仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「仏教思想のゼロポイント」と『仏道修行』のゼロポイント

今回の投稿は2015年6, 7月にアップした二本の記事を統合移転するものだが、当時から様々な状況が変わっており、どのような形で処理するかこれまた悩んでしまった。

しかし、「だから仏教は面白い!」に続くこの「仏教思想のゼロポイント」という魚川さんの著書との出会いが、正に本ブログのタイトル仏道修行のゼロポイント」『事始め』になっており、これら投稿はその間の消息をよく記録している事もあり、若干の加筆修正を施すだけでそのまま移転する事にした。

「仏教思想のゼロポイント」の2020年現在の書評、と言うものは、じっくりと再読した上で、近い内に改めて投稿したいと思っている。

 

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2015年6~7月頃

Amazonの在庫が復活したので、早速購入して「仏教思想のゼロポイント」を読んでみた。以前紹介した「だから仏教は面白い!」を書いた魚川祐司さんの本格的な第一弾書籍だ。

まず同書から目次部分を掲載してその流れを概観したい。

はじめに

第一章 絶対にごまかしてはいけないこと ― 仏教の「方向」
 仏教は「正しく生きる道」?  田を耕すバーラドヴァージャ
 労働(Production)の否定  マーガンディヤの娘
 生殖(Reproduction)の否定  流れに逆らうもの
 在家者に対する教えの性質  絶対にごまかしてはならないこと
 本書の立場と目的  次章への移行

第二章 仏教の基本構造 ― 縁起と四諦
 「転迷開悟」の一つの意味  有漏と無漏
 盲目的な癖を止めるのが「悟り」  縁りて起こること
 基本的な筋道  苦と無常 無我 仮面の隷属
 惑業苦  四諦 仏説の魅力 次章への移行

第三章 「脱善悪」の倫理 ― 仏教における善と悪
 瞑想で人格はよくならない?  善も悪も捨て去ること
 瞑想は役には立たない  十善と十悪
 善因楽果、悪因苦果  素朴な功利主義
 有漏善と無漏善  社会と対立しないための「律」
 「脱善悪」の倫理  次章への移行

第四章 「ある」とも「ない」とも言わないままに ― 「無我」と輪廻
 「無我」とはいうけれど  「無我」の「我」は「常一主宰」
 断見でもなく常見でもなく  ブッダの「無記」
 「厳格な無我」でも「非我」でもない
 無常の経験我は否定されない  無我だからこそ輪廻する
 「何」が輪廻するのか  現象の継起が輪廻である
 文献的にも輪廻は説かれた  輪廻は仏教思想の癌ではない
 「無我」と「自由」  次章への移行

第五章 「世界」の終り ― 現法涅槃とそこへの道
 我執が形而上学的な認識に繋がる?  「世界」とは何か
 五蘊・十二処・十八界  「世界」の終りが苦の終り
 執着による苦と「世界」の形成  戯論寂滅
 我が「世界」像の焦点になる  なぜ「無記」だったのか
 厭離し離貪して解脱する  気づき(Sati)の実践
 現法涅槃  次章への移行

第六章 仏教思想のゼロポイント ― 解脱・涅槃とは何か
 涅槃とは決定的なもの  至道は無難ではない
 智慧は思考の結果ではない  直覚知
 不生が涅槃である  世間と涅槃とは違うもの
 寂滅為楽 仏教のリアル 「現に証せられるもの」
 仏教思想のゼロポイント  次章への移行
 
第七章 智慧と慈悲 ― なぜ死ななかったのか
 聖人は不仁  慈悲と優しさ  梵天勧請
 意味と無意味  「遊び」  利他行は選択するもの
 多様性を生み出したもの  仏教の本質  次章への移行

第八章 「本来性」と「現実性」の狭間で ― その後の話
 一つの参考意見  「大乗」の奇妙さ
 「本来性」と「現実性」  何が「本来性」か
 中国禅の場合  ミャンマー仏教とタイ仏教
 「仏教を生きる」ということ

おわりに

~以上、新潮社刊「仏教思想のゼロポイント」魚川祐司著より

私などは、この目次の章立てを一見しただけでシビレてしまった(笑)が、通読した第一印象は、先に読んでいる「だから仏教は面白い!」の拡大詳述版であり、第六章までは私自身のパーリ(テーラワーダ)仏教理解とおおむねパラレルなので、新鮮な驚きよりも「これだ感」の方が強かった。

以前にも “「だから仏教は面白い」を読んで” として書評を書いたが、私にとっての一番の感慨は、下記エントリーにあるような、ここ最近個人的にコツコツと進めてきたパーリ経典読解の結果が、魚川さんの第五章の論述によってより鮮明に再確認できた事だった。

本書第五章第二節の

五蘊・十二処・十八界 「世界」の終りが苦の終り”

において彼が論じている「世界」とは、そのまま、私が

「一切」としての十二処十八界とマーラ、そして「四聖諦」《瞑想実践の科学19》

で論じていた「一切」とイコールな訳で、今までいまいち自分の探求に「だいじょうぶかいな?」と一抹の不安があった私としては、間違っていなかったと魚川さんに保証してもらったようなもので、大変心強く思ったものだ。

何しろ私の探求は師僧を仰ぐでもなくアカデミズムにも属すでもなく、ひたすら個人的な方法論に則って行っているものなので、一応確定しているスタンダードと言うものから激しく逸脱しても気づかない危険性が常にあって、内心ヒヤヒヤしていた。

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『意』については、「器官」とみれば『色』、『こころ』と見れば『受想行識』

その他にも問題意識の立て方がかなり共通する部分もあって、そうだそうだ、という共感の高まりをしばしば覚えた。

ただ、問題意識の焦点のポイントは共通するものが多々あるものの、その問題に対するアプローチの仕方と、その結果出された解の在り方については、魚川さんと私とはかなり相違があるのもまた事実だ。

今回魚川さんは十二縁起に関しては詳述していないが、この十二縁起の中ほどにある「六処」こそが「一切」における六官・六境のインタラクション(触・受)であり、だからこそ、六官(六根・六入)防護されなければならず、その防護こそが瞑想実践 “そのもの” である、という私の論点については、是非彼に、検討して欲しいと思った。

総じて六章までの論述の切れ味に比べ、七・八章の論述は私から見て少なからず杜撰であり、その結論は拙速に過ぎる点が多々見受けられた。

本ブログの趣旨は、私自身の探求のプロセスをシェアする事にあるので、余り他者の見解を評論する事に深入りする気はないのだが、例えば、同書第七章P173「遊び」において示された、

では、意味の判断も無意味の判断も失効したところから、衆生への利他のはたらきかけを行おうとする人々の心象はいかなるものであるのか。敢えて言語によって簡潔に表現するならば、それは「遊び」と言うのが適切である。

という一節と、そこから展開される論旨。これは問題意識の所在としては、私もこの「利他」「慈悲」の根拠については、だいぶ以前に本ブログに書いた記憶があり、大いに同感なのだが、その結論には?だった。

後に書かれたの彼の文章で、どうやらこの『遊び』というアイデアは彼が傾倒する中国の老荘思想辺りから引っ張ってきた様だが、それは最前までのパーリ経典に即した論述の整然から見れば実に唐突な飛躍に過ぎるし、端的に言って、ブッダについての「人間観」が非常に浅い、という印象を受けた。

さらに、この「遊び」論から派生する、第八章の大乗仏教論については、率直に言って、何だかな~、という感想しか出て来ない。

「遊び」ならば何をどうやってもいい、ということならば、極論すれば「なんでもあり」に道を開いてしまうし、そもそも遊んでいるその『覚者』本当に覚っているかは保証の限りではないのだ。

どちらにしても一巻の書として見た時、日本人によって書かれた「仏教『思想』の原論」としては白眉の出来であり、仏教と言うものの真実に興味がある人全てにお勧めできる内容であるのは間違いない。

しかし総じて、パーリ経典とそのテーラワーダ的な理解について、文字通りマニュアル通りに正確に理解はしているものの、余りにも理屈通りでありすぎて、そう、分かりやすく言えば、「いかにも『センター試験』で高得点を得られるような頭脳が書いたな」、という印象が強く、そのような頭脳だからこそ、第七・八章は書かれうるのかな、という感懐だろうか。

非常によくできたテーラワーダ仏教の教科書ガイド」ではあるが、それ以上でも以下でもない、と。

最初の出会いがかなり鮮烈な衝撃だったので期待が先走ってしまった感が強いが、どのような名文であれ、そのムードに溺れて鵜呑みにすることなく、常に冷静に批判的検証とともに学んでいくべきだろう、と改めて思った。

その、私の「批判的」視点から見て、もっとも象徴的な事実は、そもそもの書名からして、「仏教『思想』のゼロポイント」であり、「仏道修行』のゼロポイント」ではない、という点は指摘しておきたい。

私が興味の焦点は、正にこの仏道修行のゼロポイント” に他ならないからだ。

実際のところ、ブッダ菩提樹下で悟りを開き、その後45年間にわたって行ったことは、決して「仏教思想」を説き続けた、などと言う事ではなく、仏道、つまり悟りもしくはニッバーナへ至る道としての修行道について、説き、導いたのだから。

仏教思想なるものが始まったのは、ブッダの死後スッタやビナヤがまとまられて、それに関する「学」が成立して以降の話だ。

魚川さんは盛んに「行学の両立」を説いているが、ブッダ在世の当時には、肩肘張った「学」など存在してはいなかった。むしろ彼の真意は「考えるな、行じろ!」という事にこそあったのだ。

その視点に立った時、『論・学』などと言う代物はすべて『戯論』に過ぎない。

(この点に関しては、魚川さんも十分に自覚の上で ‟敢えて” 論述している事は、「だから仏教は面白い!」にも説明されているので、「仏教思想」というタイトル自体も『自覚的』に採られたものかも知れないが)

もちろん、ブッダの修道ガイダンスを正確に理解する、という意味での「学び」はあって当たり前なのだが、それが後世の「比丘サンガにおいてステータスを上げて出世する為の『学』」になり下がった果てにあるのが現在のテーラワーダにおける「論・学」なのだから、両者の乖離ぶりは著しいものがあると私は思う。

そう言いながら私も便宜的にパーリ経典を読み解くという「学」に携わってはいるが、その本心は、「学」が成立する以前のブッダの瞑想行道の原像に限りなく迫る、というただ一点にある。

そこにおける焦点とは、正に沙門シッダールタがブッダガヤの菩提樹下に結跏趺坐し悟りを開いたその「プロセス」であり、そのプロセスを「方法論」として明確に言語化し、最初に説き導いたコンダンニャが悟ったという、その “メソッド” の原像であり、その “作用機序” に他ならない。

魚川さんと突っ込んだ話をした訳ではないので分かりかねるが、もし彼が私と同じような問題意識を持っているのならば、「仏教思想」ではなく次回作は是非仏道修行のゼロポイント」という観点から、更なる探求を深めてほしいと思った。

(そこにおいて、私が現代人にとって欠かすことのできないものと考えるのが、「脳・神経生理学的な作用機序」になる)

彼の最終ゴールが、トレンディな仏教評論家になる、事などではなく、ブッダの到達した境地に少しでも近づく、という事にあるのならば、せっかくミャンマーと言う恵まれた土地に住んでいるのだから、ますます瞑想実践に励んでいただきたい、と期待する次第だ。 

私が『仏教』というものに向き合う時に、その関心の焦点になるのは、上で書いたように、仏道修行のゼロポイント』という一点に他ならない。

この場合仏道修行』というのは、苦悩する沙門シッダールタが、ブッダガヤの菩提樹下に結跏趺坐して、それまではどうしようもないかに見えた『苦悩』から解脱して涅槃(ニッバーナ)に至ったという、正にその悟りへと彼を運んでいくことを可能とした瞑想行法そのものになる。

そこには、もうひとつ重要な点がある。それは、その自らの悟りの経験とそこに至るための『方法論』が、彼個人の中で完結して終わってしまったのではなかった、という歴史的な事実だ。

彼はその悟りの経験とそこに至る為の方法論を見事に言語化して他者へと伝達し、初転法輪の地サールナートにおいて、五比丘のうちのコンダンニャが、その最初の『悟りの継承者』としてブッダ自身によって承認されたのだ。

この沙門シッダールタ自身による悟りの経験とその他者への伝授。この二つを持って、私は仏道修行のゼロポイント、としたいと考えている。

言葉の真の意味でゼロポイントと言うのならば、ブッダ個人が悟りを開いたその瞬間を、単独でゼロポイントとするべきではないか、という見方もできるし、私自身にとってその瞬間こそが核心であり焦点であるという事実に変わりはない。

しかし、本ブログの趣旨、並びに私自身のスタンスを考えると、ブッダひとりの悟りの経験のみを取り出してゼロポイントとなすのは、やはり片手落ちになる。

それは、私たちが日常何の気なしに使っている『仏教』という言葉の中に、全て凝縮して表されているだろう。

そう、仏教とはブッダの教えであり、ブッダ、つまり涅槃に至った悟りを開いたゴータマ・シッダールタが、その同じ悟りに至れるように、自らの経験を言語化して普遍化し、他者に教え伝えた、その伝授された智慧の体系をこそ、『仏教』と私たちは呼ぶのだから。

彼がもしその覚りの内容を第三者に説く事をしなかったら、どのような意味でもそのゼロポイントに我々がアクセスできるという事はなかっただろう。

私たちが『瞑想行道』という観点から仏教を学ぶ、と言う事は、究極的にはコンダンニャの立場に自らを置く、と言う事だと私は考えている。

少なくとも私自身がこのブログを書いている『意味』とは、正にコンダンニャが2500年前のサールナートの鹿の森の樹下において、ゴータマ・ブッダによって伝授された智慧とそこに至る為の方法論そのものを、現代日本語を用いて可能な限り『肉薄』『記述』『復元』する、という事にある。

ブッダその時、「コンダンニャは悟った!」と歓喜の声を上げたと言われている。

ではどうやって、コンダンニャは悟ったのか?

教典には、形式上あたかもブッダの説法を聞き続けそれを「知的に」理解しただけでコンダンニャは悟った”、かのような内容がまま見られるが、もちろんこれは形骸化した記述に過ぎないだろう。

コンダンニャは当然の事ながら、ブッダによって言語化された「瞑想修行の方法論」を知的に理解し、その瞑想行法実践的体解した結果、悟りを開いたのだ。

これは誤解を恐れずに単純化して譬えると以下のようになる。

ある時ある人が、人類史上初めて「膝蓋腱反射」という一見摩訶不思議な生理現象を発見したとする。膝のお皿の下のくぼみを木槌などでコンっと叩くとつま先がぴょんっと跳ね上がる、あの神経生理現象だ。

この膝蓋腱反射が生起するためには、いくつかの重要な要件があり方法論がある。智慧ある彼はその全てを直感して、膝の下の特定ポイントを適切な道具を用いて必要十分な強さと角度でもって叩き、自身の身体において見事につま先を跳ね上げる事に成功した訳だ。

そして彼は自ら膝蓋腱反射を体得しただけではなく、その為の要件を精査し方法論を見事に言語化して他者に伝え、その他者自身の身体において、その本人自身の手で、同じ膝蓋腱反射を惹起させる事に成功した。

膝蓋腱反射というものは脊髄反射(これは最近よくネット上で囁かれるw)とも言われ、何やら難しい漢字の羅列で「なんじゃそりゃ?」と思う方もいるかも知れないが、目のまえで見せられて、ちょっとしたコツを口で説明してもらえれば、すぐに納得し誰でも再現する事が出来る、基本的な身体の神経生理的特性(メカニズム)だ。

ブッダの瞑想法とその実践の結果として体験されるニッバーナとは、究極的にはこの膝蓋腱反射と変わらない人間の身体(心身)システムに内在する普遍的な「作用機序」、つまり脳神経を中心とした「身体システムに内在する “メカニズム” の発動」に他ならないだろう。

以前にも書いたが、沙門シッダールタの身体はコンダンニャの身体であり、私の、そしてあなた自身の身体でもある。この極めて平明な事実、もしくは真理を、まず私たちは心に深く刻むべきなのだ。

私の身体において、一定の要件を満たした方法によって膝のお皿の下のくぼみを木槌で叩いてつま先がぴょんと跳ねあがるのならば、同じ人間の同じ身体を持っているあなたが、同じ要件を満たした方法によって同じように膝の下のくぼみを叩けば、同じようにつま先はぴょんと跳ねあがる。

その事に疑いを持つ人はおそらくいないだろうし、“事実” としてそれはたいてい誰にでも起こるのだ。

沙門シッダールタは、正にあのブッダガヤの菩提樹下の禅定において、それが起こる要件と方法論を模索しつつ発見・確立し、ついにニッバーナへと到達した。

そしてその経験したプロセスの作用機序を明晰に理解し、その要件と方法論を分析的に言語化して、かのサールナートで五比丘に口頭で伝えたのだ。

そして最初に “つま先をぴょんっと跳ねあげる” 事、に成功したのが、正にコンダンニャだった。

同じ人間であるコンダンニャに起こった事ならば、さらには沙門シッダールタに起こった事ならば、たとえ2500年と言う時の流れで隔てられていようと、同じ『身体』である私たちにおいても、それは起こらないはずはない。

その事に疑いを持たないからこそ、私はこれから先も熱意ある限り知的探求を深め続けて、やがて時機が至れば実際にどこかで本格的なリトリートにも入るだろう。

ただし、もちろんこれは極めて単純化した喩え話であって、単なる身体的な神経生理現象である膝蓋腱反射と、ブッダの経験したニッバーナとでは、問題の “次元” が少なからず違う、というか相当以上に違う、のもまた事実だ。

沙門シッダールタにおいて、そしてその「悟りの一番弟子」であるコンダンニャにおいて惹起されたプロセス機序が、同様に私たちの心身において発動する為には、様々な要件と精密な方法論が膝蓋腱反射以上に求められるだろう。

けれどゴータマ・ブッダはそのプロセスを論理的に把握して言語化に成功し、五比丘達に口頭で伝え、見事にコンダンニャはそれを知的に理解し、体得的に瞑想行法を実践し、悟り得た。だからこそ、その瞬間を含めてこその「ゼロポイント」なのだ。

私見ではあるが、現代世界に流布するいわゆるブッダの瞑想法、あるいはヴィパッサナ・メディテーションのシステムは、このコンダンニャが体得したブッダ直伝の瞑想行法(おそらくそれは時間と共にブッダ自身によって精緻化されていったはずだ)の、感覚的には70%くらいしか復元できてはいない気がしている。

いい線いってるけれど、完全ではない。とっても残念な部分があり画竜点睛を欠いている。それが偽らざる私の感触だった。

(これは私の主に95~98年頃の経験を前提にしているので、現状私の知らないところでもっと深化されたものが存在する可能性は否定しないし、むしろ期待している)

それは何故かと言うと、結局のところテーラワーダにしろ何にしろ、現在仏教に携わる人々が古代インド人の心象世界と言うものをまったく深く知らず、その様な心象に即して語られ経典に残されたブッダの言葉を、当時のままに正確に理解できていない事が原因だと思われる。

こう言うと当然、「な~にをド素人が偉そうに!」という声も聞こえてくるかも知れない。しかしながらそれに対しては、「そうですか」というため息しか私の口からは出ないだろう。

現在地上に見られる『仏教』のほとんど全てはインド以外の諸外国で千年以上に渡って保存継承されて来たものであって、祖国インドのオリジナルの仏教の系譜は、既に滅んで久しい。

私は多少武術を嗜むので興味深く見つめているのだが、国際的に見て柔道のメッカが日本から西欧、特にフランスに移って以降、それがどのように変容してしまった事か。

仮に日本における柔道が完全に滅亡消滅してしまった後にフランスを中心とした西欧柔道があの延長線上に千年続いたとしたら、それは一体どのような姿になってしまうか、想像を絶している。

仏教の場合も(既成の事実として)、同じプロセスを私はイメージしている。インド・オリジナルの時代と、海外展開から千年後の時代とでは、相当以上の変質を想定せざるを得ないのだ。

この点に関しては、テーラワーダも大乗も密教も程度の差こそあれ本質的にその違いはない。

インド亜大陸内でさえ、原始仏教から部派仏教、大乗、密教と時代を追うごとにその変容は著しかったが、私たち異邦人が考える以上に、本家のそれは筋道が通っていた私たちがそこに極端な飛躍や乖離を見出すのは、彼らの思考プロセスの必然理解できないからだろう

特にテーラワーダの瞑想実践はブッダ本来の瞑想法』として近年脚光を浴びており、私自身もその恩恵に浴したひとりなのだが、その実践の系譜が、歴史的には極めて「浅い」事が様々なデータから明らかになっている。

それは近代において主にビルマなどの先達が経典やアビダンマなどから再構成に成功したものであって、その『復元』がどこまで完璧であったか、その保証はどこにもない。

つまりそこには、まだまだ追求する『余地』が残されている。

その『余地』を詰める、という作業こそが、本ブログの試行に他ならない。

現行テーラワーダの歴史が2000年以上あり、近代瞑想の歴史が200年あったとしても、古代インド人とその心象を共有できていないが故に理解不能だった事柄が、多数そこには埋もれている。

そのリアルな心象世界に限りなく肉薄して、知られざる Hidden Fact に迫る。それが取り敢えず本ブログの目指すところであり、私は遺跡を発掘する考古学者、あるいは考古学的「文化人類学者」の視点に立って、様々な典籍を読み解いている。

仏教に対してこの様なアプローチで解読を試みる者は余りいなかったと思われるので、一般に理解されるのは極めて難しい事が予想されるが、ひょっとして私の視点とシンクロしその内容が心の琴線に触れる人が万が一にもいるかも知れない、というわずかな可能性を念頭に、こうしてネット上で情報をシェアしている訳だ。

私の考察がどこまでそれに迫れているのか、と言う適切な評価については、取り敢えず同時代人にあまり期待してはいないのだが。

それはさておき、瞑想行法がメソッドとして完全であれ不完全であれ、ひとつこれだけは言える事がある。

それは、瞑想という心身総体を用いた営為は、優れて感性、もしくは感受性に根ざしているものであって、そのような感受性を根本的に欠いている人間には、永遠に理解しようがない事もある、という冷厳な事実だ。

これは先の論旨である「沙門シッダールタの身体は私たちの身体である」と一見矛盾するようだが、厳密に言えば、心身の『体質』と言うものは個々体によってそのばらつきが大きいのだ。

(例えば、「持って生まれた身体の柔軟性」などを考えても、その資質は文字通りピンからキリまでのギャップが著しい。心の特性に関してもそれは同様だろう)

さらに加えるならば、たとえその感受性や資質に恵まれた者ではあっても、「精進」もしくは「決意」を欠いた人間には、周辺をうろうろする事は出来ても、ニッバーナという核心部分に到達する事は極めて困難だろう、と言う、これもまた冷厳な事実だ。

テーラワーダ仏教という名の “黒船” がニッポンの大乗仏教界に襲来して以降今日に至るまで、ブッダ本来の瞑想法』の名において様々な教説が乱れ飛んでいる昨今ではあるが、基本的に私は、ニッバーナ、あるいは “悟り” というものを “安請け合い” する指導者(解説者)を信用はしない。

そういう安直な指導者に限って世俗的な人気は高かったりもするのだが、それはいわゆる政治家と市民・有権者との関係性と同じで、推して知るべき、ではないだろうか。

私の好きな譬え話に、次のようなものがある。

小悪魔にとって大悪魔偉大なる『神』に他ならない」

(注:ここでは悪魔=マーラと読もう)

これはかのオウム(アレフ)にこそ当てはまるもので、上の文脈で引き合いに出すには少々辛辣が過ぎるかも知れない。しかしそれが例え『悟り』というタームであれ、欲望(渇望)を扇動する者それに吸い寄せられる者はいたる所に見受けられる。

最終的に沙門シッダールタは、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの二師に満足せずそこから離れたのだが、彼ら二人に満足し、最高の師と仰ぐ人々は実に大勢いた(その様な世評が高かったからこそシッダールタは彼らの門をたたいた)

結局人は、自身のに応じた「師」に満足し、それを仰ぎ見る、という事なのだろう。

「越すに越されぬ大井川」 じゃ~ないけれど、此岸と彼岸の間には超すに超されぬ “輪廻の大海”激流が渦を巻いている。その事はブッダ自身の言葉として、繰り返し繰り返し、経典の中に記されているという明確な事実を、真摯探求者は決して忘れるべきではない。

仏道瞑想修行において、在家生活を送る「歯磨きメディテーター」如きが簡単に覚りに至れるような道理は、一般的にはあり得ない。いわんや、五官六官の快楽が極限まで発達しそれを享楽し尽くしている現代都市文明人においてをや、だろう。

(中には、その様な障壁を軽々と超えて在家のままニッバーナに接近遭遇してしまう「天性の瞑想体質者」の如き人もいるかも知れないが、それはあくまでレアな例外に過ぎず、彼らを基準に語るべきではない)

 

何やら抽象的な事柄に終始してしまった。魚川さんの突然の登場や父の死などに直面してしばらくの間足踏み状態にあった本ブログだが、今回の投稿をもって、再出発に向けたある種の “仕切り直し” とさせて頂く。

 

 

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(本投稿はYahooブログ 2015/6/9「『仏教思想のゼロポイント』を読んで」、2015/7/26「『仏道修行』のゼロポイント」を統合の上加筆修正して移転したものです)

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2020年現在のあとがき

上に書かれている様に、「仏教思想のゼロポイント」という著作を読んだ時の「これだ感」「これじゃない感」のギャップが生み出す様々なフラストレーションが大きな動因となり、文末にあった「仕切り直し」が徐々に熟していった結果、ほぼ1年後の2016年8月にその『批判的なオマージュ』として本ブログ仏道修行のゼロポイント」が開設された訳で、個人的にはそれなりに記念すべき回だったと思っている。

そうして開設したこのブログも、以前にも触れた諸事情により途中でめんどくさくなってしまって開店休業状態に放置されていた。Yahooブログに一通りの情報はアップしてあったので、最低限の義理?は果たしているな、と。

それが、たまたまYahooブログ閉鎖によって移転再開を余儀なくされた訳で、その成り行きに関しては、何とも複雑なものがあるのだが…

しかし例えどのような経緯であれ、せっかく再開してこうやって順調に回を重ねているので、今後とも常に「仏教思想」仏道修行」の本質的な違いを視野の片隅で意識しつつ、キリの良い所まではこの探求を進めていきたいと思っている。

 

 

 


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