「調御地経」野象の首を柱につなぐ様に:瞑想実践の科学11
今日は前回の象つながりの流れで、象の調御と比丘の修行をドンピシャで重ね合わせたパーリ経典を紹介したい。
岩波文庫版のパーリ経典シリーズを何回も精読した末に、一見荒唐無稽なセーラ・バラモンの「広長舌相」のエピソードに注目し、それがインド女性のアクセサリーやヨーガの修行、更にはインド武術との関連から「動物」との “重ね合わせ” という視点に辿り着いた流れはすでに説明した。
その延長線上に、動物の調御と出家比丘の行道との “実態的な” 重ね合わせがあったのではないか、と発想しつつ、春秋社版の原始仏典シリーズを読み進めていたのだが、この「象の調御の喩え」に出会った時には、正に戦慄を禁じ得なかった。
その経典は中部経典の第125経『調御地経~しつけられた者がいたる段階』だ。
これは先に紹介した『若い駿馬の喩え:中部経典第65経 バッダーリ経』と双璧をなす動物の調御と比丘の修道を重ね合わせたスッタだ。
象の調御と比丘の修道とのリアルな重ね合わせは、もちろんブッダが無上のナーガ(象)と称えられた事と深く重なるものだろう。
この調御地経自体がとても意味深い経典なのだが、全文を引用するには少々長すぎる。そこでここでは象の調御に関連する部位を中心に、その趣旨を損なわない範囲で要約しつつ引用したいと思う。
中部経典第125経:「調御地経・しつけられた者がいたる段階」
〈調教用動物の譬喩〉
たとえば、アッギヴェッサナよ、よくしつけられている象、馬、牛としつけられていない象、馬、牛、がいるとする。
このしつけられている動物たちはしつけられた者が至る段階に達し得るだろうし、しつけられていない動物たちはその様な段階に達しえないだろう。
それと同じように、アッギヴェッサナよ、離欲によって知る事のできる、離欲によって理解する事のできる、離欲によって達することの出来る、離欲によってじかに見ることの出来るものを、欲の真っただ中で暮らしている、欲を享受している、欲の考えに蝕まれている、欲の熱に浮かされている、欲に熱中しているジャヤセーナ王子が、知ったり、理解したり、じかに見たりする道理がないのだ。
〈野象の調御の譬喩〉
アッギヴェッサナよ、象捕りは灌頂を受けたカッティヤ(クシャトリア)階級の王の命を受けると、王の象に乗って象の森に入り、野生の象を見つけて王の象の首につなぐ。それを王の象が森の外に引きだす。
アッギヴェッサナよ、こうしてやっと野生の象は森の外に出る。というのは、野生の象は象の森が好きだからだ。
そこで象捕りは王に報告する。
『王よ、野生の象が外に出ました』
そこで王は象の調教師に命じる。『さあ、君、象の調教師よ。野生の象を手なずけてくれ。野生の習性を抑え、野生の記憶や思考を抑え、野生の煩い・疲れ・悩みを抑え、村辺を好むようにし、人間が好む習性を身につけさせるのだ』
『わかりました、王よ』
アッギヴェッサナよ、象の調教師は王の命を受けると、大きな柱を地面に突き立てて野生の象の首につなぐ。
野生の習性を抑え、野生の記憶や思考を抑え、野生の煩い・疲れ・悩みを抑え、村辺を好むようにし、人間が好む習性を身につけさせるために。
そして象の調教師は、やんわりした、耳に心地よい、愛情豊かな、心に響く、上品な、多くの人に好まれる、多くの人に気に入られるような言葉で呼びかける。
アッギヴェッサナよ、調教師がそのように呼びかけた時に、野生の象が言う事を聞き、耳を傾け、よそ事を考えないならば、象の調教師はさらに飼い葉と水を与える。
アッギヴェッサナよ、野生の象が象の調教師から飼い葉と水を受け取ったならば、その時象の調教師はこう思う。
『これなら王の象として生きてゆけるだろう』そこで象の調教師は、さらに『さあ、取れ。さあ、放せ』といって訓練する。
王の象が象の調教師のこの命令を実行し、言う事を聞くようになったら、調教師はさらに、『さあ、進め。さあ、戻れ』と言って訓練する。
王の象がこの命令を実行し、言う事を聞くようになったら、調教師はさらに、『さあ、立て。さあ、坐れ』といって訓練する。
王の象がこの命令を実行し、言う事を聞くようになったら、調教師はさらに『不動』という名の訓練をする。
大きな盾をその鼻に取り付け、突き棒を手にした男が首の上に坐り、他の突き棒を手にした男たちが周囲を取り巻いて立ち、象の調教師が長い突き棒の柄をもって前に立ちはだかる。
その象は『不動』という訓練を受けるあいだ、決して前足を動かさず、後ろ足を動かさず、前身を動かさず、後身を動かさず、頭を動かさず、耳を動かさず、牙を動かさず、尾を動かさず、鼻を動かさない。
こうして王の象は槍で突いても、剣で突いても、矢で射っても、斧で斬りつけても、大太鼓・くびれ太鼓・ホラ貝・小太鼓を鳴らしても平気になる。
あらゆる癖や欠点が抑えられ、悪習が除去された王の象は王に相応しく、王の受用に適し、王の手足とも見なされる。」
〈比丘のしつけ〉
「同様に、アッギヴェッサナよ、いま尊敬するに値する正しく完全にさとった方、知行ともに備わり、安寧に帰し、世間を知悉しているお方、調御すべき人間たちの無上の御者、神々や人々の師、尊き覚者である如来が世に現れる。
かれは神々と魔王と梵天を合わせた世界や、沙門とバラモン、王と臣民からなる人類の事を自らはっきりと知り、じかに見て開示する。
かれは始めもよく、途中もよく、終わりもよい、真意と字義とをともにそなえた教えを説き、完全で清浄な禁欲修行(梵行)を提示する。
その教えを庶民階級の父や子や他の階級に生まれついた者が聞く。かれはその教えを聞いて如来に信心をいだく。こうして信心をいだくに至った者は次の様に考える。
『家庭での生活は難儀で、俗塵にまみれている。それにひきかえ、出家は青天のもとで自由の身だ。家庭生活を営みながら、まったく完全でまったく清浄な、磨いた法螺貝のごとき禁欲修行を行うのは容易ではない。
わたしは髪と髭を剃り落して袈裟をまとい、家を出て家なき状態へと出家してはどうだろう』
後日、かれはわずかな財産を捨て、もしくは多大な財産を捨て、わずかな身内を捨て、もしくは大勢の身内を捨てて、髪と髭を剃り落し、袈裟をまとい、家を出て家なき状態へと出家する。
アッギヴェッサナよ、こうしてやっと聖なる弟子は外に出る。というのは、神々や人間は五つの感覚的欲望の対象が好きだからだ。
そこで如来はさらに指導する。『さあ、比丘よ、戒めを守りなさい。パーティモッカという鎧に身を固め、正しい実践と行動範囲をそなえていなさい。わずかな罪にも危惧を抱き、戒めの条文を受持してその遵守に努めなさい。』
アッギヴェッサナよ、聖なる弟子がこれらの戒めを守り、その遵守に努めるようになったら、如来はさらに指導する。
『さあ、比丘よ、感官の扉を守りなさい。眼で色かたちを見ても大まかな特徴をとらえたり、詳細をとらえたりしないように。
何故ならば、視覚器官を防御せずに過ごしていると、欲や不快感といった悪い善くないものに侵されるからである。
その予防に努めなさい。視覚器官を護りなさい。視覚器官で防ぎ止めなさい。
耳で音声を聞いても、欲や不快感といった悪く善くないものに侵されないように予防に努め、聴覚器官を護りなさい。聴覚器官で防ぎ止めなさい。
鼻で匂いを嗅いでも、欲や不快感といった悪く善くないものに侵されないように予防に努め、嗅覚器官を護りなさい。嗅覚器官で防ぎ止めなさい。
舌で味わっても、身体で触覚の対象に触れても、精神で知覚の対象を知覚しても、欲や不快感といった悪く善くないものに侵されないように予防に努め、それぞれの器官を護りなさい。それぞれの器官で防ぎ止めなさい。
アッギヴェッサナよ、聖なる弟子が感官の扉を守るようになったら、如来はさらに指導する。
『さあ、比丘よ、食事を節制しなさい』アッギヴェッサナよ、聖なる弟子が食事を節制するようになったら、如来はさらに指導する。
『さあ、比丘よ、目覚めているように努めて過ごしなさい。昼間も夜も経行や坐禅を行って妨げとなるものから心を清めなさい。中更も注意し、意識して起き上がる事を考えながら獅子臥の姿勢をとりなさい』アッギヴェッサナよ、聖なる弟子が目覚めているよう努めるようになったら、如来はさらに指導する。
『さあ、比丘よ、注意力と意識をそなえていなさい。常住坐臥、すべての立ち居振る舞いにおいて、意識して行いなさい』アッギヴェッサナよ、聖なる弟子が注意力と意識をそなえるようになったら、如来はさらに指導する。
『さあ、比丘よ、森や樹下や山や渓谷や山窟や墓地や林や路地や藁山といった人気のない所で坐臥しなさい』かれは森や樹下や山や渓谷や山窟や墓地や林や路地や藁山といった人気のない所で坐臥する。
かれは食事を済ませて托鉢から戻ると、足を組んで身体を真っ直ぐに伸ばし、正面に想いを定めて坐る。
かれは世の中に対する欲(貪)や怒りや憎しみ(瞋恚)、憂鬱と気怠さ(昏沈睡眠)、軽躁と後悔(掉挙悪作)、疑惑(疑)という五つの障害物(五蓋)、智慧を無力にする心の汚れを捨てて心を清める。
そして世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、
身体(身:カヤ)を身体として観察して過ごす。
感覚(受:ヴェーダナー)を感覚として観察して過ごす。
心(チッタ)を心として観察して過ごす。
事象(法:ダンマ)を事象として観察して過ごす。あたかもアッギヴェッサナよ、象の調教師が大きな柱を地面に突き立てて野生の象の首につなぐように、~野生の記憶や思考を抑え、野生の煩い・疲れ・悩みを抑え、村辺を好むようにし、人間が好む習性を身につけさせるために~
ちょうどそのように、アッギヴェッサナよ、聖なる弟子にとってはこの『四つの注意力の確立』が、在家的な習慣を抑え、在家的な記憶と思考を抑え、在家的な煩い・疲れ・悩みを抑え、正しい手立てを得、涅槃を実現するために心をつなぎとめるものとなる。
そこで如来はさらに指導する。
『身体(身:カヤ)を身体として観察して過ごしなさい。けれど身体に関することを考えてはいけない。
感覚(受:ヴェーダナー)を感覚として観察して過ごしなさい。けれど感覚に関することを考えてはいけない。
心(チッタ)を心として観察して過ごしなさい。けれど心に関することを考えてはいけない。
事象(法:ダンマ)を事象として観察して過ごしなさい。けれど事象に関することを考えてはいけない。彼は大まかな思考や細かい思考が停止し内面が静まった状態、心が統一され精神集中から生じる喜びと安楽からなる第二の禅定に達する。
次に、その喜びが冷めた後に静観し続け、注意し意識しながら、安楽を感じ続ける第三の禅定に達する。
そしてその安楽を捨て、苦しみも捨てた後に、快不快感が消滅しているので苦しみも安楽もない平静さによって注意力が澄み渡った状態である第四の禅定に達する。
~以上、春秋社刊、原始仏典第7巻 出本充代訳 P261以降から引用
この二~四に至る三段階の禅定の後、修行する比丘はさらに様々な神通の獲得を経て解脱の智慧に至り、世の人々のために福徳を生みだす無上の田畑として、合掌するに値する者になる、と説かれていく。
この『調御地経』一扁によって、テーラワーダ仏教における修道のプロセスがおおよそ説示されているので、興味のある方は是非、全文を読んでみて欲しい。
これは先に紹介した『若い駿馬の喩え』の「象バージョン」であり、その修道のプロセスをより詳細に説示したものだ、という事ができる。
一読すれば分かるように、野象を調御する調教師とそのプロセスが、出家の弟子を調御して高みへと導くブッダの姿に、見事に重ね合わされている。
印象的なのは、冒頭に引用した「調教用動物の譬喩」において、これまで本ブログで連続して取り上げて来た象、馬、牛の三種の動物の調教が仏道修行とからめて譬えられている事だ。
やはり、彼らの文脈では、明らかに動物の調御と仏道修行は、かなり切実なレベルで「重ね合わされていた」事が分かる。
けれどこの三種の内、現時点では馬と象については以上のように詳細な説示が確認できたが、牛に関してはほとんど確認できていない。
これは第一には、象と馬と牛が持つ資質の違いと、その調御法における難易度の高さの違い、によるのかも知れない。
牛というのは単純な力仕事、牛車を引いたり犂を引いたりという単純労働しか行わない。何故なら、複雑で高度な仕事ができるほどには知能が発達していないからだろう。
一方で野生動物随一の巨躯を誇りそれに比例した強い力を持ち、同時に優れた知能を有する象を調御すると言うのは、並々ならぬ高度な技術と勇気そして忍耐を要する。
また、馬の歩法や走法の技術は繊細かつ多岐にわたり、それらを絶妙のタイミングで伝え、従わせるというのは、これもまた精妙かつ高度な技が求められるのだ。
調御される動物の中でも象はその難易度が最も高く、馬はその精密度において最も優れ、それに比べて牛は、まぁ大したことはない、という古代インド人の心象風景が透けて見える。
その最も難易度の高い象の調教が、本経では詳細に述べられ、同じように詳細に語られる比丘の調御のプロセスと重ね合わされる。
もちろんこれは、アビダンマ的な羅列マニュアル的整理を経た後の姿なので、ブッダの時代の実際の修行プロセスを示す、ひとつの理念的なモデル、くらいに見ておくのが妥当かも知れない。
けれども重要な事は、野生の象を森で捕獲し、森から引きだして人間社会の秩序に組み込み、順を追って調御して、最終的に王の乗用に相応しい象へと仕立てあげていくプロセスが、そのまんま、世俗に生きていた人々がブッダの教えに触発されて発心し、在家の生活を捨てて出家してサンガに入り、プリサダンマ・サーラティであるブッダの指導の下、様々な段階を経てその心が調御され、最終的に合掌されるに相応しい福田へと仕立てられていくプロセスと重ね合わされていた、という明白な事実だ。
ここで焦点になるのが、この様な自然状態の象と世俗的な人間との重ね合わせにおいて、その世俗人の特質として「人間は五つの感覚的欲望の対象が好きだからだ」と書かれている事だろう。
それは冒頭に引用したジャヤセーナ王子の生き様そのものであり、そこで強調される様にこの世間的な五つの感覚的欲望から離欲することこそが仏道修行なのだ。
そこで書かれている「離欲によってじかに見る事ができる」という言葉を覚えておいて欲しい。ここで言う『離欲』とは瞑想実践そのものであり、「じか見る」とは瞑想の深みにおいて「直に観る」事を意味するからだ。
この流れは後段の『六官の防護』へと続き、最終的に「涅槃を実現するため」の『瞑想実践』そのものである『四つの注意力の確立』へとつながっていく。
この辺りの消息を明らかにするために、上で説明された出家比丘である聖なる弟子が辿る修行の道程を、上から順に並べて一覧して見よう。一番最初の「発心」部分は端折った出家後の流れだ。
1.戒の順守
2.六官の防護
3.食事の節制
4.常に目覚めている事、経行と坐禅と獅子臥の奨励
5.常住坐臥、全てにおいて注意し意識的に行為する事の奨励
6.森や樹下など人気のない所で坐臥する事の奨励
7.正面に想いを定めて坐る瞑想の実践
8.世の中に対する欲(貪)を筆頭に瞋恚、昏沈睡眠、掉挙悪作、疑という智慧を無力にする五つの心の汚れを清める。
9.世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、身体(身:カヤ)を身体として、感覚(受:ヴェーダナー)を感覚として、心(チッタ)を心として、事象(法:ダンマ)を事象として、観察して過ごす。
10.9の身受心法の観察が『四つの注意力の確立』と称され、それが象の首を柱につないで調教する事に喩えられ、そのプロセスが「涅槃を実現するために心をつなぎとめるもの」と呼ばれる。
11.9と同様身受心法を観察して過ごすが、その身受心法に関して「考えてはいけない」という注記が加わる。
12.第二禅、第三禅、第四禅と禅定が深まるにつれ、心が澄み渡っていく。
私はこれまで、六官の防護こそが瞑想実践そのものである、と言う事を折に触れて論じてきたが、この経典にはそれが明示されている。以下にそれを説明しよう。
第一に注目すべきは、戒の順守と六官の防護が別項に分けられている事だ。これはテーラワーダ全般に六官の防護を戒の一部として捉えがちな様なので、まず指摘しておきたい。
六官の防護とは、戒の一部ではなく、定(瞑想実践)の一部であり、むしろ定の全てである、と。
これはパーリ経典全般の記述にほぼ共通するのだが、この「六官の防護」の次にはたいてい3.の「食事の節制」が割り込んで来る。これが事の本質を見失わせる大きな原因となっている。
続く4.5.6.7.8.9.10. は全て常住坐臥の気づきの瞑想を意味しており、後段に行くにしたがってそれは坐の瞑想実践へと焦点が絞り込まれる。
その中の7.「正面に想いを定めて坐る瞑想」が「顔の周りに気づきを留めるアナパナ・サティ瞑想」である、という事は、これまでも繰り返し述べて来た。
何故「顔の周り」なのか?
それは顔の周りこそが六官が集住する場処であり、それこそが「欲(六欲)や不快感といった悪く善くないものに侵されないように予防に努め、それぞれの器官を護り、それぞれの器官で防ぎ止める」べき、正にその現場だからだ。
間に割り込んでいる「食事の節制」の印象に惑わされてはいけない。これは六官の防護の内の『舌の防護』であって、六官の防護のいち注記事項に過ぎない。
つまり『六官の防護』とは、食事の節制から続く「4.5.6.7.8.9.10.11.12 に一貫する常住坐臥の気づき、その焦点である坐の瞑想実践」の 全てにかかっている。
常住坐臥の気づき=常住坐臥の六官の防護
これを各項目別に説明すると、くどい様だが以下になる。
「4.常に目覚めている事、経行と坐禅と獅子臥の奨励」「5.常住坐臥、全てにおいて注意し意識的に行為する事の奨励」
とは、常に六門からの「六欲や不快感といった悪く善くないものに侵されないように予防し、それぞれの器官を護り、それぞれの器官で防ぎ止める」つまり『六官を防護』すべく常に目覚めて注意して意識している、事を意味する。
「6.森や樹下など人気のない所で坐臥する事の奨励」「7.正面に想いを定めて坐る瞑想の実践」とは、その様な六官の悪しき欲望刺激の少ない環境に遠離し、そこで更に、六官が集住する顔の周りに気づきを留めて、そこで『護り』『防ぎ止めて』瞑想する、という事を意味する。
「8.世の中に対する欲(貪)、瞋恚、昏沈睡眠、掉挙悪作、疑という智慧を無力にする五つの心の汚れを清める」の筆頭に来る「世の中に対する欲(貪)」の汚れとは、「人間は五つの感覚的欲望の対象が好きだからだ」というその眼耳鼻舌身の五欲に他ならず、「瞋恚、昏沈睡眠、掉挙悪作、疑」とは『意』の汚れに他ならない。
つまり8における「五つの心の汚れを清める」事が、ストレートに「五欲六欲の堰き止め」であり『六官の防護』を意味している。
「9.世界に対する欲や不快感を除き去って」も上と同様「五欲六欲の堰き止め」であり『六官の防護』に他ならず、
「熱心に、意識し、注意しながら、身体(身:カヤ)を身体として、感覚(感受=ヴェーダナー)を感覚として、心(チッタ)を心として、事象(法=ダンマ)を事象として、観察して過ごす」
の『身と感受の観察』とは身体的な五官の防護であり、
『心と法の観察』とは第六の意官の防護に他ならない。
(身受の観察が身体的な五官の観察である、と言う点に関しては、以前にも書いたが、眼耳鼻舌の官は色声香味の門であると同時に『触』の門でもある、と言う点が行法上の焦点になる)
以前にも指摘した事だが、この「気づきの観察こそが『防護』である」、という点は、城塞都市における六つの門を護る門衛の喩え、を思い出せば理解し易い。
人間の身体とは九門(Nava Dwara)を持つ城に喩えられ、特に顔に位置するひとつの口腔、二つの鼻腔、二つの耳孔、二つの眼窩は感覚情報が入る七つの門に喩えられる。
この七つの門がすなわち眼耳鼻舌(口)という四官の門であって、これに触覚の門と意官の門を加えた六官の門全てが、頭部顔面に集住する。
(古代インド人が「意:マナス=心」の座を脳に比定していた点については既に指摘している)
再掲:顔面頭部には七つの門(四官の門)が大きく開いている
これら感官の六門全てを警護し防護するためには、門衛は門の直近に臨在して常に気づき、そこで生起する全ての事象を観察し続けなければならない。
『身体と感受の観察』とは身体的な五官の防護であり『心と法の観察』とは第六の意官の防護に他ならない、ところの、身受心法の瞑想実践が、
「10.『四つの注意力の確立』と称される」
という事は、この10の『四つの注意力の確立:身受心法の四念処瞑想(cattāro satipaṭṭhānā)』もまた、六官の防護そのものである事を意味する。
(顔の周りは六官全てが集住する為、気付きの防護をそこだけで完結させる事が可能だが、触の門は全身に及ぶので気づきの防護もまた全身に広げる、という選択もある。しかし『瞑想機序』としては前者の方が話は速いだろう。
これはもちろん『体質』などにもよるのだが、瞑想実践とは基本的に粗大な感覚から微細な感覚へと深まり、末梢から中枢へと収斂していくものなので、全身の末梢感覚に気づきを広げる事は『遠回り』になり兼ねず、「周辺外野で遊び続ける」事になり兼ねない。
しかし逆に言うと、最初の入口は「顔の周り」よりもむしろ全身の末梢感覚の方が入り易いかも知れない)
注記が長くなってしまったが再開すると、
「10. ~『四つの注意力の確立』が象の首を柱につないで調教する事に喩えられ、そのプロセスが『涅槃を実現するために心をつなぎとめるもの』と呼ばれる」
そこにおいて『心をつなぎとめる』という表現に注目して欲しい。この心こそが『意』であり、「心をつなぎとめる」とは直接的に『意官の防護』を意味する。
五官からの情報流入が五欲を生み出すのは正に心の内においてだから、「心をつなぎとめる意官の防護」がすなわち六官の防護の総括となる。
この点は、最古層のスッタニパータにおける
171 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。
という表現形式が本質的に正しい。これは眼耳鼻舌身意を六官としてまとめる以前の、古層の韻文に共通するもので、眼耳鼻舌身の五官(五欲、五境)と第六の意の官を明確に分けている。
つまり、最初に五官の防護から入り、最終的に意の官の防護(堰き止め)が段階的に完成する。
結局は、くどい様だが、意官に収斂される六官の防護こそが『涅槃を実現する』ための瞑想行道なのだ。
そして、その『涅槃を実現するため』に『意官(六官)を防護する』坐禅瞑想が、「象の首を柱につないで調教する」事に喩えられた。
象がその首を繋がれる柱とは、地面に垂直に打ち込まれ象の大力にも微動だにしない不動の柱は、そのまんま坐禅瞑想時の脊柱を真っ直ぐに立てて身じろぎもせずに大地に坐す、という営為と重ね合わされていただろう(外なる柱と内なる柱の同置)。
その不動の坐相の中で『四つの注意力の修習』が実践される時、象の特徴である鼻(息)、鉤棒の急所である額、柱に縛られ象使いが乗る首、その指令を受ける耳、などが、瞑想修行の導入部において、極めて重要な実践的な意味を担っていたはずだ。
そして瞑想が深まるにつれ、その坐相はあらゆる意味で外においても内においても不動になる。まるで象が最終的に『不動の調御』を体現する様に。
調御地経に戻ると、
「11.9と同様身受心法を観察して過ごすが、その身受心法に関して『考えてはいけない』という注記が加わる」
次の段階がいきなり第二禅定から始まるのを見ると、上の部分は第一禅定における教示だと思われる。
一般に第一禅定は「諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態」(Wikipedia)と言われているので、この「尋・伺」という『思考』が堰き止められていく事によって、次の第二禅定が立ち現われる、と言う流れだ。
12.冒頭に書かれた「彼は大まかな思考や細かい思考が停止し内面が静まった状態、心が統一され精神集中から生じる喜びと安楽からなる第二の禅定に達する」というのが、正に前段の「考えてはいけない」という教示が体現された、つまり『思考』が「堰き止められた」状態だが、そこにはまだ「喜びと安楽」という心的要素が残っている。
そして次に来る、「その喜びが冷めた後に静観し続け、注意し意識しながら、安楽を感じ続ける第三の禅定に達する」において、その『喜び』という心的要素が「堰き止められ」安楽だけが残っている。
最後の段階では、「そしてその安楽を捨て、苦しみも捨てた後に、快不快感が消滅しているので苦しみも安楽もない平静さによって注意力が澄み渡った状態である第四の禅定に達する」という様に、前段の安楽も消失し(堰き止められ)あらゆる心的要素が止滅した平静(ウペッカー)が現成する。
こうして見て来ると、まず『身受』の瞑想によって五欲の汚れが堰き止められ五欲とそれに基づく粗大な意の汚れが防護される。
その結果として、「諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺を伴いながらも、離による喜・楽と共にある第一禅定」に入り、第二禅定では尋・伺が堰き止められ、第三禅定では喜が堰き止められ、第四禅では楽さえも堰き止められて、全き平静(ウペッカー)が体現される。
つまりこの四段階の禅定とは、『意官の防護』あるいは『意における法の堰き止め』が段階的に完成されていくプロセスを示している、とみる事ができる。
私はテーラワーダの伝統については、もちろんスマナサーラ長老の様には知悉していないので分からないのだが、本ブログにおいてここ最近私が強調している事柄、すなわち、
牛や馬や象の調御において重要な意味を持つ、特に首から上『顔の周り』という身体上のポイント(急所)が、瞑想実践の具体的な気づきのポイントと重ね合わせて説示されている、
という観点、そして
『六官の防護』こそが、その「顔の周り」に気づきを留める『瞑想実践』そのものである、
という観点は、これまで歴史的に存在しなかったのだろうか。
もしそうだとしたら、私にはその成り行きが全く理解できない。
ひょっとして、斯界においてはこのような発想自体、「何を素人がバカなことを言っているのか?!」と一言の元に切り捨てられるような “妄言” に過ぎないのだろうか。
このような『観点』の不在に関しては、私にとって「パーリ経典にここまで明示されているのに何故、誰もそれが分からないのか?」というレベルで、本当に不可解としか言いようがない。
(この不可解さは、日本のいわゆる瞑想業界全般、さらに仏教学や宗門仏教に至るまで当てはまるし、その不可解さゆえに「どうせ誰も理解できないのか」とげんなりしてしまい、もしYahooブログが閉鎖にならなければ、この様な投稿作業を再開する事も、きっとなかっただろう)
なぜ私が、「牛や馬や象の調御において重要な意味を持つ身体上のポイント(顔周りの急所)が、瞑想実践の具体的な気づきのポイントと重ね合わせて説示されている」、という発想を得てそれに深くうなずき、ここまで強調して語らずにはいられないのか。
そしてそれがどのように「『六官の防護』こそが顔の周りに気づきを留める『瞑想実践』そのものである」という結論に結びつくのか。
これまでも少しずつ論じてきたが、もちろんそこには、極めて実践的かつ合理的(科学的)な思考と判断の裏付けがある。
大方の読者の同意を得られるかは分からないのだが、これらの仮説は、決して奇を衒って耳目を集めよう、などという不純な動機に基づいた妄言などではない。
おそらく、「六官の防護こそが瞑想実践そのものである」という事実に、大多数の人々が気づく事が出来ないのは、彼らに「ブッダの言葉を客観的かつ網羅的に俯瞰する」という「見通し」がない事に加えて、瞑想実践における『科学的な作用機序』という観点が、全く欠如しているからなのだろう。
(最近では多少ましにはなったが、多くの日本の仏教学者あるいは伝統的仏教僧侶の場合、瞑想実践、という経験自体が、欠如している。特に「ゴータマ・ブッダの教え」を標榜しながら、瞑想実践行の経験が全くない人間が「出家僧侶」を名乗ったりあるいは「仏教学者」を名乗ったりするのは、根本的な顛倒であると気づくべきだ)
例えば、膝蓋腱反射という一見摩訶不思議な生理現象があるが、あれは科学的神経生理学的に説明が可能だし、あれを「神の御業」とか「御仏の慈悲」とか「輪廻転生」とかに結びつける人もあまりいないだろう。
これはひとつの極論かも知れないが、人間の心身システムにおいて現象する『瞑想』という営為もまた、本来的には同じレベルで科学的に解明可能なものだと私は認識している。
(もちろん瞑想と言う営為は複雑を極める脳という中枢を大きく巻き込んでいるので話はそう単純ではないし、私が現時点で持っているのはある種の「感触」に過ぎない。
また、この瞑想と言う営為は『信仰心』という非常に厄介なものを相携える場合が多く、また「自我意識」にも強力に作用するので、科学的真理が普及するには多大なる時間を要するだろう事が予想される)
2500年も昔の古代インドにおいて、その作用機序をおそらくはほとんど体験知の積み重ねだけで直観し、しかも実証して見せた、というその一点において、私はゴータマ・ブッダを深く尊敬せずにはいられない。
(顕微鏡もない古代インドで、ウパニシャッドの哲人たちは「遺伝子DNA」の存在を予見していたのだから、インド人、恐るべしである)
その『実践的かつ合理的な探求』の果てに浮かび上がる『科学的な作用機序』に関しては、これから順を追って、明らかになっていくはずだ。
但し、その事によって、多くの人々の頭の中に渦巻く『大切なファンタジー』が大いに棄損されてしまうかも知れない、という点に関しては、あらかじめお断りしておく。
その前振りという意味もあって、過日私は「村上春樹の1Q84を読んで」を投稿している。興味のある方は読んでみて欲しい。
(本投稿はYahooブログ 2015/1/16「瞑想実践の科学 19:野象の首を柱につなぐ」記事を加筆修正の上移転したものです)