仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

『ヴィーナである身体』の上に瞑想する者は2

インド音楽の起源とも言われるサーマ・ヴェーダは、ヤジュナと呼ばれる犠牲祭(供儀)を盛り上げるボーカル・ミュージックとして発展・形成されたもので、この時、このヤジュナの歌詠の伴奏を務めたのが、ヴィーナと総称される弦楽器だった。

そしてその歌詠する祭官の身体と、伴奏するヴィーナは、インド人特有の世界観の中で「重ね合わされ」ていた。

以上が、ざっとかいつまんだ前回までの内容だが、このヴェーダの祭式におけるヤジュナ:Yajna(供儀・犠牲祭)、ブッダの時代にはこのヤジュナにおける動物の屠殺がバブリーに肥大化して、それ(特に牛の虐殺)に対してブッダが全力で反対し批判している事実は、多くの皆さんがご存じだろう。

スッタニパータ:ブッダのことば、中村元訳、岩波文庫P57~、第二:小なる章、七:バラモンにふさわしいこと、より引用。

311 昔は、欲と飢えと老いという三つの病いがあっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので九十八種の病いが起った

312 このように(殺害の)武器を不法に下すということは、昔から行われて、今に伝わったという。何ら害のない(牛が)殺される祭りを行う人は理法に背いているのである。

313 このように昔からのこのつまらぬ風俗は、識者の非難するものである。人はこのようなことを見るごとに、祭祀実行者を非難する

このような、ブッダによって非難されているヤジュナの動物犠牲祭において、場を盛り上げるために使われ演奏されていたのが、ヴィーナという楽器のひとつの象徴的な原像だったのだ。

もちろん、ブッダはこのような原イメージを十分に意識した上で、ソーナ比丘にヴィーナの喩えを説いている。そこにはブッダの、明確な『自覚と決意』が漲っていると思われるのだが、その事に触れる前に、事実関係を順番に片づけて行きたい。

前回私は、広義のリグ・ヴェーダと狭義のそれとの違いについて言及して自分の勘違いを説明したが、そもそもヴェーダとは一体何なのだろうか。

「それは何よりも、詠唱される、すなわち歌われる(詠われる)神々への賛歌であった」と私は前に書いた。

より具体的に言うと、そのヴェーダの賛歌が詠われる祭祀を司る、四種類のバラモン祭官たちによって護持されてきた四種類の聖典群が『ヴェーダ』と総称されている、という事になる。

以下に私自身もいまいち明確に把握しきれていなかった、このヴェーダと言われるシステムの概要について、確認がてら整理して見てみたいと思う。

たいへん安易な姿勢で恐縮だが、ネット上を検索していたら非常に分かりやすくまとめてあるサイトを発見したので、そこから引用させていただきたい。

~以下、高野山大学院修論 第Ⅱ章、古代インド思想 ―ヴェーダの倫理―(1) さんからの引用

宗教としてのバラモン教の本質は祭祀である。バラモン教を精査することにより、釈尊が出現した紀元前5,6世紀頃の古代インドの自由思想家たちの宗教、思想を浮き彫りにし、その変遷を知ることができる。

インドにおける哲学的萌芽はインド最古の文献群であるヴェーダ(veda)によって認められる。ヴェーダは宗教的知識であり、転じてバラモン教聖典の意味となった。

ヴェーダは最初から祭式との関連で発達したもので協同して祭式に参与する祭官の職分に応じて四種に区分される。

(1)、リグ・ヴェーダ(Ṛg veda)― 神々を祭場に招き、讃歌によって神々を讃えるホートリ祭官(勧請僧 hotṛ)に属する。

(2)、サーマ・ヴェーダ(Sāma veda)― リグ・ヴェーダに含まれる讃歌を一定の旋律に乗せて歌うウドガートリ祭官(歌詠僧 Udgātṛ)に属する。

(3)、ヤジュル・ヴェーダ(Yajur veda)― 祭祀の実務を担当し供物を調理して神々にささげるアドヴァリウ祭官(司祭僧 Adhvaryu)に属する。

(4)、アタルバ・ヴェーダ(Atharva veda)― 祭式全般を総監督するブラフマン祭官(祈祷僧Brahman)に属する。

ヴェーダを構成する要素は、四部門に分類される。

(1)、サンヒター(Saṃhitā)(本集)― 讃歌・歌詞・祭詞・呪文の集録。

(2)、ブラーフマナ(Brāhmaṇa)(祭儀書)― 祭式の規定と祭式の神学的説明を主としその間に神話・伝説を含む。

(3)、アーラニヤカ(Āraṇyaka)(森林書)― 秘密の祭式や神秘的教義を載せ、人里離れた森林の中で伝授されるもの。

(4)、ウパニシャッド(Upaniṣad)(奥義書)― 種々なる秘説の集成書。宇宙万有の一元を宣言する哲学書である。

これら四種のヴェーダと各ヴェーダを構成する四部門の関係は、四種ヴェーダの一つであるリグ・ヴェーダは、サンヒター、ブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッドの四部門を含み、広義のリグ・ヴェーダは全部門の総称であるが、正確にいうならリグ・ヴェーダ・サンヒターという部門を指すことになる。他ヴェーダについても同様である。

~~~以上、引用終わり(ハイライト筆者)~~~

私たち普通の日本人が通常「リグ・ヴェーダ」として考えるものはホートリ祭官に属する広義のリグ・ヴェーダの中のサンヒターである、という事になる。まったくややこしい話だ(笑)

という事で話がつながるが、前回最後に発見し紹介したアイタレーヤ・アーラニヤカというのは、このホートリ祭官に属する広義のリグ・ヴェーダの中のひとつのアーラニヤカである、という事になる。

では前振りが長くなったが、以下にこのアイタレーヤ・アーラニヤカに描かれた『神々によって造られた神聖なるヴィーナとしての人の身体』という該当箇所を見て行きたい。

Aitareya Aranyaka:Ill ARANYAKA, 2 ADHYAYA, 5 KHANDA, P263

3. Next comes this divine lute (the human body, made by the gods). The lute made by man is an imitation of it.

次に来るのはこの神聖なるヴィーナとしての人間の身体~それは神々によって造られた)である。人の手によって造られた楽器ヴィーナは、その(人間の身体の)模造品に過ぎない。

4. As there is a head of this, so there is a head of that (lute, made by man). As there is a stomach of this, so there is the cavity (in the board) of that. As there is a tongue of this, so there is a tongue - in that. As there are fingers of this, so there are strings of that. As there are vowels of this, so there are tones of that. As there are consonants of this, so there are touches of that. As this is endowed with sound and firmly strung, so that is endowed with sound and firmly strung. As this is covered with a hairy skin, so that is covered with a hairy skin.

これ(神々によって造られた神聖ヴィーナである人の身体:以下同)にがあるように、それ(人の手で造られた楽器ヴィーナ:以下同)にはがある。

これに胃袋(あるいは総称としての腹腔)があるように、それにはボードの内部に空洞がある。

これにがあるように、それにがある。

これにたちがあるように、それにたちがある。

これに母音たちがあるように、それに音階たちがある。

これに子音たちがあるように、それにタッチ(指で弦を弾く事?)たちがある。

(神々によって)音声を賦与されたこれ(人の身体)が腱?によって固くまとめられているように、(人によって)音色を付与されたそれ(楽器ヴィーナ)にはしっかりとが張られている。

これが毛深い皮膚で覆われているように、それは毛皮で覆われている。

5. Verily, in former times they covered a lute with a hairy skin.

まことに、いにしえにおいて彼らは、ヴィーナを毛皮によって覆っていたのだ(日本で言う「三味線の猫皮・蛇皮」のイメージ?)。

6. He who knows this lute made by the Devas(and meditates on it), is willingly listened to, his glory fills the earth, and wherever they speak Aryan languages, there they know him.

神々によって造られたヴィーナである人の身体を知りその上に瞑想する者の、そのメロディである音声(賛歌)は(神々に)快く聞かれ、彼の栄光は大地を満たすだろう。そしてどこであろうと彼らがアーリヤの(高貴な・聖なる)言葉を唱える時、彼らは彼を知るだろう。

archive.orgさん:「The Upanishad by Müller, F. Max 1879」のP263~からの抜粋・引用(再掲)

~~以上、引用終わり。意訳とハイライトは筆者~~

う~ん、実に興味深い!

ここに来て漸く、瞑想実践と「人の身体とヴィーナ」との強固な関係性が、明示的に立ち現れてきた。正に英語で “I got it !” と叫びたくなるような瞬間だ。

私の見立てでは、このアイタレーヤ・アーラニヤカに描かれたヴィーナと身体にまつわる心象世界は、ブッダの瞑想法及び『その中で語られたヴィーナの喩え』に直結する『前提背景思想』だと理解され得るのだが、読者の皆さんは、いかがだろうか。

まず、上記内容で最初に指摘したいのが、神聖ヴィーナとしての人の身体を造ったのが、“神々=Gods=Devas”と複数形になっている点だ。

ウパニシャッドにおける大宇宙の中心原理ブラフマン、さらにはすでにリグ・ヴェーダの後期には顕在化していた唯一至高者 =Tad Ekam を創造者(身体ヴィーナの作者)として意識していたのならば、ここでは神は単数形になるべきだ。しかしそうはなっていない。

この事は、人の身体(サーマン=賛歌、を歌う身体)をヴィーナになぞらえるという心象が、このような唯一至高神という観念が顕在化し支配的になる遥か以前の時代に遡及する事を強く示唆しているだろう。

それがどれだけ古い起源を持つでものであるか、上記引用第5節を見ればよく分かる。

アーラニヤカ典籍というものは、時代的にはブラーフマナ文献と古ウパニシャッド文献の間に位置づけられる、と一般的に言われているようだが、第4節における、

「これが毛深い皮膚で覆われているように、それは毛皮で覆われている」

を受けて第5節では、

「まことに、いにしえにおいて彼らは、ヴィーナを毛皮によって覆っていたのだ」

と解説している。

つまり、このアイタレーヤ・アーラニヤカの記述が成立した時点で、過去の古い伝承から身体とヴィーナの重ね合わせについて引用し(3,4節)、そのような古い時代のヴィーナについての解説をわざわざ行っている(5節)事になる(アイタレーヤ・アーラニヤカの時代には、このような古いタイプのヴィーナは一般的ではない)。

という事は、「人の身体を楽器ヴィーナに喩える」という心象は、このアーラニヤカの時代以前、プラーナかあるいは三ヴェーダ・サンヒターの時代にまでさかのぼって起源する可能性が高い、と考えられるのだ。

その証拠とも言える情報を得たので以下に紹介したい。

~以下、Sangeetanubhavaさんからの引用~

The instrument Vina finds description in Vedic literature as well as epic literature.

楽器ヴィーナに関する記述は、ヴェーダ諸典籍や叙事詩文学に見出す事ができる。

Atha Khalviyam deivi Vina Bhavati tadanukriti rasau maanushi vina bhavati ||

The above quote from Aithreya Brahmana mentions Vina as of two kinds, Deive (divine=神によって造られた) and Manushi(人の手で作られた).

アイタレーヤ・ブラーフマナの上のクォートでは2種類のヴィーナ、神の手によるヴィーナと人間の手によるヴィーナが言及されている。

The human body created by God is the Deiva vina. The vina made out of wood by the human being is Manushi vina.

人の身体は神の手になるデイヴァ・ヴィーナであり、人の手になる木製のヴィーナはマヌシ・ヴィーナである。

The divine vina obviously expresses the emotions of the immortals in the higher worlds. The human vina expresses the emotions of the mortals.

神聖ヴィーナたる祭官(の身体)は高らかに天界の不死者(神々)の感情を歌い上げ、楽器ヴィーナは死すべき者(人間)の感情を歌い上げる。

Man was also known as Gatra vina. Gatra means human body and not human voices. The vina played by him was known as Daru Vina (wood vina).

人はガトラ・ヴィーナとしても知られていた。ガトラとは「人の身体」を意味する。「人の声」ではない。人によって弾かれるヴィーナは木製ヴィーナである。

A sloka in the Sama Veda(サーマ・ヴェーダ) says:

Daaruvee gaatra vina satve vina ga na jaatishu |
Saamikee gaatra vina tu srutyai lakshanam ||

Meaning:the body known as Gatra vina and vina made of tree known as Daru vina are meant for divine music.

ガトラ・ヴィーナとして知られる身体とダル・ヴィーナとして知られる木製のものは、神聖なる音楽(賛歌)のために用いられる。

There are innumerable references in our scriptures to show that the human body and the vina are similarly patterned. Since the vina resembles the Brahmadi Danu responsible for Vishnu Gana, the Manushya vina and Deiva vina are equal or analogous to each other.

我々の古文献には、人の手によるヴィーナ(楽器)と神の手によるヴィーナ(身体)が相似のパターンで構成されていると言う無数の言及がある。それはイコールであり、相互にアナロジーの関係にある。

The deiva or gatra vina which is the human body, is permeated with nada (musical resonance). Deiva vina contains dhwani and nada.

神聖なるガトラ・ヴィーナである人の身体は音楽的共振・反響に満たされる。それは音とその響きを包含する

Like the head of the body, vina also has a siras or head (kudam in Tamil). Like man’s udara, vina also has a udara. Like the human fingers, vina has ‘strings.

Sa-Pa and Sa-Ma swaras permeate both the human body and the vina. If you closely examine the human body and the vina, you will come to know this.

サ~パ音もサ~マ音も人の身体とヴィーナの両方を満たす。もしあなたが注意深く身体とヴィーナを精査するならば、それを知る事になるだろう。

(日本語訳は筆者、一部省略ご勘弁)

~以上、引用おわり~

前に取り上げたアイタレーヤ・アーラニヤカのヴィーナに関する記述は、この(おそらくより古い)アイタレーヤ・ブラーフマナの記述を引き継ぐものだったのだろう。

これで人の身体と楽器ヴィーナを重ね合わせる心象の典拠として、アイタレーヤ・アーラニヤカ、アイタレーヤ・ブラーフマナ、そしてサーマ・ヴェーダが確認できた事になる。

サーマ・ヴェーダはスッタニパータなど最古層のパーリ典籍においてすでに三ヴェーダとして知られているし、これら身体とヴィーナをひとつのセットとして捉える世界観は、確実にブッダの時代の遥か以前から連綿と続く心象なのだと考えて、まず間違いないだろう。

もちろん、これら聖典ヴェーダの学習システムは、ブッダの時代にすでに上流階級(バラモンクシャトリヤ、バイシャ)の良家の子弟にとって必須のものとして確立していたので、ブッダとソーナ比丘をはじめとした声聞の弟子たちの間で、このような『身体=ヴィーナ』という心象は『一般教養』として広く共有されていた可能性が高い、そう考えられる。

そして、そのような聖ヴェーダの文脈と、上流階級の教養(文化的宗教的な嗜み)としてのヴィーナの実践(習得・演奏)は不可分一体であった訳だ。

このアイタレーヤ・ブラーフマナの記述にはいくつかの興味深い心象が記されている。

「神聖ヴィーナたる祭官(の身体)は高らかに天界の不死者(神々)の感情を歌い上げる」「楽器ヴィーナは死すべき者(人間)の感情を歌い上げる」

という対置構造だ。特に、バラモン歌詠官(の身体)による賛歌が、『神々(不死者)の感情を歌い上げる』と言っている所だ。

(この神々の『不死性』とは、不死の至高性がブラフマンなる一者によって簒奪される以前の段階にある)

これはつまり、賛歌を歌っている歌詠者は、人間ではなくその瞬間には『神』の気持ちになり切ってその感情を歌っている、という事だろうか。

もうひとつは、

「ガトラ・ヴィーナである人の身体は音楽的共振・反響に満たされる。それは音とその響きを包含する

として、賛歌を歌う祭官の様子を、体感的な『振動(バイブレーション)』あるいは『共鳴胴』として把握している事だ。

そして最後は、

「サ~パ音もサ~マ音も人の身体とヴィーナの両方を満たす。もしあなたが注意深く身体とヴィーナを精査するならば、それを知る事になるだろう」

前段は専門的過ぎて不明だが、全体的にと言うものがある種の物質(水)の様に身体を物理的に満たしているイメージが感じられる。

後段は明らかに「身体(ヴィーナ)を注意深く観る(精査する)事によってそれ知ることができる」と言っている。

これはあらゆる道具に共通する事だと思うが、道具の使用に熟達する為には、道具の性質を熟知しなければならない。それが弦楽器であれば、どの弦をどのように押さえどこをどのように弾けば、どのような音がするか、と言う事について、あらゆる音階やそのつながりにおいて経験的に熟知していなければ、名演奏はできないだろう。

それと同じことが人(歌詠官)の身体についても当てはまる。彼は発声時の自身の唇や歯や舌や口腔全体、更には喉の奥の声帯から胸郭、横隔膜に至るまで、つまり全身体的連関における個々の運動を呼息吸息の機微と共に熟知し、全てを(意識的・無意識的レベルで)完璧にコントロール出来て初めて、自らが思い描き理想とする歌唱を実現する事が可能になる。

これは羽生結弦選手の様なトップ・アスリートが、ほとんどミリ単位の精密な身体操作を実現して初めて、あのような素晴らしい技を可能たらしめるのと同じ感覚だ。

そこで、再びアイタレーヤ・アーラニヤカの引用部分に戻って、最終第6節の内容をもう一度見てみよう。

6. He who knows this lute made by the Devas(and meditates on it), is willingly listened to, his glory fills the earth, and wherever they speak Aryan languages, there they know him.

神々によって造られたヴィーナである人の身体を知りその上に瞑想する者(のメロディである音声=賛歌)は(神々に)快く聞かれ、彼の栄光は大地を満たすだろう。

そしてどこであろうと彼らがアーリヤの(高貴な・聖なる)言葉を唱える時、彼らは彼を知るだろう。

これこそが、正に今回の読み筋の中の白眉であり急所の一手とも言える部分だが、ここでは明らかに神聖ヴィーナである『祭官=人間の身体』と、それによって演奏される(=歌われる)賛歌が、Meditationという営為と重ねあわされている

このMeditate、原語は確認できなかったが、英訳者によってこのように訳されている以上、それなりの根拠に基づいているのだろう。

そして、その様な瞑想としての賛歌詠唱が神々を喜ばせる(快く聴かれる)事で、そのリターンとしての恩寵(栄光)は大地を満たす。

 

という事はつまり、歌詠と言う瞑想実践』が、神々へ捧げる祭祀になっている事を意味する。

 

ここは大変重要な所なので繰り返すが、元々賛歌と言うものは祭祀の中で神々へ捧げ喜ばすものとして生まれ発展してきたのだから、それ自体は何の不思議もない、しかし、賛歌がひとたび瞑想』と定義された上で、神々に捧げられる、となると、一段次元が異なって来る。

何故ならそれは、ブッダの瞑想法も含めて、だが、汎インド教の核心に位置付けられる『瞑想修行』という営為そもそもの原像においては『神々へ捧げる祭祀』だった、事を強力に示唆するからだ。

そして、この神々へと捧げる歌詠において、その根底に必須とされる心的プロセスとは、歌詠者自身が「自分の身体を知る」と言う事だった。

つまりこれは、ブッダの時代以前から、祭祀の歌詠と言う『瞑想』実践において、自らの身体を観察し熟知する、と言う心的営為が、既に行われていた事を意味する。

これは、もちろんブッダの瞑想法における『身体を観ずる瞑想』とは微妙に文脈を異にしている。それは何よりも歌詠瞑想における合目的的な手段に過ぎなかった。けれどその文脈は、明らかにブッダの瞑想法へとつながる、前段階であるように私の目には映る。

では何故、神聖ヴィーナである身体=祭官による詠唱が、瞑想実践メディテーション)を意味するのだろうか?

これは日本の禅的、あるいは南方アジアのテーラワーダ的仏教観に支配されていると分かりにくいのだが、そもそも汎インド教的な『瞑想』実践の起源を紐解いて行くと、その心象が明らかになるだろう。

Apteのサンスクリット辞典で「Meditation」を引くと、長大なリストがズラズラと出て来る。特に仏教との関わりを焦点にその内容を概観すると、以下のようになる。

1) भावन (p. 1193) bhāvana

1 An efficient cause. -2 A creator. -3 An epithet of Śiva. -4 Of Viṣṇu.

1 Creating(創造する), manifesting(出現する、顕在化する)  -2 Promoting any one's interests. -3 Conception(概念), imagination(想像力), fancy, thought, idea;  -4 Feeling of devotion(献身), faith(信仰);  -5 Meditation(瞑想), contemplation(熟考), abstract meditation. -6 A supposition(推測する), hypothesis. -7 Observing(観察する), investigating(調べる、研究する). -8 Settling, determining; -9 Remembering(記憶する、想起する), recollection(回想する). -10 Direct knowledge(直接的な知識), perception(知覚) or cognition(認識). -11 The cause of memory which arises from direct perception(記憶の元となる直接的な知覚). -12 Proof, demonstration, argument. -13 Steeping(没頭させる、深くしみこませる), infusion思想などを:注入する), saturating(浸す、深くしみ込ませる、充満させる)a dry powder with fluid;

 ~~~~~~~~

2) ध्यान (p. 868) dhyāna

 1 Meditation(瞑想), reflection(内省、沈思、熟考), thought(思考); contemplation(黙想、熟視);

-2 Especially, abstract contemplation, religious meditation;

-3 Divine intuition(神聖な直観) or discernment(識別、洞察).

-4 Mental representation (心象)of the personal attributes(帰属する) of a deity;

 ~~~~~~

1) युज् (p. 1313) yuj

1 To join(一緒になる), unite(結びつく), attach(くっつける), connect(つなげる), add;

2 To yoke(くびきにつなげる), harness(ハーネス:馬具を付ける), put to;

3 To furnish or endow with;

-4 To use, employ(使う), apply;

5 To appoint, set

6 To direct(注意を向ける), turn or fix upon(意識を固定する

7 To concentrate one's attention upon(注意を集中する

8 To put, place or fix on

9 To prepare, arrange, make ready, fit.

11 To adhere or cleave to(固着する、密着する).

12 To enjoin, charge;

13 To put in, insert.

14 To think or meditate upon(その事を考える、瞑想する).

大変アバウトな日本語訳を付けたが、これをざっと見ていくと大体のイメージが固まってこないだろうか。

このインド教的な『瞑想実践』の原イメージとしての「ウパース」「ウパーサナ」については、以前にまとめて書いている。

まずインド的瞑想実践とは、「集中された心のはたらきの継続」である。

それは何かを熟考したり、直観し、想像し、考究し、観察し、調査し、 そのイメージ全てをしっかりと心に記憶し、常に注視し、それに結びつき、意識を固定し、集中し、密着し、それによって満たされ、その事だけを想い続ける、集中した心的営為の継続。

そして、これが最も重要な事だが、上で「それ」とか「その」とか言う代名詞で表現したものは、全て神、神々、あるいはブラフマンなどの、人々が希求して已まない超越者だったという事実だ。 

くどいようだが先の文脈に『神々』を当てると、

神々について熟考したり、神々を直観し、想像し、考究し、観察し、調査し、 神々のイメージ全てをしっかりと心に記憶し、神々を常に注視し、神々に結びつき、神々に意識を固定し、神々に集中し、神々に密着し、神々によって満たされ、神々の事だけを想い続ける、集中した心的営為の継続。

となる。これこそが、汎インド教的な瞑想実践の原像なのだ。そしてこの『瞑想』とは、既に見てきた様に本来神々に捧げる『祭祀行為』そのものであった

その神々』が、ウパニシャッドの時代においては『絶対者ブラフマンに取って代わられる事になる。そして苦行時代の沙門シッダールタもまた、私の読みが正しいのなら、この文脈に乗って苦行に励み、菩提樹下に結跏趺坐し瞑想(禅定)をきわめた。

この沙門シッダールタの求道においては、以前にもたびたび言及した『内なる祭祀』としての瞑想行法、というコンセプトが重要な意味を持ってくる。

(これも後日詳述するが、『苦行』もまた本来的には神に捧げる内なる祭祀』に他ならない)

ここで思い出して欲しいのが、ヒンドゥ・ヨーガにおける、聖音オームとそのマントラメディテーションだ。

あらゆるヴェーダ(賛歌)の精髄(ラサ=エッセンス)としての『聖音オーム』。それは同時に『絶対者ブラフマンそのものでもある。

そのような概念は、すでにブッダ以前の古ウパニシャッドの時代には成立していた事実が知られている。

この神聖な音〈オーム〉は〈唯一者〉に到達しようとする形而上学的傾向においては絶対者のシンボルとして重要な意義を獲得した。

あらゆる語は聖音〈オーム〉に包摂され、聖音〈オーム〉は全世界にほかならないと考えられた。

またこの神聖なシラブルはヴェーダの精髄であると見なされた。シラブルを意味するaksharaという語はまた『不壊』という意味があるので、この神聖なシラブルは不壊者、不死者、恐れなきもの、とされた。それは絶対者ブラフマンであり人はそれを知ったときに、それとなるのである。

中村元選集第9巻 ウパニシャッドの思想 P40~ 抜粋)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

チャーンドーグヤ・ウパニシャッド 

P16:第一章・第一節

〔1〕『オーム』という音をウドギータ(『サーマ・ヴェーダ』の吟誦)と崇むべきである。ウドガートリ(『サーマ・ヴェーダ』を吟誦する祭官)はまず初めに『オーム』と吟誦する。この神聖な音について解説をしよう。

~中略~

P24:同 第五節

〔5〕このように知って、この綴り(オームという音節=シラブル)を唱える者は、まさにこの不死にして無畏である綴り(音節)の声音に入る
神々も不死になったそれに入って、人は不死になる

~以上、原典訳・ウパニシャッド 岩本裕訳、ちくま学芸文庫より引用~

ここで称揚される聖音オームとは『賛歌の精髄』であり、それは不死であり絶対者ブラフマンであり【一切世界】だと言う。

そして、それを知ってオームを唱える者は、正にこの不死なる声音に入り自らその不死になるのだと言う。

このオウムの念誦とそこにまつわる心象風景は、ヴェーダの時代の賛歌の瞑想からあらゆる煩瑣な夾雑物を濾しとり蒸留しそのエッセンスを抽出したとも言えるだろう。

煩瑣かつ膨大な賛歌の集成が、ただひとつの音節『オーム』へと収斂された、と言う意味においても、そして、多種多様な神々がただひとり(Eka)の『絶対者ブラフマンへと収斂された、と言う意味においても。

そしてこのオームの念誦は、私の見立てでは明らかにアーラニヤカ的な歌詠瞑想とブッダの瞑想法の、ある種『中間形態』と考えられる。

もう13,000文字を超えてしまった。書き綴っていると際限がなくなるので、ここで次回につなげたい。

 

(本投稿はYahooブログ2016-1-19記事「ヴィーナである身体の上に瞑想する者は」2016-1-31記事「賛歌の精髄としての“聖音オーム”と瞑想実践」を統合し加筆修正の上移転したものです) 

 

 

 


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