仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

快楽殺人といじめ 〜 文明が超克すべきマーラ

以前、凄惨ないじめとその結果としての自殺、と言う事件が続いていたタイミングで、この深刻な社会問題について若干の掘り下げを行ったので、今回は『いじめ』とその『根本原理』ついて考えてみたい。

最初にいじめの定義について、以下の公的機関の文言を見てみよう。

いじめの定義(文部省1994年)

①(1)自分より弱いものに対して一方的に(2)身体的、心理的な攻撃を継続的に加え(3)相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないこととする。

② 集団内で単独または複数の成員が、人間関係の中で弱い立場にたたされた成員に対して身体的暴力や危害を加えたり、心理的な苦痛や圧力を感じさせたりすること(都立教育研究所)

③ 単独、または複数の特定人に対し、身体に対する物理的攻撃または言動による脅し、嫌がらせ、無視等の心理的圧迫を反復継続して加えることにより苦痛を与えること(警視庁保安部少年課1994年)  

Wikipediaを見ると、

いじめ(苛め、虐め、英: Bullying)とは、相手の肉体的・心理的苦痛を快楽的に楽しむことを目的として行われるさまざまな行為であり、実効的に遂行された嗜虐的関与。

いじめとは「肉体的、精神的、立場的に自分より弱いものを、暴力やいやがらせなどによって一方的に苦しめること」であり、暴行罪、傷害罪、侮辱罪、脅迫罪等の犯罪行為である。特に、1985年(昭和60年)ごろから陰湿化した校内暴力をさすことが多い。

単純な暴力だけでなく、物を隠す(いたずらする)、交換日記で悪口を書くなどといった「心に対するいじめ」もあり、シカト(無視)などは水面下で行われることから、教師や周囲が気づかないうちに深刻な事態になりうる。

さらにWikiからアメリカの研究を引くと、

シカゴ大学による脳のfMRIスキャンを使用した最新の研究によると、人が他人の苦痛を目にすると、自身が苦痛を経験したときと同じ脳内領域が光るが、いじめっ子の場合扁桃体や腹側線条体(報酬や喜びに関係すると考えられている部位)が、いじめをしない者に比べ活発に活動することがわかったという。「つまり、いじめっ子は人の苦痛を見るのが好きだと考えられる。この考えが正しい場合、彼らは弱い者いじめをして他人を攻撃するたびに心理的な報酬を受け取り、反応の強化が進んでいることになる」

いじめの問題について、様々な論者が様々な視点から考察し、その原因や構造について分析し、再発防止に向けた様々な試みが行われている。

けれど、私の見るところ、多くの場合根本的な事実を見過ごしてしまっている気がしてならない。

いじめが起こる根本的な理由。それは上記の太線部分、特に赤字部分を見れば一目瞭然であり、その視点を見失ったらいじめ問題は結局あやふやなまま放置され続けるという事だ。

その焦点は、いじめている子供たちの脳内では、大脳辺縁系が狂騒状態の興奮を呈し、いわゆる『快楽物質』が大量に分泌されている、という事実だ。

上の「弱い者いじめをして他人を攻撃するたびに心理的な報酬を受け取り「相手の肉体的・心理的苦痛を快楽的に楽しむことを目的とし」という部分がそれを示している。心理的な報酬とはつまりは脳内快楽物質に他ならない。

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大脳辺縁系には偏桃体を始めとした『快楽の座』がある:「神の存在」という幻想ブログより

つまり、楽しいからいじめる。いじめる事によって快楽を得ている。この事実を絶対に見過ごしてはならないのだと私は思う。

世には快楽殺人というものが存在するという。これは日本ではあまりなじみのない犯罪形態だが、アメリカなどでは比較的多く見られるらしい。その特徴とは、まず第一に、楽しむために人を殺す、という事だ。

相手を完全に支配する事や殺すという行為自体に陶酔する者もいるだろうし、命を奪う過程で、身体を傷付けていく過程で、犠牲者が示す苦悶の様子を見て楽しむ、という事もあるのだろう。

どちらにしても、自分の楽しみの為に何の罪もない赤の他人を襲撃殺戮し、あるいは拘束監禁し完全な支配下に置いてなぶり殺しにしていく事を純粋に楽しんでしまう、という何とも反社会的な病的な犯罪心理と言えるだろう。

このようなおぞましい犯人・犯行に対しては、一般に社会世論は激しい敵意と処罰感情を持つのが普通だ。

だがしかし、この快楽殺人と昨今問題になっている被害生徒を自殺にまで追いやるような陰湿で深刻ないじめとは、まったく同じ原理によって成り立ってはいないだろうか。

いじめっ子(何とも牧歌的な命名だが)がターゲットの子供をいじめる時、肉体的直接的な暴力を含め、彼らはありとあらゆる巧妙なテクニックを用いて被害者の『心』をなぶり殺しにしていく。自尊心をずたずたに切り刻み、あらゆる人間的な柔らかい心に刃を立てて苛んでいく。

その過程で苦しみもだえる被害者のみじめで無様で醜いありさまを見て、加害者達は哄笑し嗜虐の愉悦と優越に浸る。その時彼らの脳内では、大脳辺縁系がマックスの興奮を示し、快楽物質が脳内を駆け巡っている事だろう。

その実態は、快楽殺人者の脳内活性原理と、その病的に歪んだ快楽志向と、まったく重なり合うのではないだろうか。

被害児童の立場に立って見れば、彼らは毎日、精神をなぶり殺しにされるために学校に通っている事になる。肉体と違って、精神は何度でも『殺す』事ができるからだ。

正に、終わりなき地獄の日々と言っていいだろう。

そしてついに限界を超えた時、彼らは自ら命を絶つ。

もう決して、二度と殺されない為に

ここで重要なのは、例え被害児童が自殺にまで至らなくとも、限度を超えた精神的苦痛を受け続けているのなら、それは立派な『心を殺す快楽殺人』である、という事だ。

いわゆる社会のオピニオン・リーダーと呼ばれるような人々は、強者であり勝者である事が多い。彼らの発するいじめ問題に対する言説を概観すると、やはり本質的な認識の甘さ、というものは否定できないだろう。

その根底には、勝者の立場から現代の競争社会原理を肯定し、自分の力で生き抜いていく力を持たない劣等者は、淘汰されても仕方がない、という(おそらくは無意識レベルを含めた)おごりがある、と私は感じている。

例えば、脳科学者の茂木健一郎氏のいじめに関する発言を見てみると以下のようになる。

ツイッター:「いじめ」は、残念ながら、人間が社会的な動物である以上、どこでも起こりうる。集団の中での自分の位置に不安があったり、他人との関係を探っていたりする人が、いじめることで自分の存在を確認する。いじめをゼロにするのは難しい。起こったらどうしよう、と考えておいた方がいい。

朝日新聞:君をいじめている人は、他人の痛みを想像することができないんだ。集団で1人をいじめることの卑劣(ひれつ)さにも気づかない。未熟(みじゅく)で弱い人間なんだろうね。

彼自身が同じ朝日新聞の寄稿の中でいじめっ子をモンスターと言っているのだが、彼らの内面世界は、決して未熟で弱い人間などというレベルでは済まない。心象風景としては快楽殺人者と同じ衝動に駆られて、彼らは罪もない弱者に襲い掛かり、その精神を破壊するプロセスを舌なめずりしながら享楽している。

実際に今、この瞬間に地獄を強いられている被害者の立場に立てたならば、この茂木氏の言う「未熟で弱い人間」などというふやけた定義には絶対に共感し得ないだろう。

ツイッターの発言では、茂木氏は、いじめというものは決してなくすことはできずに、それがいつでも起こる、という前提で物事を考えていくべきだと語っている。

しかし、もし、いじめっ子とは無邪気な子供の仮面をつけた『快楽殺人者』である、という私の分析が正しいとしたら、どうなのだろう。私たちの社会とは、常に快楽殺人者の跳梁を前提にして生きていかなければならない場なのだろうか。

そんな事で良いのだろうか?

繰り返し言うが、被害児童を自殺(あるいはそれに近い精神状態の破局)にまで追いやるようないじめ、というものは、「昔だっていじめってあったよなぁ」と高齢者が牧歌的に語るいじめや、「残念ながら、人間が社会的な動物である以上、どこでも起こりうる」というレベルのいじめとは、本質的に区別すべきものなのだ。

それは被害児童の心を寸刻みに殺していく精神の快楽殺人なのだから。

逆に言えば、それが明晰に区別できない限り、どのような小手先の手段を弄しても、このような深刻かつ凄惨ないじめというものをなくすことはできないし、その果ての自殺者もなくすことはできない、という事だと思う。

その様な社会は、正に魔女狩りに狂奔した中世ヨーロッパの暗黒時代に等しい、そう私の眼には映る。常に「自分がいつ魔女として狩られるか」怯えていなければならない社会。

茂木氏と言えば、人間の脳が持つ大脳辺縁系というものの素晴らしさを称揚する事で知られている。それは動物とは一線を画した人間性を支える情性の根源であり、あらゆる文化・芸術・宗教を生み出す『神の恩寵』とでも彼の眼には映るのだろうか。

しかし、その同じ大脳辺縁系が、凄惨ないじめの原動力になっている、という事実を、彼はどこまで深く洞察しているのだろうか。その冷徹な事実をどこまで社会に向かって啓蒙しようという覚悟を持ち得ているのだろうか。

何よりも、罪なき『犠牲者』の立場に立って。

口当たりのいい甘い夢を語る事だけが、オピニオン・リーダーの仕事ではない。

私は、度を超えたいじめは、被害児童の心を寸刻みに嬲り殺していく精神の快楽殺人なのだ、という事実認識を学校の現場において普及啓蒙するならば、多少なりとも実効性を持った抑止力として働くのではないかと考えている。

まともな精神を持っていれば、誰でも自分が『快楽殺人者』になどなりたいとは思わないだろうし、その犯行を見過ごしたいとも思わないだろう。

相手が常軌を逸した快楽殺人者ならば、それから逃げる事も、それを告発する事も、ためらいや『罪悪感』を感じるはずはない。

学校という教育の現場に快楽殺人などというタームを持ち込んで子供たちにそれを聞かせる、という行為には、大方の大人が大きな抵抗を感じるかも知れない。

しかしその様なタームを持ち込むという事実と、そのようなタームが適用される事態が正にその教育現場で既に進行しているという事実を見比べた時、私たちがとるべき選択は、自ずから明らかだろう。

問題になるのは、私がここで提示した、

被害児童を自殺に追い込むような度を超えたいじめは、彼の心を寸刻みに殺していく精神の快楽殺人だ。

という定義が、どこまで妥当性を持っているか、という事だろう。

この点に関しては、茂木氏をはじめとした優れた脳科学者、心理学者、教育者たちの真摯な検証を期待したいと思う。

いまこの瞬間にも、自死による救済を願っている魂が確実にいる。私たちはその事を肝に銘じなければならない。

※文中、「被害児童を自殺に追い込むような度を超えたいじめ」と言う点を強調しはしたが、あらゆるレベルの「いじめ」(大人のパワハラやらセクハラやらも含む)加害者の心象は基本的に「快楽殺人者」の心象とさほど違わない「サディスト(加虐愛好者)」に他ならない。

ここで唐突に本来のテーマである仏教に立ち帰るのだが、いじめという社会心理現象を見つめていくと、私は人間が持つ根本無明に行きつく気がしてならない。

いじめっ子がいじめを始めるきっかけ的な理由として、しばしば言われるものに、『ウザい』という言葉がある。

ウザい、キモい、ムカつく、目障り、消えて欲しい、いらない、など様々な理屈ではない感覚的な衝動。これらは行きつけば『ばい菌』や『ゴキブリ』など、毒すべき、菌すべき、虫すべき、もはや人間ではない、その存在が全面否定されるべき攻撃と排除の対象へと成り下がっていく。

いじめというものは、突き詰めれば、被害児童を人間ではない虫けら以下とみなすところまで行きついてしまう。相手が虫けらならば、何をやっても許されるのだ。

そしてウザい虫けらを退治するプロセス、その達成には大きな『快』が伴う。これは普通の人でもブ~ン・チクッとまとわりつく蚊やゴキブリなどの不快害虫をパシッと叩き潰した時の爽快感を思い出せば理解し易い。

これら、ウザい、キモいなどの盲目的な衝動は、典型的な大脳辺縁系の機能と言っていいだろう。先に言及した「快楽の追求」の裏返しとなる「不快の排除」だ。

そこにあるのは、排他と利己、自己の利益を侵害する他者に対する徹底的な嫌悪と排除、それを攻撃排除する事によって快感を得る強烈な利己の情動だ。

私は思うのだが、これら辺縁系の盲目的な情動による支配というのは、決していじめっ子にだけ当てはまるだけでは無く、基本的に全ての人間に当てはまる事だ。

人の背中に取りつくオンブお化けという妖怪がいる。人の心を陰で操る辺縁系とは、正にこのオンブお化けではないだろうか。

私たちの心の背中には、ダニのように爪を食い込ませて辺縁系というオンブお化けがしがみついている。このお化けは盲目的生理的な衝動であり、その本質は、あたかも二人羽織りの手が、その盲目性をフルに発揮して勝手に動いているのと似ている。

余興の二人羽織りの場合はそれぞれが別だという事が自覚できている。別々な意思のギャップが笑いを誘う訳だ。けれど私たちの日常意識は実際にはオンブお化けである辺縁系に操られているにも関わらず、私たちはその事に全く気付いてはいない

例えば、今私はこのブログを書きながら、少し寒いなーと思ってストーブのダイヤルをひとつ強に上げた。この部屋は古い鉄筋コンクリートの最上階なので放射冷却など冬の冷えを感じやすいのだ。

私は、『私が』寒いと感じたから、私がストーブを強にしたと思っているが、実は違う。情動中立的な身体のセンサーが気温や湿度を感じ取り、その情報が辺縁系によって『不快』だと認識され、その不快の解消が命じられて、私を行動に駆り立てたのだ。

実際に『私』が寒いと感じた背後では、辺縁系がその低温を不快だと判断し、私を操って行動させた訳だ。しかし日常的主観的には、私は辺縁系をイコール私であると見なし辺縁系の判断を私の自由意思だと錯覚しながら生きているのだ。

実は私たちが生きるという事、そのあらゆる行動判断の作用機序には、全てこのような形で辺縁系が背後の黒幕として介在している。

いわゆる『身口意』と呼ばれるすべての行為(カルマ=業)は、全てこの辺縁系の見えざる意思に操られて現象している。

仏教とは、つまるところこの辺縁系、私は分かりやすく=マーラと考えているが、このマーラの衝動からいかに自由を勝ち取るか、という事に尽きると思う。

その証拠は至る所に見いだせるだろう。

例えば戒定慧という仏教の三学において、最初の一歩である戒の内容をつぶさに見るならば、その意図がありありと表れている。

一般的な在家信者の五戒を羅列すると、以下になる。

不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を殺してはいけない。

不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。

不邪淫戒(ふじゃいんかい) - 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。

不妄語戒(ふもうごかい) - 嘘をついてはいけない。

不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。

それぞれについて以下の様に考えてみよう。

人は何故殺すのか?

それは屠畜など自分が食物を得るために、また害虫や敵など、自己利益を侵害する不快な存在を排除するために、つまり自分が何らかの形で快(利益)を得るために殺す。

人は何故盗むのか?

それは、他人の財産=それを所有する喜び、を奪い、自分が利益(快)を得るために盗む。

人は何故自分の妻(夫)以外と交わる(不倫する)のか?

それは、他の夫(妻)の幸福を踏みにじりながら、自分の快楽を貪るために不倫をする。

人は何故嘘をつくのか?

それは人を騙し、あるいは陥れる事によって、自分の利益を増進するために嘘をつく。

では、最後の酒は何故禁じられるのか?

それは、人が酒を飲むと前頭葉的な理性が麻痺して辺縁系が暴走し、上記の我欲に走りやすくなるからだ。

このように見ていくと、仏教の基本である五戒が、辺縁系の排他と利己という衝動に如何に枷をはめてコントロールしていくか、というただ一点を目的にセッティングされている事がよく分かるだろう。

それは戒(シーラ)だけではない。般若心経でいう所の、『眼耳鼻舌身(意)』『色声香味触(法)』という五(六)感もまた、辺縁系の機能という視点から見るとその意味が明確になる。

眼耳鼻舌身という情報収集器官から入ってくる外界の『色声香味触』という情報は、全ては辺縁系に回されてその排他と利己というフィルターにかけられ、快と不快、好と嫌、愛と憎、喜と悲などの情動評価を与えられて、私たちの身口意の行いを導き出していく。

身口意の行いとは、究極的には全て脳内で生起する反射と意思に還元されるので、が私たちの日常のすべてを支配する事になる。

端的に、色声香味触法を感受する眼耳鼻舌身意という六根は、全て辺縁系出先機関であり、そのしもべである、という事実がある。

その様な辺縁系の支配体制からいかに脱して自由になるか、という事こそが、ブッダの教えの焦点である、という事がよく分かるだろう。

一般に世俗世界に生きる私たちは、これら辺縁系支配下に志向・獲得される快の感覚を享楽する事が、人間としての幸福だと考えている。それはヒンドゥ教徒が人生の目的として掲げる、アルタ(現世的な利得)とカーマ(性愛の悦び)の追求によく表れているだろう。

しかし、それらの快楽や幸福が、必ず不快(苦)と不幸との両面コインとして現象している事は以前指摘した通りなのだ。

私たちの頭の中に、快と不快の両面を持った一枚のコインがあると想像してみよう。

通常私たちは快感原則に従ってコインの表面に刻まれた『快』を『撫でる』事によって快楽を得ている。このコインは不思議な性質を持っていて、撫でればなでるほど大きくなっていく。

私たちが快に溺れているとき、苦悩懊悩しているときと同じように激しい興奮(エネルギー消費)を伴っている事は、これも経験的科学として理解しやすい。

快楽の大きさに応じたエネルギー消費のシステムが辺縁系を中心としたサーキットとして確立する。

大きくなった快のコインはより大きな快楽を生み出すので、私たちはもっともっととばかりに過度に快の表面を撫で続け、コインは更に大きくなっていく。

しかし先に触れたように、このコインには不快という裏面が構造的かつ不可避的に張り付いている。快のコインを撫で続けて快楽を貪り至福に浸っている内に、実はその裏では不快のコインもまた大きく肥大化していたのだ。

何かの加減で、頭の中の辺縁系という名のコインが裏返った瞬間、彼の心の中は不快一色になり苦悩懊悩に耽溺する事になるだろう。

けれどコインを撫で続けるという習慣は機械的かつ盲目的に引き継がれ、彼はせっせと今や表面になった不快のコインを撫で続ける。結果、彼の不快は肥大化し続け、ますます苦悩懊悩に嵌っていくのだ。

この時に苦悩懊悩というファンクションを支えていたメカニズムは、私たちが快を求め享楽していた時と同じサーキットが使用されている。だからこその両面コインなのだ。

これはある意味、上流階級の奢侈な道楽と言ってもいいだろう。元々エネルギーの過剰が身体システム内に溢れ返っていなければ、過度な快楽の追及なども不可能だった。快のコインが肥大化する事がなければ、不快のコインもまた、肥大化する事はない。

Yahooブログ2012年9月11日記事「小食のすすめ」より

そう考えると、スッタニパータの以下の言葉の意味が、よく分かるのではないだろうか。

「他の人々が『安楽(スカ)』であると称するものを、諸々の聖者は『苦悩(ドゥッカ)』であると言う。他の人々が『苦悩』であると称するものを、諸々の聖者は『安楽』であると知る。」(中村元訳)

排他と利己という盲目的な衝動に駆られ、快と不快という色眼鏡でしか世界を観る事が出来ないオンブお化けから解き放たれた、苦と楽の両極を離れた中道の安らぎ。これこそが、諸々の聖者が求める真の安楽なのだろう。

しかしよく考えてみると、私たちのこの現代文明というものは、徹底して利己的な快の追及(貪欲)と不快の排除(瞋)、という原理に突き動かされて発達して来た事が分かる。いわば辺縁系の完全奴隷が作り出した欲楽園(聖者から見れば失楽園!)に過ぎない。

その文明の、忠実な歯車を作り出すために創出された学校教育システムの中で、子供たちの辺縁系が暴走し、ウザいという盲目的な衝動に突き動かされて致死的ないじめが起こるというのは、ある意味、理の当然とも思えて来る。

となると、いじめという現象、あるいは症状だけを取り出してそれを解消しようとするのは、原理的に難しいのかも知れない。水虫にかゆみ止めを塗っても根治はできないのと同じだ。

ではどうすればいいのか?

それは、やはり辺縁系に由来する根本無明を滅する以外、ないのだろうか。

辺縁系の完全奴隷が作った文明とは、言葉を変えれば無明の王国でありマーラの帝国に他ならない。

社会全体が文明のそのようなあり方を批判的に内省し、無明(貪欲と瞋)の滅尽、あるいは少なくともその調御、という志向性を持たない限り、真に安楽な世界は実現できないのだろう。

私たちの心の背中には、辺縁系というオンブお化けがその爪を食い込ませてダニの様にしがみついている。それは日常意識において私たちの心を二人羽織の様に支配し、身口意の全ての行いを操っている。

そのオンブお化けを調御し、弱体化させ、ついにはその圧政からの真の独立を達成する。それが仏教的に見た真の文明の姿ではないだろうか。

そう考えると、昨今流行りのブッダの瞑想法によって生産性を上げるなどと言う方向性が、色々な意味でいかに顛倒しいかに無明にまみれているか、という事が良く分かるだろう。

何故なら、『生産性を上げる』などと言う価値観や方向性は、正に貪欲の加速追求を至上とする無明なる文明意志』以外の何ものでもないからだ。

考えてみれば、私たちの辺縁系が何故発達したかと言えば、それは生命37億年の歴史の中で、自然環境の中で生き抜くためには、常に我先に競争し限られた資源(食や性)を獲得しなければならなかった、という背景がある。

しかし、そのような欠乏を前提とした世界観は、文明の発達によって、文明によって獲得された豊かさによって、その必然性を失いつつある。

(これはある意味とんでもないアイロニーで、例えば現在グローバル規模で問題になっている『肥満』にしても、欠乏を前提とした環境世界で生き抜くために隙さえあれば蓄えようとする身体メカニズムがマイナスに作用して、時に致死的な病の原因になる肥満と言う現象をもたらしている)

何故なら、社会全体の富の総量は、すでにすべての人々が享受して余りあるレベルに達しているからだ。ただし、そこには『強者が独占への黒い衝動を克服しえたならば』という条件が不可欠だ。

アメリカという国は、確か一人当たり日本の二倍以上のエネルギー消費を享受している豊かな国だ。その豊かさはおそらく平均すればローマ帝国貴族の奢侈を軽く凌駕するレベルだろう。

しかしそのようなアメリカにも1%のリッチと99%のプアーという断絶と対立が存在すると言う。彼らの言うプアーなど、発展途上国から見ればチャンチャラな茶番かも知れないが、しかし、そこに絶対的な較差があるのは間違いない。

確かトヨタだと思ったが、彼らが派遣切りをビシバシ行って、それが労働者の人生そのものを破壊すらしていた、正にその時に、社内財務は1兆円を超える内部留保で潤っていたと言う(多分今でもおおむねそうだろう)。

そこにあるのは、金持ちになればなるほど、その自己保存本能はとんがり、独占への黒い情動は高まっていく、という辺縁系の原理だ。

十分に分かち合えるほどの豊かさが、逆に独占への衝動を亢進させていく。

これはある意味餌付けされたサルと同じ状況と言っていい。

日本の山野に棲む野生のニホンザルは、森の木の若葉や実などを食べて生きている。これらのエサは環境中に薄くまばらに散在するので、群れのリーダーもそれを独占する事ができず、彼らの社会は緩やかな上下関係の中で調和と安定を保っている。

しかし、動物園のサル山などで人間によってイモや小麦などの高単価の栄養食が大量に、しかも餌場の一か所に集中して与えられると、その安定と調和は大きく崩れていく。

沢山あるのだからガツガツしないで分け合えばいいのだが、その理屈は通じない。野生状態に比べ明らかに我利我利にエゴが顕在化し、夜叉のように歯をむき出した闘争が繰り広げられ、我勝ちの強者が餌を抱え込んで独占しようとする。

民主的なリーダーが独裁的な暴君ボスザルに豹変する瞬間だ。

自然的日常ではあり得ない豊かさが、逆に独占への衝動を高め、社会は闘争の修羅場と化す。人間の文明など、所詮この餌付けされたサルの原理に突き動かされているだけなのかも知れない(大規模農耕の獲得と独占支配権力の誕生)

昨今の安倍政権が志向する富の(仲間内での)一極集中などもその様な動物的な衝動に根差している。

人間のお尻には尾骨という退化した尻尾の名残があるのだが、辺縁系という動物脳は、まだまだ現役の尻尾として、ウネウネと常に蠢いているのだろう。

その果てに今、地球環境問題が温暖化と異常気象と言う形で私たちの目の前に顕在化しつつある。

人類の進化史を概観すると、色々な意味で「動物としての限界を突破していく」という方向性は間違いない所だろう。

だがもしこの文明があいも変わらず「動物としての限界を超えて貪欲を追求していく」事を目指し続ける限り、早晩地球のエコシステムはその負荷に耐えられなくなるだろう。

本当に目指すべきなのは「動物の性である『貪欲(マーラ)』と言う名の限界拘束を突破する」事ではないのか。

この辺縁系という動物脳(マーラ)を調御し適正化する事を喜ぶことができるか、あるいは超克する事ができるかが、今後の人類の未来を左右していくのだ、と言ったら、言い過ぎだろうか。

少なくともブッダは、その様な意味で「動物としての限界を突破した存在」と思えるのだが。

 

 

(本投稿は2012年9月13日Yahooブログ「快楽殺人といじめ」他を統合修正の上移転したものです)

 


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