輪軸世界観と一元論・二元論
これまで私は『輪軸世界観』というものが、如何に汎インド教思想の根幹を支える重要なものであるか、という事についてくどいほど言及して来た。
今回は、インド教世界の中で長きにわたって論争が繰り広げられてきた「一元論・二元論」と『輪軸世界観』、という視点から論じてみたい。
『リグ・ヴェーダ』のうちの重要な思想として、ヴィシヴァカルマン(Vishvakarman)が世界創造者として讃嘆されている。その名称の意義は、「一切をつくる者(解釈A)」ということであると、一般の学者によって承認されている。
しかし私は、別の解釈がある事に気がついた。それはこの語を、「すべてがそれのはたらきである者(解釈B)」と解するのである。
どこが違うのかというと、Aの解釈だと世界創造者は世界万有の外にいる。しかしBの解釈だと、世界創造者は世界万有そのものとなっている。(P411)
ここでヴィシヴァカルマンと呼ばれている創造者、あるいは至高者。これがウパニシャッド的文脈においては絶対者ブラフマンへと収斂していく訳だが、今回引用した文章の中に、インド思想の最も重要な命題のひとつが述べられている。
それは、この創造者ヴィシュヴァカルマン(原初の一者=後のブラフマン)が、自分とは別の客体として現象世界を創造したのか、それとも、ヴィシヴァカルマン自体が自ら展開して世界となったのか、という事だ。
現象世界と創造者(絶対者)は別々の存在なのか、それとも世界とは創造者それ自体なのか?この最も根源的な問いから、サーンキャ思想のプルシャとプラクリティの対置から、シャンカラ・アチャリヤの不二一元論までが展開していく。
何故、このような問いが生まれ、論議され続けて来たのか。そこにもまた、輪軸の世界観が深く関わっていたと私は考えている。
絶対者ブラフマンとそこから展開する現象世界、これを私はこれまで、車軸と車輪の関係性の中で論じてきた。ブラフマンは不動なる車軸であり、現象世界は華々しく展開し躍動する車輪だった。
しかし、そもそも車輪とは何だろうか。それは人類の技術文明史の上で、どのような経緯をたどって発達し創造されてきたのだろうか。
車輪の起源。それは丸太のコロだと言われている。
ネット検索より(ソースは忘失)、車輪の起源
上の解説を見ると、コロコロ転がる丸太の性質を利用して自由コロが創られ、それが発展して支持部である車軸と、回転部の車輪へと分化していった事が良く分かる。
つまり、コロコロ転がる車輪の性質は丸太のコロから分化展開した訳だが、このコロ、よく見るとこれはつまり、ラタ車で使われる不動の車軸と同じ『丸棒』ではないだろうか?
再掲:プーリー・ジャガンナート寺院ラタ・ヤットラの車輪
上の写真を見れば、木製車輪の車軸がほとんどプレーンな丸太の形を保っている事が良く分かるだろう。その姿は、まさしく丸太のコロそのものではないか。
言っている意味が分かるだろうか。車輪が持っているコロコロと転がる性質は、もともとは丸棒車軸と同じ形状をした丸太のコロから創造された。
つまり、『車輪は車軸から展開・分化した』事になる。
その証拠に、車軸の先端を『輪切り』にスライスすれば、それはそのまま車輪(円輪)の形になる!つまり丸棒(丸太)車軸の中に、車輪の性質は全て含まれている。
これを冒頭のヴィシヴァカルマンの話に重ね合わせて言うと、車軸(ヴィシヴァカルマン)自体が展開して車輪(現象世界)になった、とも言えるだろう。
そこにはもうひとつ、別の意味がある。
車軸の形、それは丸棒の形であり丸太の形だが、それはそのまま、加工される以前の原木の直立する幹の姿だ。原木とは天然の木の形だから、それはスワヤンブー、すなわち『自生者:Self-manifested』になる。他者(人間)の助けを借りずに自ずからその形に生じた者だ。
一方、木製スポーク式車輪とは、人間が原木をある厚さに製材加工して部材を作り組み立てる訳だから、車輪はスワヤンブー(自生者:原木=車軸)から他者の力を借りて『二次展開』した事になる。
その意味では、車軸と車輪は、明確にその次元を異にしている。
車軸と車輪という一見まったく違った形をした別々のパーツが、実は全て車軸という丸棒(丸太=原木性)の中から生まれた。車輪の創造の源は車軸(丸太=原木)であると同時に、車輪とは車軸が持つコロコロ転がる『性質』が展開したものである。
この様な具体的な事実関係が背景にあって初めて、インド思想における一元論と二元論の長きにわたる論争が展開してきたのだと私は考えている。
現実としてラタ戦車の車軸は、ほとんど加工されずに素の丸棒のまま車台に固定されてピクリとも動かない。しかもすぐれたデザイン性とともに展開する車輪の陰に隠れて、ほとんど目立つ事もない。
先の写真で車軸を目視可能なのは、それが車台にセットされていないからだ。車台の下にセットされ隠された通常使用時には、車軸の存在はほとんど目に留まらない。
対照的に車輪は、そのデザイン性とともに激しく躍動し地面を駆け巡る。一見車輪こそが主役にも見えるだろう。車輪と車軸はまったく性質の異なった別々のものだとも考えられるだろう。
けれどその車軸が中心を貫き支える事によって初めて、車輪は回転しラタ戦車は走る事が出来る。しかも、そもそもその車軸(原木:丸太)自身が持っている『転がる』という性質こそが、車輪の起源である、と同時にその原木性は車輪の原材料でもある。
このような輪軸にまつわる経験的かつ観察的な二重三重の事実があって初めて、ウパニシャッドも不二一元論もサーンキャ哲学も展開し得た。そう考えると非常に分かりやすい気がするのだが、どうだろうか。
この車軸が持つ「丸太・原木・自然の樹の幹」との同質性は、次に紹介するアタルヴァ・ヴェーダの中で、ブラフマンが樹の幹に例えられている事実に対応していると思われる。
『偉大なる神的顕現は、万有の中央にありて、熱力(創造の原動力)を発し、水波(大初の原水)の背に乗れり(万有の展開)。
ありとあらゆる神々は、その中に依止す。あたかも枝梢が幹を取りまきて相寄るごとくに。』
(アタルヴァ・ヴェーダ、スカンバ賛歌、辻直四郎訳)
ここで言う『偉大なる神的顕現』とは万有世界の支柱(車軸)スカンバたるブラフマンだから、それを中心の幹として神々があたかも枝梢の様に相寄り依止している。
神々とは、『原初の一者』登場後の思想では、「輪廻の内にある」車輪世界の住人だから、この文言は、車輪のスポーク(枝)やリム(梢)が中心の車軸に相寄り依止するというイメージを大樹のイメージに重ねて語っている訳だ。
車軸たるブラフマンが大樹の幹に譬えられる。これは上の、車軸が持っている丸棒性=丸太性=原木性=樹の幹、という文脈と重なり合う。樹の幹が誰の助けも借りずに自生者としてあの形になる『スワヤンブー』である事も指摘済みだ。
樹の幹と車軸とを並べて見ると、以下の事が分かる。
第一に、おそらく最も原初的な車軸とは、直伸性の強い樹の幹(目の詰まった芯のしっかりとした強靭な)をそのままほとんど加工せずに使った事が推測できるので、樹の幹と車軸とは完全にイコールになる。
車軸とは原木そのままの丸太、つまり樹の幹である。
そしてもちろん、樹の幹を丸太として立てたものが柱(スカンバ)である。
つまり、万有の支柱スカンバとは『世界の車軸』である。
第二に、大樹の幹はどっしりと不動に立ちつくし、枝梢や樹冠を支えるのみで、そこには目立った『イベント』や『現象・変化』は起きない。そしてラタ車の車軸もまた、目立たない車台の下部に固定されそれ自体は全く動かずに、ただただひたすら車輪の回転を支えるのみだ。
両者には構造・機能・性質において際立った類似がある。
一方、幹に支えられて展開する枝梢は、中心から放射状に展開し、全体としての樹冠は円輪の形をとる。そこでは葉が芽吹き枯れ散り、花が開き鳥や虫が集い、実がなり、冬には全てが枯れ落ちて、春には一斉に再生する。
そこはあらゆる『イベント』が展開・現象する劇場であり、『輪廻』の舞台とも言えるだろう。
それは、車軸によって支えられ転回し躍動するスポーク式車輪、正にラタ戦車をラタ戦車たらしめる『はたらき』である車輪と、構造・機能・性質において完全に重なり合うものではなかっただろうか。
先のスカンバ賛歌の冒頭には、
『偉大なる神的顕現は、万有の中央にありて、熱力(創造の原動力)を発し、水波(大初の原水)の背に乗れり(万有の展開)』
という一節がある。最初の「万有の中央」とはまさしく車輪世界の中央車軸に他ならないし、樹冠をその中心で支える幹でもある。
そして次の熱力は以前指摘した様に、性交時もしくは出産時のヒート・アップを意味し、水波(大初の原水)とは胎児が浮かぶ羊水を意味するだろう。
ここでは明らかに現象世界と絶対者との関係性を、男女の生殖に重ね合わせている。これはリグ・ヴェーダの後期にはすでに顕在化していた思想だ。
これは棒状の男根が穴状の女陰に入る姿を『車軸』と『車輪の軸穴』に重ねたシンプルな同置アナロジーだが、同時にそれは、車軸としての『原初の一者』を胎児に重ね合わせる思想でもあった。
これは後世において著しい車輪(現象)世界の聖化の流れを生み出し、それはデヴィ・シャクティ思想において、ヨーニとリンガが合体したシヴァ・リンガムという造形となって現れた。
再掲:円輪ヨーニの中央から顔を出すムカ・リンガ・シヴァ
上でヨーニから顔を出すムカリンガ・シヴァは、女陰と交わる男根である、と同時に原初の胎から誕生するブラフマンでもある。
そこではシヴァ・ブラフマンはシャクティ(ヨーニ)の力がなければピクリとも動けない無力なものへとなり下がってしまう。
車輪と車軸とは本来2にして1なるセットなのだが、このシャクティ思想においては車輪の優位性が卓越している。
その背後には、車輪がはまらなければ車軸はピクリとも動けない、という経験的事実があった。と同時に、車輪に重ね合わされたヨーニ(ガルバ)がなければ、シヴァもヴィシュヌもブッダといえども(という事はつまりプルシャ=男・人間は)、この世界に生まれいずることは決してない、という『生物学的事実』があった。
リンガ(男根=プルシャ)は確かに性交においてヨーニ(女陰)を貫き、性感によって躍動させそれを支配する。けれどそのリンガ(プルシャ)もまた、ヨーニによって産み出されなければ、その力を発揮することは出来ないのだ。
(一方で、これはまた後述するが、どんなにヨーニ(胎)が頑張っても、リンガが射精しなければ世界(プルシャ=赤ん坊)は生まれない)
現象世界と絶対者を、ラタ車の輪軸と重ね合わせ、同時に男女の生殖プロセスに重ね合わせる。この重複したアナロジーこそが、インド思想の豊穣世界を生み出したのだと言って良いだろう。
実に複雑怪奇な世界だ(笑)。一体どれほどの読者の方がついて来られているのかはなはだ不安ではあるのだが・・・
次回以降、折を見てこの後者、つまり絶対者と現象世界を男女の生殖機能に重ね合わせた流れについて、聖音オームも絡めて、詳細に見ていきたいと思う。
そこでは、何故世界からの解脱を志向するウパニシャッド的、あるいはサマナ的な求道者(男)たちが、性的禁欲、という形でヨーニ・ガルバを忌避したか、と言う点が明らかになるはずだ。