仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

煩悩の水辺に繁茂するものとアーサヴァ、そして「触」:瞑想実践の科学5

前回までに私は、

苦悩の現場=脳髄、という認識は現代に生きる私たちにとって自明な事柄である、というだけでなく、古代インド人にとっても、その日常経験に従って、主観的に極めて自然な、当たり前の自明の理解だった。

と書き、そして、

パーリ仏典において、心・意識であるマノ(マナス)は明らかに頭蓋内部の脳髄と重ね合わされており、そこに空いた五官の門から誘惑(五境)が浸入し、門の奥にある脳髄という激流・泥沼において、心(意=マナス)が煩悩に溺れる、そう考えると、現代人にとってブッダの言葉が非常に分かりやすくなる。

と続けた。

ここで私が思い出すのが、パーリ仏典において、煩悩や渇愛が、しばしば蔓草やその叢林、あるいは樹冠に茂る枝葉、さらには『悪の根』など『はびこる植物の繁茂』に喩えられている、という事実だ。

ブッダの言葉 1、蛇の章:14 ~岩波文庫中村元訳(以下同)

悪い習性がいささかも存する事なく、悪の根を抜き去った修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。

同章:208

すでに生じた煩悩の芽を断ち切って、新たに植えることなく、現に生ずる煩悩を長ぜしめることがないならば、この独り歩む人を聖者と名付ける。

同書 2、小なる章:272

それら(貪欲と嫌悪など)は愛執から起こり、自身から現れる。あたかも榕樹(バニヤン)の新しい若木が枝から生ずるようなものである。
広く諸々の欲望に執着していることは、あたかも蔓草が林の中にひろがっているようなものである。

さらに以下では、これらはびこる植物と “水” や “流れ” との相関が語られている。

仏弟子の告白

399:恣(ほしいまま)にふるまう人には、愛執がつる草のようにはびこる。

400:この邪悪なる妄執、世間に対する執着のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。が降った後にはピーラナ草がはびこるように。

691:一切の束縛を超越し、煩悩の林から煩悩の林のない境地に到達し、もろもろの情欲から離脱する事を楽しんでいる。

759:塵や泥を除き難いのうちに、私は沈み込んでいる。そのは、詐欺と嫉妬と傲慢とものうさと睡眠とにおおわれている。

761:愛欲の流れは、いたるところに流れる。欲情の蔓草は芽を生じつつある。その流れを誰が堰き止め得るであろうか? その蔓草を実に誰が断ち切るであろうか?

これらの言葉の背後に、彼ら古代インド人であるところの原始仏教徒は、どのような心象を描いていたのだろうか?

759では、私が沈み込んでいる『沼』と表現し、それが様々なネガティブな心の働きと重ね合わされている。この『沼』は以前指摘した様に脳髄である可能性が高い。

その沼は同時に流れであり、そこには欲情の蔓草がはびこる。

インドで植物が一斉に芽吹き、枝や蔓を伸ばし、葉を茂らせて “はびこる” のは、いつ、どんな条件が整った時だろう。

インドは酷熱と乾燥の大地だ。それが一斉に生命の賛歌に沸き立つ時、それが雨季に他ならない。褐色に乾ききった大地に、最初の雨のしずくが落ちて間もなく、あれよあれよと見渡す限りの一面が鮮やかな緑に覆われていく。 

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Liberalvichyより

上は、インド映画で恋愛感情の高まりを表す定番シーンにて雨に打たれて踊るカップルだが、雨の水は、正に性愛(生命の息吹)や多産・豊穣の象徴だ。

そんな雨期を待ちわびる乾季の間でも、かろうじて緑を保つ場所。それは決して干あがらない河川・沼・伏流水の水辺だろう。

それ以外は平地においても山においても、雨季(雨水)の到来なくして、緑の若草や蔓草に覆われる事も、芽生えや枝葉の茂りも生じえない。

どちらにしても、水なくして緑の繁茂する事はあり得ない。水なくして、草木の繁茂なし。草木の繁茂するところ、水あり

現代においても古代においても、この様なインド人の生活実感は、一年中水と緑に恵まれている日本人にはおよそ想像もつかないほどの切実な “リアル” なのだ。

正にその “恵みの水と緑” の相関を喩えて、煩悩や妄執のはびこり、というネガティブな文脈に重ね合わせた。これこそが、 “アンチテーゼの鉄人” たるブッダの面目躍如、と言えるだろう。

ここで今までに論じた、煩悩の “激流” という言葉が改めて重要な意味を持ってくる(この視点から見ると、中村元先生が煩悩の激流をインドの雨季と重ねたのは、正に正鵠を得ている)。

雨季になって、大地は水で覆われ、あふれた水はあちこちで激しい流れを生みだし、それら水の “恵み” によって山野は緑に覆われ、草は萌え、木々は葉むらで覆われ、蔓草は目に見える速さで伸び、はびこっていく。

雨季の水の流れは、芽吹き・葉むら・蔓草の伸長をもたらし、この両者の相関が、煩悩・渇愛の “はびこり” と重ね合わされた。

このブッダ一流のアンチテーゼは、

水なくして煩悩のはびこりなし。

煩悩のはびこる所に水あり。

という連想を、聴衆の心に容易に生みだした事だろう。

さて、この煩悩・渇愛とは一体どこで生起するものなのか。それは身体としての人間存在の内部においてだ。

これは現代人にとっても、古代インド人にとっても、自明のはずだろう。

ここで思い出して欲しいのだが、ではその身体の中で、最も “水っぽい” 場所は何処だっただろうか?

それはひとつには、下部の車輪であるところの骨盤に抱えられた、便や尿や精液や愛液を排出し、膀胱を備え、妊婦においては羊水を蓄える胎(生殖器)周辺だった。

そして、第二には、頭蓋と言う上部の車輪内部に蔵された、80%が水分ででき、ほとんど海水に等しい脳脊髄液に浮かぶ “脳髄”、だった。

骨盤にいだかれた下腹部とは、正に煩悩・渇愛の最たるものである性愛、が享受される場でもあり、それは同時に、受胎と言う輪廻転生が現象する最前線の現場だ。

さらに前回までの文脈を踏まえれば、上部の車輪である頭蓋に包まれた脳髄こそが、苦悩(渇愛・煩悩)が生起し、心がそれに溺れる泥沼だったはずだ。

人間の身体の上下には、骨盤と頭蓋と言う二つの煩悩の車輪が “回転” している。
それは同時に、煩悩・渇愛の水流が、激しく渦巻く二つの大海でもあった(車輪の回転と渦巻がかけられている)。

更に、頭部と下腹部と言う煩悩の “局所” には、もうひとつ、重要な共通項が存在している。それはもちろん、“毛髪” だ。

この毛髪、既にリグ・ヴェーダの時代には環境世界の植物に重ね合わされていた。

自然的世界の生成と人の生の間の同値性の観念は世界中いたる所で見られる。宇宙は人の身体の様に生き、息をしている巨人的な有機体として捉えられる。古代人は生物と無生物との区別を意識せず、自然と直接に親縁関係にあるとか、自然と癒着していると感じているのである。

象徴的同値性は自明的なものとして彼らの観念の中に入り込む。

リグ・ヴェーダの「葬送の歌」に見たように「風は呼吸であり、太陽は眼であり、草は髪の毛である」。

人間は死ぬと身体の諸要素はその宇宙的同値のものに還ると信じられた。

針貝邦生著「ヴェーダからウパニシャッドへ」P136 より

 

「初めにひとりアートマンがあった。他の何者も瞬きする者はなかった。彼は考えた。世界を今や創造しよう、と。(アイタレーヤ・ウパニシャッド1.1.1)

文章はこのように始まり、続いてアートマンからの世界の諸要素の創造が説かれる。~中略

「こうしてプルシャの口からは言葉が生じ、言葉からは火が生じる。鼻腔からは呼吸と風が、両眼からは視覚と太陽が、両耳からは聴覚と四つの方位が、皮膚からは髪と植物、心臓から思惟と月が、へそから吸気と死が、男根から精液と水が生じる。(AU1.1.4)」

同、P201~より

人の身体は「裸のサル」と言うが如く、普通の動物と違って素肌と言うものが露わになっている一方、ある特定部位には顕著な毛髪・体毛が密生している。そしてそれは、有意に『煩悩の “局所”』と重なり合っている

骨盤に囲まれた生殖器周辺には、思春期になると体毛が萌え出てくる。それは文字通り、性愛と言う煩悩・渇愛が萌え出てはびこり始める、誰の目にも明らかな兆しだ。

そしてを蔵する頭部にも毛髪が茂っている。さらにを感受するの周りには眉毛・睫毛が、を感受する鼻の穴には鼻毛が、を感受する舌(口)の周りにはが、を感受するのまわりにも耳毛(インド人男性には多い)が、それぞれはびこっている。 

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bidoun.orgより

インド人男性にはよく “耳毛” が見られる。思わずニヤリとしたあなたは、インド通だ(別に耳の周りは頭髪でもよかったのだが、この写真を載せたかった(笑)

そして、頭髪の直下には水っぽい脳が、睫毛に囲まれた眼には涙が、鼻毛には鼻水が、口ひげには唾液や痰が、それぞれ対応している(耳垢は必ずしも水っぽくないが、耳だれという症例がある)

人間の身体の中でもっとも汗腺の多い部位、“わきの下” においても、思春期以降、わき毛がふさふさと生えてくる。そこにあるアポクリン腺は性的フェロモンの発生部位だと考えられている。

煩悩・渇愛にまつわる “局所” “器官” は、とても “水っぽく”体毛が茂っている、という相関図は、古代インド人の眼には明らかだった。そのように思われるのだ。

そしてその小なる身体における煩悩と水と体毛三者相関が、大なる環境世界における “草木の緑”、と言う相関関係に重ね合わされた。

だからこそ、煩悩・渇愛を断ずる事を決意した出家の比丘たちは、煩悩する脳髄(頭蓋)の “水辺に繁茂する頭髪” を、剃り落した。それがはびこらないように、日々、剃り落し続けた。

その日々剃り落し続ける事が、戒定慧の修行において怠らず精進し、煩悩・渇愛の断滅を目指し続けるという “決意” を、象徴的に表していた、と。

ブッダと同時代のサマナ達が、しばしば“全身の体毛を抜く苦行”、を行っていたというのも、この文脈に則しての事かも知れない)

このようなイメージを前提にして、下記引用のパーリ経典文を読んでみて欲しい。その心象のリアルさが、まざまざと胸に迫っては来ないだろうか。

ブッダの言葉 1蛇の章 : 44(中村元訳)

葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるし(頭髪・髭など)を棄て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。

コーヴィーラ樹が葉を落とすのは、おそらく酷暑期に最も大地が干上がった時だろう。この文脈は直接的に下の詩節へとつながっていく。

同書 3大いなる章 : 433、434(悪魔ナムチとの対話)

はげみから起こるこの風は、河水の流れをも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血が、どうして枯渇しないであろうか。

身体の血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉がなくなると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧に統一した心とは、ますます安立するに至る。

ここでは、環境世界の河水が、体内の血流や胆汁・痰、そして肉などの水気の流れに重ね合わされている(内外世界の照応)。そして体内の水の流れは、修行で克服すべき『悪魔の勢力』を象徴している。

これら “体内の水” が、煩悩の激流とイコールである事はすでに繰り返し述べてきた。だからこそこれらが涸れれば、そこで溺れていた心は、“安立する” のだ(水が涸れれば、溺れていた者も立ちあがる)。

煩悩の体水が「はげみ(苦行タパスから吹く“熱風”?)」によって涸れ尽くせば、煩悩も涸れていく。それはあたかも、乾季・酷暑期の極みにおいて、熱風によって涸れ上がった小河川の岸辺に生える草木が、褐色に枯れ果てるのと同じように。

そして流れる川水さえ干上がってしまえば、川床は陸地となり歩いて渡れるように。

以上が、「煩悩の水辺とそこに繁茂するもの」について、原始仏教徒たちの心象風景をプロファイリングした第一のあらすじだ。

煩悩・渇愛を惹起する “色” の入り口である “眼” の周りは睫毛や眉毛で縁どられ、そこに湛えられた “涙” という水は、様々な激情に伴ってほとばしり流れる。

同様に “声” の入口である “耳” は耳毛で覆われ、そこにはおそらく耳垢や耳だれと言う湿った不浄が対応している。

“香” の鼻には鼻毛と鼻水が、“味” の舌(口)には口ひげと涎(食に対する渇望によって流れでる)や痰などがそれぞれ対応している。

煩悩する “意” が現象する脳髄と言う器官は、同時に豊かな水場でもあり(死後には真っ先に腐敗し泥沼と化す)、その外周りは頭髪に覆われていた。

では残った “触” と “身”(身体)との対応関係はどうなっているだろうか。

上で私は、骨盤に抱えられた生殖器ヨーニ・ガルバ)周辺をひとつの焦点として取り上げ、その体毛と、そこにおいて現象する様々な水と煩悩・渇愛について指摘した。それは確かに、最も象徴的な “触” の煩悩の水場だった。

しかし、この “触と身” と体毛と水との相関は、実はもっと全身体的な観点から捉えられるかもしれない。

アングッタラ・ニカーヤの「ケーシーの章:鞭経」には以下のような一節がある。

世界に四頭の駿馬がいる。

第一の駿馬は、鞭の影を見ると驚怖し、調馬師が私に何をしようとするのか、私は彼にどう対処すればいいのか、とその事態を知る。

第二の駿馬は鞭の影を見ても驚怖せず、鞭が毛穴に入ると驚怖し、その事態を知る。

第三の駿馬は、鞭の影を見ても、鞭が毛穴に入っても驚怖せず、皮に入ると驚怖し、その事態を知る。

第三の駿馬は、鞭の影を見ても、鞭が毛穴に入っても、皮に入っても驚怖せず、骨に入ると驚怖し、その事態を知る。

大法輪閣刊「パーリ仏典入門」片山一良著P232より

上の文脈前後のあらましはこうだ。

道の修行者の精進がラタ車を牽く馬に譬えられ、その馬には四種あると指摘される。

最初の馬は御者が鞭を振り上げただけで、その風切り音に耳で反応して御者の意を察する。

二番目の馬は、鞭が身体に振り下ろされるその感触を、“毛穴” で感じ取って御者の意を察する。

三番目の馬は、鞭の感覚が皮肉に達してから御者の意を察する。

四番目の馬は、鞭が身体に食い込んだその痛撃を、骨で感じ取って御者の意を察する。

そして修行者にもこのような四種の資質が存在するが、どちらにしても心を仏法僧に専注し、努力精進して修行に邁進する事が大事だと説かれる。

この一節の中で私が最シビれたのは、「鞭を “毛穴” で感じ取る」部分だ。

原文は「鞭が毛穴に入る」だが、サイズ感を考えれば鞭が実際に毛穴に入るはずもない。つまりこれは「鞭を毛穴で感じる」と読むべきだろう。

何故 “毛穴” なのか、と最初に読んだ時は「妙な言い方をするもんだ」位の引っかかりだったのだが、今になってみると、それは大きな手掛かりだったかも知れない。

“身” 以外の眼耳鼻舌という四官については、すべて眼窩や鼻腔などの “穴” 或いは「門」とそこから浸み出る水と、そこにある体毛という三者相関が成り立っていた。

そして煩悩の触の際たる下半身の性愛器官も、基本的に穴の『門』であり水場であり、体毛が繁っていた。

では、全身体的な “身” における “触” はどうかと考えると、そこでも同じ三者相関が成り立つのだ。

そのヒントが、前述の “毛穴で感じる” と言う心象だ。

例えば顕著な例で猫などの場合は、文字通り、“ヒゲ” が感覚器官になっている。それほど発達したものでなくとも、人間の場合でも全身に分布する産毛や「ムダ毛」などのマイナーな体毛は、日常的な感覚でも、明らかに “触覚” と関連している。

科学的にも、例えば毛根周辺の神経細胞が触覚の重要なセンサーになっているのは間違いない。毛根周辺とは、つまり毛穴の奥だ。痛覚などは厳密には違うのかも知れないが、問題は古代インド人がどう受け止めたかだ。

更に、同じ猫などでは、例えば怒りや攻撃衝動に駆られた時には、全身の毛が逆立つというように、明らかに “情動” と ”体毛” とは相関関係にある。

同じ事は人間にも言えるだろう。感動や恐怖や喜び、悲しみなど、激しい情動に駆られた時には全身の毛が逆立ち “鳥肌” が立つ。

これを、以前に投稿した「身体の中にある大海」の中では、輪廻の大海の水面(体表面)に生起する “さざ波” と表現した。

この点に関してはパーリ仏典に、何らかの情動に駆られて「頭髪が逆立つ」とか「身の毛もよだつ」という表現が多出する事から、古代インド人が情動と体毛と(更には “触覚” と)の相関を知っていて、かつ「注目していた」事は間違いない。

更にそれらの情動に駆られた時、多くの場合は発汗を伴い、その発汗は全身にまんべんなく分布する汗腺と言う眼に見えないほど小さな「穴」から滲み出てくる、という事実も、古代インド人にとって自明の事だっただろう。

その汗腺毛穴は、彼らにとっては、ほぼ重なり合っているかのように受け止められていた可能性が高い。

(参考までに、私たちも誤解しがちだが、科学的には毛穴=汗腺ではないようだ。メンズ美容クラブ参照

以上のように考えると、“身” における “触” についても、うぶ毛などのマイナーな体毛と、それが生える毛穴(門)と、そこから滲み出る汗水という三者相関が、見事に成り立っている事に気づくのだ。

そのような視点から、改めて前述のアングッタラ・ニカーヤにおける、

鞭が “毛穴” に入ってそれを知る。

という一文を見てみれば、これは明らかに、体毛とそれが萌えいずる毛穴と、体表面の触覚を、同一地点における相関として捉えていた、と推測する事が可能だ。

古代インド人にとっては、身体における触覚の “器官” その『門』は全身に分布する “毛穴” だった。その毛穴は、同時に煩悩の汗水を漏出する “汗穴” だった。

体毛と毛穴およびそこから滲み出る汗と言う関係は、頭髪やわき毛など他のメジャーな体毛に関しても成立する。

もちろんそれらの毛髪・毛穴(門)・汗(体水)・触覚、の背後には、激しい煩悩・情動の激流が重ね合わされていた訳だ。

(例えば恋する乙女が愛する彼氏に優しくその髪を撫で(触れ)られたら、それだけで陶然とするだろう。これは私見だが、古代インドの思想とは、このような極めて卑近な主観的経験世界をベースにして成り立っている)

前に私は、首から上の頭部と骨盤周辺を、輪廻の車輪・煩悩の激流の二大焦点、と位置付けたが、あくまでそれは体内でも特筆すべき二つの “焦点” に過ぎず、身体存在が “総体” としてひとつの 「激流の水場」であり、輪廻の大海である、という事は、既に大前提として論じている。

(後段で触れるが、おそらくこれら身体の様々な『感官の門』から滲み流れ出る全ての水は、Asava=漏、と関わりがある)

そのような煩悩の激流が渦巻く肉体存在としての “生” からの解脱。それこそが、古代インド人たる比丘サンガの目指した境地だったのだろう。

その解脱の境地とは、瞑想修行によってはじめて到達可能だった。

私の判断では、その瞑想実践と、これら五官六官についての心象風景とは密接に結びついていた(だからこそ、私はここまでくどくどと語っている)

しかし、具体的に “どのように”?

以前にも簡単に触れたが、私が中村元先生訳のスッタニパータやダンマパダなど一連の初期パーリ経典を初めて読んだ時に感じた印象。それは、瞑想実践の具体的な、“技術的方法論、いわゆる “メソッド” の詳細が、そこではほとんど語られていない、と言う事だった。

これは最初期の韻(詩=ガーター)文体の経典だけではなく、比較的遅くに成立したという散文体の諸経典についても同様だ。

「こんな指導だけで、弟子たちはちゃんと瞑想できたワケ?」という素朴な疑問を禁じ得なかった。

しかし、彼らの心象を子細にプロファイリングして行く事によって、一見意味不明な、あるいは他に表面的な意味を持つ言葉の連なりから「具体的なメソッドのガイダンス」が、鮮やかに浮かび上がって来る。

その瞑想実践の具体的な方法論を考える前に、前提として理解しなければならない事がいくつかある。そのひとつが、先ほどのAsava(漏)という概念だ。

前の記述でも若干触れたが、私の考えでは、五官の特性とこの漏と言う概念は密接な関わりを持っている。

これまでの論述を、以下に整理して見てみよう。

という器官は眼窩と言う穴であり、その穴からと言う煩悩の誘惑が浸入する。
そしてその同じ眼窩と言う穴からはと言う煩悩の激流が漏れいずる

という器官は耳腔という穴であり、その穴からという煩悩の誘惑が浸入する
そしてその同じ耳腔という穴からは耳垢(耳だれ)という不浄が漏れいずる

という器官は鼻腔という穴であり、その穴からという煩悩の誘惑が浸入する
そしてその同じ鼻腔という穴からは鼻水・鼻くそという不浄が漏れいずる

という器官は口腔という穴であり、その穴からという煩悩の誘惑が浸入する
そしてその同じ口腔という穴からは涎や痰という不浄水が漏れいずる

という器官において、触の最たる煩悩の焦点である性器に関しては~
男女性器という器官はそのどちらも “穴” であり、その穴からの快感という誘惑が浸入する。そしてその同じ穴から、精液や愛液(や羊水)などの煩悩の不浄水が漏れいずる

同じ身を “全身” として見た場合は~ という器官は毛穴(汗腺)という穴であり、その穴から、という煩悩の誘惑が浸入する。そしてその同じ穴から、という煩悩の不浄水が漏れいずる

そして、それぞれの穴(感官の門)の周辺には、それぞれの 「体毛の蔓延り」が対応している。

以前私は、結跏趺坐して坐った形の修行者の身体が、輪廻の大海を渡るための筏である、と指摘した。

この筏とはつまり船であり、上記の5官の穴から浸入する欲望の誘惑は、船であるところの身体に空いた “穴” から漏れ入る水(浸水)に相当する。何故なら、それが漏れ入る事によって、彼は輪廻の大海に沈むからだ。

インド思想というのは輻輳したアナロジーの多重世界だ。ここでは外部環境から漏れ入る情報が、船を沈ませる浸水に譬えられる。これが漏れ入るという意味合いでのAsavaだ。

一方で、身体から様々な情動に従って五官それぞれの穴から漏れいずる水(涙・汗など)は漏れ出る煩悩のとしてのAsavaに当たる。

以上を踏まえた上で、Asavaについてよく整理された以下の解説を見てみたい。

沙門ブッダの成立:山崎守一著、大蔵出版 P158~より引用

ブッダがその正覚において)何に目覚めたのかは、はっきりと分かっていないのが実情である。

古い経典は随所において「アーサヴァを滅ぼしつくして、最後の身体を保っている」と説き、さらに、

アーサヴァを滅ぼし尽して、彼ら輝く人たちは、この世において涅槃を得ている。(Dhp ダンマパダ:89)

と説かれ、また、テーラガータには、

アーサヴァを滅ぼし尽して、束縛をすべて離れ、愛著を超え、良く心が静まり、彼は生死の彼岸に達し、最後の身体を持っている(Dhp1022)

とあり、更にスッタニパータでは、

精神を統一し、激流を渡り、最上の知見によって理法を知り、アーサヴァを滅ぼし尽して、最後の身体を持っている如来、彼は、献果を受けるに値する。

と説かれている。

中略

アーサヴァの本来の意味は、漏れ込んで(入って)来る、事であるにも関わらず、仏教では正反対の漏出と考えられ、通常、漏れ出る汚れ=煩悩と解釈されてきた。

しかしながら仏教の姉妹宗教と言われるジャイナ教では、語源通りに霊魂に漏れ込んで来る事を意味する。この語アーサヴァは、輪廻の大海という文脈の中で用いられ、船に漏れ込んで来る水に喩えられている。

~以上引用終わり

ここで冒頭に、山崎さんがブッダがその正覚において、何に目覚めたのかは、はっきりと分かっていない」と告白しているのは、ある意味驚嘆に値するのだが、それは置いておこう。

山崎さんはその後、ジャイナ経典に見られるアーサヴァの用法と瓜二つのものがスッタニパータにも見られる事から、

最初期の仏教でもジャイナ教と同様、「漏れ出てくる煩悩」というよりは、「漏れ込んでくる水」に喩えられる輪廻の原因としての煩悩・愛欲と考えられていた事が理解できる(同引用)

と結んでいる。

この漏れ出る煩悩、漏れ込んでくる水、という「出るアーサヴァ」と「入るアーサヴァ」の問題は、先に私が指摘した、五官においてそれぞれの “穴” から欲望を駆り立てる “情報刺激” が浸入(漏れ入る)する事によって、その結果として煩悩の水である様々な体水が、(情報刺激が浸入したのと同じ穴から)漏れ出る、という因果関係を前提にすると、古代インド人の心象がよりリアルに感得できるのではないかと思う。

船に水が漏れ入ったら、その水は船体の上に眼に見えて現れ出る

これも私が先に指摘した事が関連して来るが、私たちの外形的身体は坐禅の形に足を組んで坐った状態で「筏」となる。しかし同時に、その私たちの身体の内部が、輪廻の大海、である。

身体の表面に漏れ出て顕在化した様々な体水は、それはすなわち、輪廻の大海から漏れ入って(出て)来た水に相当し、それに溺れる事によって、その大海に沈んでしまう訳だ。

繰り返し言うが、古代インドの思想的言語表現とは、様々な比喩・アナロジーが複雑に輻輳した多重構造になっている。

それらひとつずつを表面的に見取ろうとするとむしろ混乱の極みを招くだろう。

このアーサヴァの問題については、単純にこう考えればいいと思われる。

人間の身体には煩悩が入り込む(漏れ入る)各種の穴があいている(五官の門)。そしてその情報刺激が漏れ入ることの結果として、身体の中からは煩悩の激流や不浄としての様々な体水が流れ出る。

それら入り出るところのアーサヴァを二つながらに滅ぼし尽した人は、この世において、涅槃に至っている。

もちろん、そのアーサヴァの「滅ぼし方」こそが六官の防護であり、それを具現化する手段である瞑想実践に他ならない

以上が、アーサヴァに関する考察の概要だ。その漏れ水は、最終的に脳髄と言う泥沼流入し、意(心)を溺れさせるだろう。

ところで、もし船に穴があいていて、水が漏れ入って沈没の危機にさらされた時、もちろんその水をくみ出す事は必要だが、それよりも根本的な解決法は何だろうか。

それは、第一には穴をふさぐ事だろう。

逆に例えば、ポリタンクに水を汲んで来たのが、チョロチョロと穴から水が漏れ出ていても、やはり何らかの方法でその穴を塞ごうとするはずだ。

漏れ入るのであれ漏れ出るのであれ、それによって不都合が生じたら、その穴をふさぐ。これは現代人にとっても、古代インド人にとっても日常経験的な常識的な判断なのだ。

そこで、この論法を今問題になっている五官の穴における漏入と漏出についても当てはめたらどうなるだろうか。漏れ出るのは原因刺激である色声香味触法が漏れ入った事の結果だから、対処すべきはその「漏れ入り」を阻止する事だ。

色を見ないためには眼をふさぐ。
音を聞かない為には耳をふさぐ。
香を嗅がないためには鼻をふさぐ。
味を感じないためには口をふさぐ。

触については取りあえず置いておいて、それ以外の4官については経験的にもきわめて単純かつ明確な対処法だ。

一番分かりやすく言えば、騒音に悩まされている時には、耳全体を手のひらで覆う、あるいは耳腔を指でふさぐ、事によって、音は遮断される(音の浸入は止まる)。

しかし問題は、“その時起こる事は音が遮断されるだけではない”、という事だ。

耳全体を手のひらで覆ったり、耳腔を指でふさいだりした時に、音の遮断以外に明白に起こる現象、それは一体何だろうか?

それは、耳をふさぐ為に手のひらが触れた感覚を耳朶で感じる事であり、指が突っ込まれたその感覚を耳腔で感じる事だ。

これはそれぞれ眼においても鼻においても口においても、更には身においても同様だ。穴をふさげば、その穴が生きた身体にある以上、塞がれた瞬間、そこに触覚が生じるのだ。

考えてみれば、目耳鼻舌はすべて身体の一部でありその器官だから、“身として触を感じる”、のは当然なのだ(重要)。

眼を閉じて、眼球を動かしたら、眼球で瞼を、瞼で眼球を触感しないだろうか?

耳掃除で耳かきを動かしたら、耳孔に触覚を感じないだろうか?

鼻くそほじる為に指を突っ込んだら、鼻腔に触覚を感じないだろうか?

舌を口腔内で動かしたら、舌で口腔を口腔で舌を、それぞれ触感しないだろうか?

これら顔面における各感覚器官は、それぞれ視・聴・嗅・味の覚であると同時に極めて鋭敏な触の覚でもある。その事は、下の画像を見れば一目瞭然だ。

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Mike:Flickrより

これは人間の脳内体性感覚(触覚)野の大きさをマッピングしたホムンクルス・モデルだが、頭部顔面、そして眼耳鼻舌の各領域の大きさを見ると、そこがどれだけ鋭敏な触覚器官であるかが分かるだろう。

我々の身体運動は触覚情報フィードバックに基づいてその動きを制御しているので、このマッピング運動野にも重なり合う。つまり、ここで描かれた身体部位の大きさは、繊細鋭敏に感じられる能力と精緻に運動できる能力が比例している。

(ここに顕著な顔の大きさは、「顔の周りに気づきを留めて」という瞑想ガイダンスに対応しているし、手の大きさは、いわゆる「手動瞑想」の優位性の神経生理学的な根拠かも知れない)

そしてこの事実は、私たちが自身の日常における様々な行為やそこにおける感覚をつぶさに観察すれば、自ずから自覚され得る事だ。

これら経験的な明白な事実が、実はブッダの瞑想法の具体的な方法論、いわゆるメソッドに、深く関連していたのではないか。

それはアナパナ・サティにおいてもそうだし、いわゆる “四界分別観の瞑想” においてもしかりだろう。

アナパナ・サティにおいて呼吸に気付く、と言うが、実際には呼吸そのものに気付いていると言うよりも、呼吸の風の動きによって、顔面鼻腔周辺に生起する(あるいは腹部周辺に生起する)触覚に気付いているという事実がある。

呼吸に気付くと言いながら、実は鼻腔周辺(もしくは腹部)における体性感覚の “触覚” に気付いている

ここにアナパナ・サティの不思議さと奥深さがあり、同時に、全身を体性感覚で探っていく、いわゆる四界分別観の瞑想、と呼ばれるものとの “相同性” あるいは『連続性』がある。

それらは共に『神経生理学的な機序』として把握可能だろう。

眼耳鼻舌の四官は、同時にすべて『身』における “触” に包摂される。そして実は、より深い意味においても、この四官は触』によって成り立っている。

の視覚は網膜に光が触れる事で生じる。の聴覚は鼓膜に空気の振動が触れる事で生じる。の嗅覚は鼻腔粘膜に匂い物質が、の味覚は味蕾細胞膜に味物質がそれぞれ「触れる」事で生じる。

12縁起における六(内外)処の次に『触』を持ってきたブッダ(古代インド仏教サンガ)の感性は全く正しい

眼耳鼻舌をもひっくるめた全『身』において生起する “触” という現象は、仏教の教理において、そして何より瞑想の実践においても、きわめて重要な意味を持っているのだ。

その様な観点から、次回以降では瞑想実践の “技術的な要点” について、経典を読み解きながら論じていきたいと思う。

そこでは「プリサ・ダンマ・サーラティ」という言葉がひとつのキーワードとなる。

これは、漢訳で「調御丈夫」、日本語では「人間を調御する御者」などと訳されている、ブッダの十号の内のひとつだ。

パーリ語の仏の十号は、どれも美しい響きをもつものが多いが、中でも最も好きな言葉は、と問われれば、私は躊躇なく、この “プリサ・ダンマ・サーラティ”を上げるだろう。

その音韻の美しさにおいても、その “意味” の深さにおいても。

 

(この投稿はYahooブログ:脳と心とブッダの覚り 2014年7月30日「煩悩の水辺に繁茂するもの」、8月6日「身と触における煩悩の水辺」、11日「Asava(漏)に関する考察と触」記事を統合修正の上移転したものです)

 

 


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