仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「身体とヴィーナ」における『発声器官』、そして『純粋呼吸瞑想』《瞑想実践の科学25》

牛が「モ~」と鳴く時、その啼いている姿の全体像は、全身が一本の共鳴管、あるいはラッパの様に、腹腔・肺・気道・咽喉・口腔が一直線の管になったかのようにして、そのモ~という声を鳴らしている。

前二回にわたって、牛が鳴く姿と絡めて“Mukha”という言葉の意味する事について、様々な角度から考察してきた。

その中で私は、冒頭に再掲したように、牛が鳴く姿を一本の管楽器の様だと表現した。

身体の本質とは共鳴管(Hollow Tube)としての “Kha”、つまり『空処性』であり、その “Kha”という空処性の中で、音声は共鳴し、発せられる、という視点だ。

ここで思い出されるのは、以前に取り上げた、あの有名な『箜篌(くご)』の喩えだ。仏教についてある程度学んだ人なら、誰でもが知っているだろう、あの絶妙なる喩え話。

上の投稿からそのエピソードを再掲すると以下になる。

パーリ律蔵(Vinaya) 大品(Mahavagga)

「ソーナよ。 汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎていたならば、そのとき琴は音声こころよく、妙なるひびきを発するであろうか?」

尊い方よ。そうではありません」

「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が緩やかすぎたならば、そのとき琴は音声こころよく、妙なるひびきを発するであろうか?」

「そうではありません」

「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎてもいないし、緩やかすぎてもいないで、平等な(正しい)度合いを保っているならば、そのとき琴は音声にこころよく、妙なるひびきを発するであろうか?」

「さようでございます」

「それと同様に、あまりに緊張して努力しすぎるならば、こころが昂ぶることになり、また努力しないであまりにもだらけているならば怠惰となる。 それ故に汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。 もろもろの器官の平等なありさまに達せよ」

テーラガータ:638

「私が過度の精励努力を行った時、世の中における無上の師、眼のある方(=ブッダ)は箜篌のたとえ(弦を強く張りすぎる事もなく、緩めすぎる事もないように、との教え)を用いて、私に理法を説いてくださった」

~以上、中村元選集決定版 第17巻「原始仏教の生活倫理 P96~98より

ここで琴とか箜篌とか訳されている楽器の原語はヴィーナ(琵琶)であり、ヴィーナには箜篌(竪琴)タイプを琵琶タイプが考えられるが、どちらにしても、このヴィーナという弦楽器は、共鳴胴としての "Kha" を持っている、と言うのが、肝だった。 

この間の消息を上の投稿から引用再掲する。

それはともかく、琵琶タイプであれ竪琴タイプであれ、本ブログ記事の文脈に沿って見た時、そこには共通する特徴がある。

それが共鳴器、すなわち『胴』の存在だ。

私はこのような記事を書きながら、『言葉』と言うもの、あるいは漢字というものの在り様の面白さを常々感じているのだが、ここでもそれが当てはまる。

ヴィーナという弦楽器は基本的に共鳴器でできている。その共鳴器とはヒョウタンなどの内部をくり抜いて、あるいは木をくり抜いたり張り合わせて作った空洞(=Kha)状の胴体で、それを専門用語でも『胴』という言葉で表しているのだ。

もちろん、胴とは同時に人間の身体をも意味する。そして、この共鳴器としての胴の本質とは、インド教的思想と実践において極めて重要な意味を持つ “Kha” すなわち “空処” である、という事だ(胴=洞)

そう、それが琵琶であれ箜篌であれギターであれバイオリンであれ、およそ弦楽器というものは、共鳴器としての胴を持ち、その内部は空洞(空処=Kha)になっている。

このブッダによるヴィーナの喩えについて語られる時、多くの場合、その焦点になるのは『弦』の存在だ。実際にブッダが語っているのは正にその弦の張り具合についての喩え話だからだ。

しかし、弦が鳴り響くためには『空処』としての共鳴器の存在が必須である、という「事実」をブッダがもし踏まえていたとしたら、そしてヴィーナと言う楽器の上に『瞑想行者の身体』、と言うものを重ね合わせていたとしたら、また違った風景が立ち現れて来ないだろうか。

つまりこのヴィーナの喩えが語られた時、ブッダとその弟子たちの心象世界においては、を持った楽器としてのヴィーナのイメージと同時に、それ自体が一個の胴(共鳴器=空処)であるところの、人間の “身体” が重ね合わされて暗喩されていたのではないか、という視点だ。

ではヴィーナにおける胴(共鳴器)が文字通り人間の胴体であり、内部を空処=Khaによって貫かれた身体であったならば、その身体において棹や弦に相当するものは一体何だっただろうか。

に相当するのはおそらく背骨だろう。ならば、に相当するのは同じ “音源” である『声帯』ではないだろうか?

つまり、ここでブッダがヴィーナの喩えにおいて弦の張り具合について語った時、その背後には『声帯』の存在が暗喩されていたのではなかったか、という仮説だ。

上の「『箜篌の喩え』とヴィーナとしての『身体』」投稿では、続いて以下のような論旨が展開されている。

~インドには古代から連綿として弦楽器ヴィーナと人間の身体を「重ね合わせる」心象が継承されてきた歴史があった。

~もうひとつ明言されている事実、それは楽器ヴィーナの演奏や操作というものが、スピリチュアルな修行、もしくは求道のプロセスと重ねあわされているという点だ。

~文章の最後には、以下の画像が掲載されていた。正にヴィーナは身体であり、身体はヴィーナである、という事を見事に証明しているだろう。

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saraswathiveenaより。サラスワティ・ヴィーナと身体との重ね合わせ

上の画像を見ると、一番大きい共鳴器が頭に、実際に弦をつま弾いて音を発する部分が『顔』に(より具体的には口)擬せられている事がよく分かる。

~人間の身体の中には様々な『空洞(空処)』がある。頭部における口腔・鼻腔や副鼻腔などの「Kha=空洞」、肺胞胸郭、そして腹腔などの空処によって、私たちの音声は増幅され深みを増す。それは正に神から与えられた共鳴胴そのものだと言えるだろう。

~そしてその様な共鳴を帯びながら、最終的に音声は口から発せられる。その口自体、大きく開いた空処に他ならない。

そして、この最終的に口(鼻音などは鼻も)から発せられる音声が、そもそも音として作られる原器こそが、『声帯(声門)』に他ならない。

論述は更に続く。

つまり件の箜篌の喩え』が語られた時、ブッダとその弟子たちの心象世界においては、胴と棹と弦を持った楽器としてのヴィーナのイメージと同時に、それ自体が一個の胴(共鳴器=空処)であるところの、人間の “身体” が重ね合わされて暗喩されていたのではないか、という視点だ。

身体としてのヴィーナ、ヴィーナとしての身体。

通常、このヴィーナの喩えについて解説される時、一般論として、

「修行というものは一生懸命テンぱってやりすぎても駄目だし、気が緩んで怠惰に堕ちてしまっても駄目で、ちょうどヴィーナの弦の様に適度な『張り』の中でバランスを保って進めなければいけないんだよ」

という『中道』のお説教として、ある種の『人生訓話の様に理解されるのが、謂わば通例になっている。

もちろん私も、その様な意味を全否定するのではないのだが、しかし、もしブッダがこの教えを説いた時にこの「修行」の核心として『瞑想行法』というものを前提していたならば、どうなるだろうか。

そして、その瞑想行法の実態としてアナパナ・サティを念頭に置き、さらにそのアナパナ・サティにおいて観ぜられる『身体』というものが、ひとつの『空処』すなわち『Kha』であり『胴』であり共鳴器である事実を念頭において、その上でこのヴィーナの喩えを語っていたとしたらどうなるだろうか。

それは、単なる一般論としての「バランスのとれた中道としての修行生活」などではなく、『具体的な瞑想修行の要諦としてのガイダンス』ではなかったのだろうか?

続いて、「テーラガータ638:箜篌の喩え」の直前にあたる636から637、続く639以降の内容を引用し、それが瞑想実践とその結果としての解脱の境地について語っている事を指摘している。

636:常に身体(の本性)を思い続けて、為すべからざる事を為さず、為すべき事を常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、諸々の汚れがなくなる。

637:説き示された直き道を行け。退いて返ることなかれ。みずから自分を督励せよ。安らぎを得るようにせよ。

638:私が過度の精励努力を行った時、世の中における無上の師、眼のある方(=ブッダ)は箜篌のたとえ(弦を強く張りすぎる事もなく、緩めすぎる事もないように、との教え)を用いて、私に理法を説いてくださった。

639:わたしは彼の教えを聞いて、その教えを楽しんで過ごした。最高の目的を達する為に、わたしは心の平静を実践した。三つの明知は体得されたブッダの教えはなしとげられた。

640:出離すること、心が遠ざかり離れることに専念し、瞋恚をいだかないことに専念し、執着の壊滅に専念し、

641:妄執の壊滅心の迷わぬことに専念している人は、個体を構成している種々なる局面の生じ滅びる姿を見て、心は完全に解脱する。

642:完全に解脱し、心の静まった修行者には、すでに為し終えたことに付け加えて積み重ねることは、なにも存在しない。なすべきことは、もはや存在しない。

643:ひとつの岩塊より成る岩山が風に吹かれても微動だにしないように、すべての色かたち、味、音声、香り、触れられるもの

644:欲求されるものも、欲求されないものも、その様な立派な人を動揺させることはない。かれの心は安住し束縛されていない。その消滅するさまを、彼は静観する

ソーナ・コーリヴィサ長老

~以上、岩波文庫仏弟子の告白」中村元訳 P137~138より引用

このソーナ・コーリヴィサ長老の詩偈の後半部分、熟読すると良く分かるはずなのだが、「638:箜篌の喩え」の前後は、全て『瞑想実践そのもの』と、その成功裏の結果としての『解脱の境地』について語っている。

中村元先生の翻訳を読むと通俗的な一般論として読まれてしまいがちなのだが、文中赤字でハイライトした、

常に身体(の本性)を思い続けて,
みずから気をつけている、
安らぎを得るようにせよ。
心の平静を実践した。
執着の壊滅に専念し、
種々なる局面の生じ滅びる姿を見て、
その消滅するさまを、彼は静観する。

などという表現は全て瞑想実践以外の何ものでもないだろうし、さらに紫字でハイライトした、

「すべての色かたち、味、音声、香り、触れられるもの」「欲求されるものも、欲求されないものも、その様な立派な人を動揺させることはない」

という一節は、いわゆる色声香味触法の六境(六欲)が定型として確立される以前の形を示しており、それは瞑想実践と深く関わりを持っている。

六官の防護による六欲からの遠離こそが仏道瞑想修行の焦点でありその実質である、という点に関しては、これまで繰り返し指摘して来た。

ソーナ長老の詩偈において、瞑想実践そのものとその結果としての解脱体験に関して告白された文脈のキー概念として箜篌の喩え』が挿入されている事は明らかだろう。

ならば、その638において、ブッダによって弟子ソーナに語られたという、箜篌の弦の喩えによって明示されたその『理法』とは、瞑想実践の具体的なメソッド(方法)における『要諦』ではなかったか、という読み筋は、ごく自然な流れである、と私には思われる。

ここで重要になって来るのが、ブッダの瞑想法の中でも筆頭に挙げられるアナパナ・サティすなわち『呼吸への気づきの瞑想』における具体的なメソッドだ。

実はパーリ経典を通読すると、そこには具体性をもって実際の瞑想のメソッドについて詳述し教え導くものがほとんど見当たらない事に気づく。

正直、それは「これだけしか教えられなくて、よく実際に瞑想出来たな…」と当惑すら感じるレベルだ。

しかしそのわずかな例外のひとつとして、定型化され多くの経典に共有されているフレーズがある。それが下の一節だ。 

parimukhasati upaṭṭhapetvā
Mukha”の周りに、思念(サティ)を、とどめて

これは後日取り上げるが、この「parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā」と言う一節こそが、パーリ経典に記述されたほとんど唯一にして最重要な、具体的瞑想メソッドに他ならない。

ここでMukhaという言葉は、顔もしくは口を意味する。思い出して欲しいのだが、この顔や口と言うものは、先の画像を見れば分かるようにヴィーナの音色が弾かれ響き発せられる共鳴部(クダム)に相当する。

そしてアナパナ・サティにおいて気づきの対象となる『呼吸』とは、同時に人間の音声を乗せて発する原動力でもある。

加えて、ヴィーナの修行や演奏それ自体が『宗教的な求道』として位置づけられていた事を忘れるべきではないだろう。

私の読み筋では、ブッダによってソーナに説かれた『箜篌の譬え』は、このアナパナ・サティ瞑想の「顔の周りにサティ(気づき)を留めて」と言う具体的な行法メソッドにおける、『要諦(コツ、秘訣)』を伝授するものだった可能性が高いと考えられる。

だからこそ、在家時代ヴィーナの名手だったと言うソーナは、ブッダの説示によってその『理法』を直感的に体得し、混迷した実践上のスランプ状態から脱し、ついに瞑想行を極め解脱に至ったのだ。

上の引用で「後日取り上げる」と言っているその『後日』がようやくここに到来した訳だが、最近数回にわたって焦点を当てて来た『Mukha』に関する文脈が、ここで全て繋がって来る。

上の投稿ではParimukhamを「顔(あるいは口)の周り」としていたが、前回までの考察で他の様々な可能性が示唆されて来た。その最終的な焦点こそが、『声帯』に他ならない。

ヴィーナの喩えにおいて、具体的にはその弦の張りに焦点が当てられた。ブッダがもし仮にこのヴィーナという楽器が持つ共鳴器(胴)の空処性を身体における空処性と重ね合わせ、「身体はヴィーナである」という心象を前提に語っていたならば、前述したように、身体において『弦』に相当する音源部位・器官としては『声帯』がまず有力候補として挙げられるだろう。

(その他にも『舌』が考えられるが、それはまた文脈が外れて来る)

これまで私は、

parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā
“Mukha”の周りに気づき(サティ)をとどめて

という文脈においてparimukhaṃと言う時、それは「牛がモ~(Muu)と鳴くその音源となるところのKha,すなわち "声門(声帯)" のまわりを意味し、その全文では、“声門(声帯)” のまわりに気づき(サティ)を留めて、と読む事も充分に可能である、

と指摘したが、この仮説を前提にヴィーナの喩えを読み解けば、それは、アナパナ・サティにおいて、その気づきの焦点となる声門(声帯)における、その気づきの実践法の要諦について、極めて具体的に説き教えたガイダンスだと、推定する事ができる。

だからこそ、ブッダの説示によってこの『理法』を直感的に体得し、混迷した実践上のスランプ状態から脱した修行者ソーナは、ついに瞑想行を極め、解脱に至ったのだ、と。 

ソーナ長老がその詩偈において、

「眼のある方(=ブッダ)は箜篌のたとえを用いて、私に理法を説いてくださった」

と喜びと誇りを持って歌い上げた時に、その『理法』というものが、どのような意味を持ち、それがどれだけ切実に彼の瞑想修行のブレイク・スルーに繋がったのか。

その『理法』とは、瞑想行法の実践的なメソッドにおける “気づき” の要諦、あるいは『秘訣』というものを端的に意味していたのではないかと、私には思えてならない。 

アナパナ・サティの焦点となる体腔としての “Kha”と楽器との重ね合わせ。そこにおいて “Kha” の意味のひとつでもある『声門』とヴィーナのが “音源” として重なり合う、という事実。

この「身体とヴィーナの重ね合わせ」という心象風景については、その後数回にわたって深掘りしているのだが、そこではいくつかの重要な事実関係が浮き彫りになっている。

中でもその焦点と言えるものが、『祭祀』における『賛歌』『瞑想』と重ね合わせる心象だ。

~先ほど私は、バラモン司祭の詠唱の妙なる言葉の響きによって、神々を悦ばせ』と書いたが、正に彼らの歌とは神々を悦ばせ人々の祈りや願いを叶えさせるための声楽であり音楽であり、彼らの身体とは神(につながり捧げる)器としての楽器だった事になる。

バイブルには「神は自らに似せて人を創った」という一節があるが、ヴェーダ的な神は、正に「自らを讃えさせるために人(という賛歌の声楽器=ヴィーナ)を造った」のだ。

~さらにヴィーナの演奏に熟達することが、スピリチュアルな求道における解脱、すなわちモクシャにも重ねあわされている。

バラモン祭官によって執り行われる祭祀、その時神々に捧げる賛歌の詠唱を根底で支えている原動力とは『呼吸』の発出力であり、その発出力を『音声』へと変換する原器こそが『声帯(声門)』に他ならない。

上の投稿の最後に私はこう書いている。

ヤージャニャヴァルキヤは言う。

「ヴィーナに熟達したものは究極の救済に至る」と。 

ならば、神の手によるヴィーナである『身体』熟達する事によっても、やはり救済=解脱、は成し遂げられるのではないだろうか?

前回論じた様に、『声帯(声門)』こそが、アナパナ・サティの気づきのポイントとしてひとつの『焦点』ではないのか、と言う仮説には、一定以上の整合性が認められる。

そして、バラモン祭官という「身体ヴィーナ」が妙なる音色によって神々を喜ばせる為に、熟達しなければならなかった『歌唱器官』の焦点にあるものこそが『声門』に他ならない。

一方で、この「ヴィーナにまつわる心象風景の探求」は、もうひとつの明確な事実関係を浮き彫りにしている。それは『賛歌の詠唱』という営為と『瞑想』という概念との重なりだ。

~ここでDevine Luteとされているのが、前後の文脈から『神の手によるヴィーナである人(歌詠祭官)の身体』であるのは明白だろう。そこには今まで引用して来た諸心象の原像が、はっきりと記されている。

それだけではなく、そこには新しい概念も登場していた。それは6の赤字部分、「meditates on it:その上に瞑想する」だ。

もちろんこの it「神の手になるヴィーナ」である『人(歌詠祭官)の身体』に他ならない。つまりそれは「身体という楽器の上に瞑想する」事を意味している。

ここで漸くにして、長かった私の探求はヴィーナとブッダの瞑想法』との接続点を見出した事になる。

この「身体という楽器(神の手によるヴィーナ)の上に瞑想する」という言葉の背後には、一体どのような心象風景が広がっていたのか。

前回私は、広義のリグ・ヴェーダと狭義のそれとの違いについて言及して自分の勘違いを説明したが、そもそもヴェーダとは一体何なのだろうか。

「それは何よりも、詠唱される、すなわち歌われる(詠われる)神々への賛歌であった」

~私の見立てでは、このアイタレーヤ・アーラニヤカに描かれたヴィーナと身体にまつわる心象世界は、ブッダの瞑想法及び『その中で語られたヴィーナの喩え』に直結する『前提背景思想』だと理解され得るのだが、どうだろうか。

~もちろん、これら聖典ヴェーダの学習システムは、ブッダの時代にすでに上流階級(バラモンクシャトリヤ、バイシャ)の良家の子弟にとって必須のものとして確立していたので、ブッダとソーナ比丘をはじめとした声聞の弟子たちの間で、このような『身体=ヴィーナ』という心象は『一般教養』として広く共有されていた可能性が高い、そう考えられる。

~後段は明らかに「身体(ヴィーナ)を注意深く観る(精査する)事によって、それを知ることができる」と言っている。

~「神々によって造られたヴィーナである人の身体を知りその上に瞑想する者(のメロディである音声=賛歌)は(神々に)快く聞かれ、彼の栄光は大地を満たすだろう。

そしてどこであろうと彼らがアーリヤの(高貴な・聖なる)言葉を唱える時、彼らは彼を知るだろう」

これこそが、正に今回の読み筋の中の白眉であり急所の一手とも言える部分だが、ここでは明らかに神聖ヴィーナである『祭官=人間の身体』と、それによって演奏される(=歌われる)賛歌が、Meditationという営為と重ねあわされている。

そして、その様な瞑想としての賛歌詠唱が神々を喜ばせる(快く聴かれる)事で、そのリターンとしての恩寵(栄光)は大地を満たす。 

という事はつまり、歌詠と言う『瞑想実践』が、神々へ捧げる祭祀になっている事を意味する。

元々賛歌と言うものは祭祀の中で神々へ捧げ喜ばすものとして生まれ発展してきたのだから、それ自体は何の不思議もない。しかし、賛歌がひとたび『瞑想』定義された上で、神々に捧げられる、となると、一段次元が異なって来る。

何故ならそれは、ブッダの瞑想法も含めて、だが、汎インド教の核心に位置付けられる『瞑想修行』という営為が、そもそもの原像においては『神々へ捧げる祭祀』だった、事を強力に示唆するからだ。

そして、この神々へと捧げる歌詠において、その根底に必須とされる心的プロセスとは、歌詠者自身が「自分の身体を知る」と言う事だった。

つまりこれは、ブッダの時代以前から、祭祀の歌詠と言う『瞑想実践』において、自らの身体を観察し熟知する、と言う心的営為が、既に行われていた事を意味する。

これは、もちろんブッダの瞑想法における『身体(呼吸)を観ずる瞑想』とは微妙に文脈を異にしている。それは何よりも歌詠瞑想における合目的的な手段に過ぎなかった。けれどその文脈は、明らかにブッダの瞑想法へとつながる、前段階であるように私の目には映る。

このバラモン祭官による『歌詠瞑想』ブッダの瞑想法の前段階に見立てる視点については、別投稿で示した以下の内容につながって来る。

「彼の栄光は大地を満たす」「彼らは彼を知る」と言う言葉の真意は、祭祀において歌う者それを聴く者共々に一体と成って(もちろん神々も!)、瞑想の深み(天界の高み)に遊ぶ境地ではなかっただろうか。

『不死』なるブラフマンに至るための、“聖音オーム” の吟誦。

そこには、神聖ヴィーナとしての人の身体によって歌われる賛歌、さらにはその精髄としての “聖音オーム” の吟詠を、聖なる不死に至るための『瞑想実践』と捉える心象が確かにあった。

その『瞑想』は何よりも聖なる天界の神々、さらには “不死にして無畏” なる世界の中心原理ブラフマンアートマンに至る道、として祭官(あるいは求道者)たちによって実践されていた。

もちろん、この聖なる “不死にして無畏”、仏教的な文脈では『ニッバーナ』あるいは『至彼岸』を意味する事は言うまでもない。

そして、このニッバーナに至るための(瞑想実践上の)的確なアドバイスとして、正にブッダはソーナ比丘に向かって『ヴィーナの喩え』を説いたのだろう。

神々に至る瞑想としての賛歌の詠唱と、その精髄としての絶対者ブラフマンに至るオームの念誦。そしてニッバーナに至るブッダの呼吸瞑想アナパナ・サティ。

私の眼には、全てが一貫してつながっている様に見えているのだが、どうだろうか。

それは、あたかもワインを蒸留してブランデーが出来上がり、それをさらに精製する事によって純粋アルコールが抽出される事に似ている。

賛歌を蒸留したものがオームの念誦であり、更にそれを精製抽出したものが、ブッダの『呼吸瞑想』である、という様に。

考えてみると、絶対者ブラフマンにつながる聖音オーム(それはブラフマンそのものとも讃えられた)を逆さにすると「Muo(a)」つまり牛の鳴き声である「ムゥオ~」になる。

その牛の鳴き声である「ムゥオー」こそが「Mukhaの周りに気づきを留めて」という時のMukhaの原像であり、そのム音が発出される原器こそが声門(Kha)だった。

上で示したように、バラモン祭官による賛歌詠唱という『瞑想実践』がまずあって、そこから夾雑物を捨象した精髄として「オームの念誦」が絶対者ブラフマンを対象とした『瞑想実践』として設定され、さらにそこから音声すら捨象した『純粋呼吸の観』としてアナパナ・サティが沙門シッダールタによって、案出された。

もちろん、その『純粋呼吸の観』という『瞑想』によって「知られるべき」対象としては、絶対者ブラフマンが第一に考えられなければならない。

つまり、ブラフマンと言う『至高』に到達する為には、「賛歌の精髄」として抽出された『オームの念誦』ですら、沙門シッダールタの眼から観た時には『不純』であり『粗雑』だと判断されたのだ。

様々な状況を踏まえれば、その『純粋呼吸の観』が為される時、賛歌の詠唱やオームの念誦において極めて重要かつ実践的に顕著で強い印象を与える『声帯の振動』というものが、やはりひとつの焦点になっていた可能性は高い。

(AUMの『M』はMukhaの『M』だ) 

やはり以前の投稿で、私は「聖音オームとは宇宙原初の時から延々と鳴り続ける車輪世界の回転音であり、ブラフマンの声である」、と示唆している。

この流れの延長線上に沙門シッダールタの心象を言い表せば、それは

『無声の振動』こそがアートマンブラフマン真実の声である、と。

あるいは、それこそがアートマンブラフマンに捧げるべき真の『賛歌』であり、真の『内なる祭祀』である、と。

そのように考える事によって初めて、ブッダの瞑想法』を汎インド教的な瞑想実践の発展段階、その通史的プロセスの中に適切に落とし込むことが可能になる。

同時にそれは、ブッダの瞑想法』「脳神経生理学的作用機序」としても把握可能にするだろう。声門とは、まさに意識と無意識が交錯する接点であり、無意識へと「没入」する為の格好の『門戸』だからだ。

★のどのはたらき

 一般に呼吸をするとき人は鼻から息をしますが、激しい運動のあとなどは口からも呼吸します。口の中に入れた水や食物は、歯でかんで、舌で味を感じて嚥下(えんげ:飲み込み)します。この中心的な役割をするのが喉頭です。つまり空気は気管へ、食べ物は食道へ正確に分別することが、その第一の機能です。
 次に大切なのは胸郭(きょうかく)の固定です。たとえば重いものを持ち上げたり、ふんばったりするとき、呼吸をとめて肺の中の空気を逃がさないようにして、からだ全体の筋肉の作用を発揮させるための土台として胸郭の固定をします。このとき喉頭は、肺からの空気が逃げないようにしっかり気管の上で閉じます。

 そして、のどのもう一つの機能が発声です。肺からきた空気(呼気)が喉頭にある声帯を振動させることによって、音にして咽頭や口蓋(こうがい)、鼻・鼻腔(びくう)、舌、口唇(こうしん)を変化させて音色を加えることで、ことば(言語音)としてコミュニケーションをとります。

★発声器官としてののど

 「声を出そう」という脳からの指令で、まず肺は呼気(こき:口や鼻から吐く息)を生成します。この呼気が発声の動力源です。

 呼気は次に、気管を通りそのてっぺんの喉頭にきます。喉頭は気道を守るため複数の軟骨組織とそれを動かす筋肉、表面の粘膜よりなり、その内腔(ないくう)に声帯があります。左右の声帯は、ふだんは呼吸のために開いていますが、声を出すときや胸郭の固定時は脳からの指令でピタッと正中で合わさります。

時事メディカルより

呼吸や飲食や発声、そして運動に伴う喉頭喉頭蓋や声門)の開閉は、通常全て無意識レベルで制御されている。例えば上の「声帯が脳からの指令でピタッと正中で合わさる」時、私たちは誰もそれを意識していない。

しかし同時に、呼吸や発声や胸郭の固定と言うものは意識的にも行われるものだ。

「無声の純粋呼吸」が出入りするさ中にも、声門周辺には非常に微細微妙な運動や触覚が生じており、それは通常は無意識レベルでコントロールされ観取されている。その「『無声の振動』に意識的に気づく」という方法論によって、意識と無意識が有機的に交わるのだ。

この神聖な音〈オーム〉は〈唯一者〉に到達しようとする形而上学的傾向においては絶対者のシンボルとして重要な意義を獲得した。

あらゆる語は聖音〈オーム〉に包摂され、聖音〈オーム〉は全世界にほかならないと考えられた。

またこの神聖なシラブルはヴェーダの精髄であると見なされた。シラブルを意味するaksharaという語はまた『不壊』という意味があるので、この神聖なシラブルは不壊者、不死者、恐れなきもの、とされた。それは絶対者ブラフマンであり、人はそれを知ったときに、それとなるのである。

中村元選集第9巻 ウパニシャッドの思想 P40~ 抜粋)

この聖音オームについての説明を「悟りに至る直前の沙門シッダールタ」の心象に即してなぞらえれば以下のようになるだろう。

この神聖な音〈オーム〉は〈唯一者=ブラフマン〉に到達しようとする瞑想実践行において絶対者のシンボルとして重要な意義を獲得している。

あらゆる語は聖音〈オーム〉に包摂され、聖音〈オーム〉は全世界にほかならないと考えられている。またこの神聖なシラブルは全ヴェーダの精髄であると見なされている。

しかし、この聖音オームは本当に『精髄』と言えるのだろうか?真の精髄とは、聖音オームを含めあらゆる賛歌の音声を発出する原動力であるところの『純粋呼吸』ではないのだろうか。

だからこそ、先哲たちによって「呼吸(気息)」は『アートマン』である、と言われてきたのではないか。

「シラブルを意味するaksharaという語はまた『不壊』という意味があるので、この神聖なシラブルは不壊者、不死者、恐れなきもの、とされた。それは絶対者ブラフマンであり、人はそれを知ったときに、それとなるのである」

と言われているが、聖音オームを更に精製純化したところの『純粋呼吸』こそが真のヴェーダの精髄』であり、まさに不壊者、不死者、恐れなき者であるブラフマンに至る為の究極の鍵ではないのか。

そうして菩提樹下に結跏趺坐した沙門シッダールタは、遂に『不死なるブラフマンと称揚されてきた『それ』、としか思えない様な超越的な境地に到達した。

しかしそのとき同時に、彼の眼前には明確な真実相が立ち現われ把握されていた。

「聖音オームでありブラフマンであるところの『それ』は "全世界" である、と言われてきたが、『全世界』の止滅こそが『それ(=ブラフマン)』であった」と。

『全世界』中にはアートマンブラフマンも存在し得ない。現象世界が全て『止滅』した時はじめて、それは立ち現われるのだ、と。

そしてブッダとなったシッダールタは、あらゆる観念・戯論にまみれたブラフマン概念』について、積極的に語る事を一切捨てた。それが自ら直に観た『真如』に対する、彼の『誠実』だったのだろう。

(本投稿はYahooブログ 2015/10/25「瞑想実践の科学 46:“Kha”と身体と楽器 ~箜篌の喩え」を大幅に加筆修正して移転したものです)

 

 


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