仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

「照見五蘊皆空、度一切苦厄」と十二縁起と『六官の防護』:《瞑想実践の科学18》

ブッダによって説かれた法の神髄とは、病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉の中に全て端的に表されており、その中核部分をひと言に要約すれば、それはすなわち五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道とは “五官六官の防護” である。

そして、“五官六官の防護” こそがブッダ瞑想実践そのものである、と言い切っていい。

以上が、前回までの大ざっぱなあらすじだった。

ここまで、中部経典第143経 教給孤独経:Anathapindikovada Suttaを読みながら色々と考えてきたが、私がこの病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉を読んで、最初に思い出したのが、今回タイトルにもなっている、般若心経の一節だった。

偶然なのかどうか、登場人物が同じ舍利子(サーリプッタ)であることも勿論だが、それだけではなく、全体の文脈の流れが大いに重なり合っていると感じたのだ。

もちろん、般若心経には大乗的な『空』という概念や、密教的な『呪』という要素も混入してはいるが、全体の流れはアナータピンディカへのサーリプッタの説教と有意に合致していると見る事ができるだろう。

それは、言うまでもなく冒頭で掲げた、

ブッダによって説かれた法の神髄とは、五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道の神髄とは “五官六官の防護” である」

という文脈における重なりだ。

五蘊、そして六官あるいは十二処・十八界、という文脈が意味するもの。

という事で、まずは私たち日本人にもなじみの深い般若心経を題材にして、この仏教の神髄について考えてみたい。

以下、般若心経の原文と、戯れに作った私の超意訳だ。

観自在菩薩、行深、般若波羅蜜多時、

ヴィパッサナ瞑想行において観を深めた私(沙門シッダールタ)がパンニャの智慧を得た時、

照見五蘊皆空、度一切苦厄。

五蘊がことごとく無常であり非我である事を智慧の光によって照らし見て、一切の苦から解き放たれた。

舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。

サーリプッタよ、は無常・非我・苦に異ならず、涅槃において全て滅尽する。受想行識もまたかくのごとし。

舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

サーリプッタよ、その涅槃の深みにおいては、全ての現象は滅尽し、もはや生じる事もなく滅する事もなく、不浄でもなく浄でもなく、増えもせず減りもせず。

是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。

その涅槃の深みにおいては、も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無く、つまり五蘊、六処&六境(十二処)は滅尽し。

無眼界、乃至、無意識界。

眼(耳鼻舌身)によって知られる界(眼識)もなく、意識によって知られる界も無く。

無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。

無明から老死に至る十二縁起の因果の連鎖から完全に解脱し。

無苦・集・滅・道。

もはや四聖諦もその必要性を失い(筏は捨てられ)。

無智亦無得。以無所得故、

知らねばならない事も無く、得る必要のある事も無いが故に、

菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、

そうして菩薩(悟りに向かって精進するゴータマ)は、智慧の完成に住したが故に、

心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、

心に妨げがなく、それゆえに恐怖も無く、一切の思い込みと妄想を離れて、

究竟涅槃。

涅槃に至ったのである。(~以上、原文はWikipedia参照)

大乗の空という概念をパーリ経典的に置き換えて意訳し、呪の部分は省略したが、この文脈は驚くほどサーリプッタが病者アナータピンディカに語った内容と重なり合っている。

スマナサーラ長老などは、この般若心経をクソミソにこきおろしているようなので、この様な意訳を見たら顔をしかめるかも知れないが。。

戯れに意訳したと書いたが、ここで重要なのは、南伝・北伝、部派・大乗・密教を問わず、仏典というものには厳としたブッダ自身の教え』という根拠があり、後世どんなに思想的な粉飾・増広が加味されていたとしても、ブッダの教えから完全に逸脱する事はなく、それ(直説)によって一貫されている、という事実だ。

分かりやすく喩えると、部派・大乗・密教という仏教団子・三兄弟が、それぞれ異なった色形をしているように見えるけれど、ブッダの直説という一貫した “串” によって、その最も本質的な串(真理の法)によって、貫かれている、と言ったら良いだろうか。

ここで、そのブッダの直説において、『最も本質的な串』、という点で問題になるのが、今回ブログ・タイトルにも掲げた、

「照見五蘊皆空、度一切苦厄」という一節が象徴する文脈だ。

それは具体的には、般若心経本文の、

「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是」

〈意訳〉~色は無常・非我・苦に異ならず、涅槃において全て滅尽する。受想行識もまたかくのごとし。

という五蘊に関する文脈であり、続く、

「是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法

〈意訳〉~色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無く、つまり五蘊・六処&六境は滅尽し。

という、五蘊に六官&六境を連ねた文脈だ。

経の巻頭に掲げられた「照見五蘊皆空、度一切苦厄」という一節は、ある意味始めに宣言されたキャッチコピー的な『結論』、と言えるだろう。

この “照見五蘊皆空度一切苦厄” という結論的タイトルの内容を詳述するのが、その後に続く本文の意味なのだ。

ブッダの悟りの神髄とは、この “照見五蘊皆空度一切苦厄” という一節の中に全て収まっている。

その焦点になるのが、五蘊だ。

そしてその五蘊の内容として詳述されるのが、

無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。

という、眼耳鼻舌身意という六官(処)と、色声香味触法という六境、合わせて十二処、に他ならない。

続けて言及される、

無眼界、乃至、無意識界。

というのは、意訳した通り、おそらく、眼識から始まり意識で終わる、六識、を意味すると考えられる。

だとすると、この六識と十二処を合わせた十八界こそが、五蘊を別のやり方でまとめた中身である、と理解できるだろう。

ここで、前回の終わりに引用した三科一切法という概念が意味を持って来る。

三科(さんか)とは部派仏教における、世界を在らしめる一切法を分類した三範疇、五蘊十二処十八界をいう。また、六官六境六識の三範疇をいうこともある。Wikipedia/三科より

そして勿論、この一切法に対する執着を捨てて、手放して、厭離(遠離)する事こそが、サーリプッタが病者アナータピンディカに向けて説いた法の中核部分でもあった訳だ。

ここはとてつもなく重要な部分なので、繰り返しを恐れずにまとめよう。

サーリプッタのアナータピンディカへの説法では、最初に

眼耳鼻舌身意六官、その対象である色声香味触法六境眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識六識、(これは前二つで十二処、三つ全てで十八界)に執着しないでおけば、わたしにはそれらを拠り所とする認識もなくなる」

として、十二処・十八界に対する執着の手放しが説かれる。

次にそれら十二処それぞれにおけるに対する執着の手放しが説かれ、(物質)を構成する四大元素に対する執着の手放しが説かれる。

そして最後に、それらの総括として五蘊に対する執着の手放しが説かれる、という順序になっていた。前回投稿参照

般若心経では最初に五蘊皆空』が冒頭タイトルとして掲げられ、その後にその具体的内容として十二処の空が説かれた。

この両者、言っている順番は真逆だが、言っている内容はひとつだろう。

それはつまり、五蘊とその内実としての十二処・十八界手放す事。それこそが仏道修行の核心・神髄である、という事になる。

何故、五蘊を十二処・十八界という形に細分化し、分析する必要があったのだろうか。

それはもちろん、十二処・十八界というものが、瞑想実践における、具体的なメソッドの中で、極めて重要な意味を持っていたからに他ならない。

そこで焦点になるのは、般若心経で「五蘊と六官、六境、六識の空」が主張された直後に出てくる、

無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。

だろう。これは明らかに十二縁起の最初の無明と最後の老死を指しており、つまり、

五蘊と六官、六境、六識の空が体解された瞬間に、十二縁起の苦の連鎖が破壊され(無化され)その『輪廻』から『解脱』する」

事が述べられている。ここでは『空』という概念が前面に出ている為に否定形の再否定など煩瑣な姿をとっているが、その実質は変わらない。

そこで言われているのは、五蘊とは十二縁起のメイン・フレームであり、同時に、六官・六境の十二処(十八界)とは、十二縁起核心部分である」、という事なのだ。 

大乗とテーラワーダという違いを越えて一貫している真理の “串”、それは般若心経と教アナータピンディカ経の中に典型的に表されている。

それは、五蘊とその内実としての十二処・十八界を手放す事こそが、仏道修行の核心・神髄である、という事だ。

何故、五蘊を十二処・十八界という形に細分化し、分析する必要があったのか? それはもちろん、十二処・十八界というものが、瞑想実践のベースとなった基本的なパラダイム、そしてその具体的なメソッドの中で、極めて重要な意味を持っていたからに他ならない。

そこで次に、無明に始まり老死で終わる十二縁起、そのメイン・フレームとしての五蘊、そして焦点としての『六官』、という視点から考えていきたい。

まずは例によってWikipediaさんから十二縁起について引用しよう。

十二因縁 (じゅうにいんねん)、あるいは、十二縁起(じゅうにえんぎ)は、仏教用語の一つ。苦しみの原因は無明より始まり、老死で終わるとされる、それぞれが順序として相互に関連する12の因果の理法をいう。この因果関係を端的に表現したのが「此縁性」である。

無明(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。

(ぎょう、巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業。

(しき、巴: viññāna, 梵: vijñāna) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元。

名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前

六処(ろくしょ、巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意=六官。

(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触

(じゅ、vedanā) - 感受作用。六処、触による感受。

(あい、巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā) - 渇愛

(しゅ、upādāna) - 執着。

(う、bhava) - 存在。生存。

(しょう、jāti) - 生まれること。

老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死。

縁起とは依って(拠って)起こる、というのが語源で、依って生じるという因果関係の連鎖によって成り立ち、その根幹にあるのは、無明によって行が生じ、行によって識が生じ、~という二項目セットの此縁性だと言われている。

次に、おなじWikipediaから五蘊を引用する。

五蘊(ごうん)とは、部派仏教における一切法の分類である三科(五蘊・十二処・十八界)の中の第一。

「蘊」(うん) とは、「集まり」の意味で、五蘊とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものである。この五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとして、五蘊仮和合(ごうんけわごう)と説く。これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした。

なお、旧訳では五陰(ごおん)五衆(ごしゅ)といい、特に煩悩(ぼんのう)に伴われた有漏(うろ)の五蘊を五取蘊(ごしゅうん)ともいう。

五蘊は次の5種である。

色蘊(しきうん、rūpa) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。

受蘊(じゅうん、vedanā) - 感受作用

想蘊(そううん、saṃjñā) - 表象作用

行蘊(ぎょううん、saṃskāra) - 意志作用

識蘊(しきうん、vijñāna) - 認識作用

十二縁起と五蘊を対照すると分かるが、多くの項目において重なり合いが見られるので以下に示す。

十二縁起五蘊
1.無明(巴: avijjā, 梵: avidyā)

2.(巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra)/4.行蘊(saṃskāra)

3.(巴: viññāna, 梵: vijñāna)/5.識蘊(vijñāna)

4.(nāma-rūpa)/1.色蘊(rūpa

5.六処(巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana)/1.色蘊身体的な器官として)

6.(巴: phassa, 梵: sparśa)

7.(vedanā)/2.受蘊(vedanā)

8.(巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā)

9.(upādāna)

10.(bhava)

11.(jāti)

12.老死(jarā-maraṇa)

五蘊の3番目である想蘊(saṃjñā)が十二縁起にはないが、名色の名(nāma)、すなわち名称=名付け称する働き、を心の表象(表し象る)作用だと考えると、重なり合う。

五蘊とは人間の肉体精神を五つの集まりに分けて示したもの」

という点から言えば、五蘊=名色(心と身体:ナーマ・ルーパ)という見方もできるし、十二縁起の全て五蘊に関するものと見る事もできるだろう。

上記の対象表を見れば分かるように、五蘊というものは、十二縁起の諸要素の中で、ある視点から見て必要十分な要素を取り出して、まとめたものだと考えれば良いのかも知れない。

あるいは逆に、最初に成立したのは実は五蘊というまとめの方で、そこから、ある視点に立って拡充再構成したのが、十二縁起だったのかもしれない。

仏教の専門用語というのは、それぞれ個々の間の整合性というものが完璧にとられておらず、それぞれある視点から見た “場合の暫定” にタイトルを付け、言わばその “場当たり的な” 整理区分が乱立している状態になっているので、とても理解しにくいのだが、まぁ、余り難しく厳密に考える必要はない

若干くどくなるかも知れないが、以下に羅列すると、

十二縁起の、

無明とは、五蘊(心身総体)としての個人存在の根底にある基本特性。

行・識とは、五蘊の内の行・識

名色とは、五蘊の内の、あるいは五蘊そのもの

六処とは、五蘊という個人存在における『肉体=(ルーパ)』の中の五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)+意官

とは、それら六官における六境(色声香味触法)の触。

とは、六官における触によって生まれる感受であり、五蘊の内の

とは、その六官の感受によって生まれる六欲渇愛

とは、その六欲の渇愛によって生まれる執着。

とは、そのような六欲に溺れる五蘊の働きとしての人間存在。

とは、そのような六欲に溺れる五蘊としての人間存在の誕生、生存。

老死とは、そのような六欲に溺れる五蘊としての人間存在の老と死。

とてもややこしい話だが、以上の説明で、十二縁起と五蘊との関係性がおおよそ理解できるかと思う。分かり易く繰り返したが、六処(六官)以降の全ての項目六官影響力がかかっている事に注目したい。

一般に、十二縁起の核心とは無明渇愛である、という説明がなされる。その無明と渇愛の実体的な流れ、あるいは具体的な存在形態、というものを、五蘊のまとまりである人間存在として表している事になるのだろう。

五蘊の中では、『色』、つまり物質的な肉体の次に『受』、すなわち感受が登場する。

十二縁起の中での前に六処が置かれている事からも明らかなように、この五蘊『色』は、六処(六官)六境とその両者の触を含意している。

つまり物質でできた身体における五官と、物質的環境世界からの五境(色声香味触の情報刺激)が接触し、それらの感受があり、結果として第六の意官と法が接触し感受が生まれる。

仏教的な人間観における『感覚器官』には、この最後の意官が含まれている。この事は大変重要で、この意官が含まれるからこそ、十二処・十八界が  “一切世界” になり得るのだ。

言い方を変えると、この一切世界とは「客観世界」ではなく、あくまでも「主観的に把握された世界」なのだ。

物質的な環境世界における五境があったとしても、五官六官がなければ触も感受も生まれ得ないので、ここで最も重要なのは『五官六官』になるだろう。中でも最初に焦点になるのは五官だ。

何故なら、修行によって環境世界から物質的五境をなくす事はできないし、眼に見えない意官は当面どうする事も出来ないが、眼に見える、しかも門戸を成している五官ならば “なんとかできる” からだ。

仏教の焦点になるのはあくまでも人間存在というミクロ・コスモスであり、外部環境世界というマクロ・コスモスには関心がない。修行によって変えられる(なんとかできる)のは、あくまでもミクロ・コスモスである “私自身” に他ならない。

この “なんとかできる” という “可変性” が、極めて重要な意味を持っている。

ではこの “何とかできる性” とは一体何を意味するのだろうか。

十二縁起を見て、一般にその焦点になるのは無明渇愛である、というのは先に言及した通りなのだが、この無明と渇愛、まずは無明について、これひとつを取り上げて直截的に何とかできるだろうか?

何とかできるとは、この場合操作可能であるか?くらいの実践的意味合いだ。無明などというなんというか、目にも見えず手で触る事も出来ず、どこにあるのかも分からない、極めて抽象的な漠然とした事象を、一体どのようにダイレクトに操作できるだろうか。

ここで、『操作』という言葉が出てきたが、その真意は、一般に十二縁起とは因果の連鎖とも言われ、その鎖をどこかで断ち切る事ができれば、苦の世界から解放される、という文脈にのっとっている。

つまり十二縁起の十二の要素、あるいはパーツの内の、どれでもいいから、何とかして破壊・消滅させれば、この苦の連鎖の全てが崩壊消滅する。

しかし、ではこの十二の要素の内の、どれを、どうやって、直接的に破壊する事ができるのか、という命題だ。

無明などという実体のない形なきものを、ダイレクトに取り扱って(ハンドリングして)破壊する事が可能だろうか?

私には、それは不可能としか思えない。無明などという何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした事象を、直接取り扱って、破壊する事など、想像すらできないからだ。

では、もうひとつの焦点である、渇愛、はどうだろうか。

渇愛とは、これも何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした存在であり、直接取り扱って(何とかして)破壊する事など、難しいだろう。

しかし、渇愛には、その依って立つ所の受と触と六処という先行要素が存在していた。これら三つの先行要素の大本とは、もちろん六処(六官)に他ならない。

そして、この六処の内の五処(五官)つまり、眼耳鼻舌身という身体器官は、何よりも眼に見える具体的な門戸として私たちの “目の前に” 存在している、という圧倒的な事実がある。

ではその六処に先行する名色はどうだろうか、六処、つまり六つの感覚器官と比べ、その抽象性は高く、具体的にハンドリングできる対象としては考えにくい。

逆に言うと、この抽象的な概観である名色という括りを、より具体的に実体化して把握したものが、すなわち六処である、と言えるかも知れない。

つまり、この十二縁起という苦の連鎖を形作る十二の要素の内、私たちが実践的にハンドリング可能で、何とかしてダイレクトに働きかけ操作し破壊可能な要素とは、五官+意官の六処以外にはない、という事なのだ。

では具体的に、この六処の何をどうやって破壊する事ができるのか?

漢訳ではこの六処は、しばしば “六入” と表記されている。つまり六官という六つの門戸から、六境情報刺激として流入する。

入って来たものが接触し、接触すれば感受が生まれ、その感受に対する渇愛が生まれ、執着が生まれ、そのような在り方こそが私たちという個人存在()のを形作っていく。

ならば、その苦の生起を阻止し連鎖を破壊するためには、大本の六官という門戸における六境流入(Asava)” 防ぐ(堰き止める)事ができれば、それでいい。

それこそが、『何とかする』という具体的な『作業』実際だ。

五官という門戸は、上に説明した通り、五蘊の内の最初の『色』にも含意されその焦点とも言える。そしてこの五官での『触』『受』が阻止される事によって眼耳鼻舌身の色声香味触に対する識とそれに喚起される様々な思い、つまり想行識も生起しない、という事は、五蘊の全てが生起しない” 事を意味するだろう。

(この「生起しない」とは、あくまでも主観』レベルの話だ)

だからこそ、一切・世界 の根幹(核心)に位置するのは、“五官六官” である、と言えるのだ。

もちろん、これら十二縁起と五蘊と六官における関係性の中で、その核心である六官防護する、というその “防護の完成” が、ダイレクトに般若心経や教アナータピンディカ教における、

五蘊とその内実としての十二処・十八界に対する執着を手放す事こそが、仏道修行の核心・神髄である」

という言明とイコールで結ばれる。

六官の防護の完成五蘊・十二処・十八界に対する執着の手放し=解脱

もちろん、この六官という門戸を防護し、そこにおける流入(アーサヴァ)を阻止する、という内容は、パーリ経典の随所に明記されている。

「さあ、比丘よ、感官の扉を守りなさい。で色かたちを見ても、で音声を聞いても、で匂いを嗅いでも、で味を味わっても、体で触覚の対象に触れても、精神()で知覚の対象を知覚しても、大まかな特徴をとらえたり、詳細をとらえたりしないように。

何故ならは、感覚器官を防護せずに過ごしていると、不快感といった悪く良くないもの侵されるからである。

その予防に努めなさい。感覚器官を守りなさい。感覚器官防ぎ止めなさい。」

~以上、春秋社刊 原始仏典第7巻 中部125経 調御地経 P264~より抜粋・引用。

「欲や不快感といった悪く良くないものに侵される」というのは、正に渇愛(愛)や執着(取)に、つまり総体としての『煩悩(アーサヴァ)』に侵される(捕まる)という事だろう。

「その予防に努めなさい。感覚器官を守りなさい。感覚器官で防ぎ止めなさい」とは、正に感官の扉における流入(Asava)防ぐ事だと思われるが、その真意とは一体何だっただろうか。

これは前の投稿で説明した『傷口』の話と重なって来る。

外界に向かって開かれた扉(門戸)というものは、外敵に対した時ある種の決定的な弱点だから、生体システムとしては当然の事ながら、その『扉において、防護を固める』事になる。

(私たちが家の防犯において鍵をかけるのは、ドアや窓であって、決して壁や屋根ではない)

この様な免疫、という考え方を古代インド療術が持ち合わせていたかは分からないが、ひとつ言える事があって、それは、害毒が入りやすい扉防護すべき扉であり、同時に、薬を入れる扉でもある、という “関係性” を、古代インド人も明確に認識していたという事だ。

毒が入りやすい扉があれば、その同じ扉において薬を服用させて治療する(私たちがうがい薬を使ったり目薬を使うように)

~中略。毒矢の譬えを受けて~ 

ここでは、矢によって破壊的に作られた “傷口” こそが、外界に向かって開かれてしまった “門戸” になる。

その門戸からは血が流れ出て、逆に毒やバイ菌は入り込み、同時に激痛という “感受” が生起する。暴力的に無理やり作られた、という点を除けば、その様相は五官の門と全く重なり合う。

逆に言うと、五官の門とは、常に感覚刺激の矢(煩悩)が刺さり続ける、『傷口』でもある(!)

傷病の現場と治療の現場は、“患部” として同一である。実に当たり前の話だ。しかし、この当たり前の事実の中にこそ、深い真理がある。 

上で書いた様に「五官の門とは、常に感覚刺激(煩悩)の矢が刺さり続ける、『傷口』である」ならば、その矢が刺さる事を防ぐためには、正にそこにおいて、つまり「感覚器官で防ぎ止め」なければならない。

では、その感官の扉を防護する、という “仕事” あるいは『作業』が、具体的にどのように瞑想実践と、なかんずくそのメソッドと、関わり合って来るのだろうか。

これまでの私の投稿を通読すれば、その答えはほとんど全て、既に述べられているだろう。

  (本投稿はYahooブログ 2015/4/30「瞑想実践の科学34:照見五蘊皆空、度一切苦厄」、2015/5/10「瞑想実践の科学35:十二縁起と五蘊と六官」を統合の上加筆修正して移転したものです)

 

 


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