仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

転法輪の謎~それは何故、『車輪』だったのか?

仏教の四大聖地と言えば、シッダールタ誕生の地であるルンビニ、成道正覚の地ブッダガヤ、初転法輪の地サールナート、そして死の床に就いたクシナーガラが上げられる。

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www.imgrum.net/より。菩提樹の下で禅定し正覚を得たブッダ

これはサールナートで説法する姿なのだろう、最初の5人の弟子と鹿も描かれている 

中でも重要なのが、菩提樹下で覚りを開いたブッダガヤと、最初に法を説いたサールナートだろう。紀元後に仏像表現が生まれるまで、ブッダそのものを表すものとして掲げられた菩提樹と法輪は、正にブッダガヤとサールナートの重要性を象徴している。 

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サールナートで出土したアショカ石柱のライオンヘッド

これはレプリカだが、基壇には美しい法輪が見える 

ここで注目したいのはサールナートだ。正覚後のブッダが、かつて一緒に苦行をしていた五人の修行者に向けて、初めてその悟りの内容を説いた事績を、『法の車輪を転じた』、と表現している事にわたしは引っかかったのだ。

何故それは、法の『車輪』でなければならなかったのか。こんな事を考える人がどれだけいるか分からないが、私はあるきっかけから、はからずもその疑問に取りつかれるようになった。

例えば、古い仏典には「煩悩の激流をいかだで渡る」などという表現が多く現れる。ならば、別に車輪でなくとも、『法の筏を漕ぎ出した』という表現でも良かったのではないだろうか。

何故、それは『車輪』でなければ、ならなかったのか?

話は1995年に遡る。この年の2月初旬、初めてインドを訪ねた私は、そこで7大仏跡を巡り、ヨーガを学び、上座部系のヴィパッサナー・メディテーションを経験した。その後足かけ3年間にも及ぶことになる、インド放浪の始まりだった。

その流れで、帰国後の1998年からは合気道の修行を始めた。それは、動的な『禅』という視点から、自分の中に潜在する「瞑想力」と向き合う事が目的だった。

その後2004年、和歌山県林業に携わり、ごく普通の生活を送っていた私は、ある時、テレビでインド武術について放送すると知り、深い関心を抱いた。

都合20ヶ月以上もインド世界に滞在しながら、当時の私はインドに伝統武術があるなどとは考えた事もなかった。インドでは、すべての身体文化がヨーガや瞑想と深く結びついている。ならばインドの伝統武術とは、一体どのようなものなのか。

そのテレビ番組で、私は初めて、ケララ州の伝統武術カラリパヤットに出会った。それは同時に、棒術の回転技というエクササイズとの出会いでもあった。

画面の中で繰り広げられるインド棒術の回転技。それはとても不思議なものだった。背丈ほどの棒の真ん中をつかんで、片手でひたすら回していく。回しながらその回転を止めることなく、右手から左手、左手から右手へと持ち替えていき、とにかく身体の周り、あらゆる方向でひたすら回していく。 


Wadi Veeshal : Kerala style stick spin

カラリパヤットの回転技ワディ・ヴィーシャル 

肌の黒い男達が見せるその回転技の軌跡はとても美しく、あたかも巨大な車輪が身体の周りを回転しながら翔け巡っている様に見えた。

『これは、転法輪の棒術に違いない』

それは全く根拠のない、しかし確信に満ちた直観だった。

チャクラの国のエクササイズ・プロローグ参照) 

2005年9月、仕事も辞め身辺を整理した私は、再びインドの地に立った。その目的は2つあった。実際にインド武術を経験し、身体運動と瞑想がどのように有機的にリンクしているか知る事と、もうひとつは棒術の回転技が本当に『転法輪の技』なのか確認することだった。

ケララ州に向かいカラリパヤットの道場に入門した私は、そこでインド武術の奥深さに魅了された。同時に棒術の回転技にも惚れ込んで、その後現在に至るサンガム印度武術研究所の活動へと続いていくのだが、本ブログでは割愛する。

カラリ道場の朝は早い。乾期の12月ではまだ漆黒の闇に包まれた早朝の5時前には、気の早い子供達がやってくる。少し遅れて、グルッカルが現れて道場の鍵を開ける。

ケララ地方独特の古い木製の扉が、ギギーっと重たい音を立てて押し開かれると、グルッカルは階段を降り、右足から道場の床へと一歩、足を踏み入れていった。

チャクラの国のエクササイズ・第一章 インド武術を求めて参照)

私はその後ケララ州から離れ、インド全土の様々な伝統武術を取材して巡るうちに、インド世界には車輪、すなわち『チャクラ』の表象があふれている事に気が付いた。

車輪(チャクラ)というシンボルを、その聖性の象徴として掲げているのは、仏教だけではなかったのだ。 

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オリッサ州コナーラク 太陽(スーリヤ)寺院の巨大な車輪 

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南インド・ヴェンカテシュワラ寺院の広報誌より

車輪の御神体を沐浴させるチャクラ・スナーナム

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坐禅をするヴィシュヌ神、ヨーガ・ナラヤーナ

左上の手に破邪の神器スダルシャン・チャクラを持つ

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ヴィシュヌ神のスダルシャン・チャクラを表す、チャッカル・リングを回すシーク教

なぜ、様々な宗教において、派閥横断的に聖性のシンボルとして『車輪』が共有されているのだろうか? 何故それは、『車輪』でなければならないのだろう?

やがて私の関心領域は完全に武術からは離れ、いつしかインド思想において車輪(チャクラ)が持つ『意味』について、深く考え、探求する方向へと向かって行った。

そもそも何故、ブッダの布教の歩みが車輪の回転に譬えられたのだろう。それは何故、『車輪』でなければならなかったのだろうか。

ヴィシュヌ神が悪を滅ぼす究極兵器も、何故、同じように車輪でなければならないのか。

太陽神スリヤは、何故ラタ戦車に乗って天空を翔け、巨大な車輪によってその神威が象徴されるのだろうか。

そして何故、プーリーのジャガンナート神はラタ戦車に乗って行幸し、その車輪には魂を救済する力があるのか。

インドの宗教思想の中で、車輪(チャクラ)あるいはラタ戦車というものが、何か重要な意味を持っているのは明らかだった。

そう思ってプーリー市内を歩くと、驚いた事に町には車輪チャクラのデザインが溢れていた。民家のベランダの手すり、ブロック塀のデザイン、寺院の壁に描かれたペインティングなど、無数の車輪がそこかしこにあしらわれている。

宗教思想だけではなく、人々の日常意識の隅々にまでも、チャクラの形は浸透していた。ひょっとすると、この様なチャクラ意識とでも言うべき感性が、インドにおいて棒術の回転技を発達させた理由なのかも知れない。

それにしても何故、他でもない『車輪』なのか。謎はその一点に収斂されていった。

チャクラの国のエクササイズ・第2、第3のチャクラ参照) 

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ベッドシーツやサリーなどにも多用されるチャクラ・デザイン 

その結果、実に興味深い事実が明らかになったのだった。

(この投稿はブロガー版「脳と心とブッダの悟り」記事を加筆修正したものです)

 

 

 

 

アナパナ・サティ~呼吸意識の本質

脊髄と延髄が持つというその非情動性について、ここではまずブッダの瞑想法であるアナパナ・サティ(呼吸への気づき)との関連性から、呼吸中枢である延髄(+橋)の性質について考えてみよう。

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「神の存在」という幻想(1) - 気の向くままに より、大脳辺縁系

大脳や小脳を樹冠にたとえれば、脳幹は文字通り樹の幹になる

延髄から見て、情動の門である大脳辺縁系の向こう側の世界は、排他と利己という情動、すなわち『マーラ』に支配された『サンカーラ』の論理によって統べられていた。

その強大な力は、人類において格段に発達した前頭葉的な理性と利他の性質によっても、未だ十二分にコントロールし得ない獣性に他ならない。

その獣性は、私たちが動物として生存し子孫を残すために必要な、食料と配偶者という2つの資源が、基本的に他者と争って相互に敵対排除するプロセスを経て勝ち取られなければならないものだった事から生まれた。生物学ではこれを、環境中に限られた食と性を巡る熾烈な資源獲得競争と端的に表現する。 

その根底にあるのは食と性を巡る競争原理だ。植物のようにエネルギーの自給システムである葉緑体を持たない動物は、自らの意思で環境世界を探索・行動し食料を確保しなければならない(ゆえに『動』物になった)。また有性生殖を始めた多細胞動物たちは、常により優れた配偶者を獲得するために様々な策を凝らし、戦う事を余儀なくされている。

宗教とは何か? - 仏道修行のゼロポイント 

もちろん生き続けようと欲すれば、身の安全を確保しあらゆる危険を避け、時には戦う必要がある、という大前提も忘れてはならない。

わが身を守る為には毒蛇を避け安全なねぐらを確保しなければならない。おまんま食うためには一生懸命他人に先んじて稼がねばならず、きれいな嫁さんをゲットするためにはライバルを蹴落として勝たなければならない。

私たちはそのような営みを、実に億年単位の長きにわたって繰り返し、現在に至っているのだ。考えてみれば、その『前生』の業、はなはだ深し、である。

しかし翻って、呼吸中枢によって獲得されるべき空気(酸素)はどのような性質を持っているだろうか。それは他者と争って勝ち取らなければ獲得できない希少な資源だろうか。

呼吸気を獲得するために、私たちは現在に至る億年単位の歴史の中で、いまだかつて一度でも他者と争った事があるだろうか? 

最下層の貧民であれあるいは奴隷であれ、明日の呼吸に不安を覚え、人生に絶望する、と言うような経験に苛まれた事があるだろうか?

空気を呼吸するためにもがき苦しみ、額に汗して努力したことがあるだろうか。どの空気は毒があり、どの空気は栄養があるなどと選択を迫られる事があっただろうか。

あるいは、一息吸うごとに快楽に溺れ、一息吐くごとに苦痛にあえぐなどという事があり得ただろうか。

答えは明確にNOだ。空気、それは環境中に常に万遍なく存在し、すべての他者と分かち合い共有されるべき資源だからだ。通常私たちは、そのような事実に気付く事すらなく、呼吸を享受し続けている。

確かに水に溺れる、病的な呼吸困難に陥る、あるいは誰かに首を絞められるなど非日常的な特異な状況下では、酸素を得るために私たちはもがき渇望する。しかしそれはあくまでも非常な事態に過ぎない。

しかしそのような非常時においてさえ、そこには性と食に見られる様な、『排他的』利己性、そして煩悩する『私(わたくし)』は微塵も存在しない事に気づくだろう。

私たちは日常において、すでに獲得した呼吸に我を忘れて陶酔し、次の瞬間にはそれを失うかもしれないと恐れる事はない。それは疑問の余地のない自明として、アプリオリに十全に何の努力もせずに、自ずから与えられているからだ。

常態としてただ呼吸と共にそこにあるのは、浜辺に寄せては返す波の様な無心である。

呼吸意識の基盤には一抹の不安もないという意味での『絶対安心』が存在する。あらゆる対立意識を離れた『非排他性』がある。

呼吸意識。それは数十億年という気の遠くなるような生命進化の歴史の中で、一度としてブレることなく一貫して排他的利己性に基づいた情動、すなわち『マーラ』とは無縁でありつづけた。同時にそれは、快と苦の両極性を離れた中道意識に他ならない。それはまさに『仏性』そのものだと言えないだろうか。

そこにこそ正に、ブッダが苦行を捨ててアナパナ・サティの瞑想に決定(けつじょう)した論理的必然性がある。そう私は考えている。

アナパナ・サティの瞑想実践を深めていくにつれて、おそらく私たちの日常意識は、マーラの支配下にある大脳世界のあらゆるマトリックスを失ってこの仏性に限りなく近づいていく。それはヒンドゥ・サーンキャ哲学において、プルシャたるアートマンが『気息』に譬えられた事と見事に重なり合う。

その気息に止住し、そこから世界を観照した時、彼は一体何を見るのだろうか。そして気息へと深く下降していくプロセスにおいて、あるいはそこから帰還するプロセスにおいて、彼は一体、何を目撃するのだろうか。

私の読み筋では、その時彼は、意識の基板であるOS上に走る自我を構成する様々なアプリケーションが、逐次停止していく様を如実に観察する。

つまり、彼自身が解体され止滅していく『過程』をまざまざと‟観る”。

そのプロセスこそが、魂のリカバリであるブッダの瞑想法の核心において働く『作用機序』に他ならない。

もちろんこの瞑想において私たちの心が『リカバリ』されたとしても、それが完了した時に全ての記憶やソフトウエアが消去されているわけではない。私たちは基本的に今までと同じマトリックス世界に立ち返らなければならない。

それはいわばマトリックスの領域、すなわちサンカーラがプログラムとしてインストールされた領域からそれがインストールされていない領域への一時的下降離脱のプロセスだからだ。

けれども、もしこのプロセスがシッダールタの到達した領域にまで至った時、あるいはそこまでいかなくても、明らかに有意なボーダーラインを超えた時、私たちの日常意識に劇的な変容が立ち現れる事は十分に考えられる。

それは『全人格的変容』という言葉が真に相応しい、心の‟どんでん返し”になるだろう。

何故なら、その時彼はマトリックスの夢から完全に目醒め、その虚構性についてまざまざと『直観』するからだ。そのプロセスをヴィパッサナーと言う。

ここに提出した『インストール型宗教とアンインストール型宗教』という思考の枠組みは、あくまでも暫定的な作業仮説に過ぎない。しかし、この方法論を採用する事によって、ブッダの教えを脳科学生態学・進化生物学など現代科学の最先端の言葉に翻訳する作業が、限りなく高い整合性を持って可能になる、そう私は感じている。

このブログにおいて提示される思索は、苦悩にあえぐ人々がブッダの瞑想法によってその苦しみから解放されていくリアルな『薬理的作用機序』を、万人に理解可能な合理的な形で明らかにする事を目指している。

もちろんこの試みは、あくまでもマトリックス世界の内部で知的に行われるものに過ぎない。どんなに論理的にブッダの悟りに近づいても、それがイコール悟りそのものの体験では絶対にない事を、忘れてはならないだろう。実際の悟りとは、正に大脳的マトリックスからの離脱なくしては到達不可能なのだから(2000年以上続く、行と学の二律背反!)。

次回からは、私の主観的な直感に導かれた上の仮説を、パーリ経典やヴェーダウパニシャッドなど様々な文献データを紐解きながら、その個々の事例を細部にわたって客観的に検証していこうと思う。

その作業を進める上でひとつの重要なキー・コンセプトがある。それがインド世界に数千年にわたって通奏低音の様に伏流する『チャクラ(輪軸)のシンボリズム』だ。

ブッダの説法・布教のプロセスが何故『法の車輪を転ずる』という言葉で表されたのか。何故それは、『車輪(チャクラ)』でなければならなかったのか?

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タイ中部で出土したドヴァラヴァティ文化の『法の車輪(ダンマ・チャッカ)』

 

何故それは、『車輪(チャクラ)』でなければならなかったのか?

あらゆるインド学・仏教学の基盤には、この設問とその答えとが置かれなければならない。何故なら古代インド的な心象世界の正に核心・中心に位置づけられるものこそが、この車輪(チャクラ)思想に他ならないからだ。

(本投稿はブロガー版『脳と心とブッダの悟り』記事を加筆修正したものです)  

 
 

 

 

ブッダの瞑想法とは魂のリカバリである

このインストールするセキュリティ・ソフト型宗教と対置される形で、もう一つ全く別の宗教形態が存在する。それが『アンインストールするリカバリ型宗教』だ。これは原理的に、この地球上で唯一カルトではない宗教になる。

全ての宗教はカルトである、という先の定義に従うのならば、これはもはや宗教ではない。このカテゴリーに所属し、その完成度を最大限に高めた教えこそが、ブッダの瞑想実践に他ならない。

宗教とは何か? - 仏道修行のゼロポイント

仏教の核心にあるブッダの悟り。シッダールタがこの悟りの境地に到達し全ての苦悩から解き放たれた作用機序とは、本質的に信仰ではなく瞑想実践によってアクティベートされる。それは具体的には、アナパナ・サティと呼ばれる『呼吸への気づき』という心的活動に始まり、そこに終わる。

だが、この2つの宗教形態、すなわちインストール型とアンインストール型はまったく別々に無関係なものでは決して無い。その作用機序には明確な違いがみられるが、インストール型宗教にもアンインストール型の働きが『行法(ぎょうほう)』という形で多かれ少なかれ内包されており、アンインストール型宗教にもインストール型の『信仰』がその作用過程で重要な役割を担っているからだ。

しかしやはり、この2つは本質的に真逆の方向を志向する。それはそれぞれのネーミングが直接的に表している通りなのだ。

世界中のほとんど全ての宗教が、OSである自我意識にインストールされるセキュリティ・ソフトなら、アンインストール型の仏教とは一体何だろうか。

それは、アンインストールという言葉が直接示唆する様に、すべてのソフト・ウエア/アプリケーションが『止滅』した魂の初期状態、これはひとつのイメージだが、誕生直後の赤ん坊の出荷状態に還る完全リカバリを意味するだろう。

長年使ったパソコンがどうしようもなく重くなり、様々なトラブルを頻発するようになって、可能な限りソフトウエア的対策を講じてもにっちもさっちも改善の兆しが見られず、もはやその運用に困難をきたした時、私たちは何をするだろう。その時に私たちが取る最終手段、それこそがこの完全リカバリに他ならない。

母親が赤子を産み落とす行為を、英語ではデリバリーという。文字通り赤ちゃんはこの現象世界に『出荷配達』されるのだ。その誕生の瞬間、新生児はオギャーと泣き叫ぶと共に力強く呼吸を開始する。それは彼にとって全く新しい鮮烈な感覚をもたらすに違いない。

その時彼は、産道を通過する際の強烈な「窮屈さ」を経て突然自由になった手足をばたつかせると同時に、羊水の海から空気中へと移行した衝撃を、何よりもまず察知される水と空気の質感や温度の違い、すなわち皮膚感覚で感じ取ることだろう。

聴覚については胎児の時から一定の活性をもって様々な環境音を聞き取っているらしい事が分かっている。しかしそれは未だ明確な意味の体系としては焦点を結んでおらず、母親の声以外は単なるBGMに過ぎない。

つまり、出荷直後の人間意識の原風景とは、呼吸意識(を含めた自律神経意識)、体性運動意識、そして体性感覚意識の三位一体であり、基本的にこの3つのファンクションは、パソコンに譬えた場合、ハードウエアに付属し最初からビルトインされているファームウエアに相当する。

コンピューターにおいて全てのソフトウエアは基本的に0と1という2進法のマトリックスによって記述される。新生児におけるこの出荷直後の純粋意識は、いまだOSである自我意識のマトリックスさえ記述されていない最小限のファーム意識であり、大脳的には『エンプティネス(空)』を体現している(この時点では大脳的なニューロン・ネットワークはその配線すらされていない!)。

そこにはもちろん、OSのアプリに過ぎない言語的シンキング・マインドなど未だ書き込まれていない(「言語的思考を伴わない意識」とは、どんなものだったのだろう)。

彼の魂は、脊髄・脳幹という非情動性の中枢(植物性の中枢)に留まり、いまだ辺縁系という『マーラの門』をくぐってはいない。もちろん必要に応じて、やがて彼の辺縁系は確実に目覚め、空腹を覚えれば授乳を求めて泣き、不快を感じればまた泣き叫ぶだろう。だがここで最も重要なのは、ある程度確立された自我意識において明らかな『排他』という‟意思”が、そこにはほとんど全く見られない事だ。 

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parents.com より。

ヨーガ・アサナとは赤ん坊の脳神経活性を取り戻し瞑想の深みへと降りるための準備運動である。

 

誕生という嵐のようなイベントを過ぎた彼の魂は、やがて静かな安らぎと共に息づき、眼を合わせる全ての他者に対して微笑みをもって答える。これを新生児微笑という。それは文字通り天使(菩薩?)の微笑みとして、そこに立ち会う全ての魂を癒さずにはおかないのだ。

この新生児微笑を始めあらゆる動物の赤ん坊に普遍的な可愛らしさは、親や大人の庇護がなければ生きていけない無力な赤ん坊の生存戦略である、そう生物学的には説明されている。

しかし、本当にそれだけだろうか?そこには私たちの魂が持つ、『無条件の親愛性』という本質的な原風景が、表れてはいないだろうか。

ブッダの瞑想行法が魂のリカバリであり、赤ん坊の「出荷状態」意識への還帰である、と言う仮説は、比丘の生活様式を見ればかなりの程度うなづく事が出来る。

出家の比丘たちは、その食を在家信者たちから無条件で与えられつつ必要以上の量を拒み、非性的である事を保ち続け、酒を飲まず、あらゆる競争や闘争の巷から隔離され、社会の荒波から大切に守られて、その修行に専念する。

私たちの社会において、彼らの様な特別な地位と性格を担保されているのは、実際の所、赤ん坊以外にはいないのではないかと私は思う。

私の好きなタイの高僧にアチャン・チャー師がいる。

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Dhamma-Vorträge von Ajahn Chah より。素朴な飾り気のない笑顔は親愛に満ちている。

 

彼のその笑顔と朴訥な語り口は、万人に愛されずにはいられない、ある種の『愛嬌』に満ちている。彼は、パンニャの智慧と原初の無垢を併せ持った、一人の無邪気な偉大なる『赤ん坊』だったのではないだろうか?

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Vinyana Meditation Group より。彼の笑顔には権威ぶったポーズなどかけらもない。

 

 もちろん、瞑想修行を深めた高僧師範と単なる赤ん坊とでは全く意味が異なる。しかし、その意識状態の本質的な部分で、少なからず重なり合っている気がしてならない。

私たち大人は、もちろんオギャーと生まれた瞬間から始まって、幼児期、少年期、思春期、青年期のそれぞれを着実に経験する事によって現在に至っている訳だが、しかし実際の所、自分が赤ん坊の時に何をどのように感じ、世界をどのように観ながら生きていたのか、と言う『事実』を覚えている者は皆無に等しい。

未だオムツに包まれた腰を真っ直ぐに立てて、空腹も不安も、あらゆるネガティブな情動とは完全に無縁な状態で、今この瞬間にただ『おすわり』して、微笑みながら世界を観照していた時、一体私たちはどのように観、何を感じていたのだろうか。

その瞬間の安楽は、ひょっとしたらブッダの説いた『安楽(ニッバーナ)』と原理的に関係しているのではないだろうか?

その『安楽』はあるいは『誕生前』にすら遡行するものなのかも知れないが、どちらにしても私たちの内部に本質的に備わっていない資質、もしくは『意識状態』を、私たちは決して経験する事は出来ない。

そのような観点から、私はブッダの瞑想法の『作用機序』について、これから考えていきたいと思っている。