【尼僧の告白】に見る『身体の中の大海』
さきに私は、
「坐禅の形に足を組んで坐った身体が筏であり、その筏で渡るべき輪廻の大海、あるいは煩悩の激流とは、実はその身体の中にある」
と書いた。
そして、
「成人の身体の60~70%は水であり、私たちの身体とは、たっぷたぷの水袋である」
と続けた。
この点に関しては、古代インドの初期仏教徒自身の生々しい証言があるので、下に引用したいと思う。
詩句の大いなる集成(比丘尼スメーダーの感懐)
458:迷いの生存、堅固ではない身体をもつ宿命を、どうして喜びましょうか。
466:不浄で、尿の臭いを放ち、恐ろしい、腐敗していく身体、つねに滲み出て、不浄にみちている屍体の革袋にどうして執着する要がありましょうか。
467:わたしは身体をどのようなものだと知っているでしょうか?身体は、肉と血で塗られ、虫どもの棲みかであり~
470:身体は、はかないものであり、骨と筋肉との集合で、唾液や涙や大小便に満ち、腐敗してゆくのに、人々はそれに執着しています。
472:個人存在の5つの構成要素、12の領域、18の要素は、形成されたものであり、生をその根本としていて、苦しみである、と、理にかなって、正しく考察反省するならば、わたしはどうして、結婚を望みましょうか。
496:涙と、乳と、血と、始めも終わりも無い輪廻を思い浮かべて下さい。生ける者どもが輪廻して、骸骨が積み上げられたのを思い浮かべて下さい。
497:涙と乳と血とを集めると、四つの大海となることを思い浮かべて下さい。一人の人の一劫のあいだの骨を集めると、ヴィプラ山にも等しい大いさになることを思い浮かべて下さい。
497:輪廻する者にとって、ジャンブー州なる大地は、始めも終わりもない輪廻の世界に譬えられます。
501:泡沫の塊に譬えられる、はかない身体の宿命を思い浮かべて下さい。身を構成する5つの要素の集まりは無常である、と見なされよ。多くの苦痛を与える地獄のことを思い浮かべて下さい。
511:不老が存在するのに、なぜ、あなたは、老いるはずのもろもろの欲望を求める要がありましょうか。すべての生まれは、どこでも死と老いに捉えられています。
512:これは不老である。これは不死である。これは老い死ぬことのない境地である。憂いなきものである。
この言葉の集成は、比丘尼スメーダーが婚約者を振り切って出家した時の情景をもとに彼女の世界観・価値観を表明したもののようだが、ここには初期仏教徒の「人間観」そして「輪廻観」が、まざまざと活写されている。
(ただしここでは、初期仏教に特有の「身体不浄観」が前面に出ているので、現代人はその事をわきまえて読むべきではある)
そこでは、堅固でない身体とは、尿(水)の臭いを放ち、つねに(水が)滲み出る革袋(水を入れる革袋:注記より)であり、骨と筋肉と血(水)の集成であり、唾液や涙や大小便(すべて水)に満ちたものである、という認識がリアルに表明されている。
以前私が指摘した、「身体とはタップタプの水袋だ」という認識は古代インドにおける仏教サンガでも生々しいくらいリアルに共有されていたのだ。
そして、そのような私たちの生きている身体とは、5つの構成要素(五蘊)、12の領域(12処)、18の要素は、全て形成されたものであり苦であると指摘される。
(この「形成されたもの」と言う言葉の背後には、おそらく母胎内で形成される胎児=人間存在と、原初宇宙の胎において生成展開する『世界(Loka)』が踏まえられている。或るヴェーダ文献では、この宇宙を生成展開する原理として『サンスカーラ』を使用している)
さらに涙と乳と血(すべて水)を集めたら四つの大海になると譬えられ、そのような身体としての人間存在が住まうジャンブー州こそが、輪廻の世界である、という後段に続いていく。
ここにある『四つの大海』は須弥山世界観において四つの大陸によって分けられる金輪の四つの海であり、そこに浮かぶジャンブー州を含めた「車輪世界の総体」が輪廻の世界であり、骨が土の大地であり、身体の中の水が輪廻の大海である、という「重ね合わせ」の心象風景が、鮮やかに浮かび上がっている。
これはひとつには古ウパニシャッドの時代からある、「人間の身体の諸要素、例えば水は、死後大なる世界の水に還る」という思想を踏まえたものでもある。
そして身体とは泡沫(水の動きに伴って現れる泡・飛沫)の如きはかない存在であり、それこそが無常なる五蘊であり、地獄の苦痛の源である、と切実なまでに表白されるのだ。
「泡沫の塊に譬えられる、はかない身体の宿命(無常)」そして「不浄で、尿の臭いを放ち、恐ろしい、腐敗していく身体、つねに滲み出て、不浄にみちている屍体の革袋」という認識は、おそらく身体を観ずる瞑想実践の結果得られたものだろう。
そのような観の瞑想によって『身体』の欲望から自由になり、『輪廻する身体』が自分である、という邪見から解放される事こそが、解脱であり、不老不死の境地であり、輪廻の大海を越えて彼岸に渡り終える、という事なのだと考えると、初期仏教徒の心象の、色々な筋道が鮮やかに浮かび上がる。
再掲:肉の身体とは、輪廻の大海である
輪廻する死すべき『身体』からの解脱、それこそが不老不死のアムリタであり『彼岸』に他ならない。
それは同時に『身体なる世界』からの解脱を、意味していなかっただろうか?
ここまで私は、人間の身体の中にある様々な水について、くどいほどに語ってきた。それが古代インド思想(原始仏教)におけるひとつの焦点だからだ。
しかし、そんな私の視点から見ると、上の尼僧の告白は輪廻の大海・煩悩の激流である「身体の中の水」について、中でも最も重要な二つが言及されていない、と言う点で、少なからず片手落ちにも思える。
そのひとつは、妊婦の身体の中で胎児をはぐくむ「羊水」であり、これはリグ・ヴェーダ的な世界の創造や、輪廻転生思想の原像とも言える『大水』として既に言及した。
これは女性である彼女にとっては極めて切実な『水』の筈だが、余りにも露骨なために編纂時にでも省略されたのだろうか。
もうひとつは、これは後日改めて集中的に取り上げるが、人間の頭蓋骨内部に蔵されている、明らかに身体の他の臓器とは違ったあり方で存在する『脳』だ。
この脳は天界の車輪である頭蓋に蔵されており、羊水が地上の車輪である骨盤の胎に蔵されている、と言う意味では上下の対を成している。
これは現代人にとっては明らかな事だが、脳とは五蘊・12処などと密接な関わりを持った煩悩の原水とも言えるだろう(古代インド人はその事実を把握し得ていただろうか?)。
何故、脳が『水』なのか?
それは脳が人体器官組織の中でも最も水に富んだ部位であり、同時に脳脊髄液と言う名の水場にプカプカと浮かぶものだからだ。
次回以降、予定される「これはドゥッカの車輪である3」とも絡めて、この古代インド思想において決定的な意味を持つ、身体における様々な『水の現場』について、順を追って考えていきたいと思う。