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仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

宗教とは何か?

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宗教とは何か?

NHKテレビで放送された『未解決事件File・オウム真理教事件』の中で、何人かの警察関係者が異口同音に語っていた言葉がある。

「まさか、宗教団体が、この様な反社会的な破壊的テロ行為を組織的に計画しているとは、想像もできなかった・・・」

これは大方の一般市民にとってもごく自然な感懐なのかも知れない。しかし私の考えは違う。どうも宗教音痴の日本人は、『宗教』が持っている本来の姿というものを見失って久しい様だ。

歴史的に見て、宗教が世界平和や人類みな兄弟などとその『普遍』を標榜するようになったのは、ここ最近ほんの100年ほどの出来事に過ぎない。

宗教本来の姿とは、その信仰を共有する特定の集団、つまり氏族・部族・民族、階級、組織が持つ排他と利己という目的意識を強化し、その欲望を推進するために常に原動力として機能するものだった。

ニューギニアの未開のジャングルで、ワニをトーテムとするA族と、極楽鳥をトーテムとするB族が隣り合って暮らしていたとしよう。縄張りや女性を巡って争いが起きれば、両部族はそれぞれの主宰神を掲げて戦場に臨む。

ワニ神はA族にとっては至高の神であり、自らの正義と戦勝を推進する守護神だ。だが、対立するB族から見ればそれは明確に悪魔と言って良いだろう。B族の極楽鳥神もまた然り。ここに宗教が持つ本質的な姿が露わになる。

トーテムの属性は、常に人間的な日常を超えた力、すなわちワニの場合は強力な顎や牙そして尾の破壊力、極楽鳥の場合は色鮮やかな美しさとその飛翔能力、などの『超(人間的)能力』と深く結びついている。日常的な人間わざを超えた超常的な神の威力を背負う事によって、戦場における恐怖は勇気へと変わる。

同様にオウム真理教事件を、圧倒的な多数を占めるマネー神族(日本株式会社)に対して、絶対的マイノリティーであるオウム神族が仕掛けた一発逆転ゲーム(戦争)だったと考えるとまた違った見方ができないだろうか。それは実に愚かな挑戦だったが、しかし宗教としての原理は一貫している。オウム神という異端のミームを勝利させるためには、あれが最善の道だと麻原彰晃は信じたのだろう。


宗教とは心にインストールされたセキュリティ・ソフトである

そもそも宗教とは一体何だろうか。私はそれを、脳とコンピュータの相似性から、この様に譬えたいと思う。それはすなわち、宗教とは脳において顕在化した『自我意識』というオペレーション・システム(OS)が、自らが持つ本質的な脆弱性を補うために創り上げた『セキュリティ・ソフト』である、と。

セキュリティ・ソフトである以上、その目的は自己を守り、敵対する他者を排除する事を至上命令とするのは当然の帰結だ。

1台のパソコンに2種類のメジャーなセキュリティ・ソフトを同時にインストールすると、必ずと言って良いほど干渉問題を起こす。お互いがお互いの論理をウィルスと認識して排除しあうからだ。

もしマカフィーカスペルスキーをそれぞれインストールした2台のパソコンを『有機的』に接続して相互にコミュニケーションが可能になったとする。その瞬間マカフィーカスペルスキーはお互いにお互いを敵と認識して戦争状態に突入しないだろうか。

私はコンピューターの専門家ではないので、もちろんこれは単なるたとえ話だ。だがこのたとえ話は宗教とは何か、という問いについて考える時に、重要な示唆を与えてくれるだろう。

オウム神族とマネー神族のあまりにも異質なセキュリティ・ソフトが、お互いにお互いをウィルスと認識して、オウム神が先制攻撃をかけた。それが、オウム真理教事件のひとつの解である、と私は思う。

おそらく、麻原彰晃という人間は、たぐい稀なレベルでプリミティブな生命力に溢れたシャーマン的『族長』だったのだろう。仏教的な『文脈』など、実際彼にとってはどうでもいい事だったのだ。

 

脳に見る貪瞋痴の基盤

全ての生物個体は、いわゆる『利己的な遺伝子』の発現の結果としてこの世に存在しその生を営んでいる。その根底には『排他と利己』という強力なコマンドが存在する。彼の全ての行動原理は、正にこのコマンドによって貫徹されていると言ってもいい。

人間もまたその例外ではない。それはあらゆるスポーツやゲームを見れば一目瞭然だろう。例えば野球やサッカーを見てみよう。そこでの至上命題は敵の得点をいかに妨げ、自分がいかに得点をあげるか、という事に尽きる。分かりやすく言えば、他者に得をさせず、自分だけが得をする。正に排他と利己の人生ゲームだ。

人々はその戦争シミュレーションを観戦して興奮し、自らを同一化した贔屓チームの勝利には雄叫びを上げて歓喜する。

この排他と利己という本能的な情動を、正に推進し強化統合するためにこそ、宗教が生まれ発達し続けてきた事実は、未開社会の部族神の機能を見れば一目瞭然だろう。

その根底にあるのは食と性を巡る競争原理だ。植物のようにエネルギーの自給システムである葉緑体を持たない動物は、自らの意思で環境世界を探索・行動し食料を確保しなければならない(ゆえに『動』物になった)。また有性生殖を始めた多細胞動物たちは、常により優れた配偶者を獲得するために様々な策を凝らし、戦う事を余儀なくされている。

その戦いのための情報収集器官として発達したのがいわゆる五感、眼鼻耳舌(身)の感覚に他ならない。集められた情報を集約してひとつの行動『意』思にまとめ上げるために大脳が生み出され、私たちのこの『意識』が顕在化した。

そのように考えれば、私たちの脳が、正に『排他と利己』の権化であるとしても何の不思議もないだろう。

そしてこの排他と利己という衝動には、具体的な脳器官という器質的な基盤が存在する事が明らかになっている。それが、いわゆる大脳辺縁系と呼ばれるものだ。

ヒトの中枢神経システムは、構造的・機能的に見て大きく3つの部分に分かれている。体性感覚の下部中枢である脊髄とその延長上にある下部脳幹と小脳。その上に位置する大脳辺縁系。それを中心に包み込むように丸く発達した大脳だ。

脊髄と呼吸中枢である延髄を中心とした下部脳幹は別名『植物的な脳』と呼ばれる。それはこの中枢が、先に述べた排他と利己の衝動を持たない静かでニュートラルな中枢だからだ。

それは外部環境の中で行動するための中枢ではなく、身体という内部環境を維持管理するための中枢だ。大脳に宿る意識はいわば対外行動意識であり、脊髄・下部脳幹に宿る意識は内部統制意識であると言っても良いだろう。

橋(きょう)は延髄と共に下部脳幹を構成するが、この橋にしがみつくような形で後頭部に小脳が突き出している。これは別名達人の脳とも言われ、人間的なあらゆる精緻な運動の根拠となっている中枢だ。基本的にこれも非情動性の中枢に分類される(いわゆる『ゾーン』の中枢だ)。

そして上部脳幹から始まり大脳辺縁系を中心とした領域で、正に私たちの排他と利己という衝動は発動する。それは進化史的に見て大変古い動物の脳だ。それは仏教的な文脈では『 貪瞋痴=マーラ 』の座と言ってもいいだろう。


貪瞋痴=マーラの座は大脳辺縁系である

その衝動は、基本的に『快と不快』『好きと嫌い』『喜びと悲しみ』『愛と憎』『恐怖と安心』『怒りと慈しみ』などの両極性で成り立っている。この大脳辺縁系が同時に食と性の中枢であるのはその性質上当然の事だろう。

この排他と利己という辺縁系からの指令に基づいて、五感からの情報を分析し瞬間に判断し行動するのが大脳の役割になる。例えばあるものを見たり聞いたり嗅いだり味わったり触ったりした瞬間、その情報は辺縁系に送られ、すぐさま快と不快、つまり利己性にとってプラスかマイナスか、という判断がフィードバックされる。その判断と同期した自我意識はすぐさまその対象に対して情動を覚える。この一連の情動反応こそが、パーリ仏典で言う『サンカーラ』に他ならない。

つまり仏教的な文脈で言うサンカーラ、あるいは象徴的にまとめた『貪瞋痴』は明白な辺縁系のファンクションなのだ。『貪瞋痴』には明確な器質的基盤がある事を、第一にここで私たちは理解しておくべきだろう。

大脳は知性の脳とも言われるが、常に辺縁系からの強力なコマンドの影響下に置かれており、その衝動をコントロールするのは原理的にも難しい。その困難をある程度可能にしたのが、私たちが持つ発達した前頭葉であり、特に前頭前野と呼ばれるところに人間的な『理性』の座があると言われている。

全ての個体が持つ排他と利己という衝動は、その性格上常に他者との間にコンフリクトを生み出す。そこには常に様々な利得の割合によって勝者と敗者が存在する。進化の過程でその社会性を強めた人類にとって、動物的な無分別な利己性の発揮は、明らかに自他共に生存上不利益をもたらす場合が多くなった。

そこで人類は、大脳の発達と共に辺縁系に発する動物的衝動をコントロールする力、すなわち利己心を抑制し他者の利益をも考えて協力する理性、そして自分だけでなく他者をも愛する情性を獲得していった。そしてそれは宗教が芽生え、『戒』や『隣人愛』という倫理体系が顕在化していくプロセスでもあった。

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ブッダの瞑想法とは

宗教というセキュリティ・ソフトがインストールされるのはどこだろう。それは一見理知性の大脳であるように見える。いわゆる世界宗教などを見れば、膨大な神話や教義が正に大脳的な言語概念で提示されているからだ。しかし未開社会における宗教の起源を見れば、それは原始的な情動である自己愛に発しており、例え文明的に発達した宗教であっても、それが起源しアクティベートされるのは情動の脳、すなわち辺縁系における『信仰』という理屈を超えた心的態度であるのは明白だろう。

全ての宗教概念は言語という媒体機能を通じて共有(インストール)される。しかしそれがアクティベートされてセキュリティ・ソフトとして実効力を発揮するためには、辺縁系に発する信仰(情動)という解発因が必須なのだ。

例えば、若くして夫を亡くした母が、まだ幼いわが子にこう言って聞かせたとしよう。

「お父さんは、決してAちゃんを捨てて消えてしまったのではないのよ。お父さんはね、夜空のお星さまになっていつもあなたを見守っていて、何か困ったことがあったら必ず助けてくれる。だからAちゃんもお父さんに褒められるように頑張ってね。」

もしAちゃんがこの『神話』を一時的にも『信仰』することができれば、彼の傷ついた心はより速く回復し、神話を信じる事ができずに苦悩し続ける場合に比べて、より前向きに力強く生きていく事ができるだろう。それは彼の『適応価』を確実に高めている。

わが子に語ったこの『神話』は典型的なセキュリティ・ソフトとして、彼の心に影を落とした苦悩というウィルスを、適切に駆除する事に成功したのだ。

お星さまになったお父さん、それはあらゆる『神』の原風景だ

ここに宗教というものが持つ、もうひとつの機能的原風景が存在する。彼がお星さまになった父に対して抱く思慕と信頼の感情は、そのままあらゆる宗教における超越的神格に対する情動的な信仰心の萌芽とも言えるだろう。

まとめると以下のようになる。

「宗教とは、大脳に宿ったOSである自我意識が、自身の持つ本質的な脆弱性をカバーするために自ら創造したセキュリティ・ソフトであり、その機能は、辺縁系に発する排他と利己という生物学的情動を支え励ますと同時に、社会的な適応価を高めるためにその情動を適宜抑制し、その利己的な生存意思を踏みにじるような過酷な経験によって自我意識が深く傷ついた場合、その苦悩をウィルスとして感知し駆除するものである。そしてこれらの効能が働くためには、人の心が持つ超越者に対する『信仰』という心的態度(情動)が、その解発因として何よりも必須となる」

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私はこの様な宗教を、『インストールするセキュリティ・ソフト型宗教』と便宜的に呼びたいと思う。そしてここでは、このタイプの宗教をすべて『カルト』と呼ぼう。このカテゴリーにはおよそこの地球上に存在する99%の宗教が含まれる事になる。ほとんどすべての宗教は『カルト』なのだ。

そしてこのインストールする宗教と対置される形で、もう一つ全く別の宗教形態が存在する。それが『アンインストールするリカバリ型宗教』だ。これは原理的に、この地球上で唯一カルトではない宗教になる。

全ての宗教はカルトである、という先の定義に従うのならば、これはもはや宗教ではない。このカテゴリーに所属し、その完成度を最大限に高めた教えこそが、ブッダの瞑想実践に他ならない。

本ブログ「仏道修行のゼロポイント」では、以上の宗教観・仏教観を前提にして、ブッダの瞑想法の原像に肉薄すべく、探求を進めていきたいとおもう。