仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

神の手によるヴィーナ、としての『身体』

前回私は、A symbolic approach of Veena からの引用で以下のように書いた。

The Vedic representation of the human spinal cord as the musical instrument (Veena) .

意訳:ヴェーダ的な脊椎骨の連なりのひとつの表現形がヴィーナという楽器なのだ。

なんともこなれていない翻訳で我ながら失笑してしまうのだが、この “The Vedic representation of the human spinal cord as ” という赤字の部分の「ヴェーディック・リプレゼンテーション」という点が気になってしょうがない。

私はインド人という人種をよ~く知っている。世俗的にはかなりいいかげんで嘘もつくし法螺も吹く。ある意味一般的な日本人の常識を覆すレベルといってもいいだろう。

けれども、宗教的な文脈において、それが特に正統派の純粋な思想表明において語られる事は、一見荒唐無稽な嘘八百のように見えても、なにがしかの真っ当な典拠に基づいている場合が多いのだ。

そこで、結局パソコンに張り付いて検索する誘惑を断ち切れずに、この

The Vedic representation of the human spinal cord as the musical instrument (Veena) .

という一文の背景・典拠をいろいろとまさぐってみた。

その結果、興味深い事実が続々と明らかになってきた。

まず最初は、Ashtanga Vinyasa Krama Yogaさん(このサイトはその後『感染』してしまったようなのでリンクは貼れない)からの引用だ。

Veena has been compared to human body:

The human back-bone (Spinal Chord) stands straight from the Mooladhara (the seat of the body) up to the head. In the top of the head exists the Brahma Randhra.

Just like the 24 frets of the Veena, human back bone has 24 divisions. According to the anatomy, the back bone has 7 cervicles, 12 thorasic and 5 lumbar vertibraes.

In Veena the distance between each fret is broad in the lower octaves and becomes less while proceeding towards the higher octaves. Similarly the back bone is thick at the Mooladhara and the distance between each ring becomes less while proceeding towards the Brahma randhra.

筆者の意訳:楽器ヴィーナは人間の身体に喩えられてきた。

人間の背骨(脊椎骨)はムーラダーラ(人間の身体の基底部)からブラフマ・ランドラのある頭頂部に向かってまっすぐに立ちあがっている。

ヴィーナの24個のフレッツのように、人間の身体の背骨は24部分に分かれている。解剖学によれば、頸部の7、胸部の12、腰部の5という椎骨の連なりである。

ヴィーナにおいてはフレッツとフレッツの間は低音部ほど幅広く、高音分ほど幅が狭くなっている。ちょうど人間の脊椎骨の厚みが、ムーラダーラ
に近いほど幅広く、頭頂部に近いほど幅狭いのと同じ様に。

そして、その下には、以下の様な手書きのたいへん詳細かつ興味深い図解が乗せられていた。

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正にインド音楽の正統における思想表明

上の図版中、背骨がデヴァナガリで「Meru Dand(メール山なる棒、柱)」と明記されている点に、私的には嬉しくなってしまった。

さらに文章は続く。

"Its big bowl (kudam) is like the human head.

The finger- board that is connected to the curved end with the dragon or yaali is compared to the human spinal column.

The 24 frets are compared to the vertebrae and also the 24 syllables of Gayatri mantra.

筆者の抄訳: ビッグ・ボウル(クダム)は人間の頭に相当する。
カーブしたドラゴン(ヤーリ)部につながるフィンガー・ボード(棹)部は人間の背骨に喩えられる。
24フレッツは人間の椎骨の連なりに喩えられると同時に、24音節のガヤトリ・マントラに喩えられる。

このあたりまでは前回の引用とほぼ重なるものだろう。そして以下の図版が最後に載せられていた。

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正に人間の身体はヴィーナ

ここで思い出してほしいのが、人間の頭部と丸いクダムという共鳴胴が重ねあわされている、「意味」だ。

前回指摘した様に、ギターと同じように弦をつま弾く場所、つまり「音が発せられている場所」は共鳴胴であるクダムの上においてなので、それが、言葉が発せられる口を中心とした頭部顔面(正にMukha ! )と重ねあわされている、という圧倒的な事実だ

人間の音声はヴィーナの音色であり、ヴィーナの音色は人間の音声である、という相関的な重ね合わせが、上の図版によって明確に確認できる。

続いて、それを証明するかのような証言を得たので紹介する。

以下は4to40.comさんのIndian Musical Instruments: Stringed Instrumentsよりの引用だ(これも残念ながらリンク切れ)

There is a beautiful analogy, in the rig veda, between the God-made veena, the human body, and the man-made one. "Just as the Godly veena has a head, a stomach, a tongue, fibres, tone, touch, and skin the man made wooden veena also has such organs.

The head of the veena is the gourd, the hollow of the ambhana is the stomach, the act of playing is the tongue, the strings are its tendons, the music its speech, and as the human body is covered with skin so is the veena."

筆者の抄訳: リグ・ヴェーダには神の手によって造られたヴィーナである人間の身体と、人間の手によって作られたそれ(ヴィーナ)というひとつの美しいアナロジーがある。
ちょうど『神の手によるヴィーナ』である人間の身体が頭と腹と舌とファイバー(腱?)と音色(音声)とタッチ(触覚?)と皮膚をもっているように、人の手になるヴィーナもまた、そのような器官を持っている。

ヴィーナの頭はヒョウタン(で作られたクダム)であり、アンバラ(棹部のボウル)の中空はお腹であり、演奏するという行為は舌であり、弦は腱であり、音楽(妙なる音色)はスピーチであり、人間の身体が皮膚で覆われているように、正にそのようにしてあるのが、ヴィーナという楽器なのだ。”

いやはや、インド思想の奥深さというものは驚くべきものがある。私は前回、

私の見たところでは、このようなヴィーナ(弦楽器)と人間の身体との“重ね合わせ”の認識パターンは、すでにブッダの時代には存在していたと考えられる。

大事なのは、仮にブッダの時代にもこのような心象が存在したと仮定したときに、どのような読み筋が可能になるのか、という視点なのだ。

と書いたが、これはもはや、ヴィーナと身体との重ね合わせは、すでにゴータマ・ブッダの時代以前(リグ・ヴェーダの時代!)から明らかに存在していた事は、客観的な事実と言い切っていいだろう。

大した長さではないけれど、上の一文には次の読み筋に進むべきいくつもの入口がある。

まず最初に考えたいのが、何故、人間の身体というものが、神の手によって造られたヴィーナなのか?という根本的な疑問だ。

そこには当然、特殊インド的な心象風景というものが横たわっている。

引用した英文には“God-made veena, the human body“とあるが、たいして難しい英語ではないので、一読、誰にでも理解可能だろう。

『神が造りたもうたヴィーナ(としての)・人間の身体』。この一文、ざっとネットを検索してリグ・ヴェーダの原典をあたってみたのだが発見はできなかった(何しろ膨大なボリュームなので全てを虱潰しに精査するのは現実的にお手上げ)。

リグ・ヴェーダに本当にこのような記述が存在しているのかどうか、現時点で私自身は断言はできないが、仮にリグ・ヴェーダではなくとも、4ヴェーダの内のどれか、あるいはプラーナ文献のどこかには、確実にこのような記述が存在しているはずだと推測している。

もちろん、私の読みではそれらはブッダ以前の古典であると。

(その後この読みは当たっていた事が判明する!)

それを前提に以下の考察を進めていきたい。

今私はリグ・ヴェーダや4ヴェーダと書いたが、そもそもインド世界においてヴェーダというものはいったいどのような意味とはたらきを持っていただろうか。

それは何よりも、詠唱される、すなわち歌われる(詠われる)神々への賛歌であった。

その原像とは、ラタ戦車を駆って戦場を駆け回るアーリア・ヴェーダの男たちすなわち『戦士』たちが、その戦勝を神に祈り、そして結果としての勝利を神に感謝する、そのような祭りの宴において、戦士自身によって歌われたものではなかったか、と考えられる。

やがて彼らはカイバル峠を越えてインド亜大陸に侵入し、ドラヴィダ系などの先住民と戦い、彼らを征服した。このプロセスは西洋近代における新大陸アメリカの発見と侵略・植民のプロセスを考えると分かりやすい。

リグ・ヴェーダのうちの4分の1ほどはインドラ神に捧げられたものだが、このインドラ神こそが正に神的な戦士であり 『マハ・ヴィーラ=偉大なる勇者』として賛歌を捧げられている訳だ。

やがてインド亜大陸に確固とした地盤を確立したヴェーダの民たちは、自ずからその社会構造を成熟発展させ、神々への賛歌を歌い上げる専業の祭官というものが最上位階級として顕在化していく。

これがいわゆるバラモン司祭でありバラモン階級であり、やがてこの詠唱司祭バラモンの権威・神威を絶対視する祭祀万能のバラモン教へと発展していく。

ゴータマ・ブッダの時代とは、正にこのバラモン教が爛熟した果てに衰退の兆しを見せ始めていた、そのような世相の中でバラモン絶対教に対するオルタナティブとしてのウパニシャッドやビク・サマナ・ムーブメントが勢力を拡大していた時代だった。

話を戻すと、ヴェーダとは第一には詠唱されるものであり歌われるものである。誰によって?神聖なるバラモン司祭という『人間の身体』によって。

何故、神聖なのか?それは彼らバラモン司祭の詠唱の妙なる言葉の響きによって、神々を悦ばせ、あるいは命じ動かす事が出来るから、だからこそバラモンには神威が宿る。

おそらくバラモンの権威を絶対視するバラモン教が顕在化する以前には、彼ら詠唱者は神々と人々をつなぐ 『プロバイダー』 であり、それは本質的には神々の『しもべ』あるいは『道具』という立場にあった。

太古においては神々の威力は人間をはるかに凌駕するほど巨大であり強力であり、人間とはそのような神々によって創造され、ひれ伏す者に過ぎなかった。

バラモン教以前のヴェーダの宗教においては、神々への賛歌の詠唱者とは、正に神々が自らを悦ばすための楽器(ヴィーナ)として創造したものだったのだろう。

先ほど私は、『バラモン司祭の詠唱の妙なる言葉の響きによって、神々を悦ばせ』と書いたが、正に彼らの歌とは神々を悦ばせ人々の祈りや願いを叶えさせるための声楽であり音楽であり、彼らの身体とは神(につながり捧げる)器としての楽器だった事になる。

ヴェーダ文献の中ではヴェーダ・サンヒターと言って、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダの四つが、古代のリシ(聖人)達によって神から受け取られたヴェーダの中のヴェーダ、いわゆる天啓聖典(シュルティ)として絶対視されている。

ブッダの時代には、まだアタルヴァ・ヴェーダにその地位はなかったようだ)

インドの聖典はシュルティ(天啓)とスムリティ(聖伝)に分かれる。ヴェーダはシュルティに属する。

シュルティ(天啓)

古代のリシ(聖人)達によって神から受け取られたと言われ、シュルティ(天啓聖典と呼ばれる。

ヴェーダは口伝でのみ伝承されて来た。文字が使用されるようになっても文字にすることを避けられ、師から弟子へと伝えられた。後になって文字に記されたが、実際には、文字に記されたのはごく一部とされる。

ヴェーダ - Wikipedia 参照

ヴェーダの賛歌自体が神々から下賜されたものであり、それを歌う人間もまた、神によって造られた楽器であった訳だ。

それは祭祀の時だけではない。師子相伝の口伝の系譜を絶やさぬために、バラモンの子弟たちは日々のルーティーンとして常に歌い続けていた。その様なヴェーダ詠唱の学校が、今でも南インドには残っていると言う。

バイブルには「神は自らに似せて人を創った」という一節があるが、ヴェーダ的な神は、正に「自らを讃えさせるために人(という賛歌の声楽器=ヴィーナ)を造った」のだ。

では何故、その楽器がヴィーナでなければならなかったのか?

それは、人間によるヴェーダの詠唱と楽器ヴィーナの間に、分かち難い結びつきがあったからだろう。

先にヴェーダ・サンヒターのひとつとして取り上げたサーマ・ヴェーダ。実はこのヴェーダは、リグ・ヴェーダなどの文言を単なる吟詠にとどまらずより音楽的に歌い上げる事に注力したものであり、あらゆるインド音楽の起源とも言われている。

サーマ・ヴェーダは祭式において旋律にのせて歌われる讃歌(sāman)を収録したもので、 歌詠を司るウドガートリ祭官(udgātr)によって護持されてきた。

讃歌の多くは『リグ・ヴェーダ』に、一部は他のヴェーダ文献に材を取っており、オリジナルのものは少ない。 が、インド古典音楽の源流として貴重な資料であり、声明にも影響を及ぼしている。

Wikipediaサーマ・ヴェーダ より

 

Samaveda samhita is not meant to be read as a text, it is like a musical score sheet that must be heard.
Staal states that the melodies likely existed before the verses in ancient India, and the words of the Rigveda verses were mapped into those pre-existing melodies, because some early words fit and flow, while later words do not quite fit the melody in the same verse.

The text uses creative structures, called Stobha, to help embellish, transform or play with the words so that they better fit into a desired musical harmony.

Some verses add in meaningless sounds of a lullaby, for probably the same reason, remarks Staal. Thus the contents of the Samaveda represent a tradition and a creative synthesis of music, sounds, meaning and spirituality, the text was not entirely a sudden inspiration.

The portion of the first song of Samaveda illustrates the link and mapping of Rigvedic verses into a melodic chant.

Wikipedia:Samavedaより

(簡易意訳: サーマヴェーダは読むための書物ではなく、音楽のように聞かれる〈念奏する〉ためのスコア=楽譜に近いものであり、あらゆるインド音楽の伝統の最古のルーツ。~以下略)

そしてこのヴェーダ聖典においてより声楽的・音楽的なサーマ・ヴェーダの中に、すでに楽器ヴィーナが言及されているという。

ネット上を渉猟すると、最も神聖なインド古典楽器としてヴェーダ諸文献に言及されているのは、このVeenaとVenu(フルート)とmridangam(太鼓)になるようだ。 

KALABHARATI.LLC School of Arts and Music 参照

おそらくこれら古典楽器の中で、ヴィーナこそが最も人間の歌詠の音声に近い玄妙な音色を持っていた。つまり人の音声とヴィーナの音色の『二重奏(デュエット)』が賛歌(サーマン)の形式として好まれた。

その証拠に、より音楽的なヴェーダの歌詠とヴィーナのつながりの例証がアタルヴァ・ヴェーダの記述として、「聖仙(リシ)が歌い、彼の妻がヴィーナで伴奏する」、という形で言及されている。

Veena is associated with the vedic rituals noted in Atharvana Veda that Rishi women played veena as the veda mantras are chanted by the Rishis.

Sama Veda elaborates on music in great detail. The current science of music originated in the Sama Veda.

(同KALABHARATI.LLC School of Arts and Music より)

さらにヴィーナの演奏に熟達することが、スピリチュアルな求道における解脱、すなわちモクシャにも重ねあわされている。

Veena is a meditation tool to achieve self-realization / enlightenment. Yagnyavalkya rushi says one who is adept at veena is sure to reach salvation.

ヴィーナは究極の自己実現である覚りに至る為のメディテーション・ツールである。聖仙ヤージャニャヴァルキヤは言う。「ヴィーナに熟達したものは究極の救済に至る」と。

(同)

そのような神聖な楽器であるヴィーナは、実に多くの神々の手に携えられ、聖仙(リシ)の愛好するものだったのだ。

Veena is the instrument of gods. Lord Shiva played veena, Saraswati is always depicted with veena in her hand, Narada played veena, Lord Hanuman played veena when he sang Ram bhajans, Raghavendra Swamy played veena, Lav and Kush Lord Rama's sons played veena... so many from puranas we can cite that played veena...

シヴァもサラスワティもハヌマーンもみんなヴィーナを演るんだよ(以下略)。
(同)

リグ・ヴェーダとサーマ・ヴェーダは、ブッダの時代には天啓書としての地位をすでに確立しており、アタルヴァ・ヴェーダは現在進行形で確立されつつあった。

上位ヴァルナであるバラモンクシャトリヤ・ヴァイシャの良家の男子がこれら天啓ヴェーダの学生になるという社会システムもまた、ブッダの時代にはすでに確立していた事がパーリ経典などから推定できる。

ここ二回にわたって考察してきた、古代インド人のヴィーナに対する特殊な心象世界のおおよその『原像』は、すでにブッダの時代には確立していただろう事は、あらゆる情報から見て間違いないだろう。

そこで本ブログの話の本筋に戻るのだが、ゴータマ・ブッダが良家(大富豪)の息子ソーナ・コーリヴィサ比丘に箜篌(ヴィーナ)の喩えを説いた時に、このような奥深い心象世界を念頭に置いていたかどうか、という点だ。

読者の皆さんはどう思われるだろうか?

 

ヤージャニャヴァルキヤは言う。

「ヴィーナに熟達したものは究極の救済に至る」と。

 

ならば、神の手によるヴィーナである『身体』に熟達する事によっても、やはり救済=解脱成し遂げられるのではないだろうか

 

南インド、カルナ―ティック音楽のヴィーナ


北インド・ヒンドスタニ音楽のシタール

興味とお時間のある方は是非、上の二つのビデオを見て、聴いてみて欲しい。もちろんこれらはブッダの時代からははるかに進化した形態なのだろうが、これこそ、正にインド人のヴィーナ愛が、千年単位の時をかけて結晶化した精華なのだ。

その原郷に、ブッダとソーナは立っていた。そうは思わないだろうか?

 

 

(本投稿はYahooブログ2016年1月投稿「神の手によるヴィーナ、としての身体」「身体がヴィーナである“理由”」を統合の上加筆修正し移転したものです)

 


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