【菩提王子経】沙門シッダールタと『止息の行』:瞑想実践の科学14
パオ森林僧院の四界分別観の瞑想において、首から上の顔の周り、特に歯と舌と言うものが、その気づきのポイントとして極めて重要な意味を持っている。
その行法上の典拠とも言える記述がパーリ経典に複数存在するが、そこでは歯と舌の行法に対する評価が、微妙にブレている。
ひとつは、歯と舌の行法によって直接的に貪瞋癡の思いが消滅し、その結果としてサマーディが深まる、という「考想息止経」の記述であり、それはマイトリ・ウパニシャッドに書かれたジフヴァー・バンダの絶大な効果と重なり合う。
一方で、菩提王子経などでは、歯と舌の行法は直接的に覚りに導く事のない、意味のない『苦行』という文脈の中に配置されている。
それでは何故、この菩提王子経やサンガーラヴァ経などでは、この歯と舌の行法が止息の行や断食行と並んで、意味のない苦行として切り捨てられて “見える” ように配置されているのか。
これが前回までのあらすじだった。
見方を変えると、歯と舌の行法が本当はブッダによって推奨された瞑想行道の本筋であるならば、止息の行や断食行もまた、決して失敗に終わった無駄な苦行などではなく、そこには何かしらの意義がある(隠されている)のではないのか。
ひとつの可能性として考えられるのは、以前から私が指摘している、経典の文言における “隠語” の問題だ。
これまでの私の考察によれば、ブッダやその直弟子たちは、明らかに動物の調御にまつわる様々なイメージ(心象)にかこつけて、実は瞑想実践において重要な気づきのポイントを暗示していた。
ならば、ここでも同じ事が言えないだろうか。
たしかに菩提王子経やサンガーラヴァ経においては、歯と舌の行法や止息と断食の行法は捨てられた無意味な苦行として、文脈的には位置付けられている。
しかし、こんな事は意味ない事ですよ、という教えにかこつけて、実は比丘達はこれこそが正にブッダの瞑想法の急所である、と “裏読み” していたのではないのか。
本当は最重要な瞑想行法の要点を、「苦行なんて、意味ない意味ない」という文脈の中に埋め込んで秘匿している。ある意味、“饅頭怖い” と同じ原理だ(笑)
もちろんそれは、真の行法を一般在家信者や異教徒などの部外者から隠ぺいし秘匿するための方便として。
実は、この歯と舌の行法、止息の行法、そして断食の行法という三種の行は、ある共通項によって有意に結びついている。
読者の方も、お気づきではないだろうか。
それは、“口の周り” だ。
考えてみれば、歯と舌とは口腔という身体部位における、主要な器官だ。
止息の行において止められこらえられる『呼吸』というものは、鼻と口によって行われるものだ。鼻呼吸も、のどの奥で口と繋がり、直接的に歯や舌をかすめていく。
そして断食行において制限される食事というものは、正に口に入れて歯で噛み、舌で味わってのどの奥に呑み込まれるのだ。
つまり、歯と舌の行法と止息の行と断食行は、口の周りという一点において、生理的にも機能的にも見事に収斂し “重なり合う”。
この『口の周り』が実に様々な意味合いでブッダの瞑想法においてひとつの焦点になっている、という事はこれまでにも散々論じて来た。
そこで重要になって来るのが、菩提王子経やサンガーラヴァ経において、歯と舌の行法に続いて言及される止息の行と断食行の、その文言内容、あるいは、“取り扱われ方” だろう。
止息の行において、ブッダは何を体験し、そして断食の行において何を体験したと語られているのだろうか。
そして、その具体的な文言は、果たして瞑想行法のメソッドという観点から見て、どのように有意な内容を含んでいるのか。
この点に関して話を続ける前に、ひとつ大事な但し書きがある。
これまで私は、パオ・メソッドの四界分別観の瞑想について、その経典的な典拠ではないか、として、考想息止経や菩提王子経などの「歯と舌の行法」を引用してきた。
しかし実は、多くの方がご存じのように、“公式には”、四界分別観の瞑想の典拠は、別に存在している。それは、代表的なものでは、ブッダの瞑想修行におけるスタンダード的なテキストとして知られる、マハ・サティパッターナ・スッタ(大念処経)やカーヤガータサティ・スッタ(念身経)などになる。
これらの経典については、また機会を改めて検討したいと思うが、しかし、これら公式に「四界の分別」について明言的に言及している諸経典においては、実は具体的な行法(メソッド)に関する記述がほとんどまったく存在せず、当然ながら、その行法において「歯と舌という『現場』で触覚的に気づく」、という内容も存在しないのだ。
(歯については、いわゆる32身分のひとつとして羅列的に登場はするが、他の身体部位と同列の扱いで、なんら“焦点”は当てられていない)
公式に四界分別について語る大念処経などでは具体的に歯と舌に焦点を合わせた “行法” の実際については何一つ語られず、逆に四界分別について何一つ語っていない考想息止経などでは、パオ・メソッドのそれと有意に重なり合う様な、歯と舌の具体的な行法が語られている。
これが第一の不思議だ。
更に、考想息止経ではダイレクトに禅定の深まりを導くとされている歯と舌の行法が、菩提王子経などでは、沙門シッダールタによって意味のない苦行として捨てられた、という文脈の中に位置づけられている。
これが(すでに説明した)もうひとつの不思議だ。
ここから先は、以上の文脈を前提にして読んで行って欲しい。
今回は、菩提王子経などで「歯と舌の行法」と並んで意味のない苦行として退けられている “止息の行法” が、具体的にどのように記述されているかを見ていく。
長くなるが、文意の流れが分かりやすいように、既に紹介した「歯と舌の行法」部分を含めて以下に引用する。
これに先立つ物語の前半からの流れについては、前回の投稿を参照して欲しい。
中部経典第85経 「生涯で三度三法に帰依した王子」菩提王子経:Bodhirajakumara Sutta
王子よ、わたしはこのように思った。
『さあ、わたしは、歯をくいしばり、舌を口蓋におしつけ、心で心を激しくおさえつけ、強くおしつけ、きびしく苦しめてみてはどうか』と。
わたしは歯をくいしばり、舌を口蓋におしつけ、心で心を激しくおさえつけ、強くおしつけ、きびしく苦しめた。
王子よ、歯をくいしばり、舌を口蓋におしつけ、心で心を激しくおさえつけ、強くおしつけ、きびしく苦しめている、わたしの両脇の下から汗がふきだした。
それはまるで、王子よ、力の強い人が力の弱い人の頭をつかみ、あるいは肩をつかんで、激しくおさえつけ、強くおしつけ、きびしく苦しめる様であった。
まさにそのように、実に王子よ、歯をくいしばり、舌を口蓋におしつけ、心で心をはげしくおさえつけ、強く押しつけきびしく苦しめている、私の両脇の下から汗がふきだした。
しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかったのである。
それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。
ここまでが以前抜粋紹介した「歯と舌の行法」の全文だが、今まで紹介しなかった後半部分に、非常に興味深い記述がある事が分かる。
王子よ、わたしはこのように思った。『さあ、わたしは、呼吸をしない禅をしてみてはどうか』と。王子よ、わたしは、口からも、また鼻からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた。
王子よ、口からも、また鼻からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた時、耳管からでる風の音はものすごく大きくなった。それはまるで、王子よ、鍛冶屋のふいごが発する轟音のようであった。
まさにそのように、実に王子よ、口からも、また鼻からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた時、耳管から出る風の音はものすごく大きくなった。
しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかったのである。
それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。
王子よ、わたしはこのように思ったのである。『さあ、わたしは、呼吸をしない禅をしてみてはどうか』と。わたしは、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた。
王子よ、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた時、轟く風がわたしの頭をつんざいた。それはまるで、王子よ、怪力男が鋭い剣先で首をはねるかのようであった。
まさにそのように、実に王子よ、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた時、轟く風がわたしの頭をつんざいた。
しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかったのである。
それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。
王子よ、わたしはこのように思った。『さあ、わたしは、呼吸をしない禅をしてみてはどうか』と。わたしは、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた。
王子よ、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた時、わたしの頭に激しい頭痛がおこった。それはまるで王子よ、怪力男が丈夫な革紐で頭にターバンを巻きつけるようであった。
まさにそのように、実に王子よ、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた時、わたしの頭にとても激しい頭痛がおこった。
しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかった。
それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。
王子よ、わたしはこのように思った。『さあ、わたしは、呼吸をしない禅をしてみてはどうか』と。わたしは、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた。
王子よ、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた時、烈風がわたしの腹を切り裂いた。それはまるで、王子よ、腕の立つ牛の屠殺人や屠殺人の内弟子が使う、鋭利な小刀で腹を切り裂くようであった。まさにそのように、王子よ、烈風がわたしの腹を切り裂いた。
王子よ、わたしはこのように思った。『さあ、わたしは、呼吸をしない禅をしてみてはどうか』と。わたしは、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた。
王子よ、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた時、わたしの身体に激しい熱が生じた。それはまるで、王子よ、怪力の男がふたりで、力の弱い人の両腕をそれぞれつかんで、炭火のおこる坑でじりじりと焼き焦がすようであった。
まさにそのように、実に王子よ、口からも、鼻からも、また耳からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた時、わたしの身体にはげしい熱が生じた。
しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかった。
それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかったのである。
以下略。
~以上、春秋社刊 原始仏典 第6巻 P182以降より引用
これが、菩提王子経における苦行物語の、「歯と舌の行法」から「止息の行法」に至る全文になる。同文反復が多いので読みにくいのが、文意は決して取りにくくはないと思う。
「止息の行」に関しては、「核心としての呼吸」というテーマで投稿した時、私の個人的な沖縄での「素潜り体験」とも重ね合わせて、言及した部分だ。
この「エピソード」には様々な事実が記載されているが、これまでも軽く触れて来た様に、「歯と舌の行法」と「止息の行法」が、同じ苦行の文脈の流れの中に連続して置かれている、という点を最初に確認したい。
それは、二つの行法の締めくくりの結語において、
しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかった。
それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。
という文言が共有されている事からも明らかだろう。どちらも『苦の感受』こそがひとつのメイン・テーマなのだ。
次に、この二つの行法において共有されている上の文言の中に、精進、思念、という二つの概念が明記されている事に私は注目した。これは仏道瞑想修行において、様々な場面で登場する「専門術語」ではないか。
この「わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった」という文章は、英語では “My effort was aroused repeatedly, unconfused mindfulness established” となっているので、七覚支における精進覚支と念覚支(サティ)などに重なる概念ではないか、という視点だった。
この精進と思念の原語を知るべく調べてみた所、少々手こずったのだが、おおむね以下のようになっているようだ。おおむね、と言うのは、パーリ語の原経典にはいくつか別バージョンがあり、その間にブレがあるので、私の出来る範囲で対照して見た、と言う事だ。
Āraddhaṃ kho pana me rājakumāra, viriyaṃ hoti asallīnaṃ, upaṭṭhitā sati apammuṭṭhā, sāraddho ca pana me kāyo hoti appaṭippassaddho teneva dukkhappadhānena padhānābhitunnassa sato.
しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった。けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかった。
Evarūpāpi kho me rājakumāra uppannā dukkhā vedanā cittaṃ na paridāya tiṭṭhati.
それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。
(viriyaṃ=精進、sati=思念、kāyo=身体、dukkha=苦(の感受)などの対応関係)
沙門シッダールタによって意味のない “苦行” として捨てられるはずの「歯と舌の行法」と「止息の行法」が、ここでは七覚支における正統な正しい修道の文脈と、精進(viriya)や念(sati)という心的営為を共有しており、興味深い事に、四念処である身受心法の『身:カヤ』『受:ヴェーダナー』や『心:チッタ』も共有している。
しかし一方で、そこには「その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかった」という否定的な文言も存在する。
これは、禅定が深まったジャーナにおける七覚支の中で “安らぎ” と共にある精進やサティのイメージとは対照的だ。
次に注目すべきは、正にそのジャーナ(禅定)という概念だ。ここでは明確に、この止息の行法を、
『さあ、わたしは、呼吸をしない禅をしてみてはどうか』
という言葉によって表現している。
この『呼吸をしない禅』について原語を見ると、
Tassa mayhaṃ rājakumāra, etadahosi: "yannūnāhaṃ appāṇakaṃ jhānaṃ jhāyeyya"nti, yo kho ahaṃ rājakumāra, mukhato ca nāsato ca assāsapassāse uparundhiṃ,
王子よ、わたしはこのように思った。『さあ、わたしは、呼吸をしない禅をしてみてはどうか』と。王子よ、わたしは、口からも、また鼻からも息を吸ったり吐いたりするのを止めた。
~以上、パーリ原文はSuttantapiṭake Majjhimanikāyoより
となる。呼吸をしない『禅』の原語が、ジャーナ:jhānaであるのは明らかだろう。
(以上の検証は、パーリ語の専門教育を受けた事のない素人探偵の解いたパズルなので、各自ご確認ください)
そこには “呼吸をしない禅” という概念が存在する。止息の行が単なる苦行ではなく、『禅=ジャーナ』という文脈において語られている。
そしてもうひとつ、その『呼吸をしない禅』の説明において、「口からも、また鼻からも」とわざわざ書いてある事だ。この部分は最終的には『耳』を加えた「口からも、また鼻からも、耳からも」になる。
これは件の広長舌相において、ブッダが「舌(口)をもって耳と鼻を舐めた」という頓狂なエピソードに完全に重なるし、もちろん馬がハミを咥える口、牛の急所の鼻、象を操縦する耳、とも重なり合う。
これらは一体何を意味するのだろうか?
そして最後に、これはある意味最も重要な問題がある。
ブッダの瞑想法について詳述したスタンダード的な経典は、マハ・サティパッターナ・スッタ(大念処経)などいくつもあるが、実は今回冒頭に書いたように、それら公式のテキストにおいては、具体的な瞑想行法の “メソッドの詳細” については、実践的な記述はほとんどない。
アナパナ・サティについて、他の多くの経典と共有されている件の「顔の周りに気づきを留めて」という文言はあるのだが、例えば『四界分別観』で具体的に身体のどこでどうやって、どのように観察し気付いているのか、という実践的な説明が全くない。
にも拘らず、何故、ここでは、「失敗した意味のない苦行」に関する記述において、ここまで詳細かつ具体的な説明が “必要だったのか”、という疑問だ。
止息の行、つまり「息をこらえて止める行」の結果、彼の身体に起こった様々な現象やその時の心理状態の詳細に関して、経文は多くの臨場感あふれる比喩を用いて生きいきと活写している。
次回以降説明するであろう断食の行法も含めて、これら三つの “苦行” が、本当に意味のない無駄な捨てられた行法だったとしたら、ここまで執拗にかつ詳細に語られなければならない理由が、私には想像すらできない。
そこで注目したいのは、この止息の苦行において詳細に語られている、沙門シッダールタが経験した、主観的体感的な “生理現象” についてだ。
以下に抽出引用すると、段階的に、
耳管からでる風の音はものすごく大きくなった。
轟く風がわたしの頭をつんざいた。
頭に激しい頭痛がおこった。
烈風がわたしの腹を切り裂いた。
身体に激しい熱が生じた。
と極めてリアルに描写されている。
考えてみて欲しい。何故このような具体的かつ執拗な説明が、「失敗した不必要だった苦行」の記述において “必要” だったのだろうか?
これら個別の描写を、上から順に見ていこう。
耳管からでる風の音はものすごく大きくなった。
これは口と鼻において息をとめた時に、耳から風、つまり呼吸が漏れて出てきた、あるいは耳から息が吸われていった、という事だろう。
大分以前に「呼吸つながりの発見」で指摘した事だが、ブッダは、鼻と口が呼吸という機能において連接しているように、耳もまた呼吸の通り道においてつながっている、という科学的真実を “知っていた” という事が、ここでは明らかだ。
そして、この止息の行において、シッダールタは明らかに、耳が呼吸している事に、冷静に “気づいて” いる。そしてその気づきの事実が、経典として記述されている。
次に彼は、口と鼻と更に耳からの呼吸も完全に止めていく。すると、
轟く風がわたしの頭をつんざいた。
という顕著な身体的生理現象が生起する。
これまでここで紹介してきたのはマジマ・ニカーヤ85:菩提王子経からの文言だが、以前紹介した通り、この失敗した苦行の顛末については他の経典にもほとんど全く同じ流れとして記述されている。
そのうち、マジマ・ニカーヤ100:サンガーラヴァ経には当該部分の記述が以下のようになっている。
バーラドヴァージャよ、そこでわたしは口と鼻と耳からの呼吸を止めた。バーラドヴァージャよ、わたしが口と鼻と耳からの呼吸を止めた時に、ものすごい風が頭頂をかき乱した。
バーラドヴァージャよ、たとえば、力の強い人がよく切れる刀で頭頂を砕き割る様に、バーラドヴァージャよ、私が口と鼻と耳からの呼吸を止めた時に、ものすごい風が頭頂をかき乱した。
~以上、春秋社刊 原始仏典 第6巻 中部経典第100経 「清らかな行いの体験」サンガーラヴァ経:Sangarava Sutta、P438より引用
菩提王子経では漠然と『頭』と言っているのに対して、サンガーラヴァ経では明確に『頭頂』というピンポイントが明言されている。
実は、このシッダールタの失敗した苦行の顛末については、大分以前に読んだラリタヴィスタラにも同じ流れのストーリーが、パーリ経典よりもより詳細な記述として存在している。
そのラリタヴィスタラの「止息の行法」部分を見てみると、第17章・難事の実践 に、こうある。
その時、修行者たちよ、私の耳、私の鼻、私の口は閉ざされた。これらが閉ざされて、嵐が頭の頂きの骨に衝突した。
それは修行者よ、一人の男が鋭い槍で頭の骨を突き刺したのと同様であった。
同様に、修行者よ、私の口、鼻、耳は閉ざされて、私の吐く息、吸う息は、頭の頂きの骨に衝突した。
ここでもサンガーラヴァ経と同じように、頭の頂きの骨、つまり頭頂部という “ピンポイント” が明言されている。
菩提王子経では「轟く風がわたしの頭をつんざいた」とあり、
サンガーラヴァ経では、「ものすごい風が頭頂をかき乱した」、
ラリタヴィスタラでは、「私の吐く息、吸う息は、頭の頂きの骨に衝突した」とある。
そこでは、すべて呼吸の『風』の動きによって頭、特に頭頂部に強烈な、非日常的な “体性感覚” が生起し、シッダールタはそれを冷静に観察し “気づいて” いた、という状況が見て取れるだろう。
(この頭と言うのは、脳髄が蔵される『意官』の門でもある!)
ここで私が思い出したのは、パオ・メソッドの四界分別観 だった。
地水火風の四界の内、風界の推進性を観ずる行において、
一、風界の「推進性」の識別を開始するとき、修行者は触覚によって、呼吸するときに頭部中央に感じる推進性に注意する。
と明記してある内容が、止息の苦行において、口と鼻と耳からの呼吸を止めた時に、沙門シッダールタが体験し観察した内容と、有意に重なり合っている、という明らかな事実があるのだ。
呼吸の風とそれによって生起する、頭頂部に顕著な体性感覚(触覚)。
この重なりは一体、何を意味するのだろうか。
(この口と鼻と耳にプラスして頭というポイントのセットは、広長舌相においてブッダが「舌(口)で耳と鼻と額を舐めた」というエピソード、そして動物の調御における急所である、馬がハミを着ける口、牛を捕まえる鼻、象を操縦する耳、鉤棒を当てる象の額、と有意に重なってもいる)
更に、その後にシッダールタが経験する、
烈風がわたしの腹を切り裂いた。
については、同じパオ・メソッドの、
もし、頭部の中央において呼吸の推進性を認識することが出来ないならば、呼吸時の胸の拡張の推進性、または腹部が移動するときの推進性を判別するようチャレンジする。
という記述に対応しているし、次の
身体に激しい熱が生じた。
に関しては、
九、次に、全身の「熱さ」を確認する。通常、これは非常に簡単である。これで九つの特徴を判別・確認できるようになった。
という項目に対応している。
ここで思い出して欲しいのが、これまで『脳の中のホムンクルス』などを用いて詳細に指摘してきた、「歯と舌の行法」とパオ・メソッドの四界分別観との有意な “重なり合い” の事実だ。
首から上の頭部・顔面(パオ・メソッドの気づきの身体部位)
1.頭部中央(呼吸)
5.上下の歯を“噛み合わせた”
6.噛み合わせている歯を緩めた歯そのもの
7.舌で歯の先端に
10.頭を前に垂した重さ
12.舌を唇の内側に軽く押し当て
13.舌を唇の左右に滑らせた
16.息を鼻孔で(呼吸)
17.唾液が口に
菩提王子経やサンガーラヴァ経、そしてラリタヴィスタラなどに記述されている「歯と舌の苦行法」や「止息の苦行法」におけるシッダールタの主観的な経験内容は、四界分別観の実践的 “行法”と、「有意に重なり合っている」。
無意味な捨てられた苦行であるはずの「歯と舌の行法」と「止息の行法」において、シッダールタは、明らかに、後世パオ・メソッドとして確立される四界分別観と同じ様相で、身体の中で生起する現象の諸相に “気づいて” いた。
そして、その “気づき” という心的要素は、正にそのサティという言葉のままに、苦行の文脈の中に “明記” されていた。
「しかし王子よ、わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念(サティ)はそなわり、失念はなかった」
自分でも呆れるほどにマニアックな事柄なので、どこまで共感され得るのか、はなはだ心もとないのだが、実になんとも、おもしろい展開では、ないだろうか。
何故私が、この様な煩雑な作業をここでしつこく繰り返しているかというと、日本語訳の常識的な語感あるいはニュアンスでは絶対に表現しえない、パーリ原語が本来的に持っている語感、もしくは心象風景、というものが厳として存在しており、その “語感(心象風景)” の中にこそ、ブッダの真意が存在する、と常々感じているからだ。
(逆に中村元博士は、その様な専門語のニュアンスを余りにも平易な日常の日本語に訳してしまう事によって、仏道修行の本質を見失わせてしまった)
そして、今回紹介した経典の苦行物語は、ブッダ(沙門ゴータマ・シッダールタ)の修道歴の中で苦行というものがどのような意味を持っていたのか、という事を考えていく上で、「彼ら自身がそれをどうとらえていたか」を記録した、リアルな『証言』に他ならない。
そこには「原語レベル」で辿らなければ決して分からない本質が記述されている。
例えば、今回検証の結果明らかになった、「身体は激動し」のkaya、苦の感受=dukkhā vedanā と、心=cittaṃだが、このvedanā とcittaṃという単語は、いわゆる四念処における身受心法の「身(カヤ)」と「受(ヴェーダナー)」と「心(チッタ)」に合致するものだった。
では最後に残った「法」はどうだろうか?
この一節にDhammaという単語は存在しないが、
「私の身体は激動し、安らかではなかった。わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。」
という文章全体が、沙門シッダールタが体験した心身生理的「事象」つまり「ダンマ」の観察事実をまごう事なく記述してはいないだろうか。
前に私は、
「無意味な失敗した苦行として捨てられたはずの「歯と舌の行法」と「止息の行法」の解説において、ViriyaとSati、そしてJhanaという仏教瞑想の正統における重要な概念が共有されている」
と分析し、更に、
「無意味な捨てられた苦行であるはずの「歯と舌の行法」と「止息の行法」において、シッダールタは、明らかに、後世パオ・メソッドとして確立される四界分別観と同じ様相で、身体の中で生起する現象に “気づいていた”」
と指摘したが、それだけではなく、
「無意味な捨てられた苦行であるはずの「歯と舌の行法」と「止息の行法」において、シッダールタは、明らかに、後世チャッターロー・サティ・パッターナ(四念処)として確立される身受心法の “気づき”、その原像とも言うべきものを、実践し体現していた」
という事になる。
その延長線上、更に重要な点は、今回検証した「失敗した苦行」の顛末の、結語の最後において記されている文章、その、
「わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった」
という記述が “意味する事” だ。
良く文意をくみ取ってみて欲しい。
噛み砕いて言えば、それは、
「ある一定の “行為(歯の噛みしめや止息)” の結果、私の身体において苦が生起し、その感受があり、その苦しいという感覚が私の心を一時占領したかに見えたが、それがどんなに激しい苦の感受であったとしても、やがて弱まり、とどまり続けることなく、やがて消えていった」
という事だ。
言っている意味が分かるだろうか?
ここで言われている事は、明らかに、紛れもなく「縁起という真理」であると同時に「無常という真理」の観察に他ならない。
そしてそれは身受心法の四念処と同じプロセスによって覚知されたのだ。
この歯と舌の行法と止息の行法、更に次回に紹介する予定の「断食行」を行った後に、シッダールタは苦行の無意味さに気付いてミルク粥を食し、幼少期の体験の記憶から四禅の瞑想に入っていくのだが、実は、その四禅それぞれの結語においても、ほとんど同じ文言が共有されている、というとても面白い事実がある。
「実に王子よ、わたしは、粗食をとって、力を得て、もろもろの欲望を離れ、不善のことがらを離れ、粗なる思考と微細な思考をまだ伴ってはいるが、遠離によって生じた喜楽のある初禅を成就して住した。
実に王子よ、わたしに生じたそのような安楽の感受は、私の心を占領してとどまらなかった」
~以上、春秋社刊、原始仏典第6巻 中部経典85 菩提王子経P188より引用
苦楽の感受は、生じたが、しかし永続せずに、留まる事はなかった、つまり消滅した。
苦の感受であれ楽の感受であれ、生じたものはやがて滅する。
この「無常の観察」という一点において、明らかに苦行と四禅は文脈的に “連接” している。
“ガリレオ博士” ではないけれど、「実に面白い!」としか言いようがない。
読者の方々にも、今私が感じている、このどうしようもないほどの『面白さ』、ワクワクして夜も眠れないほどの知的興奮、が、リアルに伝わっていれば良いのだが…
~次回「断食の苦行の詳細」に続く。
(本投稿はYahooブログ 2015/3/1「瞑想実践の科学 25:止息の苦行が意味するもの」、2015/3/8「瞑想実践の科学 26:苦行はサティやジャーナと共に」、2015/3/13「瞑想実践の科学 27:苦行の最中に観ずる『無常』」を統合の上加筆修正して移転したものです)