仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

村上春樹の1Q84を読んで

あるひとつのきっかけがあって、村上春樹1Q84を全巻読んだ。遅ればせながらの感はもちろん否めないが、しかし、私にとっては中々に面白い物語だった。 

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面白い物語ではあったが、完璧ではなかった。何よりそれは途中から(特にBook3から)とても冗漫でダラダラと長々しく、あらゆる登場人物があたかもキャラクターの弁別がなされていないように同じようなセリフを繰り返し、これは結局、徹頭徹尾村上春樹による『ひとり芝居』なのだな、と読者をして白けさせる事がしばしばだったからだ。

そういう意味では、私にとっては村上春樹は決して百田尚樹のような優れた『ストーリー・テラー』ではない。けれどそのいかにも春樹節といった文体と語り口のリズムは、読んでいて奇妙に心地いいものがあった。

ひょっとして彼は、その使い道は全く異なっているにも拘らず、かの幸福の科学総裁と同じ類の才能の持ち主なのではないかと唐突に私は思った(それはその外貌からの連想かも知れない)。

小説家としての才能よりも、むしろ心地よい『文章家』としての才能の方が突出している。それぐらい彼の文章が持つ『触感』は私の脳には心地よかった。

物語のあらすじは天吾と青豆という男女を中心に展開し、その舞台装置はとても複雑にかつ意味深に入り組んでいる。意味深に入り組んでいるにも拘らず、結局のところそれらはほとんど全く意味を持たず、ただ一つ意味があるストーリーとは、つまるところこの二人がお互いがお互いを『ずーっと大好きだった!』と言う事に尽きる。

武術や暴力を生業とする主要人物による前半の緊迫した展開や、個人的になじみのある地名が登場した事もあいまって、私は時間を忘れて村上ワールドの言葉の海に心地よく遊んだ。

飽くことなく繰り返される『春樹節』にしばしば『こいつしょうがねーな』と好意的に失笑しつつ。

今回はこの1Q84の中から、本ブログとの関わりから見て、とても印象に残った記述をいくつか引用しようと思う。

~以下引用~

村上春樹 1Q84 Book2 P234 宗教法人『さきがけ』リーダーの青豆に対する言葉

「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実と言うのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。

そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。

人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する

「Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で矮小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。

とてもはっきりしている。

もしBという説が真実だと主張するものがいたら、人々はおそらくその人物を憎み、黙殺し、ある場合には攻撃することだろう。論理が通っているとか実証可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味も持たない。

多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている。」

 

同P282 同じく『さきがけ』リーダーの青豆に対する言葉

「君は怯えている。かつてヴァチカンの人々が地動説を受け入れることを怯えたのと同じように。彼らにしたところで、天動説の無謬性を信じていたわけではない。地動説を受け入れることによってもたらされるであろう新しい状況に怯えただけだ。それにあわせて自らの意識を再編成しなくてはならないことに怯えただけだ。

正確に言えば、カトリック教会はいまだに公的には地動説を受け入れてはいない。君も同じだ。今まで長いあいだ身にまとってきた、堅い防御の鎧を脱ぎ捨てなくてはならないことを怯えている。」

(文中ハイライトは筆者による)

これらは恐らく、村上春樹の本心なのだと私は感じた。彼は実際に、宗教と言うものを、あるいは宗教と言うものを奉じずにはいられない人間と言うものを、このようにシニカルに見ているのだと。

同時に、このように見ているにも関わらず、なお彼がこのような意味深な物語を書かずにはいられないという点に、小説家と呼ばれる人種のあざとさを私は感じた。なかんずく、このような言葉を新興宗教のカルト的教祖に語らせる、と言う点において(だからこそ宗教が成立する、というのを、『だからこそ小説家が食っていける』と置き換えたらどうだろう?)。

おそらくゴータマ・ブッダもまた、ここに提示された村上春樹の『宗教観(人間観)』には、全面的に賛成するのではないだろうか。私はそうも思った。もちろんブッダが目指した『道』とは、ここで語られている『宗教(物語)』とは全く相いれないものである事は言うまでもない。

物語の虚構性について十分に理解しているにも関わらずその『有効性』に依って立って飯を食っている村上春樹に対して、ゴータマ・ブッダはあらゆる物語の効力を完全に超克した世界を指し示した(ブッダの場合は、ある意味プラクティカルには両刀使いであったかも知れないのだが)。

もちろん村上春樹だけが批判されるべきではないだろう。この世界に住むほとんど全ての人々は『物語の有効性』の中で自らの生業を維持しているのだから。それは教祖様であろうと小説家であろうと会社の社長であろうと、教師であろうとあるいは『仏教』の僧侶であろうと、誰であろうとまったく変わりはない。人間世界とは、しょせん物語の有効性を前提としなければ成り立ちえないからだ。

しかしながら私としては、このような物語の有効性が全く失われてもなお、幸せでいられる世界について、あるいは物語が完全に『失効』したからこそ見出される幸せについて、ぜひ垣間見てみたいものだと常々考えている。

たとえそれが、長く険しい道のりになったとしても。

ちなみにローマ法王ベネディクト16世が地動説を公式に認め謝罪したのは2008年12月21日、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイがヴァチカンから異端として断罪されてから、実に400年の後であった。Wikipedia-ガリレオ・ガリレイより

この『物語の惑星(Planet “Fantasy” )』において、『真実』に到達しなおかつそれを率直に語る事が、どれだけ容易ではない事かが、よく分かるだろう。

(以上は2014年1月14日 Yahooブログ記事を移転したものです)

 

ここからは2019年現在の記述。

上の引用の中で最も印象深いフレーズを更に抜き書きしてみよう。

世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。

ほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。

人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する

多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている。 

私にとって村上春樹とは何よりもまず文体リズム作家なのだが、時折鋭利な(あるいはえげつない)洞察を紛れ込ませてくるから決して油断はできない。

上の『箴言』だが、インド教4000年の歴史についても全く同じことが言えるのかも知れない。

例えば、ウパニシャッド的命題である「アートマンブラフマンである!」とは、いずれ死すべき非力で矮小な『わたし』が、実は『絶対者ブラフマン』である、と言う一発逆転劇に他ならない

同様に、ブッダのニッバーナあるいは『解脱』に関しても、いずれ死すべき非力で矮小な『わたし』が、実は一切世界を知り不死に至れる、と言う一発逆転劇に他ならない。

絶対者ブラフマンにしてもブッダの解脱にしても、それを実際に体解し経験した本人の中では、おそらくその刹那において、既成のあらゆる『夢物語』が雨散霧消し「ついに目覚めた」と言う実感だったのかも知れない。

彼らにとってそれは、少なくとも『主観レベル』では、実証し得た真実だったのだ。

けれど、ひとたび彼らの体験が言葉あるいは概念として世間の中に流布拡散していけば、結局の所それはあらたな物語を上書きするという機能を果たしただけだったのではないか。

人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する

昨今の日本(あるいは欧米)における仏教瞑想ブームに『新時代』を夢見て心ときめかす向きもあるかも知れない。しかし、ニーズに応じてアップデートされ得るものなど、所詮は『物語』に過ぎない。

それは嗜好され売り買いされ消費される目先の『コンテンツ』に過ぎないのだ。

まるで村上春樹の小説の様に…

2014年の投稿でも書いた事だが、この世界に、

「物語の有効性が全く失われてもなお、幸せでいられる世界、あるいは物語が完全に『失効』したからこそ見出される幸せ」

などと言うものが果たして存在するのかしないのか。それは自ら実証しない限り永遠に分からないのだろう。

 


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