仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ラタ戦車を駆るアーリア・ヴェーダの民と『聖チャクラ(車輪)』

インド人にとっての輪軸のアナロジーがもつ重要性とその意味を、本当に実感を持って理解するためには、まずは車輪がインドにおいてどの様な存在だったかを、様々な角度から理解しなければならないだろう。

それにはまず、歴史的な理解が必要だ。この木製スポーク式車輪を開発したアーリア人の祖が、どのようなプロセスを経てインドまでたどり着いたか、そのリアルな生活実感に思いを馳せる事だ。

インド文明は、侵略者アーリア人の文化・思想と、侵略された先住民の文化・思想が融合して、今日に至る複雑・深淵な歴史と文化を生み出してきた(中世以降のイスラムの影響については、取りあえずここでは触れない)。ブッダの時代は正にその融合する化学反応の真っただ中にあった。

アーリア人にとって、自ら創造したスポーク式車輪とは、正に彼らの他民族に対する優越性を象徴するシンボルだった。彼らはこの優れた最新鋭の車輪を履いたラタ戦車を駆って、中央アジアの大平原から西ユーラシア全土に進出していった。

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エジプトを席巻したラタ戦車は、ファラオの象徴となった

エジプト、ギリシャを初めとした地中海世界、そしてトルコ、ペルシャなど彼らの車輪の轍の下に屈服しなかった土地はなかった。そして彼らの分隊は遥かに東征し、やがてカイバル峠を越えてインド亜大陸にも侵入した。

その間、故郷であるコーカサス北部の大平原からカイバル峠までのおよそ7000㎞を数百年かけて定住と移動を繰り返し続けた彼らにとって、旅は生活そのものであり、旅の足となるラタ(戦車、馬車、牛車)は何よりも日常に密着した相棒だっただろう。

コーカサス北部から中央アジア周辺に、彼らの旅路の痕跡とも言える遺跡が多数発見されている。それは彼らがチャクラの民であった事をまざまざと物語っていた。それがシンタシュタ-ペトロヴカ文化だ。

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赤い部分がシンタシュタ文化の中心エリアで、ピンクがスポーク式車輪の発見エリア。オレンジは後継文化の広がりで、緑のBMACエリアを通じてインドに繋がっている。

シンタシュタ-ペトロヴカ文化とはロシア南東部チェリャビンスク州にある村の名前に由来し、アーリア系の部族集団によってBC1800年前後の数百年にわたって発展継承された文化コンプレックスだ。

それが直接インド・アーリア人の祖先であったかは論議の的だが、インド・アーリア人と同じ母集団から派生し、文化的な起源を共有する事は間違いない。

シンタシュタ文化を特徴づけるもの、それがチャリオット葬と呼ばれる独特な埋葬法だ。これはラタ戦車と馬をその主と共に埋葬する方法で、世界最古のスポーク式車輪をはいたラタ戦車がここで発見された。

これはヴェーダの時代にインド・アーリア人によって盛んに行われたアシュヴァ・メーダ(馬祀祭)の祖形だと考えられている。

そしてこのシンタシュタ・コンプレックスの中に、本ブログの文脈上特筆すべき遺跡が存在している。それが1987年にチェリャビンスク市の調査団によって発掘されたアルカイムの城塞都市だ。

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アルカイム遺跡の空撮。Арҡайым — Башҡорт Википедияһыより

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環状城塞都市の立体モデル。Arkaim – Russian Stonehenge | MYSTICAL RUSSIAより

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城塞都市の設計プラン。二重円環構造はマンダラ・シティとも命名された。Arkaim -- The Russian Stonehenge « National Vanguardより

これは直径100~200mほどの堀を巡らした環状の土塁の上に、木製の柱や梁で建てられた城塞都市で、写真や図形を見ると一目瞭然なのだが、明らかに車輪のデザインを彷彿とさせる形をしている。

チャリオット葬と合わせて考えれば、まず間違いなく、これはチャクラ・シティ(車輪都市)だったと私は考えている。おそらく天の車輪と対置する大地の車輪、そしてそこに住む人間の生活をこのような車輪の形を模した都市によって表したのだろう。

アルカイムの遺跡は、研究者によってインド・アーリア人による最古の都市遺跡と認定されている。

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シンタシュタ-アルカイムの城塞都市群スケッチ。明らかに同一プランで設計され、車輪との関連が推定できる。ロシア語の研究サイトより

彼らは太陽を中心とした天体祭祀を行っていたという報告もあり、この環状都市の形は何らかの意味で天体観測と関係していたかもしれない。またこの祭祀に関しては、リグ・ヴェーダにおける太陽神群との関連も指摘できる。

ひょっとしたらシンタシュタ文化の城塞都市群は、チャクラ・シティであると同時に、太陽神を崇めるスーリヤ・シティだったのかも知れない。

(この都市が中心広場を核とした祭場都市であった可能性については次回以降に詳述)

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日輪(太陽・スーリヤ)と車輪は重ね合された。Sun in the sky #1756971より

リグ・ヴェーダには多くの太陽神が登場するが、アーリア人の東征との関わりでは、曙光(朝焼け)の神ウシャスが注目される。

『繰り返したち返る光明は、暗黒より離れ、東方に現われたり~輝かしき天の娘ウシャスらは、人間に道を開かんことを

『ウシャスは常に輝きぬ、今またさらに輝かん、車両を躍動せしむる女神は』(辻直四郎訳)リグ・ヴェーダより

彼らにとっての民族的アイデンティティはラタ戦車であり、他民族に対する優位性の源であるスポーク式車輪は、その象徴であった。そして、怒涛のように戦場を駆け巡る戦車の威力、その回転する車輪のデザインと力強さが、天空を巡り輝く太陽のイメージと重なり合い、ここにラタ戦車で天空を駆け巡る太陽神のイメージが出来上がったのだろう。

そして、太陽の生まれいずる場所、力と豊かさの源である東天に対する憧れが、彼らをして更なる東征へと駆り立てていったのかも知れない。

ラタ戦車を駆ってカイバル峠を突破したアーリア人の軍団は、インド亜大陸においても先住民をあっという間に征服した。正に向かう所敵なしという自らの偉大なる武威を神の威光と重ね合わせて、彼らはリグ・ヴェーダにおいてさらなる神々の讃歌を歌い上げた。

ウシャス以外にも主神格のインドラをはじめ、太陽神ヴィシュヌ、アディティヤ、スーリヤなど実に多くの神々が、この讃歌の中でラタ戦車に乗って天空を駆け巡る姿で描かれている。

七頭の黄金の駒は、汝を車(ラタ)に乗せて運ぶ、スーリアよ、炎を髪となす汝を、遠く見はるかす神よ」

リグ・ヴェーダ、スーリアの歌、辻直四郎訳 

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太陽神スーリヤは7頭立てのラタ戦車に乗る

これら武威と神威を象徴する形こそが、木製スポーク式のチャクラ(車輪)だった事はすでに触れた。それと対置する形でインダス先住民の聖チャクラ文字が存在したのだが、この時点ではそれはまだ顕在化していない。

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コナーラクのスーリヤ(太陽神)寺院。その巨大な車輪は神威を表すシンボルだ

次に重要なのは、アーリア・ヴェーダの民にとってこのような歴史背景を持つ車輪という文明の利器が、その後の古代インドの社会生活の中でどのような意味を持っていったか、と言う視点だ。

アーリア人の聖なる車輪は、同時に世俗的日常生活において、文明社会の繁栄を象徴する重要なシンボルになっていった。これは特に、彼らがインドに定着し、社会経済が発展し、クシャトリアを中心にした都市文明が花開いていたシッダールタの時代には顕著だった事だろう。

ラタ戦車はやがて戦場の最前線からは後退し、紀元前4世紀頃には象部隊に、その後は騎兵などにとって代わられるが、それは常に、クシャトリアつまり戦士階級の武勇と王権の繁栄を象徴するシンボルであり続けた。

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ラタ馬車に乗って行幸するアショカ大王。サンチーのトラナより

一方、商工業者や農民にとって、輸送手段としての牛車は日常必需品であった。農村の道を、そして都市をつなぐ街道をこれらの車輪が行き来する姿は、正に社会経済の繁栄を象徴する風景だった(それは現代においても基本的に変わらない)。

躍動する車輪の姿は、古代インドの人々にとって、聖俗共にあらゆる階級において欠かせないものであり、文字通り生活の中心にあって常に回転しているものだったのだ。

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古代のものとほとんど変わらない車輪が、今もインドでは生きている。車輪は表に立って華々しく回転するが、車軸は静かに目立たない

最後に重要なのが、車輪についての構造的・機能的な理解だ。すでに指摘したように、紀元前2000年頃アーリア人によって創造されたというこの木製スポーク式車輪は、それまでの板を張り合わせて円盤状に作った鈍重な車輪とは根本的に違っていた。

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Construction of chariots begins for Puri Ratha Yatraより。ラタ・ジャットラ祭の山車の車輪を作る、現代の工巧神たち。精緻に加工され華々しく展開する車輪は単なる丸棒に過ぎない車軸とは対照的だ

それは、高度な加工技術と数学的な知性を前提に、ハブ、スポーク、リム(タイヤ)というパーツをそれぞれバラバラに作り上げ、それらを精緻に組み合わせることによってはじめてその姿を現す。

そこにおいてもっとも大切なのは、車輪が持つ真円の完成度と中心車軸の揺るぎなき中心性だ。車輪の真円性が歪んでいたり車軸の中心性がずれていたら、車輪の回転はボコボコに揺らぎ、その乗り心地は最悪になる。

リグ・ヴェーダには、この車輪の製造に関わるトゥヴァシュトリ(工巧神)に対する言及も多く見られる事から、彼らにとって車輪の完成度が重要な意味を持っていた事がうかがい知れる。

そしてこの真円性と中心性を正にその中心において支えるのが、一本の車軸に他ならない。それは車台の下に隠れ、そこに固定されてまったく動かず、車輪の華々しい動きと形に比べ、とてつもなく地味でシンプルな存在だ。

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車軸は一本のプレーンな丸棒(丸太)に過ぎない。Rath-Yatra-18 - Rath Yatra Live from puriより

しかし、この車軸がなければ、車輪は決してその働きを全うしない。車台を引く馬がいて、車台があり、車輪があったとしても、車軸がなければそれらは全く何の意味も持たないのだ。

一本の丸棒に過ぎない車軸こそが、車輪の中心にあってそれを回転せしめる主体である。この事実を、私たちは深く深く、理解すべきだろう。何故ならそれはインド思想の中心命題とも言える『ブラフマン』とも密接につながり、ひいては『仏道修行』とも深く関連してくるからだ。

ゴータマ・シッダールタをはじめ古代インド人は、車輪という機構における真円性や中心性の大切さ、そして車軸という一見目立たないパーツの重要性を深くわきまえていた。それは、車輪を実際に作る職人以外の一般人にとっても、文字通り一般常識だった。

何故なら、これらのバランスが崩れた車に乗れば、それは即座に乗り心地を損ない、積み荷や乗員に影響し、ひいては農商工者の経済活動に、そして戦士の戦いに直接ダメージを与えるからだ。

この点に関しては、古代エジプトにおいて、ナイル川を上下する帆船が人々にとっていかに重要な意味を持っていたかを想起すれば、理解できるだろう。

この帆船は、やがて太陽の船として、死後のファラオの魂を神々の国へと運ぶ大いなる神船として崇められるようになる。正に古代インドの人々にとって、ラタ戦車は太陽(神)の車駕であり、車輪(チャクラ)はそのシンボルだったのだ。

古代エジプトが太陽の王国なら、古代インドはさしずめ神聖チャクラ帝国だったと言っても言い過ぎではない。

この様な背景をリアルにイメージした上で、インドの思想について、私たちは思いを馳せなければならない。それをスルーしてしまえば、インド的な輪軸のアナロジーの真意を理解する事は決して出来ないし、ひいては、仏教そのものに対する理解も、表面的なものに終わってしまうだろう。

インド文明における、チャクラ(車輪&車軸)思想の重要性。それはおそらく、仏教に携わる学者や僧侶、そして様々なインド学領域の研究者たちの間でも、ほとんど認識されてはいない事実だ。

その状況を覆す。それが、ゴータマ・ブッダが生きた心象世界とその修行実践について理解を深める第一歩になる。そう私は考えている。

(本投稿は、脳と心とブッダの悟り: 神聖チャクラ帝国 と 脳と心とブッダの悟り: 最古の都市、チャクラ・シティの民 を加筆修正の上、移転したものです)