仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

『四梵住』とブラフマ・チャリヤ【後編】

ここしばらくウパニシャッド的な絶対者ブラフマンとゴータマ・ブッダの関係性と言うものについて、色々と考えて来た。

ウパニシャッド文献とパーリ経典を同時並行的に対照しながら読み進めていると、もちろんこの両者には差異があるのだが、それよりもむしろ連続性の方がより鮮明に浮き彫りになる。

前回は中でもブッダの特性である『慈悲』について、その根拠の『核心』として『ブラフマン』概念が関わって来るのではないか、という視点を入口に問題提起した。

その際に例示したのが長部経典第13経の三明経 Tevijja-suttamであった。この経は大変興味深いもので、仏道修行の結果として直接的に『ブラフマンの世界に到る』事を明示している。

中でも本ブログの論旨上重要と思われる項目を箇条書きにピックアップしたので、それを以下に再掲し順次その詳細を見て行こう(引用文全体を確認したい方は前回投稿を参照頂きたい)

  1. いわゆるバラモン教的な正統のバラモンだと思われるヴァーセッタとバーラドヴァージャ青年が、自分たちの伝統を『梵天との共生に導くもの』だと主張している事。

  2.  次に、その『梵天との共生に導く道』について、道統の違いによる優劣・正邪について、バラモン同士では決着がつかないとして、出家比丘であるブッダの所にお伺いを立てに来る事。

  3.  当時世上には、「修行者ゴータマは、梵天との共生の道を知っている」という声が大いに上がっていたらしい事。

  4.  ブッダ自身が、自ら「私は梵天も、梵天の世界も、梵天の世界へ至る道も知っている。梵天の世界に到る実践方法も知っている」として、明示的に仏道修行と『梵天ブラフマンの世界』との相関を断言している事。

  5.  出家比丘の性質(属性)における妻帯の有無、心の中の恨む気持ち、悪意、汚れ、自制心、の有無が、梵天のそれとの相同性において重ね合わせて論じられている事。

  6.  梵天と比丘に共通する「恨みと悪意がない心」を四無量心である慈悲喜捨として抽出し、それを明確に梵天との共生に導くもの』(つまりは『四梵住』)として明示・称揚している事。

最初に触れておかなければならないが、この三明経に見られるような「伝統的な三ヴェーダを奉じるバラモンが、何故か剃髪の比丘サマナであるゴータマ・ブッダの元を訪ねて、彼らの希求する『真理』について教えを受ける」という構図は、パーリ経典において決して珍しいものでは無く、むしろ典型とも言える。

このような類型に対しては、「仏教バラモン教に対する優位を主張する為に」いわゆる「ためにする」ものとして創られた、とする見方もあるが、しかし私はそれだけではなく、実際に多くのバラモンが同じようなプロセスを経てブッダに帰依した歴史的な事実があった、と見ている。

上にあるように、ここでは明らかに伝統的な三ヴェーダを奉ずるバラモン階級者であるヴァーセッタたちが、【第1項:自分たちの実践道のゴールを梵天との共生に導くもの』と称し】た上で、ブッダに対してその真偽を問うている。

これはつまり、ここではすでにウパニシャッド的な絶対者ブラフマン、あるいはその人格神化であり創造者でもあるブラフマン神への信仰が確立しており、伝統的なバラモンの祭式やその付随する実践によっても、『ブラフマン神』と繋がる事が可能であり、祭式を執り行った祭官やあるいはその祭主が、死後にはブラフマン神の世界に赴き共住する事が出来る、という思想が、かなり広まっていた事が推定される。

(ここでは明示されていないが、『ブラフマン神との共生』とはイコール輪廻からの『解脱』を意味したとしたら、『解脱』という価値概念もかなり『一般化』していた事になる)

しかし、同時代一定地域のバラモンの中でも、主導的な師匠あるいはその道統というものは多数存在しており、その実践法や背景思想は文字通り千差万別、その優劣・正邪を巡って様々な(おそらくは形而上学的な)論争が繰り広げられていたが、混迷は増すばかり、と言う状況があったのだろう。

(この点は、仏教&瞑想ブームが言われて久しい現在の日本社会において、正に百花繚乱の如く様々な『先生』が様々な言説を唱えてキャラ選手権祭りの様相を呈している事とも通じるだろう)

その様な『ブラフマンの真実』における狂躁と迷乱を、明快な論理と実践によって裁断し、ひとつの『最も確からしい解答』を明示し得た者こそが、ゴータマ・ブッダであった、と言う訳だ。

その様に考えて初めて、上の【第2項「バラモンが出家比丘であるブッダの所に『真理』について教えを乞いに来る」】という状況が理解できる。

そしてこの事は、実はこれまで何回かに渡って紹介してきた『絶対者ブラフマンブッダの関係性』『真のバラモンと自称したブッダ』という問題とも全く重なり合うものなのだ。

一般にこのような物語は『バラモン仏教への改宗譚』と無頓着に称されているが、実はこの当時、現代人が考える様なバラモン教バラモン教という名称として存在していた訳ではない(このようなレッテル貼りは後世近代の産物)し、ブッダの教えがバラモン達の宗教と全くかけ離れた異次元の新宗教として提示された訳でもない。

そこにおけるブッダの立ち位置は、全く新しい宗教を唱えていた、のではなく、バラモンの宗教における『混迷』を一刀両断に裁定し、バラモンの文脈に乗った『本当の真理』を開陳し、帰依されている、と読み取れる。

(もしそうでなければ、三明経のようなストーリーが成り立つはずもない)

例えばそれは、現代ミャンマー仏教徒の女性が、たまたまイスラム教徒の男性と恋に落ちて結婚し、仏教徒からイスラム教徒に改宗する、と言うような意味での『改宗』とは、全く次元が異なる。

分かり易くブッダの立場に立って言えば、ブッダに出会う前のバラモンは『真義を見失った偽の(堕落した)バラモン』であり、ブッダと言う真義を知る『真のバラモン』と出会いその『真理』を聴聞し、彼に帰依する事に拠って自らも『真のバラモン』に連なる、という事なのだ。

バラモンの宗教における混迷と錯綜に、ブッダが『最も確からしい』説得力のある回答を明示したからこそ、そしてそのバラモンの宗教の核心に『ブラフマン(神)概念』があったからこそ、彼はバラモンから『ブラフマンに等しい(Brahmasama)』などと称賛され、彼自身自らを『真のバラモン(Brāhmana)』と称し、その実践道を『ブラフマンの乗り物(Brahmayāna)』と称する事が可能になる。

そしてブッダが主導した実践とはすなわちそれ『解脱』への道である以上、ここで『ブラフマン神との共生』と言われているものが同様に解脱であり、同時にそれはウパニシャッド的な『ブラフマンの世界』への『解脱』という心象へと収斂する事は、推測の域を超えて誰の目にも明らかだと私には思えるのだが。

どちらにしても、それが『絶対者』であれ『人格神』であれ、とにかく『ブラフマン』概念こそがゴータマ・ブッダという宗教実践者の核心に確固として存在していたものであり、本ブログでこれまで紹介してきた経典上の記述のほとんどは、それがなければその意味を全く失ってしまう、と私は判断している。

もちろんこのような『ブラフマン』概念を単に『清浄』や『至高』、『聖なる』を意味する通俗的な形容表現に過ぎず直接的にウパニシャッド的な絶対者ブラフマンやその人格神化である創造神ブラフマンとは関係ない、と考える向きもあるだろうし、文脈によってはそれが適当な場合もあるだろう。

しかし、この三明経では明らかに仏道において到達し得るそのゴールを「ブラフマン神の世界においてブラフマン神と共生(共住)する」、「ブラフマン神と出家比丘は共に同じ性質を持ち交友できる」として、ブラフマンが単なる形容詞以上の具体性と共に明示されている。

そしてそのような心象の基盤がウパニシャッド的な解脱観である『ブラフマンの世界に到る』事と重なり合うと考えるのは、極めて自然である。(逆に『そうではない』根拠があるのなら知りたいものだ)

だからこそ、【第3項: 当時世上には「修行者ゴータマは、梵天との共生の道を知っている」という声が大いに上がっていた】のであり、

だからこそ、【第4項:ブッダ自身が、自ら「私は梵天も、梵天の世界も、梵天の世界へ至る道も知っている。梵天の世界に到る実践方法も知っている」として、明示的に仏道修行と『梵天ブラフマンの世界』とのダイレクトな相関を断言している】、のだと。

この『梵天の世界に到る』、という事の原風景は、上に言及した様にもちろん疑問の余地なくウパニシャッドにある。それはこれまで本ブログ上で引用してきたカウシータキやブリハッドアーラニヤカの記述に典型的に現われている。

ブッダ在世の当時、『ウパニシャッド』という『呼称』すら存在していなかったかもしれないが…)

パーリ三明経とこれらのウパニシャッドを対照すると非常に興味深い事実が浮き彫りになるので、以下に再び引用しよう。

カウシータキ・ウパニシャッド 第一章

5:彼(死者の魂=アートマン)はアミタウジャス臥榻(寝椅子、寝台)に至る。~中略~、ブラフマンはそれに坐っている

このように知る者はまず寝椅子の足を伝うてその上に登る。
ブラフマンが「汝は誰か」と言う。
彼(死者)は次のように答えるべきである。

6:「私(死者の魂)は歳時であり、歳時の子である。母体である虚空より、私は生まれた。光明の〔中に生じた〕精液であり、歳月の活力であり、それぞれの存在のアートマンである。汝(ブラフマン)も存在のアートマンである。〔従って〕汝である者、すなわち私はそれである」

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P11~ より

ここで明示されているのは、死者の魂であるアートマンブラフマン等質性に基づいた同置に他ならない。

死者の魂が「私は歳時であり、歳時の子である。母胎である虚空より、私は生まれた。光明の〔中に生じた〕精液であり、歳月の活力であり」と言う時、その内容は全て、リグ・ヴェーダからウパニシャッドにかけてのいわゆる『哲学的な宇宙観』の中でその始原における『一者=Eka』を暗喩するものであり、同時に個体存在としての人間の始原(誕生)を表すものでもある(例えば宇宙始原の『ヒラニヤガルバ(黄金の胎児)』と人間の『胎児』)。

この辺りは非常に複雑なのだが、ここではいわゆる『大宇宙としての世界』と『小宇宙としての人間存在』の重ね合わせと同置が行われており、世界と言う大なる身体と、人間と言う小なる身体において、共に本質となるアートマン(私)とブラフマン(汝)がイコールである事をその同質性・相同性において語っている。

これに関しては、そもそも『ブラフマン』という理念・概念が歴史的経過の中でどのような『属性』をイデアとして担ってきたか、という観点から紐解かなければならず、今回は余り深入りできないが、端的に言って、人間存在の核心・本質である私(アートマン)と、世界存在の核心・本質であるブラフマンとが、様々な属性イメージにおいて完全にイコールで結ばれた時、だからこそ「私アートマンはすなわち汝ブラフマンである」、という断定的な明言が初めて可能になる。

アートマンブラフマンのひな型、あるいはミニチュアであるし、逆に言うと人間存在をひな型に『ブラフマン神概念』の原像は様々な異名と共に当初構想された)

理念的なその属性において、私アートマンと汝ブラフマンは完全に相似であり相同であり等質であり同等である。これはインド語の表現で言えば『Sama』という語が正に該当するかも知れない(Brahma-sama)。

繰り返しになるが、より正確に言うと、その様な完全なSamaを体現しあるいは『覚知』し得た時に初めて、人間はブラフマン合一(同一化)する。

一方、パーリ三明経においては【第5項:出家比丘の性質(属性)における妻帯の有無、心の中の恨む気持ち、悪意、汚れ、自制心、の有無が、梵天のそれとの相似性・同質性において重ね合わせて論じられている】という事実がある。

ここではブラフマンの持っているべき想定された性質・属性に反した、異質な相容れないバラモンたちは、ブラフマンとの共生という果実完全に否定され、逆にブラフマンの性質・属性と完全に等質・相同である事を『体現している』出家修行者(比丘サマナ)が、その相同性ゆえにブラフマンとの共生を約束されている。

これは単純に言えば、『類は友を呼ぶ』と言うべきかも知れないし、ブラフマンを可能な限り『理念的に模倣する』事に拠って、ブラフマンの世界に迎え入れられる、と言う事なのかも知れないブラフマンとSamaになる)

この点に関してはカウシータキ・ウパニシャッドの第一章、死者の魂が天界のブラフマンの世界に迎え入れられる際にブラフマンの装飾』アプサラスらに施される、というシーンが思い出される。

カウシータキ・ウパニシャッド 第一章

4:五百人のアプサラスたちが彼(死者の魂)を迎えに行く。

百人は華鬘を手にし、百人は香油膏を手にし、百人は白粉を手にし、百人は衣裳を携え、百人は果物を手にし、ブラフマン男神)の装飾品で彼を飾る

ブラフマンの装飾品で飾られた彼は、ブラフマン(宇宙の最高原理)を知る者となり、彼はブラフマンに進む。

(この後彼はアーラ湖を越えイェシュティハ瞬時に到り、ヴィジャラー河を越え、善悪の業を振り落とし、~ブラフマンの光明に至った後に、インドラとプラジャーパティが守る門をくぐってブラフマンと会う)

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P11~ より

ここに現われている内容は非常にプリミティブな神話的なイメージだが、どちらにしても、ブラフマンと同じ姿になる事に拠ってブラフマンの世界に入る(ブラフマンを知る)事が出来るようになる、という原風景は確認できる。

つまりブラフマンの世界(解脱界)とそれ以外の世界(輪廻する現象界)のボーダーである門をくぐる為には、ブラフマンの似姿になっていなければならない。超高級レストランに入る為には、それなりの格好をしなければならないのと、まぁ、基本的には変わらない。

要するに、ブラフマンの世界に入る為には、それなりの資格要件が求められ、それらはブラフマンとの相似・相同態(Sama)として考えられた。

(これは現代人向けには『指紋の照合』をイメージすれば理解し易いかも知れない。ゲストの指紋とホストのサーバー上の指紋データが、『完全に合致』しなければゲートは開かない)

ここで興味深いのは、三明経において、結婚しているバラモンに対して、妻帯していない(完全な性的禁欲、すなわちブラフマ・チャリヤ)比丘サマナが優位に立つ根拠が、ブラフマン神も妻帯していない』としている点だ。

つまり共に妻帯していない、という同質性・相似性によって、比丘サマナはブラフマン神との共生を勝ち得る、という事になる。

ここで『妻帯している』と訳されている原語はsapariggahoであり、これは原義としては『執着している』『所有している』などがあるようだ。

この点に関して、前回最後にリンクを紹介した「光明寺経蔵」さんサイトは以下の様に説明している。

訳文

「ヴァーセッタよ、これをどう考えますか。あなたは、年長、高齢の婆羅門たち、師や大師が語っているとき、どう聞きましたか。梵天執着ある(妻帯している)者でしょうか、あるいは執着なき(妻帯していない)者でしょうか」。
 
メモ

パーリ註解は「Sapariggahoとは、女性への執着による執着ある者かと問うたのである」itthipariggahena sapariggahoti pucchati とし、おそらくこれをうけて『パーリ』、『原始』も妻帯の意味で解している。ただpariggahaには妻だけでなく遍取、執持、執着、摂受、所有物、財産といった多義があり、以下の文脈からは、女性へのそれに限定されない、より包括的な執着の有無が問われているとも解せる(現に『南伝』は「愛着」とする)ため、ここではそのようにした。

http://komyojikyozo.web.fc2.com/ より引用

本稿では取りあえずこの部分を『妻帯』と取って論を進めていくが、それが広い意味での『執着』だったとしても、基本的な風景は変わらないだろう。そこで問われているのは、結局のところ「何らかの対象に欲望を持ち執着し所有しているか否か」という点になる。

このブラフマン神の『妻帯』を巡る問答の攻防、実に面白い心象世界だと思うのだが、ここでインド教世界について少しでも知っている人であれば、ひとつの疑問にぶち当たるかも知れない。

何故なら、いわゆる現代に至るヒンドゥ教の中では、ブラフマー神はヴィシュヌとシヴァと並ぶ最高三神(トリムルティ)の内の一神であり、他の二神と同様に神姫であるサラスヴァティ(弁財天)を妻としている、つまり妻帯している、筈だからだ。

これもまた、そもそも『ブラフマン』とは何者だったか、というその原風景に立ち返って見れば分かり易い。

彼は、様々な属性をもって語られているが、『言葉が持つ呪の威力の根源』と並ぶ最も重要なものとして「宇宙世界の創造がそこから立ち現われた、原初の一者」である、すなわち『原初の独一の創造者・常在主宰者』である事が挙げられる。

このようなブラフマンの性質に関しては先に引用した「母胎である虚空より、私は生まれた。光明の〔中に生じた〕精液であり、歳月の活力であり」という描写が正に該当する。

宇宙創造論的にこの『母胎である虚空』を捉えた場合、それは文字通りの『虚空』であって、『彼』が生まれる以前に母である『何者か』が居た訳ではない。

この天地宇宙の創造の始原に関しては様々な神話が語られており、その詳細についてはいずれ網羅的に纏めてみたいが、ここで端的に言えば、彼はこの世界の始原にまで遡って究明した時、その原初の究極の一点において収斂される一者であり、『一者』である以上はその究極状態においては必然的に『ただ独り』である、という事になる。

分かり易く譬えるならば、宇宙始原のビックバンは究極の『一点』に収斂されて、そこには『二点』があり得ないのと同じ事だ。そう、創造者ブラフマンは並び立つ者のいない究極的な『独一・孤独』の真っただ中にある。

ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第4章

三節 32

「彼は水波(太初の原水、おそらく『宇宙的羊水』)の中において二人とない唯一の見る者(根本原理を意味する)であります。かのブラフマンの世界は、大王よ」

とヤージャニャヴァルキヤがヴィデーハ王ジャナカに教えた。

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P267~より

 

四節 18

気息の真髄、またの真髄、さらにはの真髄、そしての真髄を知る者たちは、太古の最初のブラフマンを知る人である。

同書、P276より

 

チャーンドーギャ・ウパニシャッド 第6章 第二節

2:「どうして無から有の生ずる事があろうか。そうではなくて、愛児よ、太初において、これはブラフマンのみであったのだ。それこそが唯一の存在で、第二のものは無かったのだ」

同書、P130より

恐らくヒンドゥー教ブラフマー神がサラスヴァティ女神を妻としているというのは、かなり後世になってからの俗化の結果であって、ブッダの時代あるいはその前後の古ウパニシャッドの時代においては、上記のような創造者ブラフマンの本源的な『独一性』が強固に保存されていて、彼がたとえ男性神格として表象されている時でも、決して妻などは持たない『孤独・独一・独り身』の者として把握されていたのだろう。

(そうでなければブッダの「梵天は妻帯しているか?」という問いに対して、ヴァーセッタは「当たり前ですがなゴータマはん。サラスヴァティっちゅうごっつい別嬪さんがおるやないですか」などと反論していなければおかしい)

その様に考えると、何故出家比丘サマナの修行道が『ブラフマ・チャリヤ』と呼ばれ、そのブラフマ・チャリヤの中核的な意味や価値が『性的禁欲』に置かれていたのかが極めてリアルに理解可能になる。

おそらく比丘サマナ達は、本来的にはこれまで散々に指摘してきたように、ウパニシャッドの求道者と同じく、正しく『ブラフマンの解脱境』に至るために出家したのであり、その為にこそ不可欠な属性を体現する為に性的禁欲を保ったのだ。

(ただし、ブッダはその解脱境を表すのに『ニッバーナ』などを多用し、ブラフマン概念については明言せずほとんどの場合暗喩するにとどめた。三明経は極めて稀な例外と言える)

何故なら、彼等が『到達』すべき『ブラフマン』は、理念的には『孤独・独一・独り身』を本性とする者であり、その様な性質(ネイチャー)を現世において正に体現し彼と同質化・等質化(Sama)する事に拠って、それを絶対必須要件として身に備える事に拠って初めて、彼は、ブラフマンの境地を目指し、その門をくぐる『資格』を得る事ができるからだ。

もちろん、このような観点は、性的禁欲にまつわる様々な要素の内の一側面に過ぎないかも知れない。けれど、それが本来的には『ブラフマン概念』と密接に関わっていたからこそ、性的禁欲をひとつの核心とした出家修行道がブラフマ・チャリヤと呼ばれた、という側面については、インド学・仏教学的に大いに検討されてしかるべきだと個人的には思う。

(くどいようだが、そうでなければブラフマ・チャリヤの意味がない!)

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ブッダに指摘されたように、当時宗教的な聖職者とされ崇められていたバラモンたちではあるが、しかし彼らは聖職者であると同時に、結婚しているか否か、と言う点では妻帯し子供を育て、家督・財産を代々相続していく『世俗人』であった。

そして実は、バラモン祭官たちが伝統的な祭祀において勧請し祀ってきたヴェーダの神々と言うものも、あまり周知されていないかも知れないが、その多くが基本的には配偶者を持つ『世俗神』(変な言い方だが)であったのだ。

ここにインド教的な心象世界の面白さが如実に現れている。

例えばリグ・ヴェーダにおいてはその4分の1の賛歌を捧げられている最高神待遇のインドラだが、彼は人間と同じように父と母から生まれ、インドラーニーという神姫を配偶者として持つ事が明記されている。

その起源の一端は、おそらく伝説的なアーリヤ族の英雄・戦士に求められるだろう。

彼は、辻直四郎著:リグ・ヴェーダ賛歌 「インドラの出生」によれば、産みの母に捨てられ、彼に敵意を持った父を殺し、困苦の内に放浪した後に、ヴィシュヌの助けを得て復活したという。

そもそもヴェーダに登場する神々とは、明確に男神と女神に分かれ、それぞれが親子関係や兄弟姉妹関係に、あるいは夫婦関係において定位される事多々なるもので、それはつまり、『人格神』という言葉に相応しく、地上における普通の(多分に俗的な)人間存在の在り様を天界の神々の世界に投影し『擬人化』したものに他ならない。

この点はギリシャ神話などと全く軌を同じくするだろう。

しかし、ウパニシャッド的な求道・探求の中で結晶化した『ブラフマン神』はそうではなかったのだ。彼は、その原点を客観すれば、上のような極めて人間臭いヴェーダ多神教世界観に対する疑義と批判精神によって生み出された、極めて『非人間的』な、象徴的に抽出された純度の高いひとつの抽象的『イデア』であった。 

もちろん、その最初期においては人間存在と重ねあわされてヒラニヤガルバ(黄金の胎児)や原初の一者としてのプルシャ(男の人)などのイメージが湧きたち、後のブラフマンはこれを少なからず継承しているのではあるが、しかし哲学的思惟が深まれば深まるほど、ブラフマン・イメージは非人間的理想化の純度を増していった。

彼は人間や神々が所詮は個別的な『個体』であるのに対して、総体としての一切世界であり、と同時にその世界が不可避的に担わされている『苦』から解脱している、あるいは『苦』が生じる以前の『未然態』であり、それ故の『理想態』として把握された。

もしもこの世界が『苦』で満ちているのならば、『苦』を不可避的に背負わされた『創造』の瞬間のそれ以前の段階、つまり原初の独一の一者であるブラフマンが、未だ『世界』を創造せずに『唯独り』そこにある段階、にまで、疑似的にでも「時間を巻き戻す事が出来たならば」、『苦』は消滅する。『世界』と共に。

(これも例によってフライング気味だが、彼らの探求するブラフマン像が『太初の始源の一者としてのブラフマン』である時、それが現象世界が彼から分かたれて(展開して)創造される『以前の』ブラフマンを明確にイメージするとしたら、そこには彼独りしかおらず、他には何もない、つまり『全一』なる彼は『他に所有すべき』何ものをも持たないので『無所有』『無欲』を体現する)

それは具体的には、死なねばならず壊れねば(老病)ならず、不浄で苦にまみれ常に不安から逃れられないという、人間的な生において不可避な様々な欠陥を、完全に克服した理想態としての不死者であり、不壊者であり、清浄の極みであり、歓喜の極みであり、平安の極みとして理念的に構想確立された一者でありその『解脱境』であった。

ここで輪廻と祭祀との関係において、この三者、つまり『地上の人間』とその人間の似姿である『天上の神々』、そして太初の『究極の独一者』である『絶対者(最高天)ブラフマン』を位置付けてみよう。

地上の人間はもちろん輪廻する。そして地上の人間の似姿である『天上の神々(複数)』もまた輪廻する。彼らはその寿命が長かろうが短かろうが所詮『被造者』であり『死すべき者』に過ぎない。

彼らは死すべき者だからこそ、繁殖し子孫を得て疑似的に生き永らえようと欲望する。欲望に駆られて輪廻する。その原イメージとしては、『回転する車輪』があったのではないかと私は考えている(輪廻する『欲界の車輪』)

そして、お互いにその様な輪廻する者同士である人間と神々との間では、バラモン祭官による祭祀を通じて交通(交渉)関係が成り立っていた。ここにおける祭祀とは、「人間の欲望と神々の欲望が交錯する取引」と考えると理解しやすい。

人間は祭祀の供犠によって神々の欲望を満たし、見返りとして神々は人間の請願・欲望を満たす、という様に。

しかし、宇宙の原初の独一の一者である『ブラフマン(当然数)』は、輪廻する現象(被造)世界の創造者であり、その世界の背後に『内在する』と同時に彼自身はそこから完全に切り離され決して輪廻しない解脱界(『無欲界』)を構成し、永遠の『不死者(不壊=アクシャラ)』としてそこに唯一人、もちろん伴侶など持たずに、住している。

その原イメージとしては、車輪の回転を支え生み出しつつ自らは決して転じない『不動の車軸』があったと私は考えている。

(この『世界に内在しつつ解脱している』というのはいわゆる一元論の持つ根本矛盾であり、いずれ本ブログでも突っ込んでみたいテーマだがここではこれ以上触れない)

では果たして、死すべき被造者として全く『彼』ブラフマン神と共通項を持たない生き様を呈しているバラモン祭官が、人間的で俗的な旧来の神々に対するのと同じような欲望を共通言語とした祭祀取引』を通じて、不死なる創造者であり無欲なる独一者である絶対者ブラフマンと連絡・交通する事が可能だろうか?

あまつさえ、『解脱』する事が可能だろうか?

答えは明確に『否』である。

以上が、三明経においてブッダが、

「ヴァーセッタよ。聖者の戒律において五官の欲望は、鎖とも縛るものとも言われている。これらの五つの欲望の部門に対して、ヴェーダに詳しいバラモンたちは執着し、夢中になり、罪を犯し、また思うがままに操る智慧を持たずに享受し愛欲という縛るものに結び付けられていながら、身体が亡びた後、梵天と共生するであろうと言うが、この事に根拠はない」
「聖者の戒律において、妨げとなる五つのもの、すなわち愛欲、悪意、怠惰・眠気、狂騒・無作法、疑い深さ、という障害に妨げられているバラモンは、三ヴェーダに詳しいと言えどバラモンとなるべき特質に反しており、死後梵天と共住するという道理はない」

 原始仏典〈第1巻〉長部経典1 春秋社刊 P560~より

という形で、既存のバラモンであるヴァーセッタたちに『NO』を突き付けた真意であり、反対に「(真の)バラモンになるべき特質に『合致している』比丘サマナ」は、死後梵天と共住するという道理がある、と断じた背景心象なのではないだろうか。

比丘サマナ達の進む道とは、全くウパニシャッド的な『無欲の道』の延長線上にあり、当時哲学的・思想的な観念だけが先走って混迷を極めていたブラフマンへの道を『完成』させた者こそが、ゴータマ・ブッダだった、そう考えると全ての筋が通る。

ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第四章 第四節

 

6:従って、このような詩頌があります。

「それ故にこそ、執着のある人は、業と共に、 彼の性向と意とがしがみつく処に赴く。この世において彼がいかなることを作しても、その業の極限に達した時、彼は再び、新たに業を積むため、かの世界よりこの世界に帰り来る」

以上は、欲望を持つ者に関する事であります。ところで、欲望を持たない者、欲望なく、欲望を離れ、また欲望を満足させ、アートマンのみを欲する者の場合には、彼の諸機能は出て行かないのであります。

彼はブラフマンそのものであり、ブラフマンと合一します。

7:従って、このような詩頌があります。

「彼の心に依る欲望が、全て除き去られる時、死すべき人間は不死となり、この世においてブラフマンに達す、と」

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P272~より

ここで面白いのは、三明経の中で妻帯についての言及に続いて、「心の中の恨む気持ち、悪意、汚れがあり、自制心がない」というバラモンが持つ(あるいは一般的な人間が持つ)心的な欠点や汚濁を、そのような性質を持たない比丘と梵天、と対照する形で批判している事だろう。

逆に言うと、先にも言ったように、人間的な欠陥(不満足)である老病死や不浄や苦や不安を完全に取り除いた「不死者であり、不壊者であり、清浄の極みであり、歓喜の極みであり、平安の極みとして理念的に構想されたブラフマンの性質の上に、ブッダはある種『倫理・道徳的に善なる資質』を書き加えたのだ。

ブラフマンが『究極の一者』であるならば、その様な極めて人間的な下世話な愚かさや醜さや穢れを持ち合わせている筈がないではないか、と。

ブラフマンにはこの世界に対する欲望や執着、そして悪意や怒りは存在しない。何故なら『彼』自身が『相対を超えた絶対者』としての『世界』であり『一切』そのものなのだから(完全なる自足)。

(「相対」の無い所に欲望や渇望や執着、悪意や怒りなど存在しえない。本質的な一元性と現象的な「見た目の」二元性)

彼は皮相的な『善と悪』を超えた『絶対善』として理想化され、そしてその『善』は同時に、世界の創造者として、世界という『我が子』に対する母(父)の慈愛を伴ったものとして想定された(考えてみれば奇妙な話だが)

そうしてブラフマン概念の上に書き加えられたその『(人間的な)倫理・道徳的に善なる資質』と『世界に対する無私の慈愛』を、出家比丘たちが見事に体現する事に拠って、逆にそれをブラフマンの世界へ至る為の資格要件として提示した。

このように考える事によって、【第6項:梵天と比丘に共通する「恨みと悪意がない心」四無量心である慈悲喜捨として抽出し、それを明確に梵天との共生に導くもの』(つまりは『四梵住』)として明示・称揚している事】の背景心象が自然な流れとして理解し易くなる。

これは恐らく、当時バラモンを筆頭とした支配階級たちの生態が、如何に我執に取りつかれ人倫において退廃・堕落・愚劣を極めていたかの、一種の反作用だったのではないかと私は捉えている。

ひとつの読み筋に過ぎないが、当時のインド社会全般において、ある種『ソドムとゴモラ』的な人倫の退廃・崩壊が蔓延しており、その中心に盤踞していたのが、特権階級として君臨するバラモン祭官であり、彼らの執り行う祭式であった、と考えると、色々な文脈に一貫した筋が通るのだ。

分かり易く言えば、それはある種の『祭式バブル!』だった。

バラモン祭官は自らの利己的な貪欲を満たす事のみに専心し扇情され、それに釣られて祭主となる王などもまた、ひたすらに利己的な欲望の成就のみを願い、他者を顧みる事がなかった。

それが祭祀の力であれ武力であれ財力であれ、とにかく『力』の有るもののみが勝ち誇り、独占し、享楽に耽る。世界は文字通り、我利我利亡者どもの蔓延る、弱肉強食に基づいた飽食と享楽の『なまぐさい巷』と化していたのだ(ある意味これは、『現代世界』にも重なると同時に、文明社会史上普遍の現象かも知れないが)

スッタニパータ 「第二 小なる章」2なまぐさ

 

242 「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗み、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、──これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない(以下同文省略)。

243 この世において欲望を制することなく美味を貪り、不浄の(邪悪な)生活を混じ、虚無論をいだき、不正の行いをなし、頑迷な人々、──

244 粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性で、なんびとにも与えない人々、──

245 怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の傲慢、不良の徒と交わること、──

246 この世で、性質が悪く、借金を踏み倒し、密告をし、法廷で偽証し、正義を装い、邪悪を犯す最も劣等な人々、──

247 この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえってかれらを害しようと努め、たちが悪く貪り深く、粗暴で無礼な人々、──

248 これら(生けるものども)に対して貪り求め、敵対して殺し、常に(害を)なすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆さまにして地獄に落ちる、──

249 魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみえることも、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供の奉仕も、或いはまた世の中でなされるような、不死を得るための苦行も、(ヴェーダの)呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。

250 通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行ぜよ。理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執著を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない。」

251 以上のことがらを尊き師(ブッダ)はくりかえし説きたもうた。ヴェーダの呪文に通じた人(バラモン)はそれを知った。なまぐさを離れて、何ものにもこだわることのない、跡を追いがたい聖者ブッダ)は、種々の詩句を以てそれを説きたもうた。

252 目ざめた人(ブッダ)のみごとに説きたもうた ──なまぐさを離れ一切の苦しみを除き去る── 言葉を聞いて、(そのバラモンは)謙虚な心で、全き人(ブッダ)を礼拝し、即座に出家することを願った。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村元訳 P47~より

上の引用は畢竟すべて『邪悪を犯す最も劣等な(なまぐさな)人々』に関するもので、これは一般論としての『悪人』とも受け止められるが、対話者がバラモンである事から、聖職者を自称しながらそのような『なまぐさな邪悪』に耽溺する、世に蔓延る『悪しきバラモンたち』が、その批判の焦点であったと考える事もできる。

江戸時代にいわゆる旗本奴たちが徳川の権威をかさに着て町民たちを苦しめた(時代劇のイメージ)様に、階級をかさに着たある種『バラモン・ギャング(半ぐれバラモン)』のような不逞の輩がはびこっていた可能性もある。

242詩節では、一般的な肉食は否定せず、しかし「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること」を批判している事から、これはバラモン祭式における犠牲獣の取り扱いについての事だろう。

(この『なまぐさ節』は注記によると過去世・過去仏の物語だそうだが、基本的な意味合いは変わらない)

そのような殺し、奪い、虐げ、貪る『非道』なバラモン祭官が、何を根拠に自らを聖職者と名乗り得るのか?あまつさえ「ブラフマンの世界に到達し得る」のか?という批判と懐疑が、社会の至る所でバラモン階級者自身からも含め)水面下では噴き出していた事が推測される。

バラモン祭官とその動物供犠を伴う祭式に対するそのような批判が、ブッダ自身の痛烈な言葉としてスッタニパータにまとまった形で採録されているので、続けて以下に引用して見てみよう。

スッタニパータ 「第二 小なる章」7バラモンにふさわしい事

 

284 昔の仙人たちは自己を制する苦行者であった。かれは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)義を行った。

285 バラモンたちには家畜もなかったし、黄金もなかったし、穀物もなかった。しかしかれらはヴェーダ読誦を財産ともなし、穀物ともなし、ブラフマンの倉として守っていた。

286 かれらのために調理せられ家の戸口に置かれた食物、すなわち信仰心をこめて調理せられた食物を求める(バラモンたち)に与えようと、かれら(信徒)は考えてた。

287 豊かに栄えていた地方や国々の人々は、種々に美しく染めた衣服や臥床や住居をささげて、バラモンたちに敬礼した。

288 バラモンたちは法によって守られていたので、かれらを殺してはならず、うち勝ってもならなかった。かれらが家々の戸口に立つのを、なんびとも決して妨げなかった。

289 かれら昔のバラモンたちは四十八年間、童貞の清浄行を行った。知と行とを求めていたのであった。

290 バラモンたちは他の(カーストの)女を娶らなかった。かれらはまたその妻を買うこともなかった。ただ相愛して同棲し、相和合して楽しんでいたのであった。

291 (同棲して楽しんだのではあるけども)、バラモンたちは、(妻に近づき得る)時を除いて月経のために遠ざかった時は、その間は決して性の交わりを行わなかった。

292 かれらは、不婬の行と戒律と正直と温順と苦行と柔和と不傷害と耐え忍びとをほめたたえた

293 かれらのうちで勇猛堅固であった最上のバラモンは、実に性の交わりを夢に見ることさえもなかった

294 この世における聡明な人々は、かれの行いにならいつつ、不婬と戒律と耐え忍びとをほめたたえた。

295 米と臥具と衣服とバターと油とを乞い、法に従って集め、それによって祭祀をととのえ行った。かれらは、祭祀を行う時にも、決して牛を殺さなかった

296 母や父や兄弟や、また他の親族のように、牛はわれらの最上の友である。牛からは薬が生ずる。

297 それら(牛から生じた薬)は食料となり、気力を与え、皮膚に光沢を与え、また楽しみを与える。(牛に)このような利益のあることを知って、かれらは決して牛を殺さなかった。

298 バラモンたちは、手足が優美で、身体が大きく、容色端麗で、名声あり、自分のつとめに従って、為すべきことを為し、為してはならぬことは為さないということに熱心に努力した。かれらが世の中にいた間は、この世の人々は栄えて幸福であった。

299 しかるにかれらに顚倒した見解が起こった。次第に王者の栄華と化粧盛装した女人を見るにしたがって、

300 また駿馬に牽かせた立派な車、美しく彩られた縫物、種々に区画され部分ごとにほど良くつくられた邸宅や住居を見て、

301 バラモンたちは、牛の群が栄え、美女の群を擁するすばらしい人間の享楽を得たいと熱望した。

302 そこでかれはヴェーダの呪文を編纂して、かの甘蔗王のもとに赴いていった、「あなたは財宝も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い」

303 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、──馬の祀り、人間の祀り、擲棒の祀り、ソーマの祀り、誰にでも供養する祀り、──これらの祀りを行なって、バラモンたちに財を与えた。

304 牛、臥具、衣服、盛装化粧した女人、またよく造られた駿馬に牽かせる車、美しく彩られた縫物──、

305 部分ごとによく区画されている美事な邸宅に種々の穀物をみたして、(これらの)財をバラモンたちに与えた。

306 そこでかれらは財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。かれらは欲に溺れて、さらに欲念が増長した。そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、再び甘蔗王に近づいた。

307 「水と地と黄金と財と穀物とが生命ある人々の用具であるように、牛は人々の用具である。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い」

308 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、幾百千の多くの牛を犠牲のために屠らせた。

309 脚を以ても、何によっても決して(他のものを)害うことがない牛は、羊に等しく柔和で、瓶をみたすほど乳を搾らせる。しかるに王は、角をとらえて、刃を以てこれを屠らせた。

310 刃が牛におちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹たちは、「不法なことだ!」と叫んだ。

311 昔は、欲と飢えと老いという三つの病いがあっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病いが起った。

312 このように(殺害の)武器を不法に下すということは、昔から行われて、今に伝わったという。何ら害のない(牛が)殺される。祭祀を行う人理法に背いているのである。

313 このように昔からのこのつまらぬ風俗は、識者の非難するものである。人はこのようなことを見るごとに、祭祀実行者を非難する。

314 このように法が廃れたときに、隷民(シュードラ)と庶民(ヴァイシヤ)との両者が分裂し、また諸々の王族がひろく分裂して仲たがいし、妻はその夫を蔑むようになった。

315 王族も、梵天の親族(バラモン)も、並びに種姓(の制度)によって守られている他の人々も、生れに関する言葉を捨てて、欲望に支配される至った、と。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) 中村元訳 より

牛の殺戮を言葉の限りに批判するこの章節は、何度読み返しても現代ヒンドゥ教における『牛愛』を彷彿とさせて、とても興味深い。

ここでは、(284)「昔の仙人(バラモン)たちは自己を制する苦行者であった。かれは五種の欲望の対象を捨てて、自己の(真実の)義を行った」しかし、(301)「バラモンたちは、牛の群が栄え、美女の群を擁するすばらしい人間の享楽を得たいと熱望した」という流れで五種の欲望に夢中になり、堕落し、貪欲になり、(306)「そこでかれらは財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。かれらは欲に溺れて、さらに欲念が増長した」という流れで増々貪欲を加速させ、その貪欲を満たすためにクシャトリヤの王に牛など動物の殺戮を伴う祭祀を強く勧め、脅迫し、世界を悪法で支配していった事に対する、ブッダの痛恨の思いが明瞭に見て取れる

(この文脈では、理想化された過去のバラモンは現在のサマナ修行者の写し絵になっており、現在のサマナの生きざまは過去の正しいバラモンの『正統の復古形』と位置付けられている)

この事は、先に引用した三明経の、

「ヴァーセッタよ。聖者の戒律において五官の欲望は、鎖とも縛るものとも言われている。これらの五つの欲望の部門に対して、三ヴェーダに詳しいバラモンたちは執着し、夢中になり、罪を犯し、また思うがままに操る智慧を持たずに享受し、愛欲という縛るものに結び付けられていながら、身体が亡びた後、梵天と共生するであろうと言うが、この事に根拠はない」

原始仏典〈第1巻〉長部経典1 春秋社刊 P560~より

というバラモン批判と、表裏一体となるものだろうし、更にこの『鎖とも縛るものとも言われる』『愛欲という縛るもの』という文言は、

カタ・ウパニシャッド

第一章

25:ヤマ「~人間の世界において得難い愛欲のどれであれ、そなたはそれら愛欲の全てを思いのままに望め。

車駕に乗り、音楽を奏でる、この美女たちを見よ。このような美女は実に人間どもには得られないのだ。

わたしが与えるこれらの美女たちと遊び戯れよ。ナチケータスよ、死について訊ねてはならぬ」

 

第二章

1:ヤマ「一方に精神的な幸福があり、他方に肉体的な快楽がある。両者は目的を異にするが、人間を束縛する

それらの中で、精神的な幸福を取る者は善いことがあり、肉体的な快楽を選ぶものは人生の目的を失う。

2:精神的な幸福と肉体的な快楽とは、いずれも人間に近づく。賢者は両者を審らかに吟味して、両者の差別を判断する。

実に賢人は肉体的快楽よりも精神的な幸福を選び、愚者は心の平安よりも肉体的な快楽を選ぶ。

3:そなたは、ナチケータスよ、好ましい愛欲と好ましく見える愛欲とを熟慮して、それらを拒絶した

また多くの人々が耽溺する、かの財宝の鎖を受け取らなかった。

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P293~より

という、カタ・ウパニシャッドにおける死の神ヤマと求道者ナチケータスとの対話を思い起こさせるだろう。両者の心象イメージは酷似している。ヤマの誘惑に耽溺してしまっているのが悪しきバラモン祭官であり、ナチケータスの選択を体現しているのが正に比丘サマナである、という様に。

仏典に戻ると、三明経で「五つの欲望に駆られて夢中になって罪を犯し」とブッダが批判するバラモンの『罪』として、具体的に「自らの欲望を満たすために動物を殺戮するという悪しき祭祀を執行する」事を第一に取り上げて、先のスッタニパータでは批判している事になる。

彼らバラモンは「人間の享楽(欲望)を希求した!」、その為に「幾百千の多くの牛を犠牲のために屠らせた!」

ここには本来のバラモンすなわち『真のブラーフマナ』は、最高神ブラフマンの高みの世界(解脱)のみを欲望・希求すべきであるのに(ナチケータスの様に!)、その反対に地上の低次の欲望に心を奪われて自らの本義を見失ってしまった、という非難があり、価値観がある。

そしてブラフマンの解脱境である四梵住『慈悲喜捨』からは真逆にあたる『虐殺』を推進しながら、『ブラーフマナ』、つまり『ブラフマンを知る者』を自称し、『ブラフマンとの共生に導く』などと称するバラモン祭官たちの、その自己矛盾を徹底的に暴いている。

(逆に言えば、ブッダは『虐殺祭祀』に狂奔するバラモン祭官たちへの痛烈なアンチテーゼとして、慈悲の心を梵住=ブラフマ・ヴィハーラとして掲げた。お前ら無慈悲なバラモンに、ブラフマンについて語る資格はない、と)

しかしここでむしろ重要なのは、スッタニパータにおけるバラモン批判が、間違った祭祀の結果として、世界の運命が転落の道をたどり混乱と災いに満ちた】、という時のその『文脈』かも知れない。

そこでは、(311)「昔は、欲と飢えと老いという三つの病いがあっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病いが起った」として悪しき祭祀の悪しき結果として、世界がより不幸になり災厄に見舞われた、とされ、(314)「このように法が廃れたときに、隷民(シュードラ)と庶民(ヴァイシヤ)との両者が分裂し、また諸々の王族がひろく分裂して仲たがいし、妻はその夫を蔑むようになった」として、正しい法(正しい祭祀)が廃れる事に拠って、人の世の人倫が崩壊した、と嘆いている(ここで廃れた『法』とは明確に『正しい祭祀』だろう)

つまり、バラモンたちが自らの貪欲を満たすために、殺戮を伴う悪しき祭祀という悪法に走ったが為に、その悪しき祭祀の悪しき『威力』の結果として、世が乱れ、人倫は堕ち、世界は不幸になった、という心象が顕著に示されている。

そしてその様な殺戮を伴う祭祀を、バラモンたちは「神々を喜ばせて願いを叶えるため」と称しながら行うが、実は(310)「刃が牛におちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹たちは、『不法なことだ!』と叫んだ」として、本当はその様な『殺戮祭祀』を捧げられている神々もまた、それを「不法(アダルマ)なもの」として非難している、という真実を説き明かしている。

(実際に歴史的に見れば、人間の卑俗な生態を反映したインドラなどの神々は、リグ・ヴェーダなどを見る限り戦士として悪(敵)と戦い殺戮も辞さない。同様に動物供犠の祭祀を彼らは喜んで嘉納していた。つまりブッダは、ここで新たな『物語』を創出し、その文脈に聴衆を乗せようとしている。当時の聴衆には、その文脈に自ら乗ろうとする『感性』と『求め』が備わっていた)

ブッダの『本音』はともかく、ここに見られる文脈は、思考の枠組みとして明らかに、「祭祀の持つ善悪の呪の力が世界に影響を与え支配している」、という事を、全く何の疑問もなく前提し肯定している

この辺りは、いわゆる現代的な理性主義に乗っ取ってブッダ存在やその言葉を理解したがる人々にとってはある種の『地雷』となっているのだろうが、しかしこの様な祭祀についての『パラダイム』こそが、ブッダの実践道を考える上で極めて重要な意味を持つと私は考えている。

これもまたフライングなのだが、何故ならこのような既成のバラモンによる『動物を殺戮する悪しき祭祀』に対するアンチテーゼとして『動物を殺さない善き・正しい・真実の《内なる》祭祀』を提唱・実践したのが、ゴータマ・ブッダ社会機能的な『本懐』に他ならないからだ。

それは詰る所、2,500年前の古代インド世界においては、『祭祀』というものが世界を支配し統べるある種の『文法』になっており、ブッダ自身もその様な文法に従って言動する以外に道はなかったという事なのかも知れない。

ブッダバラモンが行う祭祀行為が持つこの世界に対する『威力』を決して否定してはいない。むしろ善き祭祀が世界を善く整え、悪しき祭祀が世界を悪しく堕とす、として、善きにつけ悪しきにつけ積極的にその『効力』を是認している(だからこそバラモンの悪しき祭祀に反対する。殺される動物に対する慈悲はその根幹にあるが、それだけではない)

しかし考えてみると、本来その祭祀を捧げられていたはずの「神々と祖霊と帝釈天」や「阿修羅と羅刹たち」という下等な神格でさえ「不法なものだ!」と犠牲祭を非難しているのに、ならば一体誰が、バラモンの悪しき祭祀に対して悪しき結果を報いとして与えているのだろうか?

祭祀とは超越的な威力を持つ神々をその式次第によって喜ばせて、その返礼(恩寵)として善き結果がもたらされる事を期待するものであり、もし悪しき祭祀の結果、世界に悪しき影響が降りるのならば、そこには悪しき祭祀を捧げられて喜び、返礼として悪しき果報をもたらす『悪しき威力』が想定されなければならない。

もしそんな者がいるとしたら、それは悪法である悪しき祭祀を喜び、悪徳を喜び、それによって威力を増し、ますます世界を悪に染め上げて破滅に導いていく、全き悪魔のような神格だろう(イメージとしては黒魔術)。

そしてもちろん、パーリ経典にはそのような『悪の権化』が登場している。それこそがパーピマントやナムチ、あるいはマーラやカンハ(黒魔)と呼ばれる『悪魔』たちに他ならない。

という事で、長々と書き連ねて既に20,000文字を超えたので… 次回に続く。

 

(本記事については、投稿後一週間くらいはその細部を地味に加筆・修正する可能性があります)

 

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本論考は、インド学・仏教学の専門教育は受けていない、いちブッダ・フォロワーの知的探求であり、すべてが現在進行形の過程であり暫定的な仮説に過ぎません。もし明らかな事実関係の誤認などがあれば、ご指摘いただけると嬉しいですし、またそれ以外でも真摯で建設的なコメントは賛否を問わず歓迎します

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