仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「広長舌相」とヨーガ・元祖ヨーギンとしてのブッダ:瞑想実践の科学2

 前回は謎の『広長舌相』について考察した。私がこの、一見突飛な、荒唐無稽にも思える広長舌相のエピソードにこだわるには、もうひとつ理由がある。

それは、前回の読み筋とほぼ並行して始まったもので、ヨーガと深く関わりを持った視点だった。

広長舌相についてとやかく言う前に、そもそも広長舌相をそのひとつとして含んでいる仏の32相について、良く知り考えるべきではないか。

そう思った私は、仏の32相について1から32まで、読み上げていった。これは検索すればネット上で見る事ができるし、ちょうどその頃読み始めていたパーリ経典の中にも、32相に特化した経典などがあって知る事ができた。

これらも読んでみるとかなり荒唐無稽な内容が多く、このようなイメージによって古代仏教徒たちがどのような心象を形作っていたのか、容易にはうかがい知れない。

ここで32相の全てを羅列する事はしないので、興味のある方は検索して見て欲しいのだが、私が一見して興味を引かれたのは、動物に関する譬えが多い、という点だった。

すでに私が慣れ親しんでいるスッタニパータなどでも、その巻頭を飾る蛇の章は、文字通り蛇が脱皮する事に喩えた定型句で締めくくられるものだし、「サイの角のようにただ独り歩め」というこれもまた有名な句も存在する。

総じて原始仏教の世界では、修行僧や、その先達であるブッダを、動物の姿・形・生態に重ねて語る事が多いのだが、それが、この仏の32相においても踏襲されていた。

それらをWikipediaから拾っていくと、以下のようになる。

5. 手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう)
手足の各指の間に、の水かきのような金色の膜がある。

7. 足趺高満相(そくふこうまんそう)
足趺すなわち足の甲がの背のように厚く盛り上がっている。

8. 伊泥延腨相(いでいえんせんそう)
足のふくらはぎが鹿王のように円く微妙な形をしていること。伊泥延は鹿の一種。

10. 陰蔵相(おんぞうそう)
のように陰相が隠されている(男根が体内に密蔵される)。

19. 上身如獅子相(じょうしんにょししそう)
上半身に威厳があり、瑞厳なること獅子王のようである。

25. 獅子頬相(ししきょうそう)
両頬(顎)が隆満して獅子王のようである。

30. 牛眼瀟睫相(ぎゅうごんしょうそう)
睫が長く整っていて乱れず王のようである。

こうやって箇条書きに出してみると、32相の内の7相が動物の喩えを明言しているので、その割合はかなり高いと言えるだろう。

中でもライオンは、唯一2つの項目で「獅子王」が明言されているので注目した。

さらに、

「24. 牙白相(げびゃくそう) : 40歯以外に四牙あり、とくに白く大きく鋭利堅固である」という項目は、おそらくライオンの雄大な牙を連想していると考えられるので、獅子のイメージは三つになる。

ひょっとすると、「14. 金色相(こんじきそう):身体手足全て黄金色に輝いている。」と「15. 丈光相(じょうこうそう):身体から四方各一丈の光明を放っている(いわゆる後光(ごこう))。光背はこれを表す」もライオンの体色と鬣:たてがみ、からの連想かも知れない。

しかし、残念ながら、広長舌相はどのような動物にも明示的には喩えられていなかった。

ただ、舌をもって顔のあちこちを舐めると言う動作・生態は、人間だとすると荒唐無稽な光景だが、動物ならさほど不自然ではない。

そこで、いろいろな動物のしぐさを考えてみた。

カメレオンなどは長い舌をもって、眼までも舐め上げるし、アリクイなども長い舌を持っている。

そこでふと閃いた事があった。

私はインド滞在歴のべ50カ月になるほどの超インド・フリークだ。なのでインドと言えば野良牛というように、インドの街路を徘徊する牛たちの姿は、これまで常に眼にしてきた。

加えて、学生時代に野辺山で高原野菜のアルバイトをした時に牧場が併設されていて、そこで牛の生態をまざまざと身近に見聞した経験もある。

それらの記憶がこの時ふっと蘇った。

そう言えば、牛っていう生き物は、長い舌でもってしょっちゅう鼻の穴を舐め上げているな、と。

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India.comより

牛タンを料理した事のある方なら分かると思うが、牛の舌というものは異常なまでに長いのだ。その長い舌をもって、彼らは暇さえあればその舌先を鼻の穴の奥にまでも突っ込んで舐め上げている。

それは近くで目撃すると、一種異様な衝撃をもって強く印象付けられるものだ。

動物の生態としてなら、ブッダが舌で耳と鼻と額を舐め上げた、という姿は、決して異常ではない。実際に牛は、長い舌をもって鼻の穴を舐め上げている。

さらに、パーリ経典ではブッダは最上の牛、ナーガ(象)の王、獅子王などに頻繁に喩えられている。

ライオンだって鼻面を獲物の腹腔に突っ込んで血まみれた内臓を食べたりするのだから、舌でもって鼻や顔面を舐めることぐらいできるのではないか。

動物との重ね合わせがひとつの鍵かも知れない、という発想から、次に私は、インド武術において、その体錬の基礎動作の中で、動物のポーズというものが重要視されている、という事実を思い出した。

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メイパヤットの基本・ライオンのポーズ

南インドケララ州において継承されている伝統武術カラリパヤットの、基礎体錬であるメイパヤットというシステムの中には、ライオンのポーズをはじめ馬・象・孔雀など仏典でおなじみの動物のポーズも多く取り入れられているのだ。

それらは、人間技を超えた野生動物の強大な力や柔軟性、跳躍やスピードなどを、戦士の能力として取り込む為に考案された、と言われている。

考えてみると、カラリパヤットなどインド武術の身体観は、ヒンドゥ・ヨーガのクンダリーニ思想を下敷きにしている。

その証拠に、カラリの基本ポーズやマラカンブの技などは、ヨーガ・アサナと多く重なっているし、ヨーガのポーズ名には、しばしば動物の名前が付けられているのだ。

クルマ(亀)・アサナ、マユラ(孔雀)・アサナ、シンハ(ライオン:獅子)・アサナ、などヨーガには仏典やインド武術に共通する動物のポーズが多く取り入れられている。

ここで私の記憶が、フッと疼いた。

確か、ヨーガの『シンハ・アサナ』というものは、舌を長く突き出してアッカンベーの状態を示す、奇態なポーズではなかったか、と。

そこで調べてみると、やはりそうだった。

ヨーガのポーズ、シンハ(ライオン)・アサナは確かに舌を長く突き出すものだった。

今まで荒唐無稽なマンガにしか思われなかったセーラ・バラモンの広長舌相のエピソードが、にわかに「瞑想ヨーガ」と重なり合った瞬間だ。

何しろ私がヨーガをある程度本格的に学んだのは、今から20年以上前の大昔だ。細部における様々な記憶は忘却の彼方にかすんでいたのだが、ここへきて一気に回想が加速してきた。

そう言えば、ヨーガの実践には、舌をまくりあげてその先端で気道を塞ぐと言う、確かケチャリ・ムドラと呼ばれるものもあったな、と思いだした。

上の画像を見ると、ピンク色の舌をのどの奥にストレッチしていって、ついには鼻腔の奥に到達する様子が良く分かる。

実際にやってみると分かるのだが、舌を上図の最終形にまで伸ばして気道を塞ぐと言うのは容易ではない。舌の裏には独特の筋(すじ)があって、舌の反転を邪魔しているからだ。

そこで古のヨーギ達は、ストレッチの妨げになる舌の裏にある筋を少しずつ剃刀で切っていって、最終的に鼻腔の奥にまで届くほど舌を長く使えるようにしていった。

ヨーガを学んだ時に何かでこのエピソードを聞いて強く印象付けられていた私は、ようやくここにきて、それを思い出す事ができた訳だ。

このケチャリ・ムドラというものは、ヨーギン達が剃刀で舌の裏の筋を切ってまで体得したいと考えたように、ヨーガの瞑想実践を深める為に、極めて重要な意味を持っているテクニックだった。

何故このような不可解な行為によって瞑想が深まるのか、という点は、脳神経生理学的な機序そのものであり、ブッダの呼吸瞑想とも深く関って来る。

ケチャリの意味は、KeがKha,すなわちブラフマンの「空処」を表し、チャリ(Chari)が動く、行く、という意味で、その正味は “ブラフマ・チャリア” とほぼ同義だ。

それをする事によって、ブラフマンに行く事ができるムドラ。

Khaというのは、以前 “虚空” や車輪の軸穴とのからみで、本ブログでも取り上げた(車輪の軸穴としてのKha)。

ここで注目したいのは、このケチャリ・ムドラの行では、顔面の内部において、鼻(鼻腔の最奥部)を舐めている、と同時に、前に言及した “耳管開口部” をも舐めている、という事だ。

そして、上図をはじめネット情報を見てみると、このケチャリ・ムドラの実践によって、体内のプラーナを頭頂のサハスラーラ・チャクラに導くと言う効果が期待されているらしい。

ここへきて、広長舌相のエピソードは、私の中で、完全に瞑想実践とシンクロした「意味」として、感得されたのだった。

セーラ・バラモンブッダと対話した時、おそらくブッダは結跏趺坐もしくはそれに準じた坐相(アーサナ)をとって坐っていた事だろう。

その状態でまず舌を下に長く伸ばす。この姿は正にヨーガにおけるシンハ・アサナに対応している。

何故なら32相にも見られるように、ブッダは常に、まず第一には偉大なる獅子王として讃嘆されていたからだ。

その獅子王としてのブッダが、坐相をとりながら舌を長く伸ばして出した姿は、正にシンハ・アサナそのものと言えないだろうか。

そして、その後に、ブッダは耳と鼻と額を順に舐め上げる。

これはケチャリ・ムドラにおいて、舌をのどの奥に伸ばして、『内部で』耳管開口部と鼻腔最奥部を舐める事に対応してはいないだろうか。

噛み砕いて言えば、広長舌相のエピソードもヨーガの実践も、共に舌を極限まで伸ばすという営為と、耳と鼻という器官に舌で “触れる”、という営為においては、完全に重なり合うと言う事だ。

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画像はネットからの参照だがリンク消失

ケチャリ・ムドラは、鼻咽喉にある耳管開口部を “舐める” 。

そしてブッダが最後に舐めた額のアジナー・チャクラ。これはケチャリ・ムドラにおいて、その効果・作用が頭頂部のサハスラーラ・チャクラ(ブラフマンの座)を活性化し、瞑想実践を特段に深める事と、有意に対応してはいないだろうか。

もちろん、サハスラーラ・チャクラとアジナー・チャクラは、ヨーガの思想においてだけではなく、“神経生理学的にも”、密接に連関しているのだ。

以上が、広長舌相に関する、第三の読み筋だった。

これは以前から感じていた事だが、現代までにヒンドゥ・ヨーガとして継承されてきた一連の思想と方法論の多くが、実は最初期の仏教サンガ、なかんずくブッダ本人によって開発・普及され、基礎づけられたものではないか、と私は考えている。

ゴータマ・ブッダこそが、バリバリの元祖ヨーギンであり、インド思想史における瞑想ヨーガの初代第一人者であった。

そのような視点を持ってパーリ仏典を読み解いていく事によって、ブッダの瞑想法の核心部分が、鮮明にあぶり出されて来る。私は今、そう強く感じている。

この点に関しては、以前簡単に言及した「顔の周りにサティを留めて」という瞑想実践上のガイダンス、その根底にある「六官の防護」、そして両者とも深く関連する「歯と舌の行法」などが、現代に至るヒンドゥー・ヨーガの伝統の中に脈々と息づいている事からも容易に推測可能なのだ。

今後の投稿では、そんな「元祖バリバリのヨーギン」としてのブッダ(あるいは沙門シッダールタ)、という視点をベースに、パーリ経典の諸相を読み解いて行きたい。

 


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