進めざるを得ないという制約上、その解説自体も煩雑にならざるを得ないのだが、ここまでは、納得してもらえただろうか。

これらの分析的説明は、全て「古代インド人たるブッダとその聴衆たちの『心象に寄り添って』それを理解する」という視点からのもので、現代人にはいまいち理解に苦しむ点も多々あるだろう。

問題はその、

一切=十二処十八界=(無常・非我)

一切の=六官と六境の接触・感受の滅

一切を滅する法=その接触を五官(六官)で防護する=瞑想実践行

という論理構成が、現代人に理解可能な形でどのように『翻訳(説明)』可能であるか、という一点にある。

私の見立てでは、それは「脳神経生理学的な機序」として、科学的合理的な整合性をもって充分に説明可能なのだ。

私はこれまでも繰り返し、

「沙門シッダールタの身体は、私たちの身体である」

と述べて来た。

「同じ身体(心身)システム」である以上、そこにおいて現象する事柄の真実『ひとつ』なのだ。

脳神経生理学などという概念すら存在しない2500年前に、沙門シッダールタはほとんど体験知の積み重ねだけで「感覚的」にその真実の理法(作用機序)』に思い至り、自らの直観を信じて菩提樹下に結跏趺坐し、ついに苦界からの解脱(一切の滅)を成し遂げた。

それはまさに奇跡としか言いようがない出来事であり、彼がある種「天才」的『感性と閃き』の持ち主であった事の証左と言っていいだろう。

 

 

(本投稿はYahooブログ 2015/5/19「瞑想実践の科学 36:「一切」としての十八界とマーラ」、2015/5/22「瞑想実践の科学 37:「一切」と三相と四聖諦」を統合の上加筆修正して移転したものです)

 

 

 

 


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