仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

これはドゥッカの車輪である1

 

仏教だけではなく、あらゆるインド思想の核心に位置するドゥッカ(苦)の認識。そのドゥッカという語感の根幹には、『悪しく不完全に作られた軸穴を持つ車輪の、ガタガタとした乗り心地の悪さ』という原風景が広がっていた、と以前の投稿で書いた。 

今回紹介するのは、チャクラ(車輪)の民であるインド・アーリア人の面目躍如とも言える事実であり、同時に、車輪と言うものが古代インドの思想においていかに決定的な意味を持っていたかを証明するものと言えるだろう。

仏教について興味があり、特に原始仏教あるいはテーラワーダ仏教やそのパーリ経典について少しでも勉強したことのある人なら、常識として知っているだろう重要な言葉がある。

それはスカ(Sukha)とドゥッカ(Dukkha)という単語だ。これはサンスクリット語だと若干綴りや発音が違ってくるが、ここでは煩雑になるので双方共にスカとドゥッカで統一したい。

ドゥッカは苦を意味する。それは生老病死苦の苦であり、四聖諦の苦でもあり、四苦八苦の苦であり、輪廻する生存の苦でもある。それはあらゆる意味で仏教の根底にあるキー・コンセプトであり、ブッダの教えとは、正にいかにしてこのドゥッカから解放されるか、という事に尽きるだろう。

スカはドゥッカの反対語で幸福や安楽を意味する。スッタニパータのメッタ・スッタ(慈経)にある、「一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ」などの幸福、安楽がそれであるし、「ものごとを知って実践しつつ真理を了解した人は安楽を得る」の安楽がそれである。

このスカとドゥッカと言う対義語は、語源的に見るとラタ車の車輪と密接に関わっていた。

モニエル・ウィリアムス(Monier-Williams,1819–1899)のサンスクリット語辞典によれば、スカの本来の語感は「良い軸穴を持つ(車輪)」に起源する。構造的には、Suが良い、完全な、を意味し、Khaが穴、あるいは空いたスペースを意味する。

f:id:Parashraama:20191128133835j:plainモニエル・ウィリアムスのサンスクリット語辞典 Sukha:

Axleは車軸を意味するからSukhaの原義は「良い車軸の穴を持つ(車輪)」になり、その様な良く製作調整された車のスムースな走り心地(乗り心地)を意味する事が分かる。

上の語義にパーリ語辞典などの内容を合わせて解説すると、

「良く完全に作られた軸穴を持った車輪と言う原義が、そのような車輪のスムースかつ円満な回転を含意し、更にそのようなスムースに回転する車輪を付けたラタ馬車の乗り心地の良さ、その安楽さ、心地よさを意味するようになり、更にそれが安楽や幸福、そして満足を意味する一般名詞へと転じていった」

という事の様だ。

ドゥッカの場合はこの反対語で、Duhは悪しく、不完全な、という意味を持つ。

これもまた、悪しく不完全に作られた軸穴を持った車輪、と言う原義から派生して、その様な車輪のガタガタとした不具合、不完全な回転、更にその不完全な車輪を付けたラタ車の不快な、心地の悪い、苦痛に満ちた不満足な乗り心地を意味するようになり、それが転じて、苦や苦痛、そして不満足からくる苦悩を表す一般名詞へと転じていったと考えられる。

それでは、この様な悪しく不完全に作られた軸穴を持ったドゥッカの車輪とは、一体どのような物だろうか。私はスポーク式車輪の特性について以前こう説明した。

スポーク式車輪と言うものは、リムとスポークとハブというパーツをそれぞれ別々に加工して、それらを精緻に組み合わせて作り上げる。そこにおいて最も重要なのは、地面に接地する外縁リム(タイヤ)の真円性と軸穴の中心性だ。それを実現するためには数学的物理学的な知性と、精巧な加工組み立てを可能にする高度な技術が求められるだろう。

もうひとつ重要なのが、軸穴と車軸が組み合わされる、その適合状態だ。まず両者の形がどちらも真円に近く、しっくりと合わなければいけない。しかしぴったりと隙間なくフィットしすぎたら摩擦抵抗が増大するし、逆に隙間がありすぎたら振動の原因になる(この隙間にはグリースが塗られる)。

これらのバランスが最高レベルで達成される絶妙な調整具合というものが、車輪職人の特殊技術として追及され重んじられた事だろう。 

そのような優れた職人によって、良く完全に組み立てられた車輪の乗り心地の良さがスカであり、劣った職人によって作られた、あるいは経年劣化や事故によって悪しく不完全になった車輪の、その乗り心地の悪さがドゥッカの原風景だったのだ。

ではそのような悪しく不完全な軸穴を持ったドゥッカの車輪が市場に出回ってしまったとしたら、それは一体どのような人間によって作られた物だろうか。

それは、数学的物理学的(経験的)な知識を持たない低劣な職人(とも呼べない者)によって作られたのだろう。そのような無知(無明)な素人もどきによって悪しく作られた車輪には、なんびとも乗る事を欲しないに違いない。

さて、賢明なる読者の皆さんはもうお気づきの事かも知れない。ここに仏教の根本的な世界認識が表れている事を。それはすなわち、

明晰な知識(と技術)を持たない愚人によって悪しく不完全に作られた車輪はドゥッカである=無知によってドゥッカ(苦悩)がもたらされる】、という根本原理だ。

それは同時に、明晰な知識(と技術)を持った職人によって良く完全に作られた車輪はスカである=明知によってスカ(安楽)がもたらされる】、事を意味するだろう。 

無知(アヴィディヤ)に縁って苦(ドゥッカ)が生まれる。

明知(ヴィディヤ)に縁って安楽(スカ)が得られる。 

これらの因果関係は、実に縁起の法則そのものであり、ブッダの教えの根底にある世界観に他ならない。その原風景に車輪という実存が横たわっていた事実は、私たちの仏教理解に深甚な影響をもたらすに違いないだろう。 

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古代のものと基本的な造作はほとんど変わらないインドの木製車輪

上は現代インドで現役で活躍する木製車輪だが、分かり易く言うと、このリムの外縁がコンパスで円を描いた時の真円に等しく、その車軸がコンパスの針の位置(真円の中心)に等しいものがスカの車輪であり、その様なバランスが崩れたものがドゥッカの車輪という事になる。

以上の認識については、基本的な論点は全てインド学の泰斗であるモニエル・ウイリアムスが指摘している事であって、私自身はそれをより具体的に詳述しているに過ぎない。

スカとドゥッカの原風景に車輪と車軸と言う事物が確かに存在していただろう事は、まず間違いない歴史的な事実であった、と私は受け止めている。

長々と書いてきたが、ここまでは前振り1だ。

続いて、以前にも書いてきたが、インドにはヴェーダの昔から「マクロの世界はミクロの身体でありミクロの身体はマクロの世界である」という世界観がある。

この場合『身体』と言うのは人の身体に他ならない。

これは所謂『黄金の胎児』が世界の起源として語られている事によく表れているだろう。

そして、以前に考察して来た様に、このマクロの大宇宙世界は、古代インドにおいては輪軸のアナロジーによって把握されていた。

上の投稿から、まず中村元選集の一節を再掲しよう。

『宇宙の形に関しても明確な描写は存しない。ただ一回、これを重ね合わせた二個の鉢に譬え、また車軸によって車輪を支えるようにインドラは天地を引き離した(RV.Ⅹ,89,4)ともいわれている点から見ると、地表を円形と考えていたらしい。天地は併称されることが多く、「二個の半分」と考えられているが、そのあいだの距離についてはなにも記されていない。(同P451)』

中村元選集:「ヴェーダの思想」P451より引用

これを初めて知った時、私は文字通り戦慄を禁じえなかった。続けて私はこう書いている。

インドラというのは、当時インド・アーリア人にとっては最高神格に近い存在で、リグ・ヴェーダの讃歌の内およそ四分の一が彼に捧げられたものだった。

そのインドラが「あたかも車軸の様に、天地を二つの車輪の様に引き離し支えた」、というのは一体どういう事だろうか。

一般にインド・アーリア人の祖先は中央アジアから南ロシアにかけての大平原地帯に発祥し、その文化思想を育んだと言う。大平原であるからこそラタ車の車輪が移動や戦争において著しい優位性を持っていた訳だ(逆に言うと急峻な山岳地帯では車は発達しない)。

このような大平原地帯では、この世界は第一感どのように把握されうるだろうか。目地の届く限り遮るもののない大平原の真ん中に立って世界を360度俯瞰したならば、それは湾曲する地平線を外縁とする円輪として把握されたのではないだろうか。

そしてその円盤状の大地の上に広がる天(この場合は太陽や月、星が運行する場であり、同時に神々が住む)もまた、同じように円盤状(もしくはドーム状)に把握されたのだろう。

やがてこの上下二つの円盤状の天と地は、彼らにとって最も身近な回転する車輪という存在と重ね合された。

North Celestial Pole Star Rotation より。天の星辰は北極星を中心に車輪の様に回転する

もちろんこの様な『輪軸世界観』はブッダが登場する遥か以前から存在した『伝統』だった。そしてそれらから派生して須弥山(メール山)の世界観やシヴァ・リンガムの造形が生まれた事も既に指摘した通りだ。

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ジャイナ教のメール山モデル。正に直立させた輪軸世界だ

話を戻すと、この様な大なる宇宙世界(マクロ・コスモス)を輪軸と重ね合わせる心象と、世界を人間の身体(ミクロ・コスモス)と重ね合わせる思想が重合した結果、人間の身体と言う小宇宙の中にも輪軸の構造を想定する思想が当然の如く誕生した。

ひとつの讃歌(AV,Ⅹ,7)によると、スカンバはブラフマンと同一視されているようである。すなわち、天、空界、太陽、月、火、風、方角、大地は最高ブラフマンの身体なのである。

中村元選集:「ヴェーダの思想」P476から引用

元々大宇宙世界が『ブラフマンの身体』としていたものが、人間の身体へと矮小化された、と見る事も出来るし、そもそもブラフマンの身体という観念自体が人間の身体から派生したとも言える。

Chapter VI

1 Some learned men speak of the inherent nature of things and some speak of time, as the cause of the universe. They all, indeed, are deluded. It is the greatness of the self−luminous Lord that causes the Wheel of Brahman to revolve.

学びを深めたある者たちは、事象に固有の性質や時間が世界の原因だと言うかも知れない。しかしそれらはもちろん幻想に過ぎない。自ずから光輝なる偉大な主(至高者=ブラフマン)こそが、正にブラフマンの車輪(大宇宙・世界)が回転する原因に他ならない。

Svetasvatara Upanishad by Swami Nikhilananda より抜粋引用(日本語訳筆者)

このシュヴェタシュヴァタラ・ウパニシャッドブッダの時代直後くらいに成立したらしいが、ここではかつてブラフマンの身体と称された宇宙世界が、明らかに回転する車輪に譬えられている。

世界を身体と観る思想と世界を輪軸構造と観る思想がここに融合し、小世界たる人間の身体の内部にも輪軸構造が存在する、という発想が生まれた訳だ。

そして、それは実際に存在した!

詳細は上の投稿を読んで欲しいが、ヨーガの身体観においては、手足を捨象した人体の骨格構造の内、最上部の頭蓋が天界の車輪に重ね合わされ、それを支える脊柱が万有世界の中心車軸(スカンバあるいはメール山)に重ね合わされ、最下部の骨盤が大地の車輪に重ね合わされている。

In Sanskrit, the spine is meru danda; the mountain called Meru was the legendary axis of the earth.

サンスクリット語では脊柱をメール・ダンダという。メールと呼ばれる山は伝説的な地球の中心軸である。

The Axis Of Asana: Exploring the Spine • Yoga Basicsより

頭蓋骨が天の車輪に見立てられたからこそ頭頂部のサハスラーラ・チャクラにはシヴァ神が住まうのだし、骨盤が大地の車輪に見立てられたからこそ、会陰部のチャクラはムーラダーラ・チャクラ、つまり根のチャクラと言われる(根は大地に伸びる)。

そして両者をつなぐスシュムナー管は背骨と重なるもので、地上のムーラから天上のサハスラーラへとつなぐ柱となっている。

実はこのクンダリーニ思想の背後には『祭祀』があり、火の祭祀において生じる煙(炎を含む)が、天に向かってあたかも柱であるかのように立ち昇り、大地の人間と天の神々を繋ぐ事によって人の願いが神々に届くという原心象がある。

つまりクンダリーニ瞑想とは人間の身体の内側で行われる『内製化された祭祀』なのだ。

(この点に関しては後日詳述したい)

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Dreamstime.com Human Skeleton Spineより。

上下二枚の画像を比べ見ると明らかなのだが、背骨は車軸なる軸柱であり、頭蓋と骨盤の天地両輪を分かち支える(身体万有の支柱)と考えて全く違和感はない。

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プーリー・ジャガンナート、ラタ・ヤットラの輪軸を直立させたもの

そもそもヨーガ・チャクラ思想全体が、人間の体内にはチャクラすなわち『車輪』が内在すると言う先行思想の産物だと考えたならば、全ては疑問の余地がない。

ここまでが前振り2になる。ここからいよいよ今回の本題に少しずつと入って行きたい。

頭蓋骨と骨盤が、身体の内部における上下二つの車輪に擬せられた、と言われて読者の方はどう思っただろうか。

イヤイヤ待ってくれよ、頭蓋骨と骨盤を『車輪』に譬えるなど荒唐無稽も甚だしい。両者は全く似ても似つかないだろう、と反論したい向きも多いかと思うので、次の画像を是非見ていただきたい。

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Easy Note Cardより

これは頭蓋骨をおよそ額の辺りで「輪切り」にした物だが、そこに極めてアバウトながら六本スポークの車輪の姿が見えないだろうか。

実はこの構造は脳軟部組織の構造に対応したもので、それは下の画像を見ると良く分かる。f:id:Parashraama:20191128164756j:plain

Twitter より

これらの画像は全て顔面が上、後頭部が下になっており、まず中心の溝によって脳が左右二つの半球に分けられ、それぞれが前頭葉、側頭葉、小脳(背後に後頭葉)の三つに分けられる事によってほぼ六等分に近い形になっている。

イメージとしては6Pチーズのデザインを思い浮かべたらよいだろう。ほぼ六等分に区切られた脳軟部組織にフィットする様に、まるで区切りのあるステンレスのインドカレー皿みたいに、頭蓋底に六つの仕切りが出来ているのだ。

二枚の画像を重ねると、頭蓋底中央付近に空いている大きな穴は、太いロープ状の脳幹が脊髄となって首へと続くために出る穴だと分かる。

この頭蓋底の『車輪性』をより鮮明にするために少々加工して見た。

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頭蓋底を6本スポークの車輪に重ね合わせる

上の画像は頭蓋底を6本スポークの車輪(チャクラ)イメージとアバウトに重ね合わされたものだが、どうだろうか。これは車輪と呼ぶにふさわしい姿ではないだろうか。

そしてこれを車輪と重ね合わせて見た時に、極めて重要な意味を持つ事実がある。本来車輪の中央にあるべき車軸穴の位置が明らかにかなりズレているのだ。

上の画像は分かり易くする為に敢えて真円に近い頭蓋を選んだもので、一般的な頭蓋骨は大抵は前後(画像では上下)に長いので、中心車軸の軸穴だけではなく車輪の外縁輪郭も大きく歪んでいる事になる。 

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楕円に近い一般的な頭蓋底

ここからいよいよ本題のその核心部分に入る。

この頭蓋底を車輪と重ね合わせた上で、軸穴が中心から著しくズレたこの絵柄を古代インド人、なかんずくシッダールタがまざまざと視認したならば、一体彼は何を感じた事だろうか?

彼はこれを見て車輪だと直観する。全体が楕円形である事は、まだ良しとしよう。しかし6本スポークが一点に集まる中心から著しくずれてしまっている軸穴は、明らかに悪しく不完全に作られた軸穴ではないのか。

そして、ある種絶望的とも言える嘆息と共に、こう思っただろう。

それはすなわち、

「これはドゥッカの車輪である」

という事なのだ。

これは一人シッダールタだけの話ではない。悪しく不完全に作られた軸穴を持った車輪=ドゥッカ、という認識は、アーリア的ラタ車(車輪)文化の伝統をひく北インド世界に普遍的な心象風景であり、この世界観を共有する全ての古代インド人が、この頭蓋底の図柄を見、それを車輪と重ね合わせたならば同じ事を思っただろう。

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戯れに作ったドゥッカの車輪

上のgif画像は戯れに作ったものだが、どうだろう。その乗り心地はどれほど酷いものだろうか。こんなデコボコする車輪を履いた車にあなたは乗りたいだろうか。

自分が日常乗車する車の車輪がもしこんな造作だったならば、長途のドライブはどれだけ過酷な苦に満ちたものになるだろうか?

【ここにこそ、古代インドにおける「苦なる生存」とそこからの『解脱』いう巨大なバイアスの、ひとつの大きな原因があるのではないか】

という仮説は、これまでのデータを誰よりも詳細に辿って来た私の眼には、すこぶる魅力的に思われる。

アナロジーによる重ね合わせあるいは同置(ウパーサナ)の認識手法とは、古代インド人にとってはある意味現代人にとっての『科学』そのものだった。だとすればこの頭の中の車輪様デザインは、彼らの心にとっては単に似ているというだけではすまない、切実にリアルな車輪そのものとして、決定的な意味を持っていたとは考えられないだろうか。

そこには、【私たち人間存在は、そもそもの始まりからして、構造的かつ不可避的にドゥッカの車輪として造り上げられている】という無残なまでの認識があったのではないか。

既に最初からそう作られている以上、その苦から解放されるためには、その車輪という悪しき構造から脱出する以外に道はない(あるいはプラクティカルには、苦の車輪を外してスカの車輪に取り換える、しかない)。

この頭蓋内(ミクロ・コスモス)の悪しきドゥッカの車輪は、苦に満ちた輪廻世界(マクロ・コスモス)に重ね合わされた。

 

だがしかし、この仮説の展開にはひとつ重大な問題がある。

(「この様な頭蓋底のヴィジュアルに基づいた『世界苦』仮説は、果たして諸々の古文献において実証可能なのか?」あるいは「現代インドの何処かにその様な伝承が具体的に伝わっているのか?」という点に関しては取りあえず置いておいてここでは手を付けない、というか現状私にその様な検証をし切る能力はない。

しかし『重ね合わせ』あるいは『同置=ウパーサナ』の連想法に長けた古代インド人なら、そのぐらいの事は考えても全く不思議はない、と言うのが私の直観的な判断だ。そして文献であれ口伝であれ、かつて実際にあったすべての事柄が完全に保存され伝承されている訳ではない。

本音としては、何よりもこの『設定』はとてつもなく面白い!

ここで明らかになった人間の頭蓋底の構造デザインは、医学解剖学が大いに発展した現代においてもごく少数の医療従事者あるいはその専門教育を受けた者しか知らない事実だろう。

実際、私はこのような探求を始める前にはそれを全く知らなかった。

ならば現代よりも遥かに人体に関する科学的認識が乏しかっただろう古代インド人たちが、この頭骨内部に閉ざされた頭蓋底のリアルを果たして認識しえていたかどうか、と言う点が最大のカギになる。

長々と書き綴ってきた本投稿を最後まで読んでいただけた奇特な読者の方々は、一体どう思われるだろうか?

もちろん私の答えはエスだ。そしてその答えには十分な実証的根拠がある。

 

(本投稿はYahooブログ「脳と心とブッダの覚り」での探求を元に大幅に改稿したものです) 

 


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