仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

『正念』としての “六官の防護”《瞑想実践の科学20》

これまで本ブログでは、『瞑想実践の科学』シリーズを中心に、ブッダの瞑想法の “作用機序” について、外堀を埋める形で様々な考察を行ってきた。

そのブッダの瞑想法」と言うのは、端的にいえば2500年前のウルヴェーラ村で菩提樹下に禅定しニッバーナに至り悟りを開いたゴータマ・ブッダが、その瞑想法の作用機序を明確に理解した上でそれを言語化し、サールナートの鹿の苑において最初の弟子である五比丘達に口頭で伝授し、それを知的に理解して体得的に実践したコンダンニャがまずは悟りを開いたという、そのブッダ直伝の瞑想法そのものを意味する。

そしてそれこそが、私が想定する仏道修行のゼロポイント」に他ならない。

そのブッダ直伝の瞑想法の核心とは、“六官の防護” にあった。それがここ最近の『瞑想実践の科学』シリーズの流れの果てに到達した、最終的な結論だった。それを概観すると、以下のようになる。

病に苦しむアナータピンディカ(給孤独長者)に向かって、サーリプッタは十二処・十八界、五蘊に対する執着を手放すことを教えた。

その五蘊、十二処・十八界こそが、この苦海である『世界』を構成する『一切』であり、その『世界』に拘束されている限り、苦から逃れる事は出来ないのだと。

そして、それを聞いて歓喜したアナータピンディカに対して、アーナンダはこう言ったのだった。

「資産家よ、白い衣を着る在家者たちには、このような法話は通常明らかにされないのです。資産家よ、このような法話は出家者たちにだけ、明らかにされるのです」
原始仏典第7巻 第143経 教給孤独経:Anathapindikovada Sutta P516~525(勝本華蓮訳)より

つまりこの五蘊・十二処・十八界と言う “一切世界” に対する執着を手放す教えとは、通常では在家者には決して明らかにされる事のない、出家修行者だけに開示される秘伝であると。

その真意を簡単に図示化したのが以下になる。

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上図では六根(官)にまとめられている『意』は、「器官」として見れば「物質=色」だが、『こころ』として見れば「受想行識」になる

そして、仏道修行という観点から見て、この一切世界であるところの五蘊・十二処・十八界の “焦点” となるのが、眼耳鼻舌身意六官色声香味触法六境“浸入” する現場であり、それこそが、十二縁起の五番目にある六処(六入)に他ならない。

無明→行→識→名色→六処(六入)→触→受→愛→取→有→生→老死

この十二縁起における六処とは、六官と六境とを合わせた十二処、すなわち “六内外処” を含意しており、六官に六境が(情報刺激として)流入するからこそ、そこで “触” れる事が生起する訳だ。

上図の『世界(一切)をまるっと全て滅する』とは、もちろん四聖諦における滅とその道を意味するが、この『滅』の原語はnirodhaであり、その原意は “せき止める” であることは、知っている方も多いだろう。

では何をどこでどうやって “せき止める” のか。最初の “何をどこで” の二つはもちろん、色声香味触法六境流入 する事を、眼耳鼻舌身意六根(官・処)においてせき止める訳だ。

つまり、十二縁起として便宜的にまとめられている「苦の連鎖」を、破壊する『急所』は、この六処(六官)になる。六処流入が防がれれば、続く『触』が滅し『受』が滅し、更に『愛(渇愛)』が滅する。

この渇愛こそが四聖諦で苦の原因とされた大本の根源に他ならない。

その渇愛が滅する事によって続く『取(執着)』が滅し『有(存在)』が滅し『生』がそして『老死』が滅していく。

それは十二縁起の苦の連鎖滅する事を意味する、と同時に、その『苦』とはもちろん四聖諦でもあるのだ。

(便宜的にここでは『六処・六官』とまとめてあるが、以前にも述べている様に、原理的かつ実践的には『五官+第六の意官』になる)

この六境の流入とは端的に六欲の原因であり、後世には六欲の煩悩の漏(Asava)、すなわち煩悩の “流出” へと転化していった。

流入(浸入)であれ流出であれ元をただせばひとつの事だ。まずは六境が入らなければ、六欲の煩悩が出る事もないのだから。

この流入(出)を “せき止める” 事こそが、パーリ経典において繰り返し語られている、“六官の防護”、に他ならない、そう私は考えている。

「何故ならば、感覚器官を防護せずに過ごしていると、欲や不快感といった悪く良くないもの(不善法)に侵されるからである。」

「感覚器官を守りなさい。感覚器官で防ぎ止めなさい。」(調御地経)

上記の「欲」とは六官の欲(六欲)であり、「悪く良くない不善法に侵される」とは、“浸入される” と読めば分かり易い。

しかし、浸入するのを防ぎ止める(堰き止める)といっても、一体どうしたらいいのか。“どうやって” それは成就・実現され得るのだろうか。

その “どうやって?” という問いに対する答えこそが、『それは、ブッダの “瞑想メソッド” によって』、という事になる。

パーリ経典において記述されている『修行道』の中で、この『六官の防護』というものが持っている重要性については、日本の仏教学者の方も指摘している事なので、以下に引用しよう。

下図、初期仏教における修行道の発展(PDF) (古川洋平著)P391よりキャプチャ引用。

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上は中部諸経典に記述された仏道修行の流れと、その中の「六官(感官)の防護」をハイライトしたものだが、六官の防護が欠かせない必須項目である事が見て取れるだろう。

パーリ経典を一通り読んだ経験のある方には良く分かると思うが、中部経典だけではなく、長部、相応部を問わず、実に多くの経典において、この六官の防護というものは必須的に強調されているものなのだ。

大乗仏教の中でも、例えば修禅の要諦について詳述した天台智顗によって書かれた天台小止観などでも、五官・六官の防護は中心的な位置づけをされている事から見て、それが仏道修行というものの根幹を指し示す重要な概念である事が分かる。

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『天台小止観』の研究(一) 大野栄人 よりキャプチャ引用

上のキャプチャ画像を読むと、注記34と36には仏道修行と五根(六根)との関連が説明されている。その34では、

「天台がいう止観は、眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)の対象となる対境(観境)を対治するための実践行をいう」

とあり、

36では、

「無漏=眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)から流れ出、漏れる煩悩を有漏というのに対する語。眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)から流れ出、漏れ出る不浄なもののない、汚れのない事を言う。要は煩悩のない境地を言う」

とある。

34で言う止観とはサマタ・ヴィパッサナであり、つまりはブッダの瞑想法であり『禅』だから、天台智顗が学んだ『禅』とは “眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)の対象となる対境(観境=六境)対治するための実践行” であり、その焦点になるのは六官(五官)・六境(五境)である事は明らかだろう。

36で言う無漏とは、“汚れのない事を言う。要は煩悩のない境地を言う” とあり、つまりは涅槃=ニッバーナの境地を意味している。

その無漏とは六根から流れ出る煩悩がすべて無くなることであり、六根から煩悩が流れ出る、と言う事の真意は、前述したとおりそこから六境の情報が流入する事に起源する訳で、これも、無漏=ニッバーナ(悟り)という最重要ワードの肝となるものが六官の防護(漏入出を防護する事)である、と言う事がよく分かると思う。

以前、この六官の防護、という概念について紹介した時に、日本の修験道に伝わる「六根清浄」という掛け声・誓願、について話したが、仏道修行の核心にあるのがこの六根の清浄であり、その為に必要な事こそが、“六官(六根)の防護”である、と言う流れが、分かってもらえるだろうか。

ただただ「六根清浄!」と掛け声をかけていたところで、六根(官)は清浄にはならない。その清浄が実現されるための方途、それこそが六官の防護に他ならない。

しかし、パーリ経典を見ても天台小止観を見ても、その六根の清浄=六官の防護=ブッダの瞑想法(そのもの)、という論理は分かりにくく、残念ながら明示されきっているとは言い難い。

「天台智顗が学んだ『禅』とは “眼・耳・鼻・舌・身・意の(内の)五根” の対象となる対境(観境)を対治するための実践行である」

という説明がそれを示しているのだが、「五官の対象となる対境を対治する」、などと言われても、正直、良く分からない話だ。

おそらくは、こういう文章と言うものは、往々にして書いている本人にさえ、その真意は良く分かってはいないのかもしれない。

実際に、私が天台小止観を読んでみた限り、天台智顗の理解した「五根の対象となる対境を対治する」、という事の意味内容は、本来のブッダの真意からは大きくかけ離れた言葉の上の観念論に堕しており、おそらく彼は、瞑想実践の核心部分について、“原理的には” 何一つ理解はできていなかった、可能性が高い。

またこれは、現代に伝わるテーラワーダ仏教の基礎を創ったというブッダゴーサにしても、同じ事が言えるかも知れない。

彼の著書、清浄道論(ヴィシュディ・マッガ)を瞥見すると、この仏道瞑想修行の根幹に位置するはずの “六官の防護” というものが、戒のまとまりのひとつとして位置づけられている。

この点について論じる前に、簡単にヴィシュディ・マッガの構成について説明しよう。

私の手元には英語の “The Path of Purification” 1991、5th Edition BPS版と、ネット上に公開されている正田大観さんの日本語訳があるが、英語版では明らかだが、大きくの部、の部、智慧の部の三部構成になっている。

その中で戒の部はさらに「戒についての釈示」と「払拭〔行〕の支分についての釈示 」の2章に分かれ、“六官の防護” 「戒についての釈示」の中の一節で簡単に触れられているのだ。

英語版の三部構成を前提に、正田版の目次をツリー表示すると以下のようになる。

第Ⅰ部「戒」→

第一章「戒についての釈示」→

五「また、この戒は、どれだけの種類があるか」→

(四)「四種類のものとしての戒」→

2〔感官の〕機能における統御としての戒

最後の「2〔感官の〕機能における統御としての戒」の中で、六官の防護について集中的に論じられているので、ブッダゴーサという人が、感官(五官六官)の防護と言うものを、徹頭徹尾「戒(シーラ)」という “意味” で捉えていたという事がうかがえる。

仏道修行とは、それすなわち戒・定・慧の三学の体系である、とはよく言われるが、その意味では、この清浄道論は見事に王道を行っている。

しかし、いったいこの “六官の防護” とは客観的に見て、本質的に、どちらのまとまりに属するのだろうか。

あるいはより分かりやすく、“ゴータマ・ブッダ本人は”、この六官の防護という概念、もしくは “営為” を、戒と定、どちらに位置付けていたのだろうか?

面白い事に、私が読んだ春秋社刊 原始仏典第六巻 中部経典79:「箭毛経Ⅱ」では、訳者の方はこの六官の防護というものを〔精神統一に向けての準備〕という章建ての中に収めている。

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春秋社刊 原始仏典第六巻 P70~ 中部経典79:「箭毛経Ⅱ」からのキャプチャ引用

この経の構成は、前段「道徳」の章で戒が語られ、次の章冒頭で六官の制御(防護)が〔精神統一に向けての準備〕というタイトルと共にが説かれている。「精神統一」などという俗語を使っているから分かりにくいが、これは『定』であり瞑想実践を意味するものだ。

ネット上でこのMN79のパーリ原典をあたっても、このような章建ては明らかではない。おそらく、訳者の方の判断で、この六官の防護というものを定のまとまりに入れ、定(サマーディ)つまり瞑想実践の準備段階として位置づけたのだろう。

その理由は、「精神統一にむけての準備」と言う章建ての後に置かれる、「四段階の精神統一」(つまり「四禅」)という章建てを見ればよく分かる。

これは私の判断だが、「精神統一の準備」において瞑想の “行法” の肝が説かれ、「四段階の精神統一」で、その “行法の結果” として没入する ‟四禅の境地” が説かれていると考えると分かりやすいのだ。

ここでは「精神統一にむけての準備」の章と「四段階の精神統一」の章ふたつがセットになって、戒定慧の「定」、すなわち『瞑想実践』を構成している。

あるいは、ここで八正道を振り返ってみれば、正定の前にある「正念」こそが、「精神統一にむけての準備」であり、“六官の防護”である、とも言い変えられるだろう。

もちろん、戒定慧と言うくらいだから、戒そのものも精神統一(定)のための準備だと言えばそうなのだが、しかし、一般的な戒と、この六官の防護というものは、明らかに、“機能的な側面” から見て、完全に次元が異なるのだ。

その事は、天台小止観において十段階に分けられた修行道の中で、第一段階である「具縁」の中にが位置づけられ、第二段階の「呵欲」において、五根(五官)の欲を徹底的に否定し、離れること、という形で、独立して六官(五官)の防護が説かれている点にも現れている。

(この五欲の否定・厭離を前提としてはじめて、第六段階の “正修行” の中の「境に対して止観を修する」という瞑想行法が成り立ち得る。つまり五官の防護に依ってサマタが体現される=意官が防護される)

つまり「戒を具え守ること」と「五欲からの厭離(六官の防護)」とは、内容的にも “意義的” にも全く異なった段階に位置付けられていた。

この事は、上述した

“天台智顗が学んだ『禅』とは眼・耳・鼻・舌・身・意の五根(六根)の対象となる対境(観境)を対治するための実践行である”

という言葉の中に(たとえ智顗がその真意を理解できていなかったとしても)全て集約されている。

ここで言う『実践行』とは、ブッダの瞑想法、すなわち禅の行法 “そのもの” である、と理解されねばならない。

そしてこの、ブッダの瞑想法そのもの、とは、ブッダの瞑想法を大きく止と観に分けた時の止の部分(サマタ)を指す。

上で取り上げた原始仏典第六巻の訳者の方は、賢明な判断をもって “六官の防護” というものを戒とは違った次元における “精神統一のための準備” と位置づけた。その判断は全く正しく、ブッダゴーサの判断が間違っている事は、私の眼には明らかだ。

(中部経典79:「箭毛経Ⅱ」もまた、とても興味深い経典なので、あとで改めて詳述する機会があれば、と思う)

ただ、この訳者の方も、ここで “六官の防護” というものが、精神統一(サマーディ)に入る為のメソッドそのものであり、つまりはブッダの瞑想行法」 “そのもの” である、という事の “真意” にまでは考えが及んだかどうか。

この訳者の方は、彼のあたう限りの学問的な理解力をもって、六官の防護について語る記述を「戒」の章建てではなく「精神統一にむけての準備」という章建ての中に収めた。それだけでも十分な貢献と言えるかも知れない。

逆に言うと、“六官の防護” 戒のまとまりに入れてしまったブッダゴーサが、一体仏道瞑想行をどのように捉え、自らはどのような瞑想実践をしていたのか、という点が深く深く問われるべきかとも思われるのだ。

(清浄道論は膨大かつ煩瑣に過ぎて、未だざっと流し読んだ程度で、以上は現時点での暫定的な感想になる。またいずれ、全巻精読したのちに、稿を改めて論じたいと思う)

ここまでの流れを分かりやすくまとめれば、六官の防護とは、実践的にはブッダの瞑想法を止と観に分けた時の止、すなわちサマーディの深みに至る(四禅へ導く)為の方法論(メソッド)が五官の防護であり、第六の意官の防護完成されていくプロセスこそが四禅の各段階である、と言う事になるだろう。

六官の防護とは、天台智顗がおそらくは理解していただろう様な、五欲・六欲の観念的・思考的な「“自責的” な言い聞かせ」による否定と厭離などではない、のだ。

例えば色っぽいお姉さんが眼に入ってしまって、思わずそそられてしまった比丘が、「いかん、いかん!」と首を振ってその欲望を否定し、その不浄性や無常性や無我性や苦を “理知的に” 思い起こして「厭離おんり」などと呪文のように唱えてその欲動から離れようと「自らを厳しくとがめて叱る」などという、そのような次元の話では全くない、と言う事だ。

この辺りは、魚川さんが「だから仏教は面白い!」の中で『おっぱいの譬え』を用いて非常に分かり易く説明してくれている。

(天台智顗の思想と実践については余り深読みできていないが、天台小止観の「修止観法門 第二:「呵欲=欲を呵責(かしゃく)する」 や、天台小止観の研究五-1:修止観法門 第六 「正修行」を読むと、そのニュアンスは概観できる。機会があれば改めて、本ブログ上にて考察してみたい)

それでは、その六官を防護する “メソッド” とは具体的に何だったのか。それは私がこの「瞑想実践の科学」シリーズでこれまで延々と説明してきた全てが、正に “それ” を指し示すための “布石” であったという事になるだろう。

中でも最も重要かつ面白いのが、もうすでにお分かりの方もあると思うが、以下で論じた、動物の調御法と比丘の瞑想修行道との “重ね合わせ” になる。

興味のある方は上から順に読んでみて欲しい。

そこでは、アナパナ・サティにおける気づきのポイントである「顔の周り」あるいは「口の周り」Parimukham)が、動物を調御する上での急所と完全に重なり合う事が明示され、その五官六官が集住する「顔の周り」に気づきを留める事が、すなわち「六官の防護」である、という論旨の流れが、繰り返し説明されている。

これらの “前提布石” を踏まえた上で、もう一歩このテーマに踏み込むための入り口として格好の題材があるので、次回以降でそれについて取り上げたい。

それは、かのゴエンカジーが、そもそも何故ブッダの瞑想法に出会い、のめりこむ事になったのか、という、あの有名なエピソードだ。

(本投稿は、Yahooブログ 2015/8/3「瞑想実践の科学 38:『正念』としての “六官の防護”」を加筆修正の上、転載したものです) 

 

 


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