仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

箜篌の喩えと『チューニング(調弦)』

前に、“Mukha”という言葉をひとつの焦点に、空洞(空胴)としての共鳴器を持つ箜篌(ヴィーナ)と、瞑想修行をする比丘の身体を重ね合わせる視点について、考えてみた。

このソーナ・コーリヴィサ比丘の箜篌の喩えのエピソードは色々な意味でとても興味深いので、今回は更に考察を深めていきたいと思う。

最初に、この箜篌の喩えについての基本情報を見ていきたい。

一般に日本語の解説書などでは『弾琴の喩え』として知られ、大乗的な「中道」の教えを中心に、ある種の人生訓話として取りあげられる事が多いのだが、本来の典拠は、パーリ三蔵の内のVinaya Pitaka(律蔵)、その中のMahavagga(大品)の第五章の冒頭に収められたエピソードの、ほんの一部を抽出したものらしい。

以下に、良く見られる実例として、臨済宗大本山妙法寺のサイトから引用したい。

《ある時、仏陀は、マガダ国の都ラージャガハ(王舍城)のほとりのギジャクータ(霊鷲山)におられました。そのころ、近くの淋しい森で、ソーナ(守篭那)という一人の比丘が修行を続けていました。彼の修行ぶりは、大変激しいものでしたが、なかなか 悟りを得ることができなくて、悩み苦しみ、この道を捨てて世俗の生活に還ることも考えるようになりました。

仏陀は、彼の心の迷いを知って、彼を訪れ、その心境をただしました。彼は、あるがままに、その思うところを打ち明けました。

仏陀は、彼が、以前、琴を弾くことが上手であったことを思い、
「ソーナよ、琴を弾くにはあまり絃を強く張ってはよい音は出ないであろう、また、絃の張りが弱すぎてもよい音は出ないであろう、ソーナよ、仏道の修行も、まさにそれと同じであり、刻苦に過ぎては、心たかぶって静かなることが出来ず。弛緩(しかん)に過ぎれば、また懈怠(けたい)におもむく。ソーナよ、なんじは、琴の音を調える時のようにその中をとらねばならない。」(と中道の教えを説き、)

それより、ソーナは、この『弾琴の喩え』をじっと胸に抱いて、再び修行に励み、ついに悟りの境地に至ることができました。》

(参考・増谷文雄『仏教百話』筑摩書房

う~ん、何とも分かりやすい喩えだ。気張りすぎてもいけないし気を抜きすぎてもいけない。その間の丁度いい『中ほど』こそが修行の妙諦なのだ、という事だろう。

しかしその『中道』なるもの、一体、「具体的に」どのように『仏道修行』と実践的な関わりを持つものなのだろうか。

更にその修行の『焦点』として、『瞑想実践行』というものを、果たしてこれら引用者たちは視野に入れているのだろうか?

以前書いたように、私の読み筋では、このブッダによってソーナ比丘に説かれた箜篌の喩えは、何よりも『瞑想実践行』の『技術的な妙諦』についての指導であったと考えられるのだが。

そこでその真意をより分かりやすくする為に、以下に英訳文とパーリ原文と日本語訳という順序で、当該個所を羅列引用して詳細に見ていきたいと思う。

英訳文はネット上に上がっている《Full text of "The Book of the discipline : (Vinaya-pitaka)"》よりの引用。パーリ原文はTipitaka,org さんよりの引用。

日本語訳は中村元訳からの引用と不足部分を私の意訳で補った。

THE GREAT DIVISION (MAHAVAGGA) V P240

"What do you think about this, Sona ? Were you clever at the lute's stringed music when formerly you were a householder?"

‘‘Taṃ kiṃ mannasi, soṇa, kusalo tvaṃ pubbe agārikabhūto vīṇāya
tantissare’’ti?

「ソーナよ。 汝はどう思うか?汝は在家の時にはの演奏に熟練していたのではなかったか?」

"Yes, Lord." ‘‘Evaṃ, bhante’’ti 「はい。そうです」

"What do you think about this, Sona ? When the strings of your lute were too taut, was your lute at that time tuneful and fit for playing ?"

‘‘Taṃ kiṃ mannasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo accāyatā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti, kammannā vā’’ti?

「ソーナよ。 汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎていたならば、そのとき琴は音声こころよく妙なるひびきを発するであろうか?」

"No, indeed, Lord." ‘‘No hetaṃ, bhante’’ti. 「いいえ」

MAHAVAGGA V 241

"What do you think about this, Sona ?
When the strings of your lute were too slack, was your lute at that time tuneful and fit for playing ?"

‘‘Taṃ kiṃ mannasi, soṇa,
yadā te vīṇāya tantiyo atisithilā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti, kammannā vā’’ti?

「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が緩やかすぎたならば、そのとき琴は音声こころよく妙なるひびきを発するであろうか?」

"No, indeed. Lord." ‘‘No hetaṃ, bhante’’ti. 「いいえ」

"What do you think about this, Sona ? When the strings of your lute were neither too taut nor too slack, but were keyed to an even pitch, was your lute at that time tuneful and fit for playing ?"

‘‘Taṃ kiṃ mannasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo neva accāyatā honti nātisithilā, same guṇe patiṭṭhitā, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti, kammannā vā’’ti?

「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎてもいないし、緩やかすぎてもいないで、平等な(正しい)度合いを保っているならば、そのとき琴は音声にこころよく妙なるひびきを発するであろうか?」

"Yes, Lord." ‘‘Evaṃ, bhante’’ti. 「はい」

"Even so, Sona, does too much output of energy conduce to restlessness, does too feeble energy conduce to slothfulness."

‘‘Evameva kho, soṇa, accāraddhariya uddhaccāya saṃvattati, atilīnariya kosajjāya saṃvattati.

「それと同様に、あまりに緊張して努力しすぎるならば、こころが昂ぶることになり、また努力しないであまりにもだらけているならば怠惰となる」

Therefore do you, Sona, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it."

Tasmātiha tvaṃ, soṇa, riyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti.

「それ故に汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。もろもろの器官平等なありさまに達せよ」

どうだろうか。各言語それぞれのニュアンスを、何回か熟読して味わってみて欲しい。実に面白い対比ではないだろうか?

私が最初に注目したのは、中村元博士が日本語で「妙なるひびきを発する」と訳した部分だった。この「妙なる響き」、なんとも詩的に美しいのだが、原文にはそのような字義は認められるのだろうか。

同じ部分の英訳を見ると “fit for playing” になっており、パーリ原文では“kammannā” になっている。

英訳を日本語にすると「演奏するに適したものであるか?」というくらいの意味だろう。これはその前段の “were keyed to an even pitch, was your lute at that time tuneful” という一節を受けており、その意味は、

「音の諧調が正しく整えられてチューニングが完全になされており」

だからこそ、「演奏するに適したものであるか?」という問いかけになっているのだ。

この『チューニング』という観点こそが、この文脈において最も重要な部分なのだと私は考えている。何故ならそれは、技術的な『作業』だからだ。

英語ではそれをtunefulという言葉でまとめているが、その原語はsaravatīであり、中村訳では「音声こころよく」と、これまた美しく詩的にまとめている。

しかしここで重要なのは、先に指摘した通り『チューニング』という作業であり、その意義は英語のtunefulには正しく反映されているにも関わらず、中村訳では詩的に走ったが為にその字義がかすんで見失われてしまっている。

様々な楽器に親しんでいる人ならば分かると思うが、例えばピアノの調律、ギターの調弦などとというものは、楽器を演奏する以前の大前提となる極めて重要な作業だ。

特に弦楽器の場合は演奏中にも弦の張りが微妙に変化して、そのつど加減してやる作業が必要になる。

乾燥や温度によって木質の胴体は伸縮するし、古代インドの場合、あるいは楽器を保管する時は弦を若干緩めておいたのかも知れない。

ヴィーナなどの弦楽器をよくこなす(演奏する)人・ソーナであるならば、当然ながら、弦のチューニングという『作業』あるいは『仕事』にも熟達していたはずなのだ。ブッダはそこを見事についた。

試みにネット上でギターの調弦について調べてみると色々と面白い事が分かる。

Ritto Musicさんのサイトを見ると、ギターの調弦というもののイメージがある程度リアルに理解できるだろう。

それは、とても繊細で注意深い作業で、最近では様々な電子チューナーがあって簡易にできる様だが、自分の耳だけでそれをやっただろう古代インド人(ソーナ)の環境を考えると、それは文字通り『職人技』に近いレベルだった事だろう。

それは細心の注意深さと集中力と熟練によって初めて成し遂げられる『技術』であり、とても「張り過ぎず緩みすぎず中ほどがよい」などという一言で表現しきれるような単純なプロセスではないのだ。

Tuning is a complex task - however, it can be achieved with a good ear and some practice.

もちろんブッダは、その決して単純ではない技術において熟達しているであろうソーナの、そのバックグラウンドを熟知した上でこのヴィーナの喩えを説いた。

その調弦プロセスにおいて、もっとも重要な秘訣、とは一体何だっただろうか。

私は楽器は嗜まないが、同じような『作業』として『目立て』をしてきた経験がある。本業だった山仕事で使う鋸やチェーンソー、草刈機などの歯を研ぐ作業だ。

チェーンソーや草刈機もそうだが、特に昔ながらの手引き鋸を手ヤスリで目立てする場合にはとても繊細な感覚が求められる。

まずは眼で鋸歯の先の形状を詳しく観察し、その形の崩れ(これが切れない原因)を特定する。そして良く切れた時の歯の形状を思い出して、それを回復する事を目指してヤスリをかける。

ヤスリの柄を右手で持って、いい塩梅に握って、それを鋸歯に適切な角度で押し当て、その角度を微妙に調節しながら、ヤスリを押してかけていく。

その時に私の眼は歯先とヤスリの接点に焦点を合わせ、その形状の微妙な変化や微細な削りかすの状態に注視し、歯先の地金とヤスリがこすりあうその音に耳を澄ませ、私の手は、ヤスリと鋸歯が擦りあう事によって生まれる『触覚』を観じ続ける

そこでもっとも必要になるのは繊細な注意力とそれによって実現される作業、つまり英語で端的に言えば文字通り、研ぎ澄まされたMindful Workという事に尽きるだろう。

私は楽器はやらないが、しかし、弦楽器の調弦というものも、基本的には同じような繊細かつ熟練の「手」と「眼」と「耳」によって行われる『作業』だと理解している。

古代インドのヴィーナがどのような形で弦を締めていたのかは分からないが、その調弦、つまりチューニングの作業において、やはり同じように、感官を研ぎ澄ませて、弦の張り具合に気づきつつ『集中』していたはずだ。

弦を張ったり緩めたりするその調節時の力加減。そしてその弦を弾いて音を出す時に感じられるその『触覚』。それによって発せられる音の響き。その振動する弦の姿形。瞬間瞬間、それらすべての変動要素を細心の注意力、すなわちマインドフルネスによって、集中して気づき続けていたはずなのだ。

ブッダによってソーナ比丘に説かれたという『箜篌の喩え』。それはこれまで説明してきたように瞑想実践行と直結した、「時宜を得た適切なアドバイスであった可能性が高い。

その心はなんであったのか。私は、

Tunefull な調弦、すなわち「音声こころよい」チューニングとは、サマタ瞑想を暗喩していた

Fit for playing、あるいは「妙なる響きを発する」というのは、ヴィパッサナー瞑想を暗喩していた

のではなかったか、と考えている。それはパーリ原文の中にも明示されている。

Fit for playing、あるいは「妙なる響きを発する」という訳のパーリ原文には、kammannā vā’’ti? とあるが、この赤字でハイライトしたkamma

これは、いわゆる、Kamma ṭṭhāna(業処)のKammaと重なり合うものではなかったのだろうか?この場合Kammaとは『仕事』を意味する。

つまり、妙なる響きをプレイする事こそがヴィーナの本業『仕事=Kamma』である、という流れだ。

では、出家比丘の最も重要な本業『仕事=Kamma』とは一体何だろう。

それは瞑想実践に励む事、そして最終的に解脱する事、ではないだろうか?

では、その瞑想実践において、下準備であるチューニング(調弦)に相当するプロセスとはなんだろう。そして、本仕事である「妙なる響きを発する」事に相当するものは一体何だろうか。

『チューニング』がピシッと決まらなければ、美しい演奏などできはしない。つまり、「仕事にならない」

繰り返しになるが、その「ピシッと決まる」プロセスとは、「きつ過ぎず緩すぎず中ほどが丁度よろしい様で」などと言うふやけたイメージで語られ得るものでは絶対にないのだ。

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ヴィーナのチューニング(調弦)は精緻を極めた作業だ 

次回以降、この出家比丘の本業『仕事=Kamma』である瞑想実践における『チューニング』と言う視点から、『ヴィーナの喩え』について更に見ていきたい。

 

 (本投稿はYahooブログ2015年11月2日投稿「瞑想実践の科学 47 箜篌の喩えと“チューニング”」を加筆修正の上移転したものです) 

 

 


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