仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「苦脳」としての激流の大海 と『意官』

(本投稿内容には解剖学的図版が含まれます)

しばらく続いたヴィーナ話から体内の輪軸世界に戻ろう。

前回までに私は、

「身体の中にある水において、最も重要なふたつ、それは妊婦において胎児をはぐくむ羊水と、明らかに他の臓器とは異なったありようを示す脳である」

「体内の須弥山構造において、脳とは上端、すなわち天界の車輪の内部にあり、羊水(胎)とは下端、すなわち地界の車輪の内部にある」

と指摘してきた。

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再掲:体内の輪軸世界観

骨盤(と両足)は大地の車輪を表し、脊柱は万有の支柱スカンバ(ブラフマン)でありそこから派生した須弥山を表し、そして頭蓋骨(頭頂)は天上界の車輪を表している。

骨盤(大地)に抱かれた胎において羊水は胎児を生みなし(人間:プルシャの起源)、胎への情欲に駆られ、頭蓋(天界)に抱かれた脳において、私たちは煩悩する。

そして、何故骨盤に抱かれた羊水が、身体の中の「水」において最も重要なもののひとつであるのか、それは何よりもこの羊水が世界の起源にも関わる胎児を育む「受胎」の現場であり、インド思想における「輪廻転生の最前線の現場」であるからだ、と論じて来た。

その流れで今日論ずるのは、身体の中の「水」において最も重要なもうひとつ、「脳」についてだ。

まず最初に、何故脳が「水」なのか、という点について見ていきたい。胎児を育む羊水は、その名の通り誰が見ても文句がないほどに水そのものだが、一方の脳は、明らかにある種の「肉」であり、固体としての形を持っている様に見える。

ここで読者の方に考えて欲しい事がある。

人間の身体組織の中で、あるいは「臓器」の中で、最も水分に富んでいるのは一体何だろうか?

例えば、これは臓器ではないが、すでに取り上げた羊水や汗や尿などは、見た目も質感もほとんど水にしか見えない。また血液も、液という如くに水様の液体であり、その水分含有量は相当に高いものと推察される。

ネット上を渉猟して情報を集めると、今問題になっている脳なのだが、実はこの、明らかに液体状に見える血液と水の含有量がほとんど等しいらしく、その水っぽさは、身体の中の眼に見える形としての臓器の中でも群を抜いているらしい。

私が調べた範囲では、血液において水が占める割合は85%、一方明らかに固体状である脳の水分含有量は80%だという事だ(諸説ある)。

これには私自身も驚いてしまった。

この水分量80%という数値は、ほぼ木綿豆腐のそれと等しいそうだ。豆腐の実態は大豆たんぱく水(豆乳)をにがりというミネラルで凝固させたものだから、その他若干の脂質成分なども含めて、脳とは頭蓋内に浮かんだ豆腐のようなものだ、と言って、ほぼ間違いないと思う。

今私は頭蓋内に浮かんだ、と書いたが、これは決して文学的な表現などではない。実は私たちの脳は、あたかも豆腐屋さんの水槽の中で木綿豆腐が水に浮かんで冷やされている様に、頭蓋という「水槽」の中で、水に浮かんで存在している。

私たちの脳を浮かべている水。これを専門用語で「脳脊髄液」と呼ぶ。その名が示すように、辺縁系基底核・間脳を含めた大脳、脳幹(中脳・橋・延髄)、脊髄、つまり私たちの神経中枢の全てが、この脳脊髄液の中にプカプカと浮かんで(あるいはどっぷりと浸かって)、保護されているという。 

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城東治療院さんより 脳脊髄液の循環

この図は若干誇張されたものだが、脳中枢神経系が『水』に浮かんでいる状況がよく表わされている。この脳脊髄液の役割については、いろいろな事が言われているが、余り良く分かっていない、と言うのが実情のようだ。

脳脊髄液

脳と脊髄(背骨の中にある太い神経の束)、そしてこれらを包んでいる膜(硬膜)の間を流れる無色透明な液体で、髄液とも呼ばれます。脳室(脳のなかの空洞)でつくられ、循環し、脳の表面にあるクモ膜顆粒で吸収されて静脈に戻ります。役割は明らかではありませんが、主に脳の水分含有量を調節し、形を保つ役割をしていると考えられています。

国立がん研究センターより

私は、脳脊髄液の主要な機能として脳の冷却、という事を想定している。

それは本稿において重要な視点であって、この脳脊髄液が大脳から仙髄までの中枢神経系を「まるっと」浮かべており、ある種のポンプ作用によって、この水がぐるりと循環しながら、全システムを冷却しているのではないか、という視点だ。

この脳脊髄液は無色透明な液体で、その成分はリンパ液と同等で、リンパ液とは血液から血球成分を除いたものだそうだ。そして、これらすべての体液が、言うまでもなく様々な観点から、海水の組成と酷似している事になる。

煩雑になるのでひとつだけ上げるが、リンパ液と海水は、等張の浸透圧を持っているらしい。興味のある方はググってみよう。

話が少し脱線してしまった。脳はその80%前後が水でできている。その割合は液体状の血液にかなり近しい。そしてほとんど海水のような脳脊髄液の中に浮かんでいる。

以上の科学的事実をもって、私は「脳とは頭蓋内部にあるもう一つの重要な体内の大水である」と指摘した訳だ。

では、その事実を、古代インド人であるところのゴータマ・ブッダたちは、果たして認識し得ていただろうか?

私の判断では、答えはイエスだ。

これはまた後で論ずる事でもあるのだが、人間の脳、特に大脳は身体の中で最も酸素を多く消費している。それゆえに、人間が死んで呼吸が停止すると、身体の中で真っ先に死滅し、その細胞は解体・腐敗へといち早く変質して行く。

元が豆腐のようにほとんどが水分だから、腐敗・分解したらあっという間に悪臭を放つドロドロのヨーグルト状態になる。もし出口があれば、それは体中のどこよりも早く、ダラダラと流れ出して来る事だろう。

苦行時代のシッダールタや初期サマナ達は、屍林(寒林)と呼ばれる死体置き場(野ざらしの墓場)で生活していたと言うが、そこに放置された死体が野獣などによって頭蓋を損傷されていれば、この腐敗したドロドロの「脳グルト」がこぼれ出して来る光景を見ることは、さほど珍しい事ではなかったはずだ。

たとえ頭蓋自体が破壊されていなくても、人間の頭部には頭蓋内部に通じる「穴」がいくつも空いている。

それは耳腔であり鼻腔であり眼窩だ。一定の時間がたてば、これら脳内部と神経的につながった、つまり頭蓋内部に物理的な穴でつながったところから、この腐敗したヨーグルト状のドロドロの脳液が流れ出して来るのは必定なのだ。

彼らサマナ達は慨嘆しただろう。我らが後生大事にその頭蓋の中に抱え込んでいる脳髄という代物は、実に不浄な泥沼のようなものであると。

さて私は今、意識的に「泥沼」という言葉を使用した。この言葉が、パーリ仏典の中で、ある象徴的な意味を持たされているものだからだ。

それは、欲望の泥沼、として、あるいは煩悩の泥沼、として、パーリ仏典のあちこちに登場する。

スッタニパータ327 (以下すべて岩波文庫中村元訳)

つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。泥沼に落ち込んだ象のように。

同注:難処 ― 人間が煩悩から離れがたい事を「難処」に喩えて言う。

あたかも泥沼に落ち込んだ象が手足を動かして苦労して自分を泥沼の難処から引き上げて陸地に安住するように、汝らもまた煩悩の難処から自己を引き上げて、ニルヴァーナの陸地に安立せよ、という意味である。」(ブッダゴーサ注解)

 

仏弟子の告白88アッジュナ長老

わたしは実に水中から陸上に自分を引き上げることができた。大きな水流に流されていたかのごときわたしは、四つの真理を体得する事ができた。

 

仏弟子の告白89デーヴァサバ長老

泥沼やぬかるみを超えおわった。深淵は避けることができた。激流や縛めからは解放された。あらゆる高ぶりは根絶やしにされた。

 

感興の言葉・第32章の48~

泥沼をわたりおわって、村の刺(諸感官を刺激するもの)を粉砕し、情欲・憎しみ・迷妄・慢心・貪ぼり・愛執、を滅ぼすにいたった人、― かれこそ修行僧とよばれるのである。

煩雑になるので引用はこのくらいにするが、ここに明らかになる文脈とは、

泥沼やぬかるみは基本的に「水っぽい」ものであり、水流や激流と呼ばれるものと同義である。水流とは修行僧によって渡られるものであり、それはつまり煩悩の激流であり、輪廻の大海・深淵と同意である。

そして煩悩(苦悩)の激流(難処)とは、情欲・憎しみ・迷妄・慢心・むさぼり・愛執、と同意である、という事だ。

これら情欲、憎しみ、迷妄・慢心・むさぼり・愛執とは、脳の働き、であることを21世紀に生きる私たちは明確に「知って」いる(違うだろうか?)。

ここで問題になるのは、では古代インド人はこれら「煩悩」と脳の相関関係を知っていたのか?という命題だ。

果たしてブッダは、この脳髄こそが、“難処” である、という自覚の元に、これらの言葉を発したのだろうか。

それを裏付ける “状況証拠” がひとつあるので掲載しよう。

リグ・ヴェーダ 原人賛歌10・90・13

月はかれの思考機能(manas)から生じた。かれの眼からは太陽が生まれた。かれの口からはインドラとアグニが生まれた。かれの息からは風が生まれた。

中村元選集決定版:「ヴェーダの思想」より引用

ここでmanas=思考機能と書かれたものは、パーリ語のmano=心、あるいは『意』と同じ言葉だ。

さらに「思考機能から生まれたという月」と、「眼から生まれたという太陽」は、ヴェーダの昔から現代に至るまで、常にセットで語られる二つ組みの天体で、同じ “領域” を運行する。

という事は、月と太陽がセットであるように、思考機能と眼がセットであると考えられ、それは月と太陽の様に同じ “領域” に存在する、と考えられていたと想定できるのだ。

眼と、その後に並べられた口と息が、共に “首から上の頭部” という同じ領域に属している事から、彼らヴェーダの詩人が、思考機能も同じ領域である “首から上の頭部”、しかも “眼と同じレベル” に存在していると考えていた事が、十分に想定可能になる。

さらにパーリ仏典などを読みこんでいくと、彼らは眼耳鼻舌身意の六官を、すべて “感覚器官” として同列に扱っている事が分かる。

眼耳鼻舌身の五官が、それぞれ眼に見える具体的な身体の “器官” として形を持って存在しているのと同じように、意(マナス=思考・心)もまた、形を持った “器官” である、そう認識していた可能性が高い。

太陽であるところの眼と同じ領域レベルにある、月としての思考機能である具体的な身体器官、それは一体何だったのだろうか?

ヴェーダの思想と原始仏教を同列に扱っては困る、という指摘も予想できる。しかし、ヴェーダにおける思考機能マナスは、明らかにパーリ仏典における第六の器官マノに対応しており、その他、煩雑になるのでいちいち引用はしないが、原始仏教の思想とその用語が、ヴェーダウパニシャッドなどの伝統的な諸概念を、いわば “背景思想” として、その上に成り立っている事は、これまでも散々指摘して来た。

これは極めて重要なポイントなのだが、私は、ブッダの時代すでに、人の心(意=マナス)の働きを脳という器官に重ねる認識があった、と考えている。

パーリ仏典には、五官(感)を制して、という言葉が頻繁に登場する。五官とは、眼耳鼻舌身を意味し、五感とはそれら感覚器官からの感受を意味する。そして第六の器官である「意=マナス」が五感の感受によって苦悩する訳だ。

悪魔との対話・第Ⅳ編 第三章 第五節 「娘たち」の18(中村元訳)

身は軽やかで心がよく解脱し、迷いの生存をつくりだす事なく、しっかりと気を落ちつけていて、執着する事なく、真理を熟知して、思考する事なく瞑想し、怒りもせず、悪を思い出す事もなく、物憂い事もない。

このように身を処する事の多い修行僧は、この世で五つの激流を渡り、ここに第六の激流までも渡った。このように多く瞑想するならば、外界の欲望の思いが、その人を虜にする事がない。

同注

五つの激流 ― 眼・耳・鼻・舌・身という五つの門の煩悩の流れ。五官を通じて起こる煩悩の流れである。漢訳には「五欲」とある。その作用を激流に喩える。
第六の激流 ― 第六の器官、すなわちこころ(意)の門によって起こる煩悩を言う。

ここで、5つ+1つ=6つの激流とは、前段の煩悩の激流であり以前取り上げた『泥沼』と同意であると考えられる。では、一体、この六つの激流とは、身体の中のどこにおいて生起していると、他ならぬ古代インド人たちは認識し得ただろうか。

話は極めて単純だ。

眼は視覚、耳は聴覚、鼻は嗅覚、舌は味覚、身とは身体全体の触覚。このうちの眼耳鼻舌は人間の身体の中の、どこに位置しているだろうか?

もちろん、それは首から上の頭部に他ならない。これは古代インド人であろうと誰であろうと、明白な事実だろう。

そして当たり前ながら、頭部顔面には皮膚感覚もある。それは全身でも最も鋭敏な触覚領域のひとつだ(それはキスしたり頭を撫でたりする性愛の接触=煩悩においても重要な意味を持つ)

そして、これら頭部顔面にあるところの眼耳鼻舌身という器官の奥には、

一体、“何がある” だろうか?

もちろんそれは『脳髄』だろう。

その脳髄とは、あたかも足を踏み入れたら ズブズブと沈んでハマって溺れてしまいそうな実に水っぽい『泥沼』だった。

これは、たとえ現代科学の恩恵に浴していない古代インド人にとっても、単純かつ明白な事実だ(違うだろうか?)。

先に引用した感興の言葉・第32章の48~は次の三文節に分ける事が出来る。

泥沼をわたりおわって、

村の刺(諸感官を刺激するもの)を粉砕し、

情欲・憎しみ・迷妄・慢心・貪ぼり・愛執、を滅ぼすにいたった人

ここで、「泥沼を渡り終える」「村の刺(諸感官を刺激するもの)を粉砕する」「情欲・憎しみ・迷妄・慢心・貪ぼり・愛執、を滅ぼすにいたる」という三文で表されている事柄は全て同じ事であって、それをそれぞれ違う言い方で表現しているに過ぎない。

つまり「泥沼=村の刺(諸感官の刺激)=情欲/他」という等式が成り立つ訳だ。

ここに既に説明した脳髄=煩悩激流の現場=泥沼、という図式を当てはめると、すんなりと筋が通らないだろうか?

既に説明した様に、眼耳鼻舌身の奥にある脳髄こそが、これらの器官からの刺激・誘惑が「集成する場」つまり「意官の門」であるという事実は、古代インド人にとっても容易に想定可能だ。

これらの外界から来る刺激対象(情報)、つまり色声香味触の五境が感受され把握されて「意」が生まれ苦悩が生まれるその、「苦悩が生起する現場」こそが「脳髄」である、という認識は、古代インド人にとっても、極めて自然な流れだと私には思える。

さらに、私たち人間は視覚優位の生物だから、意識、あるいは心による認識とは常に視覚を第一に成り立っている。つまり認識主体であるところの「私」という意識は、常に視覚を生みだしている眼の「背後にある」

(だからこそヴェーダの詩人は、太陽である眼と、月である意(マナス)を同じ領域に比定した)

そしてその眼の背後にある、眼の奥にあるものこそが、正に脳髄なのだ。

これもやはり、古代インド人であろうと現代人であろうと普遍的に変わらない人間の本性からもたらされる認識である、と私は判断している。

アートマン、いわゆる人間存在の核心的な魂、あるいは「こころ」は胸の心臓の奥の空処にいる、という認識が一般化していた事は承知している。

しかし、人間の心をマナスとチッタに言い分けた時、マナスが脳に位置し、チッタが心臓に位置していたと言う証言もある。

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古典学の再構築P50より中谷英明氏発言

画像では途切れてしまっているが、中谷氏の発言は以下のように続く。

「もっとも最近、マナスも決して感情や意思を除外した単なる思考ではない事が分かってきていますけれども」

また、アタルヴァ・ヴェーダの中では、人の心はマナス、チッタ共に脳と心臓に置かれていると言う。

HUMAN ANATOMY IN ATHARVAVEDA :PDFより

Atharvaveda refers to Mastiska in the sense of brain and there is mention about Manas and Citta and their functions as well. Here both Manas and Citta are counted separately (AV. Kanda X.2 .8 & 26; III.6 .8 ).

アタルヴァ・ヴェーダマスティスカの名でを取り扱っており、そこにはマナスチッタの機能も言及されている。

At times these two words have been used with out distinction.

二つの言葉(マナスとチッタ)はその時特に弁別されていない。

アタルヴァ・ヴェーダと言うのは上のPDFの題名になっている様に、インド史上医学解剖学の嚆矢と言っても良い内容を含んでおり、既にブッダの時代にはその大枠が成立していた事が知られている。

このアタルヴァ・ヴェーダブッダの背景心象を解明する為に極めて有用なもので、これからも参照する機会が多々あるはずだ。

これはある意味当たり前なのだが、既に指摘した様に、真剣に人体を解剖して考究すれば、脳と言う特異な存在とその意識(心)との関わりを、見逃すはずはない。

ただ、心臓あるいは脳にいるマナスやチッタが、そこに固定されていた、と言うよりは、むしろ移動可能であった、と言う方が、古代インド人の心象に即しているかも知れない。

悪魔との対話・第Ⅳ編 第三章 第五節「娘たち」の1

さて、愛執と不快と快楽という悪魔の娘たちが~悪魔・悪しきものに詩をもって語りかけた
「お父さま!~私たちは、その人(ブッダ)を愛欲の綱で縛って連れてきて、あなたの支配のもとに置きましょう。森の象を縛って連れてくるように」

悪魔いわく
「世に尊敬される人・幸せな人(ブッダ)を、愛欲で誘うのは容易ではない。彼は悪魔の領域脱している。~」

ここでは、「愛執と不快と快楽」=「あなた(悪魔)の支配」、「愛欲」=「悪魔の領域」、であり、これら全てはイコール煩悩の激流、としての輪廻の大海であり、それが個々人によって “主観的に生起され経験される現場” とは、古代インド人にとっても頭蓋の中にある脳髄だった、と考えてみよう。

このような悪魔の領域である「脳髄」から、ブッダは「脱している」。

これは当時支配的だったウパニシャッド的な解釈に従えば、心臓の奥の空処、に避難しているか、あるいは、脳天の門(ブラフマ・ランドラ)から脱出した、と見る事もできる。

仏教的に言えば、そのような脳髄において生起する煩悩の激流の大波が、完全に止滅して静まり返っている(サマタ)。あるいは波の及ばない彼方の陸地の岸辺に避難が完了している。

そのように考えると、以下の仏典の言葉の真意が、切実に理解できる気がする。

スッタニパータ・蛇の章「雪山に住む者」171

世間には五種の欲望の対象があり、意の対象が第六だと言われている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。

 

同173

この世において誰が激流を渡るのであろうか? この世において誰が大海を渡るのであろうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのであろうか?

 

同「勝利」199 

またその頭は空洞であり、脳髄に満ちている。

しかるに愚か者は無明に誘われて、それを清らかなものと見なす

201(199). Athassa susiraṃ sīsaṃ, matthaluṅgassa pūritaṃ;

Subhato naṃ maññati, bālo avijjāya purakkhato.

パーリ原文はTipitaka.orgより

眼耳鼻舌身の五官、色声香味触の五境は、脳髄において意(マナス=マノ)によって感受される。あるいはそれら五官から五境が脳髄に浸入する事によって「意」における苦悩が生じる。

ならば全「身」に分布する「触」もまた、同じ「意」によって、脳髄において感受される。それは自然な流れだ。

あるいは五蘊をひもとけば、色(身)において感受(受)された情報が、想を生み行となって識において苦悩を生みだすとしたら、それら想行識(意)において生起する「苦悩」の現場とは、頭蓋内部にある脳髄である。

その脳髄こそが、“泥沼であり煩悩の激流である” ところの、輪廻の大海(苦海)である身体の、ひとつの焦点である

そのように、古代インド人である仏教徒、あるいは他でもないブッダ自身(あるいはいち沙門時代のシッダールタ)、が明晰に認識していたとしたら…

また、最後の199「愚か者は無明に誘われて、それ(脳髄)を清らかなものと見なす」と言う言葉が非常に印象的だ。それは「脳髄(もしくは頭部)は清らかだ」と考える者たちの存在を前提とし、それを批判しているからだ。

これは当時の身体観において、体内の輪軸構造を前提に頭蓋(及び内部の脳)を天界に見立てた上でそこに清浄性を観ている一群の人々がおり、覚りを開いたブッダは、それを批判しているのだ、と私は推測している。

ブッダの覚りの立ち位置は、体内上下の車輪である頭蓋(脳)も骨盤(胎)も、共にドゥッカの世界であり、そこ(不浄なる全身体)から解脱すべきものなのだよ、と言う事だ。

それはこの199節が属するスッタニパータ:蛇の章「11勝利」全体を通読するとよりリアルに実感できる。

193. 或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは伏し、身をかがめ、或いは伸ばす、・・・これは身体の動作である。

194. 身体によってつながれ、深皮とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのままに見られることがない。

195. 身体はに充ち、に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、

196. 鼻汁・粘液・汁・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。

197. またその九つの孔からは、常に不浄物が流れ出るからは眼やにからは耳垢

198. からは鼻汁からはある時は胆汁を吐き、ある時は痰を吐く全身からは汗と垢とを排泄する。

199. またそのは空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、それを清らかなものだと思いなす

205. 人間のこの身体は不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている

まず194~196節を概観すると、古代インド人の解剖学的知見というものが如実に表れている。これについてもいずれ詳述したいが、今回の焦点は以下の部分になる。

197、198節において、身体の九つの穴から流れ出る不浄として「眼から眼やに」「耳から耳垢」「鼻から鼻汁」「口から胆汁他」「全身から汗と垢」が順次挙げられている

これは順序をみると明らかに眼耳鼻舌身、つまり五官の定型表現になっている(口は舌)ことが分かる。そしてこれら眼耳鼻舌身の直後に「頭の空洞と脳髄」がセットで置かれているのだ。

ならばこの「頭の空洞と脳髄」とは眼耳鼻舌身意『意』そのものではないのだろうか?

そこでは以前(【尼僧の告白】に見る「身体の中の大海」)指摘した様に、人間の身体全体が「205. 人間のこの身体は不浄で、悪臭を放ち、種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている」、つまり『不浄の水場』として厭離の対象である、という心象が鮮明に表され、そして全身体における最後の結語の様に「頭の空洞と脳髄」という不浄に焦点が合わされている。

つまり、まず全身体的な不浄の水場という大きな枠組みから、五官の門の不浄へと焦点が絞られ、最終的に意官の門としての『頭=脳髄』が終極の不浄の水場としてクローズアップされている。

悪魔との対話・第Ⅳ編 第三章 第五節 「娘たち」の18(中村元訳)再掲

身は軽やかで心がよく解脱し、迷いの生存をつくりだす事なく、しっかりと気を落ちつけていて、執着する事なく、真理を熟知して、思考する事なく瞑想し、怒りもせず、悪を思い出す事もなく、物憂い事もない。

このように身を処する事の多い修行僧は、この世で五つの激流を渡り、ここに第六の激流までも渡った。このように多く瞑想するならば、外界の欲望の思いが、その人を虜にする事がない。

同注

五つの激流 ― 眼・耳・鼻・舌・身という五つの門の煩悩の流れ。五官を通じて起こる煩悩の流れである。漢訳には「五欲」とある。その作用を激流に喩える。

第六の激流 ― 第六の器官、すなわちこころ(意)の門によって起こる煩悩を言う。

この悪魔との対話と先のスッタニパータ「11勝利」の文言を重ね、そこに今まで紹介して来た『泥沼』からの脱出、を重ねれば、正に「頭の空洞に満ちた脳髄こそが、「第六の激流であり泥沼である意門の現場ではないのだろうか。

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web.pa.msu.eduより

『苦悩の現場』の究極の焦点とは、マナスが溺れる脳髄という「泥沼」である。それこそが、煩悩の激流であり苦海である、と。

繰り返しになるが、「苦悩の現場=脳髄」という認識は現代に生きる私たちにとって自明な事柄である、というだけでなく、古代インド人にとっても、その日常経験に従って詰めていけば、主観的に極めて自然な、当たり前の自明の理解だった可能性が高い。

もちろんすでに論じた、身体全体という肉身そのものが輪廻の大海であり、煩悩の激流なのだが、中でもその 『究極の焦点』 とも言えるものが、象徴的に脳髄という “水の現場” であり『泥沼』であったと。

前回私は、ブッダによってソーナ比丘に説かれた『箜篌の喩え』について、その結語は『瞑想実践』ガイダンスそのものであるとして、以下の様に書いている。

determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it.

riyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanca
samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī’’ti.

という結語を私なりに訳すならば、

「(瞑想実践行において)エナジー調弦(最適化)をピシッと決めて、その時生れる六官平らかさ(静謐=equanimity=サマタ)の中に深く入り込みそこにおいて観じなさい

となり、まさに瞑想実践上の具体的なアドバイス以外の何物でもない事が明らかになる。

ここにおける六官(indriyā)とは上で取り扱った、

五つの激流 ― 眼・耳・鼻・舌・身という五つの門の煩悩の流れ。五官を通じて起こる煩悩の流れである。漢訳には「五欲」とある。その作用を激流に喩える。

第六の激流 ― 第六の器官、すなわちこころ(意)の門によって起こる煩悩を言う。

「五つの激流+第六の激流」そのものであり、この眼耳鼻舌身という五つの門の煩悩の流れと、それら全てが合流した第六の意の門に起こる煩悩、つまり六官における煩悩激流の荒立ちが瞑想行によって平らかに静まり(サマタ)、それによって初めて観(ヴィパッサナー)が成り立ち、だからこそ六官は防護されなければならない、という構造的なメカニズムが明らかになる。

そしてその六官とは、全て首から上の頭部顔面、つまり『顔の周り』に集住している。だからこそ、瞑想実践の具体的なメソッドとして「顔の周りに(Parimukham)思念(Sati)を留めて」という営為が意味を持つのだ。

本ブログは、以上の文脈を念頭に踏まえた上で、これから先に進んでいきたい。

この『構造』を前提に仏典を精査し読み解いていけば、実に様々な事が、明瞭に筋の通った一貫した文脈として、理解可能になっていくはずだ。

その「威力」はもちろん、ブッダの瞑想法における “悟りの作用機序” の解明においても、大きな力を発揮する事だろう。

(以上はYahooブログ2014年7月20日記事を加筆修正の上移転したものです)

 

ここからは、2019年現在の注記になる。

現時点の私の立ち位置として、上の「出家が超える(脱出する)べき煩悩の激流や泥沼、あるいは意官の門は、明確に脳髄を意識したものだった」という仮説については、依然として相当以上の確からしさを感じている。

これは例によってかなり面白い視点なので、当時その読み筋を辿って行った流れでこれからも温めて行きたいが、とりあえずは例によって暫定的な作業仮説と受け取ってもらって構わない(現状、感覚的には90%以上の信はあるが)

ただ、これも極めて微妙な表現なのだが、「たとえブッダがそのような認識を明確に持っていなかったとしても、ある種感触として』予想していたと仮定する事によって、現代人にとってブッダの瞑想法の作用機序がとても理解しやすくなる」という事は指摘しておきたい。

これは以前書いた「シッダールタの身体はイコール私たちの身体である」という真理に基づいている。私たちは同じ『身体』という『テキスト(あるいはコンテクスト)』を共有している。

これは2500年という膨大な時の流れや現代日本人と古代インド人という文化的人種的ギャップを軽々と超えて、私たちとブッダを強固に結び付けてくれる最強の『チャンネル』なのだ。

シッダールタ・ブッダが主観的に何をどう見ていようが、そこで起きていた事は私たちの身体において起こり得る作用機序と全く同じであり、必ず最終的には、私たちが信を置く科学の言葉に翻訳可能だ。

最後に書いた、「その『威力』はもちろん、ブッダの瞑想法における “悟りの作用機序” 解明において、大きな力を発揮する事だろう」、とはつまりそういう事だ。

 

(この投稿はYahooブログ2014年7月20「「苦脳」としての輪廻の大海 」記事を加筆修正の上移転したものです)

 

 


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