仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

牛を鼻で捕まえ、額を打つ:瞑想実践の科学7

前回までに、セーラ・バラモンとの対話でブッダ「舌をもって耳と鼻と額を舐めた」という、広長舌相のエピソードについて、様々な角度から考えてみた。

ブッダが舌で舐めたと言う耳と鼻と額が、インド女性がピアスとビンディを付ける部位と重なると言う視点。

仏の32相をはじめ、パーリ経典ではブッダ獅子王・象王・牛王など、偉大なる動物に喩える事が多いという視点から、インド武術やヨーガとの動物つながりの発見。

そして、ヨーガの獅子のポーズ(シンハ・アサナ)やケチャリ・ムドラなど、瞑想実践の準備段階と言えるハタ・ヨーガとの関連、などなど。

そうこう考える内に、ある時ふと私は思いついた。

「そう言えば、牛も鼻にピアスをしているな」と。

f:id:Parashraama:20200103181703j:plain

Amazon.comより

上写真は鼻中隔に穴を空けて鼻輪を通された牛だが、正に金属製の鼻ピアスだ。

それはもちろん、正確にはピアスではなく鼻輪(鼻かん)と呼ぶべきものなのだが、基本的な営為はインド女性が鼻に付けるピアスと変わりない。

人間の場合は片側の鼻翼に穴を空けてそこに金属のピアスを通す事がほとんどだが、牛の場合は左右の鼻腔を仕切る鼻中隔に穴を空けて金属製の鼻輪を通す。

牛の場合は更にその輪っかに縄を通して、その縄を引いて牛を飼いならす訳だ。しかし、何故、わざわざ鼻でつながなければならないのだろうか

牛をつなぐだけなら、犬の首輪のように首に縄をかければ済む話だろう。抵抗して首が締まれば、苦しくて抵抗を諦めるだろうし。

人間の鼻を触ってみると分かるが、鼻中隔というものは薄い軟骨っぽい肉の壁でできている。もちろん牛の場合はもう少し頑丈なのだろうが、わざわざこんな所に鼻輪を通して、抵抗する牛を引っ張ったりしたら、鼻中隔が千切れたり、あるいは、激痛が走ったりはしないのだろうか。

そうか、その激痛が、逆に牛を飼いならすになるのかもしれない。えげつない話だが、わざわざ脆弱で感じやすい鼻中隔に鼻輪を通してそこに縄を繋ぐ事によって、少しでも牛が逆らって、鼻中隔に負荷がかかれば、鼻に激痛が走って牛は抵抗の意思をくじかれてしまうのかも知れない。

人間と牛を比べれば、圧倒的に牛の方が力が強い。弱者である人間がそのか弱い力で強力な牛を制御する為には、弱点、すなわち急所を抑える必要がある。

これはインド武術における “マルマンの急所” という概念と基本的に変わらない。

古代インドの身体観では、全身に64のマルマンと呼ばれる急所があって、そこを攻撃されると身体が麻痺したり、意識を失ったり、最悪、死に至ったりする、と考えられていた。

このマルマンを漢訳したのが「末魔」で、俗に言う「断末魔」とはマルマンの急所を断つ事によって起こる死に至る苦しみを意味する。

「牛の “マルマン” は鼻にあるのかも知れない」

興味を持った私は、ネット上で牛の調教方法について検索して行った。すると、とても面白い事実が、明らかになってきたのだ。

「子牛の鼻通し」というサイト(閉鎖)によれば、子牛はある程度大きくなると「鼻ぐり」と呼ばれる鼻輪を通されるという。

その時に、施術者はまず最初に牛の鼻の穴に手をかけてそこを強く握りつかむ。そうするとどんなに元気な子牛も、憑きものが落ちたようにおとなしくなる。

そうして、片手で鼻をつかみながら、もう一方の手で堅木を削った杭針を使って、一気に鼻中隔に穴を空ける。その瞬間、子牛は虚脱したようにあるいは腰が抜けたようになるらしい。

穴を空けるポイントは、かなり厳密に決まっている。ポイントをずれると、いくら鼻輪に通した縄を引いても牛は言う事を聞かない。つまり厳密なツボ(マルマン)をはずしているのだろう。

逆に言うと、正確にポイントを得ていれば、このマルマンは、強力に牛の心を支配する「急所」である、という事だ。

鼻の穴が牛の急所である、という事は、小千谷闘牛会さん(リンク消失)のサイトを読むと、より臨場感をもって理解できる。

これは日本の伝統的な闘牛の世界の話だが、二頭の牛が角付き合って相撲をとって、力が拮抗してこう着すると、これ以上やらせるとどちらかが怪我をしたり不測の事態が考えられる、という判断がなされて、牛を “引き分ける” 作業に入る。

あらゆる勝負事において同点の事を日本語で “引き分け” と言うが、その語源は、闘牛のこの “引き分け” 作業にあるのかも知れない。

とにかくお互いに興奮してなんとか相手を倒そうと全身に力をみなぎらせている巨大な二頭の雄牛を、人間のか弱い力だけで引き離す訳だから、ある秘訣を必要とするのだ。

その秘訣こそが、「牛を鼻でつかまえる」、という技術らしい。

この部分は、大変臨場感に溢れているので、上記小千谷闘牛会さんから引用しよう。

小千谷闘牛会のリンクは消失したが、同様の記述がWaseda.jp PDF にも見られる)

~さて、勢子長が片手を挙げるのを合図として、いよいよ「引分」に入る。「引分」の所作では勢子の一連の澱み無い共同作業が重要である。

お互いの「綱かけ」同士が「足掛け綱」を掲げて綱かけの合図をし、対戦中の両牛に後から近づき、その後足に同時に綱かけをする。

次いで、綱かけが伸ばした足取り綱を多くの「綱ひき」で引っ張り、牛の動きを止める。そして、牛の動きが止められている間に、数人の勢子が牛の頭部に殺到し、牛のアゴの下から足を入れて頭部を上に向け、

その間に「鼻とり」が牛の鼻の穴に指を差し込んで牛の顔を上げる。

鼻の穴は牛の急所であるため、ここを捉まれるとさっきまでの興奮が嘘のようにおとなしくなり、あとは素直に人間のなすがままとなる。

両牛の鼻が取られた時点で取組終了である~

上小千谷闘牛会より引用

これは実際の映像を見ると分かり易いのでYoutube動画を見てみよう。

上の動画中、5分15秒くらいから「引き分け」作業に入り、5分28秒位に鼻をとり終えて牛が離される様子が見て取れる。その後「鼻とり」は鼻をつかみ続け、最後に鼻中隔にロープを通す姿が確認できるだろう。

牛に対して、“鼻のマルマン” 魔術的な効力を発揮するのだ。

様々なサイトを調べていくと、やはり牛にとって鼻の穴の内部を強くつかまれたり引っ張られたりする事は、強烈な痛みを伴って、それでイヤイヤ言う事を聞く、と理解されている様だ。

しかし、牛がおとなしくなる理由は、「痛み」がすべてではない。そう私は感じている。

何にしても、闘争状態で興奮のピークにある巨大な闘牛(最大で1トン近く!)を、瞬殺でおとなしくさせてしまうほどだから、この鼻の穴の内部をつかむ、あるいは刺激する、という事が、いかに牛の急所を突いているかが、よく分かると思う。

そうこう思索しながら、並行して春秋社版パーリ経典シリーズを読みふけっていた私は、やがて唐突にある一節に出会った。それは、正に今回説明した “牛の鼻をとる” という喩え話だった。

牛には、その行動を制御する為の急所が存在する。それは鼻の穴をつかむことである。そして牛を正にその鼻の急所で捕まえる譬えが、パーリ経典に存在したのだ。

そのエピソードは、人間の六官の欲望を制御する事の重要性を説き聞かすもので、貪欲で放縦な牛が穀物畑を食い荒らすさまを六官の欲望に溺れる世俗の人々に見立て、穀物畑の番人によって制御された牛の姿を、六感の欲望を制御する修行者に重ね合わせて説いている。

とても象徴的かつ重要な部分なので、長くなるが、以下にその全体を、一部要約して引用したい。

比丘たちよ、いかなる比丘や比丘尼であれ、耳鼻舌身意)によって識別される声香味触法)に対して、心に欲・貪り・嫌悪・迷妄・憤怒が生じたならば、心においてそれらを抑制すべきである。

「この道は恐ろしく恐怖に満ちており、棘があり、薮に覆われており、外れた道であり、悪路であり、進むのが困難である。この道は、不善人が頼みとするものであり、この道は善人が頼みとするものではない。それはおまえにふさわしくない。」と考えよ。

そうして、眼(耳鼻舌身意)によって識別される色(声香味触法)を、心において抑制すべきである。

比丘たちよ、穀物畑がみのったが、穀物畑の番人が怠惰であったとしよう。そして穀物を食べる牛がその穀物畑へと入って、好きなだけ食べて酔いしれるとしよう。

比丘たちよ、まさにそのように、学びのない世俗の人は、六つの感覚器官とそれらの識別対象と識別作用との接触領域を抑制せずに、五つの欲望の対象に好きなだけ酔いしれる。

比丘たちよ、穀物畑がみのり、穀物畑の番人が怠惰でなかったとしよう。すると穀物を食べる牛がその穀物畑へと入っても、穀物畑の番人はその牛をでしっかりと捕らえるであろう。

鼻でしっかりと捕らえたのち、角の間のところで十分に押さえ込み、角の間のところで十分に押さえ込んだのち、棒で激しく打ち、棒で激しく打ったのち、解放するであろう。

比丘たちよ、また再び、またみたび、穀物を食べる牛が穀物畑へと入っても、穀物畑の番人はその牛を鼻でしっかりと捕らえるであろう。

鼻でしっかりと捕らえたのち、角の間のところで十分に押さえ込み、角の間のところで十分に押さえ込んだのち、棒で激しく打ち、棒で激しく打ったのち、解放するであろう。

比丘たちよ、このようにして、その穀物を食べる牛は、村や森に入り、多くのところにとどまり、多くのところに伏すにしても、その穀物畑にふたたび入る事はないはずである。

牛がまさにその、かつての棒の感覚を思い出すからである。

比丘たちよ、まさにそのように、六つの感覚器官とそれらの識別対象と認識作用との接触領域に関して、比丘の心が鍛錬され、正しく鍛錬されている時、その心は内に定まり、静まり、集中して、統一されているのである。

~以上、春秋社 原始仏典Ⅱ 第4巻 六処についての集成 第4部第4章第9節 :琵琶、より引用

このパーリ経典文を読むと、様々な事実が明らかになる。

まず第一に、古代インドにおいても、現代インドにおけるように、放し飼いの牛が、町や村や畑周りを、自由に徘徊して、食事をしていただろうと言う事だ。

そのような自由徘徊牛が、おそらくは簡易に柵などを張った畑に、それでも浸入して盗み食いをしてしまう。それらを監視する為に、特に経済作物として重要な穀物畑周りには、その収穫期に監視人を置いていた。

もちろんその監視人は、牛の飼い主ではない。赤の他人だ。無頼の徘徊牛を制御するのは本来的には難しいはずだが、しかし件の監視人はいとも簡単に牛を制御して追い払ってしまう。

その秘訣が、「牛をその鼻で捕まえる」という技術である事は、既に詳述した通りだ。古代インドにおいても、まさに小千谷闘牛士達が見事に荒ぶる巨牛を制御するように、牛の鼻を捕まえて、徘徊牛を制御し得たのだった。

f:id:Parashraama:20200103185209j:plain

Youtub小千谷闘牛より

上は小千谷の闘牛の鼻とりが牛の鼻をつかんだ瞬間だが、まさにこのように、穀物畑の監視人は牛の鼻を捕まえたのだろう。

これだけ接近している最中に、もし牛が頭を強く一振りしたならば、人間など吹けば飛ぶように殺傷されてしまう。つまり、鼻をつかんだ途端に、牛の持つあらゆる意欲は文字通り『瞬殺』されてしまい、借りて来た猫の様に大人しくなってしまうのだ。

穀物畑の監視人は、さらに容赦なく牛を追いこみ続ける。

「鼻でしっかりと捕らえたのち、角の間のところで十分に押さえ込み、角の間のところで十分に押さえ込んだのち、棒で激しく打ち、棒で激しく打ったのち、解放する」

鼻を掴まれた瞬間、牛は反抗する気力を喪失し、おとなしく人間の意のままになるのは小千谷の闘牛と同じだった。

しかし、それで終わらせず、穀物畑の監視人は牛を角の間のところで押さえ込み、そののちに棒で激しく打ちすえていった。

まず、角の間とは何処だろうか?

f:id:Parashraama:20200103185558j:plain

再掲:鼻の穴の急所は牛がよく舐める所でもある

上の写真で見ると、「角の間」とは、眼と角の間にある平板な額(茶毛部分)だと思われる。

説明がとても限られているので、これは想像するしかないのだが、仮に穀物畑の監視人が一人だと仮定しよう。以下はあくまでもひとつのシミュレーションだ。

ひとりで牛を制御しなければならない監視人が、牛追いの棒を持っている事はすでに明らかだ。彼はまず不埒な無頼の徘徊牛をその急所である鼻で捕まえる。右手は棒を持っているので、左手で鼻を捕まえたとする。

更に、牛の顔が動かないように、右手の棒を牛の額、つまり角の間に強く押しつけて、牛を観念させる。そうして、牛が完全に動かなくなった事を確認したのちに、さて、監視人はその右手の棒をもって、牛の身体の、何処を打ちすえるのだろうか?

小千谷の闘牛の鼻とり師が牛の鼻中隔に取り縄を通し終わるまでしっかりと鼻を掴み続けたように、おそらく古代インドの穀物畑の監視人も、牛の鼻を片手でつかみ続けた事が予想される(鼻を放した瞬間に牛は反撃したり逃げる)

ならば監視人の身体は牛の前面に固定されて、棒が届く範囲は限定されるだろう。

牛飼いの場合、牛をただコントロールする為には、普通ならば、お尻を叩く、というのが一般的だ。自分の飼い牛にいらざる恐怖や痛みを感じさせる事は本意ではないし、すでに信頼関係が成り立っているので、さほど過激な行動をとらずとも、牛は了解してくれるのだ。

けれど穀物畑の監視人は赤の他人であり、不埒な盗み食い牛を、強く罰して二度と畑に浸入しないように調御しなければならない。

以上の状況を総合すると、監視人の行動は以下のようになる。

左手で牛の鼻をつかみ続けながら、右手の棒を牛の額にゴリゴリと押しつけて観念させた後に、まさにその額の部分を、その棒によって、強く打ちすえるのだ。

これは薪割りや枝打ちをする時に、打つべき場所に斧や鉈の刃先を先ずおいて狙いを付けて、そこから振りかぶって、まさに今刃先がおかれていた場所に打ちおろすのと同じイメージだ。

その打撃は、相当以上に痛烈でなければならない。何しろ草食動物というものは基本的に24時間365日、起きている間は食欲の権化であり続ける生き物だからだ。

ちょっとでも甘く見られたら、盗み食いの常連として守るべき畑に居付かれてしまう。決してそうはならないように、肝に銘じさせるために、その額を、痛烈に棒で殴っていく。二度三度と繰り返し。

牛の額というのは、多分相当以上に堅くできているはずだ。牛の角突き相撲と言うのも、結局は角同士をぶつけているのではなく、多分に角の付け根の頭で頭突き合いをしている。

つまり、牛の立場に立ってみれば、急所である鼻をつかまれて、牛同士の順位を決める角突きと同じ痛撃を棒によって額に受ける事によって、いわば、徹底的に順位戦の敗者としての立場を、刷り込まれた状態になる。

監視人が勝者のボスであり、盗み食いしていた牛は敗者の劣位だ。基本的に草食の群れ動物である牛さんとしては、ひとたび戦いにおいて群れのボスに打ち負かされてしまったら、彼の意に反する事はできなくなる。

この様な牛の心理・習性を巧みについている訳だ。

もちろん、古代インドにおいて、牛という動物は極めて重要な家畜であり、アーリア系、先住民系を問わず、あらゆる階級の人々にとって身近な存在だった。

王宮の中にも御用牧場があり、牛や馬や象を飼っていた事だろうし、商人の荷を運ぶのも、穀物を村から町に運ぶのも牛車だし、畑を耕すのも牛にひかせた犂なのだ。

どのように牛を制御し、意のままに操るか、という技術・方法論は、おおよそ全ての人にとって一般常識的だったと考えられる。

もちろん、それはゴータマ・ブッダにとっても、更には彼の説法を聞く聴衆や弟子の比丘たちにとっても同様だった。

だからこそ、パーリ仏典のこの牛を鼻で捕まえて棒で打ったのちに放すと言う喩え話が、聴衆の誰にとってもリアルなイメージとして理解可能になるのだ。

21世紀の都市文明に生きる私たちがパーリ経典や古代インドの思想書をひもとく場合は、この様な、当時の人々、ブッダという話者とその聴衆たちの、等身大の日常的心象風景というものをリアルに想定しなければ、その真意をうかがい知る事はできない。

さて、「牛の鼻を捕まえて、角の間で押さえて棒でもって打ちすえる」と言う古代インド人にとって極めて日常的な心象風景を、今私たちは共有する事ができた。

今度は、穀物畑の監視人に鼻をつかまれて、角の間を押さえ込まれて、棒でそこを打ちすえられた牛の立場になって、その心象を理解してみよう。

鼻の鼻中隔を、親指と対向する四指によってグニュッと挟んでつかまれる。その瞬間、牛さんは鼻中隔を中心に鼻全体に強烈な触覚を感じる事だろう。

私の見立てでは、ただつかまれただけでは、相当な力でつかまれたとしても、痛みはさほど感じない。牛にとっての鼻の穴とは、譬えてみればドラゴン・ボールの孫悟空が尻尾を掴まれると気力を喪失してしまう様な、そのような欲動のスイッチを切ってしまう様な急所(マルマン)なのだ。

小千谷の闘牛で鼻とりが巨牛の鼻を掴んだ瞬間、もしそれが「激痛を生みだす」のなら、それなりの反抗のリアクションが現れても不思議ではない。

けれども様々な映像資料を何度見ても、牛たちにはそのような反応は見てとれない。まるで突然スイッチが切られたように瞬間的におとなしくなってしまうのだ。

だとしたら、鼻を掴まれた瞬間、牛たちが感じているリアルな心象とは、譬えて言えば、浮気男が今まさに愛人といたそうと欲情していた、その瞬間に鬼嫁の一喝声が耳に入った、という様な、あるいは、突然頭から冷や水をかけられた、というような、そのような心理的・生理的な反応をもたらすような、“肝が冷える” あるいは、“魂消る” ような、触覚刺激だと考えられる。

これはまた改めて説明する事になるが、もちろんそんな『反射』をもたらすような神経生理システムが、そこには存在している訳だ。

(そこで重要な働きをしているのは、おそらく「三叉神経」だろう)

その瞬殺ぶりは、前に紹介した経典の一節を思い出させる。

1137: 即時に効果の見られる、時を要しない法、すなわち煩悩なき愛執の消滅、をわたしに説示されました。

★「ブッダのことば」中村元訳・岩波文庫からの引用

鼻をつかまれた瞬間、牛の中では穀物に対する食欲の煩悩や渇愛その衝動が、見事に即時に消滅してしまうのだ。

そうやって鼻を強くつかまれ続け、角の間の額の部分を激しく強打され続けた牛は、放されてしばらくしてもなお、その鼻と額における触覚の残像その疼きを、感じ続ける事だろう。

(中学生の時に、悪さをしてこわもての体育の先生にビンタを喰らった時に、しばらくの間ほっぺたがジンジンと疼いていた、あの感覚だ)

そうして、また今度、同じように穀物畑に近づいた時に、仮に美味しい穀物の記憶に扇情されても、その鼻と額の強烈な感覚の記憶を思い起こして、監視人という強者に組み敷かれて屈服した事実を思い出して、二度とふたたび、盗み食いをしようなどとは思わない事だろう。

(また再び悪さをしようとした時に、こわもての鬼のような体育教師の顔とビンタの痛みを思い出して、逡巡するのと同じ原理だ)

比丘たちよ、このようにして、その穀物を食べる牛は、村や森に入り、多くのところにとどまり、多くのところに伏すにしても、その穀物畑にふたたび入る事はないはずである。

牛がまさにその、かつての棒の感覚を思い出すからである。

この様に調御された牛こそが、すなわち良く整えられた修行者そのものであり、この様な鼻と額における疼きの残像に気付き続けることこそが、(牛ではなく)修行者が、六官の欲望を制御して、善人の道を進むための、頼るべき瞑想メソッドの焦点だった、と私は考えている。

穀物監視人によって捕まった牛がその感覚を思い出すように、正にそのように瞑想修行をする比丘もまた、鼻と額において、その疼きに気づき続けなさい、と。

それは牛にとっても瞑想する比丘にとっても、文字通り「即時に効果の見られる、時を要しない法」なのだと。

牛がまさにその、かつての棒の感覚を思い出すからである。

比丘たちよ、まさにそのように、六つの感覚器官とそれらの識別対象と認識作用との接触領域に関して、比丘の心が鍛錬され、正しく鍛錬されている時、その心は内に定まり、静まり、集中して、統一されているのである。

上の文脈を整理すると、「牛が鼻をつかまれ額を打たれる事によってその煩悩渇愛を抑制される様に、正にその様に、比丘の心もまた鍛錬されている時、心は内に定まり、静まり、集中して、統一されている」と読める。

この牛と比丘の重ね合わせ。これは単なる文学的な喩え話ではあり得ない。ここで「牛と同じように心が鍛錬されている」という文脈は、イコール瞑想実践そのものと読めるからだ。

穀物畑の監視人によって鼻をつかまれ棒で打たれた、その感覚の残像(記憶)の疼きを、貪欲な牛が常に思い起こしてその貪欲を制御するように、

「まさにそのように、瞑想修行者は鼻先で呼吸に気付き続け、その呼吸が額の奥の前頭洞という副鼻腔において環流するそのかすかな感覚に耳を澄ませ続け、その結果生まれる額の特異点の強烈な疼きに常に気付き続け、その事によって」

その心は即時に内に定まり、静まり、集中して、統一されていく、のだ。

牛の寓話は、まさしく瞑想修行者が為すべき事の写し鏡に他ならない。

呼吸に伴う鼻と額の触覚に気付き集中する事が、何故、

六つの感覚器官とそれらの識別対象と認識作用との接触領域に関して、比丘の心が鍛錬され、正しく鍛錬されている時、その心は内に定まり、静まり、集中して、統一される」

事につながるのか? それは、六つの感覚器官の接触領域が、その鼻の内部において “ひとつながりにつながっている” からだ。

(この点についても後日詳述するが、特定ホルモンの受容体における「カギと鍵穴の喩え」が該当する。つまり既にカギがさされている鍵穴に他のカギはささらない)

そして六官の接触領域をひとつにつなげる鼻の呼吸が、意の場である前頭葉の直前直下において環流するのが副鼻腔群であり、その中の触覚の特異点こそが、額の “アジナー・チャクラ” と呼ばれるポイントだからだ。

監視人がつかみ打つ鼻先と額の感覚によって、牛が肝を冷やしその貪欲を制するような、そのような神経生理作用機序を、牛と同じ脊椎・哺乳動物である私たち人間もまた、多かれ少なかれ “原理的に” 共有している

そこには神経生理的な作用機序の普遍、が確かに存在する。

鼻先と額の感覚に集中し気付き続け、その意識状態を継続的に深める事によって、修行者の六官に対する貪欲の心は、自ずからの機序として制御され止滅して行く

この様に見た時、牛とは出家修行者そのものが辿るべき姿であり、穀物畑の番人とは、牛そのものの貪欲に支配されている自分(世俗)の心を、もうひとつの心として自ら制御する修行者のサティであり、正知であり、精進する意思を意味する事が、切実に理解できるだろう。

ブッダは、修行者にそのような自らを調御する知識と技術智慧=瞑想法)を教える事ができた。だからこそ彼は、

プリサダンマ・サーラティ(人間を調御する御者)

と呼ばれ讃嘆された。

これは以前にも話したが、パーリ仏典において頻出する喩え話の多くが、単なる文学的な比喩などではなく、具体的かつ実体的な事象との切実なまでの “重ね合わせである”、可能性が高い。

そのように考えなければ、パーリ経典における、様々な記述のディテールの意味が、まったく筋が通らない。

逆にそのように考える事によって、様々な記述のディテールの意味が、極めて筋道の通った一貫してリアルな「瞑想実践修行についての教導訓話として理解可能になる。

以上が、ブッダの瞑想法の作用機序に関する、「広長舌相」エピソードから派生したもうひとつの読み筋だった。

セーラ・バラモンの前で、ブッダはまず舌を出し、舌で両耳孔を上下に撫で、両鼻孔を上下に撫で、最後に前のを一面に舌で撫でた。

ブッダのことば、第三、大いなる章、七セーラ」(中村元訳)より要約引用

もちろん、今回焦点となった『鼻と額』とは、上のエピソードにおいてブッダが舐めたという顔の二か所と対応している。では、残りの『耳』はどうなっているだろうか?

~次回に続く。

 

(本投稿はYahooブログ 2014/10/29記事「瞑想実践の科学 10:牛の急所は鼻の穴」と2014/10/30「瞑想実践の科学 11:牛を鼻で捕まえ、額を打つ」を統合の上加筆修正し移転したものです)

 

 


にほんブログ村