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仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

世界の車軸(支柱)としての『ブラフマン=至高神』

『あらゆるインド思想の核心には、車軸と車輪のアナロジーが潜在している』

そう言ってもたいていの人にはいまいちピンとこない事だろう。

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車軸と車輪の構造デザイン・機能は、インド思想の核心だ。Rath-Yatra-18 - Rath Yatra Live from puriより

インド武術の研究からインド思想へとシフトし始めた頃、私は「新幹線の車輪」なる写真を偶然ネット上で発見し、何か感じるものがあってパソコン上に保存した。 

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新幹線の車輪と車軸(筆者撮影)

それは上に掲載したように車輪が地面に対して垂直に立ち、車軸は地面に対して水平に伸びている姿で、新宿西口のとあるオフィスビルの玄関口に飾られているものだ。

それがある時、誤ってこの画像を90度回転させてしまった。その結果現れた姿が、下の車軸が垂直に立ち上がった、輪軸の構図だった。 

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90度回転させて車軸が直立した車輪

インド世界について、ある程度知っている人がこの写真を見れば、誰しもが思い出すだろう造形がある。それがシヴァ・リンガムと呼ばれるシヴァ神の御神体だ。私も上の写真を見た瞬間にこれを思い出して、文字通り「アッ」と声にならない声を発していた。 

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シヴァ・リンガムは輪軸の顕われ

当時の私は、ある文脈の中で「何故マハトマ・ガンディはいつも杖を持っているのか?」というなんとも素朴な疑問を持っていた。彼の肖像は老年期のものが多く、その手に握られたトレードマーク的な棒は、普通に老人が歩行を助けるための杖だと考えられがちだが、実はもっと若い頃の肖像画にも、棒を持ったものが見られるのだ。 

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杖を手にして遊行するガンディー翁

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まだ壮年と言って良いガンディー。手にはやはり棒を持っている(サバルマティ・アシュラム)

その後の取材で、ガンディ翁の手にする棒が、ヒンドゥ教徒の男子にとって特別な意味を持つ聖杖ダンダである事が分かって来た。

曰く、インド人にとって、特に農村に住む清く正しいヒンドゥの男にとって、棒(杖)とは特別な意味を持つ存在だという。ガムチャやターバンなどの布か、トピーと呼ばれる帽子を頭にかぶり、クルタ・シャツを着てドーティを腰に巻き、チャッパルを足に履いて、そして手には棒を携える。これが由緒正しいインドの男たるべき正装らしい。彼は傍らの棒を誇らしげに掲げながら、「これは、ダンダなんだ。」と言った。

チャクラの国のエクササイズ: ガンディ翁と聖なるダンダを参照。

さらに、この敬虔なヒンドゥの男子が手にする聖杖ダンダの背後には、様々な心象が横たわっている事が分かってきた。

一方で、ダンダは神につながる行者の属性としても重要になっていった。ヒンドゥの修行者と言えば、オレンジやサフラン色のローブをまとったサドゥが有名だ。彼らが世俗の生活を捨て、グルジー(老師)の元で出家する時に与えられるのもまた、一本のダンダと、水を入れる金属製のポットだった。ヒンディ語では『ダンダをつかみ持つ』という意味の『ダンダ・グラハン・カルナー』という言葉が『出家』を意味するという。常にダンダを携えて遊行するサドゥの姿は、聖なるインド世界を象徴する原風景となった。

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ダンダを持つ出家のサドゥ

チャクラの国のエクササイズ: ガンディ翁と聖なるダンダより

だがその時は、このダンダが持つ本当の意味が理解できてはいなかった。その意味を発見する決定的なヒントになったのが、正にこのシヴァ・リンガムと重なり合う新幹線0型車両の輪軸、との出会いだったのだ。

シヴァ・リンガムは二つのパーツによって成り立っている。ひとつは男性最高神シヴァを、その男根で象徴したリンガと呼ばれる短い柱状のもので、もうひとつがシヴァの配偶神である女神シャクティを、ヨーニと呼ばれる女陰で象徴する円盤状の部分だ(実際はゴームカという排水溝がつくので印象は少し変わる)。 一般にシヴァ・リンガムは石を刻んで作られ、先に立てられたリンガに下から貫かれる形で、ヨーニが上にはめ込まれる。

そして、このリンガとヨーニが合体したシヴァ・リンガムが祀られる寺院の神室は、シャクティ女神の子宮を表し、寺院自体が、騎乗位で夫シヴァにまたがり交合するシャクティの身体を表している。

何故、騎乗位なのか? それはほとんど動かずに受動的にいるシヴァに対して、能動的に躍動するシャクティのダイナミズムを象徴している。そしてその背後には、ヒンドゥ・サーンキャ的な二元論が潜在していた。

サーンキャ哲学、それはヴェーダ六派哲学のひとつで、紀元前に実在した聖仙カピラを師祖とし、西暦200年頃に著された『サーンキャ・カーリカー』を聖典とする。ヨーガやアーユルヴェーダなどとも密接に関わり、現代にいたるヒンドゥ的人間観、世界観に最も重要な基盤を与えている思想だ。

それによれば、純粋精神であるプルシャはそれ自体静的であり、輪廻する物質的な現象界とは無縁だ。プルシャに対置する根本原質プラクリティこそが物質的現象界の展開力であり、プルシャの観照によって両者が結び付く事で世界は展開する。そしてプラクリティから展開した自我意識(日常的な心)が、純粋意識のプルシャへと目覚める事によって、人は解脱するという。

プルシャは同時にアートマン(真我)であり、私たちの世俗的な、それゆえ多くの執着や苦悩にまみれている心が、本来の純粋精神であるアートマンへと回帰することで、輪廻の束縛から解放され真の救済を得るのだ。

もちろんこの前提になるのが、車軸と車輪のアナロジーであるのは言うまでもない。ラタ戦車の車台に固定され、それ自体は動かない車軸はプルシャ(男性形)であり、そこに嵌められてダイナミックに転回(展開)・躍動する車輪はプラクリティ(女性形)を表している。だからこそ、現象世界は『輪廻』するのだ。

そしてこのプルシャとプラクリティの関係性を、そのまま発展させたのが、シヴァ・リンガムになる。だからこそ、シヴァは静的であり、シャクティはダイナミックに躍動するのだ。

シヴァ・リンガム。それはゴームカ(牛の口)という排水溝をつけた円盤状のヨーニ(女陰を表す)の上に、短い円柱状のリンガ(男根を表す)が屹立したもので、男性原理であるシヴァと女性原理である神妃パールヴァーティ(シャクティ)が合一している姿を象徴し、あまねくインド全土でシヴァ寺院のご神体として崇められているものだ。

だが、これまで聖なる車輪とはイコール、スポーク式車輪だと思い込んでいた私にとって、スポークのデザインを持たずしかもゴームカの存在によって印象を変えられたヨーニの姿は、完全に盲点となっていた。

ナタラージャの造形だけではなく、ど真ん中とも言えるシヴァ・リンガムそのものが車輪の現れだったのか?私の頭は一瞬の衝撃と混乱から立ち直りながら急速に回転し始めていた。

私は今まで、車輪と車軸を分けて考える視点を、実は持ち合わせていなかった。平面的な造形デザインとしてそれを見た場合、大柄で見栄えのする車輪に比べ中央の車軸はほとんど目立たないからだ。

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中央に法輪を掲げたインド国旗

例えば上のインド国旗に描かれた法輪を見た場合でも、はたして中心にあるドットが車軸なのか、それとも車輪の中心にあって車軸を通すハブなのか、はっきりしない。

またインドの田舎で今でも現役で活躍している昔ながらの牛車などを見ても、車軸は荷台や車輪に隠れてほとんどその姿を見る事が出来ない。

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車軸の存在感は極めて希薄だ

そんな訳で私にとって車軸の存在は完全な盲点になっていた。だがそんな目立たない車軸のイメージが立体的なリンガと重ね合わさった瞬間、それはとてつもない存在感を放ち始めたのだった。

チャクラ思想の核心3・車輪の中心にあって、それを転回せしめる車軸 より

そしてこの『車軸の発見』が、ガンディ翁の持つダンダについての、核心に迫る発見をもたらす事になる。

車輪の中心にあってそれを回転せしめるもの。この時の私にとって、シヴァ・リンガムが車輪の造形かも知れないという発見以上に、『車軸』そのものの発見の方がより大きな意味を持っていた。

考えてみれば、私はすでにチャクラ・デザインについて第三章でこう語っている。

『中心から放射状に展開するデザインは、根源である神(原初には太陽)から世界のすべてが展開する摂理を表していた。それが瞑想時には放射状のデザインを逆にたどって、日常に拡散する人間の心を中心である神へと集中させていく』と。

この時点では車軸がそこにあるなどとは露ほども気づいていなかったが、その存在に気づいてみれば、車輪の表象において、その中心にある車軸こそが神を表すのはごく自然な話だった。

そしてさらなる衝撃は続く。

シンプルな丸棒である車軸、という言葉に微妙な違和感を覚えて何回か復誦していた私は、ハタと気付いたのだ。この車軸を、車台から外して手に持てば、それはすなわち、

『聖杖ダンダ』に他ならないではないか!

車軸である一本の丸棒は、同時にダンダでもある。これがとどめの一撃だった。これこそが、チャクラ思想の真の『核心』ではないのか。

チャクラの国のエクササイズ: 車輪の中心にあって、それを転回せしめる車軸 より

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聖杖ダンダを右手に、聖チャクラ(車輪)を左手に持つヴィシュヌ神。ダンダは世界の支柱(車軸)であるヴィシュヌ自身を表している(ヴィシュヌ派においては彼こそがブラフマンである)

実は、聖なる唯一絶対者=至高神を車軸と見立て、現象世界を車輪と見立てる思想は、シッダールタが生まれる遥か以前からインド世界に普遍的に浸透していた。もちろんその背後には、アーリア人が駆使したラタ戦車の車輪がある。

インド・アーリア人によって編纂されたリグ・ヴェーダには、以下のような世界観の表明が確認できる。

アーリヤ人は、知識程度が高まると共に、宇宙はどのようにして創造されたか、という問題に思いを馳せるにいたった。 

宇宙創造に関する当時の見解は、きわめて大まかに分けるならば、だいたい二種に区分することができる。ひとつは宇宙創造を出生になぞらえるもの、他は建造に比較するものである。 

前者の例としては神々のあいだに親子関係を認め、能生所生の関係を構成していると考え、また天地自然が種々なる神々から生み出された事を説いている。創造は自分の〈生む〉はたらきとしてしばしば言及されていて、根源としての質量からの生産と発展とに言及している。 

後者の例としては、神々が天・空・地を測量してその広さを増し、天地を支柱によって強固安定させたという事が、しばしば称賛されている。 

後者は宇宙創造の動力因を質量から切り離しているのに対し、前者はその二つを同一の原理に帰している。 

(以上、中村元選集:「ヴェーダの思想」P397~398より抜粋引用)

『宇宙の形に関しても明確な描写は存しない。ただ一回、これを重ね合わせた二個の鉢に譬え、また車軸によって車輪を支えるようにインドラは天地を引き離した(RV.Ⅹ,89,4)ともいわれている点から見ると、地表を円形と考えていたらしい。天地は併称されることが多く、「二個の半分」と考えられているが、そのあいだの距離についてはなにも記されていない。(同P451)』

ここには極めて重要な事実が含まれている。 

インドラというのは、当時インド・アーリア人にとっては最高神格に近い存在で、リグ・ヴェーダの讃歌の内およそ四分の一が彼に捧げられたものだった。 

そのインドラが「あたかも車軸の様に、天地を二つの車輪の様に引き離し支えた」、というのは一体どういう事だろうか。 

一般にインド・アーリア人の祖先は中央アジアから南ロシアにかけての大平原地帯に発祥し、その文化思想を育んだと言う。大平原であるからこそラタ車の車輪が移動や戦争において著しい優位性を持っていた訳だ(逆に言うと急峻な山岳地帯では車は発達しない)。 

このような大平原地帯では、この世界は第一感どのように把握されうるだろうか。目地の届く限り遮るもののない大平原の真ん中に立って世界を360度俯瞰したならば、それは湾曲する地平線を外縁とする円輪として把握されたのではないだろうか。 

そしてその円盤状の大地の上に広がる天(この場合は太陽や月、星が運行する場であり、同時に神々が住む)もまた、同じように円盤状(もしくはドーム状)に把握されたのだろう。

やがてこの上下二つの円盤状の大地と天は、彼らにとって最も身近な車輪という存在と重ね合された。 


North Celestial Pole Star Rotation 天の星辰は北極星を中心に車輪の様に回転する

しかし天はなぜ大地から分かたれて落ちてこないのだろうか。そんな思いが彼らの脳裏をかすめた時、車輪とのアナロジーも重なり合って『二つの車輪を分かち支えるものとして偉大なる車軸がなければならない』という発想が生まれたと考えられる。 

一般にインド・アーリア人にとって最も重要だったラタ戦車は私たちに身近な四輪車ではなく、一本の車軸によって左右二つに分かたれた二輪車になっている。 

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本ブログではおなじみのエジプトの古代戦車。インド・アーリア人のラタ戦車にもっとも近い原像。 

このラタ車の輪軸の構造がそのまま直立されて、天地上下の二輪になった。これが『二個の半分』という事なのだろう。そして、何か神的な車軸である超越者によって、この上下二輪である天と地が分かたれつながれ、そして支えられた。これがラタ戦車の民である彼らの、素朴な直観だったと考えられる。 

当然車軸を立てれば、それはもはや柱と呼ぶべきだろう。しかもそれは、この広大なる天と地を分かち支える柱だから、これも人知を超えた巨大な柱になる。 

この神的な大支柱については、すぐ次のページにある『天地讃歌』に以下の様に記述されている。 

『活動的な神々のうちでももっとも活動的なこの神は、万物に幸を恵む天地両界を生みなした。その彼はよき賢慮によって、不朽の支柱をもって両界を測り分かったのであるが、彼こそ広くたたえられた。(同選集P452、RV.Ⅰ、160、4)』 

ここで中村博士は、「この神」を太陽神だと考えているようだ。原語を見ると「不朽の支柱」は『スカンバSkambha』になっている。車軸なる、世界の柱なる神は、その時々の文脈で様々な神に比定されたのだろう。

インド思想の根幹に位置する、最も古層のリグ・ヴェーダにおいて、輪軸のコスモロジーが発見できたことは、本ブログにおける論述の妥当性を評価するうえで極めて重要な意味を持っている。 

リグ・ヴェーダは全十巻1028讃歌によって成り立ち、その文章量は膨大なものになる。私の手元には辻直四郎訳の岩波文庫版とセイクレッド・テキストの英訳ウエブ版しかないのだが、その英語版で確かめた所、「車軸が車輪を分かち支えるように、インドラが天地を分かち支えた」という、その「車軸と車輪」の原語はサンスクリット原文に確認できたので、ここに天地世界と輪軸を重ね見る思想が『実在』したことは、もはや間違いないだろう。 

yo akṣeṇeva cakriyā śacībhirviṣvak tastambhapṛthivīmuta dyām

Who to his car on both its sides securely hath fixed the earth and heaven as with an axle.

Rig Veda Index より引用

 akṣeとaxleが車軸であり、 cakriyā が車輪(多分複数)だが、英語版ではwheelという訳語は使わずcar on both its sides になっている。 

そして、車軸と車輪という言葉こそ使っていないが、神と人が分かたれ住まう『天地』とは、リグ・ヴェーダ全体に普遍するメインテーマであり、神々が『天地を分かち支える』という表現は讃歌の多くに共有されている。 

前後の文脈も踏まえたうえで、それらの根底にはおそらく全て、この車軸なる神によって天地の両輪が分かたれ支えられたという思想が、遍在していたと考えて間違いないと私は判断している。 

ヴァルナの歌、RV,Ⅶ、86,1, 辻直四郎訳より、

『この(神)の偉大によりて生類は賢明なり。彼は広大なる天地を分け隔てたり。彼は蒼穹を遥かに推しかかげ~』

この蒼穹とはあおぞらとルビが振ってあり天蓋だと考えれば、あたかも巨大な傘をその柄をもって(立てて)かかげるイメージではないだろうか。 

このように天地両界が車の両輪に譬えられ、超越者がその車軸なる柱として位置づけられた事は、その後のアタルヴァ・ヴェーダの中にも明らかに表れている。 

『とくに汎神論的な思想を表明したものとしてスカンバ(skambha)讃歌(AV, Ⅹ,7,8)は注目される。従前に世界原理として説かれた諸原理は実はこのスカンバの別名にほかならないとして、諸原理をこのなかに包括しようとしている。スカンバとは宇宙の大支柱である。

ひとつの讃歌(AV,Ⅹ,7)によると、スカンバはブラフマンと同一視されているようである。すなわち、天、空界、太陽、月、火、風、方角、大地は最高ブラフマンの身体なのである。

「過去と未来、ありとあらゆるものを支配し、天空を一人所有するところのブラフマンに敬礼する」

ここでは最高のブラフマンなるものが考えられているが、それはまたすべてを支配するのであるから、一種の人格的原理とも考えられている。』

中村元選集P476以降から引用(一部省略)。 

「至高なるブラフマン、その足元は地を、その腹は空を、その頭は天を支え~、このスカンバは広き六方の世界を生み出し、宇宙の全てに浸透する。」

「偉大なる神的顕現(スカンバ)は万有の中央にありて、~ありとあらゆる神々は、その中に依止す、あたかも枝梢が幹を取り巻きて相寄るがごとく」(アタルヴァ・ヴェーダ:辻直四郎訳)

このアタルヴァ・ヴェーダのスカンバは、明らかに先のリグ・ヴェーダ『天地讃歌』におけるスカンバをそのまま受けたものだろう。これはインド思想が多神教的な神々の世界から唯一至高者へと収斂されていくプロセスを表しており、日本語ではしばしば『万有の支柱』と訳される。 

それは最も優れた支柱であり、それは最高の支柱である。この支柱を知るとき、人はブラフマンの世界において栄光を享受する。

カタ・ウパニシャッド 第二章の17(岩本裕:原典訳ウパニシャッドより)

ここで注目すべきは、世界の中心原理である唯一なるブラフマンが、偉大なる柱であると同時に『人格的(人間的)』なものである、という点だ。 

実はこのような「天地を支える万有の支柱としての絶対者ブラフマン」あるいは「ブラフマンの身体としての天地」というイメージは、現代に至るジャイナ教の思想の中に引き継がれて保存されている。

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ジャイナ教の世界観「コスミック・マン(Loka Purusha)」より。

明らかにこれは「人(神)柱」である

そこには大宇宙の根本原理であるブラフマンを万有の支柱(車軸)スカンバに見立て、現象する大宇宙(この世界)を車輪(ブラフマ・チャクラ)に見立てる思想が存在する。

少し後になって現れるシュヴェタシュヴァタラ・ウパニシャッドの中には、より鮮明な形で車軸であるブラフマンと車輪である現象世界、すなわち真実在たるブラフマンと幻影虚妄としてのプラクリティの関係性が言及され、優れた瞑想によってリシ(修行者)は真実在であるブラフマンとひとつになれる事が説かれている。

Chapter III

4 He, the omniscient Rudra, the creator of the gods and the of their powers, the support of the universe, He who, in the beginning, gave birth to Hiranyagarbha−may He endow us with clear intellect!

彼は全知なるルドラ、神々の創造者、その力を与える者、万有の支柱。彼は始原においてヒラニヤガルバを産みなした者。願わくば彼が我らに明晰な智の力を与えんことを!

9 The whole universe is filled by the Purusha, to whom there is nothing superior, from whom there is nothing different, than whom there is nothing either smaller or greater; who stands alone, motionless as a tree, established in His own glory.

全宇宙はプルシャ(ブラフマン)によって満たされる。彼を超える者はなく、彼と異なるものも、彼よりも大きなものも小さなものも存在せず。彼はひとり立ち、大樹の幹の如く不動であり、自身の栄光によって確立する。

Chapter VI

1 Some learned men speak of the inherent nature of things and some speak of time, as the cause of the universe. They all, indeed, are deluded. It is the greatness of the self−luminous Lord that causes the Wheel of Brahman to revolve.

学びを深めたある者たちは、事象に固有の性質や時間が世界の原因だと言うかも知れない。しかしそれらはもちろん幻想に過ぎない。自ずから光輝なる偉大な主(至高者=ブラフマン)こそが、正にブラフマンの車輪(大宇宙・世界)が回転する原因に他ならない。

Svetasvatara Upanishad by Swami Nikhilananda より抜粋引用(日本語訳筆者)。

このように見てくると、ガンディ翁が若かりし頃からその手に握っていたダンダと言う聖棒は、世界の車軸であり万有の支柱である至高者(彼の場合はヴィシュヌ)を象徴し、シヴァ派の場合はそれがシヴァ・リンガムと言う造形になって現れたのだ、と理解する事が出来るだろう。

そして同時に、このような外的世界(マクロ・コスモス)に対する心象が、内的身体世界(ミクロ・コスモス)と重ねあわされていた事を忘れてはならない。

この場合、人体における背骨が車軸なるダンダであり、頭蓋骨が天の車輪を、骨盤が大地の車輪を表すことになる。

『世界は身体であり、身体は世界である』

これはあらゆるインド教に通底する世界観なので覚えておくべきだろう。

アタルヴァ・ヴェーダとシュヴェタシュヴァタラ・ウパニシャッド、そしてサーンキャ哲学の時代考証については、ブッダ在世の以前であるか以後であるか様々な見解に分かれているが、少なくともこの輪軸世界観の基本的な枠組みに関しては、すでにブッダ在世の当時には十分に普及しており、シッダールタ自身もこの様な背景心象の中に生まれ、生き、そして死んでいったのは間違いないと思われる。

「不動なる車軸(世界の支柱)をプルシャ=アートマンブラフマンと重ね合わせ、躍動する車輪を輪廻する現象世界プラクリティ=人間的(身体的)生存 =『心』と重ね合わせる基本的な思考の枠組み」

このマインド・セットがブッダの瞑想法を方法論的に導くための、ひとつの重要な柱だった。これが本ブログの論考を支える重要な前提となる。

(本記事は、脳と心とブッダの悟り: 車軸としてのブラフマン および リグ・ヴェーダに見る、輪軸世界観の起源 - 脳と心とブッダの悟り などを加筆修正したものです)