仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ヴィシヴァカルマン賛歌にみる世界の測量と建造、そして出生

前回に引き続き、今回も中村元先生の選集「ヴェーダの思想」より引用しつつ、古代インド人がイメージしていた『世界の創造』について、色々と考えていきたい。

アーリヤ人は、知識程度が高まると共に、宇宙はどのようにして創造されたか、という問題に思いを馳せるにいたった。

宇宙創造に関する当時の見解は、きわめて大まかに分けるならば、だいたい二種に区分することができる。ひとつは宇宙創造を出生になぞらえるもの、他は建造に比較するものである。

前者の例としては神々のあいだに親子関係を認め、能生所生の関係を構成していると考え、また天地自然が種々なる神々から生み出された事を説いている。創造は自分の〈生む〉はたらきとしてしばしば言及されていて、根源としての質量からの生産と発展とに言及している。

後者の例としては、神々が天・空・地を測量してその広さを増し、天地を支柱によって強固安定させたという事が、しばしば称賛されている。

後者は宇宙創造の動力因を質量から切り離しているのに対し、前者はその二つを同一の原理に帰している。

※以上、同選集p397~398より抜粋

その後中村先生は、このような世界の創造思想は初期にはヴェーダの中に散見されているだけだったが、次第に神々をも超越した根底的な世界原理を探求するに至ったと説明している。

リグ・ヴェーダ第10巻に収められているような『哲学的賛歌』において、様々な形でその思索のプロセスが表明され、そこでは、ブリハスパティ、ヴィシュヴァカルマン、ヒラニヤガルバ、プラジャーパティ、原人プルシャなどが世界創造者として説かれている。

ひとつには世界の創造展開を人間(生物)の生殖に重ね合わせ、世界は胎なる虚空に胎児として育まれ、やがて誕生する、と説かれている。

そしてもう一つ、世界の創造展開を、神々が天・空・地を測量してその広さを増し、天地を支柱によって強固安定させた、という建造プロセスとして把握されている。

後者に関しては、これまで私が繰り返し説明してきた『車軸なるインドラが天地両輪を分け離し支えた』という神話と重ねて考えると、リアルな心象風景が理解できるだろう。

中村先生がどのように考えていたのかは分からないが、この『建造神話』とは、私たちが考える家など建物の建造プロセスではなく、ラタ車の特に輪軸の製造組み立てプロセス世界の創造を重ねたと考えると、全ての筋が通るのだ。

私はリグ・ヴェーダを通読してみていくつか気になる言葉があったのだが、この『測量』というのもそのひとつだった。

私たちが一般に『測量』という言葉を聞いた時に何を想像するかというと、それは第一には土地の測量かと思う。けれど、リグ・ヴェーダを奉じたインド・アーリア人は基本的に遊牧の民であり、私たち農耕民と違って、その生活実感の中で土地の測量というものにそれほどの意味を見出していたとは思えない。

その上で、彼らが天地両界を二つの車輪と考え、それを分かち支える車軸なる神の存在を夢想していた事に気付くと、ひとつの想定が生まれる。

農地に縛られていない彼らも、日常の中できわめて重要な仕事としてあるものの距離を測る、という機会を持っていた。それはすなわち、車輪の製造において、材木の上に設計図を引く、という作業だ。

この点に関しては、そもそもどのような方法手順によって、彼らがスポーク式車輪を製造していたのか、という事を理解する必要があるのだが、情報はきわめて乏しい。

なので、一般論として測量というものの基本を考えると、それはひとつの地点からもうひとつの地点までのロープなどを張って距離を測る、という事になるだろう。当然、距離を測るためには基準となる『単位』が必要だ。

そして車輪の基本形である、『円』とは、正にこの二点間測量の一方を固定し、それを中心としてもう一方をぐるりと回していくことによって描かれる訳だ。つまり円を描くとは、ぐるり360度の『測量』に他ならない。

一方、以前本ブログでも指摘した事だが、アルカイムなどに見られるように、インド・アーリア人の母集団は車輪状の環濠都市を築いていた可能性が高い。その場合、街区の設計において、まずやらなければならない事も、やはりこの円形測量になる。

上リンクのサムネイル画像はアルカイムの環状都市だが、その建造においては円形測量がなされただろう。

そして、人口規模が大きくなり、あるいは都市が豊かになるに従ってその円輪の都市は外へと押し広げられていった。

そのような日常経験を天界にそして世界全体に重ね合わせて、詩人たちは神々の世界創造を讃える賛歌を詠った。

神々が天・空・地を測量してその広さを増し、天地を支柱によって強固安定させた。

これは天と空と地の三界が全て車輪として把握されていたと考えると、非常に理解しやすい。もちろん、天地を強固安定させた支柱とは、世界の車軸たる至高神に他ならない。

このように見ていくと、リグ・ヴェーダの賛歌において、世界の創造が建造になぞらえられた時に、その建造とは車輪の建造、あるいは車輪を模した環濠都市の建造であり、天地両界の測量とは、その建造に欠かせない円形測量であった、という事がリアルにイメージできるだろう。

もう一つの測量の可能性、それは車軸の長さだ。

当時のラタ車にはその用途に応じていくつかの規格があった事が予想できる。戦場で華々しく戦うラタ戦車、これは御者と弓矢の射手の二人が乗る軽機動戦車だ。そして重量物の運搬を専門にする牛車、などがその代表だろう。

それぞれの用途と必要に応じて、荷台の幅は違う、つまり車軸の長さが違った事が想像できる。そしておそらく、それぞれの車軸と車輪の規格は、ある程度統一され、部品のストックや互換性の便宜が図られていた事だろう。

中でも重要だったのが、彼らにとって神器だったラタ戦車の車軸だ。

ここでリアルに想像してみよう。ラタ戦車の優位性は第一にそのスピードにあった。つまりできるだけ軽量迅速である事が望ましい。そして馬の御者と射手の二人が乗車するために最低限必要な車幅が考えられた。

私の本業は林業の現場仕事を長くやっていたのだが、田舎暮らしの友・軽トラの荷台の幅は130cm程(新規格)だった。感覚的に、ラタ戦車の車台の幅はこれでは広すぎる。私はこれを100cm前後に見積もっている。

その車台の幅に、車輪二つの厚みと、さらに車軸が車輪を貫いて突き出す余り代(この部分に楔を打って車輪の脱落を止めるので、ある程度の長さが必要)の部分を加えると、どのくらいの長さになるだろうか。

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inextliveより:プーリーの山車の車輪

上のラタ・ヤットラに使用される木製車輪を見ると、裏表に突き出すハブの厚みは相当にある事が分かる。これは短く太い丸太の芯をくり抜いて軸穴としている構造上、強度を維持するために必要があるからだと考えられる。

ラタ戦車の車輪は当然これよりもはるかに小さいのだが、それでも全体としてかなりの厚さを考慮しなければならない。

資料的限界も踏まえた上でアバウトな話だが、私はこの車軸の長さを、およそ180cm程ではなかったかと推測している。

そして、ラタ戦車を何よりも重要な利器としたヴェーダの民において、その車軸の長さが、あらゆる測量の基準単位となった事が十分に考えられるのだ。

実は、インドの古い測量単位に1ダンダというのがあるのだが、これはおよそ6尺ほどと言われている。ダンダという単語は、つまりは棒という意味なのだが、この棒がいわゆる検(間)尺として、アショカ王の時代ごろに使われていたことが分かっている(うろ覚えで記憶しているだけなので、ソースは明示できない…)

私はこの1ダンダの単位が、ラタ車の車軸の長さに由来する可能性を想定している。この点に関しては、インダス文明期にすでにこの1ダンダの単位が存在していた可能性もあるが、どちらにしても車軸の製造において、規格として一定の長さが『測られ』た事は間違いないだろう。

そして私のこれまでの論述に従えば、このような『測る』という性質を持った車軸は、イコール世界の支柱としての至高神であった訳で、つまりこの至高神は本然的に『測るもの』という属性を伴っていた。

このように見てくると、『世界の測量』という観念、そして『世界の建造』という観念双方において、ラタ車の輪軸というものが深くかかわりを持っていただろう事が、かなりの程度合理的に説明できると思えるのだが、どうだろうか。

続いて、前回そのさわりを紹介したヴィシヴァカルマン賛歌の本文を、中村元選集「ヴェーダの思想」より引用したい。

リグ・ヴェーダ』のうちの重要な思想として、ヴィシヴァカルマン(Vishvakarman)が世界創造者として讃嘆されている。その名称の意義は、「一切をつくる者(解釈A)」ということであると、一般の学者によって承認されている。(P411)

ヴィシヴァカルマン賛歌~その1(10・81)

2.かれのよりどころはなんであったのか?かれのはじめ企てたことはいずれであったのか?全身が眼であるヴシヴァカルマンが、威力によって地を生じ天を展開したもとのものはいかにあったのか?

3.あらゆる方向に眼があり、またあらゆる方向に口がありあらゆる方向に腕があり、またあらゆる方向に足があり、(天地を生じるにあたって)両腕とふいごとによってそれを鍛えてつくった唯一なる神(Deva ekah)である。

4.かれが天地を建造するに用いた木材はじつになんであったのか。その樹木はなんであったのか。汝ら賢者は、かれがもろもろの世界を創造した時によって立っていたものを、心で尋ねよ。(P413)

中村:この賛歌はインドでは非常に有名であり、多くの典籍のうちに現れている。ことにこの第3詩句は有名で広義のヴェーダ聖典の諸所に現れている。

この第3詩句においては、宇宙全体をひとつの身体ある有機体ないし人間の様なものと考えているから、この点では原人プルシャ賛歌と軌を一にしている。この起源をさらに追及するという事になると、後代の神話においては〈ブラフマンの卵〉なるものを考えるようになった。

~P414より引用

最初に、全身が眼であるとは、どういう意味だろうか。これはヴィシュヴァカルマンを一本の車軸と考えた上で、車軸を意味するアクシャ(Aksha)が同時にを表す事を考えると分かる。車軸とは一本の円柱棒であり、その一本全体がアクシャ、つまり眼になるわけだ。

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車輪は眼(瞳)に重ね合わされた

車軸とは眼の中心の瞳孔に相当する。それはあまねく見る者である。車輪のスポークをその視界に重ねると、それは360度あらゆる方角に向かって広がっている

あらゆる方向に眼、口、腕、足がある、という表現はこの円柱・円輪の全方向性と関わっている。それが四角であれば四方という限定が生じる。けれどそれが円輪であれば、そこには方向の限定は存在しない。あらゆる方向に無限定に向かった全方向性がそこにはある。

眼と共に口、腕、足が出てくるのは、一本の車軸たる絶対者が同時に一体の身体、つまりプルシャ=ヴィシュヴァカルマンだったからだ。

なぜ天地を建造するに用いた木材が何で、どの樹木だったかを問うているのか。これも輪軸の世界観を前提にすれば分かり易い。

それはラタ車を重用する彼らにとって、輪軸の材料たる樹木(木材)が、その使用上きわめて強靭な性質を持つ特殊なありがたい大切な樹種だったからだろう。

ヴィシヴァカルマン賛歌~その2(10・82)

2.ヴィシヴァカルマンは聡明にして、また強力であり、創造者、配列者、であり、また最高の示現である。かれらの犠牲はかしこにおいて享受を楽しむ。そこでは7人の仙人(北斗七星)を超えたところに唯一なるもの(eka)が存すると人々はいう。

5.天のかなたにあり、この地のかなたにあり、アスラである神々のかなたに存するもの、すべての神々がそこにいてともに見そなわした大水最初の胎児をはらんだもの、そのものは、実になんであったのか?

6.すべての神々がそこにおいて集まり合したところのは、かれ(ヴィシヴァカルマン)を最初の胎児としてはらんだのである。不生なるものの臍の上に、その唯一なる者(eka)が〈車輪のこしきの様に〉置かれていて、そこにあらゆる世界が安立していたのである。

~P415より引用

ここで最初にハイライトした『配列者』とは何だろうか?

これも木製車輪の建造プロセスと重ね合わせると理解し易い。

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inextliveより:ハブ外周のスポーク設置穴

上の写真は木製車輪の中心にあるハブ外周にスポークをはめ込む「ホゾ穴」を空けている作業だが、そのスポークが均等に配列されている事が良く分かるだろう。

車輪とは現象世界だから、そこにおける様々な規則的配列もまた、一者なる創造神の御業であると。

続く『7人の仙人』とは北斗七星であり、それを超えたところにある唯一なるもの(eka)は北極星を意味する。北極星とは北の空の地球の自転軸であり、それを中心に北斗七星など分かりやすい星座が眼に見えて回転する。

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Youtubeより:北極星を車軸として、星々の天界は車輪のように回転する

古代インド・アーリア人はこの北極星なる回転軸(eka)と創造者ヴィシュヴァカルマン(Deva-ekah)とを同一視した。もちろんその唯一なるエカ(eka)が回転軸である以上、それは車軸を含意している訳だ。

(このヴィシヴァカルマンにおいては、車軸性とその展開である車輪性が混在している)

続いて『大水が最初の胎児をはらんだもの』と、ここで世界の創造を人間の生殖になぞらえて捉える思想が登場する。

胎児を孕む大水とはもちろん羊水を意味する。問題は、何故、天の回転軸(車軸)にヴィシュヴァカルマンをなぞらえた後で、あたかも自然な流れのように大水と胎児の話が出てくるのか、という事だ。

この点は以前指摘した文脈と重なり合って来る。

別の世界創造神話であるプルシャ賛歌には、この世界が創造のその瞬間から回転し始めた、と言う原心象が見事に表されている。

プルシャ(原人)の歌(10, 90)

14 臍より空界生じたり。頭より天界はせり。両足より地界、耳より方処は。かく彼ら(神々)は諸々の世界を形成せり。

以上、辻直四郎訳 リグ・ヴェーダ賛歌より

 

私が個人的に気に入ったのは、ここに「頭より天界は現せり」として、天界の転回性が明記してある事だ。これは以前にも書いたが、天の太陽や星々が回転運動をする事実を車輪の回転に重ねたもので、それがこの賛歌でも確認できた事は大きい。

原初の一者、ここで言うヴィシヴァカルマンは世界の車軸であり、そこから展開する車輪であると同時に胎児であり、 その出生と同時に「回転し始める」(あるいは回転しながら出生する)

しかし、男性形の神格を世界の創造者として設定した以上、彼以前に女性形の胎なる神格が存在しては都合が悪い。そっちが本当の創造者になってしまうから。

だからこそ、このヴィシュヴァカルマン賛歌では抽象的な大水とか、不生者などという表現で胎=ガルバ・ヨーニを暗喩している訳だ。

存在するけど存在しない胎から、創造者ヴィシュヴァカルマンが胎児として出生する。彼は世界の車軸であると同時に、そこから展開する車輪世界でもある。

何とも、ややこしい話だ(笑)

 

 (本投稿はYahooブログ 2013/3/9「リグ・ヴェーダに見る世界の測量と建造」と2013/3/11「ヴィシュヴァカルマン賛歌・車軸と胎児」を統合し加筆修正の上移転したものです) 

 

 


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