仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ブッダの「歯と舌の行法」と、ヨーガの「ジフヴァー・バンダ」:瞑想実践の科学13

パオ・メソッドの四界分別観の瞑想は、ブッダゴーサの清浄道論に典拠していると言われているが、それ以前の大前提として、“普遍的な身体” と言うものの『科学的な真実』(脳神経生理学的な作用機序)に依拠している。

その事はペンフィールドの「ホムンクルスの小人」と言うビジュアルに、象徴的に現れている。

このような、人間の心がサマーディの深みへと没入していく作用機序(メカニズム)は、あらゆる宗教における “行の深まり” において普遍的な、神経生理(=心理)学的プロセスに他ならない。

神経生理学的な作用機序と言う観点から見た時、パオ・メソッドの四界分別観において、その気づきのポイントとして “歯と舌” を筆頭に「口の周り」に重点が置かれている事は重要な意味を持ち、同時にそれは、仏の32相における歯に対するこだわりや広長舌相の強調と重なり合い、さらには馬の調御において焦点となる、ハミを咥える「口の周り(歯・唇・舌・歯茎など)」と有意に重なっている。

以上が前回までの大ざっぱなあら筋だった。

では、このパオ・メソッドの四界分別観において「歯と舌」がその気づきのポイントとして突出しているという実践的な事実の、その『経典的な根拠』とは一体どこにあるのか、と言う点について、今回は考えていきたい。 

今までに本ブログに記述してきた事柄の、多分およそ7割ほどを読み進めていた頃、私は同時進行的に春秋社刊の原始仏典シリーズを読み進めていた。

それは、すでに比丘の修道と動物の調御との重ね合わせ、より具体的には、瞑想実践の気づきのポイントと、動物の調御において焦点となる『急所』との実践的な重ね合わせに思い至った頃の事だ。

その二つのポイントが具体的に重なり合う身体上のエリアこそが、顔の周りであり、口の周りだった。その流れを念頭においてパーリ経典を読み進めていた私は、ある奇妙な記述に気付いた。

それこそが、タイトルにもあるように、「歯と舌の行法」すなわち、

をかみ合わせて、を上あごに付ける』

と言う内容だった。複数の経典に存在するこの記述は、しかし経典によって微妙に違う文脈の中に位置づけられていた。

話が抽象的では分かりにくいので、具体的に三つの経典から引用しよう。まずは前後の文脈には余り深入りはせずに、当該個所だけを単刀直入に切り取って引用する。

中部経典第20経 「とどまり続ける思い」考想息止経:Vitakkasanthana Sutta

〈歯をくいしばって不善の思いを抑え込め〉

「比丘達よ。もしその比丘がそれらの思いに関して、思いを作り出してとどまるものに意を注いでいても、依然としてもろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋りを伴いもし、痴かさを伴いもする思いが生起するのであれば、比丘達よ。

その比丘は歯をもって歯に置き舌をもって上顎を抑え心をもって心を強く抑え込むべきであり、強く圧迫すべきであり、強く苦しめるべきである。

かれが歯をもって歯に置き、舌をもって上顎を抑え、心をもって心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめるならば、およそ悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋りを伴いもし、癡かさを伴いもする思いは捨てられ、それらは消滅していく

それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安坐し、専一となって定まる。(以下略)」

春秋社刊 原始仏典 第4巻 P300以下より引用

ここでは、「歯をもって歯に置き、舌をもって上顎を抑える」という具体的な行為、もしくは『メソッド(行法)』が、直接的に貪瞋癡の高ぶる欲の思いを止滅へと導き、その結果として、心が確立し、安坐し、専一となって定まる、つまり禅定が確立する、と言う流れが、明確に記述されている

一方で、以下の二つの経典では、同じ歯と歯をかみ合わせ舌を口蓋に押しつける、と言う行法に言及しながら、前後の文脈はかなり異なってくる。

中部経典第85経 「生涯で三度三法に帰依した王子」菩提王子経:Bodhirajakumara Sutta

「実に王子よ、ちょうどそのように、いかなる沙門たちであれ、バラモンたちであれ、身体によってもろもろの欲望の対象物から厭離して住み、

しかもそれらのもろもろの欲望の対象物に対する欲望の指向、欲望の情愛、欲望の迷妄、欲望の渇き、欲望の灼熱が内面ですっかり捨てられているならば、

たとえそれらの尊敬に値する沙門・バラモンたちが、急激な、鋭く、激しい苦の感受を受けても、かれらは知・見・無上等正覚に到達できる

たとえそれらの尊敬に値する沙門・バラモンたちが、急激な、鋭く、激しい苦の感受を受けなくても、かれらは知・見・無上等正覚に到達できる

実に王子よ、これらが、不思議な、これまでに聞いた事もないわたしに閃いた第三の比喩である(この部分は、後述する湿った木と乾いた木の喩え話の第三と言う意味、筆者注記)

王子よ、わたしはこのように思った。

『さあ、わたしは、歯をくいしばり、舌を口蓋におしつけ、心で心を激しくおさえつけ、強くおしつけ、きびしく苦しめてみてはどうか』と。

わたしは歯をくいしばり、舌を口蓋におしつけ、心で心を激しくおさえつけ、強くおしつけ、きびしく苦しめた。

王子よ、歯をくいしばり、舌を口蓋におしつけ、心で心を激しくおさえつけ、強くおしつけ、きびしく苦しめている、わたしの両脇の下から汗がふきだした。(以下略)

~以上。春秋社刊 原始仏典 第6巻 、P182以下より引用

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中部経典 第100経「清らかな行いの体験」サンガーラヴァ経:Sangarava Sutta

〈ゴータマの修行〉

「バーラドヴァージャよ、そのときわたしはこのように考えた。『さあ、わたしは歯に歯を置いて、舌で上あごを押して、心で心を制し、伏し、支配しよう』と。

バーラドヴァージャよ、そこでわたしは歯に歯を置いて、舌で上あごを押して、心で心を制し、伏し、支配した。

バーラドヴァージャよ、そのときわたしが歯に歯を置いて、舌で上あごを押して、心で心を制し、伏し、支配したときに、両脇から汗が出た。(以下略)」

~以上、同書、 P437以下より引用

上に並べた二つの経典は、ほぼ同じ内容のストーリーで成り立っている。最初にそれを大まかな流れで要約しよう。

沙門シッダールタはウッダカ・ラーマプッタなどの先達による瞑想指導によって高い境地に到達しながらも満足せずそこを離れ、マガダ国を遊行しつつガヤー近傍のウルヴェーラ村に到着し、その美しく清閑な環境に満足して修行の地と定める。

そこで彼の心に、忽然と三つの喩えが浮かんだ。

水分を多く含んだ生木水の中に浮かんでいるが、これに火つけ木をこすりつけて火を起こす事ができるか。

水分を含んだ生木が水辺から離れた乾いた陸地に置かれているが、これに火つけ木をこすりつけて火を起こす事ができるか。

よく乾いた木が水辺から離れた乾いた陸地に置かれているが、これに火つけ木をこすりつけて火を起こす事ができるか。

と言う三つの譬えだ。その後、これら水気が意味するものは貪瞋癡の煩悩であり、木とはサマナやバラモンなど求道の行者である事が判明する。

おそらく、水の中とは在家的な六欲充足の世俗生活であり、乾いた陸地とはその様な欲望から完全に遠離した出家の修行生活を意味するのだろう。

「火を起こす」とは精進によって修行し、心が定まって無上等正覚(覚り)に至る事を意味する。

そして最後の「乾いた陸地に乾いた木」が置かれている場合だけ、それをこすり合わせたら火が付くと説明され、そのように、

いかなる沙門たちであれ、バラモンたちであれ、身体によってもろもろの欲望の対象物から遠離して住み、しかもそれらもろもろの欲望の対象物に対する欲望の志向、情愛、迷妄、渇き、欲望の灼熱が内面ですっかり捨てられているならば、

たとえそれらの尊敬に値する沙門・バラモンたちが急激な、鋭く、激しい苦の感受受けても、彼らは知・見・無上等正覚に到達できる。

たとえそれらの尊敬に値する沙門・バラモンたちが急激な、鋭く、激しい苦の感受受けなくても、彼らは知・見・無上等正覚に到達できる。

(菩提王子経)

という結論が示される。

これは要するに、水に喩えられる六欲の世界から外面的にも(池などの水)内面的にも(木の湿り気)完全に遠離した沙門・バラモンは、「苦行をしてもしなくても無上等正覚に到達できる」と語っている。

おそらくこれは当時の流行していた苦行によって覚りを開く、という方法論を念頭に、「苦行の有無や多寡が問題なのではなく、『欲からの遠離』こそが重要なのだ」という主張だろう。

しかし、この三番目の喩え話が展開した直後に、何故か唐突に、歯に歯を重ね(かみ合わせ)、舌で上口蓋を抑える、と言う行法が発想され、実践されていく。それは経典の「仕様」として、本当に唐突に始まるのだ。

次に止息の行が発想され、実践される。その内容・プロセスは相当以上に苦痛に満ちた苦行であり、その詳細が説明されていく。

次に断食の修行が発想され、実践される。ここでもそのプロセスは激烈な苦行であり、その説明は奇妙なほどに詳細を極めたものだ。

そもそも先の三種の木の譬えによって、大事なのは苦行ではなく『欲からの遠離』だ、と言っているのに、その直後から、この過激なまでの苦行に邁進する、と言うのは一体何だろうか。

しかし最終的に、

『過去・現在の修行者・バラモンで激しい強烈な苦痛の感覚を受けている人々がいるとしても、わたしが受けたものは最高で、これ以上のものはないであろう。

しかし、わたしはこの激しい苦行によっても、人間を超えた、すばらしい、すぐれた智見に達する事ができない

多分、覚りに導く道が、他にあるのであろう』(サンガーラヴァ経)

という結論に至る。つまり、これは構成上、まず三つの木の譬えによって最初に『結論』先出しして、その後に「確認作業として」三つの苦行のシーンを置いている様にも見える。

その後、沙門シッダールタは幼い頃の禅定の記憶を思い起こし、この禅定こそが覚りに導く正しい道であると思い定めて苦行を捨て、ミルク粥を摂り、五人の苦行サマナと決別し、菩提樹下で結跏禅定に入り四禅を極め、ついには悟りを開く、という流れになる。

文章量の関係で大幅に省略・要約しているので、正確な内容は是非原文を参照して欲しいのだが、この二つの経典の文脈と最初の中部経典第20経 考想息止経の文脈とでは、「歯をかみ合わせ舌で上あごを抑える」と言う同じ「行法」に言及しながら、その位置付けがかなり異なっているように読みとれる。

私はこれまで、アングッタラ・ニカーヤ後半以外のほとんどのパーリ経典に眼を通しているが、具体的な行法指南として「歯と舌」に明言して記述しているのは、ほとんどこれらの文脈においてだけなので、おそらくはこれがパオ・メソッドの四界分別観における「歯と舌」に焦点を合わせた行法の、大本の典拠になったものだと考えられる。

しかし考想息止経では、この「歯と舌の行法」が直接的貪瞋癡の煩悩を消滅へと導き、その結果禅定が深まっていく、という明確に肯定的な位置付けであるのに対して、菩提王子経とサンガーラヴァ経では、失敗した無意味な苦行の冒頭に位置づけられている(ように見える)。

この、記述のブレは一体何を意味するのだろうか。

そしてさらに、もし「歯と舌の行法」と並べられた「止息断食の行」が、覚りに導かない意味のない苦行としてブッダによって完全に退けられたのだとしたら、何故、その失敗のプロセスが、あれほどまでに執拗に具体的に詳述されなければならないのか?

謎は深まるばかりだ。

以前に私は「パーリ経典にはブッダの瞑想法に関する具体的なガイダンスがほとんどなく、数少ない中で最も重要なものとして「顔の周りに気づきを留めて呼吸を観る」というメソッドを取り上げたが、今回のこの「歯と舌の行法」はその数少ない中のもうひとつの具体的な行法指南として極めて重要なものだ。

謎は謎として、この当惑に立ち止まらずに、まずは歯と舌の行法が明らかに肯定的に位置づけられている考想息止経から検討して見よう、と私は考えた。 

以下に考想息止経の該当部分を再掲引用する。

中部経典第20経 「とどまり続ける思い」考想息止経

〈歯をくいしばって不善の思いを抑え込め〉

「比丘達よ。もしその比丘がそれらの思いに関して、思いを作り出してとどまるものに意を注いでいても、依然としてもろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋りを伴いもし、痴かさを伴いもする思いが生起するのであれば、比丘達よ。

その比丘は歯をもって歯に置き、舌をもって上顎を抑え、心をもって心を強く抑え込むべきであり、強く圧迫すべきであり、強く苦しめるべきである。

かれが歯をもって歯に置き、舌をもって上顎を抑え、心をもって心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめるならば、およそ悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋りを伴いもし、癡かさを伴いもする思いは捨てられ、それらは消滅していく

それらを捨てると、もう内部に心が確立し安坐し専一となって定まる。(以下略)」

この短い経典部分の中に、様々な情報が詰まっている。

まず、歯と舌の行法を専修する事によって、直接的に貪(欲)瞋(怒り)癡(愚かさ)の三毒からの遠離が促され、これら三毒の高ぶりは自ずから消滅していくという事。

そして、三毒の思いが消滅する事によって、自ずから内部に心が確立し、安坐し専一となって定まる、つまり “禅定が深まる” という事だ。

ここでは明らかに、「歯と舌の行法」が、直接的に禅定を深めるための確かなメソッドとしてブッダによって推奨されている。

同時にそこには、「心をもって心を強く抑え込むべきであり、強く圧迫すべきであり、強く苦しめるべきである」、という文言もある。

そう、強く苦しめるべきである、とある以上、その苦の内容は取りあえず置いておいて、この行法はある種の“苦行”である、と位置付けられているように見える。

更に重要なのは、この歯と舌の行法はパオ・メソッドの四界分別観における「歯と舌の重視」と有意に重なり合っておりその典拠とも考えられるけれど、そこでは「四界を分別する」などという心的営為が全く言及されていない事だ。

これは、サンガーラヴァ経などに歯と舌の行法が言及される場合でも同様で、そこには四界分別の四の字も見られない

心を持って心を抑え込む、という文言がどのようなニュアンスであるのかは正確には分からないが、「強く圧迫すべきであり、強く苦しめるべきである」、という文言から察するに、それは、四界を分別するなどという理性的な営為ではなく、むしろ身体的な “感受” あるいは「苦受」行法である事が推測できる。

この英語訳部分を見ると以下のようになる。

As — with his teeth clenched and his tongue pressed against the roof of his mouth — he is beating down, constraining, and crushing his mind with his awareness, those evil, unskillful thoughts are abandoned and subside.

そうして、歯を食いしばり、舌を上口蓋に押し付けて、彼が気づきの心によって(悪しき)を打ち負かし、抑制し、粉砕すると、それらの邪悪で未熟な思考は、捨てられて静まる。

With their abandoning, he steadies his mind right within, settles it, unifies it, and concentrates it.

その様な悪しき心を捨離する事で、彼はすぐに心を安定させ、落ち着かせ、統一し、集中する。

Tipitaka:Vitakkasanthana Suttaより

上の英訳は日本語訳に比べ非常に意味がとり易い。日本語で「心を持って心を抑え込む」とされていた部分が、気づき(の心)によって(悪しき)心を打ち負かし」とされている。

歯と歯を強くかみ合わせる事によって、舌を上口蓋に強く押しつける事によって、その部位周辺には非日常的な特異な触覚が生じるはずだ。その口の内部において生起する「体性感覚」に集中し気づいている、という事ではないかと推察できる。 

それは大脳的な理屈による “分別” などではなく、身体的な ‟触覚感受” に対する『気づきの瞑想』だったのだ(パーリ原文を見ると、直接的にSatiの記述はないようだが)

考想息止経において “貪瞋癡の思い” と言い表わされている事柄が坐禅中に立ち現われる様々な『雑念妄想』であり、それが消えて “内部に心が確立し、安坐し、専一となって定まる” という、その最後の「定まる」は原語では「Samadhi」になっている。

Tesaṃ pahānā ajjhattameva cittaṃ santiṭṭhati sannisīdati ekodi hoti samādhiyati. 

ならばそれは、雑念妄想が気づきの瞑想行によって自ずから落ちて消えていきサマーディに入る、そのための強力なメソッドとして「歯と舌の行法」ブッダによって断言的に推奨されている、という事にならないだろうか。

ここで思わず回想してしまったのだが、私が20代の初めに日本で初めて坐禅瞑想らしきものを体験したのは、岡田式の流れをくむ静坐法だった。

今でもありありと目に浮かぶ、全真堂と名付けられた小室に端坐する、その冒頭の指導において確か「奥歯をかみ合わせて舌を上あごに付けて」というのが決まり文句になっていたと覚えている。

それは日本の禅の伝統に由来するものだった。臨済禅の伝統に確かそういう指導があったはずだ。そう思って検索してみるとやはりヒットした。

朝比奈宗源老師の「直説坐法」

「背骨を真っ直ぐに立てて、尻をー尻の穴が後ろに向く位に、こうして下腹を前に出して上半身を少し揺るがすようにして、まわってる独楽がだんだんととろんでいくように、自分の一番安定するところに落ち着ける。

歯は奥歯をがっちり合わせる。達磨さんは口をへの字に結んでおります。
あれは奥歯を噛み合わせたらああなる。慌てたとき歯の根が合わぬといいますように歯の根が合わぬときは決して落ち着きません。

舌べらは上顎につけ、眼は閉じない。閉じると寝たり、妄念が出やすい。~以下略」

臨済宗円覚寺「坐禅の姿勢」より

これがパーリ経典の「歯と舌の行法」その直系だとしたら、2500年前にブッダによって推奨されたこのメソッドが、たとえ形の上であれ、現代の日本にまで脈々と伝わっていた、という事になる。

しかし、その行法としての真意が、どこまで直截的に伝わっているのか。確かに「恐怖などで激しく動揺している時は、歯がガチガチと震えるから、その逆療法的に歯を噛みしめる事が、心を定める事にもつながりそうだが…しかし、それは「サマーディに至る直接的なメソッド」からは程遠いイメージだ。

何かこの「歯と舌の行法」には深い意味がある。そう思った私は、色々と「歯と舌」について考えを巡らせていった。

そこでまず浮かんだのが、余り瞑想とは関係のない事だが、重量挙げの選手が、あの大力を発揮する瞬間に、「歯を強く噛みしめる」、という事だった。

「噛む」ことで力を発揮

武田准教授は「噛むことで大脳の咀嚼運動野が活性化される、これが全身の筋力アップにつながることがあると考えられています。たとえば、重量挙げなどの競技では噛みしめが効果を示します」と話します。

パワーが求められる種目での影響は以前から指摘されていたものの、速くスムーズな動きが必要な陸上などの競技では、噛むことの影響はあまり語られてきませんでした。

「そこで、私たちの最近の研究では、噛むことが競技中、どのように影響するか調べました。陸上の例では、クラウチングスタートのときは、姿勢を保つために噛みしめて体を固定。スタート直後の5、6歩は地面を強く蹴って加速するため、ぐっと噛み、体のぶれを防ぎ、力を逃がさないようにしています。その後はゴールまで、噛む力を抜いています」。

ウサイン・ボルト選手が加速後、口を開けて走るのは余分な力が抜けているから。このような時、噛みしめて力んでいては、うまく動けないのです。

また、ラグビーでタックルを仕掛ける瞬間、野球でのバットで球を打つ瞬間もやはり噛んでいます。瞬発的に力を出す場面では噛むことで体を安定させ、力を発揮するようです。

噛むこと研究室より

ここでは主に最大限の筋力の発揮、という点が、歯を噛みしめる、という事と関わっている文脈だが、もっと人のに作用する側面はないのだろうか。

その時フト思いついたのは、「そう言えば、激しいストレスがかかった時に、よく『歯を食いしばって耐える』という様な表現をするな」という事だった。

「激しい痛みに歯を食いしばって耐える」というのがその典型だが、肉体的な痛みや苦しさだけではなく、「その屈辱に歯を食いしばって耐えた」とか、「歯がみして悔しがる」とか、精神的なストレスに対しても思わず歯を食いしばらないだろうか。

そして次に思い至ったのが、ガムを噛む、という事だった。確か、ガムを噛み続けるというリズミカルな動作が、セロトニンか何かの分泌を促すとか…

ガムをかむことで、血液を脳に送り込むことができます。これにより、脳を刺激するとともに、冒頭でお話しした‟脳のゴミ“と呼ばれアルツハイマー認知症の原因となる「アミロイドβ」を押し流すこともできるのです。

よく、スポーツ選手が試合中にガムをかんでいる姿を目にするように、かむことが脳を活性化し集中力を高めることはよく知られています。

また、かむことは、安定した姿勢を保つことにも一役買います。私たちの体は、姿勢のバランスが崩れたときに、無意識に「抗重力筋」と呼ばれる筋肉を働かせてバランスを保ちますが、この「抗重力筋」の1つが、「かむ」ときに使う「咀嚼筋」です。つまり、ふらつかずにいつまでもしっかりと立っているためには、咀嚼筋を鍛えることが欠かせないのです。
ほかにも、「かむ」ことによる効果は、がんや生活習慣病の予防や免疫力アップ、口臭予防、幸せホルモン「セロトニン」の分泌などさまざまなものがあると言われています。

東洋経済Onlineより

「血液を脳に送り込み、脳を活性化し集中力を高め、姿勢を安定させ、幸せホルモン「セロトニン」を分泌させる」

段々と、瞑想実践と重なって来たではないか。

そうこうしている内に、「『歯と舌』と言えばそもそも、少し以前に広長とのからみで取り上げたケチャリ・ムドラシンハ・アーサナも、共に舌の行法ではなかったのか?」と、遅ればせながら私は気がついた。

そして漸くにして私は、「そうだ、確かヨーガのバンダに、もうひとつ似たような行法があったではないか」と思いだした。何しろ私がある程度気合いを入れてヨーガを学んでいたのは20年以上昔なので、忘却の彼方に霞んでしまっていたのだ。

www.youtube.com

これはジフヴァー・バンダ:Jihva Bandhaと呼ばれる舌の行法(現行のものは歯の噛みしめを伴わない様だ)で、ハタ・ヨガ・プラディピカーが典拠とされている。

ハタ・ヨガ・プラディピカー、1-45~46、パドマーサナ2

足の裏を上向きにして、深く交差した両足を腿の上におき、両方の腿の中間(交差した足首の上)で手の平を上向きに両手を重ねる。

そして両方の視線を鼻頭にそそぎ、舌の先をしっかりと門歯(上列)の根本に付け、顎を胸部にあてて、ゆっくりと気を引き上げる(舌先を上の門歯の根方に強く押し付けるジフヴァー・バンダ)。

佐保田鶴治著「ヨーガ根本聖典」P186より

 

ハタ・ヨガ・プラディピカー、3-22

これについて一部の人々に異論がある。それは喉のバンダは避けるべきであって、舌を門歯の根元につけるバンダ(ジフダー・バンダ)の方がよろしいと言うのである。

同書、P226より

Wikiによると、ハタ・ヨガ・プラディピカーは15世紀頃にナータ派マッチェンドラナータ系に属するスヴァートマーラーマによって、先行する古典を集成して書かれたものだと言う。

そこで更に、その「古典」を求めて調べると、ひとつのウパニシャッドにそれを発見する事が出来た。

マイトリ・ウパニシャッド:瑜伽行法

vi18. つぎが冥想対象に集中する実習方法である.調気(Pranayama)、制感(Pratyahara)、静慮(Dhyana)、執持、思択、等持(Samadhi)。以上を具備したものを、六支よりなるヨーガという。

vi19. もし賢者があって、意を制し、調気して、感官の諸対象を遠ざけ、無思慮の状態に立ち得るなるならば、元来生気(プラーナ)と呼ばれる生命(ジーヴァ)は非生気から生じたものであるから、賢者はこの生気を調気によって第四位と名付けられた所に執持する事ができる。

vi20. それよりも更に高い執持がある。舌端を上顎に押し付け語・意・息を抑制しを思索によって直観するのである。

もし、意の作らきが消滅し終わって、自我を介してかの微なるものよりも微にして、光明爀々たる自我を直観する時には、自我によって自我を見る結果として無我になる。

無我なるよりして彼は不可量、無所依と言われる。これすなわち解脱の徴相であり、至上の玄秘である。

vi21. 上方に向かう脈管があってスシュムナーと呼ばれている。生気の通り道であって、上顎の中間において分かたれている。

この脈管に気息と唵と意を加え、これによって上方に登りゆくべきである。

舌端を反転して上顎につけ諸器官を統制して、自ら偉大性として自らの偉大性を観ずるべきである。

さすれば、無我の境に達する。無我の境に達すれば、もはや苦楽の享受者ではなくなり、自ずから独存の境を得るであろう。

佐保田鶴治著「ウパニシャッド」P284, 285より

このマイトリ・ウパニシャッドは西暦紀元200年頃に成立したようで、今の所これがジフヴァー・バンダに関して発見できた最古のソースになる。

ここで注目したいのは、まず19で語られるプラーナヤーマによって到達される第四位の境地に比べ、20ではそれ以上のものとしてこの『舌の行法』が取り上げられ、「語・意・息を抑制し、を思索によって直観する」とされている所だ。

佐保田さんの訳はめんどくさい日本語を使っているので分かりにくいが、とはブラフマンに他ならないから、この舌の行法に依って、直接的に最高の覚りあるいは解脱が成し遂げられる、という文脈が理解できるだろう。

この様な特定の瞑想行法に依ってブラフマンに至れるという明確な文脈はブッダ以前の古ウパニシャッドにはほとんど見られず、ブッダ以降のウパニシャッドから澎湃と立ち現われるものだ。

続く21では上顎というポイントがヨーガの脈管スシュムナーと関連付けられ、その上顎に舌をつける行法が、「諸器官を統制する」事と関連付けられた上で、「無我の境」「独存の境」という最高の境地へ導くものとされている。

ここで「無我」という言葉があちこちで「解脱」を意味している事、そしてそこに至る道程で「諸器官の統制」が重要なキーワードとして登場する事から、これらは全て、およそブッダの瞑想行法の薫陶を受けた行者たちが、仏教サンガの外流出した事の結果ではないかと私は考えている。

部派仏教の時代以降、仏教サンガは分裂に次ぐ分裂を繰り返しているので、「かつて仏道修行という文脈で瞑想に励んでいた行者たちが、仏教サンガから完全に離れて別個の集団を作ってもなおその修行を継続伝承し、それがやがてヒンドゥの主流派に合流した」という事は十分にあり得る。

そこにおいてブッダから間接的に、その具体的な瞑想行法とそれに伴う感官の防護などの諸概念がヒンドゥへと受け継がれた。

マイトリ・ウパニシャッドで言う『諸器官の統制』とは、現行八支のヨーガでは、1.ヤーマ(Yama)禁戒、2.ニヤーマ(Niyama)勧戒、3.アーサナ(Asana)坐法、4.プラーナヤーマ(Pranayama)呼吸法、の次に来る5.プラティヤハーラ(Pratyahara)感官の制御で、これは眼耳鼻舌身の五官の制御を意味する。

この五官の制御は、続く6.ダーラナ(Dharana)集中、7.ディアーナ(Dhyana)瞑想、8.サマーディ(Samadhi)三昧という瞑想行の重要な準備段階と位置付けられている。

この関係性は完全にパーリ経典における『六官の防護』に対応しており、ブッダがそれを説いた六官の防護から直接影響を受けたヨーギが、原理的にそこから五官を分離した上で瞑想行の準備に位置づけた可能性が高い。

(既に指摘したが、ブッダ本来の最初期の教えでは五官と意の官は明確に分けられている。仏教における「六官の防護とヨーガのプラティヤハーラの関係については、後日改めて深掘りしたい)

ここまで見て来た様に『歯と舌の行法』ブッダの時代から連綿と引き継がれ現代日本臨済禅においても行われている事、そしてヨーガの文脈で「舌の行法」がこれほどに高い効果が期待されていた事を考慮すれば、やはり本稿冒頭にこの行法を引用した中部経典第20経 「とどまり続ける思い」考想息止経における、

かれが歯をもって歯に置き舌をもって上顎を抑え、心をもって心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめるならば、およそ悪い、不善の、欲を伴いもし、瞋りを伴いもし、癡かさを伴いもする思いは捨てられ、それらは消滅していく

それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安坐し、専一となって定まる(サマーディに入る)

という記述こそが、仏道修行的には正しい文脈だった」のだと判断できるだろう。

話をパオ・メソッドに戻せば、ヴィシュディマッガを経由して取り入れられた四界分別観において「歯と舌」が重視されているのも、その「正しさ」に起源があると考えられる。

パオメソッドの四界分別観では、歯を焦点とした地の硬さの観察は具体的には以下の様に記述されている。パオ・セヤドーの「如実知見」より)

先に、歯によって硬さの特徴を認識する。まず、上下の歯を噛み合わせ、その硬さの感触を確認する。

その後で、噛み合わせている歯を緩めて、歯そのものの硬さを確認する。

これは四界分別などという「理屈」を捨象してしまえば、「歯の噛み合わせ」以外の何ものでもないし、また舌による観察に関しては、

舌で歯の先端を擦るか、舌を唇の内側に軽く押し当てることによって、唇を湿らせ、その後で舌を唇の左右に滑らせる、

などと書かれていて、で口腔内部の何かに触れる、という点は共通している。

パオの伝統では、経験的に、これら歯と舌を焦点とした気づきの観察によって深いサマディ―に入れるとされていた様だ。

これはマイトリ・ウパニシャッドの「舌端を上顎に押し付け、語・意・息を抑制し,を思索によって直観する」や考想息止経の「心が確立し、安坐し、専一となって定・サマーディに入る」と完全に対応しているだろう。

もはや疑う余地なく、「歯と舌の行法」仏道瞑想において卓効を示すメソッドだったのだ。

しかしそうなると、冒頭の疑問が再燃する。

「歯と舌の行法」が、ブッダの瞑想法においてサマーディに入る為の極めて強力な正統メソッドであったならば、では何故それが、考想息止経以外の菩提王子経やサンガーラヴァ経では、あたかも無意味だった苦行のひとつであるかのように記載されているのだろうか?

~次回に続く。

(本投稿はYahooブログ 2015/2/15「瞑想実践の科学 23:歯と舌の『行法』」を加筆修正の上移転したものです)

 

 


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