仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

病に苦しむアナータピンディカ:《瞑想実践の科学17》

今回のタイトルは、日本人にはお馴染みの漢訳名である「給孤独長者」とどちらにしようか迷ったが、アナータピンディカにしておいた。

パーリ原語のアナータピンディカとは「身寄りのない困窮者を憐れんで食事を給する」という意味で、そこから漢訳の「給孤独」が来ているという。

この長者、つまり資産家の本名はスダッタといい、ブッダに帰依して祇園精舎を寄進したエピソードはつとに有名だが、晩年に重い病にかかり、重体となり悩み苦しむ。

そこで彼は、祇園精舎に滞在するブッダ達一行に使者を送り、サーリプッタ尊者に「自宅に来ていただければ幸いです」と懇請する。

サーリプッタは彼の窮状を察して、見舞いに訪れるのだが、そこにおける両者の対話が、前々回最後に紹介した『教給孤独経(教アナータピンディカ経:Anathapindikovada Sutta)』の主題になっている。

まずは実際に読んでもらうのが一番なので、サーリプッタの見舞いの言葉から始まる両者の対話を、繰り返し部分などを一部省略しながら全文引用したい。

サーリプッタの見舞い〉

サーリプッタ尊者はアーナンダ尊者を伴いアナータピンディカの家に行き、用意された座に坐ってアナータピンディカに言った。

「資産家よ、大丈夫ですか。耐えられますか。苦しい感じが、ひどくならず、引いてきましたか苦しい感じが、増す事なく減って来た事がはっきり分かりますか

「いいえ、サーリプッタ様、わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じ引かず酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じ減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります。

サーリプッタ様、

ちょうど、力持ちの男が鋭利な刃物によって、人の頭を切り裂くように、尊者サーリプッタ様、きわめて激しい風がわたしの頭を引き裂きます。

ちょうど、力持ちの男が丈夫な革紐をターバンの様に頭にきつく巻きつけているように、わたしにひどい頭痛があります。

ちょうど、熟練した屠牛者あるいは屠牛者の弟子が、鋭利な牛刀で、腹を切り開くように、きわめて激しい風が、わたしの腹を切り開きます。

ちょうど二人の力持ちの男が、一人の弱い男の腕を片方ずつつかんで、炭火の坑の上であぶり、よく焼くように、私の身体にはきわめて酷い熱があります。

サーリプッタ様、

わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じが引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じが減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります」

 

〈無執着の教え〉

「資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは眼に執着しないでおこう。そうすれば、わたしには眼をよりどころとする認識もなくなるであろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは耳、鼻、舌、身体、意に、執着しないでおこう。そうすれば、わたしには耳、鼻、舌、身体、意をよりどころとする認識もなくなるであろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは色かたち(色)に執着しないでおこう。そうすればわたしには色かたちをよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは音声(声)に、匂い(香)に、味(味)に、触れられるもの(触)に、思考されるもの(法)に、執着しないでおこう。そうすればわたしには声、香、味、触、法、をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは視覚的認識(眼識)に執着しないでおこう。そうすればわたしには眼識をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは聴覚的認識(耳識)、嗅覚的認識(鼻識)、味覚的認識(舌識)、触覚的認識(身識)、思考的認識(意識)、に執着しないでおこう。そうすればわたしには耳識、鼻識、舌識、身識、意識、をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは眼における接触(眼触)に執着しないでおこう。そうすればわたしには眼触をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは耳における接触(耳触)、鼻における接触(鼻触)、舌における接触(舌触)、身体における接触(身触)、意における接触、に執着しないでおこう。そうすればわたしには耳触、鼻触、舌触、身触、意触、をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは眼における接触から生じる感受に執着しないでおこう。そうすればわたしには眼における接触から生じる感受をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは耳における接触から生じる感受、鼻における接触から生じる感受、舌における接触から生じる感受、身体における接触から生じる感受、意における接触から生じる感受、に執着しないでおこう。そうすればわたしにはそれらの接触から生じる感受をよりどころとする認識がなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは、地の元素、水の元素、火の元素、風の元素、虚空の元素、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれらの元素をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは、物質(色)、感受(受)、表象(想)、意思(行)、意識(識)、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれら色・受・想・行・識、をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは、虚空の無限性を観ずる境地(空無辺処)、心作用の無限性を観ずる境地(識無辺処)、一切のものがないと観ずる境地(無所有処)、想が有るのでも想がないのでもない境地(非想非非想処)、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれらの境地をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきである。

『わたしは、この世とあの世、共に執着しないでおこう。そうすれば、わたしには、この世とあの世、をよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきである。

『わたしは、わたしが見たもの、聞いたもの、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、それらにも執着しないでおこう。そうすれば、わたしには、それらをよりどころとする認識もなくなるだろう』

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです。

 

〈在家者への法話の懇請〉

そのように言われた時に、資産家のアナータピンディカは、泣きだし、涙を流した。そこで、アーナンダ尊者は、資産家アナータピンディカに話しかけた。

「資産家よ、あなたは、何かに執着しているのですか。それとも、落胆してしまったのですか」

「アーナンダ様、わたしは、執着しているのでも、落胆しているのでもありません。わたしは、長い期間に何度も、師(ブッダ)やまだ意を修習中の修行僧たちを訪問しましたが、わたしは、いまだかつてこのような法話を聞いた事がありません」

「資産家よ、白い衣を着る在家者たちには、このような法話は通常明らかにされないのです。資産家よ、このような法話は出家者たちにだけ、明らかにされるのです」

「それならば、サーリプッタ様、白い衣を着る在家者たちにも、このような法話を説き明かして下さい。と申しますのは、サーリプッタ様、在家者にも煩悩の汚れが少ない類の立派な人たちがいるからです。彼らは、教えを聞いていないので衰退していますが、聞けば教えをよく理解する者となるでしょう」

こうして、サーリプッタ尊者とアーナンダ尊者は、この教えによって資産家のアナータピンディカを教戒したあと、座から立ちあがって去った。

(この後、ほどなくしてアナータピンディカは亡くなり、そして天界のトゥシタ天に再生し、天子として祇園精舎を再訪し、ブッダに詩をもって語りかけます)

 

ここは、快適なるジェータ林。
聖者の集いが訪れて、
真理の王(ブッダ)も住みたまい、
わが心には喜びわき起こる。
行為と知識と理法と、戒めを守る最も優れた生活。
これらによって、人は清められる。
氏姓によるのでも、財産によるのでもなく。
それゆえ、賢明なるひとは、
真におのれのためになる事を見て、深く物事を考察せよ。
そうすれば、その間に、人は清められる。
サーリプッタこそ、智慧と、戒めと寂静とによって、
彼岸に渡った修行僧。
これほど勝れた者が、他にいようか。

 

ブッダは、その言葉を聞いて、これを是認された。
(以下略)

~以上、春秋社刊 原始仏典第7巻 第143経 教給孤独経:Anathapindikovada Sutta P516~525(勝本華蓮訳)より要約引用

これで、二人の対話の全貌が明らかになった。

まず最初に指摘しておきたい事は、この経典上で明確にアーナンダの言葉として、

「資産家よ、白い衣を着る在家者たちには、このような法話は通常明らかにされないのです。資産家よ、このような法話は出家者たちにだけ、明らかにされるのです」

と明言しているという事だろう。これは、在家信者向けの説法と、出家比丘向けの指導・法話とでは、明確に区別あるいは「差別」ブッダによって設定されていた事を意味する。

ブッダ最後の旅:マハーパリニッバーナ・スッタ」などでブッダは、「私には握拳の秘密はない」として、すべての法(真理)を包み隠す事なく説いて聞かせたのだ、と断言しているが、それはあくまで、アーナンダをはじめとした出家の弟子たちに対してであって、在家の信者たちに対しては、多くの、おそらくは最も重要な教えの要諦を、決して説き聞かせる事はなかった、という事だろう。

(一方で、経典の他の部分では「私の教えた事はほんの一部に過ぎない」という記述もある。掌中の葉参照)

そう、ここでサーリプッタによって病者アナータピンディカに初めて説き明かされた教えは、二人の対話を読みとれば明らかなように、通常では在家信者には決して明かされない、ブッダの法 “核心部分” である、という事が推察されるのだ。

そして、この核心部分を初めて聞き知った、そして深く理解したアナータピンディカは、感涙にむせび泣き、おそらくはその病苦の煩いから解放されたのだ、と読みとる事ができる。

それではその “核心部分” とは一体何だったのか。最初の段落から順々に見ていきたい。

「資産家よ、大丈夫ですか。耐えられますか。苦しい感じが、ひどくならず引いてきましたか苦しい感じが、増す事なく減って来た事がはっきり分かりますか」

「いいえ、サーリプッタ様、わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じ引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じ減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります」

 まずは、この冒頭の対話を、よく吟味してみよう。サーリプッタが、

苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか?」

と問いかけたのに対して、アナータピンディカは、

「激しい苦しみの感じが減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります」

と答える。

その “激しい苦しみの感じ とはどのようなものだったか、と言えば、それはこれまでに紹介してきたとおり、以下の様な身体症状だった。

ちょうど、力持ちの男が鋭利な刃物によって、人の頭を切り裂くように、尊者サーリプッタ様、きわめて激しい風がわたしの頭を引き裂きます。

ちょうど、力持ちの男が丈夫な革紐をターバンの様に頭にきつく巻きつけているように、わたしにひどい頭痛があります。

ちょうど、熟練した屠牛者あるいは屠牛者の弟子が、鋭利な牛刀で、腹を切り開くように、きわめて激しい風が、わたしの腹を切り開きます。

ちょうど二人の力持ちの男が、一人の弱い男の腕を片方ずつつかんで、炭火の坑の上であぶり、よく焼くように、私の身体にはきわめて酷い熱があります。

そして、これは前回指摘した通り、悟りを開く前のシッダールタが鼻と口と耳を完全に塞いだ「止息の行」の最中において経験した激しい苦の身体症状と、完全に同一のものだったのだ。

では、正にその同じ身体症状に喘いでいたはずのシッダールタは、その時その状態をどのように表現していただろうか。

そこには、以下のような決まり文句が整然と繰り返し並べられている。

「しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかったのである。

それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった(「菩提王子経」春秋社刊 原始仏典より)

ここで整理すると、病者アナータピンディカは上記四つの身体症状に苦しんでいる様子を、その “様相” を、

「激しい苦しみの感じ減ることなく増すばかりだと言う事が、はっきり分かります」

と表現し、その容体を訊ねたサーリプッタ “訊ね方” は、

苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか?」

だった。

一方で、まったく同じ四つの身体症状に襲われていた沙門シッダールタは、その様相を、最終的には以下のように表現していた。

「わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった

この、赤字部分でハイライトした表現の異同が、その微妙なニュアンスの違いに、注目して欲しい。上のシッダールタの言葉は、先の投稿で、「縁起と無常の観察」であると指摘した一節だった。

そこで私は、以下の様に書いた。

「わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった

という記述が “意味する事” だ。

噛み砕いて言えば、それは、

「ある一定の “行為(歯の噛みしめや止息)” の結果、私の体において苦が生起し、その感受があり、その苦しいという感覚が私のを一時占領したかに見えたが、それがどんなに激しい苦の感受であったとしても、やがて弱まり、とどまり続けることなく、いつしか消えていった

という事だ。

言っている意味が分かるだろうか?

ここで言われている事は、明らかに、紛れもなく「縁起という真理」であると同時に「無常という真理」観察に他ならない。

そしてそれは身受心法の四念処と同じプロセスによって覚知されたのだ。

そう、サーリプッタは、沙門シッダールタと同じ視点に立って、体状態とその苦の感、そしての転変というものを執着を“手放して” 客観的にした、その縁起無常という真理の立場から問いかけている。

サーリプッタの、

「苦しい感じが、増す事なく、減って来た事がはっきり分かりますか?」

という問いかけは、

苦の感受とどまる事なく生じては滅していますか?」「あなたは、手放せていますか?それが『無常』である事が分かりますか?」

という問いであると読むべきなのだ。

しかし、在家の病者アナータピンディカは、明確にその身体症状たる『苦の感受』に心を “占領” され耽溺し、それがあたかも “永遠にとどまり続ける” もの、であるかの如く錯覚し、執着し恐怖し動顛している。

何故なら彼は、在家一般人の “習わし” として、病んで苦に喘ぐ “身体” というものが、その感受苦しみのが、“自分自身” だと信じ切っているからだ。

サーリプッタと沙門シッダールタは、明らかに “法(現象)の生滅観ている。その『無常の法』を覚知している。しかし在家信者アナータピンディカは、苦受の行相(苦海)に溺れるのみで、その生じ滅する真理観る事なく、身体的感受でギュッと “握りしめて” しまっている。

ここまでを明確に理解すると、その後に続くサーリプッタ尊者の、唐突とも思える説法の真意が、明確に理解できるようになる。

そしてその真意とは、在家信者には容易には説き明かされ得なかった、文字通り仏道修行の “核心部分” を指し示すものなのだ。 

サーリプッタの見舞いの言葉に対して、アナータピンディカは、

いいえ、サーリプッタ様、わたしは少しも良くならず、もう耐えられません。激しい苦しみの感じが引かず、酷くなるばかりです。激しい苦しみの感じ減ることなく、増すばかりだと言う事が、はっきり分かります。

と悲痛なまでに嘆く。

この様なアナータピンディカの苦の症状の訴えを聞いたサーリプッタは、その苦悶に同情するでもなく、唐突に不思議な説法を始めるのだった。

「資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしはに執着しないでおこう。そうすれば、わたしには眼をよりどころとする認識もなくなるであろう』と。

資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです」(同書より再掲)

として、全体では、眼耳鼻舌身意(六官)からの厭離(執着しない事)、色声香味触法(六境)からの厭離、それら六官の認識(六識)からの厭離、それら接触(六触)からの厭離、六つの感受からの厭離、を学ぶよう説き聞かせる。

これは明らかに、四念処における身受心法観察によるからの遠離を、別の言い方でまとめたものだろう。

六官が『身』であり、そこに六境が触れる事によって六つの『感受』が生じ、そして六つの識が『心』として動く。これらとして観察する事によって、そこからの遠離が実現される。

そして、話はさらに予想しない方向に進んでいく。

「資産家よ、それゆえここで、あなたはこう学ぶべきです。

『わたしは地の元素に執着しないでおこう。そうすれば、わたしには地の元素をよりどころとする認識もなくなるであろう』と。

資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです」(同上)

として、全体では、地水火風に虚空を加えた五界の元素に執着しない事を学べと教え諭すのだ。

さて、とても面白い事になって来た。この “面白さ” が第三者にも分かってもらえるのかは甚だ心もとないのだが…

すでに詳述してあるように、一見して四界分別観とは一切言及していない菩提王子経などの三つの苦行の記述の中に、四界分別観的な要素が多分に埋め込まれていた事実がある。

その三つの苦行の内の「止息の行法」の結果として現れた身体症状と同じ記述が、教アナータピンディカ経においてアナータピンディカの病態としてコピペのように挿入され、その後段には、それら病態への対処であるかのようにして、四界(五界)への執着からの厭離が勧められている。

そう、ここでは明らかに、三つの苦行の内の「止息の行法」の身体症状を介して、菩提王子経と教アナータピンディカ経という二経をつながりまたぐ形で、“苦行”‟病態” “四界の分別と厭離”相互リンクしている。

実に複雑怪奇な世界だが、そこには明確な流れが見て取れる。それは、異なった経典上の全く違った話のように見えるものを、それぞれの経典において共有されている特定部分を “コネクタ” として飛び石状につなげていくと、ある、明瞭なストーリーが立ち現れるという事だ。

おそらく、これら経典を編纂した者たちは、この苦行病態における同一の身体症状を、明確に同一と理解した上で意図的にそのような構成として仕組んだ

(多分それは、テーラワーダの中に現在でも伝わっているのではないか…)

経典は以下のように続いていく。 

の元素、の元素、の元素、の元素、虚空の元素、に執着しないでおけば、わたしにはそれら元素をよりどころとする認識もなくなるだろう。

物質(色)、感受(受)、表象(想)、意思(行)、意識(識)、に執着しないでおこう。そうすれば、わたしにはそれら色・受・想・行・識五蘊、をよりどころとする認識もなくなるだろう。

虚空の無限性を観ずる境地(空無辺処)、心作用の無限性を観ずる境地(識無辺処)、一切のものがないと観ずる境地(無所有処)、想が有るのでも想がないのでもない境地(非想非非想処)、に執着しないでおけば、わたしにはそれら無色界の四禅の境地をよりどころとする認識もなくなるだろう。

この世あの世に、共に執着しないでおけば、わたしには、この世とあの世、をよりどころとする認識もなくなるだろう。

わたしが見たもの聞いたもの思ったもの識ったもの求めたもの心で思考したもの、それらにも執着しないでおけば、わたしには、それらをよりどころとする認識もなくなるだろう。

と、資産家よ、まさにあなたはそう学ぶべきなのです」

~以上、同「教アナータピンディカ経」参照。

以上の流れには、文字通り、ブッダの教えの神髄が順序立てて分かりやすく提示されている。とても重要な所なので、繰り返しを恐れずに以下にまとめていこう。

眼耳鼻舌身意の六官、その対象である色声香味触法の六境、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識、これは前二つで十二処、三つ全てで十八界、に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

ここで、この六官六境が冒頭に来ている事は極めて重要だ。これこそが十二縁起六内外処に他ならず、『六官の防護』現場に他ならないからだ。

続けて、六官、六境、六識の働きに、それぞれ六つ接触感受というプロセスを加え、それらにも執着しなければ、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

これは『六官の防護』という観点からみた時、正に『六触』から『六官』防護されれば、『六受』もなくなる、という関係性にあたる。

地水火風(虚空)という四(五)大元素に執着しなければ、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

色・受・想・行・識五蘊に執着しなければ、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処という無色界四禅、に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

この世あの世に、共に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる。

わたしが見たもの聞いたもの思ったもの識ったもの求めたもの心で思考したもの、それらにも執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる」

これらの言葉・概念の流れを、病苦に喘ぐアナータピンディカの身体と心の働きと重ね合わせた上で、深く読み解いて欲しい。

端的に言えば、これら太字で表したところの六官六境六識六触とそれらの六つの感受地水火風という四大元素色・受・想・行・識五蘊、に執着しない事、

さらに、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処という無色界四禅、この世とあの世、見たもの、聞いたもの、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、に執着しない事によって、

わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる、つまり、苦から完全に解放された安らぎ(究極にはニッバーナ、あるいは解脱)が現成される。

ここで六官六境五蘊、そして四大元素との関係性を見てみよう。

眼耳鼻舌身五官、つまり私たちの身体における感覚器官とは、物質で構成された身体において外界に開かれた門戸であり、それ(身体における五官=五内処)はすなわち五蘊の最初の「色(物質)」にあたる。

五官の対象となる五境も同様に、身体の外の環境世界における物質的存在(五外処)であり、つまり五蘊の最初の「色(物質)」にあたる。

これら五内処五外処という対置された二つの色(物質)とは、地水火風という四大元素、の集成に過ぎない。

この二つが、つまり環境世界という色(物質)身体器官という色(物質)が触れ合う事接触によって、そこに感受、すなわち五蘊の二番目の「受」が生まれる。

の結果としてが生起し、想の結果としてが生まれ、行の結果としてが生まれるが、これら五蘊の後半三つは、の働きであり、第六の内処(意)であり、その意内処に触れて感受された(外処)が、思ったもの、識ったもの、求めたもの、心で思考したもの、に相当する。

仏典における『専門用語』というものは相互の整合性が必ずしも完全にとられていないので分かりにくいのだが、多少のブレを無視して概観すると、

六官(六内処)六境(六外処)という『色』において、+六触が生じ、+六受が生じ、+六つの(想行)識が生じる、その流れが、=五蘊(色受想行識)、という関係性の式が成立する。

次に、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処という無色界四禅、というのが出てくるが、これは無色界、つまり物質ではない世界=純粋なだけの世界、ではあるが、それゆえに “心(意)のはたらき” の範疇にあるため、それはすなわち 五蘊の内” にあると見なされる。

ここで最高位の非想非非想処とは、『想』についての言及であり、『識(意・心)』に対する言及ではない。つまり、『非識非非識処』と言っているのではない。そこには、想があるのでもなくないのでもないと知覚している『(意)識』が存在する=五蘊の内にある。

思い起こすと、以前指摘した様に沙門シッダールタが当初弟子入りしたアーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタの瞑想は無所有処、非想非非想処だったが、彼らの瞑想が何故「解脱に至れない」ものとしてシッダールタによって退けられたのか、その理由が「これら瞑想の『境地』『執着』してしまっていた」からだという文脈が透けて見えないだろうか。

そしてこれら全て、つまりこの世あの世、の全て、に対する執着を “手放して(遠離・厭離)” しまえたら、それらに依存した認識が全てなくなる、つまり苦からの完全な解放(安らぎ=ニッバーナ、あるいは解脱)、が実現される。

在家のブッダ信仰とは、聞法や供養という善業を通じて現世の幸福と来世の、つまりあの世において天界などのより善い再生を願う信仰体系だから、それは五蘊の内にある。

だから通常はこの様な教えは、在家の者たちには決して明かされない。何故なら、この教えは畢竟、在家の信仰のあり方全てを、“業障(解脱の障碍となる行=サンカーラの執着)” として退けるものだからだ(そもそも在家は解脱など望んでいない)

どうだろう、全体の流れが俯瞰的に把握できただろうか。

何しろ、上記の流れはブッダの法の神髄を現しているとは言え、後世の阿毘達磨的な分析的羅列的な “理屈” に徹した文言なので、それを解説するためにもまた理屈が必要になってしまう。

この様に理屈の上に理屈を積み重ねて、経典の上に論を論を論をと際限なく積み重ねてきたのが、いわゆる “学” の歴史だったのだろう、と慨嘆するしかない。

しかし、それら煩雑な論の枝葉を全て捨象して仏教の神髄を抽出すれば、それは、五蘊(への執着=五取蘊)からの遠離、というただの一言に収まってしまう。

五蘊への執着(五取蘊)を手放すことによって、完全な安らぎ=ニッバーナ・輪廻からの解脱、が成就される。

そしてこの五蘊(五取蘊)からの遠離”、を体現するための実践行道を一言で表すならば、それは “五官六官の防護” になる。

五蘊つまり色受想行識とは「六官(六内処)+六境(六外処)という、+六触による、+六識という想行)識」なのだから、六官六境触れる現場その接触堰き止める(ニローダ)事ができれば、五蘊滅する(ニローダ)

その堰き止めこそが、六官防護に他ならない。

ブッダによって説かれた法の神髄とは、(アビダンマ的とはいえ)全て上述のサーリプッタの言葉の中に端的に表されており、その中核部分をひと言に要約すれば、それはすなわち 五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道の神髄とは “五官六官の防護” である。

これまでも機会があるごとに主張して来たが、これが膨大なるパーリ教典(及びその解説書)を連綿と読みふけった果てに、その全てを俯瞰した上で私が出した、最終的な結論になる。

ではブッダの修行道の中核に位置付けられているはずの瞑想行法と、この “五官六官の防護” の関係は一体どのようになっているのだろうか。

学術論文などではなく、この様な個人のブログなので断言してしまうが、“五官六官の防護” こそがブッダの瞑想実践そのものである、と言い切っていいかと私は考えている。

この場合、より精密に言うならば “五官の防護” がブッダの修行道とその瞑想実践の “入り口・導入部” であり基盤(文字通りの根拠)であり、“第六の意官の防護” はその中・終盤(根に支えられた幹茎)であり、その先にゴールとしてのニッバーナ(開花した蓮華)がある、と言ったら、分かりやすいかも知れない。

そこには、明確に『段階』がある。

未だ私の中で言語化が熟し切っておらず、さらに所詮言葉による説明などは、その言語的な制約・限界の中から逃れようもないのだが、次回以降その真意について、詳述していきたいと思う。

そこでのキーワードは一切法だ。

三科(さんか)とは部派仏教における、世界を在らしめる一切法を分類した三範疇、五蘊・十二処・十八界をいう。また、六官六境六識の三範疇をいうこともある。

Wikipedia/三科より

世界(現象界)を在らしめる “すべて=一切法 からの遠離、あるいはその『滅』。それこそが『解脱』であると言われているが、その起始点になるものこそが “五官の防護” に他ならない。

何故なら、正にその “現象世界”人間意識 “接点(とば口)” こそが、この五官だからだ。

まず最初に、とば口として五官の防護が行ぜられ、その延長線上に第六の意官の防護が行ぜられ、最終的に六官全ての防護完成した暁に、一切世界の法滅しニッバーナが体現される。

それを十二縁起に当てはめれば、六内処(六官)において六外処(六境)浸入防護(堰き止めニローダされる事によって『触』滅し『受』滅し、続く愛、取、有、生、老死、その全てが滅していく。更にその『滅』波頭縁起の連鎖上行し、名色無明の全てを滅していく。

十二縁起と言う無明苦の、連鎖を破壊する焦点の急所あるいはその最前線の『現場』こそが六処(六官)なのだ。

瞑想行によって、その『六官の防護』完遂される。それこそが『縁起の連鎖の破壊』であり一切世界滅(ニローダ)であり解脱でありブッダの修行道のゴールである。

そのように私は、理解している。

次回以降、その詳細について検討していきたい。

(本投稿はYahooブログ 2015/4/18「瞑想実践の科学 32:病に苦しむ給孤独長者」と2015/4/28「瞑想実践の科学 33:五蘊への執着を手放せば」を統合の上加筆修正して移転したものです) 

 

 


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