仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ウパニシャッドと『ウパース&ウパーサナ』、そして菩提樹下の禅定

ゴータマ・ブッダの心象風景をリアルに知るためには、彼に前後するウパニシャッド(及びヴェーダ、プラーナ、アーラニヤカ)についての大きな流れを知った上で、更に時代的にはブッダより後に発展したヒンドゥ・ヨーガについても学ぶ必要がある。

以前から基本的にそうなのだが、最近は特に上の様に痛感する事はなはだしく、主にヨーガの古典とウパニシャッドに関する書物を現在読み耽っている。

今回は中でもひとつの焦点であり、『ブッダの瞑想法』の起源とその方法論、及びそこに至るまでの沙門シッダールタの心象プロセスに深く関るだろう『ウパニシャッド』の語義ついて、最も基本的な部分を押さえておきたい。

ウパニシャッド』という言葉の起源とその意味するところについては、私がこれまで読んできた専門書や一般教養書、さらにはネットなどの情報を総合すると以下の内容がその代表的なものであった。

ウパニシャッドという名称の意味であるが、専門家の間において一致している訳ではない。一般に認められているところでは、ウパニシャッドUpanishadという語はサンスクリットの語根Upa-ni-shad「近くに坐る」に由来し、「師匠の近くに弟子が坐る」意から導かれると考えられている。

すなわち、師匠と弟子が膝を交えて、師匠から弟子に親しく伝授されるべき「秘密の教義」、すなわち我が国の芸道で用いられている「秘伝」の意となり、そこからこのような「秘密の教義」を載せた神聖な文献の名前となり、さらにこの種の文献の総称となったと理解されている。

事実、ウパニシャッド文献には、門弟あるいは息子が師匠あるいは父から親しく教えを聴く場合が数多く見られるのであって、従ってウパニシャッドは「神秘の教説」であるから、それは師資相承であり父子相伝でなければならないと説かれる。

【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 解説より引用

しかしネットの一部に、このような解釈についてのいくつかの疑義を見出して、色々と調べてみた。以下はその中の代表的なものだ。

ウパニシャッドは仏教の土台である。まず、その意味から始めよう。ウパニシャッドという語は、ウパ(upa)“近くに”、ニ(ni)“下に”、シャッド(shad)“座る”から構成され、通常「近座」と訳される。

従来の解釈では、弟子が師の下の近くに座って、師から秘密の教説を聞くこととされてきた。しかし、文献を詳細に調べた所そのような用例はなかったそうである。

そこで、近年では、“念想”を意味するウパース(upās)との関連が重視されるようになった。この解釈に立てば、ウパニシャッドとは念想(upa)を目的とした(ni)坐法(shad)によって得られた瞑想内容の集成であるということになる。

念想を目的として坐るとは坐禅に他ならない。坐禅の目的は“無―無―”と言って、頭を空っぽにすることではない。坐禅の本来の目的はウパース(念想・瞑想)にある。仏教の本来の姿を学ぶ上からもこの事はしっかりと頭に入れて置きたい。

仏教入門 - 仏家妙法十句より引用

これに類似した指摘が以前からネット上にある事には気づいていたのだが、明確な学術的なソースが分からずに手つかずのままであった。上のサイトは非常に真摯に仏教というものに向き合っており、その内容すべてが私の思索と重なる訳ではないのだが、大いに参考にさせていただいた。

次に引用するのは、私がいつも脳と心とブッダの悟り - Yahoo!ブログでお世話になっているAvarokiteiさんのサイトで偶然発見し購入した針谷氏の著書からで、私はこのような理解がすでに『定説』として確立していたとは全く知らずにいた。

ウパニシャッド(Upanishad)はウパ+ニ+シャッドと語形は分解され、Upaは《近くに》、niはほぼ《下に》、shadは本来《座る》を意味する✔shadという動詞であり、語全体としては《近座》を意味しうるので、深い秘密の教説を師から弟子が聴くために師の下に《近くに座る》の意味、転じて《秘説》そのもの、さらにその秘説を収録した文献群を指すようになった、というのが通俗的ウパニシャッドの語義解説である。

しかしドイツのオルデンベルクさらにポーランドのシャイエルの研究によりその解釈は訂正された。ウパニシャッドという語がそのような意味で用いられている用例はウパニシャッド文献の中には存在せず、ある事象を至高存在者と同置するウパニシャッド特有のウパーサナーという観法によって得られた思惟の内容を表現する簡潔な定句がウパニシャッドという語の意味であるとここでは言っておこう。

ヴェーダからウパニシャッドへ  針貝邦生著、清水書院 P159より引用

針谷氏の指摘は、先の仏家妙法十句さんの主旨に近いもので、私が知らなかっただけで、すでにこれが21世紀のスタンダードなのかもしれない。

Avarokiteiさんのサイトやブログは、これまでも色々とお世話になっており、今回もとても読み応えがあったのだが、そこでもう一人彼が紹介している湯田豊氏の解説について以下に引用しよう。

ウパニシャッドの語義

ウパニシャッドという言葉を確かめるために企てられたのは、ウパニシャッドupanisadの語源解釈である。学界に流布している学説によれば、師匠から教えを受けるために、弟子が師匠の近くにupa下にni座るsadことがウパニシャッドの語義である。

そして師匠から弟子に伝えられる秘密の教えとは何かと言えば、大宇宙の原理としてのブラフマン=小宇宙の原理としてのアートマンであるという思想であるといわれる。ブラフマンは梵であり、アートマンは我である。ブラフマンアートマン説を、人は "梵我一如" 説と呼ぶ。しかし、初期のウパニシャッドには "梵我一如" という表現は存在しない。

初期の主要ウパニシャッドに関する限り、弟子が師匠の足もとに坐って教えを授けられることを例証する箇所は全く存在しない。少なくとも、わたくしはそういう箇所を見い出すことができない。しかし、師匠の足もとに坐ることがウパニシャッドである、という解釈は可能である。

しかるに、多くの人はそのような解釈を一つの仮説と見なす代わりに、万人によって承認されるべき真理であると信じて疑わない。ウパニシャッドが師匠の近くに、下に坐るというのは一つの解釈にすぎない。それは、一つの視点からのアプローチにすぎない。

わたくし自身は、そのようなアプローチをしない。それゆえに、そのようなアプローチに基づく解釈をわたくしは拒まざるを得ない。文献学的証拠を示すことなく、師匠の近くに、下に坐ることを正しいと思い込む発想を、わたくしは受け入れない。

ウパニシャッドが、近くに下に坐るということを、わたくしは一つの比喩として解釈する。東アジア文明、例えば、中国あるいは日本において最も高く評価されるのは人と人との関係である。しかし南アジア文明、例えばインド文明において決定的なのは事物と人間自身の関係である。

それゆえに、ウパニシャッドによって示唆されるのは、師匠の足もとに弟子が坐ることではなく、人間が事物の近くに、下に人間自身が坐ることである。人間が師匠の近くに、下に坐るのではなく、事物の近くに、下に人間自身が坐ることを示すのは、ウパース(ウパーアースupa-as)という言葉である。

ウパーサナウパニシャッドという公式が認められれば、ウパニシャッドの基本的な意味は何かあるものに近づく、何かあるものを得ようと努力する、あるいは、何かあるものを熱心に求めることに他ならない。

ある事物を他のものと同一視しようというのがウパニシャッドであり、本来的自己としてのアートマンを "熱心に求める知的認識行為" が初期のウパニシャッドにおける重要なテーマの一つである。

初期の主要なウパニシャッドには、”ウパース"という語は少なからず見い出され、われわれは、ウパニシャッド=ウパーサナ説をテクストに基づいて証明できるはずである。

湯田豊著「ウパニシャッド―翻訳および解説―」(大東出版社 2000年2月刊)の解説(あとがき)からの引用  仏教の思想的土壌 ヴェーダ Avarokiteiさんより

この湯田豊氏の著書は二万円を超える大著で、私自身は直接には読んでおらず孫引きで申し訳ないのだが、その指摘はここまでの引用とも重なり、色々な点で極めて重要な意味を持っている。

そこに共通するキーワードが、ウパース(ウパーアースupa-as)ウパーサナーである事は誰の目にも明らかだろう。一般に日本語ではウパースは【念想】と、ウパーサナーは【同置】訳されているようだが、訳者や文脈によって訳語の選択はかなり異なっている。

そもそもこのウパースとウパーサナという言葉はどのような文脈の中で使われていたのか、次に定番の中村元先生からの指摘を引用したい。

一般に西洋では自然の多様性に対する驚きから哲学的思索が現れ出たと言われているが、インドでは、祭式が宇宙全体(Sarvam)とどういう関係にあるかを知ろうとする司祭僧たちの希望から現れ出た。

そうして宇宙生成論は、祭式学と関連あるものとして成立したのである。

インド人は全ての事を宗教的見地から眺める傾向がある。すでにウパニシャッドにおいても、たとえば宇宙間の諸事象を祭祀に供せられる犠牲獣の身体のいちいちの部分に対応させて説明している。

『実に曙紅は犠牲に供せられるべき馬の頭である。太陽はその眼である。風はその息である。遍く行き渡る火はその開いた口である。歳は犠牲に供せられるべき馬の体である。天はその背である。空はその腹である。地はその下腹部である・・・』ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド 1-1-1

このような思想内容がブラーフマナ(祭儀書)やアーラニヤカ(森林書)のうちに多分に展開されているのである。このように祭祀の個々の部分と、宇宙の構成要素を均等視しているのは、心の中でそのように思いなせ、念想せよ、と教えているのである。

そこでウパニシャッドでは、念想という事が非常な意味を持ってくる。また、

『雨に関しては五種の旋律(Sāman)を念想(Upāsita)すべし。

低唱は雨風である。試詠は雲の生ずることである。

詠唱は雨の降る事である。攘穢は雷光雷鳴することである。

合誦は雨の止むことである。』チャーンドーギャ・ウパニシャッド 2-3-1

と言って、五種の旋律のいちいちを雨の経過に配して念想崇拝せよ、と説いている。

そのほか祭祀にことよせた説明は、ウパニシャッドの全般にわたって認められるので、いちいち列挙しがたいほどである。

決定版中村元選集 第9巻 ウパニシャッドの思想 P35~36より引用

これはまた回を改めて詳述したいのだが、ウパニシャッドの前段階であるバラモンヴェーダの宗教においては、『祭祀(祭儀)』というものが絶対的な力を持っていた。

そこにおいて司祭たちが追求したのが、大まかに言って、大なる自然事象と小なる人間によって行われる祭祀のそれぞれの要素を、ある種の類似や因果関係、もしくは『直観』によって重ね合わせ『同置』し、その意味関係を念想しつつ祭式を進行する、という事だった。

しかしやがて、外形的な儀式の形式至上主義の不毛性に飽き足らなくなってきた内省的な求道者たちの関心は、祭儀から少しずつ離れて行き、人間存在と大宇宙の相関関係を模索し始める。

ウパニシャッドの哲人たちは、バラモンの行う祭儀をただそのまま承認していたのではない。旧来の祭儀に対して一定の距離をおいて考えていた。

その態度のひとつのあらわれとして、祭儀を宇宙や人間存在と連絡づけて考え、その意義を知って念想しながら祭儀を行うならば、いっそう大きな効果があると考えていた。

総じて古代人の間では、知識は、呪術的な力を持った一種の流動体と考えられていた。そこで知識ある人はその力を借りて、欲するがままに宇宙の事象の進行に力を及ぼすことができると考えていた。

だから知識とは効力を及ぼす潜勢力であり、対象を知っているばかりではなくて、対象を支配し所有する事ができるのである。

この知識を明知(Vidya)と称する。それは真実を透徹して知る叡智である。それは学殖ではなくて、心を統一して真理を体得する瞑想である。また、あるものを心の中でじっと思い続けて奉じている事を、念想する(Upāste)という。それを名詞化すると『念想』(Upāsana)となる。

決定版中村元選集 第9巻 ウパニシャッドの思想 P36~37より引用

中村先生はここで、意図してか否かは定かではないが「真実を透徹して知る叡智としてのVidya明知」を「学殖ではなく心を統一して真理を体得する瞑想である」と記述した直後に、それを受ける様な形で、ウパースとウパーサナつまり「念想」について言及している。

私の仮説では、そのような明知・ヴィディヤに到達するための方法論こそが、ウパースやウパーサナの進化(深化)形に他ならず、中村先生もまた、断定できないまでもそれを予想していたからこそ、ヴィディヤとウパース・ウパーサナを同じ文脈の中で続けて言及したのではないかと思う。

実際に、このような念想と同置の方法論は、やがてオームの念誦をブラフマンと同一視する思想、さらには個人の本質アートマンを大宇宙の根本原理ブラフマンと同一視する思想へと大きく発展・進化していく。

この神聖な音〈オーム〉は〈唯一者〉に到達しようとする形而上学的傾向においては絶対者のシンボルとして重要な意義を獲得した。

あらゆる語は聖音〈オーム〉に包摂され、聖音〈オーム〉は全世界に他ならないと考えられた。またこの神聖なシラブル(音節)は全ヴェーダの精髄であると見なされた。

シラブルを意味するAksharaという語はまた「不壊」という意味があるので、この神聖なシラブルは不壊者、不死者、恐れ無き者、とされた。

それは絶対者ブラフマンであり、人はそれを知った時に、それとなるのである。

神々と言えども、不死になるためには、それの内に帰入する。

そして、ついにヴェーダンタ学派では、聖音〈オーム〉の念想は、絶対者の念想の事であると解せられるようになった。

決定版中村元選集 第9巻 ウパニシャッドの思想 P40~41より引用

このように見てくると、日本語では念想や同置と訳されるウパースやウパーサナが、極めて精神性の高い求道的な『瞑想』に近い心的営為へと深化していった事はほぼ間違いない。だが果たしてそれは、『ウパニシャッド』という語とどこまで有機的に接続したものだったのだろうか。 

そこで、ヴェーダの祭式からブラフマンの探求に至るインド思想史の流れの中で、極めて重要な意味を持ち続けてきただろうこのウパースとウパーサナという言葉について、ネット上のサンスクリット辞書で様々に調べてみた。

最初のウパースについては、以下のようになる。

upās

( upa-- 1 as-) P. (Potential 1. plural -syāma-) to be near to or together with (accusative) . ~の近くに、~と共にいる

 ( upa-- 2 as-) P. upasyati-, to throw off, throw or cast down upon, throw under : A1. -asyate-, to throw (anything) under one's self. 下に投げ出す、自己の下?に~を放擲する

( upa-ās-) A1. upāste-, to sit by the side of, sit near at hand (in order to honour or wait upon) etc.  ; to wait upon, approach respectfully, serve, honour, revere, respect, acknowledge, do homage, worship, be devoted or attached to etc. そばに座る(何か、誰かに敬意を表しつつ近づき座り待つ、献身する)

to esteem or regard or consider as, 尊重する、顧慮する、~と見なすtake for ; to pay attention to, ~に注意を払う。 be intent upon or engaged in, perform, converse or have intercourse 性交、肉体関係、交際、霊的交通、霊交。with etc. ; to sit near,近くに座る be in waiting for, 待つ remain in expectation,期待しつつ留まる expect, wait for ; to sit, occupy a place, abide in, reside 住まう; to be present at, partake of (exempli gratia, 'for example' a sacrifice) ; to approach, go towards, draw near 近づき、向かい、接近する。(exempli gratia, 'for example' an enemy's town) , arrive at, obtain ; to enter into any state, ある状態に入る。undergo, suffer ; to remain or continue in any action or situation etc.状況や行為状態に継続的に留まる ; to employ, use, make subservient.

upās:Sanskrit Dictionary より

उपास्(ウパース)

2 Ā. 1 To sit near to (with acc.), sit at the side of (as a mark of submission and respect服従や尊敬の証として傍に近づき(低く)座る; wait upon, serve, worship; ओमित्येतदक्षरमुद्गीथमुपासीCh. Up.1.1.1 &c. मां ध्यायन्त उपासते Bg.12.6; 9.14,15. उद्यानपालसामान्यमृतवस्तमुपासते Ku.2.36; अम्बा- मुपास्व सदयाम् Aśvad.13; Śi.16.47; Ms.3.189.

-2 To use, occupy, abide in, reside; ऐन्द्रं स्थानमुपासीना ब्रह्मभूता हि ते सदा Rām.1.35.1. Ms.5.93. -3 To pass (as time); उपास्य रात्रिशेषं तु Rām. -4 To approach, go to or towards; उपासाञ्चक्रिरे द्रष्टुं देवगन्धर्वकिन्नराः Bk.5. 17; परलोकमुपास्महे 7.89. -5 To invest or blockade (as an enemy's town). -6 To be intent upon, be engaged in, take part in, (perform as a sacred rite); उपास्य पश्चिमां सन्ध्याम् K.176,179; तेप्युपासन्तु मे मखम् Mb.; Ms.2. 222,3.14,7.223, 11.42. -7 To undergo, suffer; अलं ते पाण्डुपुत्राणां भक्त्या क्लेशमुपासितुम् Mb.; Ms.11.184. -

8 To remain or continue in any state or action; 状態や行為に継続的に留まるoft. with a pres. p.; अनन्येनैव योगेन मां ध्यायन्त उपासते Bg.12.6. -9 To expect, wait for; दिष्टमुपासीनः Mb. -1 To attach oneself to, practise; उपासते द्विजाः सत्यम् Y.3.192. -11 To resort to, employ, apply, use; लक्षणोपास्यते यस्य कृते S. D.2; बस्तिरुपास्यमानः Suśr. -12 To respect, recognize, acknowledge. -13 To practise archery. 弓矢の射的

उपास्(ウパース):Prin. V. S. Apte's The practical Sanskrit-English Dictionary より

こうやって見てみると、おおよそのイメージは湯田氏の言う「何かあるものに近づく、何かある(超越的な)ものや力を得ようと努力する、あるいは、何かあるものを熱心に求めること」に間違いないが、加えて、近くに「座る」というニュアンスがすでに存在し、『日常的な自分』よりも価値の高い尊敬すべき何ものかに恭しく近づき座って待ち、投げ出し、献身し、接触し、交わり、その状態・営為に一定時間留まる、というイメージが想定できる。

その敬うべき何かこそが、究極的には湯田氏の言う「本来的自己としてのアートマンを "熱心に求める知的認識行為" 」のアートマンだと考えると、これは全体の感触としては『念想』であると同時に、中村先生が暗示?する様に『瞑想』であると言っても不自然ではない。

特にその意味の中に明確に『座る・坐る』という語義がある以上、その瞑想(念想)は『坐の瞑想』ではないのか、というイメージが自ずと湧き上がって来る。

さらにこのウパースUpāsは、Upaāsに分けることができる。最初のUpaはウパニシャッドの従来の解釈でもすでに出ている。

upa: ウパ

towards, near to (opposed to apa-,away) , by the side of, with, together with, under, down (exempli gratia, 'for example' upa-gam-,to go near, undergo; upa-gamana-,approaching.

~に向かって、近づく、~のそばに、共に、一緒に、下に、元に、近づいて行く、接近する。

direction towards, nearness, contiguity in space, time, number, degree, resemblance, and relationship, but with the idea of subordination and inferiority (exempli gratia, 'for example' upa-kaniṣṭhikā-,the finger next to the little finger; upa-purāṇam-,a secondary or subordinate purāṇa-; upa-daśa-,nearly ten)

その方向に向かって、近づく事。空間的、時間的、数値的、頻度的、類似的、関係的に、接近、接触する事(ただし、「劣位・下位」から「優位・上位」に向かって)。

sometimes forming with the nouns to which it is prefixed compound adverbs (exempli gratia, 'for example' upa-mūlam-,at the root; upa-pūrva-rātram-,towards the beginning of night; upa-kūpe-,near a well) which lose their adverbial terminations if they are again compounded with nouns (exempli gratia, 'for example' upakūpa-jalāśaya-,a reservoir in the neighbourhood of a well).

prefixed to proper names upa- may express in classical literature"a younger brother" (exempli gratia, 'for example' upendra-,"the younger brother of indra-"), and in Buddhist literature"a son."(As a separable adverb upa-rarely expresses) thereto, further, moreover (exempli gratia, 'for example' tatropa brahma yo veda-,who further knows the brahman-) (As a separable preposition) near to, towards, in the direction of, under, below (with accusative exempli gratia, 'for example' upa āśāḥ-,towards the regions) .

近くに、その方向に、下に。

near to, at, on, upon.

近くに、上に(乗って)。

upa : Sanskrit Dictionary より 

उप(ウパ)

ind. 1 As a prefix to verbs and nouns it expresses towards, near to, by the side of, with, under, down (opp. अप). According to G. M. the following are its senses :-- उप सामीप्यसामर्थ्यव्याप्त्याचार्यकृतिमृतिदोषदानक्रियावीप्सा- रम्भाध्ययनबुजनेषु :-- (1) nearness, contiguity 接触उपविशति, उपगच्छति goes near; (2) power, ability उपकरोति; (3) pervasion 浸透उपकीर्ण; (4) advice, instructing as by a teachar उपदिशति, उपदेश; (5) death, extinction, उपरत; (6) defect, fault उपघात; (7) giving उपनयति, उपहरति; (8) action, effort उप त्वानेष्ये; (9) beginning, commencement उपक्रमते, उपक्रम; (1) study उपाध्यायः; (11) reverence, worship उपस्थानम्, उपचरति पितरं पुत्रः.

-2 As unconnected with verbs and prefixed to nouns, it expresses direction towards, nearness, resemblance, relationship, contiguity in space, number, time, degree &c., but generally involving the idea of subordination or inferiority; 劣ったもの、下位のものから上に向かって

upa:Prin. V. S. Apte's The practical Sanskrit-English Dictionary より

上の内容を見てみると、明らかに下手(下座)から上手(上座)にと、これは日本的な表現でもあるが、とにかく下から上を仰ぎ見ながらそばに近づく、という大まかなイメージが理解できるだろう。

次にāsを見てみる。

ās

to sit, sit down, rest, lie. 座る、下に座る。etc. ; to be present ; to exist ; to inhabit, dwell in ; to make one's abode in etc. ; to sit quietly, 静かに座る。abide, remain, continue etc. ; to cease, have an end etc. ; to solemnize, celebrate ; to do anything without interruption ; to continue doing anything ; to continue in any situation ; to last 継続して途切れる事なく何かを行う; (it is used in the sense of"continuing" , with a participle, adjective (cf. mfn.),or substantive exempli gratia, 'for example' etat sāma gāyann āste-,"he continues singing this verse";with an indeclinable participle in tvā-, ya-,or am- exempli gratia, 'for example' upa-rudhya arim āsīta-,"he should continue blockading the foe";with an adverb exempli gratia, 'for example'tūṣṇīm āste-,"he continues quiet"; sukham āsva-,"continue well";with an inst. case exempli gratia, 'for example' sukhenāste-,"he continues well"

ās:Sanskrit Dictionary より

आस् ās

आस् I. 2 Ā. (आस्ते, आसांचक्रे, आसिष्ट; आसितुम्, आसित) 1 To sit 座る, lie, rest; Bg.2.45; एतदासनमास्यताम् V.5; आस्यता- मिति चोक्तः सन्नासीताभिमुखं गुरोः Ms.2.193. -2 To live, dwell; तावद्वर्षाण्यासते देवलोके Mb.; यत्रास्मै रोचते तत्रायमास्ताम् K.196; कुरूनास्ते Sk.; यत्रामृतास आसते Rv.9.15.2; Bk.4.6,8.79.
3 To sit quietly 静かに坐る, take no hostile measures, remain idle; आसीनं त्वामुत्थापयति द्वयम् Śi.2.57. -4 To be, exist. -5 To be contained in; जगन्ति यस्यां सविकाशमासत Śi.1.23. -6 To abide, remain, continue or be in any state, be doing anything, last; oft. used with present participles to denote a continuous or uninterrupted action 継続的な、中断される事のない行為;

आस् ās: Prin. V. S. Apte's The practical Sanskrit-English Dictionary より

このआस् āsにこそ、『座る・坐る』という語義が乗っている事が良く分かる。そこには「継続的な妨げられる事のない静かな」というニュアンスが明確に示されており、ただ座る姿勢をとるだけに留まらない、より『意識的・精神的』な意義が見出せるだろう。それは私の眼には、すでに『瞑想』と重なり合って見える。

次にupāsana:ウパーサナ(同置)を見てみよう。

upāsana

n. the act of throwing off (arrows), exercise in archery 矢を放つ、弓術の実践.

f(ā-)n. the act of sitting or being near or at hand 座る、近くにいる.

f(ā-)n. serving, waiting upon, service, attendance, respect 仕える、待つ、侍る。etc. 

f(ā-)n. homage, adoration, worship 帰依、礼拝、崇拝。(with rāmānuja-s, consisting of five parts, viz. abhigamana- or approach, upādāna- or preparation of offering, ijyā- or oblation, svādhyāya- or recitation, and yoga- or devotion) etc. 

n. a seat .

n. the being intent on or engaged in.

n. domestic fire.

upāsana:Sanskrit Dictionary より

upāsanam:उपासनम्

उपासनम् ना 1 Service, serving, attendance, waiting upon 仕える、侍る、待つ; शीलं खलोपासनात् (विनश्यति); उपासनामेत्य पितुः स्म सृज्यते N.1.34; Pt.1.169; Ms.3.17; Bg.13.7; Y.3.156; Bh.2.42. -2 Engaging in, being intent on, performing 従事する、営む、没頭する、演ずる; संगीत˚ Mk.6; सन्ध्या˚ Ms.2.69. -3 Worship, respect, adoration. -4 Practice of archery 弓術の実践. -5 Regarding as, reflecting upon. -6 Religious meditation ~と見なす、熟考する、瞑想する. न कर्मसांख्ययोगोपासनादिभिः Mukti Up.1.1. -7 The sacred fire. वानप्रस्थो ब्रह्मचारी साग्निः सोपासनो व्रजेत्. Y.3.45. -8 Injuring, hurting; (fr. अस् 2). -Comp. -उपासना- खण्डः, N. of the first section of the Gaṇeśa Purāṇa.

upāsanam : Prin. V. S. Apte's The practical Sanskrit-English Dictionary より

ここでは、座る・坐るという原イメージと合わせて、より宗教実践的なニュアンスが顕在化してくる。それは信仰的な態度と共に、Regarding as, reflecting upon. -6 Religious meditation という説明を見れば分かるように、明確に『瞑想』に接近している(これらの英語は一般に瞑想を表す語の中でも代表的なDhyānaの訳語に該当する)。このRegarding asが日本語訳の同置と重なるものだろう。

このMeditationという説明と共に私が気になったのが、the act of throwing off (arrows), exercise in archery.と4 Practice of archeryだ。これはupāsの説明で出てきた13 To practise archery.(弓術の射的)に重なるものだ。

実はインド教の世界では伝統的に、この弓術の実践において的を射止めるという営為が、広く『アートマンブラフマンに至る』為の【瞑想実践】あるいは【サマーディ】の暗喩として用いられてきた、という事実がある。

ウパースやウパーサナの語義の中にその様な『弓術における射的』のイメージが存在する事は、この両語が瞑想実践と深く関るものとして伝統的に認識されていたひとつの証左ではないか私は考えている。

さらにこのウパーサナは、語義的にUpaāsanaに分けることが可能だ。下にこのāsanaを見てみよう。

āsana

n. (but āsan/a- ) sitting, sitting down.

n. sitting in peculiar posture according to the custom of devotees, (five or, in other places, even eighty-four postures are enumerated;See padmāsana-, bhadrāsana-, vajrāsana-, vīrāsana-, svastikāsana-:the manner of sitting forming part of the eightfold observances of ascetics)篤信者によって行われる特定の坐法ポーズ。5つあるいは84あるとも言われる。パドマーサナ、バドラーサナ、ヴァジラーサナ、ヴィラーサナ、などアシュタンガ(ヨーガ)を参照。

n. halting, stopping, encamping.

n. abiding, dwelling etc. .

n. seat, place, stool etc. .

n. the withers of an elephant, the part where the driver sits.象使いが座る象の背中の部分。

n. maintaining a post against an enemy.

āsana:Sanskrit Dictionary より

आसनम् āsanam

आसनम् [आस्-ल्युट्] 1 Sitting down. -2 A seat, place, stool; Bg.11.42; स वासवेनासनसन्निकृष्टम् Ku.3.2; -3 A particular posture or mode of sitting; 特定のポーズあるいは様式の坐法。cf. पद्म˚, वीर˚, भद्र˚, वज्र˚ パドマーサナ、ヴィーラーサナ、バドラーサナ、ヴァジュラーサナ。&c. cf. अनायासेन येन स्यादजस्रं ब्रह्मचिन्तनम् । आसनं तद् विजानीयाद् योगिनां सुखदायकम् ॥ -4 Sitting down or halting, stopping, encamping. -5 Abiding, dwelling; Ms.2.246; 6.59. -6 Any peculiar mode of sexual enjoyment (84 such āsanas are usually mentioned). -7 Maintaining a post against an enemy (opp. यानम्), -8 The front part of an elephant's body, withers. -9 Throwing (fr. अस् to throw). -11 Place where the elephant-rider sits,

आसनम् āsanam:Prin. V. S. Apte's The practical Sanskrit-English Dictionary より

私もこの時になって漸く気づいたのだが、ウパーサナ(同置)に含まれるāsanaはヨーガの坐法を意味するアーサナそのものであり、ウパースのアーサナ、あるいはウパのアーサナ、という複合語としてウパーサナを把握する事も可能なのだ。

そこでこれまで分析的に把握してきたそれぞれの語義をまとめて、ウパーサナについての全体像を概観すると、およそ以下のイメージが浮かび上がってくる。

尊敬や服従の念を持ちながら下から上を仰ぎ見る態度で、超越的な何ものかに近づき、接触し、感得する為に、非日常的な意識と集中を持って特定の坐法をとり静かに坐る(静止した『坐=アーサナ』の形の中で、それら超越者を念想する)

このように読み取る事も十分に可能だと私は思うのだが、いかがだろうか。

そしてそのような『坐の瞑想』を深める中で直観された真理こそが『アートマン』であり、更には『アートマンブラフマン』であり、その様にして獲得された真理の知識を『近座』の中で師匠から弟子へと言語化して伝えた『言葉の集成』こそがウパニシャッドであった、と考える事もできる。

つまり、定式化されたウパニシャッドという言葉には、アートマンorブラフマン等の超越者の下に坐る(瞑想してそれを感得する)という意味と、師匠の下に弟子が座って教えを受ける、という二つながらの意味が同時に含意されている、という事だ。

もちろん、今回引用した辞書に載っている語義と言うものは、現在入手可能な、という意味での一覧であって、その全てがブッダ以前の古ウパニシャッドの時代から存在したとは断言できない。つまりこれらの語義の内のいくつかは、ブッダ以降の後世において確立した可能性も否定できないだろう。

しかし、インド教全般に言える事だが、特に宗教的な文脈においては古式の伝統が変わらずに踏襲される傾向が強く、後世に付加された語義も、元々のニュアンスを忠実に踏まえた上で発展的に『加上』される、という視点を失うべきではない。

つまり、元々ウパニシャッドにおけるウパースやウパーサナという概念が、『坐の瞑想』という実践的なニュアンスを濃厚に持っていたからこそ、そこから分離された『アーサナ』と言う単語が、瞑想の坐法を意味するようになった、と言うように。

以上は、単なるアマチュア安楽椅子探偵が紡ぎ出した思索に過ぎず、専門家の充分な検証を待たなければならない。しかしウパニシャッドにおいてウパースやウパーサナという営為が極めて重要かつ象徴的な意味を持っていた事は何人も否定し得ないだろう。

この両語が全インド教における『瞑想実践史』という視程の中で再検証され再定義された時、ゴータマ・ブッダがそれらの中でどのようなポジションを締めていたのかが明らかになる。そう私は考えている。

端的に言えば、それは、

沙門ゴータマ・シッダールタブッダガヤの菩提樹下に結跏趺坐した、その行為こそが、すなわち【ウパーサナ】そのものであった可能性が高い

と言う事だ。

アタルヴァ・ヴェーダにはこうある。

偉大なる神的顕現(大宇宙の支柱スカンバ=ブラフマン)は、万有の中央にありて、熱力を発し水波の背に乗れり。

ありとあらゆる神々は、その中に依止す、あたかも枝梢が幹を取り巻きて相寄るごとくに。

世界文学大系〈第4〉インド集 アタルヴァ・ヴェーダ:スカンバ賛歌10-7-38 辻直四郎訳より

霊的な大樹の幹(みき)をブラフマンと見立てた時、四方八方に展開する枝葉・梢・樹冠は神々を含む現象世界となる。つまり霊大樹はその存在が全体として、ブラフマンという偉大なる支柱(スカンバ)とそれに支えられてそこから展開する現象世界を体現・象徴するものなのだ。

この場合、大樹の幹は大宇宙の車軸(つまりは大支柱スカンバ)としてのブラフマンでもあり、展開する枝梢・樹冠は『ブラフマ・チャクラ』としての車輪だと見ることもできるだろう。

古代インド・形象のアナロジー:脳と心とブッダの悟り 参照

どちらにしても、ブッダガヤの菩提樹下に結跏趺坐した時、彼、沙門シッダールタはいたずらに意味なく、あるいは単に日陰の涼を得る為にそこに坐った訳ではなかった、と言う事だ。

彼は菩提樹という霊大樹に対した時、明確にそれを『ブラフマン=真理』の象徴と深く認識・自覚した上で、その根元足元に下から仰ぐ形で近づき、触れて、坐って、静止して(正に【ウパ アース・アーサナ】!)、結跏禅定に入った。

つまり、第一に菩提樹ブラフマンが『念想・同置』され、さらにその世界霊大樹としての菩提樹と結跏趺坐する沙門シッダールタが、両者あたかも同化するかの様に『念想・同置』された。

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Pinterest より。ブッダガヤの菩提樹下で悟りを開いたブッダ

その様に考えた時に初めて、ウパニシャッド的な求道・探求の全き延長線上に沙門シッダールタを定位する事が可能になる。

それは同時に、ヴェーダバラモン教からウパニシャッド、そしてゴータマ・ブッダを経てヒンドゥ・ヨーガという、全インド教的な『ビッグ・ヒストリー』が、整合性ある一続きの流れの中に把握される事を意味するだろう。

(ここでひとつ注意しなければならないのは、悟りを開く『以前』のいち沙門シッダールタはウパニシャッド的な真理 =ブラフマンアートマンを求めて菩提樹下に坐ったのだが、しかし彼が最終的に到達した『答え』とは、微妙にしかし明確に、そのような文脈を『超越』していた、という点だ)

そこにおいて極めて重要な意味を持つのが、直接的に前回投稿内容と関連してくる『内なる祭祀』あるいは『内部化された火の祭祀』というコンセプトだ。

『内なる祭祀』について知る為には、まず、ヴェーダの祭式を成り立たせていた背景心象・世界観というものが、一体どのようなものであったのかを正確に理解する必要があるだろう。

次回、そもそもアーリア・ヴェーダの民にとって『祭祀』というものがどのような意味を持っていたのか、という地点から詳細に紐解いていきたい。

 

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