仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ビルマにおける近代ヴィパッサナーの夜明け2

前回に引き続いて、Patrick PrankeというUniversity of Louisvilleの仏教研究者が書いた『On saints and wizards PDF』から引用抄訳する(P458-461)。

The core of Medawi’s meditation manual is a discourse on the three marks of existence: anicca, dukkha, and anattā, as they pertain to the five aggregates.

Following the standard outline for scholastic treatises of the period, he cites passages from authoritative Pāli sources, gives a word-by-word exegesis of these, and concludes each section with a summary in Burmese prose. 

(前回最後に紹介した)メダウィ師の瞑想指導書は中心となるのは、五蘊の特性としてのアニッチャー・アナッター・ドゥッカーという三相に基づいた論議であった。

その時代の学問的なスタンダードに乗っ取り、彼は正統なパーリ原典から逐語的解釈と共にその文意を紐とき、各章の梗概をビルマ語の散文によって結論としてまとめた。

Perhaps because of the influence of Medawi’s meditation manuals, Konbaung-era monastic chronicles written from the perspective of the royally-backed Thudamma ecclesiastical council begin to reflect a gradual shift in opinion regarding the possibility of enlightenment in the present age. 

メダウィ師の瞑想指導書のおそらくは影響により、コンバウン朝期の王権の庇護下にあるトゥダンマ聖職者会議によって書かれたサンガ僧院の年代記には、現世において解脱できる(瞑想修行によってニッバーナに至れる)という思想への緩やかなシフトが、反映され始めた。

(繁雑なので一部原文省略の上、以下に抄訳)

1784年に書かれた「サーサナスッディディーパカ」ではヴィパッサナーについての論及は少ないが、1797年の「ヴァムサディーパニー」ではアラハンの存在はサンガの伝統の中で重要な位置を占めるようになる。しかし依然としてそれらの聖者は過去の伝承に過ぎなかった。

ところが、1831年に書かれた「タタナ・リンカラ・サダン」において大きな転機が訪れる。そこでは僧院の修行生活の焦点がメダウィ的な現在にシフトし、現世において解脱する事は不可能である、と言う考え方には反旗が翻された

そこでは太古の聖者に関する言及に代わって、より現代的な聖者たちに焦点が当てられ、論書に書かれた5000年周期の末法思想についての見直しが進められた。

そこでは、ブッダの教えはこの時代においても力を保ち続けており、聖なるアラハンの成就(解脱)はこのビルマ王国において長く存続し続けると主張された。

そして、ついに1861年に書かれたサーサナヴァムサッパディーパカにおいては、ある種の自明の真理として、特別な瞑想的成就を得る者たちが現世において輩出すると宣言され、ヴィパッサナーの実践に励むものは誰でも、この現世の一度の人生の中で、アラハンの境地にたどり着けるのだと明言された。

比丘修行におけるヴィパッサナー瞑想実践の強調は、多かれ少なかれ様々な度合いで多くのサンガにおいて推し進められていったが、中でもその過激さにおいて特筆すべきはサガイン・ヒルの洞窟で修行したことから「Bird-cave Abbot」と呼ばれたHngettwin Hsayadawである。

もともとはマンダレイ王朝の王妃の家庭教師であった彼は、「仏像に食べ物を供えると鼠が湧いてかなわんから」という理由で仏像に対する礼拝供養を拒否したというエピソードで名高い。

A strict disciplinarian, Hngettwin Hsayadaw not only required his monks to be punctilious in their observance of Vinaya, but also to practice vipassanā meditation daily – perhaps a first in Theravāda monastic history.

He even demanded that his lay supporters do the same. Over time Hngettwin Hsayadaw’s disciples coalesced into an autonomous monastic fraternity that continues to flourish today. 

Hngettwin Hsayadaw師は比丘たちに厳格な戒律の順守を求めただけではなく、おそらくはテーラワーダ仏教史上はじめて、ヴィパッサナー瞑想実践を毎日の修道ルーティーンとして取り入れた

彼は在家の信者にさえもヴィパッサナー瞑想の日常的な実践を求めた。そして彼の弟子たちの実践は今日に至る自主的な僧院共同体の中にも徐々に溶け込んでいった。 

Hngettwin Hsayadaw was not the only reformer to establish himself in Sagaing. By mid-century during the reign of Mindon (r. 1853–1878), the hills of Sagaing were honeycombed with meditation caves and dotted with forest monasteries. 

彼はサガインにおいて改革を確立した唯一の比丘ではない。ミンドン王の治世である19世紀半ば(1853-1878)にかけて、サガイン・ヒルの岩肌には無数の瞑想窟が蜂の巣状に掘られ、多くの森林僧院が建てられ、多くの修行僧が瞑想実践に励んだ。 

King Mindon himself enthusiastically promoted interest in vipassanā at the royal court and under his patronage several treatises on vipassanā were composed. Particularly significant were the works of Mindon’s royal minister U Hpo Hlaing (1830–1883) who was notable for his avid interest in western science and efforts to reconcile this new perspective with abhidhamma. 

ミンドン王自身も熱心に王宮においてヴィパッサナーに対する関心を喚起し、彼の下でいくつかのヴィパッサナーに関する文献が編纂された。中でも特筆すべきがミンドン王の宰相だったU Hpo Hlaing (1830–1883)で、彼は自身の西洋科学への造詣を基に、アビダンマを科学的な観点と調和させるよう解釈に努めた。 

This synthetic approach was passed on to his protégé, the scholar-monk, U Nyana,
who later became famous as Ledi Hsayadaw, arguably the most significant promoter of vipassanā in the modern period. 

この近代科学と伝統的なアビダンマの融合という複合的な視点は、彼の後継者である学僧 U Nyanaに引き継がれた。彼こそが後に、最も特筆すべき現代ヴィパッサナーの推進者として有名になるレディ・サヤドウその人である。

 

4. Ledi Hsayadaw and the modern vipassanā movement

Ledi Hsayadaw (1846–1923) is regarded as the founder of the vipassanā movement as it is known today. This movement began to coalesce only after the British conquest of the Burmese kingdom in 1885. Ledi Hsayadaw wrote numerous vernacular manuals on abhi dhamma and vipassanā beginning in the 1890s, and taking advantage of the printing press, he published widely to promote literacy in Buddhist doctrine and to propagate amongst the general populace what he believed to be the correct practice of vipassanā based on scriptural norms.

His purpose in this work was not only to facilitate the spiritual progress of the Buddhist faithful, but to fortify Burmese culture against what he regarded as the corrupting influences of the new foreign regime and to defend Buddhism against the polemics of Christian missionaries. 

レディ・サヤドウは今日ヴィパッサナー・ムーヴメントとして知られるものの開祖であると見なされている。この社会運動は、1885年イギリスによるビルマ王朝の征服と植民地化がなされてはじめて、ビルマ社会において台頭し浸透し始めた。

彼は1890年代から日常ビルマ口語で多くのアビダンマ解説書やヴィパッサナー指導書を書き始め、印刷機の優位性を活用し仏教思想の教養を高めるために幅広い出版をし、彼は典籍を基に正しいヴィパッサナー実践だと考えられる事柄を一般大衆に啓蒙していった

彼のこの仕事の目的は、仏教信者の霊的な進歩に資するためだけではなく、外国勢力の新たな価値観によっておこされる文化的動揺からビルマ文化をまもる事であり、仏教と言うものをキリスト教伝道団との論争において防衛する事にあった。 

In outline and content, Ledi Hsayadaw’s manuals are similar to those written one hundred and fifty years earlier by the monk Medawi. But unlike his Konbaung-era predecessor, Ledi Hsayadaw argued for the utility and necessity of vipassanā practice for everyone, even those who hoped for future liberation as disciples of Metteyya Budda. 

レディ・サヤドウの指導書はメダウィによって150年前に書かれたものとその外観と内容において変わらなかった。けれどこのコンバウン朝期の先達と違って、レディ・サヤドウはヴィパッサナー実践の必要性を万人に向けて主張し弥勒菩薩の下生後の来世において彼の弟子として解脱を得たいと望む者たちをもその例外としなかった。 

In his Bodhipakkhiya-dīpanī written in 1905, Ledi Hsayadaw asserted that while the traditional path of merit making could result in an auspicious rebirth at the time of
Metteyya, it could not by itself generate the perfections (pāramī) necessary to be able to attain liberation through Metteyya’s teachings. Only merit making done in conjunction with vipassanā practice, undertaken in this life, could aff ord one that chance. 

彼の1905年の著作「Bodhipakkhiya-dīpanī」において彼は、「伝統的な功徳(メリット)を積むという善業によっても弥勒菩薩の時代に幸なる再生をなす事は可能であるが、それだけでは弥勒菩薩の弟子として解脱するにはパラミツ(解脱を可能にする功徳)としては不十分 である」と指摘し、「ヴィパッサナー実践と功徳(メリット)を積む善業がこの現世において併習実践されて初めて、来世において弥勒菩薩の弟子として解脱を得る事が出来る」と説いた。 

Even while Ledi Hsayadaw’s interpretation of vipassanā and his efforts to popularize its practice were innovative in many ways, he remained largely traditional in his acceptance of most Burmese Buddhist customs and popular beliefs.

Of particular significance here was Ledi Hsayadaw’s defense of the Burmese notion that the corpses of deceased arahants remain immune to decay even though this idea is not attested in authoritative Pāli sources. 

レディ・サヤドウは、独自のヴィパッサナー解釈とその実践を普及するための努力において多くの変革をなしたにも関わらず、彼自身は幅広い意味でビルマの伝統的かつ俗信的な習慣の中に留まり続けた

中でも特筆すべきは、彼が正統的なパーリ典籍には明示されていないにも関わらず、「解脱したアラハンの身体は死後も決して腐敗する事はない」というビルマ的な俗信を擁護した点である。

 翻訳するほうも疲れるし、読むほうも、多分疲れると思うので(笑)、以上で引用を終わりにしたい(続きも面白いので興味のある方は是非)

前回と今回の二回に渡ってパトリック・プランケさんの論文を読んできたが、今回一番私が衝撃を受けたのは、彼が、

「Hngettwin Hsayadaw師は比丘たちに厳格な戒律の順守を求めただけではなく、おそらくはテーラワーダ仏教史上、はじめてヴィパッサナー瞑想実践を毎日の修道ルーティーンとして取り入れた

と、ほぼ断定しているところだ。

原文は、「but also to practice vipassanā meditation daily – perhaps a first in Theravāda monastic history.」となる。

この、「テーラワーダ史上初めて日常的なヴィパッサナー瞑想実践が導入された」、という言葉、私自身は大変重く受け止めている。

ひとつには、やはり現代におけるブッダの瞑想法の故地であるビルマに対する幻想がガラガラと音を立てて完全に崩壊した、と言う点にあるだろう。

前回記述で、既にブッダゴーサの時代には末法論が言及されている事から、瞑想実践の欠落は相当時代を遡るのだとは予感はしていたのだが、まさか『初めて』と明言(Perhapsはついているが…)されるとは思わなかった。

私としては、いままで個人的にマハシ・スタイルやゴエンカジーのリトリートに参加してきて、日本の訳分からん『禅』などよりはるかに “身に迫ってくる” その実践的効果と言うものに深く感銘を受けていたので、最初の頃は彼らの言う「2500年前のブッダが悟りを開いた、正にその瞑想法」という触れ込みを、あまり深くも考えず漠然とそうなんだなと受け入れていた。

その内に色々と日本でも情報が上がってきて、どうやらヴィパッサナーは近世のどこかの段階でビルマにおいて復興されたもののようだ、という話も耳に入って来る。

でもどこか、瞑想実践の先達としてのビルマに対する幻想があった。それが、この論文との出会いによって、データを伴った論拠と共に明晰に否定されてしまった。

もちろん、プランケさんの書いた事が全て客観的にも真実である、という即断はできないし、私にそれを検証しきる能力はない。

しかし私がこれまで色々と学んできたり体験してきたテーラワーダ仏教に関する様々な状況とその『実感的な知見』と照らし合わせても、彼の論述は非常に説得力を持って迫ってくるのだ。

現代ヴィパッサナーのビルマにおける起源が18世紀中葉以降であり、更にそれが本格的に社会全体の機運としてブレイクし浸透したのは19世紀も末近くである、という事実は十分に重い。

けれどその事実が、ビルマ発の現代ヴィパッサナーの実践的な優越性と有効性に対する評価を、何ほども損なうものではない、とも思う。

私にとってそれは、依然として現存する瞑想法の中では最も「確からしい」ものであり興味尽きないものであり、機会があれば現地リトリートの形で深く学び行じたいものである事に変わりはない。

そこにはビルマの真摯な求道者たちが300年近くにわたり人生を賭して積み重ねて来た実践の歴史、その重みが確かにある。

しかし、プランケさんの指摘が正しいとしたならば、2500年前のゴータマ・シッダルターが自ら実践し、その詳細を言語化し一番弟子のコンダンニャに伝えて彼が覚ったという正真正銘のブッダの瞑想法と、現代ビルマの諸々のヴィパッサナーが完全にイコールである保証はない、と言う事を意味する。

実際にプランケさんも「彼(レディ・サヤドウ師)が典籍を基に正しいヴィパッサナー実践だと考えられる事柄を一般大衆に啓蒙していった」と書いている様に、そのメソッドは百千年の時を超えて師子相伝で連綿と継承されて来たものではなく、実践を伴わない典籍のみの形で伝承されて来た『情報(スッタ等の文言)』を紐解いて、その中から確からしいスタイルを独自に再構成した、と言うのが実態に即していたのだろう。

(そもそも私がこのようなブログを書いているのも、プランケさんの論文を読む以前から、漠然とそんな感触があって、それに導かれて書いていた面が強い)

ならば、ブッダ真正の瞑想法により近づくために、完成度をもっと高める余地がまだまだ多分にあり得る、という事だし、そのために私たち現代人ができる事が、なにがしかあるかもしれない、というその『余地』が示されている事になる。

引用論文を読めばおよそ分かるが、ビルマのヴィパッサナー・ムーブメントは、未だ科学的理性や合理主義が未熟な中世的呪術的迷信が跋扈している時代に花開いたものだ。その心象は、実は現代ビルマにおいてもさほど変わらないまま残存している。

一方私たちは、あらゆる迷信を排した科学的な論理と世界認識をほぼ確立している。

彼らがパーリ経典を読み取る時には見逃してしまっていた瞑想実践における「科学的な真実とその機序」というものを、私たちなら、見出す事が可能かも知れない。

そんなこんなで、このプランケさんの論文との出会いは、残念な衝撃であると同時に、私にとってはある種の『励み』ともなったのだった。

このちょっと屈折した『励み』を心の糧として、本ブログの探求を引き続き進めて行こうと、気持ちを新たにしている今日この頃なのだ。

それにしても、近代ヴィパッサナーの父であるレディ・サヤドウの思想的な基盤をみると、そもそもは先代のアビダンマと西洋科学の融合にあるとか、そのくせ彼は、ビルマ土着の非正統的な迷信(現代人から見たら)を擁護したとか、かなり複雑な陰影に彩られている。

彼がヴィパッサナー実践運動を展開するにあたって、本来であれば否定されるべき(?)メッテーヤ(弥勒菩薩)信仰者をも取り込むような形でそれを推し進めた、という指摘も、何というか、戦略的にきわめてクレバー過ぎる(笑) 

上で触れた様に、現在世上に流布している科学的かつ合理的なヴィパッサナーのイメージとはかなり違う、ドロドロとした土俗のニュアンスがかなり感じられるもので、「ヴィパッサナー観」とでもいうものは、この300年の間にも少しずつ変わり続けていたのだろうし、これからもそうなのかも知れない、とある種の感慨を禁じえない。

(以上がおおむね2016年Yahooブログ投稿からの移転)

以下は2019年現在の追記になる。

思うに、当時のビルマの社会・心理状況は打ち続く戦乱の果てに外国の異教徒であるイギリス人に武力で敗北し、その植民地下に屈するというビルマ人の誇りやアイデンティティなど精神の安寧が大きく揺るがされる状況だった。

そしてこれは重要な視点だが、それらの外部的な社会状況がビルマの大衆にとっては『どうにもならない事』だった点だ。そう、それは自らの能力や努力ではどうにも変えることの出来ない圧倒的な現実だった。

その様などうにもならない現実からある意味『逃避』して、アイデンティティ・クライシスからビルマ人の魂を守る事、これがこのヴィパッサナー・ムーブメントの社会的に求められた機能だったのかも知れない。

そして『この世の外への解脱』に心奪われた人々が瞑想を深め心穏やかになる事で反抗心の芽が摘まれ、結果的に現世における異教徒外国人による支配という不条理の受容を促し、それは抗いがたい植民地支配下で生き延びる為に極めて『適応価を高める』方向に作用したと考えられる。

(長い物には巻かれて、敢えて逆らわなければ怪我をする事もない、という日和見的な意味で)

論文でヴィパッサナーの普及に大いに貢献したと紹介されているコンバウン朝ミンドン王だが、彼の死後、この王朝は悲惨な末路を遂げている。

開明的なミンドン王が1878年に病死すると、力が弱く若い王子だからこそ影響力を強めて自国の改革と近代化を推し進められると考えた国務院の推挙を受け、21歳で即位した。

しかし、翌年にはスパラヤッ(英語版)王妃を含む保守派の巻き返しによって改革派は失脚し、前王の王子31人、娘9人が捕えられて処刑され、王国の近代化は挫折した。

イギリスを牽制するため、フランスに接近したことから第三次英緬戦争が勃発してコンバウン王朝は滅亡し、ビルマイギリス領インド帝国に併合された

Wikipediaより

レディ・サヤドウ師が国民的運動としてヴィパッサナー普及に邁進し始めるのは、正にこの直後の事だ。王の死に引き続く政権内部の混乱、そしてクーデターの果て宮廷内で行われた血腥い粛清劇。そして対英戦争と敗北、植民地化の完成。

現世的な状況において絶望のどん底に落ちたビルマの国民大衆を救うための、正に『救国の比丘』としてレディ・サヤドウ師が登場し、ヴィパッサナー瞑想が燎原の炎の様に普及して行った光景が目に浮かぶようだ。

日本へのヴィパッサナー瞑想の移殖は、これら民族的な複雑怪奇で錯綜した様々な背景心象をほとんど全て捨象した、一見いかにも科学的合理的であるかの様な装いと共にもたらされたもので、捨象されているが故に、ほとんどの人はその様な事実を知らない状況に置かれて来ただろう。

これまで見て来た様に、現代ビルマにおいて瞑想実践に励む人々は、出家であれ在家であれ、明確に『解脱』と言うものを第一に意識している(そしてそれは歴史的に少なからず『現実逃避』のニュアンスを漂わせている)

その普遍的な背景心象は、

これまでの前世で十分な功徳を積んでいる者であれば、今のこの人生で努力次第では解脱が叶うかも知れない。けれど、それが実現しなくとも瞑想修行に精進すると言う高い功徳を積む事によって、あるいは何世にもわたってそれを続ける事によって、遠い未来の弥勒菩薩が下生する時代に生まれ合わせると言う徳を得て、その時にこそ解脱が叶うだろう。

と言うものだった。

ごく普通の日本人で、この様な心象に心の底から共感し同意できる人がどれほどいるだろう。私自身について言えば、「瞑想によってブッダが『解脱した』という認識を得た、その同じ意識状態を経験する、という点に関しては実践的に大いに関心がある。

しかし、それはあくまで脳中枢神経における科学的な機序としてであり、正直輪廻的な意味での解脱や、まして56億7千万年後!の弥勒菩薩など全く興味はない。

(もし輪廻転生できるものなら、次回は是非ヒマラヤの頂を越えて渡りをするインドガンとかアネハヅルとか、あるいは海原を翔け泳ぐイルカとか、どちらかと言うと畜生系には是非なってみたい 笑)

かの地におけるヴィパッサナー実践は、徹頭徹尾『輪廻転生』世界観とその中での『自業自得』、そして最終的なそこからの『解脱』という原心象に貫徹されている。その点に関してはおそらくタイにおいても大同小異ではないか。

この事実を、日本で活動する内外のいわゆるヴィパッサナー瞑想指導者、そして一般の実習者は、どのように考えているのだろうか。

先に「マインドフルネスの軍事利用と大衆支配の構造」の中でも少しく触れたが、ミャンマーやタイなどのテーラワーダ仏教国は、現代に至るも構造的に大きなひずみを抱えており、軍部を中心とした上流支配階級が君臨する社会になっている。

ミャンマーについて言えば、それは構造的にイギリス人支配者が軍部にすり替わっただけにも見える。かつてイギリス支配をどう仕様もないと受容した延長線上のままに、軍部支配もまた『どう仕様もない』と受容し続けている姿にも見えるのだ。

その強固な基盤として『構造』を支えている、と言うかその構造そのものこそが、テーラワーダ仏教のドグマであり、その信仰実践である、と言う事実は一般的な日本人はほとんど知らないだろう。

ミャンマーでは異教徒であるムスリムロヒンギャの迫害と未曽有の難民化が記憶に新しい。その後、迫害の現場となったラカイン(アラカン)州では、州軍と政府軍の戦闘なども勃発していると言う。それ以前から、多数派ビルマ族と周辺少数民族との軍事紛争は枚挙にいとまがない。

一体、何故『敬虔な仏教国』であり『微笑みの国』であるミャンマーが、その様な軍事・暴力の巷に常態としてあり続けるのだろうか?

ロヒンギャ迫害の背後には、「仏教民族主義ナショナリズム」の存在が常に囁かれている。イスラム教徒の迫害追放は「仏法を護持する為」という錦の御旗を背に行われて来た事実が否定できない。

一方で、タイにしても軍部によるクーデター常習国であり、王という頂点のもと都市の富裕層と軍が結託して、地方農村を中心とした一般大衆の民主化要求を今この瞬間も封殺し続けている。 

それに比べて日本の社会はどうだろうか。安倍政権・自民党による一党支配は長きに続き、富の一極支配は進行しつつある様に見えるが、少なくとも社会の基本的な運営に軍部が暴力を背景に介入する、という状況には戦後ついぞ至っていない。民主と平等、そして基本的な人権は、曲がりなりにも社会が奉ずる最高の価値としての地位を保っている。

また科学技術は長足の発展を見せ、誰もが学校教育において科学的合理的な世界認識を自明の様に学び身に着ける事が出来る。

ではその様な民主と平等、そして理性と科学に支えられた社会に、本来的には土俗的迷信を多分にまとった輪廻転生教であるテーラワーダ仏教が強力な瞑想実践を伴って移殖される、という事の意味は何だろうか?

しかもその普及は、テーラワーダ仏教と本質的に不可分一体な『輪廻転生世界における自業自得・因果応報』やそこからの『解脱』という中心ドグマを、あやふやな形で棚に上げる(敢えて触れないという大人の対応?)、というスタイルを多くの場合とっている。

これは大分以前にネット上で見かけた音声ファイルだが、日本へのテーラワーダ仏教移入の最初期に中心的な役割を担った日本人が、やがて瞑想実践にのめり込んでミャンマーへ渡り、その後帰国時の瞑想指導法話において「サマディ―の深みにおいて、自分の(あるいは他者の?)前世をリアルに観た」という様に語っているものがあった。

(彼の信奉者たちはその話を真剣に受け止めていた様だが、音声のみだった事もあり、それを信じていたか否かは定かではない)

同様の発言は、日本で活動するネイティブのテーラワーダ比丘の法話にも、結構普通に見られるものだ。実際にパーリ経典には、その様な内容が定型文として随所に見受けられる。

日本は江戸時代に至るまで長きにわたって仏教国であり続けた国だ。この輪廻転生世界における自業自得と因果応報と言う心象は、実はテーラワーダ仏教にのみ該当するものではなく、大乗であれ密教であれ全ての仏教が伝統的に共有している世界観であり、当時の日本人もまたその中に生きていた。

それが、明治維新の近代化にまつわる廃仏毀釈と第二次大戦の敗戦による戦後のアメリカナイズ、そして科学的合理性の啓蒙によって、現在ごく一部を除いて、輪廻転生世界の実在を信じて、それを生きる上での強固な指針にしている人々は余りいないだろう。

少なくとも私はそうだ。

瞑想実践は人間の心に直接、強力に作用する『機序』に他ならない。それはミャンマーの事例でも指摘したが、十分に強力なマインド・コントロールのツールになり得る。オウムの前例を如実に突き付けられた日本社会がそれを知らない筈がない。

中には「オウムのやっていた事は仏教でもなければ瞑想でもない」と言う者がいるかも知れない。だが彼は、そしてあなた自身は、果たして現在持て囃されているブッダの瞑想法とオウムの瞑想法が、原理的根本的にどこがどう違い、だから危険でありだから安全である、と理性を以て的確に説明する事が出来るだろうか?

私は世事に疎いので余り知らなかったのだが、小池龍之介氏というかつてメディアで持て囃された僧侶がいる。彼の通った道のりはとても教訓的なので以下に引用しよう。

小池 龍之介(こいけ りゅうのすけ、1978年(昭和53年)12月15日 - )は、日本の元浄土真宗僧侶。対外的には浄土真宗本願寺派寺院の副住職として活動し檀家から布施を受け取る一方、ヴィパッサナー瞑想などに傾倒していたこと等が宗派から問題視されて僧籍を剥奪され、のちに単立寺院沙光山正現寺住職を名乗った[1]。

2018年秋頃から「数年後に解脱する」「解脱寸前」と公言する様になり、寺を出て路上生活をしながらの瞑想修行を志すが、2019年3月に挫折、「修行者が陥りがちな魔境の状態になり、もうすぐ解脱出来るという妄想に支配されていた」と懺悔の弁を述べた[5]。今後は還俗し、瞑想指導者としての立場も離れることを表明した[5]。その後、Youtubeの公式チャンネルにて坐禅セッションを再開すると公表。[6]

著書『坊主失格』において、奇行癖、複数の女性との同時交際、妻や母親への暴力、恋人の自殺未遂を告白している[7]。

Wikipedia:小池龍之介より

私は、この「数年後に解脱する」発言から「修行者が陥りがちな魔境の状態になり、もうすぐ解脱出来るという妄想に支配されていた」発言に至る流れはツイッターで偶然知ったのだが、その後の瞑想指導者を止める発言からYoutube上(!)での再開に至る流れも、事実ならかなり迷走気味に見える。

もちろん私は彼がオウムと同じような意味で危険だと主張するものではない。しかしいみじくも彼自身『魔境』と言っている様に、瞑想と言う営為が持つ本質的な危うさを、彼の言動やそのたどった道筋からは強く感じずにはいられない。

(瞑想という営為が、果たしてYoutubeで指導できるものだろうか??)

もし仮にテーラワーダ仏教の日本における布教が瞑想実践という強力なツールを伴って進行し、その結果、輪廻転生世界観を人生の基盤となる価値として信仰する人々が増えたら、あるいは瞑想の深みにおいて経験される様々な非日常的ヴィジョンを実体視し、現実生活に投影してしまう人々が少しずつでも増えて行ったとしたら、それは日本社会にとって、どうなのだろう?

いざという時に、誰か正しい指針を明確に明晰に指し示す事の出来る指導者が、今、存在するのだろうか?

以前にも確かツイッターに書いたのだが、現今の瞑想ブームにおいては様々な背景を持った様々な指導者が、あたかもキャラ選手権祭りの様にそれぞれ小難しい自説を引っ提げてあーだこーだ言い合っており、おそらく一般人には誰が最もブッダに照らして正しいのか容易には判断が付かないだろう。

その姿は、単にコンテンツとして心的嗜好品として消費されているだけの『マーケット』に過ぎないようにも見える。正に瞑想バブルだ。

そもそも『ブッダの瞑想法』とは、その瞑想法によって実際にブッダになった、つまり自ら『目覚めた』者だけが教えられるものであり、本来はブッダ本人かあるいは彼と同等の覚りを得た者だけが教える資格を持つものではないのだろうか?

(その指導下にあって認定された師範代までは許容範囲か)

そして、今回の投稿で検証した様に、単に技術的なレベルでも、現行のビルマ製ヴィパッサナーが必ずしもブッダ自身がそれによって覚りを開いた瞑想法と100%イコールである保証は全くない。むしろ近代ビルマ人のニーズに合わせた『自己流』であり不完全である可能性も極めて高いのだ。

現在日本でも世界でも、ブッダの瞑想法を標榜する瞑想指導者は無数にいるが、どれだけの人がそのメソッドが、本来の要件を満たしているのだろう。自分自身がエベレスト山の登頂経験がないのにも関わらず、誰かをガイドするなどという事が果たして可能なのだろうか?

件の小池龍之介氏が『魔境』にあったとされるさ中に『解脱寸前』と宣言した時、多くの取り巻き信者たちは「さすが先生!」と期待と憧憬のエールを送ったと聞いている。

『魔境』にある事に気付かなかったのは本人だけではなく、彼を取り巻くほとんど全ての人々が、それに気づく事が出来なかったのだ。

(日本におけるヴィパッサナー瞑想の一部について、安泰寺の無方さんが「人を殺さないオウム」あるいは「人は殺さないカルト」と批判しているのは傾聴に値する)

カジュアルな瞑想ブームというものはビジネス的に大成功をおさめており、もはや止めようがないかも知れないが、本稿がテーラワーダ由来の瞑想に関心がある多くの人たちが、少し立ち止まって考えてみるきっかけになれば嬉しい。 

 

 (掲載した論文の翻訳は専門家ではない私が取りあえずザックリとしたものなので、興味のある方はリンクをたどって原文を参照ください。この論文は他にも様々な興味深い知見に富んでいるのでお勧めです) 

 

 


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