スカとドゥッカの原風景
スカとドゥッカの原風景
私はこれまで様々な事例を挙げて、古代インドにおいていかにチャクラ(車輪)と言うものが重要な意味を持っていたかについて語ってきた。
そのチャクラ思想の起源は、インド・アーリア人の祖である、スポーク式車輪を世界で最初に開発した人々の思想・文化にまで遡り、その痕跡はアルカイムなどシンタシュタ文化の遺跡にも明確に残っていた。
紀元前1600年頃~アルカイムのチャクラ・シティ再現図。中心車軸は祭場か
今回紹介するのは、そんなチャクラ(車輪)の民であるインド・アーリア人の面目躍如とも言える事実であり、同時に、車輪と言うものが古代インドの思想においていかに決定的な意味を持っていたかを証明するものと言えるだろう。
仏教について興味があり、特に原始仏教あるいはテーラワーダ仏教やそのパーリ経典について少しでも勉強したことのある人なら、常識として知っているだろう重要な言葉がある。
それはスカ(Sukha)とドゥッカ(Dukkha)というパーリ語の単語だ。これはサンスクリット語だと若干綴りや発音が違ってくるが、ここでは煩雑になるので双方共にスカとドゥッカで統一したい。
ドゥッカは苦を意味する。それは生老病死苦の苦であり、四聖諦の苦でもあり、四苦八苦の苦であり、輪廻する生存の苦でもある。それはあらゆる意味で仏教の根底にあるキー・コンセプトであり、ブッダの教えとは、正にいかにしてこのドゥッカから解放されるか、という事に尽きるだろう。
スカはドゥッカの反対語で幸福や安楽を意味する。スッタニパータのメッタ・スッタ(慈経)にある、「一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ」などの幸福、安楽がそれであるし、「ものごとを知って実践しつつ真理を了解した人は安楽を得る」の安楽がそれである。
同じスッタニパータには、
「他の人々が『安楽(スカ)』であると称するものを、諸々の聖者は『苦悩(ドゥッカ)』であると言う。他の人々が『苦悩』であると称するものを、諸々の聖者は『安楽』であると知る。」(以上中村元訳)
という表現もある。
このスカと言う言葉は、後の大乗的文脈においては極楽(スカ・ヴァーティ)を意味するようになる。
そして実は、このスカとドゥッカと言う言葉は、語源的に見るとラタ車の車輪と密接に関わっていた。
モニエル・ウィリアムス(Monier-Williams,1819–1899)のサンスクリット語辞典によれば、スカの本来の語感は「良い軸穴を持つ(車輪)」に起源する。構造的には、Suが良い、完全な、を意味し、Khaが穴、あるいは空いたスペースを意味する。
モニエル・ウィリアムスのサンスクリット語辞典 Sukha:Having a good axle-hole
この事実にパーリ語辞典などの内容を合わせて解説すると、
「良く完全に作られた軸穴を持った車輪と言う原義が、そのような車輪のスムースかつ円満な回転を含意し、更にそのようなスムースに回転する車輪を付けたラタ車の乗り心地の良さ、その安楽さ、心地よさを意味するようになり、更にそれが安楽や幸福、そして満足を意味する一般名詞へと転じていった」
という事の様だ。
ドゥッカの場合はこの反対語で、Duhは悪しく、不完全な、という意味を持つ。
これもまた、悪しく不完全に作られた軸穴を持った車輪、と言う原義から派生して、その様な車輪のガタガタとした不具合、不完全な回転、更にその不完全な車輪を付けたラタ車の不快な、心地の悪い、苦痛に満ちた不満足な乗り心地を意味するようになり、それが転じて、苦や苦痛、そして不満足からくる苦悩を表す一般名詞へと転じていったと考えられる。
このモニエル・ウィリアムスというインド生まれのイギリス人は、オックスフォード大学の教授でサンスクリット学の泰斗であり、彼の辞書は現在に至るまでもっとも普及していると言う。おそらくて現行のほとんど全ての辞書は彼の知見の影響を大きく受けていると考えられる。現代最先端のサンスクリット学がどのような認識を持つのかは分からないが、そのソースとしての信頼性は極めて高いと言えるだろう。
以前にも書いた事だが、ラタ車が履いたスポーク式車輪と言うものは、リムとスポークとハブというパーツをそれぞれ別々に加工して、それらを精緻に組み合わせて作り上げる。
現在進行形で使われている進化した木製車輪。これは貨物の牛車用。ハブ枠と軸穴、そしてタイヤには鉄が使用されている。車軸も鉄
仕上げのペイントを施す職人。6分割されたリムに2本ずつ計12本のスポークが配されている
そこにおいて最も重要なのは、外縁リム(タイヤ)の真円性と軸穴の中心性だ。それを実現するためには数学的物理学的な知性と、精巧な加工組み立てを可能にする高度な技術が求められるだろう。
もうひとつ重要なのが、軸穴と車軸が組み合わされる、その適合状態だ。まず両者の形がどちらも真円に近く、しっくりと合わなければいけない。しかしぴったりと隙間なくフィットしすぎたら摩擦が強すぎるし、逆に隙間がありすぎたら振動の原因になる(この隙間にはグリースが塗られる)。
これらのバランスが最高レベルで達成される絶妙な調整具合というものが、職人技として追及された事だろう。
(古代における車輪のパーツがどこまで木でどこまで金属だったか、今のところ残念ながらデータがない)
そのような優れた職人によって、良く完全に組み立てられた車輪の乗り心地の良さがスカであり、劣った職人によって作られた、あるいは経年劣化や事故によって悪しく不完全になった車輪の、その乗り心地の悪さがドゥッカの原風景だったのだ。
この新たな知見によって、私たちは二つの事実を明確に認識する事ができる。
ひとつは、私がこれまでくどいほど繰り返してきた、
「古代インド人の日常的な心象風景の中で、如何にラタ車とその車輪というものが重要な存在であったか」
という点が、かなりの程度裏付けられた事だ。
もうひとつは、スカとドゥッカ、中でもドゥッカという、仏教的な文脈の中で最も重要な意味を持つ概念が、正にこの回転する車輪という事物と、密接に関わっていたと言う事実だ。
スカとドゥッカという概念は、ラタ車と深く深く関わりを持ったアーリア人の生活の中から、なかんずくその車輪の回転の中から、生まれ出たのだった。
もちろん、この様なニュアンスを、ゴータマ・シッダールタはおそらく一般常識として知っていたのだろう。彼がドゥッカと言うとき、その背後には、悪しく不完全に作られた車輪のガタガタとした不快な回転、というイメージが明確に存在していた可能性が極めて高い。
そしてこれは仏教だけにはとどまらない。この『ドゥッカ=苦』という概念とそこからの解放というパラダイムは、すべてのインド思想において普遍的に共有されているからだ。それは何よりも、苦である輪廻からの解脱、という言葉によって表されるだろう。
あらゆるインド思想は、正に回転する車輪の中から生みだされた。そう言ったら、言い過ぎだろうか。
この、苦である輪廻からの解脱、その発端である『苦(ドゥッカ)』の認識が、車輪という存在と密接に関わり合うと言う事実は、これまで本ブログで展開してきた様々な輪軸のアナロジー仮説に対しても、強力な支援材料となる。
「ドゥッカ=悪しく不完全に作られた車輪」
という認識が、仏教をはじめとしたインド思想を理解するうえで、そしてそこにおける輪軸のアナロジーを理解する上で、如何に有効なツールになるか、これから追々と明らかになっていくはずだ。
ブッダの時代と私たちの現在
仏教だけではなく、あらゆるインド教に普遍的な『苦なる輪廻からの解脱』というパラダイム。このパラダイムにおいて、そもそものスタート地点である、生存は苦であると言う『ドゥッカ(苦)』の自覚。
このインド思想において最も重要なドゥッカという概念、その語感の根幹には車輪という事物が深く関わっていた。
同時にこの苦なる『輪廻』という概念もまた、車輪という事物と深く関わっている事は、その語意によく現れているだろう。
輪廻の原語であるサンサーラとは、語義的には途切れる事のない流れを意味する様だが、すでにそこには循環というニュアンスが否応もなく含まれている。
それが一方から他方への直線的な流れならば、いつかは終わるだろう。しかしそれが終わりと始まりが連接しているループであるならば、それは無限循環を繰り返す。あたかも終わりなき車輪の回転の様に。
輪廻思想のごく初期段階において、輪廻のループと車輪の回転はサンサーラ・チャクラとして重ね合されていたのだろう。そこには無限に回転し続ける苦なる輪廻の車輪という共通認識があった。
先の考察も重ね合わせて言えば、
「ドゥッカ=悪しく不完全に作られた車輪」が永遠に回転し続ける事こそが、逃れる事の出来ない『存在苦』である。
という事になる。正に永劫苦の輪廻だ。
そこから生まれたのが、前回も紹介したチベット仏教に伝わる‘BHAVA CHAKRA’すなわち、生存の車輪=六道輪廻図だ。
チベット仏教に伝わる六道輪廻図
そこには悪魔に抱えられた巨大な車輪がスポークによって6分割され、上の半分に天界、人間界、阿修羅界が、下の半分に畜生界、餓鬼界、地獄界が描かれている。
ここに露わになる思想とは、正に現象界という輪廻の車輪が回転する事によって苦がもたらされると言う事であり、この輪廻の車輪とは、そもそもの初めからこのように『不完全に悪しく作られている』という冷徹なまでの認識に他ならない。
しかし、インド思想の原風景であるリグ・ヴェーダにおいて、そもそも回転する車輪とは、侵略するアーリア人に対して富をもたらすスカ(喜び、幸福)の車輪であったはずだ。それが何故、ドゥッカ(苦)である輪廻の車輪という、対照的なネガティヴィティの象徴にまで落ちてしまったのだろうか。
そしてもうひとつ、前回も指摘したように、この六道輪廻図を生み出した仏教思想のそもそもの原風景において、彼らは聖なる法の車輪=ダルマ・チャクラというシンボリズムを生み出している。
何故同じ仏教という文脈の中で、同じ車輪という事物が聖と俗、楽(解脱)と苦(迷い)という対立する両極を同時に表しうるのだろうか。
キリスト教において、神=キリストの救済や天国を象徴する十字架が、同時に悪魔の俗悪性や地獄を象徴するなどという事がありうるだろうか。イスラム教において、神の救済や天国を象徴するコーランが、同時に悪魔や地獄を象徴するなどという事がありうるだろうか。
仏教における車輪が、聖と俗を、楽と苦を、同時に象徴しうるというこの事実は、一体何を意味するのだろうか。
私は、このネガティヴィティを象徴する苦の車輪というイメージの創造において、アーリア人に征服されたインド先住民の思想が大きく関わっていたと考えている。
物事というのは常に相対的に考えなければならない。一枚のコインには表があると同時に裏もある。インド・アーリア人がカイバル峠を越えて亜大陸に侵入し、ダーサの民を殺戮し、征服しその富を略奪し、勝利する自らの姿をインドラ神に仮託して称賛していた正にその時、侵略され殺戮され征服され略奪されたダーサの原住民は何を思っていた事だろう。
インド・アーリア人にとって武威と神威を象徴するスカ(幸福)の車輪だったその同じ車輪は、ダーサの先住民にとっては正に恐怖と絶望と悲しみと苦悩を象徴するドゥッカの車輪ではなかっただろうか。
以前私は、アーリア人の侵入以降のインドの歴史を、西欧人による大航海時代以降の世界史と重ね合わせて見るという視点を提示した。
コロンブスによって発見された新大陸アメリカは、その後スペイン王国に巨万の富をもたらした。インカやマヤの財宝はことごとくヨーロッパ大陸に持ち去られ、新規開拓された金銀山からは、更なる富が収奪され、ヨーロッパ世界を富み肥やしていった。正にスペイン無敵艦隊、黄金時代の到来だった。
しかし、そこにおいてスペイン人にインディオと名付けられた先住民達は、同じ時同じ場を共有しながら、対極的な別世界を経験していた。それは侵略され殺戮され略奪され奴隷化され、差別され収奪され続ける暗黒時代の始まりだったのだ。
同じ事が、紀元前1500年以降のインド史においても当てはまるだろう。ダーサという名に象徴される先住民にとって、アーリア人の定住と拡散は、正に恐怖の暗黒時代の始まりだったのだ。アーリア人が誇らしげに駆り立てるラタ戦車の車輪は、先住民にとってはドゥッカ(苦悩)の車輪以外何ものでもなかっただろう。
やがて勝者アーリア人は、自らの欲望を最大限に実現するためにヴァルナの氏姓カースト制度を確立し、先住民たちは最下層のシュードラとして隷従を強いられるようになった。
シュードラの眼には、支配者であるバラモンが祀る神々はどのように映っただろうか。支配者である王族が享受する豪奢な生活はどのように映っただろうか。
一般にアーリア人のインド侵入と一言で片づけられているが、その背後にはおびただしい血と汗と涙と、凄まじいまでの社会変動が伴っていた。勝者と敗者という対置を基軸とした経験の両極性というものが、その後のインド世界に長く尾を引いた事だろう。
そこで常に脚光を浴び続けたのは、勝者の視点だった。それはアメリカという国の歴史が常に勝者である西欧移民の視点から語られ、アメリカン・ドリームという言葉で象徴されるのと同じ原理なのだ。
白人たちの夢を乗せた新世界アメリカ。その背後に黒人奴隷と先住民インディアンたちのおびただしい血と汗と涙が流された事実に目を向ける者は少ない。
首枷をはめられ市場へと売りに出される黒人奴隷
しかしコロンブスによる新大陸アメリカの発見から500年が過ぎた今、世界情勢はどうなっているだろうか。インカやマヤを攻め滅ぼして無敵艦隊を誇ったスペインは、今やユーロのお荷物と言われるまでに没落した。
アメリカへと移民を輩出し、奴隷売買を基軸とした三角貿易によって七つの海の覇者に成り上がったイギリスもまた、ほとんど全ての植民地を失い、英国病とまで言われるほどに落ちぶれ、陽の沈まない帝国と称賛されたかつての栄光を思い起こさせるものは、大英博物館くらいだろう。
最近ではユーロ離脱やスコットランドの分離独立騒動など、欧州の問題児ぶりを十全に発揮してくれている。
そしてアメリカもまた、かつてのWASPの帝国も今は昔、黒人奴隷は解放され、その後は公民権を得て、今や大統領は黒人とのハーフになった。ビジネス、科学、国家官僚など諸分野において、非ワスプが要職を占める割合は急増し、インターレーシャル・マリッジと呼ばれる異人種婚が急増しているとも言う。
そんな中、貧困に追いやられたWASPの中間層が、雪崩を打って過去の栄光を取り戻そうと足掻いているのが、現在進行形の大統領選挙におけるトランプ氏の大躍進や、繰り返される白人警官による黒人の射殺事件に他ならない。
反対に、奴隷の子孫であるアメリカ黒人の文化は、今やヒップホップなどの形で世界中の若者文化を席巻している。あの強靭な生命力に裏付けられたクールさは、『格好がいい』という事の代名詞にすらなって、世界中で憧憬され模倣されているのだ。
Flexin2アルバム・カバーより。今や時代はBlack is GREAT ! yo, yo, man !
一方で、かつて白人によって駆逐されたアメリカ先住民の文化思想は、反戦意識や地球環境問題の顕在化によって新たに持続可能な共生の思想としてクローズアップされ始めている。
同じように、大英帝国によって徹底的に収奪されたインドはマハトマ・ガンディという思想界の巨星を生み出し、その生きざまは反アパルトヘイトのマンデラ師や公民権運動のキング牧師に多大なる影響を与え、世界の人権意識を大いに高めた。
国際関係に目を転ずれば、世界の警察・ユニラテラル主義のアメリカによって先導されたグローバリズムは翳りを見せ始め、今や次期超大国候補は、かつて西欧によって発見され収奪された国々、すなわちインドや中国やブラジルなどが主流を占めるようになった。
同じような社会変動が、多かれ少なかれ古代インドにおいても起こったのではないかと私は考えている。つまり侵略した勝者であったアーリア人の衰退と、混血や先住民文化の急速な台頭だ。
ブッダの時代、アーリアの純潔を標榜するデリー周辺のバラモン文化圏は衰退の兆しを見せ、先住民や混血文化を中心にしたガンジス川中下流域の都市文化圏は著しい興隆を見せ始めていた。
そこにおいてアーリア・バラモン主導のヴェーダ祭祀は批判の矢面にさらされ、残酷な動物供儀を伴った形骸化した祈祷から人心は離れ、新たにサマナと呼ばれる求道的真理の探究者たちが人々の熱い期待と支持を集めていた。
アーリア人が無邪気に神に祈り貪った現世利益は、その宗教における至上性を、現世を超えた魂の完全なる救済、すなわち解脱へと奪われていった。
その背後には、この世界で誰かがスカ(幸福、富、栄光)を貪れば、その裏では必ず誰かがドゥッカ(苦悩、貧困、絶望)を強いられる、という先住民の魂からの叫びがなかっただろうか。
アーリア人がインドに侵入したのが紀元前1500年頃と考えて、ブッダの時代はそのおよそ1000年後にあたる。変化のスピードを考慮してこの1000年を近現代世界史の500年と重ね合わせたなら、ブッダの時代とはまさしく私たちにとっての『現在』であり、私たちの現在とは正にブッダの時代に相当しないだろうか。
この様な視点を作業仮説として採用する事によって、ブッダの生きた時代の息吹というものが、ありありとリアルに再構成されるのではないかと私は思う。それは同時に、私たちの現在が、今後どのような歴史展開を見せるだろうかという『先見』においても、重要な示唆を与えてくれるだろう。
(もちろん全てがまったく同じなどという事ではない。しかし人の心や社会がどのように移ろいゆくのかという原理の普遍において、二つの時代と歴史を重ね合わせるメリットは少なからずある)
それが、私がこの様なブログを書くに至った、ひとつの本質的な動機となっている。
やがて西暦紀元前後を境にアーリア・ヴェーダの最高神インドラはその威光を失い、先住民に由来するシヴァ・ルドラやクリシュナ・ヴィシュヌがブッダと並ぶ『至高者』として表舞台に顕在化していく。
その時、シヴァやヴィシュヌは、かつてインドラが『車軸の様に天地両界を分かち支えた』という原イメージを完全に簒奪した『万有の支柱スカンバ』として、これもアーリア・ヴェーダ(ウパニシャッド)に由来する『絶対者ブラフマン』という概念をも併せ持った至高神へと昇り詰めるのだった。
実はこのような先住民系による支配者アーリア人に対するカウンター運動、歴史的に見てその口火を切った者こそが、ゴータマ・ブッダに他ならないと私は考えている。
彼がアーリア系であったのか、あるいは先住民系であったのかは論議の分かれるところだが、雲南省からアッサム、そしてネパールにかけての山岳丘陵部から南下してきた、水田稲作農耕を営むモンゴロイド系の先住民だと考えるのが、様々なデータから見て一番妥当だろう(あるいは先住モンゴロイドとアーリア人の混血)。
彼自身がアーリア系であるか先住民系であるかはともかく、彼の思想が紛れもなく反バラモン・親先住民の側に立っていた事だけは間違いない。
それはヴェーダを奉ずるアーリア人のバラモン教、その祭式万能主義に対する澎湃たるアンチテーゼとして台頭したサマナ・ムーブメントにおいて彼が出家し成道したという史実をはじめ、パーリ経典などの文言によっても十分に裏付けられるものだ。
アーリア・ヴェーダの文化に圧倒的に支配されている中で、その精髄ともいえるバラモン教祭祀に対して徹底的にNOを突き付けたブッダの立ち位置。
この特殊古代インド的な輻輳した社会状況を理解することによって、ブッダの言葉の『真意』が浮かび上がってくる。そのように私は感じている。
今回前半で紹介した、「スカとドゥッカという言葉が、車輪やその『軸穴』と深い関わりを持っている」という事実は、より深いレベルで仏教における『輪廻観』や更には『瞑想実践』とも直接的につながりを持っている。
次回以降はその輪軸世界観と「『輪軸身体観』が交わる地平」について、突っ込んで考えていきたいと思う。
(本投稿は 脳と心とブッダの悟り: スカとドゥッカの原風景 と 脳と心とブッダの悟り: ブッダの時代と私たちの現在 を統合・修正の上移転したものです)
勝者と敗者が対峙した時:相反する『車輪の原心象』
前回はインド・アーリア人の原風景、シンタシュタ文化のチャクラ・シティについて紹介した。彼らにとって、車輪やラタ車(戦車、馬車、牛車)がどれだけ重要であったかがイメージできたと思う。
インド・アーリア人にとってのラタ車とは、海洋民族にとっての船であり、定住移動を繰り返す歴史の中で、ある意味彼らの人生そのものがラタ車の上で演じられたと言えるほど、その存在は生活に密着した欠かせないものだった。
そんなチャクラ(車輪)思想を携えて、アーリア人はインド亜大陸に侵入し、正にその車輪を履いたラタ戦車の優位性に依って先住民に圧勝した。彼らの中で、ラタ車と車輪の持つ重要性はさらに一層高まった事だろう。
ペルシャに伝わったラタ戦車。ChessRex より。古代エジプトと同じ六本スポークだ
リグ・ヴェーダには、カイバル峠を越えてインダス川流域に侵入したアーリア人が先住民と戦い、勝利し、その富を略奪していった過程が、これでもかと描写されている。その主役とも言えるのが、黄金のラタ戦車に乗り、全軍を指揮し、先住民ダスユ(ダーサ)を殺戮するインドラ神だ。
「神の力にものみな揺らぎ、ダーサのやから(アーリア人の敵、先住民)影ひそむ。異部族びとの蓄えを奪いて取りぬ、勝ち誇る、賭けの巧みをさながらに。その神の名はインドラ天」
「罪に汚れし諸人は、いつしか彼の弓の的。奢れる者は彼の敵。アリアン族に仇をなす、ダスユ(先住民、悪魔)もあわれ彼の犠牲。その神の名はインドラ天」
辻直四郎訳:リグ・ヴェーダ賛歌より
リグ・ヴェーダを通読して思うのは、これは典型的な部族神の神話だな、という事だ。私は先の投稿『宗教とは何か? 』で、
「歴史的に見て、宗教が世界平和や人類みな兄弟などとその『普遍』を標榜するようになったのは、ここ最近ほんの100年ほどの出来事に過ぎない。
宗教本来の姿とは、その信仰を共有する特定の集団、つまり氏族・部族・民族、階級、組織が持つ排他と利己という目的意識を強化し、その欲望を推進するために常に原動力として機能するものだった。」
と書いた。その正に排他と利己の衝動を擬神化した者こそがインドラなのだろう。結局のところ、アーリア人がインドラ神を崇めるという事は、侵略し、征服し、略奪する『自分』を崇めていたに過ぎない。
Nova: Building Pharaoh's Chariotより。40:40あたりから
エジプトの古代戦車も基本は六本スポーク
紀元前1500年に起きたアーリア人によるインド侵攻。そこでは、物質文明、特に武力において抜きんでていた白人種によって、武力において劣った有色人種が征服され、支配されていくという構図があった。
その結果生まれたのがヴァルナ、すなわち肌の色を基準とした支配・被支配の構造、カースト・システムだ。
おそらく、彼らアーリア人がインダス河流域で最初にコンタクトした先住民は、比較的文化程度(軍事力)の低い人々だったのだろう。それはリグ・ヴェーダの中で先住民ダスユ(ダーサ)が「肌が黒く鼻が低い」と表現されている事や、しばしば蛇族、あるいは蛇形の悪魔ヴリトラと重ね合されている事からも想像できる。そのイメージは、物質文明において優れていると言うよりも森や生態系と共生する印象が強い。
一方のアーリア人と言えば、7000㎞にも及ぶ長途の旅の間、無人の野を駆けて来た訳ではなかった。新しい土地には必ず先住民が居り、多くの場合は戦いが起こった事だろう。つまり彼らは500年にわたって様々な民族と戦い続けた歴戦の猛者だったのだ。
アーリア人と先住民の武力の格差は、武器の上でも経験の上でも歴然としていた。アーリア人は、この亜大陸最初の一歩において、未だかつてない大勝利をおさめた事だろう。
では、逆に征服された先住民の立場に立った時、この出会いはどんなものだっただろうか。間違いなく、彼らはラタ戦車なる物を初めて見た。当時インド亜大陸内部では、牛に牽かせる荷車はあったが、馬に牽かれたスポーク式車輪の高速機動戦車など青天の霹靂だったに違いない。
アーリア人の戦術とは上の画像・動画に見られるように、この高速機動戦車を駆って車上から弓矢を速射しながら波状攻撃をかけるという極めて斬新かつ画期的なもので、先住民にとっては戦国時代の日本における種子島(火縄銃)の登場以上の驚愕と混乱をもたらした事が想像できる。
この不幸な出会いは、例えてみれば、大航海時代の到来と共に中南米に押し寄せたスペイン・ポルトガル人たちが、その圧倒的な武力の優位を元に、先住民インディオを殺戮し征服し、黄金などの富を略奪していったプロセスと似ているのかも知れない。
1532年、豚飼いとして知られたフランシスコ・ピサロはわずか200名足らずの部下と共にインカ帝国を滅ぼしてしまう。銃を持ち馬に騎乗するこのスペイン人たちを見て、インカ人たちは彼らを自らの伝承にある雷帝神、あるいは「白い神」、と誤認したようだ。
当時のインカ軍は総勢80000人以上とも言われる。80000人対200人。この様な圧倒的な戦力差も、装備的心理的な優位によって簡単に覆されたのだ。
恐らく、これと同じような事が、アーリア人とダスユの先住民の間でも起こった。
ここで思い出して欲しいのが、インダスのチャクラ文字だ。あたかも6本スポークの車輪の様なシンボルが、インダス文明においてはある種宗教的な特別な意味を持っていたと考えられている。
インダスのチャクラ文字(左端)。そのデザインは六本スポークの車輪そのものだ
ダスユの原住民が直接的にインダスの末裔であったか、またこのチャクラ文字を継承していたかどうかは分からない。けれど、インダス・シールに刻まれた瞑想者の姿が獣類の王パシュパティとしてのシヴァの原型であると考えられている事、ダスユの先住民がリンガの信仰を持っていたらしいこと、またアショカ王の時代においても、インダスのものと同じ寸法比率のレンガが用いられていたことなどから考えると、インダスの文化諸要素は確実にインド先住民に継承されていた事がうかがい知れる。
最もベーシックな聖吉祥文様はインダスの印章文字とラタ車の車輪のハイブリットか
私的にここでよりドラマチックな仮説を採用すれば、ダスユにとっても、チャクラ文字は神を象徴する形であり、その同じ形の車輪を駆ってやってきたアーリア人は、彼らの眼には文字通り『鬼神』に映ったのではないか、という事なのだ。
そして、ダスユの民は完敗した。あたかも200人に満たないピサロ率いるゴロツキ集団によってインカ帝国が滅ぼされたように。そしてダスユの心の奥深くに、アーリア人に対する根源的な恐怖と畏怖の気持ちが徹底的に植えつけられた。その武威の象徴である車輪の形と共に。
鬼神の車輪を乗りこなすアーリア人には絶対に敵わない。これがヴァルナのシステムを根底で支えるダスユ達の深層心理だったのだ。
この心理は、第二次大戦終末期に2発の原爆を投下され甚大な被害をこうむった日本人のそれと重ね合わせるとよく理解できるかもしれない。あまりにも圧倒的な武力・破壊力に直面し、なすすべもなく敗れた者は、強烈にその敗北を心に刻み込む。このアメリカには絶対に敵わないと。
そして戦後の日本は、ひたすらにアメリカに追従し、その文化を模倣し、少しでもアメリカに近づくことをその国家目標として掲げてきた。アメリカは戦後の日本人にとって『神』となったのだ。
侵略者アーリア人に対して決して「ノーと言えない」ダスユ達の『信仰心』こそが、カースト制度をその根底で支える深層心理だったと考えても、そう的外れではないだろう。
何故私が、仏教とは一見関係のない古代インド史について延々と語るのか、疑問に思う向きもあるかも知れない。けれど、この絶対勝者アーリア人対絶対敗者先住民という構図こそが、その両者の間に生まれた心理的な摩擦と化学反応こそが、インド思想の深みと、その現代における普遍性の根拠になっていると考える私にとって、この点をないがしろにすることは決して出来ない。
歴史は常に勝者によって記述されるという。アーリア人のインド侵入と言う歴史的事実は、常に勝者アーリア人が残した文献のみに依存して考察されてきた。そこから始まる全てのインド学的営為においてもまた、敗者である先住民のリアリティは完全に黙殺され続けてきたという現実がある。
しかし、この敗者による勝者に対するアンチテーゼこそが、仏教をはじめとした『反バラモン』思想を生み出す原動力だったと考えた時、インド思想に対して全く新しい光が投げかけられるだろう。
侵略者アーリア人が無邪気なまでに称賛した武神の車輪。そして征服された先住民が見た『鬼神』が転ずる恐怖と破壊の車輪。立場を変えた対照的な二つの『車輪観』。
信者たちに合掌礼拝されるバールフートの法の車輪(ダルマ・チャクラ)
輪廻の車輪。相反する車輪が織りなすインド思想のダイナミズム
例えば、上の画像に見られる、ブッダによって転じられた聖法の車輪、そしてその真逆とも言える、仏教教理において根源的な意味を持つ輪廻する苦悩の車輪について考えてみよう。
およそ宗教と言われる精神・文化現象は、聖と俗、救済と苦悩と言う二項対立を前提としている。そしてその聖性を表すための、特徴的なシンボルというものが存在する。
キリスト教の場合は、もちろん十字架がそれにあたるだろう。それは神の子であり世の救い主であるキリストが、人々を原罪から救うために自らの身を捧げた象徴として、世界中のキリスト教徒によって仰がれている。
ならば神と対峙する悪魔の象徴は何だろうか。蛇とか蝙蝠とか髑髏がそれにあたるのだろうか。どちらにしても、ふつう聖なるシンボルと俗悪なるシンボルはまったく異質なもので、両者が重なり合う事はほとんどないだろう。
しかし仏教の場合は他の宗教と違って、上に見られるように聖と俗、その二つの対立した価値概念をひとつの『同じ車輪というシンボル』によって表すという事が平然と行われている。
仏教では、悟りを開いたゴータマ・ブッダがサールナートではじめて説法し弟子を得た史実を『法の車輪を転じた』と表現した。そして聖なるシンボルの筆頭として法輪を掲げている。
一方で、同じ車輪という存在を、煩悩・輪廻の車輪として、俗なる生における『苦』の循環を表すシンボルとしても採用している。
信者たちに仰がれる聖法の車輪と、悪魔に囚われた世俗生活という輪廻・苦悩の車輪。
何故、悟りの知恵によって把握された聖なる法が車輪で表されると同時に、煩悩に支配された苦しみの輪廻が ‟同じ車輪で表される” などという事が、可能なのだろうか?
このような車輪のシンボリズムが持つ明確に背反する正負・聖俗の両義性。ここにこそ、正に車輪というタームを基軸として、躍動するインド思想のダイナミズムが展開し転回していったという歴然たる史実が隠されている、と私は見る。
(本投稿は脳と心とブッダの悟り: 勝者と敗者が対峙する時、法の車輪と煩悩の車輪〜その1- 脳と心とブッダの悟りなどを統合し、修正の上移転したものです)
ラタ戦車を駆るアーリア・ヴェーダの民と『聖チャクラ(車輪)』
インド人にとっての輪軸のアナロジーがもつ重要性とその意味を、本当に実感を持って理解するためには、まずは車輪がインドにおいてどの様な存在だったかを、様々な角度から理解しなければならないだろう。
それにはまず、歴史的な理解が必要だ。この木製スポーク式車輪を開発したアーリア人の祖が、どのようなプロセスを経てインドまでたどり着いたか、そのリアルな生活実感に思いを馳せる事だ。
インド文明は、侵略者アーリア人の文化・思想と、侵略された先住民の文化・思想が融合して、今日に至る複雑・深淵な歴史と文化を生み出してきた(中世以降のイスラムの影響については、取りあえずここでは触れない)。ブッダの時代は正にその融合する化学反応の真っただ中にあった。
アーリア人にとって、自ら創造したスポーク式車輪とは、正に彼らの他民族に対する優越性を象徴するシンボルだった。彼らはこの優れた最新鋭の車輪を履いたラタ戦車を駆って、中央アジアの大平原から西ユーラシア全土に進出していった。
エジプトを席巻したラタ戦車は、ファラオの象徴となった
エジプト、ギリシャを初めとした地中海世界、そしてトルコ、ペルシャなど彼らの車輪の轍の下に屈服しなかった土地はなかった。そして彼らの分隊は遥かに東征し、やがてカイバル峠を越えてインド亜大陸にも侵入した。
その間、故郷であるコーカサス北部の大平原からカイバル峠までのおよそ7000㎞を数百年かけて定住と移動を繰り返し続けた彼らにとって、旅は生活そのものであり、旅の足となるラタ(戦車、馬車、牛車)は何よりも日常に密着した相棒だっただろう。
コーカサス北部から中央アジア周辺に、彼らの旅路の痕跡とも言える遺跡が多数発見されている。それは彼らがチャクラの民であった事をまざまざと物語っていた。それがシンタシュタ-ペトロヴカ文化だ。
赤い部分がシンタシュタ文化の中心エリアで、ピンクがスポーク式車輪の発見エリア。オレンジは後継文化の広がりで、緑のBMACエリアを通じてインドに繋がっている。
シンタシュタ-ペトロヴカ文化とはロシア南東部チェリャビンスク州にある村の名前に由来し、アーリア系の部族集団によってBC1800年前後の数百年にわたって発展継承された文化コンプレックスだ。
それが直接インド・アーリア人の祖先であったかは論議の的だが、インド・アーリア人と同じ母集団から派生し、文化的な起源を共有する事は間違いない。
シンタシュタ文化を特徴づけるもの、それがチャリオット葬と呼ばれる独特な埋葬法だ。これはラタ戦車と馬をその主と共に埋葬する方法で、世界最古のスポーク式車輪をはいたラタ戦車がここで発見された。
これはヴェーダの時代にインド・アーリア人によって盛んに行われたアシュヴァ・メーダ(馬祀祭)の祖形だと考えられている。
そしてこのシンタシュタ・コンプレックスの中に、本ブログの文脈上特筆すべき遺跡が存在している。それが1987年にチェリャビンスク市の調査団によって発掘されたアルカイムの城塞都市だ。
アルカイム遺跡の空撮。Арҡайым — Башҡорт Википедияһыより
環状城塞都市の立体モデル。Arkaim – Russian Stonehenge | MYSTICAL RUSSIAより
城塞都市の設計プラン。二重円環構造はマンダラ・シティとも命名された。Arkaim -- The Russian Stonehenge « National Vanguardより
これは直径100~200mほどの堀を巡らした環状の土塁の上に、木製の柱や梁で建てられた城塞都市で、写真や図形を見ると一目瞭然なのだが、明らかに車輪のデザインを彷彿とさせる形をしている。
チャリオット葬と合わせて考えれば、まず間違いなく、これはチャクラ・シティ(車輪都市)だったと私は考えている。おそらく天の車輪と対置する大地の車輪、そしてそこに住む人間の生活をこのような車輪の形を模した都市によって表したのだろう。
アルカイムの遺跡は、研究者によってインド・アーリア人による最古の都市遺跡と認定されている。
シンタシュタ-アルカイムの城塞都市群スケッチ。明らかに同一プランで設計され、車輪との関連が推定できる。ロシア語の研究サイトより
彼らは太陽を中心とした天体祭祀を行っていたという報告もあり、この環状都市の形は何らかの意味で天体観測と関係していたかもしれない。またこの祭祀に関しては、リグ・ヴェーダにおける太陽神群との関連も指摘できる。
ひょっとしたらシンタシュタ文化の城塞都市群は、チャクラ・シティであると同時に、太陽神を崇めるスーリヤ・シティだったのかも知れない。
(この都市が中心広場を核とした祭場都市であった可能性については次回以降に詳述)
日輪(太陽・スーリヤ)と車輪は重ね合された。Sun in the sky #1756971より
リグ・ヴェーダには多くの太陽神が登場するが、アーリア人の東征との関わりでは、曙光(朝焼け)の神ウシャスが注目される。
『繰り返したち返る光明は、暗黒より離れ、東方に現われたり~輝かしき天の娘ウシャスらは、人間に道を開かんことを』
『ウシャスは常に輝きぬ、今またさらに輝かん、車両を躍動せしむる女神は』(辻直四郎訳)リグ・ヴェーダより
彼らにとっての民族的アイデンティティはラタ戦車であり、他民族に対する優位性の源であるスポーク式車輪は、その象徴であった。そして、怒涛のように戦場を駆け巡る戦車の威力、その回転する車輪のデザインと力強さが、天空を巡り輝く太陽のイメージと重なり合い、ここにラタ戦車で天空を駆け巡る太陽神のイメージが出来上がったのだろう。
そして、太陽の生まれいずる場所、力と豊かさの源である東天に対する憧れが、彼らをして更なる東征へと駆り立てていったのかも知れない。
ラタ戦車を駆ってカイバル峠を突破したアーリア人の軍団は、インド亜大陸においても先住民をあっという間に征服した。正に向かう所敵なしという自らの偉大なる武威を神の威光と重ね合わせて、彼らはリグ・ヴェーダにおいてさらなる神々の讃歌を歌い上げた。
ウシャス以外にも主神格のインドラをはじめ、太陽神ヴィシュヌ、アディティヤ、スーリヤなど実に多くの神々が、この讃歌の中でラタ戦車に乗って天空を駆け巡る姿で描かれている。
「七頭の黄金の駒は、汝を車(ラタ)に乗せて運ぶ、スーリアよ、炎を髪となす汝を、遠く見はるかす神よ」
リグ・ヴェーダ、スーリアの歌、辻直四郎訳
太陽神スーリヤは7頭立てのラタ戦車に乗る
これら武威と神威を象徴する形こそが、木製スポーク式のチャクラ(車輪)だった事はすでに触れた。それと対置する形でインダス先住民の聖チャクラ文字が存在したのだが、この時点ではそれはまだ顕在化していない。
コナーラクのスーリヤ(太陽神)寺院。その巨大な車輪は神威を表すシンボルだ
次に重要なのは、アーリア・ヴェーダの民にとってこのような歴史背景を持つ車輪という文明の利器が、その後の古代インドの社会生活の中でどのような意味を持っていったか、と言う視点だ。
アーリア人の聖なる車輪は、同時に世俗的日常生活において、文明社会の繁栄を象徴する重要なシンボルになっていった。これは特に、彼らがインドに定着し、社会経済が発展し、クシャトリアを中心にした都市文明が花開いていたシッダールタの時代には顕著だった事だろう。
ラタ戦車はやがて戦場の最前線からは後退し、紀元前4世紀頃には象部隊に、その後は騎兵などにとって代わられるが、それは常に、クシャトリアつまり戦士階級の武勇と王権の繁栄を象徴するシンボルであり続けた。
ラタ馬車に乗って行幸するアショカ大王。サンチーのトラナより
一方、商工業者や農民にとって、輸送手段としての牛車は日常必需品であった。農村の道を、そして都市をつなぐ街道をこれらの車輪が行き来する姿は、正に社会経済の繁栄を象徴する風景だった(それは現代においても基本的に変わらない)。
躍動する車輪の姿は、古代インドの人々にとって、聖俗共にあらゆる階級において欠かせないものであり、文字通り生活の中心にあって常に回転しているものだったのだ。
古代のものとほとんど変わらない車輪が、今もインドでは生きている。車輪は表に立って華々しく回転するが、車軸は静かに目立たない
最後に重要なのが、車輪についての構造的・機能的な理解だ。すでに指摘したように、紀元前2000年頃アーリア人によって創造されたというこの木製スポーク式車輪は、それまでの板を張り合わせて円盤状に作った鈍重な車輪とは根本的に違っていた。
Construction of chariots begins for Puri Ratha Yatraより。ラタ・ジャットラ祭の山車の車輪を作る、現代の工巧神たち。精緻に加工され華々しく展開する車輪は単なる丸棒に過ぎない車軸とは対照的だ
それは、高度な加工技術と数学的な知性を前提に、ハブ、スポーク、リム(タイヤ)というパーツをそれぞれバラバラに作り上げ、それらを精緻に組み合わせることによってはじめてその姿を現す。
そこにおいてもっとも大切なのは、車輪が持つ真円の完成度と中心車軸の揺るぎなき中心性だ。車輪の真円性が歪んでいたり車軸の中心性がずれていたら、車輪の回転はボコボコに揺らぎ、その乗り心地は最悪になる。
リグ・ヴェーダには、この車輪の製造に関わるトゥヴァシュトリ(工巧神)に対する言及も多く見られる事から、彼らにとって車輪の完成度が重要な意味を持っていた事がうかがい知れる。
そしてこの真円性と中心性を正にその中心において支えるのが、一本の車軸に他ならない。それは車台の下に隠れ、そこに固定されてまったく動かず、車輪の華々しい動きと形に比べ、とてつもなく地味でシンプルな存在だ。
車軸は一本のプレーンな丸棒(丸太)に過ぎない。Rath-Yatra-18 - Rath Yatra Live from puriより
しかし、この車軸がなければ、車輪は決してその働きを全うしない。車台を引く馬がいて、車台があり、車輪があったとしても、車軸がなければそれらは全く何の意味も持たないのだ。
一本の丸棒に過ぎない車軸こそが、車輪の中心にあってそれを回転せしめる主体である。この事実を、私たちは深く深く、理解すべきだろう。何故ならそれはインド思想の中心命題とも言える『ブラフマン』とも密接につながり、ひいては『仏道修行』とも深く関連してくるからだ。
ゴータマ・シッダールタをはじめ古代インド人は、車輪という機構における真円性や中心性の大切さ、そして車軸という一見目立たないパーツの重要性を深くわきまえていた。それは、車輪を実際に作る職人以外の一般人にとっても、文字通り一般常識だった。
何故なら、これらのバランスが崩れた車に乗れば、それは即座に乗り心地を損ない、積み荷や乗員に影響し、ひいては農商工者の経済活動に、そして戦士の戦いに直接ダメージを与えるからだ。
この点に関しては、古代エジプトにおいて、ナイル川を上下する帆船が人々にとっていかに重要な意味を持っていたかを想起すれば、理解できるだろう。
この帆船は、やがて太陽の船として、死後のファラオの魂を神々の国へと運ぶ大いなる神船として崇められるようになる。正に古代インドの人々にとって、ラタ戦車は太陽(神)の車駕であり、車輪(チャクラ)はそのシンボルだったのだ。
古代エジプトが太陽の王国なら、古代インドはさしずめ神聖チャクラ帝国だったと言っても言い過ぎではない。
この様な背景をリアルにイメージした上で、インドの思想について、私たちは思いを馳せなければならない。それをスルーしてしまえば、インド的な輪軸のアナロジーの真意を理解する事は決して出来ないし、ひいては、仏教そのものに対する理解も、表面的なものに終わってしまうだろう。
インド文明における、チャクラ(車輪&車軸)思想の重要性。それはおそらく、仏教に携わる学者や僧侶、そして様々なインド学領域の研究者たちの間でも、ほとんど認識されてはいない事実だ。
その状況を覆す。それが、ゴータマ・ブッダが生きた心象世界とその修行実践について理解を深める第一歩になる。そう私は考えている。
(本投稿は、脳と心とブッダの悟り: 神聖チャクラ帝国 と 脳と心とブッダの悟り: 最古の都市、チャクラ・シティの民 を加筆修正の上、移転したものです)