仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「一切」としての十二処十八界とマーラ、そして「四聖諦」:《瞑想実践の科学19》

一般に、十二縁起の核心とは無明と渇愛であるが、無明や渇愛などという何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした事象を、直接取り扱って、“なんとかして” 破壊する事など、想像すらできない。

しかし、渇愛に先行する所の六処(六官)、この六処の内の五処(五官)つまり、眼耳鼻舌身という身体器官は、何よりも眼に見える具体的な『門戸』として私たちの “目の前に” 存在している、という圧倒的な事実がある。

この六処(五処)はしばしば六入(五入)とも表現され、その機能とは、感官の対象である色声香味触(法)の(六)が、流入する門戸である。

六境の感覚刺激が流入して接触する事によって、感受が生まれ、渇愛が生まれ、執着が生まれるのだとしたら、この感官の門戸において流入 “防護” あるいは “妨害” あるいは “堰き止め” する事ができたならば、それ以降の全ての “反応・形成作用(サンカーラ)” は消滅する。

以上が、前回までの大まかなあらすじだった。

この文脈の流れの中では、便宜上、無明と渇愛とは何処にどうやって有るのかも分からない、と表現したが、敢えて、現代科学的な認識も伴って解釈した時、この無明と渇愛という存在の拠点とは何処になるだろうか?

パーリ経典は、五蘊、そして六官六境六識(合わせて十八界)をもって “すべて” あるいは “一切” と断言している。

つまり、この『一切』中にこそ無明渇愛は存在している。

以前にも言った通り、この十八界とは五蘊をある視点から分析的に細分化したものだから、実質、この十八界こそが、これだけで “一切” という事になる。

ここでまず最初に、多少の脱線になるが、しばしば誤解されやすい点を指摘しておきたいと思う。

仏教的な文脈で言うところの “一切” とは、仏道修行において、つまり存在の “苦” という呪縛からの解放の道において、必要にして十分な事柄・要素という視点から見た “一切” であり “全て” である、という事だ。

それはあくまでも「主観的に認識体験される苦なる世界」関わるところの『一切・すべて』であって、それ以上でも以下でもない。ブッダ「一切を知る者」と称される時、そこには当然この『限定』が適用される。

そこでは、仏道修行に関係のない事柄、例えば人間が死んだらどうなるかとか、世界は永遠かどうかとか、世界の成り立ちは天動説か地動説かとか、親の形質が子供に伝わるのは遺伝子DNAの情報に依っており、その遺伝子DNAとは二重らせん構造をしているとか、そのような事柄はこの “一切” には含まれないのだ。

(その事実を際立たせるためにこそ、ブッダ修道に無関係な事柄に対しては『無記』を貫いた。上の様な形而上学的な事柄は『意官』の『法』である、と言えばそうなのだが、ここで言う文脈はそういう事ではない)

この点を見誤って、ブッダが知る『一切』とは、我々が科学で取り扱う様なこの世の客観的森羅万象 “すべて” であって、ブッダとは森羅万象ことごとく、つまり宇宙の始原から人間の身体の科学的成り立ちから何から、あたかも全能の神の様に “一切の全て” を知り尽くした全知全能者である、などと勘違いしている人々が多々見受けられるが、これは明確に誤りと言わなければならない。

(おそらく日本における最初期の仏教の受容は上の文脈でなされ、その余韻は現在にも尾を引いている)

この様な誤解・曲解・拡大解釈は、ブッダの死後、彼を神格化・超人化していくプロセスと深く関わっており、それがそのまま後の大乗化へとも接続するのだが、ブッダ自身の “名誉” の為にも、ここで釘を刺しておきたい。

これは少し考えてみれば誰にでも理解可能な事だろう。

例えばブッダの時代は須弥山を世界の中心とし、その周りを月日が巡っている “天動説” が信じられていたので、当然ブッダ自身も、この大地が球体で大宇宙の虚空を自転しながら太陽の周りを回っている、などという「事実」は知らなかっただろう。

現代科学によってこの様な天動説は完全に否定されており、本ブログの読者の方も(多分…)この世界の中心に須弥山など存在しないし、太陽や月がその山頂付近を巡っているなど迷信に過ぎないと “知っている” はずだ。

また、人の胎発生にしても、当時は精液の中の『種』が母胎というに播種され(卵子という概念は希薄)、それが芽生えて胎児になると考えられていたので、当然ながら、ブッダ自身も同じような認識だっただろう事が推定される。

(仮に卵子精子の受精という認識があったとしても、それが二重らせんの遺伝子DNAの融合であるなど、正にお釈迦様でも気がつくめぇ、だ)

例えブッダと言えども、時代と文化の産物であり、神の様な完全な全知全能者ではあり得ないのだ(ここで神と言うのは喩えであって、神がいるかいないかについての言及ではもちろんない)

では、ブッダが言う “全て” とは具体的に何を意味するのか。ブッダ自身が自称する “全知者” というタイトルの真意とは何か。

端的に言えば、この『一切』とは、四聖諦における「苦の存在」「苦の原因」「苦の滅」「苦を滅する道」という『世界苦』生起と消滅、そのダイナミズムを構成している『すべて』に他ならない。

仏道修行において、苦としての生存・存在形態のありようと、そこから抜け出すための道、その道の作用機序を理解し、その作用機序を瞑想修行によって起動・発動させる、そのようなプロセスにおいて知るべき事、それを構成している必要にして充分な要素を『一切』と言い、そのような要素とメカニズムについての知識・理解・洞察を、すなわち “一切智” と言うのだ。

一切を知るブッダとは、想像上の “神” のような全知全能者ではない。だからこそ、私たち普通の人間がブッダの言葉を学び、彼と同じように “一切” を知る事ができるように、努力・精進する意味がある

そしてこの場合、“知る” と言うことの真意は、正に瞑想実践の深みにおいて、自ら観じ、見て、体験的に理解する(体解得悟する)ことを意味する。

決して経典の文字の並びを読み込んで、暗記して、暗誦して、ブッダはこの様に言っている、という理屈を知的に理解する事ではないのだ。

と言う事は、(自他共に)かなり厳しい話になってしまうが、パーリ三蔵をすべて修め、既成の『仏教』に関するあらゆる疑問・質問に対して打てば響くように答えられる大ベテランの長老比丘であったとしても、自ら瞑想実践の中で体験的にその “一切” を観じ洞察した事のない人は、一切智者とは呼べない事になる。

これも話は単純明快な事だ。沙門シッダールタは、文字通り身ひとつで菩提樹下に結跏趺坐した。その前段階パーリ三蔵の学習や知的理解などというプロセスは一切なかった。当たり前の話だろう。

彼の “一切智” とは、正にその身ひとつで菩提樹下に結跏禅定した、その只中における『観』によって立ち現れ・獲得されたものなのだから。

私たちは、経典の文言的な理解と、瞑想行における “体験の智慧”=パンニャ、を明晰かつ峻厳に弁別しなければならない。

もちろん私自身も本ブログ上で個人的な知的探求のプロセスをこの様にシェアしてはいるが、一切智者などとは程遠い、単なるいち学習者の立場にある。

実は私は、この探求のオリジナルであるYahooブログに投稿していた時、ある 事情 を抱えていて『世俗を離れた瞑想実践修行』に専念できる境遇にはなかった。そんな中、いずれ身体が自由になれば日本を離れ、タイかミャンマーで一定期間瞑想修行に専念したいと希望しながら経典学習に勤しんでいた。

その後、自由な境遇は回復されたのだが、その間テーラワーダ仏教の歴史的構造について学び、更にタイの軍部クーデターやミャンマーロヒンギャ迫害などにも直面して、「このような実情を持つ国で、果たして修行してよいものだろうか」と言う強い疑念と躊躇が生じ現在に至っている。

当時の私は、来たるべき瞑想修行者としてのピリオドの為に、外堀を埋める作業=準備段階として、この知的探求に明け暮れていた訳だ。

その外堀も “正しく” 埋めなければ、本丸へと渡ってそれを攻略する事は決して出来ない、という事を、私は十二分に理解しているつもりだ。

ヘタな埋め方をすれば、渡ろうとした外堀が実は底なしの泥沼に変じて、修行者を捕まえて溺れさせてしまうと言う冷徹な事実は、オウムの実例によっていまや私たちにとっては自明の理なのだから。

生きて臨在するブッダが目の前にいない以上、パーリ経典の中に残されている彼の言葉たちの中から、その『真意』を深く読み取り、限りなくオリジナルに近い形へと復元する

ブッダの説いたダンマ〈理法〉を、まずはオリジナルに即して正しく知的に理解し、その上で正しい行道を実践する。八正道とはつまる所そういう意味ではないだろうか。

ブッダが説いた『一切』とは、その修行道の文字通り『全て』であり、この『一切』に対する理解を誤ってしまったら、そのゴールもまた大きく狂ってしまう事は必定なのだ。

前置きが長くなってしまった。話の焦点は、正にその “一切” についてだ。

十二縁起の中の核心部分とは、その最初におかれた無明であり、あるいはまた八番目におかれた渇愛である、と言われるのは皆さんご存じの通りだ。

無明によってが生じ、行によってが生じ、識によって名色が生じ、名色によって六処(六入)が生じ、六処によって(接)触が生じ、触によって(感)受が生じ、受によって愛(渇愛が生じ、愛によって取(執着)が生じ、取によってが生じ、有によってが生じ、生によって、老、病、死、苦、悲嘆、憂い、苦悩が生じる。

(パーリ経典におけるこの『縁起』の記述にはいくつかのバリエーションが存在し、おそらくそれが現行の12に固まったのはブッダの死後暫く後の事だろう)

だが、この無明渇愛、どこにどうやって存在して、どのように “何とかして” 破壊する事ができるのか、というのが問題だ。

しかし一方でブッダは、『一切』、という事を語っている。仏道修行において知るべき、必要にして充分な全ての要素はこの “一切” の中に含まれていなければならない。

つまり、ここで焦点となる無明渇愛もまた、この “一切” の中に含まれている、と論理的に詰める事ができるだろう。

一切とは、五蘊と十二処・十八界だった。五蘊の詳細な説明が十二処・十八界だとすれば、その中に無明渇愛も含まれていなければおかしい。

五蘊、十二処・十八界についてはWikiさんが簡にして明なので、下に引用したい。

五蘊(ごうん) - 五陰(ごおん、旧訳)とも。人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。

六根(ろっこん) - 人間の持つ六つの器官(六官)。六内入処(ろくないにゅうしょ)とも。

六境(ろっきょう) - 六根の対象。六外入処(ろくがいにゅうしょ)とも。

六識(ろくしき) - 六根と六境が接触する所に生まれる識

十二処または十二入 - 六根と六境をあわせたもの。

十八界(じゅうはちかい) - 十二処に六識を加えたもの。

摩訶般若波羅蜜経では、陰界入(五陰、十八界、十二入)と略している。

それぞれの詳細については下記のとおり。

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このうち、眼・耳・鼻・舌・身を五根(五官)といい、人間が外からの影響を受ける身体の器官すなわち五感の官であり、意はそれによって生じる心の働きのことである。

また、五根(五官)に対応する境の部分(色・声・香・味・触)を五境、そこに生じる欲を五欲(五塵)と表現したりもする。

~以上Wikipedia三科より引用

前回指摘した通り、五官と五境は五蘊『色』に含まれると考えていいだろう(とりあえず残りの受想行識が意官と法)。

相互に整合性が完璧にとれている訳ではない仏教用語と言うものの制約をわきまえた上で、まずは無明について考えると、それは前回書いたとおり、五蘊としての人間存在に通底する基本特性である、というのは間違いない。

だが、それでは焦点がいまいちピンボケしている。もっと具体的に焦点を絞らなければならない。

上記十八界の中でまずは十二処に絞って、眼耳鼻舌身という五官があり、そこに入る情報である色声香味触という五境がある。

そこでそれぞれに接触が起こり感受が生じ、その接触と感受の内容が法(諸事象)として意官に感受され生起する。つまり十二処の “統覚” 意官である、というのは、現代人にとっては分かりやすいと思う。

更に加えて十八界の範疇にある『六識』もまた、上記の流れを踏襲すれば、その核心となる統覚は第六の “意識” になる。

意識とは、意(官)の識(mano viññāṇa)だから、この『意識』こそが、すべての問題の焦点になる。

つまり、全てであるところの五蘊・十八界において、中核的に全てを統括するIndriya(能力・機能)は六識の最後の『意の識』になる。

無明について考えた場合、私は最前に五蘊としての人間存在の基本特性と言ったが、より焦点を絞れば、それは身体と言うよりもむしろ心の特性である。

この心と言った場合は、私たちの顕在意識だけではなく、むしろ無意識のレベルであり、しかし無意識であろうとそれは肉体的特性ではなく精神的つまり『こころ=意識』における特性である。

(科学的に言うとこの無明の根拠は大脳辺縁系と言う『情動性の中枢』に根差していると思われるので、現実的には肉体的(脳)である、と言う見方もできるが、ここでは仏教的記述に従う)

意官とそこに法(事象)が接触して生まれる “意の識”『こころ』、その根底にこそ“無明”は横たわっている。

上の一覧表における最下段の『意官と法と意識』。これが無明について考える場合の焦点であり、同じ事は、渇愛についても言えるだろう。

渇愛とは六入から情報入力があり、接触があり、感受があり、その結果として生まれ執着を作る、“こころ(意)のはたらき” だからだ。

(仏教で『心』を意味する用語は多数あり、様々な分析的な細分化が行われている様だが、ここではそれらに一切立ち入らない)

何やら書いている本人も頭が混乱しそうな論述だが、では、上記表の最下段にある『意官-法-意識』という流れにおいて、ダイレクトに無明とか渇愛とかを “何とかする” 事ができるか、と言う命題に戻りたい。

私たち現代人は、この『意官-法-意識』という連動ファンクションが脳神経システムという肉体的な基盤に依って働いている、と言う事を明確に知っており、その機序についてもかなり分かっているので、それに対して直接的に効く薬を投与したり手術をしたりする事が、ある程度可能ではある。

けれど古代インド人にとっては、他の五官とちがって、この意官の肉体的・物質的な基盤と言うものは明確に把握されてはいなかった。

ひとくちに心と言うが、それは身体全体に分散しているのか、あるいは心臓に宿っているのか。はたまた脳髄との相関がどこまで視野に入っていたのか。

以前書いたように、たとえある程度、意識と脳髄との相関が認識されていたとしても、それに直截的に働きかける事はできない。何故なら、意官には明確に断定できる固有の機能的な『入り口・門戸』というものが、外側から見ても見いだせないからだ。

逆に明確な物質的・肉体的な機能上の入り口としての『門戸』を持っている、目の当りにそれを見る事ができ、ハンドリングする事ができ、具体的に何とかする事ができるのが、五官、つまり眼耳鼻舌身という情報入力の門戸、であった事になる。

眼は眼窩、耳は耳孔、鼻は鼻腔、舌は口腔、身は、前回指摘した様に毛穴、が目に見える明確な形ある『門戸』として存在していた。

そしてこの五官の門こそが、最終的に第六の意官へとつながり流れ込む門戸そのものでもある。つまり色声香味触の五境は、すべて「法」として意官(こころ)に流れ込む。

だからこそ、その五官の門において不善法の漏入(asava)を防ぐ事ができれば、その後の触・受・渇愛・執着の全ては消滅する。つまり漏出する煩悩(asava)を “堰き止める” 事もできる。

その事によって、『こころ』の根底にある『無明』もまた、立ち枯れになり、滅する(nirodha)

分かりやすく喩えてみよう。

まずここに、意(こころ)という湖がある。その湖底には無明と言う魔形の怪魚獣が棲みついている。この無明と言う魔獣には渇愛と言う恐ろしい口があって、それによって近在の多くの村人襲われかみ殺され苦しめられている。

この湖には五つの濁った不浄な川が流れ込んでいる。その川とは眼川・耳川・鼻川・舌川・身川であり、それぞれ色(映像)・声(音声)・香(匂い)・味・触(接触)という栄養素(食=不善法)を意の湖に流し込んでいる。

(公害で富栄養化したドブ川をイメージしてwww)

そして、その不浄な栄養(不善法の溶けた水)を貪る事によって、無明魔獣は大きく育ち、その渇愛と言う貪婪な口はますます大きくなり、その歯並びは凶悪な牙へと育っていく。

厄介なことに、この魔獣怪魚はしばしば五つの川を遡って不善法を貪り、その力を増して暴れ、流域周辺住民に多大なる被害を与えている。

ではこの無明と言う魔獣を、凶暴な渇愛というその口その牙を、一体どうしたら、退治し滅ぼす事ができるのか。

湖は深く人知を超えており、直接この怪獣魚を何とかする事は人間にはできない。何しろ、この魔獣、存在するのは間違いないのだが、姿が見えなかったりもするのだから。

そこで智慧ある人はこう考えた。

渇愛と言う凶暴な口を持つ無明と言う魔獣を滅ぼすためには、彼の存在を “養っている食” であるところの、五つの不善法という汚濁の川堰き止めてしまえばいい、と。

「何故ならば、感覚器官を防護せずに過ごしていると、欲や不快感といった悪く良くないもの(不善法)に侵されるからである」(調御地経)

川の流れを堰き止める壁が、同時に魔獣が進出して岸辺の人を襲う事を防ぐ防壁にもなる。

眼川から流入する色と言う食(不善の栄養)を、耳鼻舌身と言う川から流入する声香味触という食を、その流れと共に全て堰き止めて断ってしまえば、もはやいかな凶悪な無明魔獣と言えども、やがてはやせ衰えて、死滅するに違いない。

「あたかも、オイルが継ぎ足されない灯火が、やがて燃え尽きて静かに滅していくように」(サンユッタニカーヤ:ニダーナ・因縁についての集)

そして実は、この心と言う湖には、眼に見えない地下水脈として清澄なるパンニャという伏流水も流れ込んでいる(普段は見えない)

五つの濁った不善法の川を堰き止めてしまえれば、このパンニャの伏流水が湖に流れ込む唯一の水源となり、さらに不善の五河川が止まって抵抗水圧が低下したために、清浄なる水の流入量は増加し、湖は少しずつ、しかし確実に澄み渡っていく。

しかもこのパンニャと言う伏流水の成分は、実は無明魔獣滅ぼす薬効(善法)すら持っている。

(五河川が流れ込んでいる内は、湖は不善法で満たされ、その汚濁の栄養力がパンニャの清浄な薬効を凌駕してしまう)

そして、この無明怪魚の退治において肝となる五河川の “堰き止め”作業こそが、ブッダの瞑想法実践行そのものである、と言う事になる。

「感覚器官を守りなさい。感覚器官防ぎ止めなさい(調御地経)

以上、あまり厳密ではない、ひとつの喩え話に過ぎないものだが、イメージできただろうか。

今までにも繰り返し指摘してきた事だが、この眼耳鼻舌身意六官とはマーラの領域に他ならない。無明と言う怪魚こそが、そこに『魔』という文字を入れた様にマーラ(悪魔)』そのものなのだ。

悪魔(マーラ)は言った。

「修行者よ、眼・耳・鼻・舌・身・意は私のものです。色形・音声・香り・味・触れられる物・考えられる事は私のものです。眼耳鼻舌身意の識別領域は私のものです。

そなたは、どこへ行ったら、私からのがれる事ができるだろうか」

(サンユッタニカーヤ:悪魔との対話 中村元訳)

『一切』という世界、及びその内実である五蘊・十二処・十八界」は、その全てがことごとく、マーラの支配領域なのだ。

この一切の原語は、パーリ語ではsabbeもしくはsabbaであり、サンスクリットではsarvaになる。英語で言うとAll、あるいはEverythingさらにWholeという意味もあるようだ。

私はインド放浪の過程でヒンディ語をある程度かじったのだが、ヒンディでもSab(सबサブ)という単語があり、やはりEverythingを意味する。北インドの諸言語というのは基本的に近しい兄弟言語なので、意外な所で役に立ったりして面白いものだ。

このsabbeであるところの『一切』だが、実は私は全く知らなかったのだが、仏教の教理において、極めて重要な概念である事が分かって来た。

ぶっちゃけ、今私が理解しつつある事柄というものは、テーラワーダ仏教においてはある意味常識的な事で、長老先生方はもちろん、普通に学んだ在家の人々にとっても、当たり前な「何を今更」感の強い事なのかも知れないが、ここはあくまでも私個人の探求と発見と理解のプロセス、という事で、書き連ねていきたい。

この「三科」的な「一切」という概念は、Wikipedia三科さんに書いてある通り、部派仏教における重要なキーワードで、もちろんテーラワーダにおいてもその重要性は共有されている。

特にサンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)においては、その内容の8割以上?はこの三科、つまり眼耳鼻舌身意の六官(=六根=六処)とその対象である色声香味触法の六境、それらが接触する所に生まれる六識、という十八界と、そこから派生する心理的な諸事象について語られている、というくらい(特に第4集については、そのものずばり「六処についての集成」となっている)、まさにこの十二処十八界こそが仏教的世界観の文字通り「すべて」であるのだなぁ、と実感できる。

(ただし、この「一切」として切り取られた世界とは、もちろん厭離すべきものであって、スピ系が好むようないわゆる「永遠の真実在」とか歓喜世界」とか言うものからは対極にある)

しかし、話はそれだけでは済まない。これも本格的にパーリ経典を読み始めて気づいたのだが、このSabbeという原語から訳された「一切」、実は大乗的文脈で標榜される最も重要な「諸法無(非)我諸行無常一切皆苦」という三つの真理(四法印の内の三っつ=三相)においても、主要テーマになっているのだ。

私たちは漢訳というフィルターを常にかけられた上で仏教用語というものと向き合ってきたので分かりにくいのだが、諸法とはパーリ語でSabbe dhammaであり、諸行とはsabbe saṅkhāra であるから、『諸』と訳されたものは本来『一切』なのだ。

1.sabbe saṅkhāra aniccā — "all saṅkhāras (conditioned things) are impermanent"(一切行無常)

2.sabbe saṅkhāra dukkhā — "all saṅkhāras are unsatisfactory"(一切行苦)

3.sabbe dhammā anattā — "all dhammas (conditioned or unconditioned things) are not self"(一切法非我)

つまり、仏教においてその中核に位置づけられる世界観、あるいは叡智である三相「無常・苦・非我」の、メインテーマはこの「一切」であるところのSabbeであると考えられる。

そこで問題になるのが、上の「無常・苦・非我」という三相においてメイン・テーマともなっているSabbe(一切)と、三科「五蘊・十二処・十八界」一切と呼ばれた時のその「一切」との関係性だ。

両者における一切が、共に同義としての同一のSabbeであるとしたら、この三相は、以下のように読みとる事ができるだろう。

一切である十八界(眼耳鼻舌身意の六官とその対象である色声香味触法の六境、それらが接触する所に生まれる六識)において形成されるもの(サンカーラ=行)は、一切がっさい無常である。

一切である十八界(六官・六境・六識)において形成されるもの(サンカーラ=行)は、一切がっさい苦である。

一切である十八界(六官・六境・六識)において生起し認識される現象(法)は、一切がっさい非我である。

何ともくどい文章だが、論理的に考えると以上のように成らざるを得ない。

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何しろブッダは、我々が経験可能な全ての事柄としての「一切」を、六官・六境・六識の十八界だとしてそれ以外の事には関心を持たず、論ずる事も無かった訳だから、そのようなブッダが三相において一切(Sabbe)は無常、苦、非我」という時にも、その一切とはこの十八界だと考えなければ筋が通らないのだ。

(この間の消息に関してはサンユッタ・ニカーヤ第一篇「六処についての集成」第一部第三章第10節「誤った考えを根絶するにふさわしい道」などに詳しい)

この十八界の基盤となる十二処については、六官と六境(六内外処=十二処)が合わさった所に生まれるのが接触であり、その接触によって感受が生じ、感受に依って渇愛が、渇愛からが、取からが、有からが、生から老病死が生じる、という形で、十二縁起の後半部分の土台としても説明されている(サンユッタニカーヤ・ニダーナ:因縁の集など)

十二処を土台とした縁起の連鎖の結果として、が生じる。つまりここでは、一切(十二処十八界)皆苦、という文脈の中身が、「プロセス」として詳述されている形になっている訳だ。

そしてこれら十二処(六内外処)を土台とした生起(あるいは消滅)の連鎖プロセスは、すべて依って生じると言う縁起の連鎖に他ならず、それ自体は無常であり非我である、という事で、ここに三相の内容が揃う事になる。

以前から指摘している様に、この十二処十八界とは五蘊とイコールであると考えていいので、五蘊無常であり、五蘊皆苦であり、五蘊非我、とも言いかえられるだろう。

そしてもうひとつ、仏教における真理の、いわば旗印の様に掲げられている教えとして、四聖諦というものが存在する。

その最初に来る苦の認識こそが、一切皆苦であり、その一切とは十二処十八界(五蘊)であった訳だから、四聖諦もまた、この一切であるところの十二処十八界についての真理、という事になる。

さらに現象世界の一切が苦であるという、その苦の内容を詳述したものに四苦八苦があるが、それを羅列していくと、まずは生老病死四苦であり、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦と続き、最終的に、「つまるところ五蘊の全ては盛苦である」とまとまられている。

生老病死四苦とは、十二縁起において六処より始まる接触から感受、から渇愛、から、から、から、から老病死苦、が生じる訳だから、そのプラクティカルな源泉は六処にある事が分かる。

続く「つまるところの」、つまり結論としての五蘊とは、すなわち一切であるところの十二処十八界と考えて差し支えないのだから、ここでもまた、十二処十八界に全てが収斂される。

四聖諦の最初の苦の認識とは、いわば『十二処十八界という一切』である」、という認識に他ならない。

ならば続く苦集聖諦、つまり、苦には原因がある、という認識もまた、その原因は十二処十八界の内部のダイナミズムに求められる事になる。

その原因とは、六処(六内外処=十二処)を土台にした十二縁起の後半部分に生じる渇愛である、と一般には言われているが、この縁起のプロセス自体が、そのダイナミズムに他ならない。

続く苦滅聖諦「苦は滅する」という事実の認識だが、これもそもそものとは一切であるところの十二処十八界 “そのもの” が苦なのだから、十二処十八界の内部で小細工を弄するのではなく、これは十二処十八界(五蘊それ自体が滅する、という真理になる。

そして最後の苦滅道聖諦とは、苦であるところの一切=十二処十八界(五蘊を、まるっと丸ごと滅していく道(行道)である、と考える事ができる。

では、この十二処十八界、その要素を再掲すると眼耳鼻舌身意六官とその対象である色声香味触法六境、それらが接触する所に生まれる六識、になるが、この三つのまとまりの内のどれが、その行道において “焦点” となるのか。

六識というのは詳述すると眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、になるから、眼耳鼻舌身意という六官に依って生じる識であるのは明らかだろう。

という事は、より根本的な「一切」の焦点は六官六境十二処に絞られる。

その証拠にサンユッタ・ニカーヤにはそのものズバリ「すべて(一切経=Sabbasuttaṃ)」というタイトルで以下の経が伝えられている。

「比丘たちよ、わたしは『一切』について、あなたたちに説こう。それを聞きなさい。『一切』とは何であるか。

と色、と声、と香、と味、と触、と法、比丘たちよ、それを『一切』と言うのである

~春秋社刊 原始仏典Ⅱ 第4巻P32 サンユッタ・ニカーヤ 六処についての集 第1部第3章第1節「すべて」より引用。元訳の「すべて」を「一切」に変更

Sabba vo bhikkhave desissāmi taṃ suṇātha. Kiñca bhikkhave sabbaṃ: cakkhuñceva rūpā ca sotañca saddā ca ghānañca gandhā ca jivhā ca rasā ca kāyo ca phoṭṭhabbā ca mano ca dhammā ca idaṃ vuccati bhikkhave sabba.

accesstoinsight.org より引用

では、この十二処の内の、六官と六境、一体どちらを、何とかしてハンドリングして操作して、変える事ができるのか。

前回も同じ文脈を辿っているが、大変重要な部分なので、重複を恐れず、もう一度繰り返しみていく。

環境世界の情報刺激である色声香味触という物質的な『五境』は、基本的に「変える」事は出来ない。例えば、北インドの夏に太陽がカンカン照りになればめちゃくちゃ暑い。

(もちろん様々な工夫によって物理的に対処する事は可能だが、ここで言う文脈からは離れる)

熱い太陽光それ自体を何とかして変える事は出来ないけれど、暑さ、という主観的な経験は、何とかして変える事ができるし、ブッダの視点とは正にその経験主体としての現象的な「自分」という形成物=五蘊に置かれていた。

つまり、十二処の内の六官と六境では、最終的には六官こそが何とかして働きかけるべき「それ」でありその働きかけの結果として『六官』が滅せられる、という結論に至る。

そしてもちろん、六官が滅すれば、六境もまた滅する。何故なら私たちは六官というバイスを通じて初めて、「主観的に」六境という対象の存在を “識る” 事ができるからだ。

六官が滅すればそれは相即的に六境の滅をも意味し、それはすなわち十二処と十八界という “一切の滅” に他ならない。

ではこの六官、一体その何をどうやって滅するのか。六官そのものは物質的な身体として目の前に厳としてあるので、それ自体を手品のように消してしまう事はできない(死ねば破壊されるが、それでは意味がない)

ここで重要になって来るのが、四聖諦苦の根本原因とされている渇愛(巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā」だ。この渇愛十二縁起でも共有され、ひとつの焦点と位置づけられるが、その渇愛の因としては感受があり、感受の前に接触があり、さらにその前に六処(六官)がある。

ここで十二縁起の文脈に沿いながら四聖諦の苦の原因である渇愛を滅する方法として、四つの可能性が考えられるだろう。

まずは、渇愛そのものを直接滅するか、渇愛の原因である感受を滅するか、さらにその原因である接触を滅するか、あるいは六処を滅する(Nirodha=堰き止める)のか。

ブッダが一切という括りにおいて十二処十八界を設定し、その根幹に位置するのが六官(六処)であるという事実を踏まえて、十二縁起において六処の前に位置する名色や識や行や無明はこのさい直接的に何とかして滅する対象としては除外する。

無明・行・識・名色・六処(六官)接触・感受・渇愛・取・有・生・老病死苦

焦点は六処(六官)から渇愛までの四つ。しかし、渇愛はその原因となる感受があれば自動生起するので、感受を滅しなければ渇愛を滅する事は出来ず、感受は接触があれば自動生起するので接触を滅しなければ感受は滅しない。

では接触を滅するために六処を滅しようとしても、それは物質的な身体として厳としてそこに存在するので、いかなブッダと言えどもその具体的な身体器官そのものを滅する事は死なない限り不可能なのだ。

カギとなるのが、六処(六官)はしばしば『六入』と記述されると言う事実だ。六処に入ると言う事はつまりは何かが外から六官の門(穴)に入る

具体的には、六境の情報刺激入って触れる。例えば耳孔に空気の振動が入って鼓膜に触れて音が感受される。瞳孔に光が入って網膜に触れて映像が感受される。

ここに漸く、焦点が絞られて来る。前回も述べた様に、十二縁起の全ての始まりは無明とも言われ苦の根本原因は渇愛とも言われるけれど、実際に、何とかして、この十二の縁起の連鎖として存在している五蘊であるわたくしの苦を滅する方法があるとしたら、論理的にみて、六処(六官)において六境の情報刺激が浸入するのを防ぐ事こそが第一に考えられるのだ。

「何故ならば、感覚器官を防護せずに過ごしていると、欲や不快感といった悪く良くないもの(不善法)侵されるからである」

「感覚器官を守りなさい。感覚器官で防ぎ止めなさい

(調御地経)

しかし、入るのを防ぎ止める(堰き止める=Nirodhaといっても、一体どうしたらいいのか。

一方で、六官(六根)の原語となるIndriya(器官)というのは、物質的な器官であると同時に、その『機能(能力、権能)』をも意味する。なので、もしその『機能』停止(止滅=Nirodha)すれば、たとえ刺激情報自体があっても、渇愛へとつながる意味のある接触や感受は生起しないだろう。

(この六処を起始点とした「滅の縁起」については、サンユッタ・ニカーヤ第一篇「六処についての集成」第三部第一章第4節「世界(Loka)」などに詳しい)

別の視点から見ると、もし六処(六官)における接触が妨げられ止滅(ニローダ)したならば、それに起因する様々な心的形成作用(サンカーラ=十二縁起の)も、(十二縁起を遡って)自ずから止滅するという事だ。

では、この場合、機能の働きを妨げ、停止(止滅)させるにはどうしたらいいのか。

それら、六官において防護し、堰き止め妨害し阻害し機能停止(止滅=Nirodha)させる、という働きかけ(作業)が、具体的な瞑想実践のメソッドとどのようにつながり、最終的に無常・苦・無我の『観察(Vipassana)』とどのように結びついて来るのか。

そこにこそ、ブッダの瞑想法、その作用機序真骨頂がある。そう私は理解している。

(上の説明では、便宜的に「停止させる」などと「能動的」な表現をとっているが、実態としてのプロセスは本来、「自ずから止滅する」と言うべきだろう)

たいへん拙い説明で申し訳ないのだが、ここまで二回にわたって、十二縁起、五蘊、四聖諦、四苦八苦、三科・十二処十八界、六官、など法数と呼ばれる数にちなんだ最重要の仏教用語を、「一切」とその核心である『六官』という観点から網羅的に見てきた。

一切の苦を滅するがある。

その『一切』とは十二処十八界に他ならず、それは『十二処十八界の滅』であり、より焦点を絞れば、六官で六境の『触』防ぎ止める(六入を堰き止める=Nirodha)事を意味する。

それが、沙門シッダールタが菩提樹下で想到した方法論に依る『六官の防護』であり、それこそが苦滅道聖諦であり八正道の中心にある『定』つまり瞑想実践そのものである。

歴史的に形成された仏教教理とは、性格的に極めて一貫性に乏しくかつ煩瑣極まりないもので、それを紐解くという形で進めざるを得ないという制約上、その解説自体も煩雑にならざるを得ないのだが、ここまでは、納得してもらえただろうか。

これらの分析的説明は、全て「古代インド人たるブッダとその聴衆たちの『心象に寄り添って』それを理解する」という視点からのもので、現代人にはいまいち理解に苦しむ点も多々あるだろう。

問題はその、

一切=十二処十八界=(無常・非我)

一切の=六官と六境の接触・感受の滅

一切を滅する法=その接触を五官(六官)で防護する=瞑想実践行

という論理構成が、現代人に理解可能な形でどのように『翻訳(説明)』可能であるか、という一点にある。

私の見立てでは、それは「脳神経生理学的な機序」として、科学的合理的な整合性をもって充分に説明可能なのだ。

私はこれまでも繰り返し、

「沙門シッダールタの身体は、私たちの身体である」

と述べて来た。

「同じ身体(心身)システム」である以上、そこにおいて現象する事柄の真実『ひとつ』なのだ。

脳神経生理学などという概念すら存在しない2500年前に、沙門シッダールタはほとんど体験知の積み重ねだけで「感覚的」にその真実の理法(作用機序)』に思い至り、自らの直観を信じて菩提樹下に結跏趺坐し、ついに苦界からの解脱(一切の滅)を成し遂げた。

それはまさに奇跡としか言いようがない出来事であり、彼がある種「天才」的『感性と閃き』の持ち主であった事の証左と言っていいだろう。

(本投稿はYahooブログ 2015/5/19「瞑想実践の科学 36:「一切」としての十八界とマーラ」、2015/5/22「瞑想実践の科学 37:「一切」と三相と四聖諦」を統合の上加筆修正して移転したものです)

 

 


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「照見五蘊皆空、度一切苦厄」と十二縁起と『六官の防護』:《瞑想実践の科学18》

ブッダによって説かれた法の神髄とは、病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉の中に全て端的に表されており、その中核部分をひと言に要約すれば、それはすなわち五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道とは “五官六官の防護” である。

そして、“五官六官の防護” こそがブッダ瞑想実践そのものである、と言い切っていい。

以上が、前回までの大ざっぱなあらすじだった。

ここまで、中部経典第143経 教給孤独経:Anathapindikovada Suttaを読みながら色々と考えてきたが、私がこの病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉を読んで、最初に思い出したのが、今回タイトルにもなっている、般若心経の一節だった。

偶然なのかどうか、登場人物が同じ舍利子(サーリプッタ)であることも勿論だが、それだけではなく、全体の文脈の流れが大いに重なり合っていると感じたのだ。

もちろん、般若心経には大乗的な『空』という概念や、密教的な『呪』という要素も混入してはいるが、全体の流れはアナータピンディカへのサーリプッタの説教と有意に合致していると見る事ができるだろう。

それは、言うまでもなく冒頭で掲げた、

ブッダによって説かれた法の神髄とは、五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道の神髄とは “五官六官の防護” である」

という文脈における重なりだ。

五蘊、そして六官あるいは十二処・十八界、という文脈が意味するもの。

という事で、まずは私たち日本人にもなじみの深い般若心経を題材にして、この仏教の神髄について考えてみたい。

以下、般若心経の原文と、戯れに作った私の超意訳だ。

観自在菩薩、行深、般若波羅蜜多時、

ヴィパッサナ瞑想行において観を深めた私(沙門シッダールタ)がパンニャの智慧を得た時、

照見五蘊皆空、度一切苦厄。

五蘊がことごとく無常であり非我である事を智慧の光によって照らし見て、一切の苦から解き放たれた。

舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。

サーリプッタよ、は無常・非我・苦に異ならず、涅槃において全て滅尽する。受想行識もまたかくのごとし。

舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

サーリプッタよ、その涅槃の深みにおいては、全ての現象は滅尽し、もはや生じる事もなく滅する事もなく、不浄でもなく浄でもなく、増えもせず減りもせず。

是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。

その涅槃の深みにおいては、も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無く、つまり五蘊、六処&六境(十二処)は滅尽し。

無眼界、乃至、無意識界。

眼(耳鼻舌身)によって知られる界(眼識)もなく、意識によって知られる界も無く。

無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。

無明から老死に至る十二縁起の因果の連鎖から完全に解脱し。

無苦・集・滅・道。

もはや四聖諦もその必要性を失い(筏は捨てられ)。

無智亦無得。以無所得故、

知らねばならない事も無く、得る必要のある事も無いが故に、

菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、

そうして菩薩(悟りに向かって精進するゴータマ)は、智慧の完成に住したが故に、

心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、

心に妨げがなく、それゆえに恐怖も無く、一切の思い込みと妄想を離れて、

究竟涅槃。

涅槃に至ったのである。(~以上、原文はWikipedia参照)

大乗の空という概念をパーリ経典的に置き換えて意訳し、呪の部分は省略したが、この文脈は驚くほどサーリプッタが病者アナータピンディカに語った内容と重なり合っている。

スマナサーラ長老などは、この般若心経をクソミソにこきおろしているようなので、この様な意訳を見たら顔をしかめるかも知れないが。。

戯れに意訳したと書いたが、ここで重要なのは、南伝・北伝、部派・大乗・密教を問わず、仏典というものには厳としたブッダ自身の教え』という根拠があり、後世どんなに思想的な粉飾・増広が加味されていたとしても、ブッダの教えから完全に逸脱する事はなく、それ(直説)によって一貫されている、という事実だ。

分かりやすく喩えると、部派・大乗・密教という仏教団子・三兄弟が、それぞれ異なった色形をしているように見えるけれど、ブッダの直説という一貫した “串” によって、その最も本質的な串(真理の法)によって、貫かれている、と言ったら良いだろうか。

ここで、そのブッダの直説において、『最も本質的な串』、という点で問題になるのが、今回ブログ・タイトルにも掲げた、

「照見五蘊皆空、度一切苦厄」という一節が象徴する文脈だ。

それは具体的には、般若心経本文の、

「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是」

〈意訳〉~色は無常・非我・苦に異ならず、涅槃において全て滅尽する。受想行識もまたかくのごとし。

という五蘊に関する文脈であり、続く、

「是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法

〈意訳〉~色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無く、つまり五蘊・六処&六境は滅尽し。

という、五蘊に六官&六境を連ねた文脈だ。

経の巻頭に掲げられた「照見五蘊皆空、度一切苦厄」という一節は、ある意味始めに宣言されたキャッチコピー的な『結論』、と言えるだろう。

この “照見五蘊皆空度一切苦厄” という結論的タイトルの内容を詳述するのが、その後に続く本文の意味なのだ。

ブッダの悟りの神髄とは、この “照見五蘊皆空度一切苦厄” という一節の中に全て収まっている。

その焦点になるのが、五蘊だ。

そしてその五蘊の内容として詳述されるのが、

無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。

という、眼耳鼻舌身意という六官(処)と、色声香味触法という六境、合わせて十二処、に他ならない。

続けて言及される、

無眼界、乃至、無意識界。

というのは、意訳した通り、おそらく、眼識から始まり意識で終わる、六識、を意味すると考えられる。

だとすると、この六識と十二処を合わせた十八界こそが、五蘊を別のやり方でまとめた中身である、と理解できるだろう。

ここで、前回の終わりに引用した三科一切法という概念が意味を持って来る。

三科(さんか)とは部派仏教における、世界を在らしめる一切法を分類した三範疇、五蘊十二処十八界をいう。また、六官六境六識の三範疇をいうこともある。Wikipedia/三科より

そして勿論、この一切法に対する執着を捨てて、手放して、厭離(遠離)する事こそが、サーリプッタが病者アナータピンディカに向けて説いた法の中核部分でもあった訳だ。

ここはとてつもなく重要な部分なので、繰り返しを恐れずにまとめよう。

サーリプッタのアナータピンディカへの説法では、最初に

眼耳鼻舌身意六官、その対象である色声香味触法六境眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識六識、(これは前二つで十二処、三つ全てで十八界)に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる」

として、十二処・十八界に対する執着の手放しが説かれる。

次にそれら十二処それぞれにおけるに対する執着の手放しが説かれ、(物質)を構成する四大元素に対する執着の手放しが説かれる。

そして最後に、それらの総括として五蘊に対する執着の手放しが説かれる、という順序になっていた。前回投稿参照

般若心経では最初に五蘊皆空』が冒頭タイトルとして掲げられ、その後にその具体的内容として十二処の空が説かれた。

この両者、言っている順番は真逆だが、言っている内容はひとつだろう。

それはつまり、五蘊とその内実としての十二処・十八界手放す事。それこそが仏道修行の核心・神髄である、という事になる。

何故、五蘊を十二処・十八界という形に細分化し、分析する必要があったのだろうか。

それはもちろん、十二処・十八界というものが、瞑想実践における、具体的なメソッドの中で、極めて重要な意味を持っていたからに他ならない。

そこで焦点になるのは、般若心経で「五蘊と六官、六境、六識の空」が主張された直後に出てくる、

無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。

だろう。これは明らかに十二縁起の最初の無明と最後の老死を指しており、つまり、

五蘊と六官、六境、六識の空が体解された瞬間に、十二縁起の苦の連鎖が破壊され(無化され)その『輪廻』から『解脱』する」

事が述べられている。ここでは『空』という概念が前面に出ている為に否定形の再否定など煩瑣な姿をとっているが、その実質は変わらない。

そこで言われているのは、五蘊とは十二縁起のメイン・フレームであり、同時に、六官・六境の十二処(十八界)とは、十二縁起核心部分である」、という事なのだ。 

大乗とテーラワーダという違いを越えて一貫している真理の “串”、それは般若心経と教アナータピンディカ経の中に典型的に表されている。

それは、五蘊とその内実としての十二処・十八界を手放す事こそが、仏道修行の核心・神髄である、という事だ。

何故、五蘊を十二処・十八界という形に細分化し、分析する必要があったのか? それはもちろん、十二処・十八界というものが、瞑想実践のベースとなった基本的なパラダイム、そしてその具体的なメソッドの中で、極めて重要な意味を持っていたからに他ならない。

そこで次に、無明に始まり老死で終わる十二縁起、そのメイン・フレームとしての五蘊、そして焦点としての『六官』、という視点から考えていきたい。

まずは例によってWikipediaさんから十二縁起について引用しよう。

十二因縁 (じゅうにいんねん)、あるいは、十二縁起(じゅうにえんぎ)は、仏教用語の一つ。苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされる、それぞれが順序として相互に関連する12の因果の理法をいう。この因果関係を端的に表現したのが「此縁性」である。

無明(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。

(ぎょう、巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業。

(しき、巴: viññāna, 梵: vijñāna) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元。

名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前

六処(ろくしょ、巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意=六官。

(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触

(じゅ、vedanā) - 感受作用。六処、触による感受。

(あい、巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā) - 渇愛

(しゅ、upādāna) - 執着。

(う、bhava) - 存在。生存。

(しょう、jāti) - 生まれること。

老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死。

縁起とは依って(拠って)起こる、というのが語源で、依って生じるという因果関係の連鎖によって成り立ち、その根幹にあるのは、無明によって行が生じ、行によって識が生じ、~という二項目セットの此縁性だと言われている。

次に、おなじWikipediaから五蘊を引用する。

五蘊(ごうん)とは、部派仏教における一切法の分類である三科(五蘊・十二処・十八界)の中の第一。

「蘊」(うん) とは、「集まり」の意味で、五蘊とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものである。この五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとして、五蘊仮和合(ごうんけわごう)と説く。これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした。

なお、旧訳では五陰(ごおん)五衆(ごしゅ)といい、特に煩悩(ぼんのう)に伴われた有漏(うろ)の五蘊を五取蘊(ごしゅうん)ともいう。

五蘊は次の5種である。

色蘊(しきうん、rūpa) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。

受蘊(じゅうん、vedanā) - 感受作用

想蘊(そううん、saṃjñā) - 表象作用

行蘊(ぎょううん、saṃskāra) - 意志作用

識蘊(しきうん、vijñāna) - 認識作用

十二縁起と五蘊を対照すると分かるが、多くの項目において重なり合いが見られるので以下に示す。

十二縁起五蘊
1.無明(巴: avijjā, 梵: avidyā)

2.(巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra)/4.行蘊(saṃskāra)

3.(巴: viññāna, 梵: vijñāna)/5.識蘊(vijñāna)

4.(nāma-rūpa)/1.色蘊(rūpa

5.六処(巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana)/1.色蘊身体的な器官として)

6.(巴: phassa, 梵: sparśa)

7.(vedanā)/2.受蘊(vedanā)

8.(巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā)

9.(upādāna)

10.(bhava)

11.(jāti)

12.老死(jarā-maraṇa)

五蘊の3番目である想蘊(saṃjñā)が十二縁起にはないが、名色の名(nāma)、すなわち名称=名付け称する働き、を心の表象(表し象る)作用だと考えると、重なり合う。

五蘊とは人間の肉体精神を五つの集まりに分けて示したもの」

という点から言えば、五蘊=名色(心と身体:ナーマ・ルーパ)という見方もできるし、十二縁起の全て五蘊に関するものと見る事もできるだろう。

上記の対象表を見れば分かるように、五蘊というものは、十二縁起の諸要素の中で、ある視点から見て必要十分な要素を取り出して、まとめたものだと考えれば良いのかも知れない。

あるいは逆に、最初に成立したのは実は五蘊というまとめの方で、そこから、ある視点に立って拡充再構成したのが、十二縁起だったのかもしれない。

仏教の専門用語というのは、それぞれ個々の間の整合性というものが完璧にとられておらず、それぞれある視点から見た “場合の暫定” にタイトルを付け、言わばその “場当たり的な” 整理区分が乱立している状態になっているので、とても理解しにくいのだが、まぁ、余り難しく厳密に考える必要はない

若干くどくなるかも知れないが、以下に羅列すると、

十二縁起の、

無明とは、五蘊(心身総体)としての個人存在の根底にある基本特性。

行・識とは、五蘊の内の行・識

名色とは、五蘊の内の、あるいは五蘊そのもの

六処とは、五蘊という個人存在における『肉体=(ルーパ)』の中の五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)+意官

とは、それら六官における六境(色声香味触法)の触。

とは、六官における触によって生まれる感受であり、五蘊の内の

とは、その六官の感受によって生まれる六欲渇愛

とは、その六欲の渇愛によって生まれる執着。

とは、そのような六欲に溺れる五蘊の働きとしての人間存在。

とは、そのような六欲に溺れる五蘊としての人間存在の誕生、生存。

老死とは、そのような六欲に溺れる五蘊としての人間存在の老と死。

とてもややこしい話だが、以上の説明で、十二縁起と五蘊との関係性がおおよそ理解できるかと思う。分かり易く繰り返したが、六処(六官)以降の全ての項目六官影響力がかかっている事に注目したい。

一般に、十二縁起の核心とは無明渇愛である、という説明がなされる。その無明と渇愛の実体的な流れ、あるいは具体的な存在形態、というものを、五蘊のまとまりである人間存在として表している事になるのだろう。

五蘊の中では、『色』、つまり物質的な肉体の次に『受』、すなわち感受が登場する。

十二縁起の中での前に六処が置かれている事からも明らかなように、この五蘊『色』は、六処(六官)六境とその両者の触を含意している。

つまり物質でできた身体における五官と、物質的環境世界からの五境(色声香味触の情報刺激)が接触し、それらの感受があり、結果として第六の意官と法が接触し感受が生まれる。

仏教的な人間観における『感覚器官』には、この最後の意官が含まれている。この事は大変重要で、この意官が含まれるからこそ、十二処・十八界が  “一切世界” になり得るのだ。

言い方を変えると、この一切世界とは「客観世界」ではなく、あくまでも「主観的に把握された世界」なのだ。

物質的な環境世界における五境があったとしても、五官六官がなければ触も感受も生まれ得ないので、ここで最も重要なのは『五官六官』になるだろう。中でも最初に焦点になるのは五官だ。

何故なら、修行によって環境世界から物質的五境をなくす事はできないし、眼に見えない意官は当面どうする事も出来ないが、眼に見える、しかも門戸を成している五官ならば “なんとかできる” からだ。

仏教の焦点になるのはあくまでも人間存在というミクロ・コスモスであり、外部環境世界というマクロ・コスモスには関心がない。修行によって変えられる(なんとかできる)のは、あくまでもミクロ・コスモスである “私自身” に他ならない。

この “なんとかできる” という “可変性” が、極めて重要な意味を持っている。

ではこの “何とかできる性” とは一体何を意味するのだろうか。

十二縁起を見て、一般にその焦点になるのは無明渇愛である、というのは先に言及した通りなのだが、この無明と渇愛、まずは無明について、これひとつを取り上げて直截的に何とかできるだろうか?

何とかできるとは、この場合操作可能であるか?くらいの実践的意味合いだ。無明などというなんというか、目にも見えず手で触る事も出来ず、どこにあるのかも分からない、極めて抽象的な漠然とした事象を、一体どのようにダイレクトに操作できるだろうか。

ここで、『操作』という言葉が出てきたが、その真意は、一般に十二縁起とは因果の連鎖とも言われ、その鎖をどこかで断ち切る事ができれば、苦の世界から解放される、という文脈にのっとっている。

つまり十二縁起の十二の要素、あるいはパーツの内の、どれでもいいから、何とかして破壊・消滅させれば、この苦の連鎖の全てが崩壊消滅する。

しかし、ではこの十二の要素の内の、どれを、どうやって、直接的に破壊する事ができるのか、という命題だ。

無明などという実体のない形なきものを、ダイレクトに取り扱って(ハンドリングして)破壊する事が可能だろうか?

私には、それは不可能としか思えない。無明などという何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした事象を、直接取り扱って、破壊する事など、想像すらできないからだ。

では、もうひとつの焦点である、渇愛、はどうだろうか。

渇愛とは、これも何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした存在であり、直接取り扱って(何とかして)破壊する事など、難しいだろう。

しかし、渇愛には、その依って立つ所の受と触と六処という先行要素が存在していた。これら三つの先行要素の大本とは、もちろん六処(六官)に他ならない。

そして、この六処の内の五処(五官)つまり、眼耳鼻舌身という身体器官は、何よりも眼に見える具体的な門戸として私たちの “目の前に” 存在している、という圧倒的な事実がある。

ではその六処に先行する名色はどうだろうか、六処、つまり六つの感覚器官と比べ、その抽象性は高く、具体的にハンドリングできる対象としては考えにくい。

逆に言うと、この抽象的な概観である名色という括りを、より具体的に実体化して把握したものが、すなわち六処である、と言えるかも知れない。

つまり、この十二縁起という苦の連鎖を形作る十二の要素の内、私たちが実践的にハンドリング可能で、何とかしてダイレクトに働きかけ操作し破壊可能な要素とは、五官+意官の六処以外にはない、という事なのだ。

では具体的に、この六処の何をどうやって破壊する事ができるのか?

漢訳ではこの六処は、しばしば “六入” と表記されている。つまり六官という六つの門戸から、六境情報刺激として流入する。

入って来たものが接触し、接触すれば感受が生まれ、その感受に対する渇愛が生まれ、執着が生まれ、そのような在り方こそが私たちという個人存在()のを形作っていく。

ならば、その苦の生起を阻止し連鎖を破壊するためには、大本の六官という門戸における六境流入(Asava)” 防ぐ(堰き止める)事ができれば、それでいい。

それこそが、『何とかする』という具体的な『作業』実際だ。

五官という門戸は、上に説明した通り、五蘊の内の最初の『色』にも含意されその焦点とも言える。そしてこの五官での『触』『受』が阻止される事によって眼耳鼻舌身の色声香味触に対する識とそれに喚起される様々な思い、つまり想行識も生起しない、という事は、五蘊の全てが生起しない” 事を意味するだろう。

(この「生起しない」とは、あくまでも主観』レベルの話だ)

だからこそ、一切・世界 の根幹(核心)に位置するのは、“五官六官” である、と言えるのだ。

もちろん、これら十二縁起と五蘊と六官における関係性の中で、その核心である六官防護する、というその “防護の完成” が、ダイレクトに般若心経や教アナータピンディカ教における、

五蘊とその内実としての十二処・十八界に対する執着を手放す事こそが、仏道修行の核心・神髄である」

という言明とイコールで結ばれる。

六官の防護の完成五蘊・十二処・十八界に対する執着の手放し=解脱

もちろん、この六官という門戸を防護し、そこにおける流入(アーサヴァ)を阻止する、という内容は、パーリ経典の随所に明記されている。

「さあ、比丘よ、感官の扉を守りなさい。で色かたちを見ても、で音声を聞いても、で匂いを嗅いでも、で味を味わっても、体で触覚の対象に触れても、精神()で知覚の対象を知覚しても、大まかな特徴をとらえたり、詳細をとらえたりしないように。

何故ならは、感覚器官を防護せずに過ごしていると、不快感といった悪く良くないもの侵されるからである。

その予防に努めなさい。感覚器官を守りなさい。感覚器官防ぎ止めなさい。」

~以上、春秋社刊 原始仏典第7巻 中部125経 調御地経 P264~より抜粋・引用。

「欲や不快感といった悪く良くないものに侵される」というのは、正に渇愛(愛)や執着(取)に、つまり総体としての『煩悩(アーサヴァ)』に侵される(捕まる)という事だろう。

「その予防に努めなさい。感覚器官を守りなさい。感覚器官で防ぎ止めなさい」とは、正に感官の扉における流入(Asava)防ぐ事だと思われるが、その真意とは一体何だっただろうか。

これは前の投稿で説明した『傷口』の話と重なって来る。

外界に向かって開かれた扉(門戸)というものは、外敵に対した時ある種の決定的な弱点だから、生体システムとしては当然の事ながら、その『扉において、防護を固める』事になる。

(私たちが家の防犯において鍵をかけるのは、ドアや窓であって、決して壁や屋根ではない)

この様な免疫、という考え方を古代インド療術が持ち合わせていたかは分からないが、ひとつ言える事があって、それは、害毒が入りやすい扉防護すべき扉であり、同時に、薬を入れる扉でもある、という “関係性” を、古代インド人も明確に認識していたという事だ。

毒が入りやすい扉があれば、その同じ扉において薬を服用させて治療する(私たちがうがい薬を使ったり目薬を使うように)

~中略。毒矢の譬えを受けて~ 

ここでは、矢によって破壊的に作られた “傷口” こそが、外界に向かって開かれてしまった “門戸” になる。

その門戸からは血が流れ出て、逆に毒やバイ菌は入り込み、同時に激痛という “感受” が生起する。暴力的に無理やり作られた、という点を除けば、その様相は五官の門と全く重なり合う。

逆に言うと、五官の門とは、常に感覚刺激の矢(煩悩)が刺さり続ける、『傷口』でもある(!)

傷病の現場と治療の現場は、“患部” として同一である。実に当たり前の話だ。しかし、この当たり前の事実の中にこそ、深い真理がある。 

上で書いた様に「五官の門とは、常に感覚刺激(煩悩)の矢が刺さり続ける、『傷口』である」ならば、その矢が刺さる事を防ぐためには、正にそこにおいて、つまり「感覚器官で防ぎ止め」なければならない。

では、その感官の扉を防護する、という “仕事” あるいは『作業』が、具体的にどのように瞑想実践と、なかんずくそのメソッドと、関わり合って来るのだろうか。

これまでの私の投稿を通読すれば、その答えはほとんど全て、既に述べられているだろう。

  (本投稿はYahooブログ 2015/4/30「瞑想実践の科学34:照見五蘊皆空、度一切苦厄」、2015/5/10「瞑想実践の科学35:十二縁起と五蘊と六官」を統合の上加筆修正して移転したものです)

 

 


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病に苦しむアナータピンディカ:《瞑想実践の科学17》

今回のタイトルは、日本人にはお馴染みの漢訳名である「給孤独長者」とどちらにしようか迷ったが、アナータピンディカにしておいた。

パーリ原語のアナータピンディカとは「身寄りのない困窮者を憐れんで食事を給する」という意味で、そこから漢訳の「給孤独」が来ているという。

この長者、つまり資産家の本名はスダッタといい、ブッダに帰依して祇園精舎を寄進したエピソードはつとに有名だが、晩年に重い病にかかり、重体となり悩み苦しむ。

そこで彼は、祇園精舎に滞在するブッダ達一行に使者を送り、サーリプッタ尊者に「自宅に来ていただければ幸いです」と懇請する。

サーリプッタは彼の窮状を察して、見舞いに訪れるのだが、そこにおける両者の対話が、前々回最後に紹介した『教給孤独経(教アナータピンディカ経:Anathapindikovada Sutta)』の主題になっている。

まずは実際に読んでもらうのが一番なので、サーリプッタの見舞いの言葉から始まる両者の対話を、繰り返し部分などを一部省略しながら全文引用したい。

サーリプッタの見舞い〉

サーリプッタ尊者はアーナンダ尊者を伴いアナータピンディカの家に行き、用意された座に坐ってアナータピンディカに言った。

「資産家よ、大丈夫ですか。耐えられますか。苦しい感じが、ひどくならず、引いてきましたか苦しい感じが、増す事なく減って来た事がはっきり分かりますか

「いいえ、サーリプッタ様、わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じ引かず酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じ減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります。

サーリプッタ様、

ちょうど、力持ちの男が鋭利な刃物によって、人の頭を切り裂くように、尊者サーリプッタ様、きわめて激しい風がわたしの頭を引き裂きます。

ちょうど、力持ちの男が丈夫な革紐をターバンの様に頭にきつく巻きつけているように、わたしにひどい頭痛があります。

ちょうど、熟練した屠牛者あるいは屠牛者の弟子が、鋭利な牛刀で、腹を切り開くように、きわめて激しい風が、わたしの腹を切り開きます。

ちょうど二人の力持ちの男が、一人の弱い男の腕を片方ずつつかんで、炭火の坑の上であぶり、よく焼くように、私の身体にはきわめて酷い熱があります。

サーリプッタ様、

わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じが引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じが減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります」

 

〈無執着の教え〉

「資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは眼に執着しないでおこう。そうすれば、わたしには眼をよりどころとする認識もなくなるであろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは耳、鼻、舌、身体、意に、執着しないでおこう。そうすれば、わたしには耳、鼻、舌、身体、意をよりどころとする認識もなくなるであろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは色かたち(色)に執着しないでおこう。そうすればわたしには色かたちをよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは音声(声)に、匂い(香)に、味(味)に、触れられるもの(触)に、思考されるもの(法)に、執着しないでおこう。そうすればわたしには声、香、味、触、法、をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは視覚的認識(眼識)に執着しないでおこう。そうすればわたしには眼識をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは聴覚的認識(耳識)、嗅覚的認識(鼻識)、味覚的認識(舌識)、触覚的認識(身識)、思考的認識(意識)、に執着しないでおこう。そうすればわたしには耳識、鼻識、舌識、身識、意識、をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは眼における接触(眼触)に執着しないでおこう。そうすればわたしには眼触をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは耳における接触(耳触)、鼻における接触(鼻触)、舌における接触(舌触)、身体における接触(身触)、意における接触、に執着しないでおこう。そうすればわたしには耳触、鼻触、舌触、身触、意触、をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは眼における接触から生じる感受に執着しないでおこう。そうすればわたしには眼における接触から生じる感受をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは耳における接触から生じる感受、鼻における接触から生じる感受、舌における接触から生じる感受、身体における接触から生じる感受、意における接触から生じる感受、に執着しないでおこう。そうすればわたしにはそれらの接触から生じる感受をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは、地の元素、水の元素、火の元素、風の元素、虚空の元素、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれらの元素をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは、物質(色)、感受(受)、表象(想)、意思(行)、意識(識)、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれら色・受・想・行・識、をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは、虚空の無限性を観ずる境地(空無辺処)、心作用の無限性を観ずる境地(識無辺処)、一切のものがないと観ずる境地(無所有処)、想が有るのでも想がないのでもない境地(非想非非想処)、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれらの境地をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきである。

『わたしは、この世とあの世、共に執着しないでおこう。そうすれば、わたしには、この世とあの世、をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきである。

『わたしは、わたしが見たもの、聞いたもの、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、それらにも執着しないでおこう。そうすれば、わたしには、それらをよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

 

〈在家者への法話の懇請〉

そのように言われた時に、資産家のアナータピンディカは、泣きだし、涙を流した。そこで、アーナンダ尊者は、資産家アナータピンディカに話しかけた。

「資産家よ、あなたは、何かに執着しているのですか。それとも、落胆してしまったのですか」

「アーナンダ様、わたしは、執着しているのでも、落胆しているのでもありません。わたしは、長い期間に何度も、師(ブッダ)やまだ意を修習中の修行僧たちを訪問しましたが、わたしは、いまだかつてこのような法話を聞いた事がありません」

「資産家よ、白い衣を着る在家者たちには、このような法話は通常明らかにされないのです。資産家よ、このような法話は出家者たちにだけ、明らかにされるのです」

「それならば、サーリプッタ様、白い衣を着る在家者たちにも、このような法話を説き明かして下さい。と申しますのは、サーリプッタ様、在家者にも煩悩の汚れが少ない類の立派な人たちがいるからです。彼らは、教えを聞いていないので衰退していますが、聞けば教えをよく理解する者となるでしょう」

こうして、サーリプッタ尊者とアーナンダ尊者は、この教えによって資産家のアナータピンディカを教戒したあと、座から立ちあがって去った。

(この後、ほどなくしてアナータピンディカは亡くなり、そして天界のトゥシタ天に再生し、天子として祇園精舎を再訪し、ブッダに詩をもって語りかけます)

 

ここは、快適なるジェータ林。
聖者の集いが訪れて、
真理の王(ブッダ)も住みたまい、
わが心には喜びわき起こる。
行為と知識と理法と、戒めを守る最も優れた生活。
これらによって、人は清められる。
氏姓によるのでも、財産によるのでもなく。
それゆえ、賢明なるひとは、
真におのれのためになる事を見て、深く物事を考察せよ。
そうすれば、その間に、人は清められる。
サーリプッタこそ、智慧と、戒めと寂静とによって、
彼岸に渡った修行僧。
これほど勝れた者が、他にいようか。

 

ブッダは、その言葉を聞いて、これを是認された。
(以下略)

~以上、春秋社刊 原始仏典第7巻 第143経 教給孤独経:Anathapindikovada Sutta P516~525(勝本華蓮訳)より要約引用

これで、二人の対話の全貌が明らかになった。

まず最初に指摘しておきたい事は、この経典上で明確にアーナンダの言葉として、

「資産家よ、白い衣を着る在家者たちには、このような法話は通常明らかにされないのです。資産家よ、このような法話は出家者たちにだけ、明らかにされるのです」

と明言しているという事だろう。これは、在家信者向けの説法と、出家比丘向けの指導・法話とでは、明確に区別あるいは「差別」ブッダによって設定されていた事を意味する。

ブッダ最後の旅:マハーパリニッバーナ・スッタ」などでブッダは、「私には握拳の秘密はない」として、すべての法(真理)を包み隠す事なく説いて聞かせたのだ、と断言しているが、それはあくまで、アーナンダをはじめとした出家の弟子たちに対してであって、在家の信者たちに対しては、多くの、おそらくは最も重要な教えの要諦を、決して説き聞かせる事はなかった、という事だろう。

(一方で、経典の他の部分では「私の教えた事はほんの一部に過ぎない」という記述もある。掌中の葉参照)

そう、ここでサーリプッタによって病者アナータピンディカに初めて説き明かされた教えは、二人の対話を読みとれば明らかなように、通常では在家信者には決して明かされない、ブッダの法 “核心部分” である、という事が推察されるのだ。

そして、この核心部分を初めて聞き知った、そして深く理解したアナータピンディカは、感涙にむせび泣き、おそらくはその病苦の煩いから解放されたのだ、と読みとる事ができる。

それではその “核心部分” とは一体何だったのか。最初の段落から順々に見ていきたい。

「資産家よ、大丈夫ですか。耐えられますか。苦しい感じが、ひどくならず引いてきましたか苦しい感じが、増す事なく減って来た事がはっきり分かりますか」

「いいえ、サーリプッタ様、わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じ引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じ減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります」

 まずは、この冒頭の対話を、よく吟味してみよう。サーリプッタが、

苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか?」

と問いかけたのに対して、アナータピンディカは、

「激しい苦しみの感じが減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります」

と答える。

その “激しい苦しみの感じ とはどのようなものだったか、と言えば、それはこれまでに紹介してきたとおり、以下の様な身体症状だった。

ちょうど、力持ちの男が鋭利な刃物によって、人の頭を切り裂くように、尊者サーリプッタ様、きわめて激しい風がわたしの頭を引き裂きます。

ちょうど、力持ちの男が丈夫な革紐をターバンの様に頭にきつく巻きつけているように、わたしにひどい頭痛があります。

ちょうど、熟練した屠牛者あるいは屠牛者の弟子が、鋭利な牛刀で、腹を切り開くように、きわめて激しい風が、わたしの腹を切り開きます。

ちょうど二人の力持ちの男が、一人の弱い男の腕を片方ずつつかんで、炭火の坑の上であぶり、よく焼くように、私の身体にはきわめて酷い熱があります。

そして、これは前回指摘した通り、悟りを開く前のシッダールタが鼻と口と耳を完全に塞いだ「止息の行」の最中において経験した激しい苦の身体症状と、完全に同一のものだったのだ。

では、正にその同じ身体症状に喘いでいたはずのシッダールタは、その時その状態をどのように表現していただろうか。

そこには、以下のような決まり文句が整然と繰り返し並べられている。

「しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかったのである。

それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった(「菩提王子経」春秋社刊 原始仏典より)

ここで整理すると、病者アナータピンディカは上記四つの身体症状に苦しんでいる様子を、その “様相” を、

「激しい苦しみの感じ減ることなく増すばかりだと言う事が、はっきり分かります」

と表現し、その容体を訊ねたサーリプッタ “訊ね方” は、

苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか?」

だった。

一方で、まったく同じ四つの身体症状に襲われていた沙門シッダールタは、その様相を、最終的には以下のように表現していた。

「わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった

この、赤字部分でハイライトした表現の異同が、その微妙なニュアンスの違いに、注目して欲しい。上のシッダールタの言葉は、先の投稿で、「縁起と無常の観察」であると指摘した一節だった。

そこで私は、以下の様に書いた。

「わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった

という記述が “意味する事” だ。

噛み砕いて言えば、それは、

「ある一定の “行為(歯の噛みしめや止息)” の結果、私の体において苦が生起し、その感受があり、その苦しいという感覚が私のを一時占領したかに見えたが、それがどんなに激しい苦の感受であったとしても、やがて弱まり、とどまり続けることなく、いつしか消えていった

という事だ。

言っている意味が分かるだろうか?

ここで言われている事は、明らかに、紛れもなく「縁起という真理」であると同時に「無常という真理」観察に他ならない。

そしてそれは身受心法の四念処と同じプロセスによって覚知されたのだ。

そう、サーリプッタは、沙門シッダールタと同じ視点に立って、体状態とその苦の感、そしての転変というものを執着を“手放して” 客観的にした、その縁起無常という真理の立場から問いかけている。

サーリプッタの、

「苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか?」

という問いかけは、

苦の感受とどまる事なく生じては滅していますか?」「あなたは、手放せていますか?それが『無常』である事が分かりますか?」

という問いであると読むべきなのだ。

しかし、在家の病者アナータピンディカは、明確にその身体症状たる『苦の感受』に心を “占領” され耽溺し、それがあたかも “永遠にとどまり続ける” もの、であるかの如く錯覚し、執着し恐怖し動顛している。

何故なら彼は、在家一般人の “習わし” として、病んで苦に喘ぐ “身体” というものが、その感受苦しみのが、“自分自身” だと信じ切っているからだ。

サーリプッタと沙門シッダールタは、明らかに “法(現象)の生滅観ている。その『無常の法』を覚知している。しかし在家信者アナータピンディカは、苦受の行相(苦海)に溺れるのみで、その生じ滅する真理観る事なく、身体的感受でギュッと “握りしめて” しまっている。

ここまでを明確に理解すると、その後に続くサーリプッタ尊者の、唐突とも思える説法の真意が、明確に理解できるようになる。

そしてその真意とは、在家信者には容易には説き明かされ得なかった、文字通り仏道修行の “核心部分” を指し示すものなのだ。 

サーリプッタの見舞いの言葉に対して、アナータピンディカは、

いいえ、サーリプッタ様、わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じが引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じ減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります。

と悲痛なまでに嘆く。

この様なアナータピンディカの苦の症状の訴えを聞いたサーリプッタは、その苦悶に同情するでもなく、唐突に不思議な説法を始めるのだった。

「資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしはに執着しないでおこう。そうすれば、わたしには眼をよりどころとする認識もなくなるであろう』と。

資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです」(同書より再掲)

として、全体では、眼耳鼻舌身意(六官)からの厭離(執着しない事)、色声香味触法(六境)からの厭離、それら六官の認識(六識)からの厭離、それら接触(六触)からの厭離、六つの感受からの厭離、を学ぶよう説き聞かせる。

これは明らかに、四念処における身受心法観察によるからの遠離を、別の言い方でまとめたものだろう。

六官が『身』であり、そこに六境が触れる事によって六つの『感受』が生じ、そして六つの識が『心』として動く。これらとして観察する事によって、そこからの遠離が実現される。

そして、話はさらに予想しない方向に進んでいく。

「資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは地の元素に執着しないでおこう。そうすれば、わたしには地の元素をよりどころとする認識もなくなるであろう』と。

資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです」(同上)

として、全体では、地水火風に虚空を加えた五界の元素に執着しない事を学べと教え諭すのだ。

さて、とても面白い事になって来た。この “面白さ” が第三者にも分かってもらえるのかは甚だ心もとないのだが…

すでに詳述してあるように、一見して四界分別観とは一切言及していない菩提王子経などの三つの苦行の記述の中に、四界分別観的な要素が多分に埋め込まれていた事実がある。

その三つの苦行の内の「止息の行法」の結果として現れた身体症状と同じ記述が、教アナータピンディカ経においてアナータピンディカの病態としてコピペのように挿入され、その後段には、それら病態への対処であるかのようにして、四界(五界)への執着からの厭離が勧められている。

そう、ここでは明らかに、三つの苦行の内の「止息の行法」の身体症状を介して、菩提王子経と教アナータピンディカ経という二経をつながりまたぐ形で、“苦行”‟病態” “四界の分別と厭離”相互リンクしている。

実に複雑怪奇な世界だが、そこには明確な流れが見て取れる。それは、異なった経典上の全く違った話のように見えるものを、それぞれの経典において共有されている特定部分を “コネクタ” として飛び石状につなげていくと、ある、明瞭なストーリーが立ち現れるという事だ。

おそらく、これら経典を編纂した者たちは、この苦行病態における同一の身体症状を、明確に同一と理解した上で意図的にそのような構成として仕組んだ

(多分それは、テーラワーダの中に現在でも伝わっているのではないか…)

経典は以下のように続いていく。 

の元素、の元素、の元素、の元素、虚空の元素、に執着しないでおけば、わたしにはそれら元素をよりどころとする認識もなくなるだろう。

物質(色)、感受(受)、表象(想)、意思(行)、意識(識)、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれら色・受・想・行・識五蘊、をよりどころとする認識もなくなるだろう。

虚空の無限性を観ずる境地(空無辺処)、心作用の無限性を観ずる境地(識無辺処)、一切のものがないと観ずる境地(無所有処)、想が有るのでも想がないのでもない境地(非想非非想処)、に執着しないでおけば、わたしにはそれら無色界の四禅の境地をよりどころとする認識もなくなるだろう。

この世あの世に、共に執着しないでおけば、わたしには、この世とあの世、をよりどころとする認識もなくなるだろう。

わたしが見たもの聞いたもの思ったもの識ったもの求めたもの心で思考したもの、それらにも執着しないでおけば、わたしには、それらをよりどころとする認識もなくなるだろう。

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです」

~以上、同「教アナータピンディカ経」参照。

以上の流れには、文字通り、ブッダの教えの神髄が順序立てて分かりやすく提示されている。とても重要な所なので、繰り返しを恐れずに以下にまとめていこう。

眼耳鼻舌身意の六官、その対象である色声香味触法の六境、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識、これは前二つで十二処、三つ全てで十八界、に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

ここで、この六官六境が冒頭に来ている事は極めて重要だ。これこそが十二縁起六内外処に他ならず、『六官の防護』現場に他ならないからだ。

続けて、六官、六境、六識の働きに、それぞれ六つ接触感受というプロセスを加え、それらにも執着しなければ、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

これは『六官の防護』という観点からみた時、正に『六触』から『六官』防護されれば、『六受』もなくなる、という関係性にあたる。

地水火風(虚空)という四(五)大元素に執着しなければ、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

色・受・想・行・識五蘊に執着しなければ、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処という無色界四禅、に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

この世あの世に、共に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

わたしが見たもの聞いたもの思ったもの識ったもの求めたもの心で思考したもの、それらにも執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる」

これらの言葉・概念の流れを、病苦に喘ぐアナータピンディカの身体と心の働きと重ね合わせた上で、深く読み解いて欲しい。

端的に言えば、これら太字で表したところの六官六境六識六触とそれらの六つの感受地水火風という四大元素色・受・想・行・識五蘊、に執着しない事、

さらに、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処という無色界四禅、この世とあの世、見たもの、聞いたもの、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、に執着しない事によって、

わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる、つまり、苦から完全に解放された安らぎ(究極にはニッバーナ、あるいは解脱)が現成される。

ここで六官六境五蘊、そして四大元素との関係性を見てみよう。

眼耳鼻舌身五官、つまり私たちの身体における感覚器官とは、物質で構成された身体において外界に開かれた門戸であり、それ(身体における五官=五内処)はすなわち五蘊の最初の「色(物質)」にあたる。

五官の対象となる五境も同様に、身体の外の環境世界における物質的存在(五外処)であり、つまり五蘊の最初の「色(物質)」にあたる。

これら五内処五外処という対置された二つの色(物質)とは、地水火風という四大元素、の集成に過ぎない。

この二つが、つまり環境世界という色(物質)身体器官という色(物質)が触れ合う事接触によって、そこに感受、すなわち五蘊の二番目の「受」が生まれる。

の結果としてが生起し、想の結果としてが生まれ、行の結果としてが生まれるが、これら五蘊の後半三つは、の働きであり、第六の内処(意)であり、その意内処に触れて感受された(外処)が、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、に相当する。

仏典における『専門用語』というものは相互の整合性が必ずしも完全にとられていないので分かりにくいのだが、多少のブレを無視して概観すると、

六官(六内処)六境(六外処)という『色』において、+六触が生じ、+六受が生じ、+六つの(想行)識が生じる、その流れが、=五蘊(色受想行識)、という関係性の式が成立する。

次に、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処という無色界四禅、というのが出てくるが、これは無色界、つまり物質ではない世界=純粋なだけの世界、ではあるが、それゆえに “心(意)のはたらき” の範疇にあるため、それはすなわち 五蘊の内” にあると見なされる。

ここで最高位の非想非非想処とは、『想』についての言及であり、『識(意・心)』に対する言及ではない。つまり、『非識非非識処』と言っているのではない。そこには、想があるのでもなくないのでもないと知覚している『(意)識』が存在する=五蘊の内にある。

思い起こすと、以前指摘した様に沙門シッダールタが当初弟子入りしたアーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタの瞑想は無所有処、非想非非想処だったが、彼らの瞑想が何故「解脱に至れない」ものとしてシッダールタによって退けられたのか、その理由が「これら瞑想の『境地』『執着』してしまっていた」からだという文脈が透けて見えないだろうか。

そしてこれら全て、つまりこの世あの世、の全て、に対する執着を “手放して(遠離・厭離)” しまえたら、それらに依存した認識が全てなくなる、つまり苦からの完全な解放(安らぎ=ニッバーナ、あるいは解脱)、が実現される。

在家のブッダ信仰とは、聞法や供養という善業を通じて現世の幸福と来世の、つまりあの世において天界などのより善い再生を願う信仰体系だから、それは五蘊の内にある。

だから通常はこの様な教えは、在家の者たちには決して明かされない。何故なら、この教えは畢竟、在家の信仰のあり方全てを、“業障(解脱の障碍となる行=サンカーラの執着)” として退けるものだからだ(そもそも在家は解脱など望んでいない)

どうだろう、全体の流れが俯瞰的に把握できただろうか。

何しろ、上記の流れはブッダの法の神髄を現しているとは言え、後世の阿毘達磨的な分析的羅列的な “理屈” に徹した文言なので、それを解説するためにもまた理屈が必要になってしまう。

この様に理屈の上に理屈を積み重ねて、経典の上に論を論を論をと際限なく積み重ねてきたのが、いわゆる “学” の歴史だったのだろう、と慨嘆するしかない。

しかし、それら煩雑な論の枝葉を全て捨象して仏教の神髄を抽出すれば、それは、五蘊(への執着=五取蘊)からの遠離、というただの一言に収まってしまう。

五蘊への執着(五取蘊)を手放すことによって、完全な安らぎ=ニッバーナ・輪廻からの解脱、が成就される。

そしてこの五蘊(五取蘊)からの遠離”、を体現するための実践行道を一言で表すならば、それは “五官六官の防護” になる。

五蘊つまり色受想行識とは「六官(六内処)+六境(六外処)という、+六触による、+六識という想行)識」なのだから、六官六境触れる現場その接触堰き止める(ニローダ)事ができれば、五蘊滅する(ニローダ)

その堰き止めこそが、六官防護に他ならない。

ブッダによって説かれた法の神髄とは、(アビダンマ的とはいえ)全て上述のサーリプッタの言葉の中に端的に表されており、その中核部分をひと言に要約すれば、それはすなわち 五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道の神髄とは “五官六官の防護” である。

これまでも機会があるごとに主張して来たが、これが膨大なるパーリ教典(及びその解説書)を連綿と読みふけった果てに、その全てを俯瞰した上で私が出した、最終的な結論になる。

ではブッダの修行道の中核に位置付けられているはずの瞑想行法と、この “五官六官の防護” の関係は一体どのようになっているのだろうか。

学術論文などではなく、この様な個人のブログなので断言してしまうが、“五官六官の防護” こそがブッダの瞑想実践そのものである、と言い切っていいかと私は考えている。

この場合、より精密に言うならば “五官の防護” がブッダの修行道とその瞑想実践の “入り口・導入部” であり基盤(文字通りの根拠)であり、“第六の意官の防護” はその中・終盤(根に支えられた幹茎)であり、その先にゴールとしてのニッバーナ(開花した蓮華)がある、と言ったら、分かりやすいかも知れない。

そこには、明確に『段階』がある。

未だ私の中で言語化が熟し切っておらず、さらに所詮言葉による説明などは、その言語的な制約・限界の中から逃れようもないのだが、次回以降その真意について、詳述していきたいと思う。

そこでのキーワードは一切法だ。

三科(さんか)とは部派仏教における、世界を在らしめる一切法を分類した三範疇、五蘊・十二処・十八界をいう。また、六官六境六識の三範疇をいうこともある。

Wikipedia/三科より

世界(現象界)を在らしめる “すべて=一切法 からの遠離、あるいはその『滅』。それこそが『解脱』であると言われているが、その起始点になるものこそが “五官の防護” に他ならない。

何故なら、正にその “現象世界”人間意識 “接点(とば口)” こそが、この五官だからだ。

まず最初に、とば口として五官の防護が行ぜられ、その延長線上に第六の意官の防護が行ぜられ、最終的に六官全ての防護完成した暁に、一切世界の法滅しニッバーナが体現される。

それを十二縁起に当てはめれば、六内処(六官)において六外処(六境)浸入防護(堰き止めニローダされる事によって『触』滅し『受』滅し、続く愛、取、有、生、老死、その全てが滅していく。更にその『滅』波頭縁起の連鎖上行し、名色無明の全てを滅していく。

十二縁起と言う無明苦の、連鎖を破壊する焦点の急所あるいはその最前線の『現場』こそが六処(六官)なのだ。

瞑想行によって、その『六官の防護』完遂される。それこそが『縁起の連鎖の破壊』であり一切世界滅(ニローダ)であり解脱でありブッダの修行道のゴールである。

そのように私は、理解している。

次回以降、その詳細について検討していきたい。

(本投稿はYahooブログ 2015/4/18「瞑想実践の科学 32:病に苦しむ給孤独長者」と2015/4/28「瞑想実践の科学 33:五蘊への執着を手放せば」を統合の上加筆修正して移転したものです) 

 

 


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