仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

ブッダの瞑想法とは魂のリカバリである

このインストールするセキュリティ・ソフト型宗教と対置される形で、もう一つ全く別の宗教形態が存在する。それが『アンインストールするリカバリ型宗教』だ。これは原理的に、この地球上で唯一カルトではない宗教になる。

全ての宗教はカルトである、という先の定義に従うのならば、これはもはや宗教ではない。このカテゴリーに所属し、その完成度を最大限に高めた教えこそが、ブッダの瞑想実践に他ならない。

宗教とは何か? - 仏道修行のゼロポイント

仏教の核心にあるブッダの悟り。シッダールタがこの悟りの境地に到達し全ての苦悩から解き放たれた作用機序とは、本質的に信仰ではなく瞑想実践によってアクティベートされる。それは具体的には、アナパナ・サティと呼ばれる『呼吸への気づき』という心的活動に始まり、そこに終わる。

だが、この2つの宗教形態、すなわちインストール型とアンインストール型はまったく別々に無関係なものでは決して無い。その作用機序には明確な違いがみられるが、インストール型宗教にもアンインストール型の働きが『行法(ぎょうほう)』という形で多かれ少なかれ内包されており、アンインストール型宗教にもインストール型の『信仰』がその作用過程で重要な役割を担っているからだ。

しかしやはり、この2つは本質的に真逆の方向を志向する。それはそれぞれのネーミングが直接的に表している通りなのだ。

世界中のほとんど全ての宗教が、OSである自我意識にインストールされるセキュリティ・ソフトなら、アンインストール型の仏教とは一体何だろうか。

それは、アンインストールという言葉が直接示唆する様に、すべてのソフト・ウエア/アプリケーションが『止滅』した魂の初期状態、これはひとつのイメージだが、誕生直後の赤ん坊の出荷状態に還る完全リカバリを意味するだろう。

長年使ったパソコンがどうしようもなく重くなり、様々なトラブルを頻発するようになって、可能な限りソフトウエア的対策を講じてもにっちもさっちも改善の兆しが見られず、もはやその運用に困難をきたした時、私たちは何をするだろう。その時に私たちが取る最終手段、それこそがこの完全リカバリに他ならない。

母親が赤子を産み落とす行為を、英語ではデリバリーという。文字通り赤ちゃんはこの現象世界に『出荷配達』されるのだ。その誕生の瞬間、新生児はオギャーと泣き叫ぶと共に力強く呼吸を開始する。それは彼にとって全く新しい鮮烈な感覚をもたらすに違いない。

その時彼は、産道を通過する際の強烈な「窮屈さ」を経て突然自由になった手足をばたつかせると同時に、羊水の海から空気中へと移行した衝撃を、何よりもまず察知される水と空気の質感や温度の違い、すなわち皮膚感覚で感じ取ることだろう。

聴覚については胎児の時から一定の活性をもって様々な環境音を聞き取っているらしい事が分かっている。しかしそれは未だ明確な意味の体系としては焦点を結んでおらず、母親の声以外は単なるBGMに過ぎない。

つまり、出荷直後の人間意識の原風景とは、呼吸意識(を含めた自律神経意識)、体性運動意識、そして体性感覚意識の三位一体であり、基本的にこの3つのファンクションは、パソコンに譬えた場合、ハードウエアに付属し最初からビルトインされているファームウエアに相当する。

コンピューターにおいて全てのソフトウエアは基本的に0と1という2進法のマトリックスによって記述される。新生児におけるこの出荷直後の純粋意識は、いまだOSである自我意識のマトリックスさえ記述されていない最小限のファーム意識であり、大脳的には『エンプティネス(空)』を体現している(この時点では大脳的なニューロン・ネットワークはその配線すらされていない!)。

そこにはもちろん、OSのアプリに過ぎない言語的シンキング・マインドなど未だ書き込まれていない(「言語的思考を伴わない意識」とは、どんなものだったのだろう)。

彼の魂は、脊髄・脳幹という非情動性の中枢(植物性の中枢)に留まり、いまだ辺縁系という『マーラの門』をくぐってはいない。もちろん必要に応じて、やがて彼の辺縁系は確実に目覚め、空腹を覚えれば授乳を求めて泣き、不快を感じればまた泣き叫ぶだろう。だがここで最も重要なのは、ある程度確立された自我意識において明らかな『排他』という‟意思”が、そこにはほとんど全く見られない事だ。 

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parents.com より。

ヨーガ・アサナとは赤ん坊の脳神経活性を取り戻し瞑想の深みへと降りるための準備運動である。

 

誕生という嵐のようなイベントを過ぎた彼の魂は、やがて静かな安らぎと共に息づき、眼を合わせる全ての他者に対して微笑みをもって答える。これを新生児微笑という。それは文字通り天使(菩薩?)の微笑みとして、そこに立ち会う全ての魂を癒さずにはおかないのだ。

この新生児微笑を始めあらゆる動物の赤ん坊に普遍的な可愛らしさは、親や大人の庇護がなければ生きていけない無力な赤ん坊の生存戦略である、そう生物学的には説明されている。

しかし、本当にそれだけだろうか?そこには私たちの魂が持つ、『無条件の親愛性』という本質的な原風景が、表れてはいないだろうか。

ブッダの瞑想行法が魂のリカバリであり、赤ん坊の「出荷状態」意識への還帰である、と言う仮説は、比丘の生活様式を見ればかなりの程度うなづく事が出来る。

出家の比丘たちは、その食を在家信者たちから無条件で与えられつつ必要以上の量を拒み、非性的である事を保ち続け、酒を飲まず、あらゆる競争や闘争の巷から隔離され、社会の荒波から大切に守られて、その修行に専念する。

私たちの社会において、彼らの様な特別な地位と性格を担保されているのは、実際の所、赤ん坊以外にはいないのではないかと私は思う。

私の好きなタイの高僧にアチャン・チャー師がいる。

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Dhamma-Vorträge von Ajahn Chah より。素朴な飾り気のない笑顔は親愛に満ちている。

 

彼のその笑顔と朴訥な語り口は、万人に愛されずにはいられない、ある種の『愛嬌』に満ちている。彼は、パンニャの智慧と原初の無垢を併せ持った、一人の無邪気な偉大なる『赤ん坊』だったのではないだろうか?

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Vinyana Meditation Group より。彼の笑顔には権威ぶったポーズなどかけらもない。

 

 もちろん、瞑想修行を深めた高僧師範と単なる赤ん坊とでは全く意味が異なる。しかし、その意識状態の本質的な部分で、少なからず重なり合っている気がしてならない。

私たち大人は、もちろんオギャーと生まれた瞬間から始まって、幼児期、少年期、思春期、青年期のそれぞれを着実に経験する事によって現在に至っている訳だが、しかし実際の所、自分が赤ん坊の時に何をどのように感じ、世界をどのように観ながら生きていたのか、と言う『事実』を覚えている者は皆無に等しい。

未だオムツに包まれた腰を真っ直ぐに立てて、空腹も不安も、あらゆるネガティブな情動とは完全に無縁な状態で、今この瞬間にただ『おすわり』して、微笑みながら世界を観照していた時、一体私たちはどのように観、何を感じていたのだろうか。

その瞬間の安楽は、ひょっとしたらブッダの説いた『安楽(ニッバーナ)』と原理的に関係しているのではないだろうか?

その『安楽』はあるいは『誕生前』にすら遡行するものなのかも知れないが、どちらにしても私たちの内部に本質的に備わっていない資質、もしくは『意識状態』を、私たちは決して経験する事は出来ない。

そのような観点から、私はブッダの瞑想法の『作用機序』について、これから考えていきたいと思っている。