仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

アナパナ・サティ~呼吸意識の本質

脊髄と延髄が持つというその非情動性について、ここではまずブッダの瞑想法であるアナパナ・サティ(呼吸への気づき)との関連性から、呼吸中枢である延髄(+橋)の性質について考えてみよう。

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「神の存在」という幻想(1) - 気の向くままに より、大脳辺縁系

大脳や小脳を樹冠にたとえれば、脳幹は文字通り樹の幹になる

延髄から見て、情動の門である大脳辺縁系の向こう側の世界は、排他と利己という情動、すなわち『マーラ』に支配された『サンカーラ』の論理によって統べられていた。

その強大な力は、人類において格段に発達した前頭葉的な理性と利他の性質によっても、未だ十二分にコントロールし得ない獣性に他ならない。

その獣性は、私たちが動物として生存し子孫を残すために必要な、食料と配偶者という2つの資源が、基本的に他者と争って相互に敵対排除するプロセスを経て勝ち取られなければならないものだった事から生まれた。生物学ではこれを、環境中に限られた食と性を巡る熾烈な資源獲得競争と端的に表現する。 

その根底にあるのは食と性を巡る競争原理だ。植物のようにエネルギーの自給システムである葉緑体を持たない動物は、自らの意思で環境世界を探索・行動し食料を確保しなければならない(ゆえに『動』物になった)。また有性生殖を始めた多細胞動物たちは、常により優れた配偶者を獲得するために様々な策を凝らし、戦う事を余儀なくされている。

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もちろん生き続けようと欲すれば、身の安全を確保しあらゆる危険を避け、時には戦う必要がある、という大前提も忘れてはならない。

わが身を守る為には毒蛇を避け安全なねぐらを確保しなければならない。おまんま食うためには一生懸命他人に先んじて稼がねばならず、きれいな嫁さんをゲットするためにはライバルを蹴落として勝たなければならない。

私たちはそのような営みを、実に億年単位の長きにわたって繰り返し、現在に至っているのだ。考えてみれば、その『前生』の業、はなはだ深し、である。

しかし翻って、呼吸中枢によって獲得されるべき空気(酸素)はどのような性質を持っているだろうか。それは他者と争って勝ち取らなければ獲得できない希少な資源だろうか。

呼吸気を獲得するために、私たちは現在に至る億年単位の歴史の中で、いまだかつて一度でも他者と争った事があるだろうか? 

最下層の貧民であれあるいは奴隷であれ、明日の呼吸に不安を覚え、人生に絶望する、と言うような経験に苛まれた事があるだろうか?

空気を呼吸するためにもがき苦しみ、額に汗して努力したことがあるだろうか。どの空気は毒があり、どの空気は栄養があるなどと選択を迫られる事があっただろうか。

あるいは、一息吸うごとに快楽に溺れ、一息吐くごとに苦痛にあえぐなどという事があり得ただろうか。

答えは明確にNOだ。空気、それは環境中に常に万遍なく存在し、すべての他者と分かち合い共有されるべき資源だからだ。通常私たちは、そのような事実に気付く事すらなく、呼吸を享受し続けている。

確かに水に溺れる、病的な呼吸困難に陥る、あるいは誰かに首を絞められるなど非日常的な特異な状況下では、酸素を得るために私たちはもがき渇望する。しかしそれはあくまでも非常な事態に過ぎない。

しかしそのような非常時においてさえ、そこには性と食に見られる様な、『排他的』利己性、そして煩悩する『私(わたくし)』は微塵も存在しない事に気づくだろう。

私たちは日常において、すでに獲得した呼吸に我を忘れて陶酔し、次の瞬間にはそれを失うかもしれないと恐れる事はない。それは疑問の余地のない自明として、アプリオリに十全に何の努力もせずに、自ずから与えられているからだ。

常態としてただ呼吸と共にそこにあるのは、浜辺に寄せては返す波の様な無心である。

呼吸意識の基盤には一抹の不安もないという意味での『絶対安心』が存在する。あらゆる対立意識を離れた『非排他性』がある。

呼吸意識。それは数十億年という気の遠くなるような生命進化の歴史の中で、一度としてブレることなく一貫して排他的利己性に基づいた情動、すなわち『マーラ』とは無縁でありつづけた。同時にそれは、快と苦の両極性を離れた中道意識に他ならない。それはまさに『仏性』そのものだと言えないだろうか。

そこにこそ正に、ブッダが苦行を捨ててアナパナ・サティの瞑想に決定(けつじょう)した論理的必然性がある。そう私は考えている。

アナパナ・サティの瞑想実践を深めていくにつれて、おそらく私たちの日常意識は、マーラの支配下にある大脳世界のあらゆるマトリックスを失ってこの仏性に限りなく近づいていく。それはヒンドゥ・サーンキャ哲学において、プルシャたるアートマンが『気息』に譬えられた事と見事に重なり合う。

その気息に止住し、そこから世界を観照した時、彼は一体何を見るのだろうか。そして気息へと深く下降していくプロセスにおいて、あるいはそこから帰還するプロセスにおいて、彼は一体、何を目撃するのだろうか。

私の読み筋では、その時彼は、意識の基板であるOS上に走る自我を構成する様々なアプリケーションが、逐次停止していく様を如実に観察する。

つまり、彼自身が解体され止滅していく『過程』をまざまざと‟観る”。

そのプロセスこそが、魂のリカバリであるブッダの瞑想法の核心において働く『作用機序』に他ならない。

もちろんこの瞑想において私たちの心が『リカバリ』されたとしても、それが完了した時に全ての記憶やソフトウエアが消去されているわけではない。私たちは基本的に今までと同じマトリックス世界に立ち返らなければならない。

それはいわばマトリックスの領域、すなわちサンカーラがプログラムとしてインストールされた領域からそれがインストールされていない領域への一時的下降離脱のプロセスだからだ。

けれども、もしこのプロセスがシッダールタの到達した領域にまで至った時、あるいはそこまでいかなくても、明らかに有意なボーダーラインを超えた時、私たちの日常意識に劇的な変容が立ち現れる事は十分に考えられる。

それは『全人格的変容』という言葉が真に相応しい、心の‟どんでん返し”になるだろう。

何故なら、その時彼はマトリックスの夢から完全に目醒め、その虚構性についてまざまざと『直観』するからだ。そのプロセスをヴィパッサナーと言う。

ここに提出した『インストール型宗教とアンインストール型宗教』という思考の枠組みは、あくまでも暫定的な作業仮説に過ぎない。しかし、この方法論を採用する事によって、ブッダの教えを脳科学生態学・進化生物学など現代科学の最先端の言葉に翻訳する作業が、限りなく高い整合性を持って可能になる、そう私は感じている。

このブログにおいて提示される思索は、苦悩にあえぐ人々がブッダの瞑想法によってその苦しみから解放されていくリアルな『薬理的作用機序』を、万人に理解可能な合理的な形で明らかにする事を目指している。

もちろんこの試みは、あくまでもマトリックス世界の内部で知的に行われるものに過ぎない。どんなに論理的にブッダの悟りに近づいても、それがイコール悟りそのものの体験では絶対にない事を、忘れてはならないだろう。実際の悟りとは、正に大脳的マトリックスからの離脱なくしては到達不可能なのだから(2000年以上続く、行と学の二律背反!)。

次回からは、私の主観的な直感に導かれた上の仮説を、パーリ経典やヴェーダウパニシャッドなど様々な文献データを紐解きながら、その個々の事例を細部にわたって客観的に検証していこうと思う。

その作業を進める上でひとつの重要なキー・コンセプトがある。それがインド世界に数千年にわたって通奏低音の様に伏流する『チャクラ(輪軸)のシンボリズム』だ。

ブッダの説法・布教のプロセスが何故『法の車輪を転ずる』という言葉で表されたのか。何故それは、『車輪(チャクラ)』でなければならなかったのか?

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タイ中部で出土したドヴァラヴァティ文化の『法の車輪(ダンマ・チャッカ)』

 

何故それは、『車輪(チャクラ)』でなければならなかったのか?

あらゆるインド学・仏教学の基盤には、この設問とその答えとが置かれなければならない。何故なら古代インド的な心象世界の正に核心・中心に位置づけられるものこそが、この車輪(チャクラ)思想に他ならないからだ。

(本投稿はブロガー版『脳と心とブッダの悟り』記事を加筆修正したものです)