『ブラフマン』とゴータマ・ブッダ【前編】
前回の記事ではブッダの時代の思想史的・修道史的な前段階として古ウパニシャッドに焦点を当て、その核心部分とも考えられる『ウパーサナ』について検証し、その『実践』がゴータマ・ブッダの成道へと直結している可能性について考察した。
何故私がブッダと古ウパニシャッド的な探求が直結していると考えるのか。そこには様々な要素が輻輳しているのだが、ここで端的に、かつ象徴的に一言で言うならば、それは両者において『ブラフマン』というキーワードが共有されている、という事に尽きるだろう。
仏教的な不動の真理としてパーリ語の『アニッチャー【無常】・アナッター【非我(無我)】・ドゥッカー【苦】』の三相が知られている。中でもアナッター(anattā)はサンスクリットのanātmanに相当し、『アートマンではない』と捉える事ができる。
これは経典においては多くの場合、現象世界における様々な事象を捉えて『これはアートマンではない』という形で言及され、さらにそのような『アートマンではない世界の諸相』に執着してはいけない、と説かれる。
この『理(ことわり)』へのこだわりは、スッタニパータなど古層の韻文経典から散文経典に至るまで通底しており、仏教におけるひとつの核心的な教説となっている。
何故ブッダはそこまで『これはアートマンではない』という事実を強調したのか。その背後には当然、ウパニシャッド的な梵我一如の真理におけるブラフマンとイコールであるところの『アートマン(永遠不滅な魂、常一主宰としての真我、普遍我)』の存在が第一に予想され得るだろう。
(この点に関しては、ウパニシャッド的なアートマンと仏教的なアッタン、アナッターとの接続を否定的に捉える見方もあるようだ。現時点で私は完全に両者は密な接続関係にある、という立場に立つが、このテーマはまた稿を改めてじっくり考察したい)
そしてそのような『これはアートマンにあらず』というブッダの教説をもって、仏教とはウパニシャッド的な梵我一如の思想からは完全に隔絶したものである、という認識が少なからず一般に流布している。
(その後の大乗仏教の発展に伴って『仏性論』というものが台頭し、話が少々ややこしくなって来るのだがここでは触れない)
しかし、ある時ふと私は気が付いた。確かにパーリ経典の散文部分では、アナッターとして、我々が経験しうる世界(一切世界=sabbeloka)は、『心的諸相』を含めて(そもそもすべての経験は心的諸相である!)、全てが変化し続けている『無常』であり、それゆえ『苦』であり、歓喜に満ちた永遠不滅のアートマンなどは一切確認できず、それゆえ一切世界の諸事象はことごとく『非我(アナッター)』である、と喝破している。
(ここで注意すべきは、仏典が無常と苦と非我を主張したのは、あくまでも我々が経験できる日常的な『一切世界』であり、この『世界』の彼岸(Pāram)あるいは彼方の『別世界』(Paraloka)がどうなっているのかについては無記を貫いている)
けれどもその真我アートマンと対になりそれこそが正に大宇宙の中心原理であり絶対者であるところの『ブラフマン』については、何一つ否定してはいないのではないか。例えば『ア・ブラフマン』などという表現や意義が、仏典上に存在するのだろうか?
それどころか、これまで私が読んだパーリ経典の少なからぬ個所では、輪廻から解脱し覚りを開いたブッダの事をブラフマン(もしくは梵天ブラフマー)に譬えて称賛する文言が決して無視できない頻度で見て取れるではないか。
この間の消息は一体どうなっているのだろう。そう思ってネット上を検索してみた所、余りにもこの主題にど真ん中で合致する論文を発見した。
本論文の著者である西昭嘉氏については、ネット上でざっと調べてもその所属や経歴がいまいち不明だったのだが、正に私がやりたいと思っていた文献的な検証を先んじて行っており、大変勉強になるものだ。
本論文は2003年前後に書かれたようだ。それが現在、インド学・仏教学の最先端においてどのように評価されているのかは未詳だが、その内容の充実を考慮し、またネット上に無料で公開されている事も踏まえた上で、以下にパーリ原典からの要点を中心に引用させていただき、子細に検討してみたい。
実はこの論文は二本で一セットになっている物の内の後編であって、前編である『原始仏教における無我説の再考』 に続く内容になっている。この前編において著者の西氏は原始仏教聖典に見られるattanとanattanについて、これも非常に興味深い論述を展開しており、本来であればまずこちらを先に紹介すべきではあるのだが、現在の私の論考の焦点を優先して、ここではまずブラフマンについての後編を参照する。
仏教、あるいはゴータマ・ブッダという『個体』が登場したのは、ヴェーダの昔から現代にいたる長きにわたるインド教の歴史の流れのただ中である、という事実は何人も否定しえない。
その場合、誰しも思うだろう疑問があって、それはインド教のいわゆる『主流派』であるバラモン・ヒンドゥ教における『解脱』『ニルバーナ』『覚り』と、仏教のそれとが、一体どのように違うのか、あるいは同じか多少なりとも重なる部分があるのか、という事だろう。
仏教的な『解脱』とヴェーダ・バラモン・ヒンドゥ教的な『解脱(それはつまるところウパニシャッド的なあるいはヴェーダンタ的な梵我一如)』、このふたつは一体、どのような関係にあるのか、あるいは全く関係がないのか?
これは最近とみに私が抱えてきた問題意識でもあるのだが、西氏は(おそらくはパーリ聖典の精査の結果をもって)最初に「両者の悟りの境地が異なるものであるとは明言できない」と指摘している。
(一方、前編の論文『原始仏教における無我説の再考』 において西氏はウパニシャッド的なアートマンと仏教におけるアッタンを ‟区別して考えるべき”、と述べているので、矛盾が感じられるが)
その理由として氏は、原始仏教聖典の中に多くのウパニシャッド的な語の用法が見られる事を引き合いに出し、その実例としてブラフマンという語の用例について列挙している。
仏の教えを
「ブラフマンの輪=brahmacakka(★筆者注:これは正確にはブラフマンの車輪)」
「attanに関する,真実無上のbrahmanの乗物=etad attiniyam bhūta brahmayānam anuttaram」
と称し,
悟りを開いた者を
「brahmanになった=brahmabhūta」
「brahmanに達した人= brahmapatti:brahmalokūpapatti」
「brahmanと同じ者= brahmasama」と呼んでいる。
「心臓は光輝の場所である。 よくattanを整えた人 (purisa) が光輝である」(hadayam jotithānam attā sudanto purisassa joti;SN. 1, p169G)とは, Brihad Araniyaka Upanishad におけるātmanの説明に類似している(Brhad. Up IV, 3, 6;Brhad. Up IV, 3, 7.)
「清浄行(brahmacariya)」はインドー般において勧められている行為(Chand. Up IV 4, 1. 10, 1;Chand. Up VI, 1, 1.)である。
これについては、私自身も以前から気付いており、その真意について模索してきた。覚りを開いたブッダの事を『ブラフマンになり、それに達し、それと同じになった者』とし、その教えを『ブラフマンの車輪、ブラフマンの無上の乗り物』と呼びうるその背景心象とは如何なるものなのか。
この点に関しては、これまでに宇井伯寿、中村元、両泰斗をはじめリス・デイヴィスなど錚々たる研究者が様々な角度から言及している事を踏まえた上で、西氏は日本社会に特有の「ブッダの教えをウパニシャッドやヴェーダンタの梵我一如思想とは全く異なったものであると ‟思いたい”」、日本人固有の知的バイアスについて指摘している。
多くの方がご存じのように、日本の近代仏教学の流れは先行する西欧のインド学・仏教学を後追いする形で明治~大正期に勃興した。パーリ語やサンスクリット語の豊富な原典ソースを言語学的に詳細に分析する事によって生まれた「西洋的」な学の体系がまず先行し、そこから大いに学びつつそれを批判的に再検討する、という視点を日本の学徒は常に意識していた。
そこにおいて、いい意味でも悪い意味でも重要な役割を果たしたのが、いわゆる各宗派・宗門の『教学』の存在だった。
日本は欧米と違って伝統的に大乗仏教を奉じてきた。それは基本的に中国を経由した『漢訳仏教』であり、密教を含む膨大な知の集積としてそれぞれの宗門によって研究され護持されてきた。
明治期に欧米よりもたらされた近代仏教学の奔流が、彼らをして驚愕せしめた事は想像に難くない。中国という回り道をせずに、インド語からダイレクトにもたらされた、おそらくはより釈尊の直説に近いだろう経典群が、情報として実在する事が分かったからだ。
長年の国内における宗門間の対立を前提に、その後の廃仏毀釈などによる仏教の衰退に対する危機感の中、欧米からもたらされたサンスクリット及びパーリ語直伝の『新(真)仏教』が、如何に自らの宗門の教学と折り合い得るのか、あるいは得ないのか?その様な動機付けの中で多くの留学生が西欧に送られた。
もちろん、そこに「釈尊の真実の教法を明らかにしたい」という真摯な気持ちの研究者は少なからず存在した。けれども日本仏教学というものが、そもそも始まりから今に至るまで、一部『宗門利害』によるバイアスの下にあった事実は否定できないだろう。
その様な中、伝統的な漢訳仏教を引きずった原典翻訳に反旗を翻し、平明な日常語でパーリ経典を次々と翻訳していったのが中村元博士の流れなのだが、しかし今度は、余りにも通俗に堕してしまうという弊害をもたらしてしまった。
これら先学の思索・研究を跡付けながら、しかしそれらを超えていく新たな仏教学・インド学がこれからは求められていくべきであり、西氏のような発想と視点は私にとって大いに新鮮であった。
パーリ語にしろサンスクリット語にしろ、原単語の一つひとつが持っている個別的な背景心象に焦点を当てその真意を「ブッダの時代にまで遡って彼らの視点に立って」究明するという姿勢。これこそが今求められているのだと強く思う。
例えば西氏も上で引き合いに出しているbrahmacariyaという言葉。その本来の語義は一般的に以下の様に理解することができる。
The word brahmacharya stems from two Sanskrit roots:
ブラフマチャリヤという言葉は以下の二つの語に分けることができる。
1.Brahma (ब्रह्म, shortened from Brahman), connotes "the one self-existent Spirit, the Absolute Reality, Universal Self, Personal God, or the sacred knowledge".
ブラフマ(ブラフマンの短縮形)。自生者としての絶対者ブラフマン、究極の真実在、普遍我(アートマン)、梵天神、聖なる知識(ヴェーダ、ヴィディヤ)。
2.charya (चर्य), which means "occupation with, engaging, proceeding, behaviour, conduct, to follow, going after". This is often translated as activity, mode of behaviour, a "virtuous" way of life.
チャリヤ。~に従事する、深く関る、~向かって進む。振る舞い、行為。~に従う、~の後を追って行く。フォローする。
The word brahmacharya thus literally means a lifestyle adopted to seek and understand Brahman – the Ultimate Reality. As Gonda explains, it means "devoting oneself to Brahman".
ブラフマチャリヤという言葉は、語義的にはブラフマンという究極の真実在(大宇宙の絶対者)を希求し理解するために特化された生活様式である。ゴンダが説明する様に、それは『自分をブラフマンに捧げる』事を意味する。
In ancient and medieval era Indian texts, the term brahmacharya is a concept with a more complex meaning indicating an overall lifestyle conducive to the pursuit of sacred knowledge and spiritual liberation.
Brahmacharya is a means, not an end. It usually includes cleanliness, ahimsa, simple living, studies, meditation, and voluntary restraints on certain foods, intoxicants, and behaviors (including sexual behavior).
古代や中世におけるブラフマチャリヤの意味はより複雑で多様な意味を持っており、それは聖なる知識の獲得や解脱のために遂行される総体としての生活実践である。
ブラフマチャリヤは、方途のプロセスであって決してゴールではない。それは一般に清浄、不殺生、簡素で清貧な生活、聖なる知識の学習、瞑想、自発的な食、嗜好品、性的・非性的行為の禁戒の保持などを含む。
Brahmacharya - Wikipedia より。拙訳筆者
上の説明では、ブラフマチャリヤという言葉は明確に『ブラフマン』を意識しており、絶対者であるところのブラフマンの後を追いかけ、ブラフマンの方向に向かって進み行くという行為を本来的には主張している。
にもかかわらず、これをただ単に我々の日常感覚で『清浄行』などと安易に訳してしまえば、それらの背景心象を一気に喪失してしまう愚に陥るだろう。
ブラフマチャリヤを単なる性的禁欲、と訳す事も一般に行われている。実際に私が以前取材したインドの伝統レスリング・クシュティの世界では、グルと呼ばれる師範の下に入門した若き弟子(男子)たちは、ブラフマチャリヤの名のもとに厳しい性的禁欲を課せられている。
けれど本来的な原像としては、ブラフマンを希求する宗教的求道において、性的禁欲が必要だと考えられたからこそ、ブラフマチャリヤという語において性的禁欲が行われたという長き歴史があり、クシュティの道場ではそれを象徴的に受け継いでいるに過ぎない。
それらをの背景心象を捨象して、ブッダの時代を含む古代・中世のブラフマチャリヤ実践を単なる性的禁欲だと印象付ける様な愚も、やはり犯すべきではないだろう。
もちろん、仏教を含めたインド教の長い歴史の中で、様々な文脈の中で使われたこの言葉は、状況によって端的に『清浄行』を意味する事もあれば、『性的禁欲』を意味する事もあっただろう。
けれど、その背後には常に『Brahman』あるいは『至高存在』が暗黙の了解として常に意識されていた。
つまり、ブラフマチャリヤと言う言葉とそれが意味する行動様式を取り入れたあらゆる求道システムが創立されたその『原点』において、それら求道のゴールについて、字義通り本来的には常にブラフマンの至高存在が想定されていた、と考えるべきなのだ。
これは以前、本ブログに先行する『脳と心とブッダの悟り』でも少し触れた事だが、ゴータマ・ブッダの原像を正確に把握する為には、彼のライフステージを成道以前と以後に分けて、両者の何が違うのか、という視点で見る必要がある。
ゴータマ・ブッダが悟りを開く前、未だいち修行者・沙門シッダールタであった頃、彼は何を求めて修行に勤しんでいたのか。
あるいはそもそも王城に住まいあらゆる欲望が満たされた生活を送っていた(と傍からは思われる)シッダールタ王子が、一体何に行き詰まり、何を求め、そして何を『指標』にしてあえて茨の出家の道、すなわちブラフマチャリヤへと踏み出したのか。
それはブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの中に明確に書かれている、と私は考えている。
この偉大で不生のアートマンは、実に諸機能の中において識別からなるものであります。一切の支配者であり、一切の君主であり、一切の統率者であるそれは、心臓中の空処、そこに横たわっています。
彼は善業によって大とはならず、また悪業によって小となる事はありません。彼は一切の君主であり、この世に存在する者の統率者であり、彼はこの世に存在する者の守護者であります。
バラモンはヴェーダの学習により、祭祀により、布施により、苦行により、また断食により、それを識知したいと欲します。
これさえ知れば、彼は聖者(原語はMuni)となります。
この世界(アートマンを指す)を希求しながら、遊行者は遊行するのであります。
古昔の人々はこのことを識知して、
「このアートマンすなわちこの世界がわれらのものであるのに、子孫を持って、なんの役にたとう」
と、子孫を望みませんでした。彼らは息子を得ようとする熱望、財宝を得たいという願望、そして世間に対する欲求から離脱して、食物を乞う生活を送るのであります。
Brihad. Up. 4, 4, 22. 【原典訳】ウパニシャッド、岩本裕 編訳、ちくま学芸文庫 P277~より
ここにはウパニシャッド的な求道者の世界観が、鮮烈に明示されている。
それは、アートマン(前後の脈絡からそれは=ブラフマン)を一切世界の主宰者であり、世界 ‟そのもの” と観て、普通では見えない ‟それ” を『世界』の深奥に見出していく試みである。
そしてそのような求道的な挑戦の具体的な実践法とは、バラモンによって行われるヴェーダの学習や祭祀、そして布施、さらに苦行や断食であり、遊行者と呼ばれる人々はその世界(アートマン)を希求しながら、遊行するのだという。
おそらくここで『バラモン』と呼ばれている者たちは、いわゆる祭儀万能のバラモン教的な職業司祭官を意味するものではなく、ウパニシャッド的な求道者としてのバラモン、すなわち『ブラフマン(=アートマン)を希求する求道者』に、強く傾斜した呼称なのだろう。
そして興味深いことに、最後に登場した食物を乞う生活の原語はBhiksha-charyamであり、この用法こそが仏教における比丘の原像になるものだ。
ここでは仏教的な比丘の原像となる乞食生活者がイコール、ウパニシャッド的な求道的バラモンあるいは遊行者である事が明示されており、その求道のゴールに到達したとして称揚される『聖者』の原語はMuniであり、正に釈迦牟尼ブッダという『生き様』の原風景を活写していると言えるだろう。
更に注目すべき事は、ここに登場する『一切』の原語はSarvaであり、『この世』や『世界』の原語はLokaである事だ。そう、それがバラモンであれ乞食遊行者であれアートマンを求める求道者たちは、この一切世界の ‟中に” (あるいは奥に、背後に)ある『それ』を知るべきだと説かれているのだ。
(以上のサンスクリット原語とその英訳はThe Principal Upanishad:P278より)
一方でこのSarvaはパーリ語にすればSabbeであり、LokaはそのままLokaである。つまり、ブッダが悟りを開いた後の教説において徹底的に強調した「一切世界は無常であり非我である」という言説は、上に紹介したウパニシャッド的常住遍在アートマン観の『反語』であると考える事もできる。
あるいは、ウパニシャッドにおいて究極のアートマン=ブラフマンは、最終的には常に「Neti, nety, ātmā. これではない、これではない、(としか言いようのない)アートマン」などと表現される事から、アナッタン=非我、つまり(一切事象は)アートマンに非ず、というブッダの言葉は、一面において、このウパニシャッド的な金言を『踏襲・体現している』とも考えられる。
どちらにしても、シッダールタ王子が出家して比丘サマナになり最終的に聖者ブッダになったというその『全枠組み=パラダイム』こそが、(BhikushとMuniという語の用法からも明らかなように)ウパニシャッド的求道者という文脈に全く乗っかっていた、と見る事が可能だろう。
それを裏付けるかのように、ブッダが菩提樹下に禅定し悟りを開く直前までの6年間邁進したのは、正に上のアートマン希求者が実践すべき事の後半部分である、『苦行』と『断食』であった。
上のウパニシャッドの言葉はヤージュニャヴァルキヤがヴィデーハ国のジャナカ王に語ったものだが、シッダールタ王子が王城を捨てて沙門になり乞食遊行の生活を送ったという事は、正にこのヤージュニャヴァルキヤに代表されるウパニシャッド的求道者(遊行者)の正統の後継者と言えるかも知れない。
しかし彼、すなわち沙門シッダールタは、先人の教えに従って様々な行法において徹底的に実践しても、ついに覚りすなわち予想される『アートマン』に到達したという自覚は得られなかった。
一般に苦行に邁進する前の沙門シッダールタがアーラーラ・カーラーマなど瞑想行の師匠について瞑想を習ったと言われている。この点に関しては稿を改めて詳述したいが、これら既に世上に流布している瞑想行と苦行の実践を経ても、彼は究極の真実在たるアートマン=ブラフマンには到達できなかったのだ。
いよいよ追い詰められた彼の内部で、これまでの経験の蓄積が発酵し、熟成し、そこで想到し、閃いたものこそが、これまでの経験の延長線上にありながら、それを超越した、全く新たな『瞑想行法』だった。これが現時点で私の考えている、菩提樹下の成道に至る大変大雑把なシナリオになる。
(全ての引用部分を含め、ここまでの本投稿内容には『瞑想』という概念はほとんど登場してこなかったが、ブラフマンの追求と『瞑想』という営為との関係性は、また改めて後述)
菩提樹下に結跏趺坐し禅定した時点では、彼は依然としてアートマン=ブラフマンを希求していた。ただ既に語られているアートマン=ブラフマンの、その性質の一部について、ある種の『疑義』を持っていた可能性がある。
(これはある意味当然のことで、世上で言われている様な修行法をあれこれ徹底的に実践してみてもいつまでも納得できるゴールに辿り着けないとしたら、「いったい彼らの言っている事は真実なのだろうか?」と疑問に思わない方がおかしい)
その疑義を深く見つめ、追求していった果てに、彼は『ブラフマン(と称される解脱の理想状態)に到達し得る瞑想法』、その実践的な『方法論』に思い至った。
そして全く新しいその瞑想法の実践によって、その瞑想実践が深まっていくプロセスの真っただ中で、彼は一切世界の ‟中に” 『永遠不滅のアートマン』と言えるものは存在しない事を‟識知した”(これは見方によっては ‟Neti, nety, ātmā”をリアルに体得した?)。
そしてそのような ‟知っていく” プロセスの中で、最終的に彼は世上で言う所のアートマン=ブラフマンと同等、あるいは ‟それ以上” と思える地平に到達した(と初めて ‟実感” できた)。
それが、彼の言う『ニッバーナ』であり、『彼岸』であった。
この彼岸という言葉。原語はPāramだが、すでにウパニシャッドに用法が存在する。彼はこの言葉を援用して、見事に『一切世界=此岸』とそれとは隔絶された『ニッバーナ=彼岸』の二項対置によって、一切世界と解脱の境地(ブラフマンの境地)の関係性を活写したのだ。
あるいは、少なくとも ‟ 世間一般大衆はそのように『理解した』”
つまりここにはウパニシャッド全般が抱えている矛盾が露呈している。一方でアートマン=ブラフマンは『この世界一切そのものである』と言いながら、一方では『見る事も掴むこともできない、これではない、これではない、としか言いようがない』と言っている。
一体、この我々が住む、我々を含めた、この『一切世界』とはアートマン=ブラフマンそのものなのか、それとも『あらず、あらず』なのか?
我々が経験しているこの『一切世界』の中に、アートマン=ブラフマンはあるのかないのか?そして、『見る事も掴むこともできない、これではない、これではない、としか言いようがない』アートマン=ブラフマンを、一体どうやって『識知』できるのか?
この絶対矛盾と混迷に対して、ブッダはひとつの回答を明示した。
それは世上で言われている様なアートマン=ブラフマン思想の混迷や矛盾点を、明確に『裁断』するものだと、多くの道を求める聴聞者たちに受け止められたのだ。
以上は、現時点での私の個人的な仮説だが、ここまでの流れを前提に、先の西氏の論文の続きを下に引用して見ていきたい。
2 .韻文に説かれるbrahman
本来brahmanという語は, 最高原理【Brahman】 を意味し, 男性名詞で用いられると人格神である【brahmā】 を意味する。原始仏教聖典の中には多くのbrahmanに関する語句が存在するが, それを最高原理のbrahmanと人格神のbrahmāとに, すぐに区別することは出来ない。そのため両者が原始仏教においてどのような位置付けにあるのかを, まず把握する必要がある。
Suttanipata(Sn.) には, 次のような釈尊と信者の対話が残されている。聖者よ,お尋ねしますが,私は今, brahmanをまのあたりに見たのです。真にあなたは我らにとってbrahmanに等しい(brahmasama)方だからです。
光輝ある方よ。どうしたならば, 梵天界(brahmaloka) に生まれるのでしょうか。(Sn,508G )
これに対して釈尊は「施しの求めに応じる人が, このように正しく祀りを行なうならば梵天界に生まれる」と答えている。ここで信者が考えるbrahmanとはbrahmāであると思われ,brahmā もしくは梵天界に住む者を釈尊と同一視している。
三つのヴェーダを具え, 心安らかに, 再び世に生まれることのない人は,諸々の識者にとっては, brahman やsakkaである。(Sn. 656G )
上記のbrahmanはbrahmāであるが,「再び世に生まれることのない人」即ち,悟った者を意味している。
しかしこの詩句はバラモンに対する教えであるため, brahmanを比喩的表現にて説いたとも解釈できるが, 少なくとも原始仏教時代の世間一般においてbrahmanが悟った者と同一視した存在として見なされていたことが伺える。
さらに他の聖典においてはbrahman に達するため(brahmapattiya) に行なうのが修行である(15)と説かれており, その悟りへ赴く道をbrahman の道(brahmapatha)であると説いている。
人間たるものである正覚者は, attanを制し, 心を統一し,brahmanの道において行動しながら, 心の安らぎにおいて楽しんでいる。(Therag.689)
真実と法と自制と清浄行(brahmachariya),これは中〔道〕に依るものであり,brahmanに達するもの (brahmapatti)である。
バラモンよ。善にして真直ぐな人々を敬え。私はその人を法に従っている人であると説く。(SN. 1, p169G )
上記の詩句においてbrahmanは, 最高原理brahmanと人格神brahmāの両者に理解できるが, 寧ろ, 両者の意味が区別なく混合されて使用されているように思われる。さらに「brahman に達した人」のことを「brahman となった者」(brahmabhūta) と呼んでいる。
私はbrahmanとなった者であり, 無比であり, 悪魔の軍勢を打破し,あらゆる敵を降伏させて, なにものをも恐れることはない。(Sn. 561G ;Therag. 831)
また Itivuttakaにお い て は 「brahmanとなった者 」 を 「悟った者」(aññatar)「如来」(tathagata) 「仏陀」(buddha) と同一視しているが, 「悟った者」が示しているように「brahmaとなった者」は必ずしも釈尊のみを示す語句ではなかったようである。
貪りと憎しみと無知とを離れたならば,その者を, 修養したattanによって悟った者,brahmanとなった者,如来, 仏陀, 怨みと恐れを越えた者を, すべてを捨てた者という。(ltiv. p57G)
以上のように, 原始仏教聖典の韻文においてbrahmanという語は最高の存在, 最高の境地, すなわち悟った者と同一視していた。
この辺りの論述を見ると、私はある種の混乱とじれったさを感じずにはいられない。
「原始仏教聖典の中には多くのbrahmanに関する語句が存在するが, それを最高原理のbrahmanと人格神のbrahmāとに, すぐに区別することは出来ない」
まず第一に、何故、この明らかに意味の違うだろう二つの語が、明確に区別できないのだろうか?
私はパーリ・サンスクリット語の専門教育を受けた者ではないのでいささか自信がないのだが、本来ブラフマンBrahmanとブラフマーbrahmāは明確に違う概念であり、その表記も別個のはずだ。
それが経典上の構文(あるいは複合語?)の中に記述された時には語尾変化して、何故か同じブラフマBrahmaになってしまい、もはや元の語義がどちらか区別の仕様がない、という事情があるのだろうか。
あるいはそもそもパーリ語にはBrahmanという語自体がない?そのためBrahmaの語をもって、Brahmanかbrahmāかをそれぞれの文脈に応じて、その都度解釈を迫られている?
(この辺りは全く混乱状態なので、どなたか専門知識のある方がいれば、是非ご教示願いたい)
この問題は、そもそも絶対者ブラフマンと梵天ブラフマーが一体どのような関係にあり、どのような経緯でこれら二つが両立する事になったのか、を知らなければ、本当には理解できないのかも知れない。
元々絶対者ブラフマン概念の『発明』は、リグ・ヴェーダ的な人格神群が居並ぶ多神教世界観に飽き足らなくなった古代インドの思索者たちが、氾濫する多神をひとつの求心原理へと収斂していく過程で、まずはプラジャーパティなどの一者(Eka)がいくつかの変遷を経て想定され、やがてそれら一者達(変な言葉だが)の持つ諸属性がブラフマンという唯一の名において統合されたものだと言う。
しかし、このような極めて抽象度の高いブラフマン思想についてはついに一般庶民の共感を得られずに、このブラフマンが人格神化する事で梵天ブラフマーが生まれたというのだから話がややこしい。
あるいは、最初に生まれた『一者(Eka)ブラフマン』の概念そのものが本来人格的なものであり、それが中性原理のブラフマンと男性神格のブラフマーに分化した?(あ~誰か正確な事を教えてくれ!)
どちらにしても、上の西氏の記述を見る限り、パーリ経典の古層には至る所にブラフマン(orブラフマー)という語が見られ、それがダイレクトに悟りを開いたブッダと同一視されている事が実に良く分かる。
このブラフマンとブラフマー両者の関係性、そしてブッダがブラフマン(ブラフマー)と呼ばれたその背景思想が詳細に明らかになれば、ブッダとその周囲の人々の心象がよりリアルに把握され得ると私は考えるのだが、一般にはこのような視点や関心は存在しないのだろうか。
論文が持つ圧倒的な情報量に目を見張りつつ頷きつつ、そんな事をつらつら考えながら終盤まで読んでいった私は、しかし西氏の最後の言葉に直面した時には当惑を禁じえなかった。
しかし, 原始仏教では人々に対してattanやbrahmanについての形而上学的考察に基づいた説明を全く行わなかったのであるから, 究極至高としてのbrahmanという観念が世問一般に存在していたとは考えにくい。
むしろbrahmanとbrahmāは区別なく, 両者をただ最高の存在として見なしていたと考えるべきであろう。
これは一体、どういう事だろうか?
私の知る限りでは、ウパニシャッドの特にヤージュニャヴァルキヤの思想に関してはブッダと同時代に生まれたジャイナ教の古層の経典にも記録されており、ジャイナ教、仏教、その他のいわゆる外道を含めて、当時広く出家サマナの修行者たちによって共有されていた、と見るのが自然だ。
前回記事で書いたように、従来の考えではウパニシャッドの思想とは秘説であり秘伝でありごく狭い師弟サークルの中で内々に秘密にして語り伝えられて来た、と考えられていたが、その様な定説はすでに崩壊している。
これはおそらく、ウパニシャッドがシャンカラ・アチャリヤによって『ヴェーダンタ』として確立されて以降の『伝統』が、前面に出てきた結果としての誤解だったのだろう。
特にブッダ以前の古ウパニシャッドの思想が、全て世上から隔離され秘匿されていたものではない事は、ウパニシャッド自体の記述からも推測できる。
古ウパニシャッドにはしばしば、王やバラモンが様々な聖賢を集めて真理について論争し優れて説得的な勝者を選出する、という謂わばスピリチュアル弁論大会、の様な集会が開かれた事が言及されている。
ウパニシャッドの思索と探求は、極めて精神的(宗教的)なある種スリリングな『知的エンターテイメント』として社会の上流知識人層によって『消費』されるコンテンツであった、という側面について見逃がすべきではない。
少なくともブッダの時代の前後には、このような求道的な思索者・実践者が、北インド全体で様々な思想的広がりを持って活動し、その周囲には一定の信者(パトロン)がいた事が、ウパニシャッドだけではなく原始仏教経典の62見などからも容易に想定できるはずだ。
パーリ経典の中でも古層と言われるスッタニパータなどには、ブッダの名声を聞きつけたバラモン求道者たちが遠路はるばるその教えを聴きにブッダを訪ねて、丁々発止の問答を繰り広げる光景が豊かな臨場感と共に記録されている。
中村元博士の言うように、当時の北インドは、同時代のギリシャや中国と同じように、人類史上まれにみる『思想家の時代』だったのだ。その背後には都市文明の勃興によって台頭する経済的に豊かな知識人層の存在と、全北インドを網羅するような物資と情報の流通革命があった。
財貨を運んで全土を旅する商人、異国に赴き戦う戦士、そして遊行する求道者たち。その背後にいる豊かで知的好奇心に溢れた多くの都市住民たち。彼らによって『聖なる智慧』とそれを保つ聖者の名が、情報として全土に運ばれ共有され吟味されていった。
そしてその『聖なる智慧』を自ら『知る』ために、聖者が招聘され、あるいは自ら聖者の元を訪ねて、その智慧の開示を乞うと言う営為が至る所で行われていた。
それら、従来の『バラモン祭儀教』に飽き足らないウパニシャッド的あるいはサマナ的な『求道』とその成果としての『聖なる智慧』、その中心に位置づけられる代表的なものこそが、アートマン=ブラフマン思想であった。
(もちろんこのアートマン=ブラフマン思想とは縁もゆかりもない独自の思想というものもある程度存在していたはずだが、最終的にマジョリティの関心は呼ばなかった)
つまり、全土に広がる一群の求道者サークル及びその周囲にいて彼らを物心両面で支える知識人層の間では、究極至高としてのブラフマンは、暗黙の、つまりわざわざ言及する必要もないほどに、一般常識として知られていた、と考えるべきなのだ。
これも先に触れたように、そうでなければ、何故ブッダの教説があれほどまでに非我Anattāや無常を強調した意味が分からない。
何故ブッダやサンガの生きざまが、ウパニシャッド的求道者と個々の用語レベルから生活実態に至るまで、あのように合致するのかも説明がつかない。
『一切世界』についての非我と無常が、ウパニシャッド的なアートマン=ブラフマン思想の『混迷』を裁断する、ゴータマ・ブッダの独創的かつ明示的な『解答』だったからこそ、彼の教説は『革命的』な形で受け入れられたのではなかったのか?
だからこそウパニシャッド的とサマナ的を縦断する形で、彼ら求道者の生きざまが普遍的にBrahma-charyaと呼ばれたのではないのか?
だからこそ、覚りを得たゴータマ・ブッダが『ブラフマンになった』と称賛され、彼の指し示す修行道が『ブラフマンへの道』と呼ばれたのではないのか?
それ故、私は西氏の判断には、現時点では同意しかねるのだが、いかがなものだろうか(この論文はあくまでも2003年時点の氏の見解であり、その後の変化については把握できていないが)。
この辺りは、先に言及した絶対者ブラフマンとブラフマー神との関係性が完全に判明すれば、答えが出るのかも知れない。
果たして、ウパニシャッド的な『究極至高の(絶対者)ブラフマン』というイデアと全く切り離された『ブラフマン&ブラフマーの区別なき最高存在』などというものが、存在し得るのだろうか。
更にそのような概念は、一体 ‟どのように”、確立され得たと言うのだろうか。
彼の視点の鋭さに大いに啓発された私としては、若干の疑問が残るところだ。
(西氏は相当に原典を読み込んでいる気配が濃厚なので、私としても些か自信はないのだが・・・)
しかし一部同意しかねる部分があるものの、西氏の経典分析の探求は更にさらに面白い展開を見せてくれる。このまま書き連ねたいのは山々だが、一回の投稿としてはいささか長くなってしまったので、次回に回す事にしよう。
(今回引用されているパーリ韻文経典には、極めて重要な情報が載っている。それは『ブッダ』と『祭祀』との関わりなのだが、これも次回以降に改めて詳述したい)
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本論考は、インド学・仏教学の専門教育は受けていない、いちブッダ・フォロワーの知的探求であり、すべてが現在進行形の過程であり暫定的な仮説に過ぎません。もし明らかな事実関係の誤認などがあれば、ご指摘いただけると嬉しいですし、またそれ以外でも、真摯で建設的なコメントは賛否を問わず歓迎します
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今回引用させていただいた書籍