仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

古代インドの心象世界

「苦脳」としての激流の大海 と『意官』

(本投稿内容には解剖学的図版が含まれます) しばらく続いたヴィーナ話から体内の輪軸世界に戻ろう。 前回までに私は、 「身体の中にある水において、最も重要なふたつ、それは妊婦において胎児をはぐくむ羊水と、明らかに他の臓器とは異なったありようを示…

ヴィーナと比丘、それぞれの『仕事(Kamma)』

箜篌(くご=ヴィーナ)の喩えとは、単なる「バランスのとれた中ほど(中道)の修行」などという抽象的な一般論的人生訓話ではなく、瞑想実践における具体的な『進め方』についての『技術的な』アドバイスであった。 そのような視点から、『チューニング』と…

箜篌の喩えと『チューニング(調弦)』

前に、“Mukha”という言葉をひとつの焦点に、空洞(空胴)としての共鳴器を持つ箜篌(ヴィーナ)と、瞑想修行をする比丘の身体を重ね合わせる視点について、考えてみた。 このソーナ・コーリヴィサ比丘の箜篌の喩えのエピソードは色々な意味でとても興味深い…

『ヴィーナである身体』の上に瞑想する者は2

インド音楽の起源とも言われるサーマ・ヴェーダは、ヤジュナと呼ばれる犠牲祭(供儀)を盛り上げるボーカル・ミュージックとして発展・形成されたもので、この時、このヤジュナの歌詠の伴奏を務めたのが、ヴィーナと総称される弦楽器だった。 そしてその歌詠…

『ヴィーナである身体』の上に瞑想する者は1

本論に戻ろうと思ったのだが、どうもヴィーナという楽器の成り立ちについて気になって仕方がない。前回引用した、 There is a beautiful analogy, in the rig veda, between the God-made veena, the human body, and the man-made one.リグ・ヴェーダには神…

神の手によるヴィーナ、としての『身体』

前回私は、A symbolic approach of Veena からの引用で以下のように書いた。 The Vedic representation of the human spinal cord as the musical instrument (Veena) . 意訳:ヴェーダ的な脊椎骨の連なりのひとつの表現形がヴィーナという楽器なのだ。 なん…

「箜篌の喩え」とヴィーナとしての『身体』

今回は『箜篌(くご)』の喩え、というエピソードを取り上げたい。仏教についてある程度学んだ人なら、誰でもが知っているだろう、あの絶妙なる喩え話だ。 パーリ律蔵(Vinaya) 大品(Mahavagga) 「ソーナよ。 汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎ…

【尼僧の告白】に見る『身体の中の大海』

さきに私は、 「坐禅の形に足を組んで坐った身体が筏であり、その筏で渡るべき輪廻の大海、あるいは煩悩の激流とは、実はその身体の中にある」 と書いた。 そして、 「成人の身体の60~70%は水であり、私たちの身体とは、たっぷたぷの水袋である」 と続けた…

『世界の起源』『輪廻の現場』としての大水(胎)

(本ブログ記事には解剖学的な画像が含まれます) 今回投稿はYahooブログ「脳と心とブッダの覚り」2014年7月15日記事を移転するものだが、既に本ブログ「仏道修行のゼロポイント」に投稿した内容と若干の重複部分がある。 けれど、くどいようだが最も重要な…

大地の車輪としての『骨盤』:これはドゥッカの車輪である2

(今回投稿には一部リアルな解剖学的画像が含まれます) 前回投稿では、大宇宙(マクロ・コスモス)を直立した輪軸に喩える世界観から身体(ミクロ・コスモス)にも輪軸構造が内在する、という思想が導かれ、その中で天界に重ねられた頭蓋の底部に六本スポー…

煩悩うず巻く激流の大海と『身体』

前回投稿では、日本でも人口に膾炙している『彼岸』と言われるものが、一体何処にあるのか?という点について、須弥山世界観を参照しつつ古代インド人の心象風景に基づき紐解いてみた。 今回は、その須弥山世界観の適用範囲をもう一段拡大しつつ『煩悩激流の…

『彼岸』は何処にあるか?

私たち日本人にとって最も人口に膾炙したなじみ深い仏教用語に、『彼岸』という言葉がある。これは第一には春と秋年二回のお彼岸であり、主に先祖供養と結びついた仏事として私たちの生活に定着している。 以下Wikipediaより、 彼岸(ひがん)は、雑節の一つ…

これはドゥッカの車輪である1

仏教だけではなく、あらゆるインド思想の核心に位置するドゥッカ(苦)の認識。そのドゥッカという語感の根幹には、『悪しく不完全に作られた軸穴を持つ車輪の、ガタガタとした乗り心地の悪さ』という原風景が広がっていた、と以前の投稿で書いた。 今回紹介…

太陽の末裔・世界を照らす者:スーリヤ・チャクラと、瞳と蓮華と光背と

初期パーリ仏典の中で、ブッダを称える定形表現について考える二回目。前回は眼ある人、世界の眼など眼に関わるものだったが、今回は太陽について。 仏典の中には、ブッダを「世を照らす者」「光輝ある者」「太陽の末裔」「光明を放つ」「雲を離れて照る太陽…

車輪と蓮華と『眼』とストゥーパの重ね合わせ

前回の投稿の終盤に「蓮という植物の総体は花(蓮華)も葉も根も茎もその全てが車輪の形を表している事を前提に車輪と同一視されていた」と書いた。 そこでは書きそびれたのだが、妙法蓮華経をはじめ浄土経、阿弥陀経などの多くの大乗経典には「大いなること…