仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

煩悩の水辺にはびこる蔓草:瞑想実践の科学6

前回私は煩悩の現場である六官の門に顕著な体水体毛と、そこにおける『触』について論じ、それが瞑想実践の具体的な作用機序とも密接に関わりを持った、とても重要な部分だ、と示唆した。

今回はそこに登場した植物の喩え脳髄との関係性から入って、もうひとつの「重ね合わせ」について色々と考えていきたい。

まずは二枚の画像を見ていただく。

f:id:Parashraama:20191211212246p:plain

再掲:大脳外観

上はこれまでにも見て来たものだが、右側面から見た大脳になる。右方が前頭葉、左下が小脳。全体にその表面は顕著な血管網で覆われている。また小脳にへばりつく白い部分が延髄から脊髄で、この部分にも太い血管がはっている事が分かる。

もうひとつは、前回までに掲載した脳底部を、動脈血管に焦点を当てて描いたものだ。

f:id:Parashraama:20191226151337p:plain

Wikipediaより:動脈血管網にハイライトを当てた脳底画像

端的に言って、第一感、これら血管網は何かに似ていないだろうか?

これらはあくまで絵なので、リアルな生の脳を取り出した時にどのように見えるかは示せないが、おおよそは上図のような血管網はびこりが見て取れるのだろう。

さてここは本当に問題なのだが、この脳の周囲(あるいは内部)にへばりつくようにはびこった血管網は、何か他の類似した存在、例えば蔓草に、見えないだろうか?

前回私は、植物と毛髪との重ね合わせをリグ・ヴェーダウパニシャッドにまで遡って指摘した手前たいへん恐縮なのだが、この血管網は単純なヴィジュアルとして明らかにつる草と重なり合う。これは誰が見たってそうではないだろうか。

(これまで指摘して来た様に、古代インド人の心象世界は様々な「アナロジー/同置」の複合態である!)

以前にも言ったかも知れないが、私は本業としては20年近く山仕事(林業)の現場仕事に携わって来た。

除伐、間伐、草刈り、伐採、植栽など一通りやって来たのだが、林道や公園の整備、あるいは植林した苗の手入れなどで、しばしば『蔓切り』という地味~な仕事に携わった。

林道や公園などでは、多くの場合フェンスやガードレールなどにも蔓がはびこってしまう。それを根元から切って、張り付いている蔓草をはがし取る。

あるいは杉檜の苗木の場合、このつる草がはびこって樹冠を覆ってしまうと、成長点が曲げられてしまい、日光を遮ってしまい、あるいは幹に巻きついて締め付けて幹材そのものを歪め、最悪絞め殺してしまう場合もあるのだ。

なので林業においては、このはびこる蔓を切って殺して行くというのは極めて重要な仕事になっている。

林業とは関係なくても、例えば盛夏、注意深く見れば、庭木や街中の植え込みには多くの蔓草がはびこっている。あるいは田畑の内部や周囲にも多くの蔓草がはびこりがちだ。

日本で蔓延って厄介な蔓草の代表的なものは、葛(くず)、ヤブガラシなどだろうか。おそらく古代インドにおいても人々の日常生活の中で、このはびこる蔓草との戦いというものは、一般的に見られたのだろう。

(今気が付いたが、「はびこる」の漢字は『蔓が延びる』!)

そして前回も例示した様に、パーリ仏典を読むと、特に最初期に収録されたと言われる古層の経典群を見ると、この蔓草のアナロジーが頻出する事に気付くのだ。

仏弟子の告白

399 : 恣(ほしいまま)にふるまう人には、愛執つる草のようにはびこる。

400 : この邪悪なる妄執、世間に対する執着のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。が降った後にはピーラナ草がはびこるように。

691 : 一切の束縛を超越し、煩悩のから煩悩の林のない境地に到達し、もろもろの情欲から離脱する事を楽しんでいる。

761 : 愛欲流れは、いたるところに流れる。欲情蔓草は芽を生じつつある。その流れを誰が堰き止め得るであろうか? その蔓草を実に誰が断ち切るであろうか?

 

感興の言葉 第三章・愛執

15 : 実に愛執が原因であり、執着はそれによって流れている川である。この世では欲の網が茎を常に覆っている。蔓草である飢えをまったく除去したならば、この苦しみは繰り返し退く。

16 : たとえを切っても、もしも頑強なを断たなければ、樹が常に再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力を摘出しないならば、この苦しみは繰り返し現れ出る。

17 : 譬えば自分が堅固に作った矢でも、誤って乱暴に弦に番えると、その人を殺してしまうように、ここで自分の内部から現れ出た蔓草である愛執は、人々を殺すに至る。

~以上、中村元岩波文庫より引用

私はすでに、第六の器官である意(心)の現場は脳髄である事を、古代インド人は認識出来ていた可能性が高い、と指摘している。

その事を踏まえた上で、上記パーリ仏典の引用を注意深く精読して見て欲しい。

愛執がつる草のようにはびこる。

雨が降った後にはピーラナ草がはびこるように。

欲情の蔓草は芽を生じつつある。

その蔓草を実に誰が断ち切るであろうか?

執着はそれによって流れている川である。

この世では欲の網が茎を常に覆っている。

蔓草である飢えをまったく除去したならば、

自分の内部から現れ出た蔓草である愛執は、人々を殺すに至る。

欲情や愛執や渇愛に譬えられるこの “蔓草” は、と深い関わりがあり、しかも自分の内部から現れ出たものである。

仮に苦悩・煩悩の現場が “脳髄” であると古代インド人が自覚出来ていたとして、この自分の内部、とは直接的に頭蓋の内部、すなわち脳髄である、と推定できないだろうか。

これまでも繰り返し指摘してきた事だが、古代インドにおける求道者達は、おそらくはブッダの時代の遥か以前から、すでに人間存在の真実を求めて人の身体を解剖する、という営為を行っていた可能性が高い。

それは古層のウパニシャッドやアタルヴァ・ヴェーダ、さらにはパーリ仏典を精読すれば自明の真実だろう。

ならば、原始仏教においてひとつの焦点とも言える6官の防護、その内の4官が集中する首から上の頭部に蔵され、その4官から “あたかも根のような” 神経線維によって繋がれた脳髄について、彼らが興味・関心を示さないはずがない

それが私の、極めて客観的かつ合理的な判断だ。

そこで冒頭に掲載した脳画像を思い出そう。

彼ら古代インドの求道者たちは、直接的な解剖によって、遥かにリアルな脳のヴィジュアルを、視認していたのではなかったか、と。

脳上部から脳底部さらには脳幹から脊髄に至るまで、びっしりとその表面にはびこった赤黒い(青黒い)血管たちは、あたかも山や畑や街中の植栽などにはびこる、厄介ものの蔓草のように、古代インド人達の眼には映らなかっただろうか?

蔓草と血管は表面的な形のアナロジーだけではなく、機能的・構造的にも酷似している。

血管とは何よりも血液という “水” を運んで行く「水道チューブ」だ。そして蔓草もまた、梅雨時に山に入って葛でもいい山藤でもいい、そこらにはびこっている蔓を切ってみれば、その切り口から水がぼたぼたと流れ落ちる様に、正に水を運ぶチューブなのだ。

実は植物の茎や幹全般が、この水を吸い上げ運んで行くチューブ・パイプである(維管束って昔習ったはず)、というのが本質的な事実なのだが、中でもこの蔓草・つるの持つ血管との形態的機能的類似には著しいものがあるだろう。

煩悩の現場である脳の表面には、欲情・愛執の蔓草である「血管」がびっしりと網の様にはびこっている。その中には正に血液の激流が奔っている。

この蔓草であるところの血管のはたらきが、煩悩や渇愛、欲情と深く結び付いているという事は、例えば怒り心頭に発した人のこめかみに血管がぴくぴくと脈打つ、あるいは心臓が激しく鼓動する、その鼓動の響きを頭蓋の内部で強く感じる、などの日常的かつ普遍的な体験によって、古代インド人にも容易に連想可能だったはずだ。

蔓草も血管も共に水を運ぶチューブ・ホースである。その水とは煩悩を盛んならしめる働きがある。だからこそ、その水(血液)の激しい流れは、愛執によって流れる川であり、煩悩の激流なのだ。

パーリ経典のこの様な使われ方をする『川』の原語は一般にNadiだが、これはヒンドゥー・ヨーガの文脈では体内にある様々な流れ、を意味する。

In yoga theory, nadis carry prana, life force energy. In the physical body, the nadis are channels carrying air, water, nutrients, blood and other bodily fluids around and are similar to the arteries, veins, capillaries, bronchioles, nerves, lymph canals and so on.

ヨガ理論では、ナディ(川)はプラーナ、生命力のエネルギーを運ぶ。 身体では、ナディは空気、、栄養素、血液、その他の体液を運ぶチャネルであり、動脈血管、静脈血管、毛細血管、細気管支、神経、リンパ管などに似ている。

Wikipediaより

古代インドの仏教サンガが、体内にあって血液の激流を奔らせる血管を『川』と表現した、と言う視点は、さまざまな観点から見て、整合性が高い。

さて、ではこの煩悩のはびこる「蔓草」でありその激流を運ぶ「川」であるところの脳内血管は、呼吸瞑想やその機序とどのような関わりがあるのだろうか。

もちろんそれは、呼吸というものが体内に酸素を取り入れる機能であり、血流とは正にその酸素を運ぶものである、という一点において、両者は強固に関連している。

頭に血がのぼって怒り心頭に発する、あるいは逆に「頭を冷やして考えろ」などの表現があるように、人間の心の動態は、すべて血液の流れやその熱と密接に関わっている。

何故なら、その心の動態とは、ひとえに血流が運ぶ酸素を用いた燃焼が生みだす活動だからだ。

以前には、鼻で行われる呼吸によって脳が冷やされる、という側面を強調したが、呼吸は同時に、本来的には燃焼を生みだす酸素を供給する事によって、その燃焼を盛んならしめる、という本質をもっている。

(燃焼のための呼吸が、同時に冷却ファンでもある、という人体の妙!)

呼吸と、血流量(煩悩の蔓草のはびこり具合)と、心と身体の活性は、三者相関で連動している。なので、呼吸のたびに、新鮮な酸素が供給されるたびに、全身体的な活性のさざ波が揺れ動く、という事が想定できる。

そしてもちろん、その燃焼か鎮火していけば各血管は痩せ細り、自ずから段階的にその熱量は低下して行き、清涼になっていく。

それらは、あるいは細胞たちのかすかな活性のざわめきであり、あるいは、血流量や血圧の変動であり、あるいは本当に微細な脳圧の変動だったかもしれないし、さらには “心理状態” の変動だったかもしれない。

それら、日常的には感知不可能なかすかなさざ波を、注意深い瞑想修行者は、ある種の体感的な “触覚” として「顔の周りで」、気付く事はなかっただろうか?

(例えば欲情が盛んな時には、注意深い瞑想者にとって、それは頭の中で欲情の蔓草が芽を生じつつあって、その成長点が伸長し、呼吸と連動して“うごめいている”様な“触覚”として感じ取られたかもしれない)

先に引用した経典において、『つる草』と表現されたものは、実は単なる文学的な比喩表現などではなく、実際に具体的な事物、つまり脳における血管のはびこりと 『重ね合わされて』いた、のではないのか。

血管こそがつる草である。この仮説を前提にすると、さらに広い視野でこの煩悩・渇愛・欲情のつる草について、把握する事が可能になる。

何故なら、もちろん血管は全身体的に分布し、はびこっているからだ。

f:id:Parashraama:20191226154913j:plain
筑波学園看護専門学校より:人の身体は、血管網によって覆い尽くされている

これら血管網の端々に至るまで、呼吸と共に息づいている。畢竟、全身体60兆の細胞がすべて血管と繋がり、呼吸と共に息づいている

ここまで、首から上の五官六官と直結した脳髄、というものに焦点を当てて読み進めて来たのでそこから話を始めたが、実は、血管がはびこっているのは脳だけではない。当たり前の話だ。

それら、全身体的な血管の網の目がその流れが、呼吸と共に微細なレベルで息づいている。

それに気付く事こそが、アナパナ・サティにおいて、

「全身に気付きながら息を吸い、息を吐く」という事であり、

「全身を鎮めながら(身体から生まれる形成力を落ち着かせながら)息を吸い、息を吐く」という事のひとつの焦点だった、と。

その全身の血管網は、まずは六官の筆頭であるからいけば、瞼を裏返して見れば網目状の赤い毛細血管が微細なつる草状にはびこっている様が見て取れるだろう。また、大いに泣きはらした後などは、眼球の白目部分が充血する。これも近づいてまじまじと観察すれば、それは血管つる草のはびこりだと分かるはずだ。

耳たぶを透かして見れば血管の蔓延りは明らかだし、強烈な印象を与えるのは舌の場合だ。舌を裏返して覗きこめば、明らかにある種の邪悪さすら感じさせるほど青黒い血管群が蝟集しているのが視認できる。

首筋やこめかみには太い血管が走り、それは怒りに震えている時などにはこれ以上もないほどに怒張して見える。

手足の表面には、つる草が伸長する様に静脈が網の目のように覆い、心身の活動と共に膨張してその存在を主張するだろう。

妊産婦の場合、大きくせり出したお腹の皮膚、そして授乳を控えて膨満した乳房の表面にも、くっきりと青い静脈を浮き立たせていく。

そして何よりも、男性である修行僧の比丘にとって切実な意味合いを持っているのが、性愛の器官であるところの「男性自身」だ。

これは非常に分かりやすいのだが、普段、いわゆる「臨戦態勢」にない場合は、小さくしおれて血管も目立たない。けれど、ひとたび催して、つまり欲情に駆られて怒張勃起したならば、その陰茎の表面には、うねうねとした血管が血液によって膨張した姿を現すだろう。

私たちは陰茎の勃起が、海綿体に大量の血液が流れ込む事によって起こる、という事を科学的に知っているが、古代インド人はどうだっただろうか。少なくとも血管の怒張と陰茎の怒張が相関関係にある、という事は、まず、認識できていただろう。

それはお相手となる女性自身についても同様だ。性的興奮に伴ってその局部の内側は鮮紅色に染まり、間近で検分すればそれは微細な毛細血管の網の目そのものだろう。

そこで先に引用したパーリ経文を思い出して欲しい。

感興の言葉 第三章・愛執

15 : 実に愛執が原因であり、執着はそれによって流れている川である。この世では欲の網を常に覆っている。蔓草である飢えをまったく除去したならば、この苦しみは繰り返し退く。

そう、ここに書かれた、

「この世では欲の網を常に覆っている」

という表現、欲の網は文学的比喩としても理解可能だが、というのがよく分からない。しかし、これを「陰茎」つまりペニスに重ね合わせると意味の焦点が急速に絞り込まれてこないだろうか。

(これを身体各部の茎(棒)状の『肢』や『首』あるいは、脳髄の茎である “脳幹” として読み解く事も可能だが…畢竟、人間の全身体が欲の網である血管に覆い尽くされているのは先の図版を見れば明らかだ)

この「感興の言葉 第三章・愛執」は、その題名の通り「愛執」をテーマにしている。その内容を精読すると、この言葉は、第一に修行僧に向かって語られている事が分かるだろう。

8:愛執の消えうせた修行僧は、欲求する事なく、ときほごされている。

そして、この愛執という題名が、性欲という渇愛・執着にその焦点を当てている事がこれも明らかなのだ。

12:男は愛執を妻として、長夜に臥す。ひそむ妄執のゆえに繰り返し流転輪廻して、繰り返し母胎に入る

10:この世において極めて断ち難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。

興味のある方は是非全文を読んで欲しいのだが、この愛執の章においては、前述の「つる草」がひとつのキーワードになっていて、それによって愛執・愛欲・妄執・執着・渇愛、などが象徴されている。

つまりを常に覆っている「網」というのは、はびこったつる草の覆い、と同義であると同時に、この網や蔓草は性愛の渇望・欲情を象徴していると読めるのだ。

もちろん、これらは単なる文学的な比喩表現として見る事も可能だろう。そこらじゅうにはびこって人々を困らせるつる草の性質は、しばしば野菜などの茎を覆い尽くしそれに被害を与える事だろうし、正にそのように、妄執は修行僧の心を覆い苦しめるのだと。

しかしながら、これが単なる文学的比喩表現だけではなく、実体的かつ具体的な事象との切実な重ね合わせがあったと考えると、話はまったく違って来る。

渇愛・煩悩のつる草は実ははびこる血管であった、という読みが正しいと仮定した時、そこに何が見えるか。性愛の執着と切実な関連をもつ、血管網に覆われた「茎」と表現され得るもの、とは一体なんだったのだろうか。

それは「男性自身」すなわち「陰茎」以外にはあり得ない気もするのだが。

陰茎という日本語は、もちろん古代インド語とはまったく関係がないだろうが、人間のアナロジー感性というべきものは時代や民族・文化を超えてある普遍性を持っている。

陰茎、すなわちペニスというものは、茎に似ている。例えば、ペニスはしばしばマツタケなどに譬えられもするが、それはヴィジュアル的形態が茎と傘の相似性において重なるからだ。別に深い意味や時代的・文化的特殊性などは関係ない。

さらに、この第三章には以下の様な比喩表現もある。

3:人々は盲目なる欲望の網のうちに投げ込まれ、愛執に覆われて、放逸であり、獄舎に閉じ込められている。――魚が漁獲の網の目にかかったように。

ここで言う「欲望の網」がつる草の網=血管網を意味するとしたら、そこに投げ込まれている「魚」とはその形の類似から「ペニス」を意味しないだろうか。

(「欲望の網」とはいわゆる「投げ網」が開いたり閉じたりして魚を捕える姿と女性器の性質をかけてある)

そして「盲目なる欲望」とは、これもペニスの形態にかけてある。すなわち、ペニスには口はあっても、「眼」は存在しないから。

(この「盲目」の原語を当たりたかったが、これはサンスクリット版のウダーナらしい。そこでパーリ経典のウダーナを当たると同一箇所があり、その「盲目なる欲望」は「Kāmandhā」でカーマ(愛欲)のandhā (盲しい)になる)

つまり盲目の魚の様なペニスの欲望は、その表面にはびこった煩悩の血管網に囚われて(投げ網たる女陰に捕獲されて)、駆り立てられて、勃起し、性愛という、あるいは女体(ヨーニ・ガルバ)という獄舎に閉じ込められている(その結果、輪廻を繰り返している)。

そして経典はさらにこう続く。

3 続き:かれらは老いと死に向かう。――乳を吸いたがる子牛が母牛に向かうように。

乳を吸いたがる子牛が向かうのはもちろん母牛(女性)の身体の乳房だ。乳房とは男性にとって女性性の象徴であり、まず第一のセックス・アピールでもある。

現代インドにおいても、遺跡の女神像などがその裸の乳房部分だけが男どもに撫でられて黒光りしている姿をしばしば見かけるが、乳房というものは、男たちにとっては永遠の憧れであり、だからこそ、彼らを悩乱させる(いわゆる「おっぱい星人」w)。

そしてヨーニ・ガルバという『網』に捕えられた男たちは、繰り返し輪廻し、老いと死を経験し続ける。

以上のように読み解く事によって、何というか、単なる文学的な比喩表現の繰り返しに過ぎなかった、血の通わない表面的な文言が、忽然と極めてリアルで生々しい切実な説教へと変貌しないだろうか。

私の見た所、特に古層とい言われるパーリ仏典の韻文(詩文)部分には、しばしばなんでもない比喩表現の形をとりながら、実はその裏に切実な深い意味が込められている、という文言が多く潜在している。

それは『広長舌相』についての先の二つの投稿でも解読を試みたものだ。

そこでは、一見荒唐無稽なエピソードの背後に、ある特別な意味が隠されていたかもしれない、その可能性が浮き彫りになった。

つまり、そこには “隠語” が存在した。そう私は睨んでいる。

いわゆるギャルとかヤンキーとか言われる若者たちが、自分たちだけに通用する「隠語」を共有し駆使する事によって社会からの分離独立を図り、仲間内の結束を高める、というように、古代インドの比丘たちが集うサンガにおいても、特殊な隠語が駆使されていた可能性が高い。そう私は考えている。

それは表面的に日常的な意味だけを拾ってもそれなりに文学的な比喩として理解可能な文言や、常識的に考えると荒唐無稽な表現の中に、実はもう一枚より深い意味があって、修行僧たちはその裏の深い意味の方に耳を澄ませ、部外者は表面的な意味しか把握できなかった。

例えば、これはいわゆる瞑想実践における具体的な「メソッド」に関しても、そうだ。

考えてみれば、ブッダの言葉というものは、おそらく当時の共通語である古代マガダの日常語で語られる事が多かったはずだ。それをスッタとして集成した第一結集のブッダの言葉も同様だろう。

それらは当たり前の日常語であるがゆえに、それを聞いた者には誰でも意味が理解されてしまう。在家信者にも、非信者にも、異教の者たちにも。

仏教サンガの優位点というものが何処にあったのかと推察すると、それはやはり第一には瞑想法の優位性にあった、と私は理解している。

その瞑想法の具体的なメソッドを、誰にでも分かる言葉で大っぴらに語ってしまったら、それはみすみすその「優越性(守るべき特許性)」を自ら放棄してしまう事を意味する。

特にブッダの死後一定期間は、何よりも第一に、ブッダの教え、その瞑想法が持っている優位性のパテントを秘匿し死守し継承する、という事に多大なる関心と注意が注がれたと推測できる。

つまり隠語システムを共有しない部外者には、一般論的比喩に過ぎない文言が、実は隠語としてはまったく異なった深い意味を秘めている、といった表現の工夫が凝らされた可能性が高いのだ。

もちろん瞑想指導の実際についてはマンツーマンで内うちに伝えられた、という部分も多かっただろう。しかし聖典としてまとめられたスッタの中に、仏道修行の核心である瞑想行法についての解説がほとんどまったくない、というのは、余りにも不自然だと考えられる。

主に岩波文庫で出版されている初期パーリ経典の翻訳を読んで、私が最初に感じた印象は、以前にも書いたのだが、

「こんな指導だけで一体どうやって瞑想実践に取り組んで、アラハンの境地にまでたどり着けるのだろう?」

という正にその一点だったのだが、以上のように考えるとその謎が明らかになる気がする。

ここで私が注目する文言がある。それは、今までに紹介してきたスッタに関して言えば、以下の様な表現だ。

仏弟子の告白

761 : 愛欲の流れは、いたるところに流れる欲情の蔓草は芽を生じつつある。その流れを誰が堰き止め得るであろうか? その蔓草を実に誰が断ち切るであろうか?

 

感興の言葉 第三章・愛執

15 : 実に愛執が原因であり、執着はそれによって流れている川である。この世では欲の網が茎を常に覆っている。蔓草である飢えをまったく除去したならば、この苦しみは繰り返し退く

16 : たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が常に再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力摘出しないならば、この苦しみは繰り返し現れ出る。

ハイライト部分を整理すると、

誰が、どうやって、堰き止め得る

誰が、どうやって、断ち切るであろうか?

まったく除去したならば

頑強な根を断たなければ

潜勢力を摘出しなければ

(筆者:しかしどうやって?

になる。そう、問題は方法論なのだ。問いかけの形をとっているが、裏返して見れば、ブッダは明らかに、「私にはそれができた、私はその方法を知っている」と言っている。

「欲情のつる草を断ち、その流れを堰き止める」とか、「妄執の根源となる潜勢力を摘出する」とか、あるいは「根こそぎにする」とか、言葉では簡単に言えるが、実はそれは決して容易な事ではない。

これは少しでも仏道修行や瞑想を経験したことのある人にとっては、痛切なリアリティだろう。

ではブッダは、一体、“どのようにして”、それを根こそぎに断ち切り、摘出し、除去し、堰き止め得たのか? 私は、そこにある「断ち切る」とか「摘出」とか「除去」とか「堰き止める」など、ある種『術技・作業』を連想させるイメージが溢れている事に注目している。

(都会人には分かりにくいが、雑草を根絶やしにする為には、実にその植物に対する深い知識と適切な技術が求められる。そのプロセスは、どこか外科手術で腫瘍を「摘出」する作業にも似ている)

そこにこそブッダの瞑想法の、悟りに至る真実のメソッドが存在したのであり、これら、植物の蔓や根のはびこり、樹の茂りなどに喩えられた文言が、そのメソッドにも直接的にかかって来る

つまり、「断ち切り、摘出し、除去し、堰き止める」という『作業』は、イコール、瞑想実践の具体的なプロセスそのものを象徴的にあるいは『体感的に』表している

次回以降、その瞑想実践の具体的なメソッドに関して、一体どのようにパーリ経典の『詩文・散文表現』の中に “隠語として” 埋め込まれているのか、という事を読み解いて行きたい。

そこでまず注目するのは「動物の喩え」だ。それは直接、「プリサ・ダンマ・サーラティ」という仏の称号にかかって来る。
★本投稿はYahooブログ 2014/9/2「はびこる蔓草と脳血管」2014/9/4「煩悩の局所とつる草」記事を統合の上加筆修正し移転したものです。

 


にほんブログ村