仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

車輪と蓮華と『眼』とストゥーパの重ね合わせ

前回の投稿の終盤に「蓮という植物の総体は花(蓮華)も葉も根も茎もその全てが車輪の形を表している事を前提に車輪と同一視されていた」と書いた。

そこでは書きそびれたのだが、妙法蓮華経をはじめ浄土経、阿弥陀経などの多くの大乗経典には「大いなること車輪の如き蓮華」と言う表現が普遍的に見られる。

爾の時に文殊師利、千葉の蓮華の大さ車輪の如くなるに坐し、倶に来れる菩薩も亦宝蓮華に坐して、大海の娑竭羅龍宮より自然に涌出して、虚空の中に住し、霊鷲山に詣でて蓮華より下りて仏前に至り、

妙法蓮華経 全訳『提婆達多品』より

これなども車輪と蓮華存在との重ね合わせ(同置)や同一視がなければ意味不明だろう。そしてこの車輪は単なる車輪ではない。

つまり、ここで譬えに用いられている『車輪』それ自体が、日常で利用される単なる車輪ではなく、世界宇宙にも等しい大きさの神的な大いなる車輪であり、その神的な車輪に等しいくらい大なる蓮華、と言う意味だ。

それは蓮華の前に置かれた『千葉の』という形容詞によく表れている。これは「ちば」ではなく「せんよう」と読み「よう」は花弁を意味し、全体として千枚の花弁を持つ蓮華になる。

この千という数は「無数」とか「無限」を表すための修辞なので、全体としては「無数の花弁を持つ無限大の大いなる(超越的な)蓮の花」を意味する事になる。

この様な表現は前回指摘した様に、ヨーガ思想において頭頂部に位置する最高位のチャクラが本来なら「千本のスポークを持つ車輪」を意味する『サハスラ・アラ』であるにも関わらず千枚の花弁を持つ蓮華としてヴィジュアル的に描かれる、と言う事実とパラレルな関係にある。

法華経など漢訳仏教とヒンドゥー・ヨーガなど、日本人には余り関係がないように思われるかも知れないが、決してそんな事はないのだ。

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ヨーガにおける千の花弁(スポーク)の蓮華(車輪) 、サハスラーラ・チャクラ(Chakras.infoより)

法華経を実際に説き聞かされた古代インド人たちはその頭の中で、文殊師利などの菩薩が正にこの様な無限大の神的な蓮華の上に座して登場して来る情景をイメージしていたのかも知れない。

前振りが長くなってしまった。今回のメインテーマは、人間の顔の中でも最も印象的でかつその人格の在りようをも表すという器官が、やはり車輪や蓮華と重ね合わされていた、という可能性について論じてみたい。

私はこれまでも、そしてこれからも、くどいほど「車輪と車軸」のアナロジーについて語っていくつもりだ。それというのも、現在のインド学・仏教学の流れの中で、この視点を持っている人が皆無に思えるからだ。

(現状インド学会の全てを把握している訳ではもちろんないので、もしその様な人がいたら教えて欲しい)

今回も引き続きやや角度を変えて、車輪と車軸のアナロジーについて考えて見たい。

スッタニパータなど最古層のパーリ経典を見ると、ブッダの事を称える表現にいくつかの定型が存在する。その中で、今回と次回は輪軸の思想と絡めて2つの表現を取り上げたい。

ひとつ目は、ブッダを「眼のある人」「世界の眼」「あまねく観る者」など眼や視力と絡めて称えるものだ。

31 「われらは尊き師にお目にかかりました、われらの得たところは実に大きいのです。眼ある方よ。われらはあなたに帰依します。あなたはわれわれの師となってください。大いなる聖者よ」

347 この世で、およそ束縛なるものは、迷妄の道であり、無智を棚とし、疑いによって存するが、全き人(如来)にあうと、それらはすべてなくなくなってしまう。この(全き人)は人間のための最上の眼であります。

562 (セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。眼ある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大な健き人である。あたかも、獅子が林の中で吼えるようなものである」

599 世界の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。

921「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

992 バラモンよ。かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼を持っている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。

中村元訳、スッタニパータより

ここではブッダが、「あまねく世界を見通す眼」あるいは「世界の眼」として、その様な眼を開眼しその様な眼を持つ者として、称賛されている。

そもそもブッダという名詞は『目覚めたもの」を意味する。そして眠っている人と目覚めている人の最大の違いは、眼を見開いて見ているか眼を閉じて見えていないかの違い、として把握されるだろう。

つまり、眼というものは目覚めた者「ブッダ」の象徴なのだ。それはもちろん、悟りの知恵によって凡俗には見えない何かを観る、という意味でブッダの超越性をも象徴する。かくしてブッダは「眼を持つ者」「世界の眼」と呼ばれるようになった。

ネパールのストゥーパには、その円輪ドーム中心に聳えるハルミカに東西南北の四方を向く形で『仏眼』が描かれている。

ストゥーパについての前回の仮説も踏まえれば、これなども『世界の眼』としてのブッダの知恵と慈しみの眼(まなこ)が、現象世界の一切(衆生)に向けて注がれていると言うイメージだろうか。

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ボダナート・ストゥーパに描かれた仏眼。カトマンドゥ、ネパール

問題は、その『眼』という存在自体のヴィジュアルにある。これは文字通り一目瞭然なのでまずは画像を見てもらおう。

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HDWより

このヴィジュアル、車輪とよく似てはいないだろうか?

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インド国旗中央から拝借した法の車輪

眼球と言うものを白目と黒目に分けると、その黒目部分は真円に近い円輪状をしておりその内部には同心円状の輪と放射状の筋があり、更にその中心にある瞳孔部もまた、美しい円輪ドットになっている。

上の二枚の画像を重ねると、両者の基本構造は酷似しており、瞳の中心にある瞳孔は車輪の中心にある車軸に相当する。

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Magzter.comよりジャガンナート祭の山車の車輪

上の車輪の画像は中央が空白のハブ穴になっているが、正にここが車輪に貫かれる。

『眼』と言う言葉を原語で調べると、Chakkhumaになっている。さらに辞書で調べると、この単語の基本形であるChakkhuが、語源的にはサンスクリット語の車輪(cakra)や車軸「Aksha」と関わりがある事が分かる。

実はこの車軸を意味するAkshaにはやはり『目』という意味がある。これはサイコロの目や、台風の目など、日本語でも近しい表現がある様に、何かの中心にあるドットを『目』としてとらえる慣用表現だ。

三次元的立体で捉えると、車軸と言うのは一本の棒状をしている。しかし車輪の回転面を平面的に表した時には、車軸は円輪中央のドットになる。これが正に中心の目なのだ。

古代インドにおいて眼(目)と言う概念と車輪(車軸)と言う概念は密接なつながり、あるいは「重ね合わせ」によってくくられていた。

おそらくサンスクリット語でサイコロの目を意味する時のアクシャは、瞳の中でも中心車軸の位置にある瞳孔、あるいは白目も含めた眼全体の中では黒目を意識したものではなかっただろうか。

これまで指摘してきたように、古代インド人の心象世界においては、車輪と蓮華を重ね合わせあるいは『同置』する思想が存在していた。

では眼あるいは瞳と蓮華を重ね合わせる視点はなかったのだろうか?

 

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車輪と蓮華が融合した所の蓮華輪デザイン

上の写真は紀元後の仏教徒によって盛んに作られた蓮華輪のレプリカだが、これをちょっと距離を置いて遠望すると、瞳に見えないだろうか。まるで中心の花托が瞳孔で全体が黒目であるかの様に。

これは今まで紹介して来たサハスラーラ・チャクラのヴィジュアルについても同じことが言える。そもそもが上の蓮華輪文様自体が『千の花弁の蓮華』イメージを敷衍した上で作られた可能性を考えれば、これは当たり前の話だ。

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Pinterestより

上の画像もサハスラーラ・チャクラをイメージしたものだが、遠望すれば瞳そのもののデザインをしている。

実はインド教的な文学における伝統的修辞法には「蓮華の様に美しい瞳」と言う表現がある。これはクリシュナの見目麗しさを讃える場合や仏伝文学においてブッダの超越性を讃える場合にしばしば現れる。

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瞳に見立てて蓮華を丸く切り取ってみた

上の写真はリアルな蓮華を花托を中心に丸く切り取ったものだが、先に掲載したリアルな瞳の写真(特に瞳孔周辺)と比べてみて欲しい。

瞳すなわち眼のヴィジュアルと蓮華のヴィジュアルを重ね合わせる視点は、もちろん車輪をも伴いながら古代インド人の心象世界に確かに連綿として存在していたのだ。

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WPHFよりサハスラーラ・チャクラ

上の画像はサハスラーラ・チャクラの原義が「千のスポークの車輪」である事をかなり意識した図柄で、中央の車輪状のデザインを含め、全体として瞳となぞらえる事ができる。車輪として車軸の位置にあるものは瞳としての瞳孔だと言うのは見易い。

そもそも眼という構造器官において、見るという機能を直接果たしているのは黒目の中心に位置する瞳孔に他ならない。そしてそれは、瞳を車輪に見立てた時の車軸に相当する。

前回の論旨を思い起こせば、「ブッダ存在は世界をあまねく見渡す『車軸』」なのだ。

果たして古代インド人はその様な瞳の構造と機能を、理解しえていただろうか?

私は「理解していた」と判断している。

例えば戦場において眼を傷付けられた場合、白目だけなら視力に影響はないが黒目にかかると障害が起こる。また魚のうろこの様な何かの薄い欠片が目に入った場合、黒目(特に瞳孔)を覆ってしまうと視力が損なわれる。

そんな様々な日常経験の積み重ねによって古代人であろうとも眼球の構造機能を理解する事は充分に可能だし、また古代インド人の人間の身体に対する好奇心・探求心、その結果として得られていた科学的な解剖学的知見を考慮すると、私個人は「理解していた」方に一票を挙げたくなる(今の所明確な根拠は示せないが…)。

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ボダナート・ストゥーパに描かれた仏眼、ネパール(再掲)

上の写真はネパールに普遍的に見られる仏眼が描かれたストゥーパだが、その眼は世界の全体ににらみを利かすようにハルミカから四方を向いている。

インド教において『四方世界』とはあまねく世界(大宇宙)全体、と言う意味だから、世界の眼たるブッダの視線から逃れられる者はこの世界にはいないと言う含意だろうか。

そもそもあまねく四方を観るという属性は大本を辿れば絶対者ブラフマンに代表される『原初の一者(eka)』に遡る事が出来るので、ここでもブッダブラフマンの重ね合わせの気配は濃厚に漂っている。

このストゥーパを上空真上から撮影した面白い映像がある。これなども見ようによっては大地に刻まれた巨大な瞳と見る事が出来る。

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ボダナート・ストゥーパ空撮。Dreamstimeより

蓮華、法輪、樹形、傘蓋、瞳など、これまで見て来た様に車輪をベースにしたチャクラ・デザインを思い起こした時、極めて類似したグランド・デザインで設計されている事が良く分かるだろう。

仏眼が描かれたハルミカは中央の小さな四角なので、全景を車輪と見た場合には車軸に位置する所に眼が描かれている事になる。

ちなみに、ストゥーパを横から見た写真にはその横腹に何やら黄線で区切ったデザインが確認できるが、これは蓮華の花弁を表しているのだと言う。

つまりここでは、ストゥーパと蓮華が明確に重ね合わされている事になる。航空写真で見られるストゥーパ周囲の角ばったひだ模様は大宇宙原初の『水波』を表現したものだと言われるが、これも見ようによってはデフォルメされた蓮華の花弁にも見える。

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解説図にもPrimordial Ocean(原初の大海)の水波がしっかりと描かれている

この「大宇宙原初の『水波』」もまた、ヴェーダにおいて原初の一者であるブラフマンが最初に顕現する時に描写されたモチーフに他ならない。またヒンドゥ・ヴィシュヌ派の神話ではブラフマーはヴィシュヌの臍から生えた蓮華から顕現した、とも言われているが、そのヴィシュヌが横たわっているのが原初の大海だ。

ストゥーパと蓮華の重ね合わせは、おそらく元々インド本国においてすでに普遍的に見られたもので、前回言及した様に「ストゥーパブッダと仏法に守護された宇宙世界(天球に覆われたドーム世界)」だったと仮定すると、この蓮華模様は『蓮華蔵世界(三千大世界)』の原像とも言って良いだろう。

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ガンダーラ出土のストゥーパ躯体表面には重複する蓮弁模様が刻まれている

さて少々雑駁な例示の羅列になってしまったが、古代インドにおける車輪を中核とした様々な「重ね合わせ」の心象世界。多少なりとも合点してもらえただろうか。

 

【この投稿はYahooブログ「眼ある人、世界の眼 (2012/8/9)」を加筆修正したものです】

 


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