仏道修行のゼロポイント

ゴータマ・ブッダの原像とヒンドゥ・ヨーガ

大地の車輪としての『骨盤』:これはドゥッカの車輪である2

(今回投稿には一部リアルな解剖学的画像が含まれます)

前回投稿では、大宇宙(マクロ・コスモス)を直立した輪軸に喩える世界観から身体(ミクロ・コスモス)にも輪軸構造が内在する、という思想が導かれ、その中で天界に重ねられた頭蓋の底部に六本スポークの車輪様構造が存在し、それをドゥッカの車輪に見立てる、という仮説について検討して見た。

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円輪放射状の頭蓋底デザイン。その『軸穴』は大いにズレている

この身体と世界を重ね合わせ、頭部を天界の車輪に骨盤を地上界の車輪に見立てる思想については、これまでの内容を読んでもまだ疑いを持つ人も多いかも知れない。そこで初めに明確な証拠を掲載しよう。

プルシャ(原人)の歌(10, 90)

14 臍より空界生じたり。頭より天界は転現せり。両足より地界、耳より方処は。かく彼ら(神々)は諸々の世界を形成せり。

辻直四郎訳 リグ・ヴェーダ賛歌より

ここでは、頭と天界、(骨盤から生える)足と地上界の重ね合わせが明らかだろう。特にインド教における宗教的実践の焦点となる坐の瞑想時には、足はあぐらに組まれて骨盤とフラットなレベルで大地に安坐するので、このイメージはより顕著になる。

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再掲:坐の瞑想時、骨盤と畳まれた足は大地に接し、直立した背骨によって頭は高く保たれる

私が個人的に気に入ったのは、ここに「頭より天界は現せり」として、天界の転回性が明記してある事だ。これは以前にも書いたが、天の太陽や星々が回転運動をする事実を車輪の回転に重ねたもので、それがこの賛歌でも確認できた事は大きい。

この一節を原典と対照すると以下になる。

नाभ्या आसीदन्तरिक्षं    शीर्ष्णो दयौः समवर्तत

臍より空界生じたり より天界現せり

私の能力では限界があるのだが、さいごのसमवर्तत(samavartat)のvartatchakra vartin raja(転輪聖王)のvartinと同じく回転を意味する様なので、原典に「回転する天界」のイメージがあると見てまず間違いないだろう。

(胎児がその出生時に螺旋回転をしながら産道を通過する、と言う観察事実があるようで、それも重なるかも知れない)

ここに前回も引用した以下のインドラ賛歌を合わせると、それが輪軸世界観である事が証明できる。

『宇宙の形に関しても明確な描写は存しない。ただ一回、これを重ね合わせた二個の鉢に譬え、また車軸によって車輪支えるようにインドラは天地を引き離した(RV.Ⅹ,89,4)ともいわれている点から見ると、地表を円形と考えていたらしい。

中村元選集:「ヴェーダの思想」P451より抜粋引用)

yo akṣeṇeva cakriyā śacībhirviṣvak tastambhapṛthivīmuta dyām

Who to his car on both its sides securely hath fixed the earth and heaven as with an axle.

Rig Veda Index(RV.Ⅹ,89,4)より引用

 

しかし、考えてみると、頭骨が体内小世界における天界に喩えられたなら、それがドゥッカの車輪に重ね合わされると言うのは少々おかしいのではないか。

何故なら伝統的にヴェーダの昔から天界とは人間にとっての理想天国を投影した物であり、無限に近い長寿を保ち人間が望むような全ての欲望快楽が最大限に満たされる(基本的にSukha)のが天界・神々の世界だからだ。

しかし、これについては取りあえず置いておこう。

今回は、その天界の頭蓋と対になる『地上界』の車輪に相当する骨盤その周辺について考察を進めていく。以下の本文を読み始めれば、上の疑問はたちまち解消されるはずだ。

前回は敢えて取り上げなかったのだが、骨盤のヴィジュアルをよく見るとその形は非常に変則的だ。言い出しっぺが言うのもなんだが、それは全く車輪が持つ円輪性を体現し得ていない

これはある意味当たり前の事で、そうそうまんま車輪のヴィジュアルが揃うはずもないのだ。天界の車輪に当たる頭蓋内部の断面が、たまたま車輪のヴィジュアルを体現していたのはある意味神の悪戯に他ならない。

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y7177.comより。立体的に描出した骨盤

しかし、骨盤を描写した様々な画像を参照すると、我々の骨盤には頭蓋骨と同様ほぼその中央に大きな孔(空処)が開いており、見る角度にもよるが、特に女性の場合はそれがほぼ円形をしている事が確認できる。

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同y7177.comより。真上から見た骨盤は円輪からは程遠いがその『孔』は円輪に近い

この男女どちらにもある骨盤中心の大きな穴は排泄孔と生殖孔を通す為のもので、この穴を通じて我々は大小便をし、性行為を行い、そして胎児の分娩を行っている。

女性の骨盤がもつ孔がほぼ円形なのは、胎児・新生児の頭骨がほぼ円形の断面を持っており、出産時それがぴったりとはまって通る事に対応しているという。

(実際には出産時、胎児のまだ柔らかい頭蓋縫合がズレて頭はより小さくすぼみ母体側の恥骨結合はゆるんで協力し合うらしい)

この骨盤が持つ孔を先の頭蓋底の孔(大後頭孔)と対応するものだと見れば、頭蓋骨と骨盤を天地上下の車輪と見る事の蓋然性がかなり整ってくる。

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再掲:体の中の天地上下の車輪世界

しかし、繰り返すが、その『地上の車輪』の何と歪んでいる事か!

輪郭が歪んでいるだけではなく、本来中央軸穴に接続する(通る)べき車軸端(仙骨部)が、何故か車輪外縁(リム)部に接続してしまっている。

(骨盤をハブと観て脚をスポーク・車輪と見る事もできる)

前回私は頭蓋底の断面画像について、中心から放射状に6つの陵を持つ事や円輪に近い輪郭に比べ軸穴がズレ過ぎている事をもって「これはドゥッカの車輪である」と評したのだが、こうして骨盤と見比べれてしまえば遥かにましな美しい車輪形をしている事がよく分かるだろう。

骨盤はそれぐらい、もはや車輪に喩える事が不可能なくらい、その形が歪んでしまっている。だから本来は、まずはこの骨盤をもってこそ『これはドゥッカの車輪である』と言うべきだったかも知れない。

しかし、骨盤を先に取り上げてしまうと、それが車輪には似ても似つかないが故に「体内に輪軸構造を見いだした」という古代インド人の心象を説明しにくくなる。そこで敢えて明らかな円輪放射状の車輪デザインを保っている頭蓋骨を前回先に取り上げた訳だ。

言葉の真の意味で最も『ドゥッカの車輪』と呼ぶに相応しいのは、地上の車輪である『骨盤』であった。

この事実は大変重い、と私は考えている。

こうして実際に比べてみると、軸穴が大きくずれているにも拘らず円輪放射状の車輪デザインを良く保っている頭蓋と、それが全く保てていない骨盤を比べれば、前者の優越性は明らかだ。

もしこの事実関係をチャクラの民である古代インド人が目視したならば、どう思った事だろう。きっと彼らの心象世界の中では、人間界の不完全性と天界の完全性に当初重ね合わされたのではないだろうか。

しかしあるタイミングでその頭蓋の軸穴のズレが問題視され、例え人間界を遥かに超越した天界の車輪世界であっても、やはりそれはドゥッカの内、つまり苦なる輪廻の内にある、と言う世界観が台頭した、と。

そもそも輪廻転生世界観において、当初は神々の天界こそが完全に満たされた理想世界だった。死後その様な天界に赴く事は時に「不死を得る」とも表現され、天界はpara loka(彼方の世界)とも呼ばれている。

しかし思想的な成熟深化と共に神々の天界はその完全性において没落し、宇宙世界の原初の一者という概念の台頭と共に「神々の天界と地上の人間界と言う、共に輪廻の内にある世界」から完全なる一者(tad ekam)の世界に『解脱する』と言う究極ゴールが想定され始めた。

この様な世界から圏外に位置する『解脱界』のイメージが最終的に収斂されたものが、『不死なるブラフマンの世界』だった。

仏教においては、そのブラフマンの解脱の世界が須弥山の頂と重ね合わされて『彼岸(palam)』のイメージで語られた事は既に書いた。

そして彼岸に至る為に渡らなければならない煩悩の大海が身体であった事も続けて書いている。ここから先の論旨は、この二つの投稿内容とも深く関っているので、必要に応じて随時参照して欲しい。

ウパニシャッドの時代からブッダの時代にかけて、『不死』という究極のスカであるブラフマンの解脱界へ至ろうと言う機運が勃興し、その為の『方法論』が求道者たちの全知全能を賭して模索され始めていた。 

ヨーガ・チャクラ図において解脱の世界を表すサハスラーラ・チャクラは、一般的に頭頂部に重なる形で描かれている。もちろんこの頭頂部とは、天界の車輪たる頭蓋の頂部を意味する。

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iloveulove.orgよりサハスラーラ・チャクラ(千の花弁の蓮華)

クンダリニー・ヨーガの思想において、会陰部のムーラダーラ・チャクラに眠るクンダリーニ(蛇)・シャクティ(デヴィ=女神)のエネルギーが瞑想の深まりと共に目覚め、上方に連なる複数のチャクラを順次開きながら背骨と重なるスシュムナー管を上昇し、最終的に頭頂部のサハスラーラ・チャクラにおいてシヴァ・ブラフマンと合一した時、修行者は解脱を得ると言う。

これは諸説あるのだが、頭頂部に描かれる最高位のサハスラーラ・チャクラは、しかし実際には頭頂からわずかに上に上昇した仮想空間に位置しているのが本義だと言う。

そして頭頂部の頭蓋には体外天上のブラフマンの世界へと開かれた門『ブラフマ・ランドラ(Brahmarandhra))』が想定されていた。

これなども神々の天界の最頂部の更に上に解脱界を想定する思想の表れだろう。世界を人間の身体に重ねた時、それは頭頂部の上、つまり身体・世界の『外部』上方になる。

ヨーガ・チャクラとは身体の『内部』に存在するはずの霊的なエネルギー・センターなのだから、頭頂(内)部にあるのが本来は自然だ。

しかし一方、注釈として「解脱の世界であるサハスラーラ・チャクラは頭頂部の外、わずかな頭上に位置する」という事もしばしば指摘される。

この様な揺らぎは解脱思想の揺らぎと全く対応している。

かつて神々の天界をもって永遠の幸福(スカ)が続く不死の世界と観たイメージと、その天界もまた、死すべき輪廻の内にある苦(ドゥッカ)の世界である、と捉えたイメージ。

あるいは世界はブラフマンの身体でありブラフマン=世界である、という思想と、ブラフマンは世界とは別個の独一の自存者であるという思想。

おそらくブッダの時代前後、明らかに少なくない数の先鋭的な求道者たちは、共に後者のベクトルで考えていたのだろう。ブラフマンと言う語によって象徴される不死の解脱界が、輪廻する現象世界の『圏外』に確かにある、と。

ミクロ・コスモスたる身体の最上部に位置する天界の車輪(頭蓋)でさえも、その内部構造は軸穴が大きくずれたドゥッカの車輪に過ぎない、という認識が、果たして本当に実在したのか否か、そしてその認識が神々の不完全性とブラフマンの完全性と言う対比の中で、何がしかの契機となっていたのかは、現状想像の域を超えるものではない。

しかし前にも書いたが、この仮説は「すこぶる面白い!」と個人的には思う。

話を骨盤に戻そう。それは天界の車輪である頭蓋断面と比べると無残なほどに歪んだ、もはや車輪とも思えない形をしており、その中央に辛うじて車輪を想起させるように空いた穴は、同時に排泄が行われ、生殖、つまり性交(受胎)と妊娠と出産が行われる場だった。

この骨盤周辺にまつわる様々な機能やその背後にある構造は、インド思想の深みにおいてある種核心部分に関わっている、そう私は考えている。

話は多岐にわたるのでどこから攻めようか迷うのだが、取り合えず、既に言及して来た流れでヨーガ・チャクラについて取り上げよう。

ヨーガにおいて、第二のチャクラであるスワディシュタナ・チャクラは正にこの骨盤で抱かれた空間の下部中心に位置している。

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Dreamstimeより:仙骨コブラの頭の形をしている

それは具体的には仙骨周辺だと言う。正確な位置については諸説あるのだが、おおむね仙骨中央辺りだと考えればさほど間違いはない。

(ちなみに最下部のムーラダーラ・チャクラは会陰部もしくは尾骶骨端に位置すると言う)

仙骨とは脊椎の最下端が骨盤と繋がる逆三角形の大きな部分で、ヴィジュアル的にコブラの三角形の頭と重なり合う事から、おそらくこれがムーラダーラ・チャクラにとぐろを巻いて眠ると言う、クンダリーニ蛇の原像だろう。

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Encyclopedia Britannicaより:コブラの頭を逆さにすると仙骨になる

そしてスワディシュターナ・チャクラの属性について調べてみると、色々と面白い事が分かって来た。

Svadhishthana (Sanskrit: स्वाधिष्ठान, IAST: Svādhiṣṭhāna,

English: "where your being is established."

"Swa" means self and "adhishthana" means established.

or the sacral(仙骨の) chakra, is the second primary chakra according to Hindu Tantrism.

Wikipediaより

スワは『自己』、アディシュターナのEstablishedは難しいが『確立される』あるいは『築かれる』『創られる』辺りで「自己存在が確立される(生まれる)場処」だろうか。

その意味は、以下の記述を読むとかなり浮き彫りになる。

Svadhisthana contains unconscious desires, especially sexual desire. It is said that to raise the kundalini shakti (energy of consciousness) above Svadhisthana is difficult. Many saints have had to face sexual temptations associated with this chakra.

スワディシュタナは無意識の欲望、特に性的欲望を蔵する。目覚めたクンダリーニ・シャクティをスワディシュタナを超えて上昇させる事は極めて難しいと言われている。多くの聖仙がこのチャクラにおいて性的誘惑に直面し(敗退し)なければならなかった。

何故、このチャクラは性的欲望のセンターなのか。それは単純な話で、この仙骨と骨盤によって抱かれ守られた空間にこそ、人間の生殖器官が存在しているからだ。

女性の場合はそれは子宮を中心にした『胎』であり、男性の場合は精巣を中心にした生殖器官だ。

(しかし、そう断じる為には古代インド人がその様な解剖学的事実を知らなければならない!)

これら生殖器官は人間が受胎し成長し出産される場でもあるので、スワディシュタナの語義としては「私という自己存在(人間)が確立する場処」と読む事が出来る。

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Zhihu.comより

上の画像を見ると良く分かるが、胎児時代の私たちは正に骨盤に抱かれ支えられるようにして育まれ、そしてその『孔』を通じてこの世界に誕生する。

また、後段を読むとスワディシュタナの性的誘惑を克服して上昇するのは難しい、との事なので、このハードルをクリアする事によって初めて、自己(真我=ブラフマン)が確立される(最大の難関)場処、と読むべきなのかも知れない。

スワディシュターナが持つこれら子宮性と言うものは以下の文言にも表れている。

Svadhisthana is illustrated as a white lotus (Nelumbo nucifera).

It has six vermilion-colored petals inscribed with syllables: बं baṃ, भं bhaṃ, मं maṃ, यं yaṃ, रं raṃ and लं laṃ.

Inside this lotus is a white crescent moon which represents the water region presided over by the deity Varuna.

スワディシュターナはबं baṃ, भं bhaṃ, मं maṃ, यं yaṃ, रं raṃ and लं laṃという六つのシラブルをそれぞれ配した朱色の六枚花弁白蓮華として描かれる。

蓮華の内部にある白い三日月はヴァルナ神が支配する水の領域を表す。

The seed mantra, located in the innermost circle, is a moon-white वं vaṃ. Above the mantra that is within the bindu, or dot, is the deity Vishnu.

中央に位置する種のマントラは白月色の「वं vaṃ」。

マントラの上にあるビンドゥ(点)はヴィシュヌを表す。

Some schools teach that the divinities of the Svādhishthāna Chakra are Brahmā and Sarasvatī.

ある伝統では、スワディシュターナの神格はブラフマーとサラスワティ(の夫婦)だと言う。

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朱色の六枚花弁を持つ白蓮華というのも分かりにくいが、全体としては朱色で中の三日月が水を象徴する白色をしていて、その中央にはやはり白い「वं」が置かれている、というのが、一般的に承認されている絵柄の様だ。

この様にイメージされるチャクラが、仙骨と骨盤に抱かれた体内空間に生殖器(子宮or精巣)と重なる形で存在する、という事なのだろう。

ヴァルナに支配された水の領域とは、クンダリーニが女性の性力であるシャクティに基盤を置いている事を前提にすると、おそらく子宮が胎児を孕むときに蓄える羊水など生殖に関わる様々な『水』をイメージしていると思われる。

実は様々な骨盤周りの画像を検索していた時に、上のチャクラ・シンボルと符合するある画像に眼が留まった。これは例によって「トンデモ仮説」のそしりを免れないかも知れないが、大変面白いので以下に説明したい。

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Splinger Linkより。上が腹側、下が背側

これは正にスワディシュターナ・チャクラのある辺り、具体的には子宮頚部のレベルを輪切りにしてそれを足元から見たもので、中央にある穴が子宮孔、その下が直腸孔、上の空洞が膀胱になる。

周囲上下の灰茶のぶつぶつがある輪郭は骨盤外縁なので、女性の骨盤の中心にある真円に近い穴の断面を下から見た時にこの様な組織構造がある、という事だろう。

ここで唐突だが、この画像の全体を円輪(車輪)と見立てた時に、子宮孔はまるで車輪の軸穴の様に中央に位置していないだろうか?

これにはおそらく理由があって、出産時の胎児は骨盤孔にギリギリはめ込まれるようにしてこの子宮孔から出て来る。その時子宮孔が骨盤孔のド真ん中になければ、出産に支障が出てしまうのだろう。

骨盤自体は車輪離れしていたが、軟部組織の構造配置は車輪(チャクラ)と重ねてもさほど不自然ではない(余分な穴が上下に空いているが)。

子宮とは妊娠時には羊水を湛え胎児を孕む水場であり、それはスワディシュターナ・チャクラが持つ水の領域イメージと重なり合うものだった。

そして羊水と言えば、宇宙原初の胎において『かの一者(tad ekam、後のブラフマン)』を生みなした『水波』の原イメージに他ならない。

そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざるは存在せりや。

そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。昼と夜との標識(日月・星辰)もなかりき。かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり(存在の徴候)。これよりほかに何ものも存在せざりき。

太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。この一切は標識なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生せり(生命の開始)

最初に意欲(Kama)はかの唯一物に現ぜり。こは意(manas 思考力)の第一の種子なりき。詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の親縁(起源)を無に発見せり。

彼ら(詩人たち)の縄尺は横に張られたり。下方はありしや、上方はありしや。射精者(動的男性力)ありき、能力(受動的女性力)ありき。自存力(本能、女性力)は下に、許容力(男性力)は上に。

リグ・ヴェーダ賛歌 宇宙開闢の歌(10.129)辻直四郎 訳より

ここではブラフマンの言及は未だないが、この宇宙原初に現れた『かの唯一物』こそ後のブラフマン概念の原像と言えるものだ。それが人の生殖を重ね合わせた産みの苦しみを思わせる『熱』によって『出生』した以上、水や水波は羊水と見るのが自然だ。

「風なく呼吸せり」と言うのは、未生の胎児が、羊水の中でも(空気呼吸をせずに)生きている事を暗示しているのだろう。

こうしてみると、胎とそれを包み込む骨盤及びその孔というものが、これらヴェーダ的な世界開闢思想と深く関っている事が分かる。

面白いのは最初に現れたとされる意欲の原語がカーマ Kamaである事だ。これは仏典の中では(あるいはヒンドゥ的文脈でも)一般に『愛欲(性愛の欲望)』を表す言葉として用いられている。

しかし、宇宙の開闢が生殖と胎児の誕生に重ね合わされていたとしたら、それも自然な話かもしれない。何故なら生殖(性行為)の起動因こそが愛欲に他ならないからだ。

この宇宙の始まりにおけるカーマ(愛欲)の存在は、解脱を目指す求道者たちが性愛を拒絶するブラフマ・チャリヤに徹していた事と深く関っていると私は考えている。

ここで再びスワディシュタナ・チャクラに戻って、上のリアルな画をより分かり易くシンプルにデザイン化した画像を見てもらおう。

さて、パッと見た第一感として、何か気付かないだろうか?

薄い肌色の部分は全体にアバウトな円輪であり(これは骨盤の円孔に重なる)、その中心に軸穴の様にピンクの子宮孔が置かれ、その周囲のパーツはこれもアバウトながら、六つに区分されている。

言っている意味が分かるだろうか?

スワディシュターナ・チャクラと重なる仙骨レベルでスライスした解剖学的ヴィジュアルに見られる六つの区分と、スワディシュターナ・チャクラ・シンボルが持つ六枚の花弁デザインは重なり合っている。これは偶然だろうか?

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上の二枚の画像を重ねてみると、チャクラ中央に置かれた「वं」字の空処(Kha)部分が、まるで子宮孔の空処(Kha)に見えないだろうか?

(KhaとはDukkhaのKhaであり車軸が貫く空処である)

そしてもうひとつ、このチャクラが蓮華の形をしている以上、その中心部に想定されるのは花托、つまり雌蕊の集合体であり受粉後に種が宿される場処になる。

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蓮華の中央に位置する花托は種を宿す

ここまで読んできて、「イヤイヤ、いくら何でも、その様な人体のスライス画像を古代インド人が目視して認識していたなんてありえない」、と思うだろうか。

(このチャクラ・シンボルの起源自体、比較的新しい可能性もあるが…)

しかし、リグ・ヴェーダ後期から古ウパニシャッド、更にはブッダの時代前後にかけて『知の爆発』のさ中にあった古代インド人にとって、世界存在の謎と人間存在の謎を解明するための、最も重要かつ身近なテキストは人の身体だったのだ。

(しかもこの『胎』とは、彼らにとって宇宙世界の創造開闢とも重なる最も重要な焦点だった!)

前回指摘した様に、ブッダの瞑想法とは、「呼吸など『身体』を観じる事によって一切世界の真理(ダルマ)を知る」営為だった。

つまりそこには普遍的に「身体(小宇宙)を審らかに観る事によって一切世界(大宇宙)の真実が明らかになる」という方法論が存在していたのだ。

これは改めて後日詳述する予定だが、彼らが世界と人間(身体)を重ね合わせた上で、詳細を極めた解剖実見を行っていた事が、様々なデータから確実であると私は見ている。

おそらくその情熱は、万能の天才ダ・ヴィンチが人体解剖に勤しみ、近代解剖学の父と呼ばれるにふさわしい精緻を極めた図版を残した営為にも匹敵するだろう。

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Wikipediaより ダビンチの解剖学手稿

話を骨盤とそのチャクラに戻そう。スワディシュターナ・チャクラはチベット密教においては四聖諦の一番目である苦諦 "duḥkha-satya"と結び付けられていると言う。

In esoteric Buddhism, it is called Nirmana, the petal lotus of "Creation" and corresponding to the first state of Four Noble Truths.

密教においてはそれ(スワディシュタナ・チャクラ)は創造の蓮華の花弁ニルマナと呼ばれ、四聖諦の最初の苦諦と結び付けられている。

Wikipediaより

苦諦とは文字通りこの世界は苦すなわちドゥッカである、という断言に他ならない。骨盤内部に位置するスワディシュタナ・チャクラの仏教的なイメージは苦(ドゥッカ)だったのだ。

苦諦
苦諦(くたい、梵: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)とは、迷いの生存が苦であるという真理。苦しみの真理。

人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。

四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、出生・老・病・死である。

Wikipediaより

苦諦における四苦八苦の最初に上げられているのはそのものズバリ出生であり、それは骨盤に抱かれたを現場とする性愛の交わりを原因とし、骨盤に抱かれて育まれ骨盤孔からもたらされる

仏教において(汎インド教的にも)、煩悩渇愛の最たるものは女性に対する性愛であり、一般に解脱に至る為には何よりも排さなければならない不浄とされている。

だからこそブラフマチャリヤ(清浄行)の名のもとに多くの求道者たちが性的禁欲に邁進したのだろう。

その姿はひょっとして、地上のドゥッカの車輪である骨盤(性愛・生殖の現場)から遠離し、天界のスカの車輪である頭蓋から更にはその外部上方に位置するブラフマンの解脱界へと上昇せんとする試みではなかっただろうか。

だからこそ性的禁欲はブラフマ・チャリヤ(ブラフマンの行、ブラフマンへの歩み)と呼ばれ、仏道修行はブラフマンの乗り物(Brahma-yana)』と呼ばれたのだと。

もちろんスワディシュターナ・チャクラという概念はブッダの時代から遥か以降に顕在化したものだろう。しかし、そこに至る背景思想であるマクロ宇宙&ミクロ身体の輪軸世界観は、すでにブッダの時代には十分に確立していた可能性が高い。

それが様々なデータから推測可能である事は、既に繰り返し書き綴ってきた。

世界宇宙の輪軸構造について既にリグ・ヴェーダの時代に語られている。

その宇宙世界が人間の身体(黄金の胎児)として生まれた事、あるいは世界原初の一者が出産になぞらえて生まれた事も、後期リグ・ヴェーダ以降様々なヴェーダ文献に記されている。

全てはブッダの以前から連綿と伝えられてきた世界観だ。

そしてパーリ経典には既に世界の中心に聳えるメール山についての言及がある。メール山がやはり世界の輪軸構造に基づいて中心車軸の位置に想定された事は既に述べた。

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再掲:須弥山は円輪世界の車軸

パーリ経典には、『大地のマンダラ』という表現も散見される。マンダラは車輪から派生した円輪デザインに他ならない。この事実からもパーリ経典の編纂者が(同時代人も含めて)大地を円輪として把握していた事が分かる。

その様な天と地の両輪世界は当然の様に身体にも重ね合わされて、骨盤という大地の車輪、そこで営まれる生殖行為は、上方世界へと解脱を求める修行者にとって、最も遠離すべき不浄となった。

そう考えると、様々な情報の辻褄が全て通る。

しかしやがて思想界における女性性の復権によってこの構造は一部覆される。それがタントラ・シャクティ教に他ならない。

この女性の骨盤における孔の真円性は、タントラにおいてやがて生まれるシヴァ・リンガムのヨーニ(女陰)のデザインにつながっていく。リンガは勿論ペニスであるが、同時に砲弾の様な円柱形をもって生まれ出ずる胎児の出生をも表していただろう。

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ヨーニ・ガルバ(胎)から顔を出す黄金のムカ・リンガ・シヴァ:Rudrashtikaより

その胎児とは、宇宙原初の黄金の胎児でありブラフマンであり、だからこそシヴァ・ブラフマンなのだ。

一般にこのシヴァ・リンガムが祀られる寺院本殿の神室は女性の身体の胎内(ガルバ)、すなわち子宮空間にペニスであるリンガが入り込んできている(intercourse)姿を表しているが、同時にその空間は宇宙的な胎であり、原初においてそこから一者(Tad Ekam)なるシヴァ・ブラフマンが生じた瞬間を描いている。

ヨーニ・ガルバの孔はリンガ=ペニスであるプルシャが入る空処《性交》であると同時に胎児であるプルシャが出て来る空処《出産》でもある:プルシャは男性形)

クンダリーニ思想の根底にあるシャクティとは、女神の『性力』を意味する。その中心にあるのはもちろん『胎』だ。

ブッダにとっては骨盤やスワディシュターナ・チャクラによって象徴される性愛そしては不浄なドゥッカの車輪そのものだった。

そもそも子宮(ガルバ・ヨーニ)とは実際に世界に出生(再生)をもたらす、苦なる輪廻の最前線の『現場』に他ならない。

子宮が存在しなければ、何人もこの世界に生まれる(再生する)事はない。

それは宇宙的な胎があって初めて原初の一者が生じ得た事にも通じるだろう。

ブッダなどブラフマチャリヤ(性的禁欲)を奉じた求道者たちは、ひょっとすると人間的な胎(子宮、性行為)を拒絶する事によって、宇宙的な胎からそれが生じる(世界が展開する)以前に、戻ろうと欲したのかも知れない。

(人間的な胎と宇宙的な胎の同置)

不浄なる苦なる世界から解脱する為には、(もし方途があるならば)その界が展開する以前に巻き戻せばいい。だからこそ、世界の起動因でもあったカーマを拒絶した

(この点に関しては以前の投稿『悪魔 vs 梵天:「不死の門は開かれた!」』で若干触れたが、後日また改めて詳細に検討したい)

けれどヒンドゥー・タントラ・ヨーガにおいては、その様な性愛の不浄性や苦性はクンダリーニ・シャクティの名で昇華され聖性の一部を担った。

たとえゴータマ・ブッダと言えども(宇宙原初の一者さえも!)胎がなければ、この世に出現することはない。この世俗的なリアルな真理が、逆襲を果たしたのだ。

この点に関しては以前、下のブログで言及している。

これはあくまで私見に過ぎないが、インド学(含む仏教学)の基礎にはしっかりとした医学・解剖学的知識が必須だと言える。

何故なら、彼らがその様に観たのならば、我々もまたその様に観るべきだからだ。

しかし、私の様に医学・解剖学的な知見と照合してインド思想の諸相を紐解いて行く、という方法論を採る研究者は、おそらく皆無に等しいだろう(いたら是非お会いして対話したいものだが…)。

私がこれまで本ブログで提示して来た(これからも懲りずに提示し続ける)仮説の多くは、素性の良いアカデミズムからはおそらくは『トンデモ』の一言で黙殺されてしまうのがオチかも知れない。

それはアカデミズムだけではなく一般教養人についても同様だ。

だがしかし、本当のアヴィディヤは果たしてどちらなのだろうか?

(私は、この方法論が正しいと確信するからと言って、ここで示される様々な仮説が全て正しいなどと断ずるつもりは毛頭ない。ただ、面白いと言っているだけだ(笑)

言葉の勢いと言うか『ノリ』で本ブログでも断定口調で語りがちだが、全ては厳密な検証後に真実か否かが明らかになる、という科学の基本に揺らぎはない。しかし「そんなの待ってられんわ!」と言うのも正直な本音ではある。なので全ては暫定的な作業仮説、とするのが妥当かも知れない)

今後予定される「これはドゥッカの車輪である3」では、古代インド人の宗教的な世界認識において、医学・解剖学的な知見と言うものが如何に身近でありかつ重要だったかについて、更に突っ込んで詳細に論じていきたい。

もちろんそれは、直接的にゴータマ・シッダールタブッダと深く関って来る。 

 

 


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