仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「箜篌の喩え」とヴィーナとしての『身体』

今回は『箜篌(くご)』の喩え、というエピソードを取り上げたい。仏教についてある程度学んだ人なら、誰でもが知っているだろう、あの絶妙なる喩え話だ。

パーリ律蔵(Vinaya) 大品(Mahavagga)

「ソーナよ。 汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎていたならば、そのとき琴は音声こころよく、妙なるひびきを発するであろうか

尊い方よ。そうではありません。」

「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が緩やかすぎたならば、そのとき琴は音声こころよく、妙なるひびきを発するであろうか?」

「そうではありません。 」

「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎてもいないし、緩やかすぎてもいないで、平等な(正しい)度合いを保っているならば、そのとき琴は音声にこころよく、妙なるひびきを発するであろうか?」

「さようでございます。」

「それと同様に、あまりに緊張して努力しすぎるならば、こころが昂ぶることになり、また努力しないであまりにもだらけているならば怠惰となる。 それ故に汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。 もろもろの器官の平等なありさまに達せよ。」

 

 テーラガータ:638

「私が過度の精励努力を行った時、世の中における無上の師、眼のある方(=ブッダ)は箜篌のたとえ(弦を強く張りすぎる事もなく、緩めすぎる事もないように、との教え)を用いて、私に理法を説いてくださった。」


~以上、中村元選集決定版 第17巻「原始仏教の生活倫理 P96~98より。

ここで琴とか箜篌とか訳されている楽器が具体的にどのような物であったのかは明らかではない。おそらくは古代インドにおいてポピュラーだった弦楽器で、原語はヴィーナになる。

このヴィーナだが、大きく二つの形態があるようだ。それは日本の琵琶やギターの様に大きな胴(共鳴器)の中央に弦を張った物と、胴(共鳴器)と棹がその下端でつながってL字(V字)型を作り、両者の間に弦を張る箜篌(くご:竪琴、ハープ)タイプの物だ。

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産経新聞より:正倉院の五弦琵琶レプリカ

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天平楽府より:正倉院箜篌(竪琴タイプ)

箜篌という楽器は、ネット上を調べるとインドと言うより中国からペルシャというイメージが強いのだが、中村先生がここでこの訳語を用いたのは、何らかの根拠に基づいているのだろうか。

実はブッダの時代に比較的近いシュンガ朝期の仏跡に残された彫刻図版には、琵琶タイプのヴィーナが描かれている。個人的には仏典に登場するのはこちらのタイプだと思うのだが…

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楽し気な宴の中でヴィーナを弾く楽師

それはともかく、琵琶タイプであれ竪琴タイプであれ、本ブログ記事の文脈に沿って見た時、そこには共通する特徴がある。

それが共鳴器、すなわち『胴』の存在だ。

私はこのような記事を書きながら、『言葉』と言うもの、あるいは漢字というものの在り様の面白さを常々感じているのだが、ここでもそれが当てはまる。

ヴィーナという弦楽器は基本的に共鳴器と棹と弦でできている。その共鳴器とはヒョウタンなどの内部をくり抜いて、あるいは木をくり抜いたり張り合わせて作った空洞状の胴体で、それを専門用語でも『胴』という言葉で表しているのだ。

もちろん、胴とは同時に人間の身体をも意味する。そして、この共鳴器としての胴の本質とは、インド教的思想と実践において極めて重要な意味を持つ “Kha” すなわち “空処” である、という事だ。

そう、それが琵琶であれ箜篌であれギターであれバイオリンであれ、およそ弦楽器というものは、共鳴器としてのを持ち、その内部は空洞(空処)になっている。

このブッダによるヴィーナの喩えについて語られる時、多くの場合、その焦点になるのは『弦』の存在だ。実際にブッダが語っているのは正にその弦の張り具合についての喩え話だからだ。

しかし、弦が鳴り響くためには『空処』としての共鳴器の存在が必須である、という「事実」をブッダがもし踏まえていたとしたら、そしてヴィーナと言う楽器の上に『瞑想行者の身体』、と言うものを重ね合わせていたとしたら、また違った風景が立ち現れて来ないだろうか。

調べてみると、インドには古代から連綿として弦楽器ヴィーナと人間の身体を「重ね合わせる」心象が継承されてきた歴史があった。

以下はsaraswathiveena さんからの引用で、これはインド人の師匠に弟子入りしているヴィーナ奏者の方のブログなので、インド的心象世界についての証言としては信頼度が高いだろう。

A symbolic approach of Veena

The veena is often compared to the human body. Its big bowl (kudam) is like the human head. The finger- board that is connected to the curved end with the dragon or yali is compared to the human spinal column.

The 25 frets are compared to the vertebrae and the 25 principles in Yoga. The black wax in which the frets are set is supposedly the illusion that human beings endure.

The dragon itself symbolizes the triumph over evil and courage. The pegs or the birudais are the symbol of mind that controls everything.

筆者の簡訳:楽器ヴィーナはしばしば人間の身体に喩えられる。ボウル状に膨らんだ共鳴胴部分(クダム)は人間のに相当する。

指を使って弦を抑えるフィンガーボード(棹)部分は背骨に、25に区切られたフレッツ部分は脊椎骨の並びに、さらに25のヨーガの原理に喩えられる。

フレッツがセットされるブラック・ワックスは人間が苦闘しなければならないイリュージョン世界を象徴する。

ドラゴン(棹の先端にある飾り?)それ自体が悪魔に対する勝利と勇気を象徴し、ペグ(複数、弦を締めるネジ)は全てをコントロールする心を象徴する。

拙訳ご容赦だが、ここで明らかに示されているのは、第一に、ヴィーナという楽器が人間の身体に重ねあわされている、という圧倒的な事実だ。

もちろんこの証言自体は現代人によるもので、ここで例えられているサラスワティ・ヴィーナという楽器もブッダの時代のものからはるか後世に作られた比較的新しいものかも知れない。

けれど、このような楽器と身体を重ね合わせて考える、という世界認識のパターンは、正に伝統的かつ典型的な古代インド人の心象そのものだと私にはよく分かる

もうひとつ明言されている事実、それは楽器の演奏や操作というものが、スピリチュアルな修行、もしくは求道のプロセスと重ねあわされているという点だ。

弦を締めて調弦するペグが統覚としての心を象徴し、おそらくそのペグが集まる竿端部分に装飾されたドラゴン(ヤーリ)が悪魔(正にマーラ!)に対する勝利とそのために必要とされる勇気を象徴している。

つまりヴィーナの演奏とSpiritual Endeavor(求道)が重ねあわされている!

これはある意味、古いタイプの日本人には分かりやすいかも知れないが、日本人的な感覚以上に、インド人にとっては全ての人間的営為が宗教的求道と重ねあわされており、芸術・音楽においても典型的にそれがなされている、という事だろう。

読者の方が上記のサイトを見て、第一感何を思うかは分からないが、私がこのサイトを発見し一読した第一印象とは、「これこれ、これこそがインド人の心象風景そのものなんだ!」という正に我が意を得たり、という興奮だった。

そして、ブログ記事は以下のように続く。

Veena can also be represented as the spinal cord and also the relation to the chakras.

The Vedic representation of the human spinal cord as the musical instrument (Veena) .

The 24 frets of the instrument are analogous to the 24 cartilages in the spinal cord.

The number 24 also relates to the 24 syllables in the Vedic Gayatri mantra. Thus the inter-relation between a temple, Goddess Saraswati holding Veena, The production of seed-sounds at the various chakras in the spinal cord and representation of Veena as spinal cord shows the multi-faceted manifestations of Vedic principles and experiences.

簡訳:ヴィーナという楽器は脊椎骨の並びとその上に存在するチャクラをも象徴・体現している。

脊椎骨の連なりについてのヴェーダ的なひとつの表現形がヴィーナという楽器なのだ。

24のフレッツは24の脊椎骨の連なりに相当し、24音節のヴェーダ・ガヤットリー・マントラにも関連する。

ヴィーナを抱えた女神サラスワティと寺院、そして脊椎上の様々なチャクラから生まれるシード・サウンド(ビンドゥ音)とヴィーナ(の棹)が脊椎骨を体現している事は、ヴェーダ的な原理とその体験の多面的な表現形に他ならない。

たいへん拙い翻訳で申し訳ないが、全体の雰囲気は理解できたかと思う(ヴィーナに関する専門用語は適当にスルーしている)。

以上の文章の最後には、以下の画像が掲載されていた。正にヴィーナは身体であり、身体はヴィーナである、という事を見事に証明しているだろう。

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同サイトより。おそらくはサラスワティ・ヴィーナ、と身体との重ね合わせ

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WikipediaよりSaraswati Veena

上二枚の画像を重ねると、一番大きい共鳴器が頭に、そして実際に弦をつま弾いて音を発する部分が『顔』に(より具体的には口)擬せられている事がよく分かるだろう。

そして面白いのは、このヴィーナを頭である共鳴器を上にして垂直に立てた時に、骨盤に当たる最下部が、悪魔とその克服を表している点だ。

ここに以前論じた体内の輪軸世界観の文脈を当てはめれば、妙なる音色が発せられる頭部共鳴部は天界の車輪に、悪魔が想定される仙骨骨盤部は地上の車輪に相当する。

その仙骨部は同時に、求道者が克服すべきカーマ(愛欲)の場であり以前の投稿で論じたスワディタナ・チャクラでもある。

もちろんこれら記載内容やヴィジュアルは、ブッダの時代からはるか後世に確立したものかも知れない。しかしインド教の伝統というものは驚くほど変わらない千年普遍(不変)の心象世界である事を忘れるべきではない。

文中「Vedic」としばしば言及されているように、このような思想の起源はとても古いものだと推定できるのだ。

私の見たところでは、このようなヴィーナ(弦楽器)と人間の身体との“重ね合わせ”の認識パターンは、すでにブッダの時代には存在していたと考えられる。

この点に関してはまた後日改めて詳述したいが、ここで強調したいのは、仮にブッダの時代にもこのような心象が存在したと仮定したときに、一体どのような読み筋が可能になるのか、という視点だ。

人間の身体の中には様々な『空洞(空処)』がある。頭部における口腔・鼻腔や副鼻腔などの「Kha=空洞」、肺胞胸郭、そして腹腔などの空処によって、私たちの音声は増幅され深みを増す。それは正に神から与えられた共鳴胴そのものだと言えるだろう。

そしてその様な共鳴を帯びながら、最終的に音声は口から発せられる。その口自体、大きく開いた空処に他ならない。

(クラシックやゴスペルのシンガーにぽっちゃり型が多いのは、彼らの身体が持つ『共鳴器』としての優位性にある)

現代ヒンドゥ文化の中には実に豊穣な古代インド教世界の心象風景が保存されており、それは、インド世界の外部においてインド人ではない外国人によって保存されてきたパーリ・テーラワーダ仏教が、失ってしまっただろう『ゴータマ・ブッダの心象世界』を復元するための鍵が無限に胎蔵されている宝庫である、そのように私は考えている。

(この点は大乗仏教密教の伝統も全く同様だ)

つまり件の『箜篌の喩え』が語られた時、ブッダとその弟子たちの心象世界においては、胴と棹と弦を持った楽器としてのヴィーナのイメージと同時に、それ自体が一個の胴(共鳴器=空処)であるところの、人間の “身体” が重ね合わされて暗喩されていたのではないか、という視点だ。

身体としてのヴィーナ、ヴィーナとしての身体。

通常、このヴィーナの喩えについて解説される時、一般論として

修行というものは一生懸命テンぱってやりすぎても駄目だし、気が緩んで怠惰に堕ちてしまっても駄目で、ちょうどヴィーナの弦の様に適度な『張り』の中でバランスを保って進めなければいけないんだよ」

という『中道』のお説教として、ある種の『人生訓話の様に理解されるのが、謂わば通例になっている。

もちろん私も、その様な意味を全否定するのではないのだが、しかし、もしブッダがこの教えを説いた時にこの「修行」の核心として『瞑想行法』というものを前提していたならば、どうなるだろうか。

そして、その瞑想行法の実態としてアナパナ・サティを念頭に置き、さらにそのアナパナ・サティにおいて観ぜられる『身体』というものが、ひとつの『空処』すなわち『Kha』であり『胴』であり共鳴器である事実を念頭において、その上でこのヴィーナの喩えを語っていたとしたらどうなるだろうか。

それは、単なる一般論としての「バランスのとれた中道としての修行生活」などではなく、『具体的な瞑想修行の要諦としてのガイダンス』ではなかったのだろうか?

先に引用した「テーラガータ638:箜篌の喩え」の直前にあたる636と637、続く639以降の内容は以下の様になっている。

636:常に身体(の本性)を思い続けて、為すべからざる事を為さず、為すべき事を常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、諸々の汚れがなくなる。

637:説き示された直き道を行け。退いて返ることなかれ。みずから自分を督励せよ。安らぎを得るようにせよ。

638:私が過度の精励努力を行った時、世の中における無上の師、眼のある方(=ブッダ)は箜篌のたとえ(弦を強く張りすぎる事もなく、緩めすぎる事もないように、との教え)を用いて、私に理法を説いてくださった。

639:わたしは彼の教えを聞いて、その教えを楽しんで過ごした。最高の目的を達する為に、わたしは心の平静を実践した。三つの明知は体得されたブッダの教えはなしとげられた。

640:出離すること、心が遠ざかり離れることに専念し、瞋恚をいだかないことに専念し、執着の壊滅に専念し、

641:妄執の壊滅心の迷わぬことに専念している人は、個体を構成している種々なる局面の生じ滅びる姿を見て、心は完全に解脱する。

642:完全に解脱し、心の静まった修行者には、すでに為し終えたことに付け加えて積み重ねることは、なにも存在しない。なすべきことは、もはや存在しない。

643:ひとつの岩塊より成る岩山が風に吹かれても微動だにしないように、すべての色かたち、味、音声、香り、触れられるもの

644:欲求されるものも、欲求されないものも、その様な立派な人を動揺させることはない。かれの心は安住し束縛されていない。その消滅するさまを、彼は静観する

ソーナ・コーリヴィサ長老

~以上、岩波文庫仏弟子の告白」中村元訳 P137~138より引用

このソーナ・コーリヴィサ長老の詩偈の後半部分、熟読すると良く分かるはずなのだが、「638:箜篌の喩え」の前後は、全て『瞑想実践そのもの』と、その成功裏の結果としての『解脱の境地』について語っている。

これは、よく言われる事で、中村元先生の翻訳を読むと通俗的な一般論として読まれてしまいがちなのだが、文中赤字でハイライトした、

常に身体(の本性)を思い続けて,
みずから気をつけている、
安らぎを得るようにせよ。
心の平静を実践した。
執着の壊滅に専念し、
種々なる局面の生じ滅びる姿を見て、
その消滅するさまを、彼は静観する。

などという表現は全て瞑想実践以外の何ものでもないだろうし、さらに紫字でハイライトした、

「すべての色かたち、味、音声、香り、触れられるもの」「欲求されるものも、欲求されないものも、その様な立派な人を動揺させることはない」

という一節は、いわゆる色声香味触法の六境(六欲)が定型として確立される以前の形を示しており、それは瞑想実践と深く関わりを持っている(この点に関しては後日詳述予定)。

このように、ソーナ長老の詩偈において、瞑想実践そのものとその結果としての解脱体験に関して告白された文脈の、概念として箜篌の喩えが挿入されている

ならば、その638において、ブッダによって弟子ソーナに語られたという、箜篌の弦の喩えによって明示されたその『理法』とは、瞑想実践の具体的なメソッド(方法)における『要諦』ではなかったか、という読み筋は、ごく自然な流れである、と私には思われる。

ここで重要になって来るのが、ブッダの瞑想法の中でも筆頭に挙げられるアナパナ・サティすなわち『呼吸への気づきの瞑想』における具体的なメソッドだ。

実はパーリ経典を通読すると、そこには具体性をもって実際の瞑想のメソッドについて詳述し教え導くものがほとんど見当たらない事に気づく。

正直、それは「これだけしか教えられなくて、よく実際に瞑想出来たな…」と当惑すら感じるレベルだ。

しかしそのわずかな例外のひとつとして、定型化され多くの経典に共有されているフレーズがある。それが下の一節だ。 

parimukhasati upaṭṭhapetvā
Mukha”の周りに、思念(サティ)を、とどめて

これは後日取り上げるが、この「parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā」と言う一節こそが、パーリ経典に記述されたほとんど唯一にして最重要な、具体的瞑想メソッドに他ならない。

ここでMukhaという言葉は、顔もしくは口を意味する。思い出して欲しいのだが、この顔や口と言うものは、先の画像を見れば分かるようにヴィーナの音色が弾かれ響き発せられる共鳴部(クダム)に相当する。

そしてアナパナ・サティにおいて気づきの対象となる『呼吸』とは、同時に人間の音声を乗せて発する原動力でもある。

加えて、ヴィーナの修行や演奏それ自体が『宗教的な求道』として位置づけられていた事を忘れるべきではないだろう。

私の読み筋では、ブッダによってソーナに説かれた『箜篌の譬え』は、このアナパナ・サティ瞑想の「顔の周りにサティ(気づき)を留めて」と言う具体的な行法メソッドにおける、『要諦(コツ、秘訣)』を伝授するものだった可能性が高いと考えられる。

だからこそ、在家時代ヴィーナの名手だったと言うソーナは、ブッダの説示によってその『理法』を直感的に体得し、混迷した実践上のスランプ状態から脱し、ついに瞑想行を極め解脱に至ったのだ。

これは中村先生ただ一人だけではなく、日本の大乗的な伝統そのものがどうしようもなくそうなのだが、ブッダの言葉というものをある種卑近かつ通俗的な一般論的『人生訓話に堕したものとして受け止めがちだ。

だが、考えてみて欲しい。

彼ら2500年前の出家サマナたちという人種は、あらゆる世俗的・人間的な欲望を捨て去って、ひとえに解脱を志向する、ある意味、徹底した瞑想修行の『プロ』でありマニアであった。彼らは瞑想実践における、言い方は悪いかも知れないが、ピーキーなオタク以外の何物でもなかったのだ。

(彼らが、あの有名なエローラ石窟のカイラサナータ寺院を設計し実際に作り上げてしまった人達と同じ『インド人』である事を思い出そう)

ピーキーなド・マニアである師匠がその弟子に語る言葉が、通俗的な一般論に終わるはずがない。

それが直接『解脱』に導くような核心を突いたアドバイスであるなら、なおさらの事だろう。

これは、私の好きな囲碁の世界に譬えると分かりやすいかも知れない。

第二次大戦中、あの広島に原爆が投下されたその当日、正にその広島の郊外において囲碁本因坊戦の頂上対局が行われていた事は、一般に余り知られていない。

米軍グラマン機の機銃掃射に屋根を射抜かれつつも日程をこなし、原爆投下をその爆心から5Km離れた場所で受け、ふすまから壁から吹っ飛ばされてもなおその瓦礫を掃除して対局を完遂したという『史実』。これは囲碁の世界に少しでも踏み込んだ人ならば、良く知られた逸話だ。

対局3日目の8月6日、午前8時15分、局面は106手目頃であった。この日の対局が始められた直後に(前日までの手順を並べなおした直後という話もある)、アメリカ軍の爆撃機B-29エノラ・ゲイが投下した原子爆弾が炸裂した。ピカッという光線と大音響がし、爆風で障子襖が倒れ、碁石は飛び、窓ガラスは粉々になったと言われる。橋本昭宇本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。岩本薫回顧録によれば、

「いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。(中略)ひどい爆風で私は碁盤の上にうつ伏してしまった(以下略)」

立会人・瀬越は驚くべきことに、端然と床の間を背に正座したままであったという(後に本人は、「腰が抜けて動けなかっただけだ」と語った)。

対局は一時中断されたが、部屋を清掃した後ほどなく再開された。両対局者に動揺はあったものの最後まで打ち切り、同日正午ごろに終局。白番の橋本本因坊の五目勝となった。

~以上、Wikipediaより引用

本当のプロ、あるいはピーキーなマニア、のメンタリティーというのは、このようなものなのだ。それは常人の常識的な感覚を超えた、ある種の『狂気』とも言えるような集中であり専念であり『覚悟』だ。

解脱に向けた瞑想修行というフィールドにおいて、そのような、あるいはそれ以上の『プロ』のメンタリティの持ち主であったのがゴータマ・ブッダであり、その弟子サマナたちだったと、私たちはまずは理解すべきだろう。

そんな彼らの『告白』を、

「弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。Wikipedia

などという、ちょっと気のきいた奴なら誰でも言えそうなただそれだけの一般論的・通俗的かつ卑近な次元のユル~い人生訓話に引きずり降ろし、あまつさえそれによって解脱に至ったなどと考えるならば、それは比丘サマナという人種を、はっきり言って「ナメくさっているな」と私は思わずにいられない。

結局、上記Wikipediaに記載されたような表面的な内容に満足している人々というものは、その『精進』が具体的にどのような営為を指していたのか、という『実践的な関心』をほとんど持ち合わせていないのだ。

逆に言えば、その様な実践的な関心をまったく持っていない一般在家信者たち、つまり瞑想修行をして解脱しようなどとは一切考えずに、ひたすら聖者に供養する事で来世の善生を願った者たちなら、その様に通俗的な次元で理解しておればよい、というのがブッダの基本的なスタンスであり、その言葉の『表の意味』だったのかも知れない。

ソーナ長老がその詩偈において、

「眼のある方(=ブッダ)は箜篌のたとえを用いて、私に理法を説いてくださった」

と喜びと誇りを持って称えた時に、その『理法』というものが、一体どのような意味を持ち、それがどれだけ切実に彼の瞑想修行のブレイク・スルーに繋がったのか。

その『理法』とは、瞑想行法の実践的なメソッドにおける『気づき』の要諦、あるいは『秘訣』というものを端的に意味していたのではないかと、私には思えてならない。

それが私流に、ブッダの言葉の真の意味を解析した結果なのだが、これってやっぱり、深読みしすぎなのだろうか?

それが深読みしすぎなのかどうなのか、それは正に “Only The Buddha Knows ! ” なので、余人のどのような批判をも恐れずに、私としては本ブログの趣旨に従って粛々と論を進めたいと思う。

アナパナ・サティ(呼吸への気づき)の焦点となる『顔=Mukhaのまわり』ヴィーナ共鳴発音部との重ね合わせ。そしてヴィーナの音色に相当する人間の音声、それを発出するのは呼吸の力である、という事実。

私たちが思っている以上に、この箜篌の喩え』は深いそう思わないだろうか? 

今回は便宜上先学である中村元博士の翻訳を借用したが、後日改めて、この『箜篌の喩え』が持つ「本当の意味」について詳らかに解読していきたい。

 

(本投稿はYahooブログ2015年10月25日投稿「瞑想実践の科学 46 “Kha”と身体と楽器 ~箜篌の喩え」と2016年1月2日投稿「ヴィーナと身体の重ね合わせ」を統合の上加筆修正し移転したものです)

 

 


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